はてなキーワード: 終末のフールとは
ロシアに直径17mの巨大隕石(小惑星に近い)が落下し、多数の負傷者が出た。
落下場所・落下角度や隕石組成如何では、地球規模の大惨事になっていた危険性もあり、
負傷者で済んだのは「不幸中の幸い」だろう。
さて、今の科学技術では、この大きさの隕石の落下を予報するのは困難を極めるが、
仮にこのレベルの隕石の落下の予報が可能で、しかし回避方法がない、というシチュエーションを想定すると、
仮に、2月14日頃に、
「明日、直径15m程度の隕石が地球に落下する確率が60%見込まれます。
人口密集地に落下する確率は極めて低いですが、落下場所が仮に人口密集地だった場合、
甚大な被害が見込まれます」という「予報」を行なった場合、世界規模のパニックが予想される。
人的被害が発生する「確率」は、(ゼロではないが)「高くはない」にもかかわらず、
隕石落下予報がなされた時点で、「この世の終わり」と解釈して、パニックを起こす人が、
世界70億人の中では一定数(数万人単位で)見込まれるからだ。
それこそ、パニック状況を利用して、半狂信団体が、集団自殺に走ったり、
株式市場、資本主義は、「数十年先、数百年先も、文明や資本主義が永続している」ことを大前提としている。
そのため、数百年先時点の経済価値までも現在割引価値にして、株価というのは織り込むのである。
それが、ある程度の蓋然性でもって「文明が終了する」という確率が呈示されてしまったら、
つまり、「明日、隕石が地球に衝突する危険性があります」と予報した時点で、
それこそ、隕石で死者は出なくても、狂信団体のテロで数百人が死亡した、という笑えない事態だって考えられる。
その意味では、今回、何の前触れもなく、隕石が地球にやってきたのは、「幸せ」だったのでは?と思う。
人類は、隕石被害回避(スペースガード)のツールを持つまでは、隕石落下予報に手を出さない方が「得策」なのかもしれない。
因みに、「数年後に、小惑星衝突によるカタストロフィーが発生する」という、スペースガードなき、
「どんどん地球環境が悪化して住みづらい世界に、子供を送り込むのはかわいそう」
とか
「不景気な日本、若者の年金負担が重い日本社会に、子供を送り込むのはかわいそう」
というように「先行き不安な社会に、わが子を送り込むのは可哀相・親の無責任」
という理由も見受けられるようだ。
先日、伊坂幸太郎の小説を読んで、この少子化理由を思い出してしまった。
ネタバレさせて失礼するが、SFオムニバス「終末のフール」の中の「太陽のシール」は、
「小惑星地球衝突(≒人類滅亡)が数年後、とわかっている世界で、妊娠が発覚した夫婦が、
(「終末のフール」自体が小惑星衝突・地球滅亡前の市井の人の生活を淡々と描いたSF集なんだが)
言ってみれば、「地球環境が悪化するから子供を作らない」「日本のお先が真っ暗だから子供を作らない」
というのは、「太陽のシールな世界だから、子供を作らない」というのと、本質的には変わらない気がする。
・・・で、「太陽のシール」の主人公は、悩みに悩んだ挙句、子供を作る決心をしたのであった。