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2023-10-03

偉人っているものだな

日本人として誇らしい

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、何人かが暗闇の中を灯台の明かりをたよりに断崖を這い登って灯台にたどりついた[2]。

灯台には逓信省管轄下の雇員2名が灯台守として勤務しており、生存者の介護とともに大島村現在串本町)樫野地区区長に急報した[2]。灯台守は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った[3]。

樫野地区区長は島の反対側にある大島地区にいた大島村長の沖周()にも使者を送り、翌日午前10時30分頃に伝えられた[2]。沖村長は郡役所和歌山県庁使者派遣し、村に居住する3人の医師とともに午前11時30分頃に現場に到着し、村民を大動員して生存者の探索と負傷者の救済を行った[2]。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民浴衣などの衣類、米、卵やサツマイモ、それに非常用の鶏すら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、656名中、樫野の寺、学校灯台収容された69名が救出され、生還成功した。その一方、司令官オスマン・パシャを含めた587名は死亡または行方不明という大惨事となった。

茶道宗徧流の跡取りである山田寅次郎も、この事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。山田日本国内民間からエルトゥールル号事件犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年、当時外務大臣だった青木周蔵提案から、集まった義捐金を携えて一人でオスマン帝国首都イスタンブールに渡った。

山田民間人でありながら義捐金を持って訪れたことが判明するや彼は国民から熱烈な歓迎を受け、数日後には皇帝アブデュルハミト2世拝謁する機会にすら恵まれた。このとき皇帝要請オスマン帝国に留まることを決意した山田イスタンブール貿易商店「中村商店」を開き、士官学校にて少壮の士官日本語日本の文化を教え、政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。山田士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされる。

 
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