はてなキーワード: 思想書とは
あなたが思い出そうとしている兵法の話は、古代の兵法書や思想書、または権力や支配に関する教訓的な作品に見られるものです。具体的な出典は不明ですが、いくつかの候補があります。
まず、思想の内容としては「相手に恩恵を与えて依存させ、それを操作することで支配する」という概念が含まれており、この種の考え方は中国の古典思想や戦略書に見られます。以下が主な候補です。
1. 『孫子』
中国の古典兵法書である『孫子』には、相手の心理や状況を巧みに操ることで戦いを有利に進める方法が書かれています。具体的な記述は異なるかもしれませんが、「まずは相手に有利な状況を作り、後にそれを利用して支配する」という戦略に通じる部分があります。
2. 『韓非子』
韓非子は法家思想を代表する書物で、権力や支配に関する厳格な方法論が多く記されています。彼の思想には、支配者が相手を巧みに操り、依存させることで支配を強化するという観点が含まれている場合があります。「施しによる支配」という概念も、韓非子の実用的で冷徹な政治論理に合致します。
少し後の時代の西洋の思想書ですが、マキャヴェリの『君主論』でも「支配者が民衆や他国に対して恩恵を与え、その後恩恵を取り上げることで支配を維持する」という考えが見られます。このような心理的なコントロールは、古代中国の兵法にも通じる部分があります。
これらの書物には、あなたが思い出そうとしている内容に似た支配の方法論が含まれていますが、具体的な「麦や水」などの事例があるかは不明です。
もし孔子や老子の思想からそのようなものを探すとすれば、『論語』や『老子』には倫理的な教えが多く見られ、直接的な支配の方法論は少ないかもしれませんが、間接的な統治の手法に関するヒントがあるかもしれません。
最終的には、古代の兵法書や政治哲学書に関連するテーマとして「恩恵と依存を利用した支配」という構造は多くの思想に共通するものであり、そのような考えが古代から続いていることは確かです。
私は昔漫画やアニメが好きなオタクだったが近頃はほとんど漫画・アニメを見なくなった。
理由は極めて低俗で下劣な価値観に基づいて書かれた作品が余りにも増えすぎたからだ。
とある漫画アプリで高齢者をバッシングするような漫画、主人公を一話から女キャラが説教する異世界漫画、主人公の女性が敵対者を片っ端から論破する様子を見せたスカッと(笑)漫画が同時期に始まった時は激怒しながらアプリを無言で削除した。
その他にも作中に新自由主義や自己責任論のような差別的な価値観を織り交ぜた作品は見るだけで吐き気がしてくる。
作品を読んでいて不意打ちで主人公やその仲間に自分が気に入らない思想を言われたら本当に腹が立つし不意打ちで一瞬で好きだった作品を嫌いになるのが嫌だから大好きだった漫画をほぼ読めなくなった。
日常系漫画や異世界漫画ですらたまに気に入らない描写が入ってきたりするので最早昔読んだ漫画の何度も読んだ巻を読み返すのみである。
最近はドラゴンクエストユアストーリーやジョーカー2(こちらは未視聴)のように特定作品のファンへの嫌がらせのような作品もふえているのでますます戦々恐々である。
一番気に入らないのはキャラクターに気に入らない発言を突然吐かれても相手は架空のキャラクターなので反論も反撃も出来ない。
ゲームのキャラクターであればまだわざと何度もキャラクターにダメージを与え痛めつけて溜飲を下げたりも出来るが漫画やアニメは二次創作で間接的な反撃をするくらいで直接的な反撃が出来ない。
ただエロやグロのように何らかのゾーニングは必要なのでは無いか。
表紙に説教や自己責任論、特定の団体へのバッシングなどへの注意をするべきではないだろうか。
漫画界は自分達が単純明快なエンタメではなくゴーマニズム宣言や美味しんぼのような思想書を量産していることに気が付いて欲しい。
大学2年の時にニーチェを読んだ。ニーチェかサリンジャーを読まないといわゆる「基本的人権」が認められない世界観の中で、避けられない選択肢だったので、読んだ。そして意味がわからなかったので、本屋に普通に並んでる様な文化人の解説本をいくつか読んだ記憶があり、その後読んだ年齢の倍以上経てその殆どを忘れてしまってる。
さて、先日「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。何故かネタバレを極端に避ける風潮があって私の周りでも内容に触れる人は極端に少ない。
ただ「理解するのが難解な作品である」といった趣旨の投稿をしている人は何人もいた。
果たしてそうなのだろうか?という疑問を持ったので本増田を書いている。
特にメモをとってわけでもないので、ディテールに齟齬がある部分は勘弁いただきたい。
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その後、母親の妹が新しい母親となり、母親の実家に疎開(?)をする
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亡くなった母親の思い出もあり、新しい母親に真人は心を開けない
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金持ち仕草に抵抗のない父親が車に乗せて初登校をしたため、ガキ大将的な奴と喧嘩になるがMMAの能力があったため圧倒する
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帰り道に石で自分の頭を殴り✳︎1 かつ犯人を言わないという知的な叱られ対策を行う
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亡くなった母親の残した「君たちはどう生きるか」に出会う ✳︎2
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ご覧の様にストーリーは極めてシンプルである。そして、✳︎2の描写が本作品の大部分を占めている。
いやいや、おしいれのぼうけんのさとしとあきらのぼうけんは実際に異世界へ行ったのであるよ。そういう人もいるだろうし、多感な子供がおしいれに罰として閉じ込められるという昭和のみ許された罰によって生じた脳への過大なストレスで発生したイマジネーションの中の世界という人もいるだろう。
今回は後者の説をとらせて貰いたい。
真人はあまりに強く石で頭を打ってしまい、かつ慣れない場所でのストレスから母親が残してくれた「君たちはどう生きるのか」に没頭してしまう。
この原著は小学生の時に読んだことがあり、その歳からは3倍以上の歳となってしまったので
あるが、コペルくんという快活な出来杉くんが日々体験した葛藤とかに、「叔父さん」が真摯に答えてくれるという内容で、漫画化されて話題になった時の売り文句を見ても感じたのだが、児童文学の姿を借りた思想書/啓蒙書である。
うっすら覚えている内容も、格差によるキャズムと父親の金持ち仕草でいきなり浮きまくって喧嘩となり、派手な登校拒否スタートとなった真人とは重なる点も多く、「叔父さん」の回答は真人の心に刺さるものが多かったろう。
聞くところによると反戦主義者であった吉野源三郎は、自由な言論活動が抑制された戦前、戦中において、その活路を児童文学に見出したようだ。
吉野源三郎とニーチェの対比については東洋哲学的視点で語る人は少なくない。戦前、戦中においてはニーチェが死んだと評した絶対的価値観と同様のものがこの国に溢れていたのは事実だろう。
そういった意味では吉野源三郎を日本のニーチェと感じる人はいてもおかしくないのだろうけど、昭和の小学生であった自分には全く刺さらなかった一冊であった。
なんにせよ、真人少年はこの本を読み、心の中のぼうけんへとでかける。
庭にある「塔」はよそから飛来した飛翔体で、大叔父は「これは大事なものだから」と新しい建築物で囲った。
「新しいぶどう酒は新しい革袋に盛れ」(ルカ5章38節)当時の慣例を無視したイエスは、新しい思想は、新しい環境にて受け入れかし的な意味で言ったらしい。
と宿るじゃ大きく意味が異なるので、この辺も解釈によって随分と違う。
さておき。この大叔父の言っている「これは大事なものだから」は絶対的な価値観で、この絶対的価値観を装飾したり保護したものが戦前、戦中に世に溢れていた「常識」なのだろう。
この常識に対して、「君たちはどう生きるのか」は児童文学というN国ハックを成功し、無事相対的価値観を真人少年に届けることに成功する。
✳︎母親も塔で行方不明になった時期があり、大叔父は姿を消したままなのは、絶対的価値観に対する「疑問」を持ったことに対して、思想警察等の介入を招いたという事なのでは?といった解釈もなりたつ。一方で、隠れキリシタンのマリア像的な「進歩的思想」を表すものとも受け取れるがその場合にはいくつかの齟齬が生まれる。
本作でトリックスターとして描かれるアオサギは古代エジプトのベヌウを始めとして様々な宗教で描かれている。
混沌に現れたベヌウがアトゥムとなりそしてラーとなったが古代エジプト神話の創世記で、ベヌウはその後もフェニックスになったり、旧約聖書で忌むべきものと描かれたりと様々な存在であり続ける。
全てのアオサギは嘘つきだとアオサギは言った。これは本当か?!
という問答が本作ではあったが、アオサギは「相対的価値観」のメタファとして描かれたのでは?と私は思う。
見る人によって、見る時によって解釈が異なる存在は相対的価値観の象徴としてこの上ない。
ソクラテスの良き友人であり、ソクラテスをソクラテスとならしめ、そして死に追いやった「ダイモン」はその後「デーモン」となり絶対悪となる。
アオサギは創世の核から、忌むべきもの、そして後世では聖職者やキリストとしても解釈をされている。相対的価値観の象徴として登場するに相応しい扱いのブレブレさ。
嘘つきを「悪」や「忌みもの」と置き換えたとしても時代、そして答えるもののスタンスでその答えが変わるだろうアオサギをトリックスターに据えたのは、アオサギが不死鳥=火の鳥としての立ち位置だと考えても中々に面白いのではないだろうか?
わらわらが空に舞うシーンとペリカンの登場をみて、多くの人が空襲によって生まれるはずの命が奪われていったのをイメージしたのではないだろうか。
出雲大社をはじめ、神道の結婚式では玉串をおさめるさいに、新郎と新婦は螺旋の様に左右に交わりながら神前に進む。
この「螺旋」という存在は、永劫回帰にもつながる東洋思想の根幹となるもので、すべてのものは平等に無価値で、それぞれが相対的な価値をそれぞれに対して持ち、または持たない。
下の世界は明示的に「地獄」と表記されてたのであるが、おそらく描かれてるのは冥界だろう。
ニーチェが死んだと評したものはそれ以前のキリスト教における始まりのある絶対的な価値観というのが有力な説であるが、その絶対的価値観を作った人物の1人である聖アウグスティヌスが「聖心、自己犠牲」の象徴とし、その後も様々な紋章で愛されたペリカンが魚の内蔵餌にし、上の世界での誕生を待つわらわらの命を次々と奪っていくのは宮崎駿のフラットな「反戦思想」が読み取れる極めてシニカルなメタファーではないだろうか。
ペリカンは第二次世界大戦でも輸送機や爆撃機のノーズアートとして愛用をされていたのは、ミリタリーに造詣の深い宮崎駿なら知らないわけはないだろうと考える次第である。
インコの軍団の描かれかたは、当時の日本の軍部の急進派やポピュリズムに扇動された国民をイメージとさせる。
ところが、インコはアオサギやペリカンの様に何かのメタファとして使われてた例を少なくとも私は知らない。
あえて言えば、ポピュリズムに扇動される一定数の国民は今も変わらない、その人たちはみな同じ様ち聞いたことを繰り返す。
これらに対しての皮肉を込めて、鸚鵡はアレだからインコにするか、となったくらいしか思いつかない。
1シーン、インコたちが「陰謀論者」を彷彿とさせるセリフを言ってたのが気になるが、それにしても偶然の一致だろう。
本作は極めてシンプルな構成で少年の成長の数年間を描きつつ、そのきっかけとなった一冊の本のバックボーンを深く掘り下げた作品だと思う。
ただ、その一冊が示すところは当たり前の様に社会に実存する不条理や、固定された常識を「畜知」として個々の持つ倫理観や、相対的価値観を持って超越すべきと描くものだった上に宮崎翁の表現だ。わかりやすく理解が困難であるところが極めてわかりやすい。
現象界では常に変化が起こり、全く同じ真理などは存在せず、全てのものに等しく「無」だけがその拠点として存在すると、ナウシカで宮崎駿は伝えたかった気もするのだけど、これすら三連休の最終日にしこたまアルコールを飲んで歩くのすらおぼつかない私の中だけの相対的な宮崎駿評である。
なんにしても本作の序盤の数分で感じるスパイダーバース同様の狂気は、宮崎駿存命の間しか味わうことが出来ない、スタッフロールと引き換えに命を削った各コマを作り上げた人々の命の結晶である。時間は貴重だ。一方、チケット代なんて酒を2、3杯飲むのと引き換えられる程度の数字が書かれた概念でしかないだろう。
よっぽど忙しい人や、ジブリや宮崎駿が嫌いな人も最初の10分で良いから見てほしい。
昨晩、地下室からのふしぎな旅を改めて読んだ。柏葉幸子は素晴らしい。
宮崎駿は引退するまでに一回で良いから柏葉幸子作品の監督をやりたいはずと、私は勝手に思っており、君たちはどう生きるかもその色眼鏡で鑑賞するといくつかのシーンから妄想が膨らむ。「鈴木くん。柏葉幸子は素晴らしいぃぞぉ」という宮崎駿の声が脳内で響く。
SF映画の名作と聞いていたが、長年観ないで居たのをふと思い出して観てみた
同じリドリー・スコット監督のブラックホーク・ダウンはすごく良かったし、エイリアンについては自分の中でもベスト3に入るぐらいの名作だったのですごく期待してた
あらすじは
近未来、人類は遺伝子操作で産まれた人造人間レプリカントを奴隷として使役していた
レプリカントは身体能力、知能において人間を凌駕する存在で生きている内に感情を持つようになるため、反抗を抑えるために4,5年で寿命を迎える
そんなレプリカントたちが脱走したため、主人公の捜査官ブレードランナーが4人のレプリカントの抹殺を命じられる
まずやたら暗い
前編通じて、スターウォーズEP6の序盤のジャバ・ザ・ハットの宮殿のシーンのような陰鬱さ
それでいて盛り上がるシーンや見せ場がどこにもない。驚くほど盛り上がらない
そして、強敵かと期待させたレプリカントが弱い、というよりバカ
まず4人の内2人があっけなく倒される
3人目のレプリカントは主人公を不意打ちで追い詰める、かと思いきや唐突に謎の嘗めプをしあっさりと倒される
こいつも不意打ちで主人公を負傷させたかと思いきや、また謎の嘗めプをしだす
その後主人公をじわじわと屋上まで追い詰めるのだが、そのシーンもつまらなさすぎて欠伸が出る。
そして最後は主人公が絶体絶命のピンチに陥るのかと思いきや、レプリカントに寿命が来て死亡という、糞オチ
どこが知能高いの?ただ運動が出来るバカじゃん。こいつらIQ70あるの?
そういいたくなるアホな悪役たちと盛り上がるシーンが一切無い糞映画に
「ワクワクを返せ」とキレそうになった
一番面白いシーンは序盤のうどんを4つ頼んだ主人公が店主に「2つで十分ですよ」と怒られるシーン
まだ派手なアクションや悪い意味で予測を裏切るシーンがあるだけディズニー・スターウォーズの方が面白かった
まさか自分の中のワースト糞映画が更新されるとは夢にも思わなかったな
でも、こんな糞映画が評価されてるのって近未来SFに陰鬱で退廃的な雰囲気を取り込んだことと、遺伝子操作というテーマを扱ったことが原因なんだろうな
でもさ、映画ってのは娯楽なんだからどれだけ重くて深いテーマを扱おうともつまらなかったらそれはゴミじゃん
高尚なテーマだけ語りたいなら、映画なんか創らずに、思想書でも書いてりゃ良いじゃん
そのせいで色々思い出した
これも児童養護施設という重大なテーマを扱っているけど、作品としては陰鬱で退屈だった
でも、本当に盛り上がらなさすぎてつまらないんだよ
1巻と3巻はまだ楽しめた
まあ、ゲド戦記は作者の文才と興味深い世界観があっただけマシだな
陰鬱な作品でも面白い作品ってのは山ほどある。自分が観た中ではディア・ハンター、プラトーン、炎628、ヒトラーの忘れ物、存在のない子供たちetc…
どれも観ててしんどい作品だった。特に前3者は観た直後かなり凹んだ
でも、決して退屈はしなかったし、なんだかんだで観て良かったなと思える作品だ
パラサイトだってテーマはかなり深刻だけど娯楽作としても超一流じゃん
映画、ドラマ、文学どれも前提条件として娯楽なのだからつまらなければただのゴミなのだ
だから、通ぶって重いテーマ扱った駄作を持ち上げてんじゃねーぞ、自己満オ○ニスト映画オタクども
腹立ちすぎて長文投稿しちゃったよ
その理屈だと難しい言葉で説明してるだけでなくそのこと自体によって賢く見られたい人に「難しい言葉で説明すると賢く見えるんだ」と思わせる難解な思想書の著者は知性がないだけでなく知性ない人を生み出す元凶ってことになるんだが。
奇しくも彼らの著書がお前みたいな予備校講師の仕事道具でもあるんじゃないか。
矛盾しすぎで草だわ。お前は難しい本を書く人を肯定するのか否定するのかよどっちんだよ
当然個人的にはものものしい言い方とかしてるわりに中身が空疎ってのはだめだと思う。
中身がすかすかと思われないよう表現のレベルも落とすべきだわ。饅頭一個を段ボールに詰めておくってもしょうがないようにな。
だけどあれはいい大人が読むマルクスとか孔子とかも視野に入れて言ってるんだからそれをやさしく説明できずに受け売りするのが馬鹿だって言うなら難しい表現をしてる著者当人たちも当然馬鹿ってことになるしかないよな。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12274352317
↑についた最初の回答が趣旨がずれまくってたのでこっぴどく叩いてやろうと思ったが返信を見て悪い人ではないことが察せられてしまった。
せっかく書いたことを公開しないのもそれに割いた時間が全くの無駄になるようで癪なのでここに返信する予定だったものを書いておく。
そもそもあなたが長文だみたいに言ってる質問文は新書でいえばせいぜい3から4ページ、見開き二回分なわけですよ。
そんなの新書のその分に対してそうであるのと同じくぱらっぱらっとそれこそ見開きをちょっと確認する感覚ですぐに文意を理解できそうなものですがね。
つまりあなたが著しく読解力がないだけなのをアピールされても困るわけですね。普通に読書してる人間なら見開き数ページなんて紙っぺらなわけでそれと同じ分量の文章がネットに提示されていたとことでそれは紙か画面かという場所の違いでしかないわけですから長文に感じるはずもない。それをぶつぶつ文章が長いだの文が長いだの言うのは明らかに読書経験の欠如から来るものであって、そういうことをアピールされても困るんですね。
あなたには自分の書いた文章が理解できるんですかと問いかけてますけどそりゃ推敲して解釈が揺れようがないとというところまで呼んで確認したうえで投稿してるんですし、かりに傍から見て読めたもんじゃないものだったしても筆者本人は文を書くための材料を全て知ってるというもとで読んでいるわけですから無意識のうちに行間を補間してるのにその影響を取り除かず理解できるものだと判断するかもしれないし、ようするに客観的な目で自分自身の文章に対することには限界があるわけですからあなたの問いは愚問なのですよ。
受験勉強じゃないのですからと言いますけど、受験勉強じゃない場でもあなたのそうした反応からはあなたの読解力が受験も突破できないものであることぐらいは分かるわけです。
あんな単純な構造の比較的短い文章で読解に窮する程度じゃ記述式のまともな大学の国語の問題を解いたことあるんでしょうかねって感じです。
今更、知恵袋の文章程度に本気出して読解力を発揮しようとはしてなかっただけで本気出せば読めるなんて言ってきたとしても、出任せの嘘にしか聞こえませんからね。
それか確かに受験国語では相当の成績を残してるのかもしれませんが、今も当時の読解力が維持されてる保証なんてどこにもないわけですから、そういう過去の成績を根拠に偉そうにしてるのは傍から見れば謎の自信でしかないというものです。過去の栄光にすがってるだけとも言えます。
だいたい受験で扱う題材なんて限られてるわけで、書物の世界はもっと広大でもっと難解な思想書とかいくらでもあるわけですよ。
受験国語にとどまらずそういうのも含めてあらゆる本に応用できる読解力、読解のための方法論を身につけたいっていうそういう話をしてるわけです。受験国語なんてものは理解すべき対象の最低ラインとして引き合いに出したに過ぎないわけ。
なのにあなたの回答は端から作文法に関して浅いことを言ってるというだけでずれまくってるんですよ。
貧しかった学生時代の名残だろうかと思いながら生活してきたが、30代になっても全然変わらない。それどころか使い古されたものの方が好きになってしまった。中古品には誰かの影が残っていて、耳を傾けるとものを言う。昔の何気ない日常を熱心に語る。そういうのを聞くのがすごく好きだ。
車も中古車だし、服も靴も半分は中古だ。椅子は中古のコンテッサ。パナの加湿器もモンベルのテントもクリステルの大鍋も中古。これは蓋が別売りなのだが、それも中古。鏡面仕上げの隅に磨き傷がある。その他に目立った傷はない。気軽にクリームクレンザーか何かでひと拭きしたところで、粒度が粗すぎたことに気づいたのだろう。
フェールセーフは機能したが、蓋を閉めるたびに自分のミスを突きつけられているようで我慢ならなかったのだ。ところが私は他人である。他人の些細なミスを引き受けるのは容易い。その蓋は「本来そういうもの」なのだ。少し奮発してぴかぴかの鍋を買い、うっかりから無用の傷をつけてしまったことにどうしても耐えられなかった。この悔恨の情が彼女の影を色濃くし、おでんを味わい深くする。
オーブントースターは知り合いの厨房のお下がりだ。ボロボロの佇まいが妙に魅力的で、もう使えないというのに無理を押して譲ってもらった。洗い場の棚にあったもので、戦場の罵声と泡まじりの飛沫にさらされ続け、2015年製とは思えない錆び方をしている。引き取るとき「グラタン用だったから...」と口を濁していたのが印象的だったが、電源を入れると漂うチーズの香りで腑に落ちた。私の好きな磯辺焼きがまずくなるため、しばらく使っていたのだが捨ててしまった。
正直にいうと中古の電気シェーバーを買ったこともある。先回りしておくが、いくらなんでも刃は取り替える。一応健康リスクという言葉くらいは知っている。だが日常的に使いこんだ道具には特別な魅力がある。いずれ中古住宅も買うだろう。割れた石畳が並び、炭酸カルシウムのこびりついた亀の子格子がついているといい。長く使われた板の間はゆるやかに窪んでいて、松の木は取り返しのつかないほど枯れているといい。秋めいてきて、私は出どころのわからない隙間風を止めるのに必死になる。これは懐古趣味が行き過ぎていると思う。
食器も中古の方が好きだ。それもできるだけ多くの人の手に渡ったものがいい。骨董屋も好きだが、掘り出し物を探しに行くというよりは単に古い食器を見に行く。欠けたり萎びたりしているもの、古いものほどよい。こういう目線も一つの美観だと思えなくもないが、その一方で品評基準や技術的なことはあまりわからない。開き直ったように、不完全な主観を甘やかしながらものを愛している。貴重性のようなわかりやすいものなら理解できるのだが、知れば物怖じの原因になるだけだ。かといって知らないまま使って台無しにしてしまっては寝覚めが悪い。人並みの道徳心が働く。したがって、ただ古いだけの日用食器が一番よい。器の前に座った昔の人々を想像しながら、手の中でくるくる回して欠けやひびに入った汚れを眺めるのが好きだ。あまり酒は飲まないが、熱い湯を李朝の徳利に移してから注ぐと、300年前の丸い赤ら顔がうっすらと蘇ってくる。底座はすり減っていないがヒビは濃く色づいている。清潔な卓の上で大切に使われていたに違いない。奥の間の文机には美しい硯が置かれていて...
状態が良い中古もまた良い。大切に扱われてきたものには独特の緊張感がある。タグが破れかかるほど繰り返し洗濯されているのに、型崩れもせずきれいに保たれている服。裏返しにしてネットに入れ、丁寧に洗って乾かしてもらっていたんだろう。自分は几帳面な人ではないので、几帳面の染み込んだ服は神々しくさえ見える。隅に手垢がつくほど読み込んであるのに、折り目の一切ない本を見たことがある。それは大正後期の本で、日焼けして小口にはポツポツとカビが生えていたが、中は一昔前のCGみたいに均一だった。人が何度も開いた本は湿気を吸ってごわごわしていくので、それとわかる。奥付に強い朱色で購入年月日が書いてあった。尾の長い達筆だった。日常生活を勝手に楽しまれるのは気味の悪いことかもしれないが、増田に書くぐらいはよかろと思う。
本は好きでも間の悪いことに古典や思想書が好きだ。浅学なので最先端の思想や技術を吟味するような知識はない。開拓された新天地を後から眺め、「おお」とのけ反ることしかできない。だから勧められて読むことはあっても新刊あさりをすることはない。死ぬまで教わる側だろうと思う。買うのは電子書籍を優先しているが、それはスペースが足りないからだ。遠慮なくびっしり引いた傍線や、付箋や、日付入の署名はいつでも恋しい。折り目もないよりはあった方が好みだ。
新しいものというのは、誰にも使われていないものだ。時代の御沙汰を経ていないものだ。自分には後世に残すべきものを見抜く目がない。最大多数の最大幸福というものが、わかるようでまるでわからない。誰かが作ったものに勝手な理屈でうなずき、あるいは名批評の情熱を譲り受け、誰かの生活を勝手に愛することくらいしか幸福に向けた積極性を持っていない。でも世の中の多くのものの価値は、そこにくっついた誰かの影ではないかという気がする。誰かの生活を愛する時間と時間の間に、それらの記憶と記憶の隙間に、ガスのように後の未来からゆっくりと幸福が満ちてくるのではないかという気がする。中古品を買い漁っているとき、この作用に期待しているという自覚がある。それらを構成するのは自分の記憶でなくとも良いのだ。
作った場所から直接やってきたものが、何か恐ろしい未知の存在に見えることがある。そこに何が宿っているのか、自分の目には判断がつかない。それはひとりでに明らかにはならない。誰かが指摘してはじめて、私達は宿るものの姿を見ることができる。ここまであえてこの言葉を使わずに来たが、どうしても気持ちが悪いので書いておく。私はこれが魂だと感じている。私が勝手にものの中に見出し、呼びかければ話し出す誰かの姿。恋人にもらったネクタイに宿ると感じるもの。死んだ犬の首輪に宿るもの。それに触れた子供の指に宿るもの。それを見た私の目に宿るもの。こうして文字にしたことでどこかのあなたの目に宿るもの。言葉と物とが受け継がれる中で、それは形を変えながら宿主を移り、誰かの指摘によって唯一性を獲得しながら無限に増えてゆく。歴史は生活の集合であり、魂の集合であり、決して失われない無限の価値だ。こういう虚構を片手に中古品を愛でている。あと中古品は安い。そこもいい。
罪を犯したとき「反省」を求める、というのは実は日本含むアジアに特有の考え方らしいんだよな。
西欧思想が普通罪人に求めるのは、贖い。具体的な応報が必要で、ある意味で精神性とは関係ない。
原罪と、キリストによる血の贖い。払った犠牲の大きさ、そういうのが重要になる。
池袋暴走の爺さんの奴が最近はあったな、なんであれこんなに皆が悪いと言うかというと、罰金を払っても、懲役がほぼ確定してても、そこには精神が無いから。
日本じゃなかったらあそこまで大きなニュースにはならないと思うよ。合理的な裁判やってるだけの爺さんの話なんて。
だから、君の整理した論点って、西欧思想とか合理哲学で考えてる人たちとは、食い違うの当たり前だと思うんだよな。「反省」がないからダメ、「反省」があれば良い。そんなことが書いてある倫理の思想書はない。
東がわかってない、と君は言うけどわかってないのではないと思う。無いのよ、反省が重要なんて考えは論理の中には。文化、お気持ち、非合理の話になってしまう。
その上で、「反省」を求めることの方が、果たして絶対に正しいのか?
そういう対立というか、すれ違いが起きていると思う。
この増田の言うことはおおむね正しい。ただ一つだけ付け加えるとすれば、「社会的に犯罪(誤り)とされる行為が作品の中できちんと犯罪(誤り)として描かれていれば……」という条件が付くかな。それがあれば、読者の倫理規範は混乱しない、と一般に言われている。従って、特定の犯罪行為の描写があっても、それ自体で作品としてNGではない……それは、多くの推理小説やミステリー等を見れば分かるとおりだ。あるいは俗にピカレスクロマン(悪漢小説)と言われるジャンルも、特定の悪を肯定的に描いている部分はあるが、作中で彼らが完全に肯定されることは少ない(というか作中でそれが諸手を挙げて全肯定されていたらそれはもはやピカレスクロマンではなくホラーSFの世界になってしまう。)
だが、そういう描写が作中でごく自然に「当たり前の常識」のように描かれていれば、それはかなり危険であり、倫理観が崩壊とまでいかなくても混乱したり悪影響を及ぼしたりする可能性はある。たとえばとある新興宗教の教祖の本とか、(左翼的には)ウヨくん御用達の漫画とか、(右翼的には)一部の左翼思想書とかが、そういうものだ。それらがどんな影響を及ぼしているかも現実社会を見れば分かるとおりで、本来ポリティカルにNGであり規制すべきなのはそういう作物の方なのだが、それを規制するとなると、表現の自由との関係でかなり線引きが難しいし、規制したことの影響がどう出るかも判断しづらい。たとえば宗教を奇妙に社会から排除した日本で、むしろ根強く怪しい新興宗教が山ほど誕生したり、「我が闘争」を禁書にしたドイツでネオナチが台頭したり、つまり社会的に「免疫のない状態」を作り出してしまうこともまた危険なのだ、と言えば分かるだろうか。
私はこの手のものは、人間の脳のOSに対するウィルスのようなものだと思っている。人間の脳OSには陥りやすい誤りの傾向があって、そういった作品はそのセキュリティホールを利用して、プログラムの挙動に悪影響を与えたりするのだ。ウィルスが、改変しがたい人間の人間性を基盤としている以上、ウィルスを根絶することは不可能だ。従って、適切なワクチンプログラムを接種したり、それがどのような影響を与えているかをリアルタイムで監視する機構が必須であって、根絶できなくても社会的に大きな悪影響を及ぼす前に制止する、という対処方法が必要なのだろうと思う。前者に当たるのが一部の「悪書」であり、後者に当たるのがこういったネット上の議論であるとかメディアの役割とかなのだろう(後者を一部の人間/権力のみに委ねるのはおすすめしない)。だから、現状のように、規制について活発に議論が行われつつ、悪書もそれなりに流通している、という状態はもっとも健全な状態であるように感じている。そのどちらかが欠けると、とても危険な兆候のように思われるのだ。
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
はてな村で好まれそうな話題だなとは思って投稿したものの、想定以上に反応があって驚いてます。
酔った勢いで書いたものであるので、文体が一致してなかったり論理が破綻してたり誤字脱字がひどいですね。
結果、説明不足だったり変な文章だったりが原因でいくつかこれは補足しておきたいなと思ったコメントがあるので補足させてください。
解説本を読むことで原典にあたった際の新鮮な驚きが減るのは確かと思います。ネタバレ効果というか。小説系では顕著と思います。
また、解説者の解釈が固定化されるという懸念も確かにあるかと思います。
しかし、私の記憶では「これは私の解釈だが」「多数の説の中で、私が支持するのは」など、
俺の解釈が絶対だという態度で解説してた解説者はいなかったし、異説も提示していることが大半でした。
ここまでやってくれたらあとは受け取る側のリテラシーかなぁ、と思います。
また、100分で名著の解説で実施していることは「あらすじ」+「執筆背景解説(作者の人生の中で著作の占める位置など)」+「解説者の解釈解説」と思っていますが
この内「執筆背景解説」が一番の目玉であり、知識のつながりを作ってくれるところで、この部分は原典だけ読んでも絶対に得られない補助線です。
私は持久スポーツを趣味にしていますが、例えばフルマラソンなら当たって砕けろでもまぁ、レース中の数時間もがき苦しみ、暫く足がまともに動かなくなる覚悟があればゴールは出来るでしょうが、
ウルトラマラソンとか、アイアンマンになると当たって砕けろではまぁ無理で相応の準備がなければ、失敗したという経験を経験値に変えることも出来ずに敗退すると思っています。
特に古い思想書は知的作業としてウルトラマラソン級だと思いますし、かつ何かを求めて読むわけでしょう。
ウルトラマラソンで周りの景色も何も見えないぐらいつらい状態になって、制限時間オーバーで失格になっても兎に角意地になって歩き続ける人がたまにいて、マラソンならそれでもいいかなと思いますけど、
古典を読む場合最後のページにたどり着ければよい、というものではないですよね。
途中の景色を楽しむためには相応の準備というものが必要なのではないかな、よほど読書体力に自身があるのでなければ、背景を知識として持っておくのは良い方にしか働かないのではないか、と私は思います。
100分で名著の一番の強みは「TV番組であること」であり一番の弱みもまた「TV番組であること」であると思っています。
強みとしては、インタラクティブな解説(動く図形とか、アニメとか、俳優の朗読とか)が可能になること
弱みとしては「解説者の準備期間、解説時間に制限がかかること」「番組上では注釈を実質的に挿入できないこと」「月に1冊のペースでしかラインナップを増やせないこと」ですね。
特に月イチのペースでしか増やせないのは大きな制約で、解説本の中で出てきた関連本に解説が欲しくても、100分で名著で解説される可能性は極めて低いと言わざるを得ません。
そういう意味で、名著巡りの入り口にしかならないといえばならないのだと思います。
100分で名著をメインに追いつつ、他にも手を出してみようとは思っています。
私は実は番組はあまり見ていません(3割くらいかな)。毎週火曜日この時間にTVに向かっていることが難しいからです。
理想は両方こなすことだと思いますし、伊集院光さんのリアクションは時々ハッとさせられることもありますが、私はどちらかを取れと言われたら解説本だけ読みます。
番組が「あらすじ」+「執筆背景解説」+「解説者の解釈解説」で割合が2:2:6~1:5:4まで変動するとしたら
解説本は執筆背景解説に一律+3、解説者の解釈解説が一律-2って感じです。
(逆に、あらすじだけ知りたい場合100分で名著は重厚長大で、もっと手軽な選択肢があると思います。)
そりゃ、番組の中で解説にちらっと出てきた著者の友人の来歴とか、著書とか、いちいち全部触れられないですよね。
つまり、私が元投稿で言った「本の解説で繰り返し取り上げられる要素(人名、思想、歴史上の出来事など)があることがわかった」現象は
番組を見るより解説本を読んだときのほうが顕著に起こると思われます。
なので、もし元投稿を見て「知識がつながるって面白そう」という点に興味を持っていただけたなら、解説本の方をメインにされることを私はお勧めします。
頑張って読んだ、という感覚はありませんでした。
おそらく、原典には「頑張らないと読めない」ものもたくさんあると思いますが、解説書の段階では頑張らずに済みました。
正直、興味をそそられたかどうかにはレベル差があるので、結局読まない原典もあると思います。
古典名作だと聞いて読んでつまらなかったら被害甚大ですが、水際で食い止めてくれたことになると思います。
読みたくない本、という感覚もなくて、どちらかといえば「知らない本は読めない」ですね。
恥ずかしながら「エチカ」だとか「夜と霧」だとか「全体主義の起源」なんて知らずに生きてきたので
まず読みたくないかどうかも解説書読んで判断しようと思ってました。
食わず嫌いよりは、試食コーナーの匂いで避けた、の方がまだマシかなと言う感覚です。
シャワーを使う際には、本はタオルにくるんで蓋に挟んで防水します。
このスタイルで読書して2年位になりますが、多少湿ることはあっても、問題になるほどビシャビシャになったことはないですね。
以前スウェーデンに出向していた友人から聞いた話ですが彼の国では大学とは必ずしも高卒すぐ入るものではなく、
暫く働いてから勉強したいことを見つけて入る人も相当にいるらしいですね。
その彼が聞いた日本との違いを顕著に表しているセリフが「高卒のガキに大学教育はもったいない」「日本人は高校生の時職業決めるんでしょ?すごいね」です。
後者は嫌味なのかな?と言う気がしないでもないですが、前者は今本当に身にしみています。
大学教育をきちんと受け止められる18歳って、そんなに多くないですよね、、、
以下私の勝手な解釈です。見当違いのことを言ってるかもしれないですが、、、
私と趣味が合いそうだなと思ったら、まずは以下をお勧めします。
スペシャル版なのでちょい分厚いですが、これが私の一押しです。
日本の大乗仏教諸派の成り立ちと違いについて、今まで何度か教わったし読んだはずなのですが全く頭に入ってこなかったのがすらすら入ってきました。
読了後は、まるで自動車教習所に通ったあと今まで目にも入らなかった交通標識が急に意味を持ち出したような感じで、街中のお寺から情報を取れるようになりました。
私自身が茶道やってる事が大きいかもしれませんが、日本人が外国人に、英語で日本文化を説明する起点として最高と思いました。
実際、ボストンで友人とあったとき(作者の天心はボストン美術館の東洋部部長です)なんと役に立ったことか、、、
全編、声に出したい日本語だと思いました。言葉がやや古いのですが、原典も薄くて読みやすいです。
維摩さんというレジェンド級のアマチュア(在家信者)がプロ(菩薩軍団)をやり込めまくる話です。
「煩悩は湧くに任せよ、とらわれないことが大事だ」というフレーズがとても頭に残っています。
一番実践しやすい仏教な気がしました。アメリカの方で流行っているzenとかsatoriってこれを目指してるのかな?と思っています。
↓と思った記事
https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/
人間は自己愛ゆえに苦しまねばならぬ、というのがメインの本と理解しました。それだけでも納得感あるのですが、
本人的にはキリスト教最高!で異教徒を折伏するために書いた本らしいのに仏教が目指してるところと同じっぽいのが面白くて読んでました。
原典が思いっきり重そうなのですが、いつか読みたい本の一つです。
いろんなことを言ってるわけですが、
私は趣味を持て、幸せになれるぞ?という本だと理解しました。ラッセルさんの趣味の定義とは「~を収集すること」らしいです。つまりスタンプラリーですね。
何かに対して情熱を持ってスタンプラリーしてるうちは人生に飽きない、ということかと思いました。
解説本読破もそのノリでやってやらぁと思ったのを覚えています。
正確には100分で名著シリーズではないのですが、この「一週間で資本論」が成功したので100分で名著が始まったらしいです。
資本家の行動原理が今とぜんぜん変わらず、ギグ・エコノミーとかも19世紀の理論で説明できることに驚きました。
経済を理解するためというよりは自分の身の振り方を考える上で有用だなと思った本です。
リストがほしいというコメントをいただいたのでリスト載せます。
趣味が合いそうだなと思ったら、参考にしてください。
(抜け漏れあったので追加。まだ何冊か忘れてる気がする、、)
・点と線
・かもめ
・人間失格
・斜陽
・三四郎
・こころ
・茶の本
・奥の細道
・昔話と日本人の心
・死者の書
・銀の匙
・世論
・ペスト
・ゴルディアスの結び目
・1984
・苦海浄土
・夜と霧
・野火
・ソラリス
・マクベス
年末年始休みは読書もはかどり、新たに買った原典も既に8冊終わりました。
今のところ、全て期待通りの内容でとても充実した休みになっており今年ずっとこの調子で読み勧めていけたら、、、(無理だろうけど)と思ってます。
どういうふうに仕事の本を差し込んだら、自分の中の読書熱にうまく歩合出来るかを考えるのが今年の課題かな。
動物本とか、読んでて飽きることがあるんですよね。
なお、私が100分de名著を知ったきっかけは単身赴任中の父がずっと見ており、解説本を纏めて実家に持って帰ってきたのがきっかけでした。
私も読み出して以来、お互いの話題の共通点も増え、お互いの読書の幅も広がって、
初めて父と同等の視点で知識交換をできるようになったような気がしており、その点でもこの番組には深く感謝しています。
(私の専門のITのことでは以前から教える立場でしたが、これとはなんとなく異なる現象のような気がしてます。)
良い1年を!
みんなー、元気に思想してるー?😆
「現代思想」の今月号は特集テーマがなんと!ネットのみんなが大好き「反出生主義」なんだってね❣
青土社 ||現代思想:現代思想2019年11月号 特集=反出生主義を考える
目次を見る限り、ベネターの著作を中心に解題する感じかな?彼の「生まれてこないほうが良かった」は界隈の必読書だし、ベネター自身の寄稿もあるみたいだからこれは読まなきゃ!
ぼくは工学部卒で思想はよくわかんないけど、「現代思想」は前の加速主義特集のときにも読んでインターネット思想界隈論壇についていく役に立てたよ😤
反出生主義もそれ自身としての興味深さとともに、現代の分析哲学に関する諸問題(↑の目次にもあるけど「非同一性問題」はパーフィットの問題提起が有名だね❢)も巻き込む一大トピックだから、インターネット思想バトルやりたいならこれはもうフォロー必須かも❓😨
今更気づいてる時点で普段思想書を読んでないのがバレバレで申し訳ないけど、そんなぼくみたいな人にもこれは是非手にとってもらいたい!と思ったので紹介させていただきました〰🙇
「数学の修得には時間がかかる」ことの概説 - Unhappy Go Lucky!
ただ、文系学部の「研究」や「卒業論文」の位置づけとかについて、過大評価していただいているような気がしなくもない。日本語とは縁遠い言語を話す地域を専門とする史学科卒の人間として、「ゼミ」や「卒論」の位置づけについて語ってみたい。
いやこれは本当に分野によるのだが、「研究」というよりも「勉強」をやっているところが多い。歴史学というのはまず史料に何が書かれているかを正確に読み解く必要があるのだが、その読み方を徹底的に叩き込まれる。場合によっては修士課程でもこれが続く。もしくは、研究文献の読み方を叩き込まれる。そもそも2・3年前まで高校生だった連中である。文系の研究書をどのように読むべきかよくわかっていない人も多いし、英語の本を通読なんてしたことないですという人がほとんどだろう。レベルの高い大学なら外国語文献の購読をし(何語なのかは研究分野や参加者による)、あまりレベルの高くない大学なら日本語の本・論文の読み方をゼミで躾けられる。
(「史料」ってのは要するに「昔の人が書き残したこと」。王様の勅令だったりお役所の行政文書だったりインテリの書いた思想書だったり過激派の撒いたアジビラだったり新聞記事だったり、色々である。公文書館に行って実物を見てくる場合もあれば、別の学者がまとめて印刷出版してくれたものを参照する場合もある)
何で学部の段階からゼミに分かれるか、というと、「歴史学とは何か」「史料批判とは何か」みたいな概念・方法論レベルの話や、「いやしくも歴史学を学ぶ者として最低限踏まえておくべき各地域・各時代の基礎知識」みたいなのを除けば、分野ごとに身につけるべきスキルが全然違うので。江戸時代の歴史なら江戸時代の古文書、明治期の歴史なら明治期の文書、中国史なら漢文、イギリス史なら当然英語の古文書……を読まないといけない。イギリスについて研究したい学生が日本の古文書の読み解き方を勉強しても時間の無駄だろう。逆もまた然り。
慌てて言えば分野による。
社会調査とかする分野で、自分なりにアンケート調査してみた、とかそういう論文なら、どれだけ拙かろうがオリジナリティはあるだろう。あるいは歴史学でも、オリジナルな史料を発掘することが可能な分野ならオリジナリティは出る。
ただやっぱり、学部4年の段階で大層な「オリジナリティ」は出てこない。そもそも外国史の場合、史料の読解すら教員の手助けを得てようやく、という人が多い。歴史学では一次史料が重視されるが、私の分野では卒業論文で一次史料を使った時点で優秀な学生の部類に入るだろうなと思う。二次文献、つまり他の研究書や論文をまとめて長いレポート(うちの大学では3万2,000字が下限だったかな)を書けたらOK、という運用をしている大学も多いのではないか。まとめるのにもオリジナリティは出るしね、という苦しい理屈だしそんなの査読つき学会誌に「論文」として発表できるレベルではないが、学会誌に「論文」として出せるレベルのものを要求していると4年では足りないわけで、多くの史学科の学生は修士論文で初めて学会誌に投稿できるレベルのものを要求されることになる。
何度も言うようにこれは分野による。地味に重要なのが、「その言語は大学で第二外国語として開講されているか、あるいは教養科目で講義が受けられるか」という点。朝鮮史やドイツ史やフランス史の場合、韓国語やドイツ語やフランス語は文系の学部ならたいていは必修の第二外国語として教えられていることが多いので、卒論でも韓国語ドイツ語フランス語の論文は読めて当然だよなあ? というハードモードになることもある。中国史なら「高校から漢文やってるんだしゼミでも読んでるんだから卒論でもちゃんと漢文の史料は読めるよね? 現代中国語の論文も読んでね」ということになるだろう。英語? そんなの読めて当然でしょ? 第二外国語ではなくとも、たとえばトルコ語やアラビア語なら多少気の利いた大学なら教養科目とかで開講されているから、イスラーム史やりたいなら学部1年のうちから履修しといてね、という話になると思う。逆に、マイナー外国語が必要な分野だと、せめて英語の本くらいは読んどいてね、くらいにまでハードルは下がる。アイスランド史を勉強したいです! と言われても、日本でアイスランド語の授業がある大学がいったいいくつあるのか……という話になるわけで。まあ東大の某ゼミではゲエズ語購読とかやってたらしいですけどね。雲の上の世界すぎてまったく想像もつかない。
なので、大学に入った段階で既にどの分野に進むのかなんとはなしの道筋がついていないと厳しい。第二外国語で韓国語を選択して、やっぱり私ドイツ史がやりたい! というのは不可能ではないが難しい。第二外国語選びの段階である程度進路が決まってしまう、というのが史学科の特徴だ(まあ、英文学科とかは、学科選びの段階で専門地域が決まってしまうわけだが……)。イスラーム史やるなら第二外国語はフランス語にしないとね。そんなのついこないだまで高校生だった連中にわかるか! もちろんこれは大学による。西洋史に進学した者にはドイツ語とフランス語双方の習得を義務付ける大学もあるそうである。これならヨーロッパのたいていの地域に対応できるね! 史学は語学と言われる所以だ。
あとは西洋以外の地域だと、「史料に書かれている言語」と「論文に使われている言語」が違うことが結構あって、何でかといえば近代以降に西洋諸国に植民地支配されていたりすると「オランダ人研究者がオランダ語で書いたインドネシア史についての先行研究」みたいなのがたくさんあるので。つまりいくらインドネシア語やアラビア語が堪能でもそれだけでは片手落ちで、オランダ語やフランス語ができないと先行研究が読めないので勉強せざるを得ない(付け加えるなら、植民地支配されてたということは、お役所では宗主国の言語が使われていたり宗主国のお役所に植民地統治を担当する部局があったりしたわけで、それらの史料は当然宗主国の言語で書かれている)。さらに前近代史だと、「昔使われていた言語」と「現在使われている言語」が異なっていることが多く、典型的には古文とかラテン語とかである。現代日本語の論文はスラスラ読めても古典日本語はチンプンカンプンという人も多かろう。前近代非西洋の征服王朝なんかだと大変で、現地語+支配階級の言語+植民地支配してたヨーロッパの言語、をやらなければいけなかったりする(アラビア語+オスマン語+フランス語、みたいな感じ)。いやー、西洋現代史はヌルゲーの領域っすわ……その国の言語ができれば用足りるからなぁ。現地に行けばネイティブスピーカーがいるから勉強も簡単だし(アッカド語みたいなネイティブがいない言語を習得してる人ほんと尊敬する)。もちろんここで少数民族とか国際関係史とかに興味を持ってしまうと語学沼に引きずり込まれるわけだが。イギリス史なら英語だけでいいだろうと思っていたらうっかりウェールズに興味を持ってしまいウェールズ語を勉強することになりました、とか、ドイツ語だけで通そうと思っていたら枢軸国の外交に興味を持ってしまったせいでイタリア語も読んでます、みたいな。とはいえこれらは院に進学してからの話(あるいは院への進学を希望する学部生の話)だ。院に進学しない学生の卒論レベルなら日本語+英語or中国語でじゅうぶん、という運用の大学がほとんどだと思う。
(ヨーロッパの植民地についてしか述べていないのは、日本の植民地の場合宗主国の言語を習得する困難はほぼ存在しないからであって、日本は植民地支配をしていなかったと言いたいわけではないので念の為。もちろんこれは日本語母語話者である学生の話で、韓国や台湾の学生あるいはそれらの国からの留学生は植民地時代の自国史を勉強しようと思ったら日本語を読まなければいけないわけであり、なんというか申し訳ない)
でもまあ、卒論書くのは大事ですよ。たとえそれがレポートに毛の生えたレベルのものであっても、院に行かない学生にとっては専門家に指導されしっかりと文献を読み込んだ上でこんな長文を書かされる機会はこの先の人生でなかなかないし、それを経験するというのが大学に行く意味だと思う。院に行く学生にとってはもっと長い修論や博論書くんだから当然このくらい書けなきゃ話にならんわけで。
これも分野によるのだけれど、たいていどっかに留学する。中国史なら中国や台湾、フランス史ならフランス、みたいに。留学先で大学のゼミに参加したり史料を集めたり現地の専門家に指導を受けたり、あるいは分野によっては語学の勉強をしたりする。もちろん複数国に留学してもいいし、研究対象国以外に留学することもありえる。アフリカ史を研究するためにポルトガルに留学した人がいたり(イエズス会士が書いたものを読みたかったらしい)。で、帰国してから博論を書く(たまに留学先でそのままPh.D獲っちゃう人もいる)。
上述のような事情があるので、歴史学を専攻している人はたいてい4年以上博士課程に在籍する。ちゃんとした大学で3年で博士号獲るのは一部のバケモノだけです。たまにいるんだよそういうバケモノが。日本史なら楽勝かというとそういうわけではなく普通に4年以上かかってることが多い。留学期間とかもあるので、博士課程の先輩に学年を聞いても即答できないことが多いから気をつけよう。29歳でドクター? 夢物語かな? まあ本当に文系の大学院なんて資産家の子供か養ってくれる配偶者持ちか自殺志願者以外は来ない方がいいです。男性歴史学者が書いた研究書のあとがきに奥さんへの謝辞が書いてある場合、もちろん本当に純粋な感謝の念であることも多かろうがけっこうな確率で一時期ヒモ生活を送っていたことへの感謝だったりする。奥さんの実家でチクチクとイヤミを言われた経験を聞かせてくれた教授もいらっしゃる。これ有名大学の教授様になれたから笑って話せるだけで、なれなかったら悲惨だよな……。まあでも、研究者の不遇っぷりは文理問わないか。