はてなキーワード: カウンタとは
204,後悔は「行動」を、罪悪感は「自我」を標的にする
207,「あのときこうしとけば」=知り得なかった情報に関する全能=「すべき思考」
208,異常な罪悪感-強さ、機関、結果で計る
212,「誤り」を認識し、修正戦略をたてられる時が自己変革のチャンス
215,「すべき」を減らすには、「どこにそんなこと書いてある?」
217,「~すべき」を「こうだったらいいのに」に置き換えよ
222,習慣を変えられないのは「自己コントロールできない」という思い込みのせい
222,「すべき」をはずすカウンター法
223,逆説法-1日3回二分間づつ、自己否定を繰り返す(大声で)→エリスの「合理的な歌」もこの手
233,「助けよう」は「あんたはちゃんとしてない」を暗示する
233,ムーレイの「嘆き対策」=相手の正しい部分を見つけ、同意する
331,「欲しい」と「必要」は違う
349,相手が勝っていても「だとしても、なぜ価値があるといえるのか?」
373,恐怖克服には、反応予防法(逃げ出さず、恐怖量と自動思考を刻々記録する)
380,完全主義克服には、プロセス重視=チェックポイントをただこなす
383,職が欲しい時は、それを目的にしないこと(プロセス重視)
384,まちがえることの大切さ
386,まちがえても世界は終わらない、と書け
386,やり終えたことは無視して、途中のままのことばかり目を向ける傾向
431,攻撃されたら、それにどう応じるかを知る機会と知れ
40手前。学生時代にホームページといふものの作り方を学び、今もweb業界というか広告業界というかにいる。
当時は掲示板作って、カウンタつけて、同盟に参加し、aboutページにパソコンスペックを載せ、flashでオープニング作てenterボタン押させるとかして。
在宅勤務によって家でパソコンに向かっていると当時のことを思い出してホームページといふものを作りたくなった。
初期のHTML5とかWordPress、jqueryまでで知識が停滞しているので最近の流行りはなんなのよと調べてみると、headless CMSとかvue.jsとかnext?nuxt?とか。もう訳わかんなくなってた。
なんかさ、個人のホームページといふものは、ブログでしか成り立たなくなったの?FrontPageとかdreamweaverとかで作ってFTPでアップして、apeで掲示板作って、キリ番でした報告もらうとか、ドキドキしながら相互リンク申請したりとかしたいんだけど。そういうインターネットはなくなってしまったの?
けいおん以降の萌えアニメはまさに既存の物語へのアンチテーゼだった
従来の物語は、強い奴が更に強くなり
それは裏を返せば弱肉強食
弱き者、マイノリティ、女は悪役をあてがわれ
今のハリウッドからは想像もつかないが、それは2010年以前の世界では当たり前だった
「強くなければ人間にあらず」このテーゼへの挑戦はオタクへの救いだったはずだ
しかし、なろう系は違った
一見萌えキャラも出るし、弱者の象徴である底辺男が主役だ、という時点で
萌えアニメの延長線上にあるように見える
レイプに対して反逆も、人種差別、ルッキズム、弱肉強食に対しても反逆しない
「優しさ」の象徴である萌えキャラをただ搾取し、手籠めにするために
このグロテスクさが分かるだろうか?
そして案の定、萌えアニメは消え、なろう系小説がアニメを寡占し始めた
大衆はまたしても優しさを忘れはじめたのだ
萌えアニメは死んだ もはや何も残っていない
オシャレなカフェとかカウンターやレジで注文する形式の店は、どうにも慣れない。
スーパーみたいに商品を手にとって見て回れるか、従来の飲食店みたいに腰を落ち着けてからメニュー表を見てゆっくり決めたいんだが
最近のカフェというのは、なぜカウンターで注文する形式なのか、別にカウンタで注文すること自体は、どうでもいい。
問題は、そのカウンタに行くまで何があるのかメニューが全くわからないということだ。
例えばコーヒーを飲みたいと思っても、コーヒーにもいろいろ種類があるわけでケーキをセットに頼みたいと思っても何があるのかわからない。
売出し物とかは、店先のディスプレイに書かれているが詳しいことは書かれてないし、何と何がセットで頼めるのかとか全くわからない。
カウンタで注文する形式だと後ろを待たせたら申し訳ないという気から落ち着いてメニューを見れないんだよ。
店先にメニュー表置いておくとか、パンフレット置いておくとかないの?
メニューが無いから店先でスマホでwebサイト見てみたがオススメ品がいくつか出てるだけでメニューらしきものすら公開されていない。
いきなりカウンタに行って注文するとか何があるのかわかんねーんだよ!
ずいぶん前のことだが不愉快だったため覚え書き
まず、ミッドランドスクエアのピエール・マルコリーニは1Fが商品カウンタ、2Fがサロンとなっている。
お目当てはサロンだったため、サロンへと続く階段には既に何組か並んでいたが最後尾へつく。
並んだ客にメニューを渡しにきたスタッフにサロンメニューとマカロンを食べたい旨伝えると、
1Fカウンタで選んできてください。列を離れても順番は大丈夫です。
商品を選び終え列に戻ると、わたしたちの後ろにいた客が場所を詰めている。その場にスタッフはおらず、待とうにも通路を塞いでしまうため階下にて待つことに。
新たに並んだ客のために先ほど対応したスタッフが階下へ降りてきて、こちらに先ほどの場所でお待ちくださいと声をかけてくる。
周囲の客に説明し、場所を空けてくれたのかと思いスタッフの後に続くも列は詰められたまま。
ここにいると通路を塞いでしまうため階下にて待っていた旨伝えると、列以外で待たれると順番を飛ばしてしまう恐れがあるためここで待って欲しいと言われる。
いや、だから待つ場所がないじゃんと内心思っていたら、ようやく周囲の客に場所を空けるよう指示をだす。
もう帰ろうかとも思ったが、折角来たんだしなぁとそのまま並ぶことに。
少し待ち、カウンタ席なら案内できるとのことだったのでカウンタ席へ。頼んだメニューはパフェとホットコーヒー。1Fで選んだマカロンとコーヒーはすぐに提供されるも、パフェはこない。
後から入店した客のパフェやワッフルがはやく提供されていたが、いちいち言うのもなぁというのと友人との談笑に興じていたため特に何も言わずマカロンをいただく。
商品自体は美味しかったため、特になにか言うこともなく普通にチェックを済ます。その際にパフェの提供が遅れたとのお詫びをいただく。
お詫びは受け入れるも、商品提供が遅れたことよりも並んでいた際の不手際の方が不快だったため若干モヤモヤ。
お詫びを受け入れた以上言うのもなんだかなと思うが我慢できずに吐き出したという経緯。
こちらは商品を選びにカウンタへ行ったのだから、後ろの客に列を詰めないよう指示するのがスタッフの役目ではないのか。
気を使って階下で待っていると申し出たわたしたちに順番を抜かしてしまうかもしれないと言うスタッフは何を考えているのかとモヤモヤ。
あとこれは毎回思っていることだけど、1Fと2Fのチェックを同じレジでやるのは不便じゃないのか。サロンはテーブルチェックでいいと思う。お世辞にも広いとは言えない店内なのだから工夫すべき。
とっても高尚で高潔なボクはネットリンチに加担したことがない。それどころか、ネットの皆さんが批判してる記事や人物でも、
(叩くには早計じゃないか?養護できる観点がいくつもある、長期的に考えれば必要な失敗であった可能性は?)
などと、数分思索を巡らせ、その検証のためにまた数分の検索作業をして、表象に隠された他人の思想や構想といった背景を納得できるレベルまで紐解いてからブコメを書く。そんな時間があるのはニートだからだが、ともかくだいたいブコメの主流派とは反対の意見になる。それでむしろリンチが飛び火して降り掛かってくることもあるのだが、それはさておき。ネットリンチはさぞ中毒性のある快楽行為なのだろうなあと思うが、その体験はできないままネット歴20年を迎えた。
だが、考えようによっては自分も同様の行為に参加していたかもしれないと思う瞬間があったのだ。たとえば、ゲームやアニメの公式ツイートやVtuberのツイート等のうち、祝うべき発言に出くわした時。それを展開すると、現在進行系でいいねカウンタが増加中だ。ツイートを読んだ時点で「いいね!」と思ってはいたが、その勢いにも後押しされ、自分も、といいねボタンを押す瞬間。これも一種の「いいね」による袋叩きなのでは、という思いがよぎった。実際に嫌がられてはいないと思うが、考えようによっては、だ。この「いいね」機能だが、一般人が急にバズったときなど、いいね爆撃に困って通知を一時無効にした、と発言をする人を最近よく見かけるのだ。今日もフォローしていたIIJmioの中の人が、スパムと思しき複数アカウントから過去ツイートに「いいね」される怪行為が迷惑だとこぼしていた。本来は人を笑顔にさせる機能でも、使い方によってはかくも複雑な状況が発生しうるものだ。自分では、ネガティブで非建設的な思考をブーストする投稿は一切せず、ポジティブで建設的な感情だけブーストしてあげるネットの妖精でいたつもりだが、それを守るのにも広範な知識や想像力が必要なものだ。
そこで、ネットサービスやアプリケーションのインタラクティブ性そのものが、折衝を増やしているのだと思い至った。昔のネットはそこまででもなかったが、今は技術が発達してリアルタイムに人々の反応が集まってくる様子が見られる。そしてネット人口も増えた。このライブ感こそが、人に大胆な行動・発言を誘う要因になっているのだ。そういう場では、常軌を逸した言動をするおかしな人も乗ってこれるし、そういう鼻つまみ者レベルの人が力を得る場にすらなる。
めまぐるしく流れていく世界を尻目に、自分はその流れの速さに合わせずに、本来の自分の能力に見合うだけの時間をとって深く息を吸い、深く息を吐く。それができる度胸のある人はなかなかいないのだ。それでも遅れを取ることはない、と自分に自信がないとなかなかできない。それができない人々が、短文で直情的なレスポンスを山のように積み重ねていくのだが、一種のキョロ充を見るような憐憫がそこにはある。どうにかしてあげられないだろうか。
例えるならば、自分は2chのスラングやコピペ、なんJ語、淫夢語録などに精通していて、ほとんどを認識できるが、決してリアルどころかネットの匿名の場ですら使うことはしない。元ネタを認識できるだけで、好意を持ってはいない。むしろ下品だし嫌いだ。それを使うことで通ぶったりする欲求はない。けれど、こういう言葉を躊躇いなく使う人がいる。「知っている」ことと「使う」ことが同一化していて、その間にあるべき判断が抜け落ちている人々。そういう人々が多すぎて、「そうじゃないんだよ」と言えなくなっているのが今のネットだと思う。あとは堀江貴文に対してどういう印象を抱いているか、なんかでも分かる。ネットに浸かるほとんどの人が、ネットのミームに人格を呑み込まれている。そして、こうした集団の同化バイアス的なものとネットリンチは繋がっているのだと思う。
狂気に憧れる凡人の話
それはほかでもないぼくのことであるのだが。何よりもまずこのもったいぶっていかにも尊大そうな文章にケチをつけなければならないが、どうしてもこの文章じゃないと書けないのは、普段の自分の頭の中をかけめぐる独白の数々がもう常にこの状態で、いくらケチをつかえようにも治らないのである。そしてその結果所々に綻びが生じる。そしてそれを許容するにはあと何十年も人生が必要になるだろう。
明け方。明け方といっても現在午前19時である。日当たりのいる部屋に住むせいかカーテンを未だ閉めているせいか太陽を拝むことはないのだが、とにかくこの時間までぼくは寝れずにいた。寝れないときに頭を駆け巡るのはたいてい直近の過去の反省か僕が主役の何かしらの劇的な映画である。ある時は正統を追い求めた結果化け物となる主人公を演じ、ある時は自分の人当りを恥じたり、ある時は海外旅行先で危うく性欲に負けそうなった事実を思い出す。現在や過去からの逃避のためにぼくは狂気の自分を追い求める。その狂気というのは目的達成のために没頭することができて周りを省みずそして周りもまた本人を認めている状態を指す。つまり自己実現と自己顕示が両立した理想的状態に憧れる。そしてその状態は過去のいかなる自分を構成している伏線を全て回収し、何等かの今現在の結果にすべて一本の柱で繋がることを求めている。求めているのである。現実はそうはいかない。そのような狂気の自分が自分に舞い降りたことはなく、狂気の結果になったこともない。狂気を演じてみたこともあったがそこに生じたほころびはむしろ自分を苦しめることになった。つまりは結果が伴わなかったのだが、それはそうとしよう。なにより自分自身はどこまでも凡人で、その凡人さと、そして誠実さを追い求めていたという現実に直面したのである。狂気は理想、凡人も理想。でも現実は凡人。では理想は叶ったと思うが、これもまた難しい。この構造がよくわからない。凡人という層の上に狂人という層が乗っかっていて、その両方を求める自分がいるのであろうか。
これはぼくの物語の妄想に関連してくるのだと考える。ぼくの頭の中の物語、しばしばそれは12歳の頃から文章となって表現され印刷され、多くの人に読ませたりはたまた読まれたりしたわけだが、その妄想こそが平凡の上に狂気がコーティングされている。つまり、世のなかに多く知れ渡るフィクションと全く同じ構造を取っている。具体的に言えばスターウォーズ。
例えば運命の申し子になりたがったり、運命に反逆し新しい法則を作り出す存在になりたがる。誰しも考える物語もそうかもしれない。だからこの文章もありがちなものになり得る。それはしかし考え始めるとまた大変なので置いておく。
まず、基本となる法則を追い求める。例えばスターウォーズでいう「フォース」であったり、よくある「運命」だったりする。「強大な支配者」だったりもする。そしてその基本となるものに、自分は「狂人」となり法則に準じて動いていく。妄想の世界でこの法則は絶対で揺らぐものではない。妄想の世界ではぼくは絶対に間違えない。法則を間違えない。
これこそがぼくの今の状態を作り出すのである。平凡の狂気の同居を求めるということ。つまりそれは究極的には平凡を求めているのかもしれない。絶対正しいとされることを妄信的に突き進めばぼくは幸せになれる、自己実現ができるという、ある意味思考停止を求めた状態なのかもしれない。価値観の氾濫するこの時代である。よく大昔の評論でいう「大きな物語」の終わった時代。それが昔。らしい。ぼくの生まれる五年ほど前にそれは終わり、今は価値観の氾濫する時代になっている。だからこそ強い価値観が生まれてカウンタ―も強い。2011以後、それを強く感じている。もはや学べば学ぶほど何が正しいかわからなくなり、そして終着点が分からなくなる。よくフィクションで言われる「それは己が決める」そうしたい。そうしたいし、それが正解だと思う。しかし自分が間違える存在で、正しいところに合わせなければならず、もし自分がそれを踏み外せばそれすらしばしぼくの責任ではなく(大きく元を辿れば自分の責任なのだが)、自捨を求められる「大きな物語」の中にいたぼくが、この物語の氾濫するなかでそれを選択し生きていけるのだろうか。しばしぼくらは尊重される。マイノリティだとしても悪いことだとしても、その個人は尊重される。されるべきである。一方でぼくを取り巻く規範がぼくにどう作用するのか。二つの全く異なるコミュニティを行き来してきた僕に何がどう作用するのか。1984よろしく二重思考である「わかっちゃいるけどやめられない」「間違っちゃいるけど間違っていない」恐らくこの二重思考も誤りであるが。そしてぼくはどちらかを選択し逃避する。どちらも正しいと思うのに。どちらも正しいと思うから。これがまたややこしい問題を引き起こす。
本当のぼくはとても乱暴な狂信者である。属する二つのコミュニティの規範に対して。とても乱暴で妄信的な狂信者である。その折り合いは結局、この22年間でつけることは出来なかった。そしてもう23年目を迎える。自己実現や自己顕示などもう参照ファイルの一個としてもったいぶって時折閲覧する程度でいい時期である。それすらも間違っているのかもしれないが。ぼくのただの達観という自己満足と自己実現の1つの妄想の中の確信の1つなのかもしれないが。だがどうしようもない。この疑い逃れに堕ちぬよう絶対を見つけるまで日向ぼっこしかないんだ。何日も何十年も雲のように漂って。とっつきやすい欲望を転々として理由を探していたけど。ある日ある事あって。また嫌になったんだ。これまでの世界にもこの文章にすらシラケてしまった。ぼくは戻っていった。あきらめと忘却と千羽鶴のように歩む生活の往来に。さながら長澤知之である。回想を繰り替えし思考列車は回送を繰り返しながらぼくは今日もぐるぐると回り先人を参照して一時満足しまた離陸して宙に浮いて厨二に入ろうする。三十分が経った。整理できただろうか。ぼくはこうして前に進めない。前に進み規範に折り合いをつける技量もない。面白いことに一年前のぼくの就職診断で出た答えは「開祖」であった。宗教をひらけというのだ。つまりはもうぼくはそのようにして列車を止めることは出来ないから、早く駅を作りその駅に留まりまた路線を作り走り出せというのだ。それしかぼくのような人間は生きることが出来ない。社会でやっていくこともできない。
そしてぼくのようなものは、地球上にゴマンといる。恥ずかしいことにマジョリティなのである。なんとも哀れ。恥ずべきこと。マイノリティを求めること時代がマジョリティの発想なのである。この世に溢れるマジョリティを求めるマイノリティの物語などすべてその逆でしかない。この文章も自己陶酔の一役目しか果たしていない。道具に頼らないだけマシであるが。
夜が明けた。今日が始まる。あまり酔った文章を書きたくないのでどう締めたらよかろうか。この自分の状態も、外の状態も、宵が明ける。上手い。よしこれで終わりにしよう。