はてなキーワード: 少女時代とは
バックが強い、権威性に弱い、(ファンなので)知らんぷり、これ以外にないぞ
パヤオとパクさんの作品好きだけど(初日に観て感想書く程度には)、
パヤオやパクさんは人として問題あるからキャンセルでって言われたら仕方ないねって思うよ
問題行動は個人の能力や社会的地位によって酌量されるものではないと思っているので
というか、
ロリコンであるパヤオが理想の女性像を生涯追い求めた結果、「母親の少女時代の姿」という究極の答えを導き出し、
ロリになった母親に、あなたを産めるなら死んだっていいと言わせるのは気持ち悪すぎて最高だったけど
6月頃から見始めたおしん。ついに最終回に到達した。全297話を一気見して感慨深い。おしんは明治に生まれ、大正昭和と激動の時代をたくましく生き抜いた女の一代記である。
これまでも2019年頃に再放送された際に断片的にはみていたのだが、フルバージョンで通してみたのは今回が初。全篇を通してみて、いろいろと誤解していたことも多いことに気が付いた。
全く違った。もちろん困難に負けないといった不屈の精神みたいなテーマもあるし、海外ではむしろそこが受けたのだろう。しかし、おしんの本質はそこだけではないというのが全話みた感想である。
いや、もちろん少女時代の奉公先での過酷な試練は、おしんのイメージともなっているし、全編通して苦労が絶えなかったのは確かである。それに耐えようとする根性もみせた。しかし、おしんは最初の奉公先である材木問屋からは逃亡しているし、佐賀の豪農の嫁となってからは、姑の嫁いびりに耐えきれずに幼い一人息子を奪うようにして家出している。7歳のおしんが座木問屋で受けた仕打ちにしても、24歳のおしんが佐賀の田倉家で受けたイジメにしても、視聴者から見るに堪えないとのクレームがあったほどのもので、おしんが耐えきれないのも無理はないものである。特に壮絶だったのは、妊娠したおしんに対する佐賀の姑の仕打ち。まかり間違えば自分が命を落としかねない危険な死産を経験したおしんはついに、佐賀の家を離れ東京行きを決意する。朝ドラとしては、佐賀時代は1ヵ月以上もあり、視聴者にとってもきつかっただろう。なにせ毎日いびられ、佐賀時代におしんが笑顔を見せることはなかったのだから。朝から気持ちを明るくさせるという朝ドラの使命を真っ向から放棄した凄まじく理不尽な展開だった。
後年、佐賀の姑・清を演じた高森和子は、こんなことを言っている。
佐賀編で、田中裕子さん演じるおしんをいびる田倉家の姑・清を演じた高森和子さんも「私はさほど厳しいと思っていなかった。きついといえばきついけど清から見たらおしんのことを我慢できない部分も当然あっただろうし。だから憎まれ役のつもりはなかった」という。ところが、まず舞台地の佐賀からどっと清に対する反発の声が上がった。「役者冥利に尽きるとも言えるけど、そんなに怒られると思わなかったので、最初は少し落ち込みましたね(笑)」。とはいえ、高森さんもおしん役の田中裕子さんの熱のこもった演技に、いびる立場でありながら「あまりにかわいそうで」思わず涙したこともあったようだ。(NHKアーカイブより)
さほど厳しいと思っていなかったという回想は、放送から40年後に、おしんを視聴した私にとってはむしろ衝撃である。なるほど、あの姑・清の行動にリアリティがあるのはそのためか。清の役柄を完璧に理解してこその発言である。プロとしかいいようがない。おしんの娘が死産した際、ほぼ同時に出産した娘・篤子には乳が出なかった。困った清はおしんの乳をもらえないかと頼む。清は授乳するおしんの姿に慈母観音をみる思いだと感動し、死産した娘に愛と名付けていたことを知った清は、自分の孫に愛という名前をもらうことにした。もとはと言えば、おしんの死産は田倉家での嫁としての過酷な日々により体力が奪われていた結果である。自分の孫に愛と名付ける姑の無神経さもさることながら、こんなところにいたら殺されてしまうという思いがおしんの東京行きを決意させた。その際、一粒種の息子・雄を清の手から盗み取って、自立しようと家出するおしんを手助けしてくれたのは、田倉家長男の嫁・恒子。恐らく当時の日本全国の農家の嫁たち(視聴者)は恒子の行動に大きな共感をもっただろう。誰しもおしんのように行動はできない。つらくても長男の嫁として根を張って生きてゆくしかない。真の意味で辛抱する女は恒子である。
これは半分は正しいが、半分間違っている。確かにおしんは、9歳から16歳にかけての酒田の米問屋・加賀屋で奉公した際、大奥様から見込まれ、お茶や料理、裁縫などありとあらゆる花嫁修業のみならず帳簿の分析の仕方など商いのイロハを徹底的に仕込まれた。これは加賀屋を継ぐことになる孫娘加代が商売に何ら関心がなく、将来とても加賀屋を任せられない不安から、加代をバックアップしてくれる存在としておしんに期待していたからである。
しかし、全編通してみると、おしんの才覚はむしろ夫の事業や息子の事業をサポートするために発揮されていることがわかる。10代の頃に加賀屋奉公時代に培った経験は、のちに田倉商会の旦那と結婚し、田倉商店を支えようとするときに力を発揮する。帳簿をみて夫の田倉竜三の経営能力の弱さを見抜いたおしんは、そのを不安を源じいと相談する場面がある。源じいは佐賀の本家から三男・竜三のお目付け役として東京で同居していた使用人である。夢ばかり膨らみがちな竜三の経営には源じいもハラハラしており、おしんの商才を見抜いていた源じいは、おしんが竜三坊ちゃんを支えてくれるものと安心していた。しかし竜三は甘く世間知らずだった。田倉商店は詐欺にあい、あっけなく倒産してしまう。
田倉の再起をかけておしんは自ら稼ぐことを考えた。おしんは手先も器用だった。17で上京した当時、日本髪に弟子入りした経験から、出前の洋髪を始めるとたちまち客がついた。一方、竜三は堕落した。会社員の月給の何倍も稼ぐようになったおしんをしり目に、竜三はカフェを飲み歩く日々。完全に髪結いの亭主化してしまう。日本髪のお師匠さんに相談すると離婚してしまえと助言を受けるが、ここでおしんのとった行動がすごい。夫を再起させるために、自ら稼ぐことをやめてしまうのである。おしんが働くのをやめ、ついに貯金がつき、明日の米を買うお金も無くなった。お金が尽きたとお師匠さんに報告した際にいったタカの言葉「ダメは男はどこまでいってもダメなんだよ」は自分の胸に突き刺さっていたい。どん底を理解した竜三はプライドを捨て勤め人として働きだす。それからのおしんは、再び商売を始める竜三に対して、どんなに商売にセンスがなくても温かい目で見守ることにした。先行きに不安でも、それを表には出さずヨイショを欠かさなかった。夫と一緒ならどんな苦労でもすると明るく振舞う。黙って俺についてくればいいんだと竜三に言わせることで、おしんは夫の背中を押していた。やがて子供服の需要に目をつけ、竜三は工場建設に乗り出すも、関東大震災で多額の投資をした工場は瓦解、田倉商店の夢も泡と消えた。失意の竜三は佐賀に帰ろうと言い出す。そもそも三男坊である竜三は実家の資金で東京で事業を始め、失敗し、夢破れて、太い実家をあてにして舞い戻ってしまうような根性なしだった。前述のおしんの佐賀地獄はここから始まる。
それから数年、佐賀地獄から幼い息子を連れて脱出したおしんは、東京、山形と転々とし、最終的に伊勢に落ち着き、魚屋として地道に商売をする日々が続いた。いずれ夫と家族ともに暮らせる日を夢見て。最初の3年は一人で魚屋を切り盛りしていたおしんっだったが、夫の竜三からは手紙を出せどなしのつぶて。そんな折、有明海干拓の夢破れた竜三が、満州で一旗揚げると別れの挨拶にひょっこり伊勢に現れた。渾身のタックルで、逃げようとする竜三をつかまえるおしんの演技は、天才女優・田中裕子のすごさがわかるシーンである。竜三は自分には甲斐性がないことを承知していた。おしんが行商した金で店を開くのに亭主面して乗り込めるかと、あくまで干拓に拘っていたのである。しかしおしんには会いたい。干拓の夢破れた自分を恥じて、おしんに顔を向けられない。おしんに見つかった途端に逃げ出してしまう竜三。そんな旦那にしがみついて、プライドを捨てて魚屋から一緒にやり直そうと説得するおしんの行動には、ある意味、全篇通して変わらないおしんの本質がある。田中裕子の猛烈なタックルをみるだけでも「おしん」を見る価値がある。マイベストシーンといってもいい。
やがて伊勢に根付いて20年が経ち、この伊勢の小さな魚屋を軍部お抱え業者としての水産加工工場にまで事業拡大させたのは竜三の手腕である。
竜三と長男・雄を戦争で失い、おしんはもう一度魚屋として再出発する。魚屋を手伝い始めたおしんの息子たちはやがて魚屋をアメリカ式のレジを導入したセルフサービスの店に転換しようと奮闘する。それがのちのたのくらスーパーの出発点となった。今日ではどんな店でも当たり前のレジによる精算が当時は画期的な仕組みだったというのも興味深い。それまでは品物の中央に座りザルをぶら下げて、商品の受け渡しと代金の受け取りをするのが一般的だったのである。
魚屋として地域に根差し、身の丈に合った商売をしたかったおしんは当初は反対していたくらいであり、事業の原動力となったのは次男の仁である。おしんは夢ふくらむ仁の行動に不安を覚えつつも、その後の事業拡大を支えていたのは間違いなくおしんであった。しかし、情熱をもって会社をリードしていたのはおしんというより次男の仁であったというのは間違いない。
こうしてみてくると、おしんは実業家として全く野望を持っておらず、本心は堅実に地域に根付いた商売をしたかっただけである。
極貧の小作の娘から、女一代でスーパー16店舗をかまえる地域の実業家になった、というのは筋としては間違ってはいない。しかし、大正、戦前、戦後とその時代時代でおしんがしてきたことは、成功しようと夢見みて危険なかけにでる夫や息子の行動を冷静に分析し、正しく軌道修正しようとすることであった。事業拡大をしようと竜三や仁がいうとき、おしんはいつも反対してきた。これまで大切にしてくださったお客様など義理人情を捨ててまで商売をしようという考えはおしんには全くない、ある意味とても保守的な人間であり、実業家によくある野心家では全くなかった。野心家は夫の竜三であり、その血を引いた次男の仁のほうだった。
もちろん、おしんにはおしんの商売に対する信念があった。それは人のつながりを大切にすることであり、恩を大切にすることである。おしんは昔から自分を育ててくれたり支援してくれた人たちへの恩を忘れず、いつでも義理と人情に生きようとする人なのである。
大正時代に縫製工場を拡大したときも、従業員をこき使おうとする竜三に、社員の健康、福利厚生の大切さを説いていたおしん。ここにはかつて製糸工場で結核になったおしんの姉・はるが使い捨て同然に実家に戻され亡くなった経験がにじみ出ている。伊勢で魚屋の店舗を構えることになったときもおしんはお世話になったお客様を忘れず、なかなか行商をやめようとはしなかった。
またおしんをめぐる当時の関係人物にはそれぞれやはり、一宿一飯の恩義という観念がつよく働いていた。それを象徴するのが、息子・雄の戦友である川村である。雄は南方戦線で亡くなってしまうが川村は戦友に報いるために自分が取得した駅前の土地を田倉家に譲渡するという行動に出る。そしてなんといってもおしんの人生最大の恩人は16歳のときの初恋の相手・浩太である。浩太にとってもおしんは恩人であり、かつ激動の時代を共にしてきた戦友のような存在だった。
おしんの物語は、事業家としての成功の一代記というより、ひとの縁と恩を大切にする人生観がより胸に迫ってくる物語である。いってしまえば浪花節である。いやそもそも成功などせず、ほぼ失敗して物語は終盤に向かう。その失敗についても、その救済についてもいろいろと誤解していたことがわかった。
3巻出ましたね。
たくさんの魅力がある本作だが、私はなにより厘ちゃんさんこと、幸山 厘のファンだ。
この前なんか、ちょっとウザいだけで何ら悪いこともしてないヨンスに対して実害ある接し方をする厘を糾弾(アホなんであのエントリをそんな解像度の低い解釈しちゃってます)するブログがホッテントリに上がり、一理を感じたものの、キイッ厘ちゃんさんはそれぐらい無糖ビターチョコでいいんじゃ!となったものだ。
ただ、読み進めるうち、何やら厘ちゃんさんに対する不穏なものを感じたので、未来に答え合わせするために、ここに疑問を残すものである。
厘はその神略によりラチッタデッラを解散に追い込み、はとっち神と二人からはーとぶれいくを立ち上げたメンバーである。
というかそもそもラチッタデッラだって鳩野とバンドを組むための布石に過ぎなかった。
その厘が、未だに表紙に出てこないのである。
バンドメン最新の彩目が最新刊3巻の表紙を飾ってでも、である。
しかし確かに、3巻は彩目の物語と言っても良いし、内田 桃が表紙の2巻は桃が鳩野の洗礼を沐してバンドに入る巻である。
すると4巻目はさすがに厘が表紙で厘の巻、となるはずだが、ジャンプ+で見る限り、山場は文化祭になるであろうし、確かにはーとぶれいく文化祭デビューは厘の策によらしむるところ大であるが、厘という人そのものにフォーカスされていないのだ。
ただ、その文化祭までの間に、少しだけ厘の過去にフォーカスされる回がある。
正直4巻で厘がクローズアップされるのは34話の田口とのやり取りだけではないかと思われる。
なぜあそこまで田口に反目しているのか、
その田口をして「やっぱり変わったよなあ…」と言わせるだけの、どれだけの変化が過去からあったのか、
そして、ゲームやってる田口の横で膝を抱えて伏し目がちの、少女時代の厘の過去描写の意味は…?
こうなってくると、「ふつうの軽音部」連載開始当初からの厘の行動がさらに不思議になってくるのだ。
「ふつうの軽音部」は、鳩野の癖は強いが声量がバカでかい直情的なボーカルにより、先に書いた「洗礼」に近い形で聴いたものの過去を抉られ鳩野に魅了されていく、いわゆる水戸黄門でいう葵の御紋で物語が進むスタイルだ。
そして、はーとぶれいくの中で唯一、この「洗礼」が加入理由になっていないメンバーがいる。
そう、それが厘なのだ。
1巻を読み返していただければわかるが、厘は鳩野のことを何も知らない段階で、矢賀ちゃんを通して鳩野とバンドを組みたいと申し出る。
夜の誰もいない校舎、視聴覚室でandymoriの「everything is my guiter」の洗礼を受けるのは、その後のことなのである。
なぜ、なぜ厘は洗礼を受ける前に鳩野にすり寄ってきたのか。
1.鳩野も覚えてないようなプロローグが存在する(面白いかも)
2.鳩野がギターボーカルのバンドを結成させることで策は成り、厘は去る。そのため表紙には未来永劫出ない。(バッドエンド)
策を弄したすべての罪を背負ってはとっち神の大成の芽吹きを熱狂のオーディエンスの中で確信しながら、厘は陰腹から滲む紅い温かさを感じながら無音の中オーディエンスの雑踏に沒
私が推したいのは、
ずいぶんと昔に大層好きだった男の人が、ここ最近、ときどき夢に出てくる。
彼は小学校と中学校が同じで、高校は同じ方面の電車。なんと生まれた時から住んでるマンションも同じ。駐輪場で会った回数はいざ知らず。そのため、恋愛感情の有無に関係なく、なんだかんだと日々視界に入ってきた馴染みの存在でもある。
子供の頃、私の妹のおもちゃを公園の砂場に埋めて無くして泣かせたことも、小学校のとき転校生の女の子に惚れてたことも、中学のとき好きだった女の子と卒業後も会いたくて、あえて彼女が使いそうなコンビニでバイトしていたことも、新卒で入った会社でどんな仕事からスタートしたかも、全部知ってる。帰省時に彼のご両親と鉢合わせすれば軽く挨拶もする。
……こうやって書くと、好きだった人というよりも幼馴染だな。恋愛として好きだった期間はそれなりに長かったはずだけど、恋愛感情がない状態で交流していた期間も相当に長い。
未練があるわけじゃない。普段はまったく頭の中にいない。若い頃は仕事終わりに2人で近所の公園でビール飲んだり、夜中にコンビニで出くわしたらそのままアイス買っておしゃべりしたりしてたけど、私が上京してからは10年以上没交渉。「縁が切れるとはこういうことか」と思うくらい、今の私の人生に彼はいない。
にもかかわらず、なんか知らんが今さら夢に出てくる。ごくたまに。
今日も出てきた。詳しいシーンは特に覚えてないけど、目覚めた時に「あ、なんか今日夢にいたな」って感じ。
最初は「どした?死んだのか?」と思った。でも、誰からも訃報が届かないので多分生きてる。奥さんと子供と仲良く暮らしてるのだろう。
「実は私が、彼に未練でもあるのか?」と思って胸に手を当ててみたけどそれも見当たらない。私は私で素敵なパートナーとこれ以上ないくらい毎日楽しく暮らしている。
はるか昔、彼を好きだった少女時代は彼との結婚を夢見たりもしたさ。でも、だから今どうのこうのってわけじゃない。連絡先ももうわからないし、連絡することも特にない。こうやって書くと懐かしく感じる一方で、じゃあ会いたいかと問われれば別にという感じだ。
でも、夢に出てくるなら私の中にナンカがあるんだろう。
元気なんかな。
くらいには気にしてんのかな。
でも正直、あんたが夢に出てくるくらいなら、死んだおばあちゃんとかの方がよっぽど出てきてほしいけどな。
なに?なんか用事ですか?
今、韓国では大手事務所と敏腕プロデューサーが揉めてて大変なことになってるんだ。
はてなのおじさんおばさんでも名前なら知ってるかな。New jeans(ニュージーンズ)ってアイドルのプロデューサーと、ハイブって事務所が大揉めして、株価がすんごい下がっててやばいの。
そのプロデューサー(ミンヒジンさん)がもしこのまま解任となったら、ニュージーンズはどうなるんだろうってKPOPファンたちは心配している。
考えられるパターン
ハイブは韓国で一番力のある事務所で、ニュージーンズはこの資金力にモノを言わせて、めちゃくちゃお金をかけてプロモーションして世界的人気を得たんだよね。
いくらミンヒジンのプロデュース力があっても、いくらアイドルたちのポテンシャルが高くても、ハイブの圧倒的なお金パワーがないとこれまでのような活動は難しいだろうと思っている。
ニュージーンズを構成する要素には、メンバー個人個人の魅力と同等またはそれ以上にプロデューサーであるミンヒジンの存在が大きい。日本でいうと全盛期のモー娘とつんくみたいな感じかな?ちょっと違うかもしれんけど。
まあそのくらい、プロデューサーが変わるとメンバーだけ同じの別ものになってしまうだろうし、これまでの世界観を愛していたファンは離れてしまいそう。
これだけこじれてしまっている様子を世間に晒してしまった手前復縁することは難しいだろうけど、復縁しない限りニュージーンズがおしまいになってしまうので、うまいこと「なんかお互いに誤解してました!タハハ!お騒がせしたね!」となればファンも投資家も安堵するだろう。
やっぱりハイブパワーとミンヒジンパワー、どっちも揃っていないとニュージーンズはニュージーンズたり得ない。
なんかすごい敏腕プロデューサー。
つい最近まで「ブラックピンク以後」だったKPOP女性アイドルを「ニュージーンズ以後」に変えたすごい人。
でも、この人のやり方や言ってることに疑問を感じる人も多いと思う。
韓国で一番おっきい事務所。何年か前まではそんなに大きくなかったけど、所属のBTSってアイドルが世界的に成功したおかげで事務所も大きくなったよ。
厳密にはハイブはいくつかの事務所をまとめる親玉みたいな存在なんだけど、KPOPファン的にはハイブ傘下の事務所ならみんなハイブ所属だという認識が一般的だよ。
ちなみにニュージーンズはハイブ傘下のADOR(アドア)って事務所に所属しているよ。アドアはニュージーンズのために設立された事務所で、ニュージーンズしか所属していないよ。
ミンヒジンをはじめとするアドアの経営陣がハイブを裏切って独立しようとしている。
いくら有能とはいえ親会社を裏切るのは言語道断!許せませんので、解任しま〜す!
最近デビューしたハイブ傘下事務所のアイドルがニュージーンズをパクってて許せんから、ハイブにそれ言ったらなんか解任って言われた。独立なんてしようとしてないのに!
というか、そのアイドルだけじゃなく、あっちのアイドルもこっちのアイドルも、全部私のパクリでしょ!あとBTSも私のパクリ。パクリで事務所でっかくしやがって〜!
b:id:dmekaricompositeです。遅れましたがまた返信です。
ブコメは元々誰からも読まれる可能性があるものですが、今回は石黒さんがエゴサなどで悩んでいる様子なので余計に読まれる可能性高いと思うんですよね。
それなのに例えばこれhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240402192834
なんか「いいねしてた責任はもちろん問われるに決まってる」というのがトップブコメで、暗然としてしまいます。杉田水脈は単に「いいね」しただけでなくこれまでの言動と合わせてアウトだという判定なのに……。それに、いいねした責任というのは一年も誹謗中傷されてもまだ果たされないほど重いのか、仮にいいねした責任があるとするならどれほどの重さが妥当なのかと問い正したくなります。
それで自分のブコメが言及先に読まれることをもっと意識すべきではないかと思いました。それは別に批判するなということではなく、批判するにしても本人の前でも恥ずかしくないくらい正々堂々とした批判をすべきだろうという意味です。
その上で「一番賢い分一番タチが悪い」についてですが、私の第一の誤りはブコメのひどさのグラデーションを吟味しなかったことです。ib:id:muchonovさんのあのブコメは今でもちょっとどうかと思います。ただ「なんか感じ悪い」にすぎず、誹謗中傷だとは言えない。私はそれを「頭おかしい」等の完全に誹謗中傷なブコメと一緒にして「こいつらは敵だな」と雑に判定しb:id:muchonovさんについては「こいつは賢いから誹謗中傷にならないラインを見極めて遠回しに嫌味を言ったのだろう」と邪推してしまったわけです。なので「一番賢い分一番タチが悪い」という表現になりました。
そして──重ね重ねの失礼になりますが、私は以前からb:id:muchonov さんに対して「博識だけど時々無神経なことを言う人だな」という印象を持っていました。
自分のブコメを振り返ってみると、NewJeans紅白出場決定のニュースでb:id:muchonovさんに言及していました。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sanspo.com/article/20231229-AL75GW6KPVIBVOE3OQZE75GYZM/
b:id:muchonovさんが「よく大晦日に日本ローカルのイベントに引っ張ってこれたなと本気で驚いた」とコメントしていたのに呆れて
「紅白にはシンディ・ローパーもエンヤも少女時代も出演してるのに「よく大晦日に日本ローカルのイベントに引っ張ってこれたな」と驚いてみせるid:muchonovに違和感。頭宇野維正なんじゃないの?」
と書きました。私はこの時「b:id:muchonovさんって過剰な自虐をリベラルだと勘違いしてる人なのかな?それともかなり変な人?こういうへりくだりって対等な関係を築くのにむしろ有害なのよね……」とモヤモヤしていた記憶があります。
更に遡ると、新語・流行語大賞「ジェンダー平等」のブコメでもb:id:muchonovさんに言及していました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1810889
この賞の解説の「議員や管理職級の女性の割合を増やしてあげることがジェンダー平等だと勘違いしている人もまだ多いようだ」という文章を竹下郁子や北原みのりがとんでもない誤読をして「増やしてあげるとはなんという上から目線!」と罵倒していた件です。この時b:id:muchonovさんは
「単に「増やす」と書けばいいとこで、書き手自身の認識とも読める文脈で「増やしてあげる」表現を使ったことによる不幸」
「 id:muchonov書き手自身の認識だと読める文脈ではないでしょ…増やしてあげればいいというのは勘違いだとはっきり書いてるのだから。竹下郁子が読解力なさすぎるだけです」
と批判しています。今読み返してみても竹下郁子の誤読はひどすぎると思います。
ただし私は元の文章の書き手を芳野友子連合会長だと誤解して「ちゃんとした文章を書いている芳野さんに失礼」と書いてしまいましたが、b:id:muchonovさんは「あと、賛否両方にこれが芳野氏のコメントだと勘違いしてる人がいるような」とちゃんとツッコんでいました。私も人のことは言えません。
このような経験から私は「b:id:muchonovさんは党派性で認識がゆがんじゃう人なのかな。しかしためになることも言うし、b:id:zyzyのように完全に一線越えてる奴とは違うんだよね……」とモヤモヤした気持ちでいました。
前置きが長くなりましたが、今回の私の第二の誤りはモヤモヤをモヤモヤのままで留めておかなかったことです。答え合わせ云々のブコメを読んだ私は「ああ、やっぱりb:id:muchonovってb:id:zyzyやb:id:white_roseとかと同類なんだ。石黒さんを中傷する敵なんだ!」と安易な正解にとびついてしまいました。このように敵認定すると、モヤモヤは消えます。いみじくもb:id:muchonovさんが仰っている「陣営脳」に染まると0か100かしかないので、人間の複雑さに悩まなくてすむから楽なんですよね,この楽さが危険なのですが。これからはb:id:muchonovさんに対してもっとモヤモヤした認識のままで留まろうと自戒しています。
最後にもう一度「答え合わせ」について。石黒さんの動画を確認しましたが、石黒さんは「いいね」の晒しは好きにすればいい、しかし答え合わせと称して勝手なレッテルを貼るのはやめてくれという主張だと私は感じました。
長くなりましたが釈明は以上です。
そういえば旅行好きにしばしばみられる行動として、訪問場所の事前チェックがある、とふと思った。
旅行に行く前の準備行為として、絶対に逃すべきではない場所や食べ物を入念にチェックする。
現地でセルフィを撮って、インスタなどSNSで送る、という行動、最近では、インバウンドで来日する外国人にとてもよくみられる光景だ。
映え写真をとっては、憧れのいかにもNIPPON!な光景に興奮して即座にSNSで送る。
旅行好きの人たちにみられるこれらの行動は、スタンプラリーとほぼ同じ意味を持つ。
日常との差異の体験やよその世界とちょっとだけ繋がったりできたことの証明と自己顕示が欲しいのだ。
その意味で、他の人のインスタと同じ構図で撮影することが現地に到達したことを証明するうえでとても重要。
このような形で消費される、「日常では手に入らない新しい体験」は、要するに、「ごっこ」であり、エコツアーにしてもアグリツーリズムにしても何しても、
現地との関係性を一瞬だけ体感できる、という意味で、旅行者が憧れていた「日常との差異」や「関係性」を消費する行動なんだろうな。
さて、それが近年の傾向なのか?というと恐らくそうではなく、これは、かつての絵葉書を送るというスタイルから変化した形で、
東海道五十三次の時代からそうであっただろうし、男女にも差がなく、古今東西それほど大きな違いはなさそうだ。
日常との差異を消費し、疑似的な関係性に癒されるというのは、昔からあったのだろう。
ところで、僕は男性で、わりと旅行好きというか、仕事柄、年がら年中、スーツケースをころがしている。
そんな男性の立場からみて、女性のほうが傾向として強く、逆に男性に弱いことでひとつだけ思い当たることがある。
それは、旅先で一時的に体験する関係性を、その後も持続させようとする傾向だ。
旅先で知り合った人とその後も連絡を取り合ったりとする傾向は女性のほうが強い気がする。
「おもいでぽろぽろ」というジブリの高畑勲監督の映画(1991)がある。
都会育ちのOL女性が田舎暮らしに憧れる、というところからスタートするこの物語は、農家体験をしてゆくうちに気持ちが変化し、
この映画の場合、旅先の地に女性を迎え入れる男性やその家族という存在があるが、
いろいろふりかえってみると、必ずしも現地にそのような迎え入れるひとや団体がなくとも、旅先で憧れた現地に、そのまま飛び込んでいく女性というのをアジア、アフリカ、中南米でしばしばみてきた。
かつて、「なんでこんなところに日本人」という世界の片隅で暮らす日本人を紹介するテレビ番組があったが、その番組で紹介しているのも、若い女性の活動が目立っていたように思う。
「男女差」という視点で、いろいろ参考情報をみていくと、例えば
海外留学の男女比も女性のほうが10ポイントくらい高いのだそうだ。
また、男女管理職別で見ると、男性は自社内のキャリアアップの意向が高いのに対し、女性は男性よりも転職でのキャリアアップ意向が高いのだという。
男性は女性よりも保守的で、外に関心がない、という傾向はそこから見て取れるのだが、
だが!しかし、、、、
果たして、そんなふうに男女差を単純に断じていいのか?とも思う。
それでも確証はないけれども、これらの数字が出ている以上は、それにむすびつく何かしら男女差のような背景はありそうだ。
まずは、男女共同が叫ばれつつも今をもって日本は男性社会であるという事実から出発してちょっと考えてみる。
突飛な発想かもしれないけど、1970年代初めごろの歌謡曲で「瀬戸の花嫁」という歌を思い出した。
瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。
「あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの」
当時、女性が他の家に嫁ぐということは、程度の差こそあれ、この歌が表現しているように、
ホームからアウェイに飛び出してゆくことであり、その後一生アウェイで暮らす覚悟が必要だった。
アウェイといえば、ドラマ「おしん」(1983年)。朝の連ドラとしては異例の一年間の長編ドラマとなった「おしん」。
そこでは、さらにもっと幼少のころから嫁ぎ先へとひたすらアウェイで過酷な人生が描かれ、しまいには終戦時に夫が自殺し、どん底な半生が半年くらい描かれている。物語の後半では、敗戦後、残された子供を抱えて女手ひとつで小売店を立ちあげ、自立してゆき、やがて息子へ引き継いでゆく姿が描かれ、多くの女性の共感を呼んだ作品だった。
孫までいるおばあちゃんとなったおしんだったが、このドラマは、事業を引き継いだ息子が無謀な事業拡大を始めたことで経営リスクに直面し、育て方を間違えたと自信を喪失したおしんが、過去を振り返るために原点である山形への旅に出るというシーンから始まっている。一年近いドラマの終盤300話くらいから、その伏線を回収し始めるという、息の長いドラマで、橋田壽賀子、すげえという感じしかない。
アウェイな世界でたくましく生き抜くおしんとは対照的に、登場する男性はどいつもこいつもダメな男ばかり、というのも印象に残った。(補記:特におしんの夫は軍組織に尽くし、結果として多くの命を亡くした責任を感じて自殺したという筋書きだが、拠り所となる国家、軍などのホームベースが敗戦により瓦解したことのショックが実際のところの引き金だろう。)
「嫁ぎ」に象徴されるように、簡単に引き返せないような事柄に身を投じる女性のエネルギー、勇敢さ、芯の強さは、男性社会のなかで女性に文化的に育まれたものなのかもしれない。
昨今では、結婚を就職になぞらえる向きもあるけれど、かつての日本社会はいったん他の家、姑の支配下に入ったら最後、そんなに生易しい現実ではなかったはずだ。
一方で、男性は芯がないくせに保守的で臆病だ。外の世界を渡り歩いていて、仮に失敗してもギリギリ、ホームグラウンドにもどってこれる、みたいに何か安全弁のようなものを男性社会そのものが仕組みとしてもっていた。だからその範囲でしか外に出歩かないのだ。ふるさとの家業を継ぐなんて選択肢が30代くらいの人生の岐路に用意されているとかね。逆に成功を収めれば、故郷側が自分をほめてくれる。【故郷に錦を飾る】というのは男性的な価値観だ。
女性はというと、嫁ぐにしても出戻るにしても自分の居場所を確保するには厳しい世界。
「嫁ぐ」という習慣、因習、宿命から生まれた、抑圧されてきた女性の生きるエネルギーが、むしろ社会を変える力になってゆく。
山崎ハコの「望郷」で歌われる故郷は、帰る家もない、戻るに戻れない場所としてうたわれた。これは失敗すれば帰って慰めてくれ、成功すれば褒めてくれる男性の故郷観とは対照的だ。これはなかなかパラドックスだと思った。
翻って、旅行好きの女性について思うことは、ホームグラウンドからアウェイな世界に飛び込むという意味で
かつての日本によくみられた嫁ぐという宿命と旅は似たところがある。嫁ぐ行為が違うのは、それが片道切符であり、二度と戻れない覚悟が必要だということだ。
若い女性にとって、日常空間から飛び出す、という旅行体験は、やがては「嫁ぐ」という運命が現実世界で待ち構えていた時代には、疑似的に自分の覚悟や能力を試す場としてより大きな意味があったかもしれない。
嫁ぎ先である日本社会、日本人男性に漠然と失望している場合、希望がもてなければ、いずれにしてもアウェイな世界で生きる宿命ならば、
いっそのこと、旅先の現地でとどまって残りの人生を過ごすことも選択肢としてはあり、くらいの感覚が深層心理にあるのではないかと妄想する。
一方で、男性のほうは、ホームグラウンドである故郷というものが概念として存在していた時代は、旅というのは、違った意味を持っていたと思う。都市に何世代も定着した人口が急増したここ四半世紀より前の20世紀の話だ。
かまやつひろしの歌で「どうにかなるさ」というフォークソングがある。
「見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ」
この世界観は、瀬戸の花嫁のようなアウェイな世界で生きる覚悟は感じられない。アウェイでもどうにかなると思っているのだ。
なおかつ、ホームグラウンドを出て行ってもなお、ホームから温かい視線を旅人である自分に向け続けてくれていると信じているのであり、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんとほぼ同じ世界観だ。ボヘミアンを気取って出て行っても、いざとなったらただいまといって帰れる場所がある。
そういえば、寅さん映画も、旅先での関係性を持続できないということがひとつの大きなテーマになっていることに気がついた。
民俗学者の宮本常一は、故郷を捨てて放浪する旅人を考察した文章のなかで、そうした旅人が
地元を去って放浪した末に、やがてひょっこりと故郷に戻ってきて、旅先で得た経験や新しい知識を広め、地域の活性化に寄与する機能を果たしていたことを、
世間師という言葉で表現した。フーテンの寅さんのことを考えていたら、そんなことも思い出した。
世間師というのは、故郷側の人間が出戻りの人間に対して名付けた呼び名で、一種の敬意が込められている。
嫁ぐということが待ち構えておらず、ゆくゆくは地域社会でリーダーシップをとっていかなければならない男性の潜在的な意識として、旅は武者修行であったり、広く見聞を広め、世の中の解像度を上げるための行為だったのかもしれない。会社組織が全国各地の赴任経験を重視しているのも同じ価値観といえる。
かつて東南アジアへのセックスツアーなどがあったように、赴任先、旅先で恥をかき捨てるのも主に男性だ。
男の旅というのは、ちまちましたもので火遊びのようなもの。家から離れて外の空気を吸いたいというものだ。近所のスナックだったり、家庭が壊れないようにという不安があるからあまり大きなことはできないが、脇が甘いから夫が捨てたラブホテルのマッチを妻がゴミ箱から発見してしまう。やまだ紫の「しんきらり」という漫画では、そんな情景が描かれていたのを思い出した。
しかし、この四半世紀、女性の社会進出や、結婚観は大きく様変わりし、嫁ぐということを前提としない将来像を女性が模索する時代になった。
テレビドラマも、90年代以降、女性の社会進出を反映して、トレンディドラマに代表されるように、キャリアウーマンがオシャレなレストランで食事する、みたいなシーンが増えた。
東京ラブストリーとか。憧れのロールモデルが描かれるようになったということだ。ドラマの世界にあこがれる、ということが90年代まではあり得た。
しかし、現実の女性の社会的地位はどうだったかというと、総合職課長以上に登れるのは一握りで、相変わらず賃金格差があり、お茶くみやらと男性社会における旧態依然とした女性の役割が押し付けられていたのが現実だ。その現実を90年代のドラマ「ショムニ」でよく表現されていたように思う。
しかし、さらに時代は変わって、憧れの東京に向かって、急速に人が流入しつづける時代は終わりつつあり、受け入れるキャパもなくなってきた。「おもいでぽろぽろ」の主人公の少女時代(1970年代)は、都会の夏休みのラジオ体操に二人しか参加していないほど、ふるさと=田舎をそもそも持たない世帯が少なかった。今では想像もできない光景だ。
中長期的には東京一極集中のトレンドは変わらないものの、それは不動産価格のトレンドに連動したもので近隣県から流入が中心。一方で、田舎というベースをもち帰省が必要な人というのは減っているのではないか。首都圏の人は首都圏で世代を重ねるし、地方の人は地方で価値を見出し、仕事をみつけ、結婚し、次世代を育てる、という人口流動の安定期になってきたようにも思う。帰省という形でつながっていた地方(ふるさと、ホーム)との関係が途切れてきているといってもいい。
そうなると、都会の人間が地方に見出す価値というのものというのは、失われた関係性そのものに重きがおかれるようになるのは自然なことだ。
その結果、その後に続くドラマの傾向としてみても、(都会で活躍するキャリア)女性の理想像ではなく、もっと実態に即した現実を映し出す、自分探しのようなドラマが増えていったように思う。
一昨年のドラマ「ファーストペンギン」とか「ユニコーンに乗って」なども、スタートアップ企業をテーマに女性の自画像を模索した作品で、近年の傾向を象徴しているように思えた。
「ファーストペンギン」のように地方移住をテーマにした作品は、アウェイな環境で女性のポテンシャルを試そうとするという意味では、「嫁ぎモデル」の延長線上にあるような気もするが、都会との関係性が交錯しながら物語が進むところに、考えるヒントを与えてくれるドラマではあった。
そんなことをおもった。そもそもの旅行の話からはかなりズレてしまったけれど、女性が旅に何を見出しているのか、というのは女性の人生観ということと絡めて考えてみると、興味深いテーマだとは思う。
とりとめもないメモです。
上記の書きなぐりをAIが次のように要約したので感心した。ここまで断言できないからゴチャゴチャ書いてたのに。
旅行好きの女性の特徴と男女差
旅行好きの人々は、事前に訪問地の情報をチェックし、SNSでの共有を楽しむ傾向がある。これは、日常からの脱却と、新しい体験への憧れを表している。特に女性は、旅先での関係性を持続させることに価値を見出すことが多いようだ。
歴史的に見ても、男女間で旅行に対するアプローチに大きな違いはないものの、女性はより積極的に新しい環境や文化に飛び込む傾向があると言える。これは、社会的な役割や期待に対する反応として、女性が自己実現のために旅行を利用していることを示唆している。
一方で、男性はより保守的で、旅行を通じて得た経験を故郷に持ち帰り、地域社会に貢献する傾向がある。これは、男性が社会的なリーダーシップを担う役割を果たすことが期待されているためかもしれない。
故郷と都会の関係性の変化
現代の日本では、故郷と都会の間の伝統的な絆が薄れつつある。かつては、人々は故郷を離れて都会で働き、定期的に帰省することで地方とのつながりを保っていた。しかし、今では都会で生まれ育った世代が増え、地方への帰属意識が低下している。これにより、都会の人々が地方に求める価値は、失われつつある関係性そのものになっている。
この変化は、地方と都会の間の人口流動の安定化を示しており、それぞれの地域で価値を見出し、生活を築く傾向が強まっている。結果として、地方への憧れや関係性の再構築は、新たな形での自己探求や社会的な動きに影響を与えている。これは、女性が旅行を通じて自己実現や自己探求を行う動機に影響を与えていると考えられる。
旅行は、日常からの一時的な脱却を提供し、新しい環境や文化に触れる機会を与える。特に女性にとっては、旅行が自分の居場所を見つける手段となり、故郷とは異なるアイデンティティを探求するプラットフォームになることがある。
芸人の結婚報道を見て思った。これが仮に18歳デビューしたモデルやグラドルと結婚したとか言われても「ロリコン」とか蔑まれないし「うらやましさ」のベクトルが違う。
それまで結婚や女性との付き合いにネガティブでネタにしてた男が結婚を決意する理由って相手が「子供の頃から知ってる女か(少女時代から知っている女か)」ってところにあるのだと思う。
非モテ系弱者男性は学生の時にもてなかったことがコンプレックスになっていつまでも引きずる。本来なら自分が子供の頃から一緒に成長して相手の酸いも甘いも一番知ってる「あの娘」と付き合って結ばれたかった。でもそんな娘できなかった。
だから少女の頃から一緒に仕事をして成長を見守って18歳成人するのまで人格を見極めた女との結婚というのは学生時代のリベンジにもなる。
あと5㎏で100㎏の壁を突破するがなかなか太れないでいる。
とある広い公園で、年配の女性をナンパしてるスポーツ新聞片手じっじがワイ氏の後ろをついてくることに気が付いた。
ちらっと、ベンチに腰掛け隣に座れとジェスチャーしてるのが見えた。
ワイ氏は非常に麗しいツラをしている。
ハンターでいうところの優しい顔のミルキがボンレスハムと思ってくれればいい。
これが15-20歳ぐらい年上の一部の男性の性癖にずっきゅん刺さるらしい。
職場で、電車で、街角で、初対面であるというのに初手「ホテル行こう」という直球を投げてくる輩がいる。
道を歩いてても、いきなりジュースを買ってくれたり、小遣いを上げようと財布を出すおじさんもいる。
すぐスケベ話をしてくるので、そういう目的だ。
昭和生まれの男に、女のデブデブ脂肪が好きな層が一定数いるようだ。
もしくはデブ女はすぐヤれる、という成功体験をもっているのかもしれない。
平成、令和ときて、もろアウトなセクハラではあるが、ワイ氏はちょっと興味を持った。
スルーしていたが、戻って、ベンチの隣に座った。
じっじに比べれば若い女だ。
大喜びである。
会話は、競馬、競艇、どこに住んでるのか、独身か、男はいるか、などと個人情報を探ってくる。
じっじの一方的な会話と質問に、ワイ氏は嘘を並べて、真実は何ひとつ語らない。
嘘だらけのワイ氏の個人情報を聞き出して、じっじから結論であるところの「ヤりたい(意訳)」という言葉が出てきた。
先に、ワイ氏は興味を持った、と書いた。
興味は満たされた。
ワイ氏は少女時代からホワイトカラーからもブルーカラーからもお誘いを受けてきたが、
今回の60代半ばじっじも、隣に座れと席をべしべし叩いてみせたが、ワイ氏には指一本も触れないことが確認できた。
彼らは前時代の性規範で生きているが、痴漢行為と受け取られるような行為はしない。
これは失敗から学んだ学習成果か、それとも一応道徳心ある紳士であろうとしているのか。
判別がつきづらい。
『なぜ触らないのか』
誤解を恐れて尋ねることはできない。
「結婚したけど別れた。寂しい。女が欲しい」
「いいえ。いりません」
道を行く年配女性をナンパし、初対面のワイ氏をベッドに誘うようなじっじの人間性には間違いなく問題がある。
野良猫の交尾でもあるまいし、良識ある人間は名前も知らない異性と寝ようとは思わないのだ。
恋人でも結婚相手でもない男と金銭のやり取りもなくセックスする女はまずいない。
じっじの提案は「ガストで飯を奢る」という他愛ないものだった。
お互いに安いですねえ、とワイ氏は一人でちょっと笑った。
空の雲行きも怪しいし、帰ると告げて席を立ったら、また付いてくる、まだ話しかけてくる。
警告のちに面倒くさいけど警察コールかと思ったら、ヘルパーさんとそのお世話になる品の良いおばあ様が車椅子でやってきた。
ワイ氏はぱああああっと顔が明るくなる。
いいところに来てくれた。
じっじの目の前でその二人に話しかけた。
付きまとい終了。
何度か付きまとわれてるが警察が来る前に逃げてしまうパターンがほとんどだ。
一応、逃げてしまった場合でも警察に通報していいことになっている。
今回はワイ氏が付きまといに応じてしまったのがアカン要素で、本来ならば厳しく拒絶が望ましい案件である。
警察に通報した場合も、ワイ氏はたぶん怒られるか注意を受ける。
人間の食べ残しの味を覚えたクマが人里に降りてくるようなもので、
性欲と孤独に負けたじっじが再び年配女性や勢い余って未成年に近づいて警察に通報され、性犯罪者となり、逮捕される事態を招きかねないからだ。
一日の終わりに書き記して覚えられたら覚えていようと思う。
https://www.foxnews.com/media/stores-sell-bud-light-free-mulvaney-backlash-continues
「目が覚めた」反発でビジネスが疲弊するなか、バド・ライトは客にビールの無料提供を懇願 - 終わりは見えない
販売とリベートによるこの大幅な値下げは、バドライト製品と、トランスジェンダー活動家のディラン・マルバニーと提携したアンハイザー・ブッシュ・ブランドに対する激しい反発を受けて行われた。マルバニーさんは、「365日の少女時代」の完了を記念して、活動家の顔が描かれたバドライト缶を飲む動画に出演した。
このビデオは、製品をボイコットする保守的な取り組みを開始した。アンハイザー・ブッシュ社は、この缶は公に販売することを意図したものではないと主張したが、この暴挙は引き続き販売に影響を及ぼした。Bump Williams Consulting のデータによると、Bud Light の売上は1 年前と比較して 23.6% 減少しました。
妹から、日プ3に応募しないことに決めたと聞かされた。
もう22歳。世間では十分に若いけど、アイドルデビューには少し遅すぎる。
小学生の頃に少女時代を好きになってから、ずっとKPOPを追いかけていた。
ただのアイドル好きだった私と違って、妹は本気でそうなりたいと憧れていた。
両親は妹の夢をあまり真に受けていなかったようだったけど、せめて私だけでも本気で応援しようと心に決めて数年間過ごしてきた。
一度、韓国アイドルと日本アイドルの区別がついていない父親がAKBオーディションを受けてみたらと言っていたことがあった。
妹は呆れた顔で断っていたが、そのしばらく後にプデュ48が始まり、IZ*ONEがデビューした。
あの時お父さんの言うとおりにしておけばよかったのかなと後悔する妹を見て、こちらまで悔しい気持ちになった。
妹は色んなオーディションを受けていたけれど、練習生にすらなれなかった。
妹は、本当に頑張っていた。努力の人だ。
歌もダンスも上手だし、いつの間にか英語も韓国語も話せるようになっていた。
アイドルになるのだからと彼氏も作らなかったし、SNSも清廉潔白だし、体型維持のためにとお菓子やジュースを摂っている姿はもう何年も見ていない。
それでもだめだった。時間だけが過ぎて努力だけの22歳になってしまった。
まだ手遅れな年齢ではない。でも、大学4年生だ。
卒論や就活、色々なものの兼ね合いをたくさん考えて、悩んで、諦めることを決断したんだろう。
そう決めた妹の意思を尊重したいけど、諦めないでほしいと思ってしまう私のエゴもある。
大学なんて留年しても良いし、就活なんてどうにだってなるよ、と言いたいけど、無責任に妹の人生を振り回せない。
でも、もし、本心では諦めたくないと思っていたら?アイドルになれるとすれば、今回の日プ女子が妹にとってラストチャンスだと思う。
それなら背中を押したい。
他薦してしまっても良いのだろうか。
死んだ婆ちゃんは舟木一夫が大好きで、葬式では「高校三年生」が流れてた。
死んだ爺ちゃんは特に歌手とかには興味なかったらしくて、葬式では式場が用意したらしい無難なオルゴール調の曲が流れてた。
父さんも特に歌手とか興味ないみたいだし、もし父さんが死んだら式場には「葬式っぽい曲で」ってお願いするんだろうな〜と思ってるんだけど、母さんが死んだときはどうしようかな。
「お母さんは菊の花が気持ち悪くて嫌いだから、お母さんの葬式で菊の花は飾らないでね」って小学生の頃からずっと言われてて、なんか葬式に対するこだわりが強そうな気がしてるから、ちゃんと好きな曲をかけてあげたい。
お母さんの好きな歌手、知ってる限りだと、KARA、少女時代、E-girls、Perfume、NiziU、Le Sserafimとか、、、どうやら日韓ダンス強めアイドルが好きっぽいんだけど、葬式にアイドルソングってちょっとどうなんだ?
1960年代では舟木一夫も同じ扱いだったりする?冷静に考えると葬式で高校三年生って意味わかんないもんね。
証拠がない時に言ったらネタだとか嘘だとか言われて悔しい思いをしたのでこの機会を逃せない。
これについて、「漫画表現のせいで現実のスカートめくりが発生した」のはほぼ事実です。これは発端になった漫画を描いた永井豪先生も自分で認めてらっしゃいます。その後「まいっちんぐマチコ先生」でさらに大流行となり、女児被害者が多発、PTAが猛抗議し、連載差し止めになる等大騒ぎになりました。
自分も実体験。マチ子先生流行時子供だった。パンツまで降ろされそうになった。のちにしつこくめくってきた子に「好きだった」と言われた。彼はもう忘れてるだろう。やられた方は一生忘れられない
2023/01/11
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sodium/status/1612993220979621888
ほーらな?
マンガ叩くフェミニストってほんとにマチ子先生の話するんだよ。
あのさあ、
もう立派なおっさんの俺でもまだ生まれてもいねえっつうんだよ。
40年前の少女時代にマチ子先生のせいでスカートめくられたと。
それはご愁傷さまでした!辛かったね!
でもその話を現代のマンガ叩きの根拠にするのは狂気の域だからな?
言ったらなんだけどマチ子先生の流行時代にスカートめくられてた人ってそろそろ還暦だろ。
そんな人の十代の頃の体験って、歴史的出来事として語るんならいいけど
その話で現代の話に普通に接続してこようとするのはやめてくれよ。
俺マジでマチ子先生ってマンガもアニメも見たことないんだよな。
絵とタイトルだけ知ってる。
「マンガの害」を語るフェミニストがマチ子先生例に挙げるのを何度も何度も何度も何度も見たからなんだよ。
マジでマンガ叩きフェミニストはマチ子先生マチ子先生って言う。
けど、現代のマンガを有害だって叩こうとする話で例示がマチ子先生まで遡るんなら
そのあとの40年は大した「有害マンガ」がないってことじゃん。
そんならいまのマンガを敵視して萎縮させようとする必要なくね?
マンガがどうこうじゃなくてマチ子先生が特別有害だった可能性濃いんじゃね???
で、はてブもだけど、
こんなコメントが一位になるってことは星つけてるのも大概中高年~高齢者ってことじゃん?
年長者に対して汚い言葉とか使いたくないから、自分で分別を持ってくれよ。
年取ってても、
けどマンガの思い出で真っ先にマチ子先生出てくる人達はマジで身も心も高齢者でしょ。
40年前に有害なマンガがあったから今のマンガはデータなしで叩いて規制していいのかよ。
なんかもうあんたら、脳の新陳代謝止まってるし現代にもマンガにもあんま興味ないでしょ。ほんとは。
はてなは老害叩きが辛辣な割に自分達の加齢ボケには無自覚すぎるんじゃないの?
こんな人達にあてずっぽうで現代のメディアとか表現とか語られたくないし
こんな人達の体感やお気持ちで表現規制なんかミリでもされたくないんだよ。
これは煽りでもなんでもなく言うけど
寺社巡りとか盆栽とか内向きの精神世界に目を向けたらいいと思うんだよ。
ネットでとんちんかんな社会にもの申す老人やってる奴よりずっと格好いいだろ。
もう社会の話に入ってくるなよ。
40年前の体験の話でいまの話に入ってこられるのいくらなんでもウザいよ。
あんたらだって若かった頃そういう年寄りにうんざりしたはずだろ。
実際なんかしらんけどマンガやアニメ目の敵にしてるの老人ばっかだし
オタクだというだけで凄まじく見苦しい偏見吐いて差別するのも年寄りばっかだし
言ってる話がマジでタイムスリップしてるみたいな時差があって話になんないんだよ。
もう黙っててくれよ頼むから。
んーだから悪影響を与える可能性はないわけではないけど規制は反対なら話が進むのだが、絶対悪影響与えないって言い張るからデータを出されてるだけでしょう。で今度は「現代漫画に悪影響は絶対ない」ですか。
2023/01/12
いやいやいやいやw
「現代のマンガはこのように著しく有害なのです!」ってデータで証明する必要があんの。
当たり前。映画だってドラマだってこの文章だってなんかの影響はあります。
そんな当たり前のこと言って表現規制根拠になると思ってるならそいつがやべーだろ。
「ほんの少しなら影響あるはずだ!」で規制できるなら
頼むよ。
お爺ちゃんかお婆ちゃんかしらねえけど日本語と道理くらい理解して。
A「ワシも十代のころスカートめくりした!」
もうこのお爺ちゃん会話が成立しねえだろ。
そして、この人だけじゃなくこういう状態の人が大勢いませんか?って話な。
houyhnhm うーん、実際どういう感じで影響があったのかがマトモに考えられてないのがなあ。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A そこで発明された訳でもないんだよ。
それな。
そもそも40年前のマチ子先生伝説自体まともに精査されてないんじゃね?
たとえば「単にこいつらの世代が性犯罪に対して甘かっただけ」なのでは?
という可能性についてきちんと調査されて却下されてもないわけじゃん。
あともう一つ「単にこいつらの世代がフィクションと現実の切り分けガバだっただけ」なのでは?説もきちんと検討してほしいよね。
東京卍リベンジャーズがあれだけヒットした後で暴力事件が激増したって話もないわけじゃん。
鬼滅の刃が社会現象になったあと刃物や刃物状のもの使った傷害事件が激増したこともない。
何よりお爺ちゃんお婆ちゃんの体験のような「性犯罪の大流行」が起きたことなんか一度もない。
「実は単に40年前が青春時代だった世代が特別にカスだった」可能性ちゃんと検討した?
その世代が特別に性犯罪に甘くて、特別にフィクションと現実の区別ガバくて、
「自分達がヤバかっただけなのに下の世代に説教して規制しようとしてる」って可能性は?
上で得意気に「ワシもスカートめくったぞ!」つってるお爺ちゃんもだけど、
それを自分の恥部としてんじゃなくて下の世代を殴る鈍器にしてる感じあるじゃん?
なんでお爺ちゃんお婆ちゃんの聖痕「スカートめくり」で下の世代が殴られたり抑圧されたりしなきゃならんのよ。
自分達を総括してろよ。
40代後半のおばちゃんは、実害があった記憶があるけど、その下の世代になるに従って漸減していってる(良くなってる)と思うし、一方で絶滅してる訳でもないのよねと思うのよ、現にこういうクソ増田が絶滅してないから
えっ論理が全くわかんねーんだけど
俺の文章によって性犯罪が絶滅してないと確信するってどゆこと?
「フェミニストを批判するなんてこいつは性犯罪者に違いない!」……ってコト?
こういうレベルの”感覚”で何かを確信する行為って俗語では「受信」とか表現されるよね。
この感じの人が社会について何か発言することの意義がわかんねーんだよな。
あと性犯罪が絶滅する日なんてこねーと思うので(あらゆる種の犯罪がそうだろ)
もしも「性犯罪が絶滅するまで表現規制の必要がある」という規制論者が居るとすれば
それも会話になんないよね。
こういう態度こそが歴史から学ばないってやつか。たかだか40年前を古いと言うのなら、戦時中や戦前に起きた自国の過ちを省みる事なんて到底無理なんじゃなかろうか。
2023/01/12
「40年前に一件そういう事例があれば現代の表現を根拠省略して規制していいんです!」
こういうのは「歴史を大事にしてる長老」っていう表現も違うよね。
「科学的な思考が出来ないのでフィードバックが適切でなく迷信撒き散らすだけの残念な年寄り」 側なんじゃねえの?
要するに自分達の世代独自のぐにゃぐにゃなナラティブで下の世代に話になんねーこと言ってるだけ。
きちんとした議論なんかする気もないんだよこいつらは。
すごいシームレスに反戦左翼イシューになだれ込むところもポイント高いよな。
こういうのゲンブツが無いと「そんなのいない、藁人形論法!」って言われるし
そしてこの古老がそこそこ星とって上位に来るのが
お前等二度と老害叩きで盛り上がったりすんな。
証拠はないが宅八郎とヤンキー漫画は実社会に悪影響及ぼした、証拠はないが性差別表現には一切悪影響はない、がオタク村の常識なんだけど論理的思考が苦手な一般人にはこれちょっと難しんだよなろんりてきに。
ヤベエまた訳わかんねえ皴皴反論だ
宅八郎って誰?ってWikipediaで調べるとオタクの戯画化的な格好でテレビに出て活躍したライターで全盛期は33年前。
数年前に亡くなってて生きてたら60歳。
だからさあ
現代の話だっつってるのにナチュラルにアラ還タイムスケールでレスしてくんのやめてくれよ!
30年以上前の人の話で当て擦りされてもわっかんねーんだよ!
さんざん「あんたらの時間感覚は狂ってる」って話をしたのに、生きてたら還暦の人の33年前の全盛期のネタで反論風の何かをしてくるの凄すぎるだろ。
ねえ、これ見てる人達も客観的に少しは気付かないか?自覚のない高齢化と時間感覚の解離がヤバすぎるだろこの村。
当時の証言者です「スカートめくり」も流行ってたし「ボインタッチ」はそれ以上に流行ってた。アニメ放送してた時期に被害集中。クラス中の男子がやってた。やめろ言うてもやめないんだよ猿だから。あまりにも胸糞 被害がなかったことに されてるのはスカート と違い成長期で胸の 大きくなり始めた子 だけに被害が集中する 構造だから。 普通に犯罪なんよ
俺の話聞いてた?
「40年前当時スカートめくりの流行などなかった!捏造だ!」的なこと1ミリも言ってないと思うんだが
これが1位に押し上げられるの
A「あなた達の40年前の体験談はいいけどそんなんで現代に規制かけようとするのはやめて」
B「当時を知る証言者です!スカートめくりはありました!犯罪なんです!」
B'「うおおおお!ハルモニが生き証人だ!歴史修正はさせない!!☆☆☆!!!」
年齢層高いとはいえここまでコミュニケーション不能とは思わなかったわ
正直まだまだ見くびってた
K-POPに関しては大昔の少女時代くらいで知識ほぼ止まっていたし、最近だとせいぜいBTSなど見て楽曲の良さに感心したりする程度。
そんな中でついさっきたまたまYoutubeで見かけたのがNewJeansなんだが、このMVが最高すぎたのでその勢いでこれを書いてる。
このグループは最近出てきた5人組のガールズグループでデビューは2022年7月くらいらしい。
曲名は「Ditto」でMVとしては同じ曲でSide A とSide Bというふたつのバリエーションがある。
https://www.youtube.com/watch?v=pSUydWEqKwE
https://www.youtube.com/watch?v=V37TaRdVUQY
ある少女が学校でビデオカメラを回しており、NewJeansのメンバーがそこに映って一緒に楽しく学生生活を過ごしてる風景が続く。
教室、屋上、校庭などで楽しそうに踊るメンバー。ポップでありながら儚さも感じる美しい楽曲と併せてなんだか切ない気持ちにもさせられる。
曲が終わりかける頃、とつぜん子鹿が現れる。
教室や屋上でビデオを撮っているシーンが繰り返されるが、NewJeansのメンバーはそこにはいない。
え、なに、こわ・・・
MVはそのまま一人ぼっちで雨の中下校していく少女の背中を写して終わってしまう。
自分の解釈では、映像に映り込むNewJeansのメンバーは撮影してる少女のイマジナリーフレンドであり、実在してしない。
はっきりと説明されてるわけではないけど映像的にそう考えるのが自然かなと思える。
つまり孤独な少女が心の支えとすべく、NewJeansのメンバーを生み出したということなんだろうと。
これ、つまり同時にアイドルという存在そのもののメタファーにもなっているのだ。
人がアイドルに夢中になるときってどこか現実逃避だったりする部分が大きい。MVとしては少女の頭の中に存在するものとして描かれているが、
そのまんま現実のNewJeansのファンになるというストーリーでも成り立つと思える。しかしそれだと陳腐すぎる。
思春期の不安定さを感じさせるのに、ビデオカメラを回してその映像にだけ存在するというのは絶妙な演出だと思う。
ただそれだけだと、なんとなくアイドル批判っぽさが出てしまってないだろうか?しかしこのMVにはさらに展開がある。
SideAではよくわからないんだが、SideBではある男の子が重要な鍵となることが分かる。
序盤こそSideAと同じように踊ってる場面などが出てくるが、SideAに比べると引きの絵が増えていく。
カメラを回してる少女とNewJeansのメンバーとの距離が出ているのだ。
下校時に雨が降っている中、少女は一人で、ただし今度はちゃんと傘をさして歩いて行く。それをNewJeansのメンバーが見送る場面。
そしてSideAでも一瞬出てきた男の子が再登場し、少女はその男の子と手を繋いで帰っていく場面が出てくる。
メンバーの一人から少女の携帯に着信がある場面もあるが、少女は出ようとしない。
では少女は彼氏が出来て心の支えができたからNewJeansのみんなを忘れちゃったってこと?あんなに仲良く楽しそうだったのに?
そうなんだと思う。思春期の頃なんてそんなもんだ。
しかしMVはまだ終わらない。終盤で少女は大人になって再び現れ、箱の中からビデオテープを出して再生する場面が出てくる。
そのビデオテープには楽しそうにはしゃいでいるNewJeansのメンバーがしっかりと映っている。
そう、少女は孤独で心の支えとしてNewJeansに出会い、そして現実の恋に落ちて彼女たちから離れていった。
でも彼女らと一緒に過ごしていた事は彼女に取ってウソではなく、間違いなく存在していたという事実であるということ。
これぞまさしく「アイドル」そのものだと自分は感じて感動してしまった。
現実がどうあれずっとアイドルを応援し続ける人もいて、そういう人がいても自分は全然良いと思ってる。その熱量がうらやましいくらいだ。
ただ自分にとってはアイドルって子供時代や思春期に夢中になることはあっても、大人になるにつれ興味が薄れてしまうようになった。
だけどそうだよな、アイドルってそういうのだったよなというのが一気にこみ上げてきて思わず泣いてしまった。
MVの中でNewJeansがけなげに楽しそうにはしゃいだり踊ったりするのを見ればみるほど楽しいような切ないようなよくわからない感情になった。
「カルト宗教団体である統一教会が原因で安倍元総理が銃撃・殺害される」という事件が起きたにもかかわらず、政府のカルト宗教団体(統一教会)に対する反応は鈍い。
旧統一教会 政府側“解散命令 裁判所に請求する要件満たさず” | NHK | 旧統一教会
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220912/k10013814621000.html
山上徹也容疑者の母親が事件を受けて「統一教会に対して申し訳ない事をした」なんて謝罪をしていて、いかにカルト宗教団体による洗脳・マインドコントロールが恐ろしいものであるかを再認識させられる。
上の記事によると、山上容疑者の母親は統一教会に約1億円の献金をしていたが、2005年の山上徹也の自殺未遂後、伯父が仲介して5000万円を毎月30万円から40万円ずつ分割返済する合意をしたのだという(もっとも、「献金以外にも多額の金が山上容疑者の母親から統一教会に流れている」可能性が指摘されている)。
その後、2013年に返金が終了し、2年後に山上容疑者の兄が自殺。山上家では、生活費・医療費について統一教会からの返金に依存している状態で、返金終了とともに実質的に一家の収入が途絶えたのだという。
このことについては、「統一教会が山上容疑者の母親から巻き上げた金を全額返金していれば誰も不幸にならなかったし、安倍元総理銃撃事件も起きなかった」のではないだろうか。
ところで、日本の統一協会から韓国へ1999年から2008年の9年間だけで4900億円が送金されているのだという。
こうやって集められたカネは、どのくらいの額に達しているのか。小誌は、日本の統一教会から韓国への送金額が書かれた内部資料を入手した。
ここには、九九年から約九年間の送金額が、月ごとに記載されている。もっとも多い月は〇〇年の四月で、百九十四億円あまり。年間でみると一番多いのは〇四年で、六百六十九億円が送られている。年平均にすると、約五百七十億円。総額では、この期間だけで約四千九百億円にも達する。
(「統一教会 日本から「4900億円送金リスト」を独占入手!少女時代がイベント登場、冬季五輪会場も買収・・・」(週刊文春)より)
これは、原資は「日本国内の個人資産」なので、「日本から韓国への富の流出」だといえる。仮に4900億円を慈善団体・教育・科学技術の発展などのために寄付していれば社会にポジティブな影響を与えることが出来ただろうが、「洗脳・マインドコントロールされた信者が金銭的に搾取される」という形であったので、元は日本人の個人資産であった富が韓国のカルト宗教団体へ流出したわけだ。
それでは、韓国の統一教会へ流出した金(献金)は、結局、どの様に使われたのだろう?
上の記事によると、統一教会は1990年代から北朝鮮への莫大な資金提供を繰り返しており、その総額が5000億円なのだという。日本政府が拉致問題等で北朝鮮を制裁しはじめた時期だ。
日本の統一協会から韓国へ送金された金額が4900億円(1999年から2008年)で、統一教会から北朝鮮への資金提供総額が5000億円(1990年代〜)。
そして、仮に「統一教会から北朝鮮へ提供された5000億円」のごく一部であったとしても、北の核開発のために使用されていた場合、「統一教会はISIS(イスラム国)と同じテロ組織」だと評価するのが妥当だろう。
このような構図があるにも関わらず、現状、下の記事のように国会議員と統一教会との関係は根深い。
自民党議員179人が旧統一教会と"接点"…121人の氏名を公表 関係深いと指摘の「安倍元総理」は対象外、一体なぜ?(TBS NEWS DIG Powered by JNN)
https://news.yahoo.co.jp/articles/a8405caad17f2b36958e18b603dc9bb38d91f235
政治家・国会議員の立場としては、統一教会のようなカルト宗教団体と関係を持って個人的なメリットがあるならば、「山上家のような日本人一家が霊感商法の被害にあって破滅しても、日本から韓国に4900億円の富が流出しても、それとほぼ同額の5000億円が統一教会から北朝鮮へ送金されて北朝鮮の核開発のために使用されても構わない」のだろうか?
統一教会による霊感商法被害は昨日今日始まった事ではないのだから、少なくとも記事にある統一教会と関係のある自民党議員179人は、「統一教会が日本人信者から巻き上げた金が北朝鮮の核開発のために使用されても構わないと考えている」と信じられても仕方がないだろう。
ところで、私は統一教会のようなカルト宗教団体が日本で活動している実態を「気持ち悪い」し「社会を不健全化させている」と感じている。
対して、フランスでは2001年に「反カルト法」が設置され、2013年に首相直属のセクト対策機関「ミビリュード」も設置されて、規制対象となった統一教会は追い出されている。
統一教会は1960年代末から布教を西欧でも開始し、70年代から厳しい集金システム、信者となった人が親族と意思疎通が不可能になることなどが報じられ、日本と同じような社会問題に発展し、反セクト法で規制対象とされたことで活動が行えなくなり「過去の遺物」と化した[1]。
(「反セクト法 - Wikipedia(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%88%E6%B3%95)」より)
また、フランスの「反セクト法」では、セクトを識別するための次の10の基準を設けている。
4.身体の完全性への加害
6.何らかの反社会的な言質
7.公序への侵害
(「反セクト法 - Wikipedia(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%88%E6%B3%95)」より)
上記の基準に従うと、統一教会は基準の1,2,3,8,9,10に、オウム真理教はほぼ全てに、他のカルト宗教団体も複数の基準に該当することが確定していたり疑われている状態であることは明らかだろう。
日本社会において、カルト宗教団体が跳梁跋扈してよい事は何もない。
・日本人がカルト宗教団体から精神的・(金銭を含む)物質的な被害を受ける
・同調圧力が強くなり閉塞感が増す
以上のような経緯から、安倍元総理銃撃事件と統一教会問題を踏まえ、岸田政権・日本政府は「セクト対策機関」を設置し、併せて「反セクト法」を制定するべきだ。
そして、もしもその様な簡単なことが実現できないとしたら、この後に、それは「この国がすでに終わっている」例証の一つに数えられることだろう。