はてなキーワード: 下位者とは
元増1は「女を見下せ」、元増2は「女性を尊重して」と書いてるけど、この2つが同じこと言ってるって話ね。
なんでそう言えるんだろうってのを考えたんだけど、こういう話で合ってる?
引っかかるとこがあったら教えてくれ
「女らしさ」の戦略と罠 -ゴフマンの分析視角から- 高橋 裕子
( 『立命館産業社会論集』 第35巻第2号 1999年9月)
https://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/1999/35-2_takahasi.pdf
私は「外務省機密漏洩事件」(以下「機密漏洩事件」とする)として知られる事例を取り扱うが,この事件は当時外務省事務官であった蓮見喜久子が,親密な関係にあった毎日新聞記者の西山太吉に外務省の電信文のコピーを手渡し,両者が国家公務員法違反に問われた事件である。
分類図式に基づいた振る舞いは,行為者の能力に依拠するにもかかわらず,蓮見(事務官)は「女としては男に強く迫られると最後までノーといいきれない弱さがあります」と供述調書で語り,性的匂いを漂わせつつ自らが単なる受動的な被害者であったに過ぎないかの印象を撒き散らしたのである(注)。
上記の発言こそがまさに彼女が組み立てた戦略なのだが,ここで彼女は分類図式をことさら強調し,main trackとsubtrackとの混乱に乗じて,情状酌量を勝ち取ると同時に西山に攻撃を仕掛けようとしたのである。本来この事件において,両者が性的関係にあったか否かは,main trackとは何ら関係がなかったのである。少なくとも蓮見に性的関係をsubtrackに留める意志さえあれば,そうすることは十分に可能であった。ところが蓮見は性的関係を敢えて「告白」することで-それをmain trackとして採用することで-「西山加害者,蓮見被害者」とする設定に真実味を帯びさせていったのである。
後段には実際の法廷での証言などもあり、読み物としては面白い。その辺りは澤地久枝の著作からの引用が多いのだろう。しかし、ずいぶん蓮見事務官に辛く西山記者に甘い評価だなという印象も持った。
最高裁判決(https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/114/051114_hanrei.pdf)では当初の出会いについて「かなり強引に肉体関係をもち」とあるが、その根拠となった供述が「女としては男に強く迫られると最後までノーといいきれない弱さがあります」のような『生物学的性』を持ち出したものであったから、蓮見事務官について「自らが単なる受動的な被害者であったに過ぎないかの印象を撒き散らした」と髙橋氏は断定するのであろう。
確かに捜査過程での供述や法廷での証言を具に見れば、蓮見事務官が情状酌量を求めて、あるいは自分を利用した西山記者への怨嗟から、自らの被害者性を強調した面はありそうだ。
しかし髙橋氏は「本来この事件において,両者が性的関係にあったか否かは,main trackとは何ら関係がなかった」とまで言うが、それは言い過ぎだろう。
性的関係は情報取得の目的で、西山記者から仕掛けられ成立したものだ。つまり記者にとってその性的関係は別の目的のための手段に過ぎないのに対し、事務官にとってはそれ自体が目的でしかない。
そのような性的関係こそが蓮見事務官の行動を束縛し、結果として機密文書の受け渡しという葛藤の生じるはずの行動について事務官を受動的な立場に置いたことは明白だ。
法律やルールは属性(男女など)で区別するのではなく状況(経済状態など)で支援するしないを決めた方がよいだろね。人間の本能には今となってはバグといえるような物もある
140年前にサムナーが「忘れられた男」で指摘したとおり、法の下の平等の前提は行政や司法から情緒を廃して機械的に運用することなんですよね。情緒がからむと泣き叫ぶ者が優先され、黙っている者が割を食います。
対象がよくつかめなかったのだが氷河期世代の見捨ては私も怒っているよ。男性のためを銘打った相談窓口ももっと手厚くあっていいと思う。女子供ばかり二重三重にそりゃ見えるよ
https://president.jp/articles/-/65205?page=1
上に引用したのは沼田牧師が書かれたかわいそうランキングに関する上記記事に付けられたブコメの一部だが、この3つのブコメはどれも司法、行政の平等について論じていて、概ね司法、行政にはかわいそうランキングに影響されない価値中立性が確保されるべきだという意見だと思われる
あくまで例として引用させてもらったが、他に付けられたブコメも概ねこの様に司法、行政の観点から論じたものが多い印象だ
だがしかし、沼田牧師が件の記事で論じているのはそういうことではないだろうと俺は思う
共生社会について考えるなら、一流のアスリートを見るのもいいけれど、まずは「この人、ほんとうに嫌な人だな」という感情を避けられない人とどうやって生きていけばいいのか、そこから考えてみませんか。
上に引用した部分には沼田牧師がこの記事を通して読者に訴えたい内容が端的に表現されていると思う
かわいそうに思えない弱者
そうしたかわいそうランキング下位者を我々個人が拒絶せずに関わり続けていくためにはどうすればよいのか、それを沼田牧師は問いかけているのだと思う
一方で記事に付いた多くのブコメはあくまで司法、行政の平等についての言及に留まり、かわいそうランキング下位者と我々個人との関わりについての言及は少ない
これは俺の偏見かもしれないが、かわいそうランキング下位者については公共セクターが対応すればよい、といった雰囲気さえ感じられた
もちろん、公共セクターはかわいそうランキング上位者と下位者を差別することなく運用されるべきだが、仮に女性相談窓口と男性相談窓口が、女性センターと男性センターが均等に配備されたとしても、それはあくまで公共セクターの平等性が高まっただけの話であり、かわいそうランキングを超克したことにはならない
我々一人一人が、かわいそうランキング下位者を拒絶することなく関わり続けていくこと、その実践を通して初めてかわいそうランキングを超克することができる
点数計算は誰かがやりゃいいし、そもそもスマホでやるなら機械が計算してくれるし。
超初心者に限ってはチョンボをやり直させてやるとかの対応もいいだろう(スマホでやるならこれは無理だが)。
でも、そんなことより麻雀超初心者に教えておくべきことがあるだろ。
これ。これが超大事。
データ確認できるとこで、Mリーグでも和了率トップで約25%だぞ。
これをものすごい単純化して言うと、程ほど同程度の実力者が4人集まって打って、その中での実力上位者で4局に1回しか上がれない。
逆に、その中で実力下位者だと10局に1回しか上がれないわけよ。
で、和了できないってことは単純に言うと手を揃えられないわけで、超初心者だとよっぽどツキの良い局を除き、そもそも和了できそうにすらならない。
麻雀って最終的な点棒の多い少ないで勝ち負けを競うから和了率の高低は必ずしも重要じゃないけど、超初心者ってやっぱ和了したいもんじゃん。
そもそも滅多に和了できない(だから、それなりに守備が大事になるんだけど)、手が揃わなくったってそれが麻雀で、和了できなくたって点数の勝ち負けは競えるし、そういうのが楽しいんだよって教えておくべきじゃないか。
まあそう言われても感情的にそれを納得できるのにはそれなりに時間かかると思うけどさ、でもやっぱ教えておかないと、全然和了できないじゃんツマンネってなって麻雀好きになれずに終わっちゃうんじゃないか。
こういっちゃなんだが、ある上席者の器が小さすぎて辟易している。
「誰々は〜」「どこどこでは〜」とか、自分以外の話は参考情報や知識としてはいいが、自分自身が具体的に何をどう思い考えるのか、自らの責任において、自分の言葉で語ってくれ。
周りが解釈をしてあげなければ意思表示ができない赤ん坊や子供ではない、いい大人なのだから…。
そして、下位者に対して学力とか実績とか昔の武勇伝とかでいちいちマウント取りにこないでほしい。
それだけならまだ「めんどくさい上司」程度で済むが、適度に受け答えしていると「○○(役職名)であるこの俺に対して愛想がない」「常識的に○○に対する態度ではない、お前は非常識だ」などと絡んでくる上に、それにも適度に受け答えしていると「たまにしか会わない○○であるこの俺がわざわざ来て話しかけたのにその態度は何だ」「○○であるこの俺に何か気に入らないことでもあるのか」「○○であるこの俺にどう思われるかよく考えたほうがいいぞ」などと急に攻撃的挑戦的な絡み方に変わるところが非常に厄介だ。
上席者とはいえ私たちの業務の手を強制的に止める権限まではないと考えるし、そもそもこんな思い通りにいかないとすぐ怒りだすような上席者、率直に言って信用も信頼もできないし、したくない。
まともに向き合えばマウンティングがウザい、それを回避しようとすると怒りだしてやっぱりウザい。
気が重い。
人によって語彙力や理解力などが異なるため、説明が上手でわかりやすい人もいれば、文字数ばかり多くて結局何が言いたいのかわからない説明下手な人もいる。
特に相手が部下・下位者であった場合、事を円滑に進めるために「それは○○ということだね?」とこちらから解釈をしたほうがよいのか、相手の説明力を修練する機会として相手がなんとか説明しようとするのをひたすら傾聴するのがよいのか、葛藤を覚える。
私が先回りすることを続けていると、部下はわかるように説明しようとはしなくなる(人は概して楽なほうに流れる)から、説明力を修練する機会にならない。
しかしあまりに長時間、意図の伝わらない説明を聞き続けるというのも効率的とはいえない。
そんな葛藤を覚えるわけだが、相手が上司の場合だと簡単である。
「それは○○ということですか?」と先回りしてしまうのは目上の方に対しては極めて失礼であり、著しくプライドを棄損することにもなりかねないわけだから、わからない場合はわからないと素直に「質問」をする。
意味が広すぎてただの悪口なのに「わかる~!」みたいに共通認識としてあって、伝わっていってしまうやつほんっっっとタチ悪いから大嫌いなんだけど、だんだんその正体が見えてきたから書こうと思う。
自分語りから始まるが、私は客商売の自営の家に生まれた。店舗の上が住居のタイプの地元密着系だったので、小さいときから「◯◯さんところの娘さん」というような感じで近所の人に認識されていた。
そして親は「多少勉強ができなくても女の子なら愛想よく感じよくしなさい。人に迷惑をかけるな。挨拶は欠かすな。礼も欠かすな。」系の昭和っぽい女子教育をモットーに私を育てていたように思う。
だから急いでいようが天候が雨だろうが真夏だろうが真冬だろうが、近所の人が「あ、◯◯ちゃんやないの!」と声をかけられれば雑談に付き合った。
子供的にはうざくてしかたない「前みたときは乳母車にのってグズってた子がこんな大きなって~~!」という気恥ずかしいようなちょっとムッとして「知らんがな…」と言いたくなるような話もクソほどされたがすべて「ありがとうございます」と流した。
うちのお客さんには老若男女いて、まぁ近所はもちろん大体の人には親切に接してきたと思う。誰がうちの客で、また客になってくれるかわらないので、丁重に扱う以外選択肢がないとも言える。
うちの実家の店の利用メイン層はいわゆる「おっちゃん・おばちゃん」である。
前述したように大体の大人を丁重に扱う(ようにあしらってもいる)事に小学校4・5年にでもなれば否が応でも慣れ始める。
受付係モードみたいなものを幼くして会得できてしまうのだ。これは客商売の家に生まれた子供さんならなんとなく理解してくれるんじゃないかと思う。
中学校に上がって、スクールカースト上位女子グループに「男に媚びてる」と陰口を叩かれるようになった。
正直ビックリした。私はそういう恋愛どうこうというような成長が人より遅かったので「男に媚びる」という事の意味さえまだわかっていなかったからだ。
なんでそういわれるのか全く検討もつかなかったので大変悩んだ。
今ならわかる。私がいわゆる「男に媚びてる」ように見える訳が。
普通この頃になると異性に対してなんらかの壁を感じているのが「正常」と考えられているのだろう。だから私がクラスメートの男子やら男の先生に人懐こい感じで接するのは変に映ったのだろう。ただ私がいつも通り受付係モードで接しているのが「気持ち悪い」と。
私にしてみれば生家やその近所と追随する商工コミュニティである種の自己防衛の一種で身につけた対人スキルが、次は教室のようなセオリー通りに空気読んで自分の立ち位置をつぶさに確立していかなければならない場所では悪手となる。
初手で悪手を打ってしまったのもあって中学校のスクールカースト上位者には卒業するまで塩対応され続けた。
一度、私の事が一等嫌いなNさんが塾友達だという部活が同じのYちゃんに探りをいれてもらったことがある。
私が嫌いな最大の理由は「男へのアプローチが顔に合ってない」であった。
いや~たまげたね。確かに私はどう見積もってもブスカテゴリーの顔だ。
だからこそ親も愛想よく感じよく育てていただろう。
要するに「嫌われもんのブスは嫌われもんのブスらしく小さくなって黙ってな!」ということだ。
今となっては物凄い暴論だが、そういうとんでもない暴論が許されて放置されて継承されていく地獄の空間の中学校だからさもありなん。(でもめっちゃ傷付いた)
昨今「ステレオタイプに当てはめないで!一人一人事情がある!」ってのも人権解放のムーブメントだと捉えているが、いまだにこのステレオタイプという概念は一部のコミュニティの中で「キャラ」という言葉で現役で生きている。
結局多くの人が理解しやすい人ステレオタイプ的な人の方がいろいろやりやすいし、特にカースト構造ができやすいコミュニティの中では上位者は下位者を分かりやすく蔑みたいので下位者がこの想像通りじゃなかった場合の上位者の残酷さったらない。
気持ちよく見下すつもりがなんなのあいつ!とでも言うのだろうか、無能で冴えないやつがコミュ障じゃなくてもイラつかれるし、マイノリティのくせにめちゃくちゃオシャレにこだわりあったりしてもキモがられたりするのおかしくないか?今はこの人権解放ムーブで減っていると嬉しいのだが、ニュースやバラエティーを見ていると私が中学生だったほぼ20年前と変わらないように思う。
やっと主題に戻るが、結局「媚びてる」というのは見下してる側(もしくは元々タイプの違う合わない人間への)の言いがかりでしかないのではないか?と私は思う。
実際媚びていたとしても違う方法を取ってる人間へのただの個人的な違和感に過ぎない。
「気取ってる」というのも構造は同じだ。
結局はコミュニティ内でキャラじゃないと勝手に感じられて勝手に違和感をもたれているだけなのではないか?
若者言葉やネットスラングを使わないとかくだらないことでコミュニティ内で気取ってると異物扱いされたことがあるが、そんな事でコミュニティのバランスが崩れるんならどっちにしろそのコミュニティは長続きしない。
「気取ってる・媚びてる」ワードのユーザーよ、帰属意識からの勝手な崩壊恐怖でしょうもない言いがかりつけてんじゃないのか。
そのくせTwitterなんかで人権解放系ツイートリツイートしたりしてる人は、あなたの回りの媚びてるやつを見下して勝手にイラついてないか考えてみてほしい。
人権解放とかにまるで興味なくいつも誰かを意識的にいじめていたいってひとはそれはそれでヤバイけどまだ理解はできる。割とそういうド悪人は「媚びてる・気取ってる」とかフワッとしたワードを愛用してる感じはしない。これも私のステレオタイプからくる偏見だといわれるとまぁそうなのだが。
このフワッとワード愛用者は大体常識人っぽいのがまた厄介なのだ。コミュニティの中で自分の思い通りになってる人や、目上の人には優しいことが多いように思う。だからこそその帰属意識から過剰に反応するとも言えるし、嫌われた時の衝撃もでかい。
媚びてる気取ってるやつがウザい、コミュニティの異物と感じてしまうあなた、それはあなたの感性の問題であって、媚びてる気取ってるやつの性格なり人との関わり方の問題なのか?ほんとうに?見下したい相手が思い通りじゃなかったからイラついてるんじゃないの?そういうのってすごい失礼じゃないすか?
媚びてる気取ってると言われてそんなことないのにと傷付いてるあなた、多分あなたはそのコミュニティにおいて異物なのであろう。しかしそれはコミュニティや当該人物の未熟さから来ていることが多い。愛想がいいこと、言葉や振る舞いが丁寧なことは基本的にいいことだ。
上から目線で他人に指導とかしてない限りあなたに非はない。残念だがそのコミュニティを出るまであなたのよさを隠すしかない。
コミュニティに合わなかっただけだから自尊心を失わないでほしい。
媚びてると言われ、つまんない中学時代を送り、で、内気ぶってると「ノリ悪いね」と言われあるコミュニティでどの世代にもわかるように丁寧に喋っていると「気取ってる」と言われた経験から、書かせてもらった。
残念ながらこの媚びてるとかいう悪口は30越えてもあるが、ここ最近ある程度仕組みがわかったのでやっと傷付かなくなってきた。
個人個人いろいろあるんだから勝手に型にはめてキャラじゃないだの、下に見てたのに思い通りに見下せないからって言いがかりつけるのは大体不快に感じてる側のセンサーの問題だから私はどうしょうもないで、という開き直りの境地とも言える。
『くるみ割り人形と秘密の王国』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けであります。
すごいぞなんと150点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。なんで、なんかもっとお金出したい感じはあるんだけど、この映画の場合グッズとかサントラとかそっち方向にはいかない、いけない、やばい。
この映画を公共向けにレビューするとジャスト95点くらいなのははっきりしていて(いや辛く採点すれば80くらいか?)残りの+50くらいは何かといえば完全に性癖の話なのですよ。いつもそうだけど、今回はそれにもまして(主に後半)全く当てにならないレビューであることを告白しなければならないです。何がやばい特殊性癖なのかについて最初に語ると話が混乱するので、後ほど詳細を述べます。
物語はストームボール一家がクリスマスの準備をしているところから始まります。でも主人公でありミドルティーンの次女であるクララ(演マッケンジー・フォイ)は浮かない顔。他の一家もなんだかギクシャクしている。それも無理のない話で、どうやらストームボール一家の母親は、このクリスマスの直前に死んでしまったようなのですね。
家族を失った喪失の中でもストームボール一家は伝統であるところのクリスマスをしようとしている。ヴィクトリア朝の話だから、親族の大規模なパーティーに出ようとかあるのだけれど、母親を失った悲しみからそれらを拒否して引きこもりたい主人公のクララと、このような状況だからこそ普段通りに日常に過ごさなきゃならないと考える父親の間には、感情的な亀裂があるというところから物語は始まるわけです。
そういう意味で言えば、これは大事な家族を失った喪失から回復する話です。同じテーマを扱った今年の映画でいえば『若おかみは小学生!』なんかがあります。普遍的なものなので他にもいくつもあるでしょう。
そういう普遍的なテーマだったんで、料理の作法にも定番(セオリー)みたいなものはあるわけですが、まずそのセオリーそのものはきちんとこなしていた。そういう意味で脚本は及第点。
また、同じテーマをこなしながらも独自性のある切り口も感じられました。この項目はその独自性についての感想です。
この種の「喪失と再生」の作品において、「去ってしまった人から過去において贈られた自分に対する愛情を再認識する」というエピソードは非常に重要なセオリーポイントになります。
それは例えば前述の『若おかみは小学生!』においても「私たちは娘であるあなたを愛していたよ」「その愛は永遠だよ」というようなメッセージは存在していて、それが主人公に受け取られることで回復の契機になりました。
いってしまえばこの「親からの愛情」ってのは遺産なわけですよね。だからこのテーマは遺産継承に関するテーマだと考えることもできます。
でもこのテーマには隠された問題点もあって、それは「親子間の関係を遺産を残すもの/受け取るもの、というような一方通行の、上位者の秘密に下位者が気づくだけという、そういう物語として描いていいの?」というものです。この問題告発って自分は今まで意識したことがなくて、『くるみ割り人形と秘密の王国』で始めて気が付きました。
例えば先程から比較している『若おかみは小学生!』においてこの問題提起はないんですね。それはなぜかといえば、『若おかみは小学生!』の主人公おっこはタイトル通り小学生で、これから自分の世界を確立していく存在だからです。重要なのは遺産が(つまりは死んだ両親からの愛情が)「あった」事であって、それにさえ気づけばおっこのここから先のミッションは回復だけなわけです。
しかし『くるみ割り人形と秘密の王国』の主人公クララはミドルティーンであり、もうすでに自分なりの自意識も世界観も作り上げつつある存在です。
次女のクララには、上には憧れつつも素直に従うことができない長女がいて、下には一緒に遊んで面倒を見てやる長男(小学生低学年くらい?)がいます。弟の面倒を見ながらも、女性的な完成度と貫禄では長女に勝てない次女。おしゃれは苦手でちょっと理系(工学系)な変わり者な主人公。
彼女はそういう意味で「母親を失って狂乱するほど悲しむ幼子」ではない。悲しいし落ち込んでいるし、日常を取り繕おうとする父親に反発をするけれど、だからといってそれを破壊しようというほどのパニックにはならない。自分自身の力でこの悲しみを乗り越えようとしている、まだ若いけど自立を目指す女性なわけです。
そんな彼女は、通り一遍な意味では「死んだ母親から愛情があった」ことはわかっています。世間一般でそういう慰めの言葉はよく聞くし、自分が母に愛されていなかったという疑いはない。
でも、じゃあ、その「愛情」って具体的にはなんなんだろう? もちろん日常でのさりげないやり取りや、スキンシップや、無言での加護やら、ありとあらゆるものがその候補なわけですが、それらは要するに伝われば伝わるし伝わらないわけです。過去のシーンとしては無数にあるそれを、クララはまだ自分の中で結晶化できていない。そこにクララの戦いはあるわけです。
この物語ではその愛情を暗示するキーワードとして母親の残した「大事なものは全て中にある」という言葉があります。
クララは亡き母からのプレゼントエッグの中に残されたこの言葉を追いかけて冒険の旅に出るわけですが、この言葉の意味は最終的には「私(母)がいなくなった世界においてあなた(主人公クララ)が前を向いて生きていくための大事なものはすべてあなたの中に残してきた」です。
大事なものは、様々な教えであり、生きていく知恵でもあり、もちろんつながりや愛情や人格そのものでもあり、大げさに言うならば「母親(家族)と過ごした時間のすべて」なわけです。
そしてこのキーワードが示すのは、それだけにとどまらないんですよね。
この言葉は「nを残してきた」「nが私(母)の愛情である」という指定ではないわけです。だからこそ逆に「何が残されていたと認識するかは、娘であるクララが選んで受け取りなさい」という信頼であるわけです。
愛情は遺産なわけですが、それは決して贈る/受け取るという一方的な関係ではない。この物語における「気づき」はそういうステージのテーマとして描写されている。それはやはり一味変わった、深い踏み込みだったと思います。
一方、作中において「遺産」はもうひとつの意味でもあらわれます。クララの母は幼いころ「秘密の王国」を発見してその民に慕われた女王でもあったのです。わお。ですから、遺産は女王位。クララは本作のメインの冒険である「秘密の王国への迷い込みそこで戦うこと」をとおして、この「女王位の継承」という問題へ巻き込まれてゆきます。
でもこの問題も前述の「母の愛情をいかに受け取るか」とワンセット、同じ物語の両面なのです。
クララは「女王が去ってしまって荒廃が始まった秘密の国」で大歓迎を受けると同時に、その危機においては「お前なんかは女王の代替品にすぎない」ともいわれてしまいます。「女王の位」をうけとった娘クララは、ただ単にそれを受け取った段階では「無力な模造品」にすぎないという弾劾です。
クララの母でもあり前女王でもあるマリーが幼いころ発見して作り上げた秘密の王国とそこに住む住民たちは、マリーに生み出されて育てられたという意味では、クララと同じく「マリーの子供」でもあるわけです。表面上は老人に見えても年上に見えても異形に見えたとしても、その意味では全てクララの兄弟姉妹に等しい。その彼らが、母マリーがなくなって、道を失い、うろたえ、クララに剣を向けさえする。
その混乱はマリーの残した女王位をただ受け取るという、つまりは遺産を残す上位者、受け取る下位者というだけの状態では、収拾されないわけです。
つまり、これもまた、「継承というのは一方的な贈与関係ではない」というテーマに接続されているわけです。
作中で、母との回想シーンの中で、クララは母から「あなたは姉に憧れているけれど、あなたにはあなた独自の世界があって物事をあなただけの見方で見ることができる。そこがあなたの魅力なのよ」と励まされます。
クララはクララなりに世界を見ることができる。それは父母や周辺環境のコピーとして自意識を確立していくしかない幼子ではなく、ミドルティーンとしてすでに自分の世界があるこの物語のクララでしか描けなかった切り口です。
母からは無限の贈り物を残されたけれど、その中のどれを受け取るか――母の残した教えや愛情のうちどれを「クララという自分自身のコアとして据えるか」というのは、クララの側の自由であり、その選択によって自らの存在を定めるわけです。
その自由の幅が良かった。
この物語の中で、クララは「秘密の王国」での旅と冒険を通して、そういった自分自身の内面と出会い、悲しみを癒やすわけですけれど、でも実はこの度ってなくても良かったんですよね。作中でも途中でリタイヤして現実世界に帰る選択肢が示されるシーンが有ることからも分かる通り、それはありなわけです。途中で帰るどころか、実は、出かけなくても良い。
クララはもうすでに自分自身を確立しつつあるミドルティーンで、この作品の冒険なんかを経なくても、時間さえかければ悲しみから立ち直っていたと思います。父親との間にギクシャクした感情は少し残ったかもしれないけれど、それすらも時間の流れでおそらく解消できた。
そこがとても良かった。
幻想郷への旅が必要不可欠であり、この冒険行がなければクララが破滅していたのだとすれば、クララは神が(母が)操る遺産相続の操り人形なわけですが、そうではなくクララは旅をやめる自由がある中でそれを続行し、自分で選んだわけです。
母から与えられたすべての教えや愛情の中から、姉と同じように「おしゃれで社交的な自分」ではなく、「機械いじりが好きでとびっきりの発明家である自分」を選んで継承した。同じように「秘密の王国で歓待されるだけの女王」ではなく「みんなのために調和を取り戻そうと戦う女王」も選んだ。選ぶという行為によって、ただ与えられる下位の存在ではなく、継承というテーマにおいて贈り主である上位存在と対等の関係であることを示したのです。
この辺はもはや登録商標とも言って良い「ディズニープリンセス」というワードの「プリンセス」にたいして、一定の回答を出そうと本作が挑んだ結果でもあると思います。
王位とか王権(そして愛情を)先代から送られ継承した存在が、プリンセスである。
でもそれは逆説的に、「プリンセスとは手渡されはしたものの、その手渡されたものをまだ十全には使いこなせないし、自覚もはっきりとはできていない、運命や自分自身と戦いの最中にある存在だ」という主張でもあると思うのです。
そういう踏み込みのある本作は、テーマから見ても脚本の構造から見てもかなりの出来でした。
――まあ、もっとも、ここまで脚本を褒めては来たんですけれど、その表現としての台詞回しがどうにも垢抜けない感じで、紋切り型なところも多くて正直言えばそこは今ひとつです。取ってつけた感じがある。
てなわけで、構造面ではキラリと光る部分はあるけれど、80〜95点くらいですかね、これは。という感想になるのでした。
文字数がオーバーしたので後編 https://anond.hatelabo.jp/20181201181722 に続きます。
近年のゴールポスト動きます関係で韓国は日本と感覚が違うと感じている人が多いと思う。
よく韓国人がいう、日本は全く謝罪をしないじゃないか、日本人は反省してない、という言葉。
単に国民が日本が謝罪していることを知らされてないのかと思ってたが、どうも違うようだ。
韓国では甲乙関係と表現される人間関係がある。甲は乙より上位で乙は下位である。上位者は下位者に何をしても許される。例えば年長者は甲である。親は絶対だというような感覚がここからきてるし、会社の先輩や上司への服従はここからきてるようだ。
この甲乙関係は加害者と被害者にも適応される。被害者は甲であり、乙である加害者に何をしても許されるという前提となる。一度乙になってしまえば、永遠に対等にはなれない。
韓国人がいう対等な未来関係を目指すというのは、韓国人が望む通りに日本が謝り賠償し文字通り韓国より『下位になれ』ということだ。経済面でも、国家の格としてもだ。だから望まれれば常に最新技術を提供し、謝罪を繰り返し、お金を払うことを繰り返す必要がある。
問題なのは、これで終わらないということだ。いつか許してもらえるなんて思ってはいけない。
甲乙関係は永遠に変わらない。つまり永遠に『戦犯国』であることを背負い韓国に頭を下げつつ生きていくことを望まれている。甲乙関係は永遠に変わらない関係だからだ。
千年の恨みとはよく言ったものだと思ったが、
既得権益がイノベーションを妨げていて経済のパイが大きくならないから雇用の流動性が低くてブラックな勤め先でも我慢するしかないとか、
身分秩序が強くて庶民は権力者に反抗する手段を徹底的に奪われていて上位者への下位者の不満はさらなる下層民を作って叩かせることで逸らしているとか、
外国をよく知らないくせにでっち上げの伝統やオリジナリティで自国が一番と思い込んで排外主義を拗らせているとか、
これらは中世というよりも近世、というか江戸時代の後期の特徴ではないだろうか?
又吉イエスに「地獄の炎に投げ込む」と名指しされると有力政治家でもパンひとつ買えなくなって世界経済共同体党本部が入っている雑居ビルの前で土下座するとか、
なろうの異世界転生って
一番下のクラス(C2)で降級点(成績下位者に付くX)が3個になるとフリークラスに降級します。
但し10年以内に、
2月28日第31期竜王戦6組ランキング戦で421手(21世紀最多)で引分指し直しで敗れた棋士です。
そして今日、第44期棋王戦予選3回戦・日浦市郎八段に勝ちました。
NHK杯予選の勝敗はテレビ中継の関係上不明ですが、次期対戦が3月27日に組まれました。
つまりNHK杯は負け、17勝10敗ではないかと考えられます。
年度内に組まれたということは将棋連盟が配慮してくれたのでしょう。
第44期棋王戦予選4回戦は新進気鋭の青嶋未来五段との対局です。
決して楽な相手ではありません。
米長邦雄永世棋聖は「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という言葉を残しました。
青嶋五段も全力で向かってくるでしょう。
丁寧語とは、眼前の相手への敬意を表す言葉であって、単なる「敬語」という意味ではない。言ってみれば、部下が上司にする言葉遣いである。一方「しゃーない」はどちらかと言えば上位者から下位者になげかけられる男性語における関西弁の俗流表現であり、軽い侮蔑語としての「アホか」に近いニュアンスすらある。「シャーナイヤン(1)」「シャーナイヤロ(2)」とか「シャーナイヤンケ(3)」「シャーナイチュートンノジャ(4)」など、「シャーナイ」のヴァリエーション(※1)を考えれば、ほとんど罵倒語ですらあるので、これを丁寧語にするというのがまず発想として奇妙である。
また、コレを無理に「仕方ない」の意の丁寧表現と取るとしても、一般に関西弁ネイティブの世界で、たとえば部下が上司に向かって”仕方ない”という自分の感想を直接的に述べるシーンというのがまず想定しにくい。関西弁は非常に日本そのものであるような文化体系に基づく言語なので、「仕方ない」出来事に遭遇したときには、出来事の「状態」を描写するよりも、古語のようにその状況に遭遇した「相手の心情」を慮って言葉が発せられ、これによって相手へのより強い敬意や遺憾の念を表現するのが普通だからである。従って、「しゃーありません」などという妙な言い方は、ネイティブからは出てこない。これは、表面だけ関西弁だがハートが関西弁ではない人間が想像で喋るエセ関西弁である。朝ドラなどで非常に頻繁に見られるが、イントネーションを似せれば似せるほど不気味の谷に近づいて違和感があるのでこういうのは本当に止めた方がいいと思う。(※2)
たとえば「上司が契約を取るため条件を下げるよう上にかけあってきたが、社の方針でダメだと言われる状況に遭遇したときの部下の一言」を想定するならば、「コレ、ホン↓トニナン↓トモナラナ↑イン↓デスカネー…」が正解だ。やや棒読みで最後を低く呟くように発音するのがコツである。「何ともならない」ことを分かった上で、敢えて相手の心の内を代理的に言語化する。一番「何ともならない」ことを分かっているのは上司だ、との了解の下で(棒読み口調によってこれは察せられる)敢えて一段自分を低め、道化となって「分からないフリ」をすることで、上司自身に「マアナラヘンナ/無理↑ヤ(=仕方ない)」と言わせるための一言である。これはかなり気を遣った「仕方ない」の関西弁による丁寧表現である。「仕方ない」とこちらから言うのではなく、相手に「仕方ない」と分からせるために相手の心情を思い諮り、同時に敬意を表現する。こういう柔らかな「寄り添う言語としての日本語」の特長を、日本の伝統を大事にされる方々には関東においてもぜひ日常的に取り入れてもらいたいと思うばかりである。
また、もう少しカジュアルに(カジュアルという概念自体が関西文化にはうまくそぐわないのだが)表現すると? たとえばちょっと丁寧に同格の同僚と喋るようなケースで「今後こういう傾向になっていくのはやっぱり『仕方ないですね』」という内容を言う場合どうなるか。その場合は、自立語ではなく付属語や補助動詞で表現することになるだろう。つまり、「ない」自体が敬語化されるのではなく、「仕方ナイ↑デスネー」みたいな感じだ。女性的表現としては、「仕方アリマセンネー」が考えられ、これは増田の想定に一番近いのだが、女性語の場合丁寧な社交の場では言葉が関東弁に近づくケースがあるので(これについては谷崎潤一郎の小説「細雪」の中でも少し触れられている(※3))このようになる。
以上、増田の初級関西弁講座である。ネタであることは言うまでもないので話半分に聞いておくように。ホナマタ。
https://anond.hatelabo.jp/20180113124118
※1 厳密に言えば、「シャーナイ」とほぼ同義で使いうるのは「アホクサ/アホカイナ」である。前者は事態を、後者は相手を軽くあしらい流すときに用いられる。ただ、このような間投詞的な「アホ」(詠嘆の「アホ」という)の用法は、シチュエーションにより様々な意味を含有するので、非ネイティブが使用するのに苦労する部分である。「アホ」は本来道化(クラウン)を意味する言葉だが、同質性の高い世界において道化役は時に非常に重要な役割を果たすものであり、それが関西文化圏では共通了解とされているため「あいつアホやな」という言葉は批判ではなく、時に非常な敬意や褒め言葉になりうるし、また若年女子が用いる「アホっ」は、おおむねソフトな「I like you.」の意味で了解されるのである。
なお、「ヤン(1)」~「チュートンノジャ(4)」に至る変化は、一見微妙に見えるがそれぞれ
「(1)仕方ないじゃないですか?(=だからあきらめて貰えませんか?(依願))」
「(2)仕方ないじゃないか?(=だからどうしようもないと考えなさい。(命令))」
「(3)仕方ないと私は言っているでしょう?(=ひょっとして言いがかりを付けて喧嘩したいのですか? 何ならお相手しますよ?(威嚇))」
「(4)仕方ないとこの私が言っているのだ。(殺すぞ(予告))」
…という意味となっており、特に(2)から(3)に変化したときは明らかに相手のモードが変化しているので注意が必要である。親切なネイティブならば、語尾に「ヨォ」という威嚇語を追加し「シャーナイヤンケヨォ!」とメンチ(接近して目を合わせる威嚇のポーズ)とともに発音してくれるので、こちらは非ネイティブにも分かりやすい表現となるが、できれば(3)を聞く前に第三者を介入させるか和解を申し出るのが望ましい。
※2 たとえば朝ドラなどで、番頭はんがお嬢さんに「仕方ナイデッシャロ」などという奇妙な関西弁を用いる「けったいな」シーンは容易に想像できる。このように関東人がエセ関西弁を振り回して「関東人の思う関西人」を演じているのは、実際典型的な「文化の盗用」であり、今後厳しく批判されていくことだろう。
※3 谷崎潤一郎「細雪(上)」より。(舞台は戦前なので、約80年前の話である。)
「彼女は相良夫人のような型の、気風から、態度から、物云いから、体のこなしから、何から何までパリパリの東京流の奥さんが、どうにも苦手なのであった。彼女も阪神間の奥さん達の間では、いっぱし東京弁が使える組なのであるが、こう云う夫人の前へ出ると、何となく気が引けて、――と云うよりは、何か東京弁と云うものが浅ましいように感じられて来て、故意に使うのを差控えたくなり、却って土地の言葉を出すようにした。それに又、そう云えば丹生夫人までが、いつも幸子とは大阪弁で話す癖に、今日はお附合いのつもりか完全な東京弁を使うので、まるで別の人のようで、打ち解ける気になれないのであった。成る程丹生夫人は、大阪っ児ではあるけれども、女学校が東京であった関係上、東京人との交際が多いので、東京弁が上手なことに不思議はないものの、それでもこんなにまで堂に入っているとは、長い附合いの幸子にしても今日まで知らなかったことで、今日の夫人はいつものおっとりとしたところがまるでなく、眼の使いよう、唇の曲げよう、煙草を吸う時の人差指と中指の持って行きよう、――東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、何だか人柄がにわかに悪くなったように思えた。」