はてなキーワード: 雑穀とは
いいですか?
いいですか? 季刊誌「Yaponesian」第3巻ふゆ号がですね!発行されました!
http://www.yaponesian.jp/topic00251.html
素晴らしい!素晴らしいことです!
2020年以降、東アジアにおける古代ゲノム研究が次々に発表され、この地域における集団の形成に関する大まかなシナリオが描かれるようになっている。
縄文人のゲノムからは、彼らがアンダマンの先住民などと類縁関係を持ち、東アジアに展開した集団から早い時期に分岐したことが示唆されているが、報告によっては異なるルーツを示唆しているものもあり、確実な結果を得ることはできていない。
しかし、縄文人の起源を、二重構造モデルが想定する東南アジアとすることは、集団形成のプロセスを単純化しすぎていることも分かってきた。
一方、渡来系弥生人の起源に関しては、最近の研究では、稲作農耕民と雑穀農耕民が朝鮮半島に流入し、そこで在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合することによってあらたな地域集団が形成され、その中から生まれた渡来系弥生人が三千年前以降に日本列島に到達したというストーリーが提唱されている。
現状では稲作の起源地である揚子江中流域の古代ゲノムデータがないので検証はできていないが、渡来系弥生人の主体を、北東アジアの西遼河を中心とした地域の集団と考えており、二重構造モデルと概ね一致している。
また、二重構造モデルが予想する渡来系弥生人の寒冷地適応は、EDAR遺伝子の大陸北東部での時代的な変化によって説明できる可能性が示されている。
先史時代において、考古学的に渡来人がやって来た可能性が高いと考えられているのは、弥生早期前半、前期末の2時期、そして古墳時代中期です。
ここでは年代が変わらない古墳中期を除く弥生時代について、年代順ではなく渡海の可能性が高い順に説明します。
もっとも可能性が高いのは前期末の前4世紀前葉で、中国東北部に起源をもつ燕の鉄器や韓半島の円形粘土帯土器が出土するようになることをあげられます。
弥生最初の鉄器は炭素量の高い鋳造鉄器で、鋳型に融けた鉄を流し込んで作る斧を代表とします。
鋳型の構造からみて、韓半島ではなく中国東北部の燕系のものである可能性があります。
また、円形粘土帯土器もやはり中国東北部に出自があることが指摘されていますので、韓半島南部だけではなく中国東北部から人がやって来ている可能性を指摘できます。
クマネズミやハツカネズミは有史以前の人類のユーラシアの移動に随伴することで現在の地球レベルの広範な分布域を手に入れた。
これらのネズミ類の歴史を辿ることは文字に記されていない人類の移動の歴史を知ることでもある。
このことを今から50年前に想起した国立遺伝学研究所の森脇和郎(もりわきかずお)は世界各地から野生ハツカネズミを収集し、米川博通氏とともに遺伝子の解析を行った。、北方系亜種のMUSはイラン北部の起源地より、1)中国西部の砂漠地帯(15000年前)、2)黄土高原(10000年前)、3)中国東北部(7000年前)、4)朝鮮半島(5300年前)、そして、5)日本列島(3000年前)へと順次東方移動したことが示唆された
本講演では、大陸から稲作を携えてやってきた渡来系弥生人が、1)どこからやってきたのか、2)どのくらいやってきたのか、という問いに対する知見を、最新のゲノム解析の結果を踏まえて一般向けに紹介しました。
渡来系弥生人の遺伝的構成についてはOsada and Kawai(2021)や機関誌Yaponesian3巻はる号で詳しく解説しているのでご一読いただけたらと思います。
Hanihara(1991)では渡来集団が東シベリア、中国東北地方およびモンゴルの集団と形態学的には似ていたと述べられています。
これまでのいくつかの東アジア現代・古代人のゲノム解析から、渡来系集団は現在の北方系東アジア人集団に近かったという結果が出ており、この予想と概ね一致します。
本講演ではさらに、考古学や言語学的証拠も考慮に入れ、3500年前ごろに遼東半島近辺に居住していたが紅山文化の中心地からは外れたひとびとが、稲作とともに朝鮮半島を南下してきたのではないかという仮説をあげさせていただきました。
次にふたつ目の疑問、どのくらいやってきたのか、という問題について、Hanihara(1991)で用いられた手法を使い、より新しい歴史人口の推定値を用いた結果を発表いたしました。
Hanihara(1991)では、日本列島の人口が弥生開始期に約7.6万人、古墳時代の終わりに約540万人という推定値が用いられています。
埴原先生は、この値をもとに計算された自然人口増加率が年あたり0.43%である、という値がありえないほど高いと考えていたようです。
この前提に基づき、Hanihara(1991)では、どれくらいの渡来人が来ればおよそ1:9である縄文:弥生の遺伝成分を説明できるかというシミュレーションを行っています。
驚くべきことは、埴原先生が当時の形態データから推定した1:9の混合率という推定値が、現在の全ゲノムを用いた推定値とほとんど変わらないことです。
渡来人和推定の方法も比較的単純でありますがエレガントなものとなっています。
年あたりの大陸からの移入数を一定と仮定したモデルでは、毎年約1500人、およそ1000年の間に約150万人が渡来し、自然人口増加率が0.2%であれば日本列島における人口増加量の説明がつくという結論に達しています。
本講演では、Hanihara(1991)の方法に基づき、歴博による新しい年代観やより新しい人口推定値を用いてその評価を行いました。
たとえば、弥生の開始期を更に600年古くすると、1500年の間に人口が59倍に増加したことになります。
その場合、年あたりの移入数の推定値は約1000人と減りますが、1500年の間には約146万人と、埴原先生による推定値とほとんど一緒になります。
論文紹介2
論文タイトル:Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages
掲載誌:Nature (2021年, 599巻, 616-621頁)
著者:Robbeets M., Bouckaert R., Conte M., Savelyev A., Li T., An D., Shinoda K., Cui Y., Kawashima T., Kim G., Uchiyama J., Dolińska J., Oskolskaya S., Yamano K, Seguchi N., Tomita H., Takamiya H., KanzawaKiriyama H., Oota H., Ishida H., Kimura R., Sato T., Kim J., Deng B., Bjørn R., Rhee S., Ahn K.-D., Gruntov I., Mazo O., Bentley J., Fernandes R., Roberts P., Bausch I., Gilaizeau L., Yoneda M., Kugai M., Bianco R., Zhang F., Himmel M., Hudson M., Ning C.
ユーラシア集団において、日琉語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、およびチュルク語族などのトランスユーラシア語族の起源と初期の拡散については、もっとも議論されている問題のひとつです。
重要な問題は、言語拡散、農業拡大、人口移動の関係です。Robbeetsらは、遺伝学、考古学、言語学の広範なデータセットから統一的な視点で解析することにより、この問題に取り組みました。
それにより、トランスユーラシア語族の共通祖先と最初の拡散は、初期新石器時代以降に東北アジアを横断した最初の農耕集団に遡ることができ、それらは青銅器時代以降の広範な文化交流によって覆い隠されてきたことが示されました。
これら3つの分野が大きな進展し、その証拠の組み合わせることによって、トランスユーラシア語族の初期の拡散が農耕によって推進されたことが明らかになりました。
最近の古代DNA研究のブレークスルーによって、ユーラシアにおけるヒトと言語と文化の拡散の関連が見直されていますが、依然として西ユーラシアと比べて東ユーラシアのついての理解は乏しいのが現状です。
本研究で着目する内モンゴル、黄河、遼河、アムール川流域、ロシア極東、朝鮮半島、そして日本列島を含む北東アジアについても、遺伝学に重点を置いたものや、既存のデータセットのレビューに限定したものなどのいくつかの例外を除いて、北東アジアを対象とした学際的なアプローチはほとんどありません。
トランスユーラシア語族(「アルタイ語族」として知られる)の言語的関連性は、有史以前の言語において最も論争が多い問題の一つです。
トランスユーラシア語族とは、ヨーロッパと北アジアに広がる地理的に隣接した言語の大きなグループを指し、5つの言語族(日琉語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、チュルク語族)を含んでいます。
この5つのグループが単一の共通祖先から派生したかが問題となるのですが、長年に渡って、言語が継承されたのか、それとも借用によるものなのかが議論されてきました。
最近では、これらの言語間の共通性の多くは確かに借用によるものだとしても、トランスユーラシア語族は信頼できる確かな系統グループだとする証拠も示されています。
この系統グループを受け入れた場合、これらの時間的深度や場所、文化的アイデンティティ、拡散ルートなどの新たな疑問が生じます。
そこで彼女らは、トランスユーラシア語族の初期の拡散が紀元前4000年紀に東部ステップで始まった遊牧民の拡散だとする従来の「牧畜民仮説」に対して、これらの拡散が「農耕/言語拡散仮説」の範囲内である「農耕仮説」を提唱することで、課題の解決を試みました。
これらの課題は言語学の枠を超えているので、考古学と遺伝学を統合した「トライアングレーション」と呼ばれるアプローチで取り組んでいます。
言語学からは、98のトランスユーラシア語族について、方言や歴史的変化を含んだ254の基礎語彙を示すデータセットを用いて、ベイズ法による系統解析を行っています。原トランスユーラシア語族は9181 BP(5595–12793BP, 95%信頼区間)、原アルタイ語は6811 BP(4404-10166 BP)、モンゴル・ツングース語は4491 BP(2599-6373 BP)、日本と韓国語は5458 BP(3335-8024 BP)を示しました。
また、トランスユーラシア語族の空間的な拡大をモデル化した結果、これまでのホームランドとされていたアルタイ、黄河、内モンゴルの大興安嶺山脈、アムール盆地などではなく、初期新石器時代の西遼河流域がトランスユーラシア語族の起源地であることを支持する結果を得ています。
さらに、再構築した農耕牧畜の原語を用いた定性分析によって、たとえば新石器時代に分離した共通祖語では耕作や雑穀に関する語彙を継承するなど、特定の地域・時期の祖先原語集団の文化的項目が特定されました。
一方で、コメ・麦の栽培、牛・馬などの家畜などは青銅器時代の人々の言語的交流による借用とされました。
よって、言語学からは牧畜民仮説ではなく、農耕仮説を支持しています。
考古学からは、255の遺跡の文化的類似性によってクラスタリングしたベイズ解析の結果を示しています。
北東アジアの新石器時代の植物栽培はいくつかの中心地から拡大しており、そのうち9000年前に西遼河流域で始まったキビがトランスユーラシア語族にとって重要となります。
解析の結果、新石器時代の西遼流域に文化的クラスターがあり、そこから雑穀栽培に関連した2つの分岐(韓国のチュルムン分岐とアムール、沿海、遼東にわたる新石器時代の分岐)があることがわかりました。
このことは、雑穀農耕が 5500 BPには韓国に、5000 BPにはアムール川を経由して沿海州に伝播したことを示すこれまでの知見を裏付けています。
さらに、西遼河地域の青銅器時代の遺跡は、韓国の無文遺跡や日本の弥生遺跡とクラスターを形成しており、4000年前の遼東-山東地域の農業パッケージが、米や小麦で補完されていたことを反映しています。
これらの作物は、初期青銅器時代(3300~2800 BP)には朝鮮半島に、3000 BP以降には日本に伝わりました。
遺伝学では、アムール、韓国、日本の九州と琉球列島の23体の古代人ゲノムを取得し、先行研究の古代東アジア人および現代ユーラシア大陸集団のゲノムデータと統合して解析しています。
西遼河地域では初期新石器時代のゲノムは欠くものの、西遼新石器時代の雑穀農民はアムール的遺伝要素をかなり含んでおり、時代とともに徐々に黄河流域のゲノムに移行しています。
解析の結果から、このアムール的遺伝要素は、バイカル、アムール、沿海州、南東ステップ、西遼河を覆う新石器時代以前(あるいは後期旧石器時代)の狩猟採集民の本来の遺伝子プロファイルであり、それがこの地域の初期農民に引き継がれていると考えられます。
アムール的遺伝要素は日本語や韓国語の話者にまで遡ることができることから、トランスユーラシア諸語の話者に共通する本来の遺伝的要素と考えられます。
韓国の古代ゲノム解析では、朝鮮半島南岸の新石器時代人で縄文的遺伝要素がみられました。
一方で、同じく南岸の新石器時代のAndoでは縄文的遺伝要素は見られませんでした。
このことは新石器時代の朝鮮半島南部では縄文人の祖先が不均一に存在したことを示しています。
時代が下って、青銅器時代の韓国西岸部の瑞山市にあるTaejungniには、縄文的遺伝要素は見られませんでした。
また、現代韓国人への縄文人的遺伝要素の寄与は限定的であることから、新石器時代から現代にかけて減少していることが見て取れます。
Taejungniに縄文的遺伝要素が見られないことは、縄文的遺伝要素を持たない初期の集団が稲作を伴って朝鮮半島に移動し、縄文的遺伝要素を持つ新石器時代の集団に取って代わったことを示唆しています。
ただし、サンプルサイズと対象範囲が限られていることから、この仮説の検証にはもう少し多くの人骨のゲノム解析が必要です。
私の意見を述べるならば、私たちが分析した韓国南部の大邱市の南東部にある三国時代の完山洞古墳群の出土人骨のDNAも、現代韓国人と同程度に縄文的遺伝要素を受け継いでいることから、完全に入れ替わったとする考えには賛同しかねます。
以上よりRobbeetsらは、朝鮮半島への農耕の伝播は、新石器時代の雑穀栽培の導入は紅山文化、青銅器時代の稲作の導入は夏家店上層文化というように、アムール川流域と黄河流域からの異なる遺伝子流動の波と関連づけることができると述べています
以上の言語学的、考古学的、遺伝学的証拠から、これらの分野の間に明確なつながりがあることがわかります。
これらの統合により、トランスユーラシア語族の起源は、新石器時代の東北アジアにおける雑穀栽培の開始と初期のアムール的祖先集団にまでさかのぼることが示されました。
これらの言語の伝播には、農耕や遺伝子の拡散と同様に、大きく分けて2つの段階を含みます。
第一段階は、トランスユーラシア語族における主要な分裂に対応し、新石器時代前期から中期にかけて、アムール的遺伝要素を持つ雑穀農耕集団が西遼河から隣接する地域へ拡散した時期に該当します。
第二段階は、5つの言語族間の言語接触に対応し、後期新石器から青銅器、鉄器時代にかけて、アムール的遺伝要素を持つ雑穀農耕集団が黄河や西ユーラシア、縄文人と混血したときに、稲作や牧畜などを農耕パッケージに加えました。
本研究では、東北アジアにおける雑穀栽培の二つの中心地が、黄河流域のシナ・チベット語族と西遼河流域のトランスユーラシア語族の起源と関連していると示唆しています。
朝鮮半島に関しては、紀元前6000年頃に黄河流域および西遼河地域の各農耕集団が沿海州に拡大して混血し、それが朝鮮半島に持ち込まれたと考えられます。
その後、3300 BPに遼東−山東地域の農耕集団が朝鮮半島に移住して米や麦をもたらしました。
この農業パッケージが3000年前に九州に伝わり、本格的な農耕への移行と縄文系と渡来系の混血、および日琉語族への言語的転換が起きました。
50年前には自給率100%だったのだから機械化された今ならもっと簡単
それはお前らがうまいうまいといって食ってる肉や卵を諦める覚悟だ
「マンション、車、家電はすぐに買え」ウクライナ危機が日本経済に及ぼす“甚大な影響” 経済評論家が予測する「半年後にはガソリンが220円」
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文春オンライン
「小麦の価格があがれば、その代替物となるのがトウモロコシと大豆。例えば、小麦を使っていたお菓子が値上がれば、『じゃあ小麦はやめてトウモロコシを使おう』となるのは自然ですよね。だから小麦が高くなれば、トウモロコシも大豆も高くなっていくのが常なのです。
トウモロコシを食べるのは人間だけではありません。牛や鶏などの家畜も『飼料』として食べる。そうなれば肉も卵も値上がりし、牛丼屋の生卵セットも500円では食べられなくなるかもしれません。コンビニのお弁当は小麦も肉も全てを含んでいるので、確実に値上がりします。サンドイッチも同様で、すでに8日にはローソンが『たまごサンド』を228円から246円に値上げすると発表しています」
「ロシアへの経済制裁への対抗策で一部原料の禁輸の検討をしているいま、最も打撃が大きそうなのが蕎麦なんです。実はロシアは世界有数の蕎麦大国で、世界の蕎麦の3割以上を生産している。日本のそば粉も原料の多くをロシア産に頼っており、それがなくなると一気に消費に追いつかなくなる可能性があります」(対露貿易商社関係者)
こうした値上げラッシュに火をつけるのが、もう1つのロシアの武器「エネルギー」だ。エネルギー価格の上昇で、ビニルハウスで栽培するレタスやトマト、いちごなどへの影響は計り知れない。最終的には家電や車、果てはマンションにまで及ぶと指摘する。
「原油が高騰するペースや為替相場を見れば、半年後にガソリンが現在の1リットル170円前後から200~220円になるのは、決して大げさな予測ではありません。現在政府が議論する、ガソリン税を軽減する『トリガー条項』を発動しても下がるのは25円。輸入品を日本に運ぶには燃料代がかかり、原油高は食品の値上げにも直結します。
またロシアは世界屈指の『ガス大国』で、日本の発電の4割は液化天然ガス(LNG)です。LNGの供給が滞れば、電気代やガス代が上昇しますが、それだけではありません。例えば鉄を作るのにも、莫大なエネルギーがかかるのです」
鉄を含むものは家庭のなかに数限りなくある。冷蔵庫などの白物家電から、車、そしてマンションなどの住宅まで、鉄がなければ形になりえないものばかりだ。
「例えば昨年には原材料費や物流コストの上昇で、住宅設備大手のLIXILがトイレや浴室、システムキッチンなどの価格を最大4割値上げしました。ウクライナ侵攻で鉄が高騰すれば、こうした値上げラッシュに拍車がかかる恐れがあります。通常、こうした大型商品まで値上げが波及するには1年ぐらいかかりますが、今は『ウクライナ侵攻で原材料が値上げしている』と企業側も説明しやすく、もう少し早く波が到達するかもしれません。
こうしたインフレ直撃から家計を守る最善策として、車やマンションなど大金が要るモノは早く買った方がいい。食品が値上がるからといって、カップ麺1年分を買い溜めるのは大変ですし、大した節約にもならないと思います」
現代では、国の経済の規模はお金で表し、給料も税金もお金で支払われますが、江戸時代にはお米がその役割を担っていました。
「加賀百万石」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。領地の経済規模はお米の単位「1石(こく)」(≒150kg)の価値に換算して表されていました。1石は、当時1人が1年間に食べるお米の量とされていました。
また、お米1石が収穫できる田んぼの面積が「1反(たん)」(≒10a(アール))とされていました。1反の田んぼがあれば1人が1年間に食べるお米が確保できるということで、どれだけの田んぼが領地にあれば何人養えるかが大体わかるということになります。自給率の考えに似ているところがありますね。
江戸時代は、外国との貿易が限られていたのでお米の自給率はほぼ100%だったと考えられます。大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃にかけて1.3~1.8倍に増えたと言われており、耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになりました。1600年頃に1,000~2,000万人だった人口が1720年頃には3,000万人程度まで増えたと言われています(*1)。
一方で、災害や異常気象によるお米の不作が原因となって幾度にわたり大飢饉が起きた時代でもありました。大飢饉の経験を踏まえてお米の備蓄やかんしょ(サツマイモ)の栽培が奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じるものがあります。
明治時代に入り、新政府は、外貨獲得のため殖産興業と貿易促進に力を入れていましたが、生糸やお茶に並んで重要輸出品に位置付けられていたのが実はお米です。お米が最も盛んに輸出されていたのは神戸港で、明治11(1878)年と明治21(1888)年にお茶を抜いてお米が輸出額第1位になっています(*2)。
どのくらいのお米が輸出されていたのでしょうか。当時の政府文書によれば、明治12(1879)年~明治21(1888)年の十年間の平均で、酒造用を除いた国内消費量3,129万石(約470万トン)に対して34万石(約5万トン)が輸出されていました(*3)。
輸出先は、主に英国、ドイツ、フランス、イタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。欧州でもイタリアやスペインを中心にお米が生産されており米料理を食べる文化があったのです。
明治時代に入って海外に輸出するようになったきっかけは、連年の豊作で米価が暴落したことでしたが、やがて外貨獲得の手段としても政府が自ら欧州での販売状況を情報収集し、産地でも輸出向けの品質改善に取り組みました(*4)。
このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率が100%を超えていたのです。
(図1)明治時代のお米の需給と輸出
お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。
お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、明治22(1889)年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、翌年には不足分を賄うため193万石(約29万トン)のお米を輸入することになりました(*5)。米価高騰は簡単には収まらず、富山を始め各地で米騒動が起こり都市部では餓死者が出ました(*6)。
(図2)お米の輸入量の推移
(図2)お米の輸入量の推移
明治の初年からお米の輸入は行われていましたが、このときを境に大量の輸入がだんだんと恒常化し、盛んだった輸出は縮小していきました。
いったい何が起こったのでしょうか。原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています(*7)。それまで、農村では米だけを主食とする(できる)人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。好景気によって、農村の米食率が上昇するとともに米食中心だった都市の人口が増大したことで、お米の消費量はわずか20年で約1.5倍に増えたのです。
明治時代に入ってから近代的な土地改良や栽培技術の導入でお米の生産量は増加していましたが、明治25(1892)年の大蔵省主計局『米価ヲ平準二スル方案』は、生産増加だけでは人口増加に追いつかないと結論づけ、不作時の米価高騰を抑えるためにも外国からお米を輸入しやすくすべきと述べています。
人口はその後も増え続け、明治前期に3,700万人だった人口は、明治44(1911)年には5,000万人、大正15(1926)年には6,000万人を超え、昭和15(1940)年には7,200万人にまで達したのです(*1)。
5. 輸入に頼らざるを得なかった時代 ~大正時代・昭和初期~
お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました(*1)。ただし、この頃、朝鮮半島・台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土に朝鮮半島・台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります(前掲の自給率は、移入も輸入に含めて計算されたもの)。大正6(1917)年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インド(ビルマ)、仏領インドシナ、タイ)が21%となっていました(*8)。
大正7(1918)年には、二年連続の不作によって長期的に米価が高騰し、再び富山を始め各地で米騒動が起こりました。政府は、不足分を賄うため大規模な外米輸入を図ろうとしました。しかし、外米産地でも洪水や干ばつで不作が起こったことや、国内の米価高騰を抑制するため外米産地の政府が輸出制限や輸出禁止を行ったため、円滑に輸入が進まず厳しい外交交渉を強いられました(*8)。
また、昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争では、戦況の悪化とともに外米輸入のための商船が確保できなくなり、昭和18(1943)年にはお米の輸入が半減、翌年にはほぼ途絶し、日本国内の食糧不足が深刻になりました(*9)。
6. 約70年ぶりの自給の達成 ~昭和中期~
昭和20(1945)年に終戦を迎えた日本は、戦争による耕地の荒廃、農業労働力不足に加え、朝鮮半島・台湾等からの輸移入に頼っていた需給構造が崩壊したため、深刻な食糧危機に直面しました。しかし、本格的にお米の輸入ができるようになったのは昭和25(1950)年以降でした。タイ、ビルマ(ミャンマー)、米国、エジプト等からお米を輸入することで国内の米不足を賄いました。
昭和27(1952)年には、10年後までに米麦の国内自給の達成を目標とする「食糧増産5ヵ年計画」を立てて生産量の増大に取り組み、昭和25(1950)年の938万トンから昭和47(1962)年の1,445万トンへと約20年で1.5倍になりました(*5)。約70年ぶりにお米の自給が達成されることとなったのです。
増産によりお米の自給が達成された一方で、高度経済成長によって食生活が多様化したことで、お米の一人当たり年間消費量は、昭和37(1962)年度の118.3kgをピークに減少に転じていました。
生産が需要を上回り大量の過剰在庫が発生するようになったため、昭和46(1961)年からは生産調整が本格実施されるようになり、1,200万トン前後だった生産量は、約50年で約800万トンにまで減少しました。一人当たり年間消費量も約50kgまで減りました。自給率の高いお米の消費が減ることで食料自給率(カロリーベース)は昭和40(1965)年度の73%から40%程度まで低下することとなったのです。
"West Liao River farmer-related ancestry from the Bronze Age"と書いているので青銅器時代の西遼河流域です
青銅器時代なので紅山文化ではなく夏家店下層文化 、夏家店上層文化ですね
1%くらいです
分からないです。この論文にはmtDNA:D4についてはほぼ触れてないです。
また仮にD4が先日琉祖語の担い手だとすると、最も強くD4の遺伝子を受け継いだアイヌがなぜ日琉語族とまったく関係のないアイヌ語族なのかという問題に直面すると思います。
そしてRobbeetsがトランスユーラシア祖語の話者が4000年前の遊牧民であるという「通説」を否定したかった理由もここでわかる
黄河文明書き間違えたりBCの記述すっとばしたり色々間違えててごめんね…
今までの情報を元に西遼河流域の文明と住民を年代順にまとめるとこうかな
年代 | 文化 | 遺伝子 | 補足 |
9000年前 | 粟などの農耕民 | 不明 | Robbeets(2021)でトランスユーラシア祖語の話者と推定している |
7000-5000年前 | 紅山文化 | Y-DNA:N(ウラル語族) | Wang(2021)で日本人の92%を構成するとしている |
4000-3500年前 | 夏家店下層文化 | 相変わらずY-DNA:N? | |
3000-2500年前 | 夏家店上層文化 | Y-DNA:O2(シナチベット語族)、C2(縄文人) |
日本人の遺伝子の92%を構成しているのは5000年前に西遼河流域に住んでいた住人とのことで
これはほぼ紅山文化に相当すると考えていいだろう(考古学的にも問題ない)
しかし父系のY-DNA:Nは日本人にも朝鮮人にもほとんど出ていないので
そしてRobbeetsがトランスユーラシア祖語の話者が4000年前の遊牧民であるという「通説」を否定したかった理由もここでわかる
Wang(2021)で知られるように5000年前の西遼河流域人にモンゴルやツングースと共有する遺伝子がないため
で、目論見どおり雑穀の語彙に共通性が見られるので、今回の論文を出したと
この論立て正しいんだろうか
ここの前提が崩れたら一気に崩壊する気がする
言語学の面から考慮すると、トランスユーラシア大語族を証明するには弱いというのは否定できない。
そもそも3500年前の文字しか残っていない東アジアで9000年前の言語を解明するのは言語学的にほぼ不可能。
しかし本論文は言語学だけではなく、分子生物学と考古学の視点からも考察を行っており、特に分子生物学の成果が大きい。
2010年代以降の考古遺伝学の発達はまさに革命といってもよい。2010年代以降と以前では別物と言っても過言ではない。(この発展については「交雑する人類」を読むと良い)
解析方法の発展と古代人骨の収集によるデータの発展が両輪となって、現代の考古遺伝学はほぼ数理科学となっておりこの論文でもデータセットとソースコードが公開されている。
仮にトランスユーラシア祖語が証明されなかったとしても、分子生物学と考古学により証明された人間と文化の移動は覆ることはないと思う。
また日本語が遼河流域を原郷とするのではないかという意見は、本論文以外でも本当にたくさんの論文によって主張されている。
例えばこれは今年発表された論文だ。
Genomic insights into the formation of human populations in East Asia
Wang C.C., Yeh H.Y., Popov A.N., Zhang H.Q., Matsumura H. et al.
この弱まったアムール川流域の影響は、青銅器時代の夏家店上層文化期に乾燥化と寒冷化に伴って牧畜を主体とした集団が南下することで、再びもたらされます。
この、日本の縄文時代から弥生時代への移行期に、西遼河流域の遺伝的構成に変化が生じていることは、日本への渡来人の遺伝的背景を解明する上でも考慮すべき点です。
本論文では、現代日本人の遺伝構成が、西遼河流域の青銅器時代人92%と縄文人8%の混成で説明でき、黄河流域からの影響は無視できるほどだとしています。
よって、ゲノムの結果を踏まえての私見ですが、西遼河流域周辺の雑穀農耕を主体とした集団に、生業として水稲農耕がもたらされ、それが朝鮮半島を経由して日本列島に弥生時代早期にもたらされたとする解釈が妥当のように思います。
会社の健康診断のたびに血圧の数値でドン引きするのでなんとか改善したい
https://mc-naika.com/news/seikatsusyuukanbyou/kouketsuatsu-syokuji/
干物は嫌いではないが生魚を調理する方が多いしつまみとしては食べない
→調理が楽なので魚が多い
肉は手や調理器具が脂でヌルヌルになるのでなるべく使いたくない
魚ならトレイの中で下味付けたりできるし切り身なら包丁不要だから楽
→野菜とかきのこは冷凍保存ができて便利なので常備してるしほぼ毎日食べる
→糖分いっぱい入ってる甘い飲み物といえば炭酸飲料だが炭酸が苦手なので無理
菓子は食べるけどせんべいとかクラッカーとかしょっぱいのが好き
・タバコを吸う
→吸わないし飯がまずくなるらしいので吸いたくない
・アルコールを飲むことが多い
→飲まない(炭酸が苦手なのでビール類が無理)(日本酒とか蒸留酒は穀物として摂取したい)
・朝食は食べない
→朝飯食わないと動けないので寝坊しても出勤後に食べる
・運動は全くしない
→週の半分は通勤してるので全くではない
というかテレワークで出勤半減が一年続いたのに上がらなかったんだよ
・外食の頻度が多い
外食で肉ばっかり食えばいいんじゃね?と思ったが食べたいの赤身肉とか鶏肉の皮以外なんだよな
腹に溜まる気がしないので家ではずっと雑穀とか玄米混ぜて炊いてる(良く噛む必要があるので腹持ちがいい気がする)
全然守れてなかったわ
まぁ血圧上げたいっていっても「健康リスク高めたい」ってわけじゃなくて(太りたいっていう人は腹回りに脂肪付けたいわけではなく「スタミナ付けたい」「メリハリある体型になりたい」なのと同じ)採血しづらいの何とかしたいってだけだしな
朝起きづらいとかもないしできる範囲で肉食べるようにするわ