はてなキーワード: 進学校とは
痛ましい事件の舞台となってしまった茨城県神栖市がどのようなところか説明したい。
茨城県神栖市は茨城県の南東の端、利根川の河口、千葉県銚子市の利根川を挟んだ対岸にある。
見渡す限りの地平線である。潮風が強く、冬場などは寒風が吹き荒び、一面枯れ野原が広がり、寂しい景色が広がる。
1人で浜辺を見つめていると、ここがこの国の果てなのだということを強く思わせる。
交通手段は車のみで公共交通機関は全くないと言ってよく、もちろん電車の駅などない。
観光地もなく、ここをふらっと目的もなく訪れる人はまずいない。
第二に、裕福な市である。
鹿島アントラーズや鹿島神宮で有名な鹿嶋市に隣接し、世界最大級の掘り込み港をもつ鹿島臨海工業地帯を形成する市の一つである。
ただし、実は鹿島臨海工業地帯の大半は神栖市にあり、そこから生まれる莫大な税収により、全国でも有数の裕福な自治体である。
その税収は市民に還元され、福祉は非常に厚いことで有名である。
生活保護だろうが母子家庭だろうが、貧しい家庭への支援は手厚く、ランドセルは全員に革製の同じものを配り、給食はたっぷりと地元産の食材を使い、質も量も都会とは比べ物にならない。修学旅行や遠足の費用は全て自治体持ち。
また関東有数の農業地帯であり、海もあり、自然災害が少なく温暖なせいか、物価が異様に安い。
この為に何もない地方には珍しく、未だに人口が増え続けている。
最近は特に外国人が増え、技能実習生の中国人、ベトナム人が増えている。
夜のお店ではたらくフィリピン人、タイ人などは古株で、地元の学校にはハーフの子も多い。
第三に、治安が悪い。
昔からヤンキーが多い土地柄ではあるが、新しい住民が増えるに連れて治安がますます悪化している。交通マナーも悪い。
また反社会的勢力も多く、銃撃事件により、小中学校では突然集団下校となることも度々である。
座間のバラバラ殺人事件の犯人もスカウトマン時代に神栖市の違法風俗店への斡旋で逮捕されている。
このような状況にもかかわらず、警察署がないことが長年の問題であったが、最近大きな警察署ができ、犯罪の減少が期待されている。
これはこの地域一帯に言えるが、進学校は私立一校のみ、他はどれも偏差値で言えば50を下回るヤンキー校である。
中学生時点で決して全国では高くない茨城県平均を大きく下回る成績を叩き出す。
こんな神栖市。ぜひ一度訪れてみてください。
東進の林先生が「進学校男子なんてみんなマザコンだが、いいマザコンであり、本当に尽くして貰ったからみんな自然とママのことが好き」みたいに言っていたけど、進学校男子と付き合ったことのある私からすると「きしょい」だけ
みたいなツイートを前に見かけた。
親のいいなりになって10代を過ごしたら何もできない人間になった
要は進学校男子の大半は親と仲いいけど、親の言いなりで自立心がない。はたからみたらいいように見えるかもしれないが、きしょい、と言いたいのだと思う。
皆さんは反抗期はあっただろうか。最近反抗期がない子供が増えているという記事もあるが、どうだろうか。私はなかった。理由は「喧嘩しても意味がない」「いろいろ弁当作ってくれた義理がある」とありきたりなものだ。後者は反論の余地がない…と信じたい。そもそも高校以降は自力で行くのは困難であり、親はスポンサーみたいなものである。そんな親に反発するのは理不尽ではないかと思うのだ。しかし、前者に関しては違う、私は喧嘩をしても疲れるだけだと今まで考えていたが、それは単に無条件に親に降伏しただけに過ぎないのではないかと思うのだ。
皆さんは親と話すのは緊張するのだろうか。私は親と極力会話したくない。例えると、小学のころに職員室に行く感じである。家ではおとなしいが、外では饒舌というのは男子あるあるな気もするが、これはなぜなのだろうか。
皆さんは夕食は楽しいだろうか。家族団らんで囲む夕食は楽しいものなのだと思う。しかし、いつからか、家族がいるときの夕食は目の前のメニューを「食べなければならない」という苦行のように感じるようになったのだ。早く終わらないだろうか、さっさと食べて早くここから去りたい、と思うのだ。料理がまずいわけではない、多分旨い方だと思う。でも、苦痛なのだ。部活や用事などで遅く帰ってきた時の一人で食べる夕食はどんなに気が楽か。
皆さんは「親に殺される」と1度でも思ったことはあるだろうか。私は私の内面しかわからないため、これが異常なのか正常なのかはわからない。親の名誉のために言っておくが私と親の仲は決して悪いわけではない。家族で旅行もいったことがあるし、むしろ仲は良いほうだと思う。もちろん、殺人を含めて一切の前科はない。児童相談所案件になるような暴力を振るわれたこともない。あくまでこの思い込みは杞憂でしかない、と思う。
親が怒った時にそう思ってしまうだけである。夫婦や私たちのことで喧嘩をしている時に、えも言われぬような恐怖心が襲われ、自分は今夜殺されるのではないか、とそう考えるだけのことである。小学校からそんな考えが自分を支配する時がたまにあった。このとき、怒られている対象は自分ではない。大体は夫婦喧嘩である。そんな考えをしている私から喧嘩の火種を起こすなんてとんでもないことだ。
小学生の時、私は寝ている間にナイフで刺されるのではないかと思い、腹に雑誌を装備して眠ったことがある。これはくだらない子供の自衛策程度でしかないと思うかもしれない。でも、高校になってもその考えは抜けず、殺されると思って、部屋のドアにバリケードを築いたこともある。自衛のレベルが上がっただけで本質的には何一つ変わってはいない。
改めて言うが、私自身にも、身の回りにもそうした物騒な出来事が起きたわけでは断じてない。しかし何かしらのトラウマのようなものがあるのは事実であろう。
中学校のとき、友達と遊ぶことに罪悪感があった。夕方まで遊んでいると親が怒るのではないかと怯えながら遊んでいた。そんな心境でろくに遊べるわけもなく、中学ではあまり遊ばなかった気がする。高校になって、その夜遅くまで遊ぶのには相変わらず罪悪感はあったがさすがに恐怖はある程度は克服した。
最近、海外旅行にいかないかと誘われた。何故か私は海外にいくことが怖い、と感じていた。しかし、実は私は海外旅行にいくことを親に伝えるのが怖いのだ。そう気づいてしまった。結局根本にある恐怖はぬぐい切れていなかった。
あれらのツイートに強い衝撃は受けたが、私はマザコンなのかといわれるとそうではないように思われる。ただ、親の都合のいいように生きて、親におびえながら生きる。それならさっさと家を出ればいいじゃないか、と思うだろうが、それをする勇気もなかった。まるで奴隷のようなのである。しかし、この奴隷論は私の心の中のものに過ぎない。勝手に設けた精神的な束縛に勝手にもがいているような、そういうところがあのツイートした彼女にとってはきしょいんだろうなぁ。
彼女との出会いは小学2年生の時。僕の立場は転校生だった。彼女への好意を自覚したのは小4くらいからか。あんまり細かく書くと僕の来歴が一般的な人と比べてちょっとだけ特殊なので万が一の身バレの恐れがあって書けないのだけど。
彼女は僕からしたら抜群に利口な少女で小学生の時に実施された学力テストの結果が全国1位タイで、同じく中学生の時に実施された学力テストの結果も全国1位タイだった。
僕と彼女の関係性は出会いから中学卒業に伴う別れの際まで一貫して「たまに話す同級生」の域を出なかったと思う。
僕と彼女には家庭環境に共通性があったり同一の放課後児童クラブに通っていたりする共通点こそあったが、特別それ故に親密だったりすることはなかった、と思う。
彼女を好きになった理由は僕と比較して圧倒的な彼女の知性にあった、と今では思う。僕の親族にはあまり知的な人物が存在しなかったので余計に彼女に惹かれたのだと思う。
放課後児童クラブでは僕はボール遊びをしたり漫画を読んだりすることが多かったけど、彼女は課題を片付けたりクロスワードを解いたりしていて、当時の僕にとっては彼女のそういう静謐な佇まいも気を引かれる原因になったのだと思う。
中学に進学すると彼女と僕の学外の接点は皆無になり、学内でもクラスも部活動も違う彼女とは次第に疎遠になった。
中学2年の時だったか。PCルームで他クラスの彼女がクラスメイトの女子生徒と談笑しているのをたまたま見かけた。
彼女の容姿は僕のよく知る小学生の頃よりずっと成長して大人びていた。成熟した女性のラインを形成しつつある彼女を見て気圧された様な複雑な気持ちになったのを強く覚えている。
中学を卒業した後、彼女は都内でも指折りの進学校に進学し、僕は僕で凡人らしく凡百の都立校へ進学した。
僕は中学の同級生の包括的なコミュニティには接続しておらず親しい数人の友達だけとその後の付き合いを続けていたので高校進学後の彼女の動向は全く分からない。
物質的な彼女の痕跡として小中学校の卒業アルバムがあったが、彼女の姿を確かめる為にアルバムのページを捲る行為に後ろ暗さを感じたので大学進学と殆ど同時期に処分してしまった。些かの後悔はあるけど人生は不可逆なので仕方ないと諦めはついてる。
以降今日に至るまで僕と彼女の間には何らの接点も生じないまま時間だけが過ぎ去った。
これまで僕は彼女以外の女性に恋したことは一度もなく、眠れない夜などに稀に彼女のことを思い出し思わず強く寝返りを打ったりしている。
今も新聞を読んでたら急に彼女のことを思い出してしまい、深夜テンションと思い付きでこの文章を書いてる。
一つ気がかりなのは僕の記憶の中の彼女は中学生の姿のまま歳をとらないのでその彼女に恋心を抱いている僕は俗に言うロリコンということになるのか、ということだ。
現在の彼女を知ることができれば僕の心象の彼女もアップデートされるとは思うけど、なんだかこのままずっと記憶の中の彼女に恋したままでいたい様な気もしている。
高校は有名な進学校、宮廷に進学して首席で卒業。授業料は成績で免除。
自分のことをエリートだと思って自尊心高めで生きてきたけど、研究で躓いてぼろぼろになってる。
もう自分がやってる研究にやる気出ないし、教授は自分のこと過大評価してるから当たりが辛いし、しんどい。
そんなに頭良くないし、進捗出せんて。
首席だろw真面目にやれwとかいうけど、授業出席してレポート出しただけやぞ。
既存のものをただ吐き出しただけだから、頭も使ってないし何も生み出してない。そのへんのプリンタのほうが正確だしすごいと思うよ。
周りの知り合いがガンガン進捗出して、学会出てるのを見るのも辛い。
最近は精神狂いまくって辛くて大学には2-3ヶ月くらい行ってないし、
家で虎になってるから、袁傪に合うこともないんだろうなぁ、ウケるw。
鬱々としてる間に時間はガンガン進むし、どうしたら良いんだろうなぁ……。
知的労働以外の道を選ぶことも考えてるけど、肥大化した自尊心が邪魔して出来ないんだろうなぁ。
その道選ぶなら、自殺したほうがマシかもシレンとも思ってる(もちろん自殺も辛くて苦しいから出来ない。今日もおくすり飲んで寝る。)。
こんなふうになるとは思ってなかったなぁ。みんなも気をつけてね。
地方の本当のトップ公立に通ってて地元国立で「御の字」って学校内で良くない方ってイメージが。
実際地方にいてそういう高校通ってたような人からの話を聞く限りは。
「トップに行ってたけど地元国立が御の字だったよ」みたいな話は、いわゆる「自称進学校」に実際には行ってたみたいなのじゃないかなあと
それでもなんだかんだ多少はできるやつがいて、非トップからでも地底ぐらいなら結構出たりしたけど。
そういう意味で東京にいることのメリットを最大に活かそうとおもったら、
開成筑駒にはいって東大目指すぐらいじゃないと地方でもいいじゃんになりかねないわけで、
それでも関西なら灘があるわけで……
と言うとリモート教育とか言い出すんだろうが、授業とか参考書の話じゃなくて環境の話な。
東大や国立医学部を目指せるレベルの子が多数集まるような学校は地方には殆どない。
「地元トップの進学校」ったって、実際に進学する先は精々地元国立、って所が大半だ。
周りの友達皆が東大目指している環境と、地元国立入れたら御の字と思ってる友達しかいない環境とでは子供の意識も変わって来る。
或いは留学するのが当たり前だろと言い出すだろうか。
それにしたって「実際に留学する子が周りに多数いる環境」と「そんな子は殆どいない環境」じゃ子供の意識が変わるだろうし
となると、若いうちは良くても子供を持つと「子供により良い教育を受けさせたいから東京に住みたい」となる。
そこが変わらない限り、東京優位は変わらんよ。
小さい頃から逃げてばかりいた。
近所の子供たちが遊んでいるのを離れたところから見ているだけの自分に、親は「よして」と言うように教えてくれた。漢字で書くと「寄せて」になるのだろうか、仲間に入れてほしいというような意味だ。ついに一度も言わなかった。
家の中でばかり遊んでいた。本もゲームもそれなりに与えられてたので退屈はしなかった。テレビはアニメか特撮をやってるときだけ見ていたが、ドラマや歌番組には興味がわかなかった。
幼稚園と小学校は真っ暗なジャングルだった。そこら中に猛獣が潜んでいて、油断すると噛みつかれる。顔も名前もわからない「ともだち」たちから笑われ、小突かれ、追い回された記憶ばかり残っている。
教室にいると何が飛んでくるかわからないから、隠れ場所を探して校内をさまよった。目を閉じたら何をされるかわからないから、まばたきするのも怖かった。
このまま公立中学に行ったら殺されるに違いないという親の判断で進学校を目指すことになった。進学校が何なのかもよく分からなかったが、言われるままに頑張った結果まあまあそこそこの私立に引っかかった。
公立を知らないので私立がマシだったのかどうかは分からない。同級生は相変わらず猛獣の群れだったが、目立った不良グループとかはいなかった。大きな図書室があったので、空いた時間に通いつめた。帰り道にあった古本屋もお気に入りの場所だった。家からはバスで一時間くらいかかったが、本を読むには丁度よくて時々乗り過ごした。
せっかく入った進学校だが、勉強を頑張った記憶は無い。授業中は教科書に落書きばかりして、溜まった妄想を秘密のノートに描き連ねた。入学後に部活を選ぶ機会があったが、入ろうとした部の先輩に初回で約束をすっぽかされてそのまま無かったことになった。中高一貫だったので何の区切りもなくただ学年の数字だけ増えていった。
高校を出たら大学へ行くものらしいとは聞いていたが、受験の仕組みとかはまるで理解しておらず模試とセンター試験の区別もついてなかった。どの大学に行きたいのかと言われても特に思いつかなかったので、自分の成績で向いていそうな学部を適当に受けた。
一浪して隣県の国立に入り、仕送りもらってアパートで一人暮らしを始めた。山と田んぼばかりの実家と比べるとずいぶん都会だったが、主に利用したのはスーパーと百均と古本屋古ゲーム屋くらいだった。アルバイトはせず、与えられた金額の範囲でいかに生活するかばかり考えていた。
講義はどれも興味深かったし、図書館も大きかった。パソコンとインターネットにも初めて触れた。けれど溜まっていくのは雑学ばかりで、何を目指して進めばよいのかが分からないままだった。
この頃には周りの人間も猛獣ではなくなったが、自分から近づく気にはなれなかった。声をかけてくれる人もいてサークル活動などもやってみたが、結局はどの付き合いも長続きしなかった。人と関わって舞い上がる自分への嫌悪感と、夢や目標をもって進む人への劣等感で押しつぶされそうだった。
ノートの落書きは続いていたが、書けば書くほど自分の空っぽさを見せつけられた。オリジナルだと思っていた設定もデザインも誰かの真似でしかなかった。愛も理想も言葉だけで、何一つ信じてなんかいなかった。
つまづきながら単位は取っていったが、論文が書けなかった。研究したいテーマなんて何一つ思いつかない。自分がやりたいことも、やるべきことも、できることも何も見えなかった。院に行けるような頭が無いのは分かっていたし、学んだことを社会で役だてるイメージもまるで出来なかった。
あてがわれた研究室で無意味に悩んでくすぶって、二回留年してから卒業した。教授に与えられたテーマそのままに本とネットでかき集めた文章をつぎはぎしただけの卒論を提出して、実家へ逃げ帰った。
家でただ寝ているわけにもいかないので就職活動をはじめたが、大卒の肩書きしかない、やりたい仕事もできそうな仕事も分からない人間を雇ってくれる会社など見つかる訳がない。取りあえずどこでも良いので働いてみてから考えればという助言に従って、隣町の食品倉庫で時給労働をすることにした。取りあえずのはずだったが、そのまま十数年たった。
肉体労働は苦痛だったが何年かすると慣れた。基本的には書かれた数字にあわせて箱を動かすだけなので頭を使う必要は無い。周囲に人はいるが朝の挨拶とトラブルの報告以外で話すことは無い。毎日たくさんの箱が出荷されていくが、買い手のことはラベルに書かれた名前しか分からない。ただただ箱を運び続けている。
学生のアルバイトでも務まるような仕事だから給料もその程度だ。実家住まいのおかげで多少の貯金はできたが、病気などで大きな出費があれば簡単に消し飛ぶだろう。別の仕事を探すべきだったが、こんな簡単な仕事ですら苦労する自分に他の仕事などできるだろうかと思うと身動きが取れなくなった。
日々の暮らしそのものには不満は無い。食べるには困らないし、仕事上のストレスくらいなら家でお菓子を食べてゲームしていれば解消できる。会社以外で人に会うことがないので服にも身だしなみにもこだわる理由が無い。特に行きたい場所もないし会いたい人もいない。飲まないし打たないし買わない。
このあいだ四十歳になった。独りのまま四十を過ぎると妖精になるなんて言ったもんだが、実際に妖精郷というのはこんなふうかも知れない。苦労が無い代わりに、新しいことも起こらない。小雨の降る午後のように、静かにただ夜を待つだけの時間。
今週は先週と似たような週だった。来週も同じだろう。来月も、来年も、かわりばえのしない日々がただ続いていく。そうする内にいずれ親が倒れる。そして自分が。人生に残された大きなイベントは、もうそれくらいしか無い。
すでに自分の人生は終わった、と思う。死んでいないだけで生きてもいない。小さな目標はいくらでも立てられるけど、それが他の何かにつながっていくことが無い。
小さい頃、虐められていた。
そんな感じで、からかい程度やいたずら電話みたいな軽いものから、
金を取られる、暴力をふるわれる、家の車や窓ガラスを壊されるといった
そのせいで人間不信になり、
何度も死んで遺書に全部書きなぐってやろうか、
それくらいじゃあいつらは何も思わないから殺して死んでやろうか、
そうしたら残った親兄弟がまた標的になる、
幸いにして成績だけは良かったので、
高校以降は(地元では相変わらず嫌がらせみたいなことはあったが)
そういうものとは無縁で、友人にも恵まれ、楽しい生活をしていたが、
ふとした瞬間に過去を思い出して、ふさぎ込むこともあった。
今が楽しくても、思春期にずっと暗い影を落としていた。
就職で地元を離れて、新人の頃はサービス残業や土日出社もして、
何とかそれなりの稼ぎをもらえるようになった。
去年結婚して、子供ができて、昨日子供をお風呂に入れてた時に、
自分の、過去や当時の相手に対する憎しみとかに使っていた時間を、
今でもその時携わったやつらのことは許してないし、これからもそれは変わらないけど、
高校の3年間を同じクラスで過ごし、親友とは言わないもまでも、良好な友人関係を気付いてきた。
田舎の進学校である母校から、私は東京の大学に進み、その後東京の企業に就職し、20代後半の現在に至るまで東京で暮らしている。
Aちゃんは、高校卒業後専門学校に進み、私より数年早く社会人になり、ちょうど私が就職をするのとほぼ同タイミングで東京にやってきた。
(私も彼女もミーハーな性格なので、もともと都会への憧れが強かったのだ。)
ちょうど同じタイミングで二人とも2.5次元舞台にハマったこともあって、一緒に舞台に何度も足を運び、チケット当落に一喜一憂し、物販に朝から並び、地方遠征に繰り出した。
あまりにお互いの熱量が高く、また周りに同じような趣味を持つ知り合いもいなかったので、役者がTwitterやブログでなにかネタを投下してくれる度に、私たちは大げさに騒ぎ、電話やLINEでは満足が出来ず、毎日のように会ってはお互いの推しについて語り合っていた。
そもそも、Aちゃんと会う時に待ち合わせする駅やお店は、ほぼ100%私が決める。
一緒に旅行をする時も、宿、交通、全体のスケジュール検討・決定、全てにおいてこちらに主導権がある。
※私は食べ物や旅など、自分の趣味領域にこだわりがあり、かつリサーチ・プランニングが苦にならないタイプなので、それが不満という話ではない。
ただ、彼女はいつだって「私はなんでもいいよ」「いいね!楽しみ!」と言う。
そのくせ私が連れて行ったお気に入りのお店に、他の友人を連れて行って喜ばれた話を私に向かって何度もする。
男の子の話をする時に、男の子側にすべてのプランニングを任せた上でそのチョイスがいまいちだった、というような話も聞いた。あと、職場の人がチョイスした送別会のお店が高い!という愚痴とかもあった。(一人5,000円程度だったけど)
最初の、ただ「自分の意見を持たない子」だったらまだよかったのに。
一緒に東京で過ごした約5年ほどの時間の中で、気付いた時には、彼女は所謂「クレクレちゃん」になってしまって、挙句には「選択すること」の責務を他人に100%押し付けた上で、その内容に対して文句を言うような人になってしまっていた。
エピソードの蓄積を経て上記の気付きに至った時に、「もしかしてこれは私がなんでも決めてしまっていたせいなのかな…」とだいぶ思い悩んだ。ひと月ほど毎日、気付けば彼女の事を考えていた時期があった。
さすがに辛くなって、高校時代に私よりも彼女と親しくしていた共通の友人一人だけに相談をしたら、「いや、彼女は高校の時からそんなんだったよ」と軽く返された。
「そうなのか…」と胸落ちすると同時に、当時職場の上司に「もっと他人に興味を持て」と叱責されていた時期でもあったので、その証明みたいでそれはそれで落ち込んだ(蛇足)
まぁここまではなんとなくもやっとする出来事レベルの話で、正直なところ自分の交友関係がかなり広いこともあり、「一人の友人」として相手の良くない部分が目についてしまっているだけだなと思っていた。
それだけ言うと「やべー奴」な印象を与えてしまうかもしれないけれど、彼女は資格職なので、仕事内容は変わっていない。
給与が安いとか上司が嫌だとか、なんとなく節目のタイミングだとかで、それほどの回数に至っているのだ。(多分地元で2回、東京で5~6回転職している。)
その事自体は彼女の自由だし、気になってググってみたところ彼女の職業においてはわりかし異常ではない出来事のようなので、その件については私が口を出すところではないと思っている。
ただ、忘れもしない去年の夏。
上司に毎日のように怒られて精神的に参ってしまったAちゃんは、6回目だか7回目の退職を決意した。
そうしてある日、私に連絡をしてきたのだ。「会社員になりたいんだけど、相談に乗ってくれない?」と。
明確にやりたいことがあるなら良い。今の給料から下がる覚悟があるなら良い。自分で考えて決めたのならそれで良い。
そう思って話を聞いてみると、
「実は20代前半の時にも同じように思ってた時期があった」
「同じ職場に数百人単位で人がいるような場所のほうが人間関係で悩まなくて済みそう」
という、理想を次々に口にした。
(ちなみにこの時、残業終わりに22:00から1時間半ほど通話をして、その前後でも相当数の長文LINEが届いていた。彼女の周りの人間で、東京の会社員は私だけなのだ。)
私、たぶん、この時に初めて彼女にキレた。(実は頭に血が上ってよく覚えていないのですが)
「そもそも知識が無さすぎるから、総合職/一般職の違いと、一般的な就活方法を調べて」
「やってみたい仕事も調べてみて」
「大学卒でなくても、熱意があるならカバーできる部分はある。ただ不利な戦いである事を理解して」
ただ精神的に参ってしまった上での逃避なんだって、勿論気づいていたけれど、
上京して、大学受験も就活もそこそこ「戦ってやった」っていう自負がある自分にとっては、どうしても許せない瞬間だった。
それから1年以上の時間が経つけど、この一件以来、私はAちゃんに対してどうにも優しくなれない。
彼女を含めた数人でご飯を食べていても、彼女に対してだけはどうしても態度が硬化してしまう。最初は自覚レベルだったけど、もう他の子にも本人にも気づかれてしまってるレベルだと思う。さすがにおかしいって自分でも思うのに、その場限り演じることすらできなくなってしまった。
言ってしまえば、ただの「一人の友人」なのに。
この関係を絶たなくても、私のこの先の人生には大きな波は起きないだろうと思うのに。
それでも、もう、彼女のことがゆるせない。
2019年。もう潮時だと思う。
この一年の些細な抱負として、私はAちゃんに会わないことをひそかに掲げている。
私からはそもそもコンタクトを取らないし、共通の友人に誘われても行かない。
それで良いと思っている。
ただ、無性に学生時代の彼女との想い出を思い出してしまう時がある。
二人で泣いた、あの千秋楽の福岡の夜が恋しくなってしまう日がある。
「コミュ障が婚活マッチングアプリで出会い別れるまでの一部始終」(anond:20190106214218)という日記を書いた者です。
前回の日記を通じて、自分の経験を文章に落とす作業をしている間はすごく気分が晴れるということに、生まれて初めて気づきました。文章を褒めてくださる方もいらっしゃったので、調子に乗ってもう1本、投稿してみます(読み手を選ぶ内容なので、さほどブックマークはつかないと思いますが)。また、前回の日記では、あたかも僕が恋愛経験・コミュニケーション能力以外の点において完全なる真人間であるかのような印象を与えてしまったので、ちょっと彼女に対してアンフェアだったな、という懺悔の思いもあります。
●
僕が中学生・高校生時代に、人生で初めて好きになった方の話をしたいと思います。
僕が通っていたのは、中高一貫の男子校でした。所謂進学校で、有名大学進学率がKPIになっている、勉学を重んじる厳しい校風でした。
中学校の登校初日。入学式を終えた新入生は、疲れた足取りで初めて行く自分の教室へ向かっていました。殆どの生徒はお互い初対面なので、会話もまばらでした。1人で居ても目立たなくて良いな、ずっとこのままなら良いのに、などと思いながら、僕は人の波から少し外れたところを歩いていました。
廊下の角を曲がった時、僕は斜め前を歩いていた同級生の1人に気づきました。サラサラなストレートの髪に、小さな顔、大きな瞳、長い睫毛。人生で見たことのある誰よりも格好良い男の子が、そこには居ました。
これが、一目惚れか、と、冷静に思ったのを、はっきりと覚えています。
彼と僕は同じクラスでした。彼は、才色兼備な人でした。文武両道で、サッカーが趣味。優しい性格で、愛嬌があり、話は面白く、友人も多い。笑顔がキラキラしていて、王子様のように見えました。過去を美化し過ぎだと言われるかもしれませんが、アイドルグループに所属していてもおかしくなかったと思います。クラスで文化祭に出店した、大して美味しくない割高なタコ焼きも、彼が声を掛けた女子学生は全員買ってくれました。
僕は、絶対に彼には自分の心の内を明かさない、と決めていました。傷つくのが怖かったのもありますが、彼の人生劇場の登場人物として、僕はあまりに分不相応だと思ったからです。僕は、彼が僕を抱きしめ、名前を呼びながら優しく髪を撫でてくれることを想像し、時に嗚咽しながら床に就きました。僕の人生は泣いてばかりです。今思えば、この時の涙の理由も自己憐憫でした。努力を放棄し、自分で自分のことを追い詰め、思考停止して悲劇のヒロインを気取り、自身を慰めて、精神的な安寧を得るのが日課になりました。幸せと虚しさが入り混じった複雑な気持ちで、彼と時空間を共有できない夜をやり過ごすことしか、できませんでした。
僕は「好きな人の好きなものを好きになる」タイプでした。彼があるアイドルのファンだと聞けば、プロフィールを暗記し、出演するテレビ番組を観ました。彼がよく口ずさんでいた洋楽アーティストのCDは全部借りて聴き、歌詞まで覚えました。そうして仕入れた話題で彼に話しかける勇気もないのに、です。
ある日僕は、彼と彼の友達が教室の窓辺で繰り広げる雑談に聞き耳を立てていました。彼は、塾で出来た初めての彼女とファストファッション店に行き、お揃いのトレーナーを買ったと、少し恥ずかしそうに、しかしとても楽しそうに話していました。僕は彼に彼女ができていたことさえ知りませんでした。完全に狼狽しました。彼は彼女のことが好きで、僕が知ることのできない存在であるその彼女は、僕の見たことのない彼の表情を知っているのです。結局、その日は何もやる気が起きず、トイレに籠って残りの授業をサボってしまいました。泣き腫らした顔を誰にも見られたくなくて、放課後、日が沈んだ頃に個室を後にしました。親には怒られましたが、何も言えませんでした。
でも、サボってばかりいたわけではありません。むしろ勉強には必死で取り組んでいました。彼と同じクラスになるためです。入れ替わりの激しい特進クラスを6年間ずっとキープし続けたのは、とうとう彼と僕だけでした。彼は文系コース、僕は理系コースでした。本当は彼と同じコースに進みたい気持ちもありましたが、無理して高い授業料を払ってくれている両親の顔を思い浮かべると、人生を棒に振る可能性のある決断をする勇気は出ませんでした。それでも、少しでも多く彼と同じ空気を吸っていたくて、受験に必要のない文系科目まで、教頭に頼み込んで時間割の許す限り履修していました。ただ、残念ながら僕の学力は彼に遠く及ばず、別の大学に通うことになるのは自明でした。最終学年になって勉強のモチベーションを失った僕の成績は、急に翼を失った鳥のように落ちてゆきました。教師全員にひどく心配されたのを良く覚えています。
高校3年の1学期の席替えで、僕の席が彼の後ろになりました。夏休みまでのたった数ヶ月だけですが、世界中の誰よりも彼と一番物理的に近い場所を占有できる喜びで、胸がいっぱいになりました。居眠りの振りをして机に突っ伏し、いつの間にか仄かに甘い香りを纏うようになっていた彼の背中に近づきました。息をするたびに、彼と一体化してゆくような、幸せな気持ちが溢れました。放課後、憶えた匂いだけを頼りに、彼と同じ香水を探しました。塾を休んで、お店を何軒も梯子しましたが、結局見つけることはできませんでした。
ある授業の小テストで、僕が酷い点数を取ったことがありました。回収の号令が掛かり、自己採点した答案用紙を、前の席に座る彼に恥ずかしそうな顔で差し出すと、彼は僕の眼を見て「可愛い」、と言いながら、優しい笑顔で受け取ってくれました。どういう意味を持つ言葉なのか、しばらく理解できませんでした。その声色は、今でも耳にこびり付いています。辛いことがあった時に、何度も、何度も心の中で反芻して、その度に涙を流し、頬から耳まで真っ赤に染めました。
彼が僕の気持ちに気づいていたのかどうかは、卒業するまで、ついに分かりませんでした。
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この日記は、彼の好きだったEric Claptonを聴きながら書きました(この日記では固有名詞を一切出さないという自分縛りがあったのですが、これだけ例外にさせてください)。自分の中で強く記憶に残っているエピソードを集めてみたのですが、結果として完全なる狂気という印象になってしまいました。常にこのような変態行為に走っていたわけではないことだけ、申し開きをさせてください。この時期にできた数少ない友人の一人とは、年に一度、母校の文化祭に行く間柄を保っています。
彼とは、高校卒業以来、一度も会っていません。大学に進学すると、僕は別に男性が好きだったわけではないのだということに気づきました。ただ、6年間、彼という重いアイロンを掛け続けた心の折り目はなかなか消えず、随分とひねくれたまま大学生活を送ってしまいました。
客観的に読み返すと、僕は本来的には恋愛依存体質で入れ込みやすいタイプなのかな、と思いました。これをコントロールできるようにしないと婚活中に精神を病みそうですね。
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この日記をどうしても書きたくなったもう一つの理由は、前の日記の「彼女」が、3次元ボーイズラブ小説の執筆をこよなく愛していたからです。彼女は、本当に親しい人にしか言えない秘密だと言って、4度目のデートで僕にその趣味を打ち明けてくれました。彼女に僕の経験を伝える機会はついにありませんでしたが、あの時僕が彼女の良き理解者として振舞えたのは、中高時代の彼との思い出があったからこそでした。
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ブックマークコメントを読ませていただきました。「まともな人かと思ったらヤバい奴だった」みたいなことを云われるのではないかと心配していたのですが、杞憂でした。お薦めしていただいた漫画も面白そうなので読んでみようと思います。あと、「明治の文豪が書きそう」とあって笑ってしまいました。読書量の少ない人間がそれらしく文章を書こうとすると、学生時代に読んだ著名な本にしか影響されていないことが透けて見えてしまうものですね。僕は「こころ」が好きでした。この日記が遺書にならないよう精進します。
落ちこぼれっていうのは、いろいろ捉え方があると思うけど僕は一応進学校って呼ばれるところに通っている。が、その成績は底辺に近い。
そんな僕でも、一応受験生ってやつをやっている訳だが、今まで散々勉強してこなかったやつが本気を出したところで、まぁ未来はわかっていた訳だがとりあえずまわりも塾に行ったりしているわけであるので僕もそれに同調して塾に通っていた。
そこではちゃんと予習もして、授業も必死で聴いて、ノート取って、と正直周りと比べてもかなり頑張っていた方だと思う。
だがね、世の中そんなに甘くない訳だ。高校に入ってから2年弱、殆ど勉強してこず赤点ギリギリだったやつが勉強したらどうなるか。夏くらいまではすごい勢いで成績が伸びる訳だよ。そりゃぁ何だかんだ成績伸びれば嬉しいし、まわりも褒めてくれた。でもその後演習を重ねていくにつれて自分の限界が見えてくる。
例えば英語の場合、ざっくりいうと文法と読解に分かれている。文法をまず身につけようと思い勉強すると文法は大幅な伸びを見せた。次に読解を勉強していくとこれまた読解も大幅な伸びを見せるわけだ。ならいいじゃん、とおもうだろ?なんと文法は元のレベルまで後退してしまっているのだよ。あわてて文法も見直しをすると元に戻るのだが読解が...
とまぁこんなわけだ。ここが自分の限界なのかなぁとおもってしまう。
さらに学校のレベルが微妙に高いせいで、まわりは満点とれなかっただとか、東大B判定だとか騒いでるわけ。自分の小ささを改めてわからせられるんだよ。塾に行ってもまわりは期待をかけられてる中自分は何をやってんだと思う日々。
多分これを見た人は「いや、もっと頑張れよ」って思う人が大半だ思うけど、もし同じ境遇で苦しんでる人がいたら仲間がいるんだよってことをこの日記で示したい。
かなり昔に都立高校生だった私が、現在の母校の位置づけを知るためにネットで検索してみたらこんなのが出てきた。
概ね私が当時持っていた(学校の)レベル感とそう大きくは変わっていないんだけど、学区制がなくなって自由に学校を選べるようになった結果として、ガリ勉してでも有名大学に行きたい子と、そんなに成績が悪いわけじゃないけど、受験勉強にばかり青春を捧げるのもちょっとね…という子がどの学校を選ぶかという差が出てきてるように思う。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/press_release/2017/release20170824_02.html
それにしても東京都教育委員会はずいぶん変わったなぁ…と思う。昔はあまり高校間のレベル差を強調しないよう、内申の比重を高くして、生徒たちを成績に応じて入れそうな高校に振り分けるのが中学校側の腕の見せ所で、いわゆる名門と言われる高校でもさほど倍率は高くなかった。が、そのことによってかつては東大等への合格者数が多かった元進学校が凋落することとなった。(特に東京23区内では進学に強い私立校が増えたというのもあると思うけど。)
で、そのことに業を煮やしたと思われる都教委が出したのが「進学指導重点校」なるものを指定して学校間の競争をあおり、かつての名門復活を目指す作戦だ(あくまでも私の推測だけど)。いかにもお役所っぽい書き方でごにょごにょ書いてあるけど、要するに偏差値で行くとトップが(1)進学指導重点校で、次が(2)の進学指導特別推進校で、それに続くのが(3)進学指導推進校だよね。
別に私はこのやり方が間違っているとは思わない。頭の出来が一緒でも塾に行く金や名門私立進学校に行く金のある子だけがエリート大学に行けるのではなく、安い学費でも進学に力を入れる都立高校で勉強すれば名門大学に入れる…という選択肢を作ったんだからね。
そして、ここには「難関国立大学等」として「東京大学、一橋大学、東京工業大学、京都大学、国公立大学医学部医学科」というのが明記されている。関東圏の人であればだいたい納得するしかないラインナップではあるが、塾とか予備校でもここまで特定の大学名を出さないのではないかと思うようなターゲットの絞りっぷりである。
「お金持ちの家に生まれなくても、努力すれば名門校に進学でき、将来有望な職業に就くことができる」という意味では素晴らしい制度だと思う。が、比較的緩い制度の時代に都立高校生として青春を送った身からするとちょっとえげつないなぁ…という気もするのである。
同じく地方出身者はなんとなくわかると思うんだが、高校は「地元では自慢できる」レベルのとこに通っていた。
県下一、というわけでもないけど、地元で一目置かれるようなそんなところ。東大進学者を毎年1名出したり出さなかったりするような。
自分はというと文化系と運動系の狭間みたいな部活にがっつりのめり込みつつ、子供の頃から親の影響で続けていたとある楽器と寺社仏閣が好きな、自他ともに認める「変わった子」であった。学力でいえば中学までは特に勉強しなくてもまあまあいい成績が取れる、中途半端に器用な子だった。
親は勉強については大してうるさくなかったが(むしろ楽器の練習をしない方が厳しく怒られたし、数学で10/100点をマークしようが音楽の成績が満点じゃない方が嫌な顔をされた)、お金には厳しく、「大学は国公立しか許さない」と宣言されており、真に受けた私は私立のすべり止めも一切受けなかった。だが高校3年間を部活に捧げた、数学のテストで毎回赤点叩き出すような人間にそのルートは厳しかった。見事に滑りおち、進学先を失った。進学校に通っておきながらこの体たらく。
これから1年浪人するしかない、と思ってふさぎ込んでいたが、そこで偶然にも某専門学校の「大学編入コース」なるものを知る。専門に2年通った後、大学へ3年次編入するというコースだ。ははぁ、よくできてるなあ、と思いながらも学校の担任と両親に相談し、その専門学校へ進むこととなった。
正直入試はあってないようなものなので割愛する。学力レベルからペーパーテストは免除され、英語面接だけだった。まあまあ緊張したが絶対うかると半ば解っていたので強気でいった。ちなみに高校時代苦手にしていた教科は数学と英語だ。瞬間的な暗記力となんとなくで世界史及び国語で高得点を叩き出す完全なる文系である。妙にコアな知識を植え付けてくれたラノベや推理小説たちとヘタリアには今も感謝してる。日本史は文化史だけ異様にできた。
身バレが怖いので色々伏せるが、駅チカでこぎれいなビルがキャンパスだった。キャンパスと言っていいのか?
専門学校内での大きな学科のくくりとしては「英語学科」に属することになり、その中で「英語を使った仕事に就きたい人のコース(翻訳・通訳など)」と「海外の大学に行きたい人のコース」、あと「大学編入したい人のコース」に分かれる。
なんで大学編入が英語学科に属するかというと、ほとんどの大学の編入試験の科目が「英語」「小論文」「面接」のみだからである。(学科によっては専門科目の試験がある場合もある)
授業は9割は英語の授業だった。ネイティブ講師も日本人講師もいたが、とにかく英語。リーディング・リスニング・ライティング・スピーキングの授業がそれぞれあり、それ以外に大学編入のための英語試験対策授業がある。少人数にこだわってて、基本の4つの授業はそれぞれTOEICや学内試験の結果から5段階にレベル分けされていた。私は入学時のペーパーテスト免除、しかも学費も一部免除の特待生扱いで入学したので、「は~やっぱこの程度か専門」とか思っていたが、最初のTOEICテストで300点台叩き出して5レベルあるクラスの下から2番目に入れられる。「出身校」の学力が高かっただけで「私」の学力はクソだった。ただ真面目に授業を受けていればクラスはすぐに上にあがり、最後は一番上のクラスに所属していた。この基本の4つの授業は大学編入以外のコースの人もいた。
残りの1割は資格の授業(英検、ワー検、秘書検、漢検など好きなものを選択できる)の他、第二外国語、小論文対策、PC(というかOffice)など……まあ大学1年生の一般教養と似たような感じだろうか。選択で教養の授業もあったが種類は2,3種類しかない。しかも大して面白くない。
大学1年生と違うのは、自分で授業を選ぶ幅がとても狭いところ。というのも学年によってどの授業を受けるか、カリキュラムが既に綿密に組まれており、「朝ゆっくりしたいから1コマなくそ~」というのは全くできない。選択授業も「とってもとらなくてもいいよ」ではなく「この中からどれか選べ」という選択。なので学期はじめにコースの人間全員集められてHRみたいなことをして、時間割を配られたりしていた。
【学生】
上記の通り様々なコースの人間が入り混じって授業を受けていたので、通っている人は本当にいろんな人がいた。アンタこんなしょぼい専門いていいの!?っていうような頭のいい人から、クソほど簡単なテストを「難しくてヤバかった~」という人まで、本当に様々。Lv.2→Lv.5まで駆け上がるといろんな人と話した。超絶パリピ野郎もいたし、内気で根暗で今にも引きこもりになりそうな人もいた。
同じ大学編入を目指すコースの中だと、まあまあ頭いいけど大学入試では一歩及ばなかった、みたいな人がほとんど。大体がプライド高くてそれを一度へし折られてしまった人、という印象。(私もだけどさ)すべり止めの私大に受かってたけど行きたくなくてこっちを選んだ、という人もいるにはいた。あとは行ってた大学が嫌になってやめて再チャレンジしたいとか……。比較的頭のいい人は多かったけど、それでもやっぱ学力でいうと「まあまあできる」か「いまいちできない」のどちらかだった気がする。コース内で一緒に行動していた友達は国公立に受かっていった人から最後の最後どうにか推薦で滑り込めた人までいた。
コースの人間の数は結構多かった。高校の一クラスくらい……?もっと少ないと思って入学したので意外だった。やっぱり学力レベルでつるむグループが分かれる。男女比は男子の方が圧倒的に多かった。3分の2くらい。でも学年全体で見ると女子の方が多かった気がする。
あと意外といろんな地方から集まってた。やっぱり学校周辺の人が多いのだけど、隣県や新幹線で帰省するくらい離れている土地から来る人もいた。私はかろうじて同じ県ではあるが学校までは通学に2時間かけていて、隣県出身で学校近くに一人暮らししている友達がうらやましかった。
【学費】
高い。私大に2年行くとのかわらん。でも高校時代まあまあ成績取れてたら学費免除は簡単に取れる。(模試の点数とかセンターの点数を基準に学費免除とかしてくれる学校もあると聞く)
本来国公立にしか行かせてくれなかったはずの両親があっさり行かせてくれたので、絶対に学費を無駄にすまいと2年間は真面目に必死に授業や資格取得に打ち込んだ。その後まあまあ就活に有利そうな資格とかちょいちょい取れたので、短大とか他の私大行って仮面浪人するよかよかったなあ、と思った。けどその辺って結局当人の努力次第なので、学校の授業の時間を使って資格取得や受験対策に打ち込める環境にお金払ったと思っている。払ってくれたのは親だが。でも無利子の奨学金も2年次から勝ち取って少し貢献できた。と思いたい。今返済しんどいけど。
1年間みっちり英語を叩き込まれたあと、2年生からいよいよ編入試験が始まる。
3年次編入試験は多くの大学がやっているが、大学によって受けられる条件は様々。私が行きたかった大学は他の4大からの受入のみで、専門卒は受け付けていなかったので諦めた。(でもそういう学校の方が少ない印象)
編入試験の日程は学校によってかなりばらつきがある。早いところだと6月くらいで、遅いところだと2月くらい?私は全部で3つ受けたが、ひとつは8月で、残りのふたつは12月だった。やっぱ秋~冬にかけてが多い。
面接の練習なども授業でしながら、それぞれの試験日に向けて準備を重ねていく。8月に試験を受けたところが第一志望にして最難関の大学だったが、ものの見事に落ちてしまい、泣きながらそのあと友人らとカラオケに行った思い出がある。編入試験は受験科目が少ない分やりやすいと言われるが、その門はかなり狭く、私が受けたところも倍率は5~10倍くらい(だったと思う、もう記憶があいまい)最終的に編入浪人の道を選ぶ人もいる。専門→大学編入のいいところは浪人などの1年のロスを出さずに大学を卒業できる所だが、結局編入試験の壁が高くて編入浪人したりレベルを落としてD~Fラン大学に入ったりと、メリットが活きないことも多い。でも努力してそれが実ればいい大学に入れるのも事実なので、そこは編入にチャレンジする人次第なのかな……とも思う。専門入って遊んでしまった人たちは上位クラスの人でも結局ランクの低い私大に行った人が多く、しっかり努力し続けていた人は国公立や偏差値高い私大に進んでいった。英検1級取得したり、TOEICでマックススコア出した人もいる。
あとTOEICのスコアで試験免除がある学校とかあって、TOEICマジもっと気合入れてやればよかったな、と思った。試験免除にならなくても入学後の単位に換算してもらえたりした。
英語はもうとにかく授業をガンガンうけてガンガン問題解くだけ。喋る・聞くは捨てて、ひたすら読むにステータスを振り続けていた。(書くは申し訳程度にやった)9時半から15時まで授業を受けた後、18時まで学校に残り友達と多少ぐだりながらも勉強(というか課題)、家に帰ってからも英語の長文読解とひたすら向かい合う日々。
小論文は書き方の作法を徹底的に叩き込まれ、あとは個人の文章センスや知識量がモノをいう感じだった。国語と世界史、そしてラノベから影響を受けた文化史系に強かった私には最高の科目だった。
編入試験の過去問も一応あって、見せてもらうためにその大学に足を運んだこともある。(コピーはさせてもらえないので、目で見て出題傾向を把握するのが精一杯だが)あと学校で過去問を回収して過去問集みたいなのを作っていたので、行きたい学校が人気校ならそんなことしなくてもコピーできたりした。英語試験はどの学校も長文読解系が多く、TOEICをそこそこにして英検受けまくっていた自分にはありがたかった。
面接指導は就活とほぼ一緒、だと思う。なんでこの大学に行きたいのかをはっきりさせろ!と言われ続け、「御校に在籍の〇〇先生の研究室で●●について研究したいです!!理由としては!!」みたいな答えをガチガチに固めていった。これはのちの就活に活きたと思う。
【試験】
どの大学も小論文は楽勝だった。8月に受けたところは英語で予想外の作文が出て動揺し、読解問題では時間が足らず、涙を呑んで不合格を覚悟した。翌日即結果発表だったが、当然私の受験番号はなかった。
第二志望の大学の前に第三志望の国公立を受けにいったが、家から遠く深夜バスでの移動となった。しかもバスからまた電車で移動するが乗換をミスり試験に遅刻。席に着くために荷物を通路に置いたら試験管に怒られ、萎縮しながら受験したが英語は予想できたレベルでむしろ楽しかった。1週間後には結果が開示され、無事合格。
そして満を持しての第二志望。同じ学校から他にも2名受けることになっており、一緒に移動。英語試験はやや苦戦した覚えがあるが、それよりも面接がしんどかった。大学に、特にその学校に入りたい理由を述べ(行きたい研究室があるでゴリ押しした)、なぜそれに興味を抱くに至ったかなどを話したが、とにかく緊張して噛みまくり、面接官に不審な顔をされ落ちたと悟った。しかしその試験当日、夜から私の受験期を中学から支えてくれた某バンドのライブがあり、普通に間に合わなさそうだったので走って会場を後にした。ライブはギリギリ間に合った。そして入試も無事にパスできていた。
進学先が二つ用意されたわけだが、もちろん第二志望を選択。一応国立大なのと、高校時代から学びたいと思っていた専攻があったのが決め手だった。思う存分研究に打ち込めたと思う。嘘。2年では足りない。もっとやりたかった。でも取りたかった単位や聞きたかった講義はほぼコンプできた。
上記でも少し触れたが、入学時に専門学校の授業の単位を大学の単位へ変換してもらえるため、本来4年で取る卒業単位を2年間で全部とれ、ということにはならなかった。特に私は人文学系だったので、変換がスムーズにいったというのがある。法律や経済系の学科は専門科目の変換が難しく、卒業単位を取れなくて留年した人が多かった。(と後に聞いた)
1年大学ライフを満喫したのちすぐ就活なのはきつかったが、興味のあったサークルにも在籍し2年間最初から最後まで活動できた。でもいくら単位変換してもらったとはいえ他の3年生に比べると圧倒的に単位は足りてない(その上私は卒業単位にならない資格系の講義も取っていた)ので、ほぼ毎日1~4コマ、そのあとサークル!バイト!みたいな生活をしていたし、就活の時期は本当にしんどかった。英語の資格(TOEICスコア700前後と英検準1級)と進級のために取らざるを得なかった数々の英語以外の資格、そしてあの日の面接対策と小論文対策が活きたのだろう……と思うと私はこのルートをたどってきてよかった。他の短大や4大出身の編入生は就活で軒並み苦労していた。でも専門より大学の方が圧倒的に楽しかったです。普通に1年生から大学入りたかった。
大学編入後で一番しんどかったのは、3年生でありながら1年生に交じって体育やらされたことかなあ。
色々書いたけどあくまで文系の話です。理系の編入はもっと大変と聞くし、そもそも専門→理系学部編入というルートが恐らくない。
東大や京大に比べたら底辺もいいとこだけど、こういう抜け道もあるよっていう話をしたくて。でも根っからの文系だった私だからこそうまくいった裏ルートみたいな感じではあるんだけどさ……。うまくいかなくってせっかく編入した大学やめて引きこもりになってしまった知り合いもいるし、正直この専門→大学編入というルートを誰にでもお勧めできるかというとそうでもないけれど。
あと社会人なってから編入で大学入って、教員免許だけ取って中退した編入生の知り合いもいる。社会人なってから大学で学びたいという人で4年は長いという人にもいいんじゃないかな。あと大学とりあえず入ったけどつまんなくて他の学科行きたいとか他の環境行きたいって人。
私は本当は大学院に進みたかったのだけど、やっぱり学費の関係で諦めて就職した。研究してた分野とも全然違う仕事をしているけれど、趣味としてまだその分野についての情報収集や勉強は続けている。なお英語をかなり使う仕事だし専門時代に取った資格もそれなりに活かせてはいるので業務内容には満足している。
いよいよセンターが近づいてきて、不安な受験生たくさんいると思うけど、どうかここだけが人生の決め手とは思わずに気楽に頑張ってほしい。案外人生どうにかなることの方が多い。
面白そうなので私も書いてみようか。東日本の公立学校卒→東大理Ⅰのケース。
・家庭環境
電車は通っている、程度の田舎町。父は高校教諭、母は学校の事務員、同居する伯母は小学校教師。そういう家庭だから学業に対する意識は高かった。
田舎町なので私立小中学校などというものはなく、受験は高校から。
小学校入学前からそれなりに頭は良かった記憶がある。特に算数が得意で、数の理解も早かった。
両親が共働きなので、朝保育所に預けられて、放課後は母の知人が預かってくれていた。この養母のような方には今でも感謝している。
・小学校
選択肢も何もなく近所の市立小学校へ入学。国語算数理科社会はまあオール5。伯母の影響で音楽の成績も良好。体育は3。典型的な頭でっかちで、いじめられっ子になるという定番コース。大人になってから「ごく軽度のADHDだったのでは?」と言われたことがある。
うちの小学校には、4年生になったら全員部活に入ること、という不文律があった。男子はソフトボールかサッカー、女子はミニバスケットボールか合唱、しか選択肢がない。4・5年生の間はなんとか回避していたが、6年生では避けきれずサッカー部に入部。運動が得意じゃなくコミュ障な上に「6年生なのに新入部員」で、部のしきたりも知らずあからさまに浮いていた。今から思えば入るもんじゃなかった、のだが、そういう「自分には向かない世界」を早く知ることができたとも言える。
自宅近くにそろばん塾があったので、小1の時に親の勧めで入塾。かなりさくさくと習熟して、市内の競技会(というものが当時あった)では上位の常連だった。但し、それなりに上達してくると飽きる悪癖があり、塾も徐々にさぼりがちに。小6で辞めた。お山の大将になるのはそれなりに簡単でも、世の中にはもっと上の人がいる、ということを子供心に知らされる。
運動が苦手なことを懸念した父により、同僚が運営に携わっている剣道の同好会へ入門させられる。中3までの間、道場には週2回真面目に通ったが、練習は不真面目で大して上達もせず。
・中学校
選択肢も(ry)市立中学校へ。成績は相変わらず。部活動のバリエーションは増えたが結局のところほぼ全部運動部で、剣道部に入って万年補欠。帰りに学校近くの駄菓子屋でゲームやって帰ってくる生活。
英語塾に行った他には学習塾の類は行かず、自宅での勉強のみ。この頃までは「学校で課された科目」だけ順調にこなしていたと思う。
高校はいわゆる進学校しか考えてなかった。地方の常で、歴史ある県立高校が偏差値的な意味でトップ、私立はすべり止め扱い。模試では毎回トップ争い。
受験はすべり止め無しで本番一発。直前に風邪を引いて親は心配していたが、合格圏内には入った。
・高校
進学校なので、近隣中学校の成績上位クラスが集まってくるため、何でもありな小中学校とはかなり雰囲気が変わる。校風はリベラルで、校長先生もその校風に沿ったユニークな方だった。
部活動は管弦楽部に入部。やっと運動部の呪縛から解き放たれる。管楽器は中学校のブラスバンド経験者が占めているため、素人は必然的に弦楽器担当。ヴァイオリンを弾くことになった。相変わらず不真面目に練習して、東大でもオケに4年間在籍したがその後はぱったり。
2年生で文系・理系のコース分け。私は理系クラスへ。成績は高校でも順調だったが、伸び悩みも出始める。そんな頃に、部活の1学年上の先輩からの勧めでZ会に入会。当時の地方在住高校生で、難関大志望の人は大半が入会していたと思う。教科書レベルを超えた難問・良問で鍛えられた。おかげで授業中は講義はスルー、ひたすら問題集を解くことに集中。部活後に家へ帰って夕飯を食べたら深夜までZ会に取り組む生活が続いた。
科目としては数学と化学は得意で、トータルでは学年トップクラスだったが、物理が苦手で平均点+α程度。これはまずい、と対策…した筈なんだが具体的な中身を思い出せない。結局教科書に沿って、一番最初の力学から復習したんだっけかな? 3年生になる頃までには苦手意識も解消。
中学生の頃からパソコンで遊んでいたので、大学は最初は東工大第5類を考えていたが、周囲からの「行けるなら上行っとけ」というプッシュで東大理Ⅰを目指すことにした。Z会にも東大コースがあるのでそちらを開始。模試は毎回A判定なので、これならいけるかなと。
センター試験の自己採点は720点ぐらいで、足切りはクリアできただろうと。当時の東大入試は、1次と2次の成績が1:4の比で加算されるので、ぶっちゃけ1次は足切りさえクリアできればオーケー、レベル。(理Ⅲは知らん)
2次試験は、前期は東大理Ⅰ、後期は東大理Ⅰの出題形式がちょっと特殊なので、トラディショナルな形式の京大工学部を受験することにした。大学受験も私立すべり止め無しの舐めプ。
初日に、得意な筈の数学で大問6問中1.5問しか解けず「これはやべぇ」と焦る。理Ⅰの合格ラインは2.5〜3問。残りの化学・物理・英語で取り返すしかないので、宿に戻って総復習。幸い2日目は好調で普段よりよく出来た感触。かつて苦手だった物理もきっちり得点源にした。
結果、現役で一発合格。
・その後
地方のお山の大将は、東大生の一部であるスーパーマンを見て我が身の程を知るわけで。いろいろあってどうにか卒業、就職してエンジニアやってます。
正月になるとテレビで高校サッカーや大学駅伝などを放送し、母校の活躍に声援を送る様子がSNSなどでよく見られるが、私にはどうしてもそんなことはできない。
私は地元ではそこそこの進学校を卒業してそこそこの大学を卒業した。
ただそれだけだ。
とりあえず仕事はしているが、覚えも要領も悪い。高校、大学の同級生と比べると、仕事の内容や収入面で明らかに見劣りしてしまう。
某サイトで同年代同県内男子の収入の中央値を調べたことがあるが、遠く及ばなかった。母校出身者同士で比較したら目も当てられないだろう。
そして私はもうじき40になるというのに独身のままだ。良い縁を見つけようと試行錯誤は続いているものの空振りばかりだ。
こんな私が母校の名にすがりついて声援を送るだなんて、どうしてそんな情けないことができるだろうか?
ここのところ、東大とか京大を受験して合格した人々の投稿が続いているけど、それが何年前の話なのかはおいといて、細かく模試の成績とかを覚えていることに感心する。私は大学を出て就職してから25年以上も経っているので、あまり細かいことは覚えていなくても仕方ないと思っているけど、勉強が出来る人、努力家の人というのはそのへんからして違うのかも知れない。
私はそこそこ進学校で有名な公立高校に通っていたわりには、受験勉強にあまり熱意がなく、浪人覚悟で東大一本とか早稲田一本とかやってるクラスメートを横目に何とかMARCHのとある学部に滑り込み、自分より成績のいい友人に「合格おめでとう」と言わせた記憶だけが残っている。確か彼女は私が入った大学の中で一番偏差値の高いところを滑り止め(!)にしており、第一希望の国立大学に落ちたという理由で一年浪人した後、東大に合格した。
そういう人たちを見ていてすごいなと思うのは、とにかく努力家であること。そして努力を続ける根性があること。私はあまり受験勉強に熱心でなかったので、私大文系にすれば数学と理科を受験しなくていいからと理系の勉強をほとんどスルーし、保険のために第一希望と同レベルの大学や学部を何校も受けるようなことはせず、確実に受かりそうな大学しか受験しなかった。今思えば早慶ぐらい受験しておけば良かったかも知れないけど、うっかり合格してしまって大学生活で勉強について行くのに苦労したり希望の専攻に行けなかったりするとイヤなので受験料をムダにするようなことはしなかった。
だいたいよほどのエリートコースを目指さない限りMARCHぐらいの大学を出ていれば困らないと思っていたし、実際バブル崩壊直前に就職活動をした我々はそこそこ名の通った企業に入社する連中が多かった。飛び抜けて成績優秀な先輩や後輩はキャリア組官僚になったり司法試験に受かったりしたが、さすがにそれは一握りのエリート限定でまぁそれが妥当な結果だろうと思える状況だった。
で、無事就職するところまで行ったはいいが、自分の欠点として反省しているのは「(勉強でも仕事でも)ほどほどに足切りされない程度にやればいい」「完璧を目指して自滅するのはバカ」という認識がしみついてしまったこと。だいたい職場で優秀だと見なされる人間は、「結果を出すためにベストを尽くす」ことを旨とし、仕事のために自分の時間を犠牲にすることを厭わなかった。でも、優秀だと思われると激務ポストでいいようにこき使われ、嵐のような残業に耐えるわりにはさほど見返りがないので、全然そういう人々を羨ましいと思えなかった。
さらに私のやる気を失わせたのは、2~3年ごとに人事異動があり、異動のたびに前の職場で覚えた仕事がムダになることだった。結構専門的な仕事であってもきちんと研修が行われることは少なく、一所懸命勉強しても異動すればそれがパーになると思うと、自分は必要最低限の仕事だけこなして極力定時で帰れる職場こそ最高だとしか思えなくなった。当然そんなヤツが上司にいい評価をもらえるはずはなかったけど、まっとうに出勤して最小限の仕事をしている限り、上司も私の給料を減らすようなことはできないのだった。逆に優秀だと評価されている人間でも、多少給料に色が付く程度で、むしろ収入の差は自分の時間を犠牲にすることによって得られる残業手当によるところが多かった。
一番つぶしが効くのは、新人の女の子がよくやらされる「庶務担」というやつで、旅費や残業手当の計算をし、年末調整の時期が来れば書類を皆に配って書き方や必要書類の指導をする仕事だった。一緒に福利厚生や社会保険関係の手続きもする。あとは経理系の仕事で、予算の執行状況を見ながら消耗品を買ったり業者に支払いをしたりする仕事だ。私は今、勤続25年を超えてそんな仕事をしている。我ながら給料ドロボーな気がしなくもないが、どうしても仕事を生活費を得るための手段としか思えないのでどうにもならない。仕事自体にモチベーションを見いだせる人、「ベストを尽くそう」と頑張れる人がちょっとだけ羨ましい。
自分でも何が言いたいのか分からなくなってしまったけど、「仕事でも勉強でもモチベーションを持って努力し続けられる人は偉い」「家庭の事情などが許す限り、勉強(スポーツなどでも可)はやれるところまで努力した方がいい」というのがまぁ結論なのかな。ただ、仕事に関しては「優秀な人に仕事は集中する」「頑張り屋だと思われるとどんどん重荷を背負わされる」というのが鉄則なので、自分の会社で過労自殺とかが出るようなところに勤務している人は無理しすぎない方がいいと思う。長文なのに大した結論じゃなくてごめんなさい。
https://anond.hatelabo.jp/20190102063518
読んだらわたしも書きたくなったので書く。もう10年以上前の話ではある。
元増田と違い中学受験や私立とは無縁で、片田舎の公立中学、公立高校を卒業して京大に入学した。
勉強なんてほとんどしてなかったけど、テストでは常に学年トップで完全にお山の大将だった。
一方で家庭環境的にいろいろあった時期でもあり、また自分自身もいろいろ拗らしてた時期でもあったので、私立組やいわゆる英才教育を受けている人たちへの異常なコンプレックスがあった。塾なんかに頼るやつは元々馬鹿、私立高に通って高いお金出さないと勉強できないやつに勉強する意味はない、などと誰彼構わず吹聴していた。今思っても最悪の性格だった。
将来の展望なんてこれっぽっちも見えてなかった。大卒の大人は周りに全然いなかったし、もちろん官僚なんて言葉も知らない。そんな中、ある日法事だかお盆だか正月だかで叔父に当たる人と久しぶりに会った。聞くと某地方総合大学の工学部を卒業し、自動車系メーカで開発をしているとのこと。元々機械は好きだったので、その仕事をすごくかっこいいと思った。そしてそれ以上に、その人の身なりや車(といっても今で言うアルファードみたいな上位国産車)、余裕、羽振りの良さなど、あらゆるところに今まで自分の周りになかった、ハイクラスな何かを感じ、衝撃を受けた。今思えば(叔父には悪いが)お金持ちのモデルとしてはずいぶん控えめではあるが、それでもこの衝撃は大きかった。自分の目の前に一つの道が示されたような気がした。
そんな自分に両親はとても優しかった。自分の選択や意見をいつも全力で肯定し続けてくれた。今思えば自分の可能性を広げるための最大限の配慮をしてくれていたのだろう。
結局地元で2番目ぐらいの公立高校に行った。理由はいろいろあるが、自転車で通えるというのは大きかった。自宅からの公共交通機関のアクセスが最悪だったからである。
この高校は一応進学校とは銘打っているものの、毎年東大はゼロ、京大が1人いるかいないか、旧帝大に数人、といった感じだった。相変わらず高校でもお山の大将だったが、高校は全国模試があるので自動的に全国の高校生と比較される。片田舎の小さな小さなサル山で大将を気取っていた少年はここで初めて現実を知る。
1年生の夏、家族で京都に旅行に行った。古い街並みと近代的な景観が融合するこの街を、わたしはすぐに好きになった。さらに、この旅行の行程には京都大学観光が組み込まれていた。今思えば、両親がわたしのやる気を引き出すために連れて行ってくれたのかもしれない。ともあれ、権威のシンボルである時計台、自由を象徴する立て看板、鴨川と百万遍の街並み、どれもが自分の心を強く打った。
本気でそう思った。
そこから勉強を始めた。あんなに嫌いだった塾にも結局行った。恥を忍んで塾に行きたいと親に言ったときも、やはり親は快諾してくれた。塾は大手予備校講師のOBが地方でやっている個人塾だった。英語と数学を教えてもらっていたが、ここの先生方には現在に至るまでお世話になっている。勉強だけでなく、自分の見識を大いに広めてくれた恩人であり、今でも頭が上がらない。
高2の終わりぐらいまでは漫然と過ごした。学校の授業は地方国立やMARCH、関関同立といったところをターゲットにした内容であり、物足りなく思うことは頻繁にあった。しかし学校の授業でつまずいているようでは京大もクソもない、という信条があったため、まずは学校の授業で習った部分は確実に押さえることを一番に考えた。
高3になると全国模試のランキングに浪人生が入るので、順位や判定が一気に下がって焦った。先生方は「最初は下がるけと徐々に追いついてくる」と言っていたが、秋になっても成績は伸びずにただただ焦った。自分の立てたスケジュール通りにまったく勉強が進捗していないこともあり、更に焦った。焦りすぎてメンタルが不安定になり、何度も勉強中に発狂した。振り回したシャーペンは何本も折れた。親には意味不明な理由で八つ当たりを繰り返した。親はすべて受け止めてくれた。
高3の大晦日の夜、いつもどおり家の机で勉強していたのだが、うっかりそのまま寝てしまい、気づいたら新年を迎えていた。あまりの不甲斐なさに一人で泣いたのをよく覚えている。
受験勉強はチーム戦、という言葉がある。上でも書いたとおり、自分のいた高校は難関校の受験生が少ない。しかし逆にその分、似たような境遇の我々には妙に強い結束感があった。別に机を並べて一緒に勉強したりするわけではないが、模試の結果や参考書の話、志望校の話などをとりとめもなく話せる人が周りにいるというのはとても心強かった。模試の判定を見て落ち込んでいるときや不安でやる気を失いかけているときに鼓舞してくれたのは彼らであった。結果は人それぞれだったが、今でも年に一度は集まる良き友人たちだ。
【試験】
京大工学部はセンター試験の点数配分が恐ろしく低いので、気軽に受けた。特に数学は足切りラインを除くと全く評価されないのでろくに対策もせず、1A2Bともに85点程度だった。ただ周りの友人が満点を連発していたので妙な焦りだけが生まれた。
私立は早稲田と慶応を受けた。どちらも全く行きたいと思っていなかったが、練習だと思って受けた。初めての一人東京だったので異常に浮かれた。慶応の試験前日、下見ついでに少し街を散策したが、これがよくなかった。壮大に風邪を引いた。熱で全く頭が回らず、とうとう英語の試験の途中で医務室に運ばれた。医務室でひたすら泣いた。
京大2次試験の当日、出発前にわたしは親を呼び、これまで支えてくれたことへの感謝を伝えた。いろんな人に支えられてここまで来た。特に親の気苦労とサポートは計り知れない。そのことをどうしても当日伝えたかった。わたしも親も泣いてわけがわからんことになった。
当日は自分でも驚くほど冷静に試験に取り組めた。数学の試験は試験官に手紙を書いているような気持ちで答案を作成した。結果的に完答できた問題はなかったのだけれども。
ところで、新年を迎えたころから自分の中のルールとして「前期試験不合格を連想させるようなことは一切口に出さないし、心にも思わない」というものを設定した。「浪人したら…」「後期試験の対策は…」といったことを考えることも禁止した。発言の自由はおろか思想の自由まで侵害するという、今思えばドン引きするルールだ。バックアップを想定することは合理的であるが、その発想自体が心を弱くする、という根性論だった。今の自分は根性論が大嫌いだけど、ともかくその時はそれが最善だと思っていた。自分なりに必死だったんだろう。
合格発表の掲示開始時間には10分ほど遅れて到着した。すでに合否の熱狂から一段落しているところで到着した形だった。手足が震えていた。すがるような気持ちで掲示板を見た。番号があったので、また泣いてしまった。声を上げて泣いた。今までずっと無理をしてきて、辛かったんだということをその時理解した。その様子を見たアメフト部の人たちに囲まれて、胴上げされた。
【その後】
入ってから色々あったがここでは割愛する。卒業してからは某メーカで開発職をやっている。結局件の叔父と同じような道を選んだことになる。しんどいこともたくさんあるが、機械が好きなのでなんだかんだ向いていると思っている。
【さいごに】
一番お世話になった参考書の一つにチャート式があるが、この巻頭に記載されている「汗をかけ」という文章がわたしは世界で一番好きだ。短い詩なのでぜひ全文読んでほしい。
http://www.chart.co.jp/corp/00epitome/01what/asewokake/asewokake.html
「確実な道」を行く者は、「近道」を行く者よりも、汗をかかなくてはならないだろう。だが、その汗は、絶対に無駄にはらなない。君が、将来“かっこいい大人”“素敵な大人”になれるかどうか――それは、10代の時どれだけ「汗」をかいたかで決まるから。
恋でもいい。グラウンドの上でもいい。
そして、エンピツを握ってでもいい。
フィールドは何であれ、思い切り「汗」をかく人であってほしい。
元増田にもあったが、受験はその構造上どうしても他者との競争の構図ができがちだ。しかし自分自身の弱いところや意地悪なところや卑怯なところと徹底的に見つめ合い、自分の力で一歩一歩進むことに最大の意義がある。
すべての人に受験勉強というプロセスが必要とは思わない。ただ、受験勉強を通して得られるものは決して少なくなく、ただの公式・知識暗記ゲームにとどまらない、自分にとって大切なことを教わる大変よい機会だった。大学ではすっかり落ちこぼれ学生だったが、多種多様の人たちに出会い、自分の見識を常に広げ続けさせてくれた京都大学には本当に感謝している。
【中学受験】
動機は3つ。小学校で好きだった子や友人と張り合うため。先生に勧められたため。行きたい学校を見つけたため。
小学校は東京郊外の私立に通った。いわゆる東京の私立というイメージとは遠く、付属中学もなく田園の教育という方針を実践しているのんびりとした学校だった。学年に男女合わせて30人ちょっとしかおらず、当然クラスもひとつしかなかった。
私は四年生の時に親の母校であるその私立へと転校した。学校では何もしなくても成績が良かった。テストはいつも早く終わり、ほぼ満点しか取らなかった。いつもトップを争う子がおり、私はいつしかその子に好意を寄せるようになった。その子とは度々一緒に学級委員に選出されて囃されたが、実際悪い気はしなかった。
五年生になって周囲が塾という習い事のため足早に帰ることに気づいた私は、特に深く考えもせず受験がしたいと親に申告した。担任の先生と相談すると、可能性を広げる良いチャンスなので多いに推奨すると言われた。この時の先生の一言だけで私は世界が広がった気がした。
学校をいろいろ見学した結果、最後に訪れた御三家の一角を目指すことになった。門を叩くまで母は恐れ多いと躊躇していたが、行ってみると風通しが良く自由な校風で私は一発で気に入った。ここしかないと強く思った。
好きになった子とは家族ぐるみの付き合いがあり、テーマパークへ行ったり共学を一緒に見学したりした。同じ学校で無敵の青春時代を過ごす妄想が捗ったが、世間的に知名度の高かった共学も思ったほど私には語りかけてこなかった。試験日程も遅かったので、お互いそれぞれの御三家が第一志望となった。
塾は近所の個人塾に通った。寺子屋みたいな雰囲気で、先生は塾長と奥さんの2人、生徒は4人、そして授業中は正座だった。私だけ必要な科目数が多かったので、マンツーマンで教わる時間も多かった。回答を間違えると「バカチン」と先生はよく言った。指導は厳しかったが、頻繁に飴を配ったり可愛がってくれた。
塾は行ったら行ったで面白いし好きではあったのだが、束縛に耐えられなかったのか、私はよく直前にお腹を壊したり、自転車で行くふりをしてバックレたりした。もちろんすぐバレた。何度もやめてもいいよと親に諭されたが、そう言われると余計に引けなかった。何より勉強は楽しかった。自宅で勉強と称して漫画を読むのも楽しかった。
大手の塾には模試と講習だけ行ったが、普段の学校や塾とはまるで異質な空気に圧倒された。何点取ったらゲームもらえるとか、模試で何位だったからお小遣い増えたとか、そんな会話が横行しできない奴は容赦なくバカにされた。私は萎縮してしまい、模試や講習では御三家を狙うにはギリギリの偏差値をいつも取っていた。
そんなこんなで中学受験。第一志望の受験日は2月1日。受験番号は402。母が「フォーチュンだね」と言ったので覚えている。大手塾特進クラスの連中はまるで家にいるみたいに寛いでいた。田んぼの学校に通いちっぽけな寺子屋からひとり送り出された私は、担任や塾長の言葉を思い出しつつ、昼休みに母の作った弁当を噛みしめた。
手ごたえはあった。得意科目は算数だったが、特に国語ができた気がした。第二志望以降も受けたはずだが、第一志望で力を使い果たしておりほとんど記憶がない。2月3日に結果が出るとその後はもう受けなかった。サクラサク。
【大学受験】
東大を受験することにした。理由は、別の進路を断念したため、学費が安かったため、そして周囲のほとんどが目指していたため。
はじめは芸大の先端芸術表現科というところに行きたかった。アートを学び実践したかったのだ。しかし、東大からでも道はあるという説得と、受験対策のための出費がかさむという理由で断念した。今思えば金をかけずに挑む方法を模索して食い下がればよかったが、当時は思い至らず折れてしまった。
私が中学の頃に父は長年勤めた会社を早期退職したが、その後仕事が奮わず家計は火の車となった。学費と生活費の捻出に家族があくせくする状況の中、私だけ美大受験の意志を押し通すことはどうしてもできなかった。大学受験は塾に通わず授業と自習で挑むことになった。
幸い有数の進学校には通っていたので、目標を東大に変えることは自分の置かれた環境を最大限活かすことにもなった。上位25%が東大に進学する学校で私は時折圏内に食い込む程度の成績だったので、そう遠くない目標に思えた。
ところが、目指し始めた頃には届きそうに思えた赤門も、時間が経つにつれ遠のいていった。ハイレベルな塾に通う周りからは目に見えて離され始め、模試の判定も振るわなかった。いくら寝ていても自習をすると眠くなり、分からないところがあっても差を感じると素直に質問できなくなった。焦るほどに時間だけが過ぎていった。
願書を出す段になると、父と腰を落ち着けて話した。弱気になった私とは裏腹に、父は自信に満ちていた。「滑り止めに金は出さない。行きたいところだけ受ければいい」と父は言った。それもそうかと妙に納得し、私は東大のみを受験することにした。東大一本なら正直落ちてもカッコつくと思った自分がいたのは事実である。
余談だが、父は学生紛争で東大受験がなくなった年に受験生だった。成績優秀で東大を目指していた父はその年第一志望に挑戦することすら叶わず第二志望へと進学した。私はその話を本人からではなく母から聞いた。複雑に絡み合った様々な思いを背負って私は試験に臨んだ。
結果はボロボロだった。足切りこそされなかったものの、センター試験は合格者平均を大きく下回っていた。二次試験の数学に至っては頭も回答用紙も真っ白だった。案の定、私は東大に落ちた。
【大学受験2】
東大に落ちて私は忸怩たる思いでいっぱいだった。自分が周りに一目置かれたいがためにいたずらに東大を目指した気がした。東大しか受けずに落ちたと言うと、周囲はその勇気を讃え不運を嘆いた。だが私が一番良く知っていた。それは勇気ではなくただの処世術で、不運ではなく純然たる力不足だった。
私が卑屈にも自分と比べていた仲間たちは一足先に合格をその手で掴み大学生となってしまった。毎日通っていた高校も卒業してしまった。私はからっぽになった。現役受験が終わってから、これは他人との競争などではなく自分との戦いなんだとやっと気付いた。
就職か浪人かという選択肢を前に、働くと言いかけた私に親は浪人を勧めた。もったいないから、という言葉に私は到底納得できなかったが、ある種自分を見直す時間だと捉え受け入れた。親に頭を下げ予備校に通った。
浪人の前半期はくすぶっていた。授業は新鮮で楽しめたが、予習復習には身が入らなかった。借りた小説を読み漁り、レンタル映画を見倒した。私は物語の主役であり、困難に立ち向かう若者であり、世界の広さを思い知る冒険者であった。自由を求め無頼を気取っていたが、その実何の変哲もない予備校生だった。
後半期になると配属クラスが上がった。自分でも気持ちが乗ってきているのが分かった。模試では結果を出せるようになり、勉強と試験のサイクルが単に知識の吸収と確認をする作業なんだと理解できた。高校の教科書をはじめから読んだり、資料集を飽きるまで眺めたりした。そこに書かれていたのは試験のために記憶すべき情報ではなく、世界を紐解く手掛かりだった。
この頃から私はセンター試験をひたすらやった。現役受験の際に感じた基本の不足を徹底的に見直そうと思った。周りは東大対策に余念がなかったが、私は自分が一番手応えを感じられる道を進めばいいと思えた。センター試験で満点が取れるようになると、不思議と二次試験の過去問も解けるようになった。
結果からいうと、私は当時の前期日程試験で不合格だったが、後期日程で理科一類に合格した。
前期日程で落ちたのは予想外だったが、余計な要素が削ぎ落とされるほどに私はなぜか冷静になれた。後期日程では科目の絞り込みに加え選択もあるため必要な試験が少なく、私の場合はほぼ英語と数学のみだった。そして私にとってはそれが望ましかった。
試験前日はよく眠れた。朝は自然と目が覚め、焦りや気怠さを感じることなく落ち着いて試験に臨むことができた。数学はあっけなく終わり逆に不安になったが、英語が会心の出来だった。やるべきことはやったという清々しい心持ちで試験を終えた。
結果発表では安堵と高揚感からか、現実感が薄らいですべてがぼやけた夢のように思えた。勝鬨をあげたり号泣したりする見知らぬ同志たちを横目に、私は特に湧き上がる感情もなく立っていた。アメフト部に合否を聞かれ、小さく頷くと胴上げされた。着地の際に自分の体重が戻ってきたのを感じ、それまでの漂うような気持ちは消えた。
こうして私の受験は終わった。
【最後に】
小学校で好きだった子は私と同様に第一志望の御三家に合格したが、中学進学以来疎遠になった。私は大学を出て10年になる。
受験は競争心を煽って奮い立たせる仕掛けが多く、そういう経験を経て比較でしか物事を測れなくなる人間もまた多い。実際に私も周囲の人間や環境に大きく影響を及ぼされたが、最終的に納得の行く結果は自分の選択からしか生まれなかった。
正月の受験生たちに、あけましておめでとう。
https://twitter.com/Bijoux01/status/1074595281851736065
こういう話もあるからあんまり自分を責めなくていいと思うよ。カフェイン錠とか眠くなる前に飲んでみたら?(昼寝ない分夜眠くなるのが早まると思うので)
田舎の進学校、不定形な生活習慣、高校時代に増田とか、過去の自分と共通点が多いからもっといろいろ話してやりてえって気持ちになる。強く生きてくれ
最近、夜気づいたら1時2時になっていて驚くことが多くなった。
自称進学校なので朝7時半から授業がある。6時半に起きるとしても夜2時に寝たら4時間とちょっとしか寝れない。当然昼眠くなるし集中力もなくなる。授業に居眠りする。起きた時の嫌悪感がひどい。周りは起きてるのに眠るなんて…と恥ずかしくなる。
原因はスマホだということは分かっている。気になる情報を追っているといつの間にか数時間がたっている。
あと1年で受験なのに大丈夫なのか、と不安になる。このままではスマホで人生が大きく変わってしまうのでは…とも思う。
しかし正直に言っていまネット断ちできるかと言われると…それは肯定できない。減らすことはできると信じたいが…
心が弱いんだなと思う。まずは現状を認めることからはじめたい。