はてなキーワード: 理Ⅰとは
私は灘出身だけど東大入試だいぶしんどかったよ。一応ギリギリで受かったけどさ。
自分が灘受験したのは、文化祭が楽しそうだったのと、ゲーム感覚で塾通ってたら何故か成績が良かったからで、大学受験なんて心底どうでもよかったんだよね。
だから入学してからはとくに勉強せず部活ばっかして楽しく過ごしてた。でもあの学校は狡猾で、明示的に受験を押し付けることはしないけど、「とりあえず理Ⅰ(東大理科一類)」という超気持ち悪い雰囲気を自然に作ってくる。馬鹿なことに自分もそれに乗せられちゃって、全然大学なんて興味ないのになあなあで受験勉強やって、やる気ないから当然身につかなくて、精神だけ疲弊して半分鬱病みたいな状態で東大入学することになった。
灘入って東大や医学部に行かない(行けない)のは、私みたいに無理な心の使い方をして潰れるタイプか、ちゃんとその雰囲気に抗って自分の好きな道行くタイプかな。
灘の入試を突破するのにある種の才能や早熟さが必要なのはそうで、そういう意味では、灘に入れる人間のほうが東大入れる人間よりも希少だというのは事実だと思う。でもそこで求められている才覚・精神の形は、東大受験で要求される「学校教育の王道」からは結構ずれてて、そのズレが致命的な水準に達してる学生は結構な傷を心に負って卒業することになる。バカバカしいことだと思うけどね。
自分は先天性心疾患だ。人口の1/2000で生まれてくる。自分の病気は幼児のうちに手術しなければ、ほぼ100%死ぬ。手術しても全回復はせず、一生心臓のケアが必要になる。しかし、見た目は健常者にしか見えない。新型コロナウイルスに感染すれば重症化し、死亡確率もぐんと上がる。もう5回、ちゃんとワクチンも打った。心房中隔欠損でも心室中隔欠損でもファロー四徴症でもなく、もっと重いやつ。
我々のように、見た目健常者と同じなのに変な病気を持っている人間に配慮するのが面倒くさいと社会で思われていることはよく知っている。そういう人間が、存在自体「迷惑だ」、「生まれてこなければいいのに」と思われていることもよく知っている。少しでも生きる価値がある人間になりたいと思って、東大理Ⅰに入り、そのまま東大の院に行って、コロナ禍のだいぶ前に修了して就職した。オリ合宿とか進振りとか同クラとか他クラス聴講とかシケ対とか、懐かしい東大用語も知っている。
価値がある人間になれた、コロナ禍前はそう思っていた。他の基礎疾患者と違って、我々は不摂生で基礎疾患者になったわけではない。変な病気を持って生まれて申し訳ないと正しく思っている一方で、本来なら死ぬはずだった自分を手術して直したのも日本社会なので、日本社会で「生きる価値ある」と思ってもらえる東大を出れば、日本社会に「生きる価値がある人間だ」と思ってもらえると信じていた。
3月13日からマスクを外すのが個人の自由になった。俺の前でもマスクを外す奴がたくさん出てくるだろう。もちろん、基礎疾患者であることを伝えれば、マスクを着けてもらえるだろうが、嫌な顔をされるだろう。嫌な顔をするという事は、やはり、「人口の1/2000だか何か知らないが、変な病気を持って生まれてきやがって、東大を出たぐらいで生きる価値があると思いあがるなよ」という風に、内心では思っているという事なのだと思う。人口の1/100は何らかの心疾患を持って生まれてくる。マスクを外して歩けば、普通に心臓病患者とすれ違うことぐらい、ちゃんと義務教育を出ていればわかるはずなのに、マスクを外すという事は、「先天性心臓病患者など生まれてくる価値がない」と思っている差別主義者だという事なのだろう。
少なくとも自分はそう思っている。だから、自分の前でマスクを外した人間を記録しておき、自分が感染・重症化したら、「僕の生きる価値を認めなかった差別主義者リスト」として、Facebookにでも一覧を公開しようと思う。
どのみち、我々先天性心疾患を持って生まれてくる人間は、何をやっても「生まれてこないほうがいいのに」と社会から迷惑に思われており、存在が軽視されているのだから、名前の一覧が公開されようが何だろうが大して問題ないだろう。99%の人間は健常者として生まれてくるのだから、やろうと思えば憲法改正でも何でもやって、そもそも、法的に我々が人間ではないという事にすることも理論的には可能だ。実際、つい80年ほど前は、そういう社会だった。この80年、たまたま運が良く、我々の生きる権利を認めてくれただけで、我々が迷惑な存在であることには変わりないので、ちょっと時間がたてば逆戻りしてもおかしくない。
岸田首相は開成卒で東大3回受験して落ちて早稲田法学部合格だから、東大卒の基礎疾患者の生きる価値は認めなかったという事なのだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20220419140308
関西限定とはいえ、160名しか合格できない中で選抜を受けて受かってるのに理Ⅰって合格者数多すぎてヌルゲーすぎる。
私が受験した年、校内での自己申告結果ではセンター試験数学IAの平均点は83点で、そもそも60点以下が10人もいなかった。
元増田が言ってるやつがこの10人~15人に該当しなかったのであれば、そりゃ受かるよ。
しかもこの15人の中でも全教科苦手なやつというのはいなかった。そりゃ1教科とか2教科だけ頑張ればいい奴なら受かるのは当たり前。
中高で6年もかけて勉強する時間があるのにたった2教科の試験で難易度も高くない私立大学の受験で合格できないやつがいることのほうが理解できない。
以下、便宜上、男:女で表現するが、男女差別の意図はないことを断っておく。
(そこで突っかかるやつは勝手にしてくれ)
出生
↓ およそ21:19(1.11)
高校進学率
↓ 男:96.3% 女:96.9%
↓ 係数掛けると
大学進学率
↓ 男:55.6% 女:48.2%
↓ 係数掛けると
↓ 11.1:8.6(1.29)
↓ 早大教育(心理) 他は半々くらになのに4:6で驚いた(0.66)
↓ 立命産社 3:2くらい(1.5)
↓ ベネッセ 4.5:5.5(0.81)
↓ 日販 3:2(1.5)
↓ 楽天 3:2(1.5)
大概の企業では女性比率は3割以上をめざす、としているが、その目安の根拠は応募割合が概ねそのあたりであることに依拠している。
俺らが住んでた地域は中学の成績上位層は高校は公立のトップ校へ行く地域だった.
件の同級生は高校受験の頃は灘とか開成といった、難関私立高へ大量に受けさせる塾に通っていた。
「まぁ,俺なら公立は滑り止めで受けるけどな。難関私立高校目指すぜ」といって受験旅行していたが、難関私立高校全滅。
更に、滑り止めと言っていた公立高校にも落ち,普通の私立高校へ進学した、
文系って営業しか仕事ないwww 上京するんだったら東大しか行く価値ないやろwww
俺は理系だから研究職になってレベル高い奴と一緒に仕事するんだ!」とのこと。
センター終了後
そいつは「君は8割8分だけだったのかwっw?東大文系だったらギリギリじゃね?おれは800超えたぜ足切り余裕」と自慢してきた
そして,結果
あれだけ東大行くと行っておきながら,2次行けなかったんですか???ピエピエ
しかも国立の前哨戦として“滑り止め"で受けたはずの慶應明治同志社(あともう一つどこか)全落ちしてたんじゃないですか?
東大目指す人が同志社落ちるんですか???あれだけ自慢しておいて何ですか?ピエーーーーーーwwww
自己採800以上だったのにですか?
800以上で落ちるわけ無いでしょピエーーーーーー
「いや,当日問題用紙に解答書き込むの忘れちゃって,
自己採は思い出しながらやったんだよ
それお前の実力だからwwwピエーーーーーーwww
現実を見なさい
よっぽど悔しかったんでしょうね,俺が予備校へ報告しに行ったときにすごい目で睨みつけてましたね.
そいつは浪人した途端模試の偏差値が30~40も下がったみたいじゃないですかwwww
浪人生は一番最初に模試を受けるからネタバレできないんですねwww
結局そんな奴が東大なんかに合格できるはずがなく,その後2年連続で東大センター足切り喰らってしまって2浪で日東駒専の工学部へ行くことになりました
2浪もして日東駒専wwwww予備校に払った学費の無駄wwww
そして,それから4年後 そいつは受験だけでなく就活も失敗して,地元のコンビニでフリーターで働いています
中学の同級生がコンビニへ来ると毎回隠れてるみたいじゃないですかwwwww
レベルの高い()奴と一緒に仕事出来てるんですかねーーーwwwwピエーーーーー
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10年近く前に受験ピーエルスレに投稿しようと思って書き殴っておきながら、どこにも投稿するところがないからここに投稿する
なお誰のことを言ってるのか全く覚えてないのでフィクションだと思う。
面白そうなので私も書いてみようか。東日本の公立学校卒→東大理Ⅰのケース。
・家庭環境
電車は通っている、程度の田舎町。父は高校教諭、母は学校の事務員、同居する伯母は小学校教師。そういう家庭だから学業に対する意識は高かった。
田舎町なので私立小中学校などというものはなく、受験は高校から。
小学校入学前からそれなりに頭は良かった記憶がある。特に算数が得意で、数の理解も早かった。
両親が共働きなので、朝保育所に預けられて、放課後は母の知人が預かってくれていた。この養母のような方には今でも感謝している。
・小学校
選択肢も何もなく近所の市立小学校へ入学。国語算数理科社会はまあオール5。伯母の影響で音楽の成績も良好。体育は3。典型的な頭でっかちで、いじめられっ子になるという定番コース。大人になってから「ごく軽度のADHDだったのでは?」と言われたことがある。
うちの小学校には、4年生になったら全員部活に入ること、という不文律があった。男子はソフトボールかサッカー、女子はミニバスケットボールか合唱、しか選択肢がない。4・5年生の間はなんとか回避していたが、6年生では避けきれずサッカー部に入部。運動が得意じゃなくコミュ障な上に「6年生なのに新入部員」で、部のしきたりも知らずあからさまに浮いていた。今から思えば入るもんじゃなかった、のだが、そういう「自分には向かない世界」を早く知ることができたとも言える。
自宅近くにそろばん塾があったので、小1の時に親の勧めで入塾。かなりさくさくと習熟して、市内の競技会(というものが当時あった)では上位の常連だった。但し、それなりに上達してくると飽きる悪癖があり、塾も徐々にさぼりがちに。小6で辞めた。お山の大将になるのはそれなりに簡単でも、世の中にはもっと上の人がいる、ということを子供心に知らされる。
運動が苦手なことを懸念した父により、同僚が運営に携わっている剣道の同好会へ入門させられる。中3までの間、道場には週2回真面目に通ったが、練習は不真面目で大して上達もせず。
・中学校
選択肢も(ry)市立中学校へ。成績は相変わらず。部活動のバリエーションは増えたが結局のところほぼ全部運動部で、剣道部に入って万年補欠。帰りに学校近くの駄菓子屋でゲームやって帰ってくる生活。
英語塾に行った他には学習塾の類は行かず、自宅での勉強のみ。この頃までは「学校で課された科目」だけ順調にこなしていたと思う。
高校はいわゆる進学校しか考えてなかった。地方の常で、歴史ある県立高校が偏差値的な意味でトップ、私立はすべり止め扱い。模試では毎回トップ争い。
受験はすべり止め無しで本番一発。直前に風邪を引いて親は心配していたが、合格圏内には入った。
・高校
進学校なので、近隣中学校の成績上位クラスが集まってくるため、何でもありな小中学校とはかなり雰囲気が変わる。校風はリベラルで、校長先生もその校風に沿ったユニークな方だった。
部活動は管弦楽部に入部。やっと運動部の呪縛から解き放たれる。管楽器は中学校のブラスバンド経験者が占めているため、素人は必然的に弦楽器担当。ヴァイオリンを弾くことになった。相変わらず不真面目に練習して、東大でもオケに4年間在籍したがその後はぱったり。
2年生で文系・理系のコース分け。私は理系クラスへ。成績は高校でも順調だったが、伸び悩みも出始める。そんな頃に、部活の1学年上の先輩からの勧めでZ会に入会。当時の地方在住高校生で、難関大志望の人は大半が入会していたと思う。教科書レベルを超えた難問・良問で鍛えられた。おかげで授業中は講義はスルー、ひたすら問題集を解くことに集中。部活後に家へ帰って夕飯を食べたら深夜までZ会に取り組む生活が続いた。
科目としては数学と化学は得意で、トータルでは学年トップクラスだったが、物理が苦手で平均点+α程度。これはまずい、と対策…した筈なんだが具体的な中身を思い出せない。結局教科書に沿って、一番最初の力学から復習したんだっけかな? 3年生になる頃までには苦手意識も解消。
中学生の頃からパソコンで遊んでいたので、大学は最初は東工大第5類を考えていたが、周囲からの「行けるなら上行っとけ」というプッシュで東大理Ⅰを目指すことにした。Z会にも東大コースがあるのでそちらを開始。模試は毎回A判定なので、これならいけるかなと。
センター試験の自己採点は720点ぐらいで、足切りはクリアできただろうと。当時の東大入試は、1次と2次の成績が1:4の比で加算されるので、ぶっちゃけ1次は足切りさえクリアできればオーケー、レベル。(理Ⅲは知らん)
2次試験は、前期は東大理Ⅰ、後期は東大理Ⅰの出題形式がちょっと特殊なので、トラディショナルな形式の京大工学部を受験することにした。大学受験も私立すべり止め無しの舐めプ。
初日に、得意な筈の数学で大問6問中1.5問しか解けず「これはやべぇ」と焦る。理Ⅰの合格ラインは2.5〜3問。残りの化学・物理・英語で取り返すしかないので、宿に戻って総復習。幸い2日目は好調で普段よりよく出来た感触。かつて苦手だった物理もきっちり得点源にした。
結果、現役で一発合格。
・その後
地方のお山の大将は、東大生の一部であるスーパーマンを見て我が身の程を知るわけで。いろいろあってどうにか卒業、就職してエンジニアやってます。
なんか東大入るまでを書いたクソ長い記事がバズってるみたいなので自分も思い出して書く。ちなみに理Ⅰ現役。何年前かは秘密。
一応小学生の頃から東大に行くと決めていたと思う。父親が東大出身で、ずっと「親に負けるのだけは我慢できん」と思っていて、じゃあとりあえず東大に行くしかないなと。最初は塾に行かず家で市販の教材で勉強してたけど、頼み込んで東大生の家庭教師を付けてもらった。その先生から大学生活について聞かされて、楽しそうだしやっぱり東大行きたいと思ったのをよく覚えている。
中1から高校受験のために塾に通い出した。中学の授業はとことん肌に合わなくて(テストでどんなに良い点をとっても、蛍光ペンで綺麗なノートを作ってる女子に成績で絶対に勝てないと気づいてすっかりやる気を無くした)、比較的システマチックに進む塾の講義が楽しくて仕方なかった。ただ、不安障害みたいになってしまって、途中から心療内科に通うようになってしまった。でも勉強を辛いと思ったことは無かった気がする。どの教科も楽しかった。
高校受験で疲弊したので高1のはじめの頃はダラダラしていたんだけど、3ヶ月くらい経ってこのままだと堕落すると怖くなって、また塾に通いだした。ここも比較的肌に合った。同じ塾に通っている同級生と自然とライバル関係になるので、塾の宿題以外にも勝手に勉強していた気がする。ただ、勉強時間が楽しい教科(数物化)にどんどん集中していってしまって、苦手教科をカバーするために高3で別の塾にも通い出した。今にして思えば親の金に頼りすぎていた。古文の勉強が苦痛でしかたなくて、2次試験で落ちることよりもセンター試験の国語のせいで足切りされることのほうが怖かった。
振り返ると、親に行かされた塾というのは一つも無いので、その点では自主性があったのかなと思う。行きたい塾は全部自分で資料を集めて決めた。ただ、塾で勉強するのに慣れすぎて、大学入ってしばらくは勉強のスタイルを矯正するのに苦労した。当然ながら大学の講義と近いのは塾の授業ではなく高校の授業なのだなと思った。中学の延長で高校の授業もどうせ碌でもないと決めてかかっていたところがあったけど、真面目に受けていれば楽しかったに違いないと今では思う。
親の金で苦労せずに東大に入ったとまでは思わないけれども、独学の人よりは楽をしていたという自覚はある。塾によって勉強のペースが良くコントロールされていたので、自分で長期的な計画を立てて学習するという能力が中高で培われなかったとも思う。
家庭環境に相当恵まれていたのは間違いないだろうけど、環境の面で一番重要だったのは、勉学で張り合える同級生が常に身近に居たことなのだろうなという感じ。