はてなキーワード: ありがちなとは
どこでつっかえているかで説明できる。
多分恋愛する気がない。悩みも無いので本人にとっては快適な状態。
こういう人に恋愛しろと干渉するのは、ちょっと頭のおかしい人だ。人の勝手です。
恋愛についての妄想だけ脳内で繰り広げて、行動には全く移さないというありがちな状態。
大半のもてない男女はここに当てはまる。
妄想エネルギーが強いので、ラブコメやハーレムものみたいな創作を生み出すのには向いていると思う。
自分の行動に対して相手がどんなリアクションをしているか、わからない、あるいは興味がないので見てない。
「勘助」「ストーカー」などと言われがちな人々。ロックオンされると酷い目に遭う。
生きてるだけで加害しまくるモンスター性質だが、男性とは限らない。女性でも全然居るから男女論にはするなよ!
多くの既婚者はこの辺に何十年間も留まっている。
夫も妻も、問題は認識しているのに改善がダルいのでしない。で、同じネタで何度もケンカになる。
「お互い様」だったら離婚せずケンカを続けるし、片方だけが改善志向になったら離婚しやすい。
揉め事が起こりにくい状態。
恋愛だけでなく友達との関係も、部下の育成も、子育ても、全体的に上手く行きやすい状態だと思う。
周囲では、②や④の状態に居る人が多いように感じる。
http://anond.hatelabo.jp/20150103202512
上記増田主です。元エントリは愚痴っぽくなってしまってイマイチだったので、趣を変えてある種の人物の話をしようと思います。
友達の友達、といったつて(アラサーでフリーで“合コンに行くような種類の”男は不足がちなのだ)の合コンに参加してると、いつしか“中心人物”に遭遇することがある。「○○さんつながりなんです」と名前を出せば、「ああ、○○さんね知ってる知ってる」と呼ばれるような類いの、人々をつなぐ“ハブ”のような人物である(「知ってる」というリアクションの他には「名前だけはよく聞くけど会ったことがない」と称されることも多い)
彼らは古き良きお見合い叔母さんの現代版なのだろうか。非常に高い合コン開催力を持ち、男どもからの尊敬の念を一身に集める存在である。
ただ、お見合いおばさんと違うところは、彼ら自身も合コンに参加するというところである。プレイングマネージャーみたいなものだろうか。“友達が多い” “和を尊ぶ” “リーダーシップがある”などの女子が好みやすい属性を有しているため、普通にもてる。
なお、女子にも同じように“中心”がいるが、こちらは本当にお見合いおばさん的性向が強い。相性ぴったりのカップリングすることに喜びを感じるタイプ。サバサバでいいやつではあるが、こっちはもてない(多分)
自らも参加しつつ合コンを繰り返すもてもての中心人物氏。どのような人物を想像しただろうか。イケイケでノリノリ、勢いが命で多少の失礼などものともしない盛り上げ役?イケメン長身の絵に描いたような王子様?爽やかで話題豊富なスポーツマン?
すべて、否である。いままで出会ったこの手の人物は、ほぼ全員ものすごく落ち着いていた。会の中心になって盛り上げるわけではなく、隅の方で嘘かほんとか「みんなが楽しんでるのを見るのが好きなんだよ」とか言っちゃうタイプ。盛り上がろうが盛り上がらまいが、テンションにあまり変化がなく、常に落ち着いている。仏か。
主催者でもあるので、男子も女子も氏のことを“飲みが好きで人の出会いをサポートするのが好きないい人”と持ち上げるのだが、「いやいやおれの話はいいから」などと言ってしまうタイプなのである。仏か。
そんな氏であるが、彼は落ち着いてはみえるが毎週のように合コンを繰り返すやり手である。
女子側にその実態を聞いてみたことがあるのだが、ともかくまずは礼儀正しいらしい。ノリで誘うようなことはせず、ちゃんと丁寧にお誘いあそばすそうだ。そして、とても根気強いそうだ。一度断られても、別のアプローチで、“失礼”や“しつこさ”を感じないギリギリのラインでお誘いが来るらしい。
礼儀正しく不快感を与えるようなことはないが、押しは強い。繊細さと豪胆さが同居しているのだろうか。そういえばナンバーワン営業マンやナンバーワンホストなんかも世間のイメージと違って落ち着き払っているという話を聞いたことがあるが、それに近いのかもしれない。
余談であるが、その誠実さと根気強さ故なのか、氏の合コンは非常に“レベル”が高いことを付記しておく。
言うまでもないことだが、一応婚活女子に向かって書いておこう。このような魅力溢れる氏であるが、氏を旦那様候補にするのはやめたほうがよいと思う。
そりゃそうだ。毎週合コンを繰り返すなんてどう考えても"普通の夫"の枠に収まる人物ではない。そもそもレベルの高い合コンを繰り返している氏は審美眼も相当のはずで、つまり・・・ゲフンゲフン。
まあ婚活女子であればおそらく“こういう人”に会ったことあるはずだよね。
さて、世間ではあまり知られていない(?)この種の人物を広く紹介したい気持ちがあり、再び筆をとった次第でございましたが、いかがでしたでしょうか。
氏のこと、“いい人”と捉えた?“ろくでなし”と捉えた?
お楽しみいただけましたら幸いです。
当方アラサーフツメン。1,2ヶ月に1回くらいのペースで合コンする。婚活女子を狙っているわけではないが、年齢の都合上最近は婚活女子が相手になることが多い。
婚活女子というと“売れ残りのブサイク”というイメージを持つ人も少なくないと思うが、基本的には美人が多い。こんなきれいな子が結婚できないなんて日本はどうなってるんだとよく思う。もちろん年齢による劣化はあるが、それでも美人である。
おそらくアラサーになっても合コンで相手を見つけようという考えに至る=むかし合コンでいい思いをした=美人というロジックになっているのだと思う。ちなみに、ここでいう美人とは“普通の美人”であり、目の覚めるような美人というレベルにはあまりお目にかからない。
ひとことでいうとコミュ力がある。どんな話題にもだいたいそつがない感じに相づちを打てるし、会話のキャッチボールがうまい。いいタイミングで笑い、いい感じに盛り上がり、楽しく気持ちよく飲むことができる。
そしてみんな常識的。服装には過度な露出がなく、無難なお姉さんファッション。終電に乗り遅れることはないし、限界を超えて飲み過ぎることもないし、むやみに自分を卑下したり、自分を持ち上げ続けたりしない(でも手を変え品を変え遠回しにずっと自分を誉め称えている人は一定数いるかな)し、場違いな話題を延々と続けたりしないし、相手に失礼になることを言ったりしない。
趣味が海外旅行の人がとても多い。行ったことがあるところ、エピソードなどでひとしきり盛り上がれる鉄板の話題。それに、好きな料理の話(また会うときの口実)につなげやすいし、悪いことは全然ない。ただ、自分としては海外旅行っていっても年に1,2回だろうし、それを趣味というのはどうなんだろうと内心では思う(もちろんそのようなことを口に出すことはない)
そこまであるあるではないけど、男性陣に比べて転職歴がある人が多い気がする。
大きく分けて資格や能力を武器に好き勝手やってる系と、待遇に不満があってどんどん変わってる系がいる。後者はあまり幸せそうじゃなく「結婚ゴール」「結婚大逆転」を狙ってるように見受けられる。というか、そもそも女性陣のつながりが“昔の職場の同僚”なことがよくある。
これは当方がフツメンであることに関係しているのかもしれないが、基本は女性側が受け身であるように感じる。向こうからアプローチされることはほとんどない。が、あまり興味がなさそうに見えても誘ってみるとノリノリであることも多い。また、興味なさそうに見える人を誘ってみると、興味なさそうに“常識的な”返事が来て、“常識的な”デートが行えることもある。
なお、メール等で全く盛り上がってなくても、もう一回合コンしましょうという誘いには速攻で反応されることが多い。
これはうまく言えないけど、“選びにきている”感を全然隠しきれてない。友達になることはなくて、恋人になるか、次の合コン開催相手になるかの二者択一。
選ぶ基準は“この人と結婚したら自分にどれだけメリットがあるか” “過去の彼氏よりよいスペックか” “引っ張ってきた結婚を決めてよい相手であるか”などなど。もちろん、相手はそんな素振りはひとつも見せないけど、こういう“値踏みされてる感”、わかってしまうのですよね。そつがない常識的な会話の中に“フィルタリング条件”が埋め込まれていて、間違った回答をするとそこで恋人ルートは即足切り、となってしまう。そういえば、女子の半分くらいは第一印象でありかなしか決まっちゃうらしいけど、となると合コンで開始10分で見切りがついたら、残りの2時間3時間はどうするんだろう。人脈見極めの時間?
見切りと言えば飲み会後の「今日は楽しかったですね〜○○で盛り上がりましたね〜ありがとうございました」という内容のメールにすら一切返信しない女子は一定数存在する(2割くらい?)最初はかなりびっくりしたけど、もう慣れました。言うまでもなく今後つなげる価値すらないと判断されたってこと。
ここまでが“ありがちなこと”である。それに対する感想を一言で言えば、婚活女子との合コンはつまんないんです。美人とそつがなく楽しくおしゃべりできるにも関わらず、全然楽しくない。
自分がまるで婚活面接官になったかのような気分になる(しかし実際はATMとして値踏みされているのは自分の方)ぼろを出さないように、素や本音を出さないように、マイナス点がないように、必至に取り繕ってなんとか見初められるのを待っている。それでも漏れてしまう本音は“自分を一生養ってほしい”といった利己的なもの。
なんだろうね、これ。あなたは18歳くらいの時、“条件”で人を好きになったり嫌いになったりしたんですか、と説教したい気分になる。まあ年をとるってそういう事なのかもしれないけど。
「そういう商品が世に溢れている現象」を指して「ダサピンク現象」だろ
つか、ダサい女性向け商品にありがちなある種のテンプレを指して「ダサピンク」つってる訳で。
その前提は分かる人にはすぐ分かるから皆で「ダサピンク」と言う概念が共有出来てる訳だ。
でも分からん奴には分からんだろうし、分からんなら無理しなくていい。
例えばヲタからしたらヲタ向け萌え美少女絵と女児向け少女漫画絵(ちゃおとかにありそうなやつ)の違いはよく分かるけど、年寄りは分からんだろ?それと同じだ。
それは「いかにも萌え絵」と「いかにもちゃお絵」のテンプレとその違いを知っているかどうかの違いだ。
同じように、女性向け商品のデザインなんて皆同じと思ってる奴には分からんだろうけど
見る人が見ればダサピンクとそうでないものの違いが分かるんだよ。
■その1。
「やばい!太平洋だ!」……プレイした感想は、まさにこれだった。休業しているとはいえ、商業誌の編集者である筆者は、ゲームの題材として同人誌を扱うのは、やはり抵抗があったし、おたくである自分の状況を俯瞰的に扱うということを、美少女ゲームで表現するとは……という気持ちもあった。まあ、ありがちな先入観を抱いていたのだ。
で、実際にプレイしてみたら、「ゲームとして良くできている」のだ。確かに、題材の違和感は拭えないのだけど、『こみっくパーティー』はゲームだ。ゲームとして面白ければそれでいいのだ。その驚きが冒頭の台詞に現れているんだけど、まあ、元ネタは分かるまい(笑)。
さて、『こみっくパーティー』というゲームは、特別な思想性を見いだすことはできないけど、最大公約数の娯楽性を持った作品だと思う。実際、主人公に関する事柄以外は、かなりのバランス意識を持ってテキストが作られており、現在の同人誌状況のプラスもマイナスの両極を無難に取り込んでいる。これは、正月のオールスター映画を作るようなもので、それ故に「無難」というのは、この場合、最大限の褒め言葉なのだ。
そして、最大公約数故に、どのような批評も内部に取り込んでしまうというか、あらかじめ批評を予測された構造になっている。だから、ユーザーはゲーム中の事象にいちいちツッコミを入れつつ楽しんでいるし、批評にしても、思想的な根幹は特に存在しないので、どうしても些細な設定に帰着してしまう。そういう意味ではライター泣かせというか、誰もが批評家然として語ることで楽しむ作品でもあるし、このゲームを語るのは、筆者の場合、自分の半生を語るようなものでもあり、正直言って、気が重い。つまり、このゲームを語る事は、ユーザー自身の同人誌観を語るのと同じなのだ。これは非常に恥ずかしい。
■その2。
前号の「美少女絵師列伝」での、リーフ東京開発室インタビューにもあったけど、同人誌即売会という現象がそれほど普遍的なものになったのかと思うと、正直言って、また別の感情もある。筆者は同人誌の世界に足を踏み入れて8年、その半分はまんが雑誌の編集者として、絵に描いたように、おたくメディアと密着した生活を送ってきたけど、こうした俯瞰的に自己言及するメディアが発生するあたりは、言葉は悪いが、同人誌の世界が成熟し、おたくのイニシアチブを取る=経済的に勝利した状況になりつつあるのだな、と思い知らされた感がある。
あと、『こみっくパーティー』には思想性が無いと書いたが、特定の思想があったら、こんな広範な題材は取り扱わないし、結果として、一つの市場をめぐる噂話(都市伝説)の集合体という構成になるのも当然の事だろう。そして、このゲームは、善悪全てごちゃまぜにして、同人誌をめぐる状況を極力そのまま取り込んでいるし、登場人物がどれも清濁併せ呑む存在であることにも気づくだろう。特に、前半に関しては、主人公の視点があくまで素人として設定されているので、出会う人々がどれも過剰な存在に見えるのだ。また、冒頭で「主人公に関する事柄以外は~」と書いたのは、同人作家として成長するスピードと素人の視点が、後半になるにつれ、やや噛み合わなくなってくる為で、この辺で違和感を感じた人はいると思う。
ところが、みつみ美里氏や甘露樹氏といった作画陣の流麗な絵柄のフィルターを通すと、清濁併せ呑んだ部分が届かなくなるという現象が起こってしまう。最近のユーザーの傾向として、ビジュアル的な構成要素だけで全体を判断するので、本来、皮肉になるべき箇所が皮肉として通じないのだ。ユーザーはフィルター上の表層(ビジュアル)しか見ないので、キャラクターの内面まで踏み込むことはない。この微妙なズレというか、奇妙な皮膜が形成された結果として、特に何の問題もなく『こみっくパーティー』は、美少女ゲームという商品として成立している。本当は、もう少し微妙な立場にあるはずのゲームなのだけど。
古参のユーザーは、シナリオも含めたトータルを見た結果として、自分の同人誌観を語るのだが、最近のユーザーはビジュアル的な要素だけで判断するので、必然的に「キャラ萌え」といったベクトルへ向かう事になる。まさに、パソコン用語の「オブジェクト指向」ならぬ、「オブジェクト嗜好」といった所か。また、このタイプのユーザーには、全肯定と全否定という二つの判断しかない為、批評という概念自体が成立しなくなる傾向もある。
批評の介在しない、言論の一定化という状況で、他人との差異を何処に求めるかとなると、信仰心の強さを競う、という一点に帰着していく。信仰対象への愛情がイコールで消費した金額に換算される為に、トレーディングカードが流行したりもする。けれども、その信仰の強さが物語性を妨げる弊害も起きる。物語は信仰対象を疑うことから生まれるものというか、強烈な信仰は、自己の内面を相対化する心理機制を内包していないので、内面の葛藤の結果としての物語は生まれにくいのだ。
そして、信仰対象を次々と消費する現在のおたく産業に於ける経済システムは、物語よりも情報を重視している為、物語の需要は失われていく傾向にある。
【ネコミミ】【ロリぷに】【眼鏡っ娘】【妹】【メイド】といった、快楽原則に忠実な根本要素に、作画技術(画力・技法)や、ブランド(描き手のネームバリュー)が絡みあった結果、萌えられるかどうかを判断する……このように、価値の基準を情報単位で捉えていくパターンが、先に述べた「オブジェクト嗜好」なのだが、そういった表層的な要素のみで判断すると、物語や思想性は余計な要素=ノイズ以外の何物でもなくなってしまう。
例えば、とあるゲームのタイアップまんがで、元々、オリジナルの作品を描いていた作家を起用したりすると、アンケートは絶好調で、単行本もバカ売れしているのに、巷にはそのまんがに対するブーイングが溢れるという、パラドックスな状況が起こったりもする。
これは、「ゲームの関連商品」として単行本を買ったんだけど、描いている作家の作家性がノイズと判断されたからだろう。いわく「ゲームのイメージを壊す」と。この場合、その作家の絵柄(ビジュアル)だけで起用するから、そんな事態になるのであって、ゲームやアニメが主導する形でタイアップまんがを作るときは、キャラクターグッズに徹する、思想性の無い作家を選ぶ必要があるだろう。実際、最近のまんが業界周辺にはこういった、メディアミックスの悲劇といえる現象が、日常茶飯事になりつつあるのだが……話がずれた。
筆者は古いユーザーなので、エロの含有率で美少女ゲームを判断する癖がどうも抜けないのだが、現在の美少女ゲームユーザーは大きく二つの属性に分けられると思う。「キャラ萌えできるか」「心の琴線に触れられるか」……しかし、両者は結局、コインの裏表で、どちらも表層の情報、つまり、あらかじめメディアによって価値判断処理が施された情報だけを消費しているという点では五十歩百歩に過ぎない。
おそらく『こみっくパーティー』は、前者に属するのだろう。だが、萌え~なキャラがいるからプレイする、感動できないからプレイしない、というレベルでは割り切れない懐の広さも、このゲームが持っていることは知っておいて欲しい。
……筆者は、ゲーム(物語)の内部と自分の内部を相対化できるゲームが、良いゲームと考えているのだが、『こみっくパーティー』は十分、その条件を満たしている。題材が良いのか悪いのかに関しては、未だに判断し難いのだけど、ゲームとしては、まさに予想外というか、嬉しい誤算だったと言えよう。
原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿の執筆と推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。
さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているものも存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダを偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。
文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダと感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである。
とはいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。
よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。
水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。
具体例として次の例を挙げている。
「すごい美少女だ!」
俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、
――ドカーン
背後で、謎の爆発が!
なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生は学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである。
何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である。
とはいえ学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲームや携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。
読者はバカだからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験的小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島の姿勢はいささか理解に苦しむところである。
クーンツは作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。
一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公の描写、自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るものを描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。
また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。
人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。
しかしながら、これも絶対的に忌避されるべきかといえば難しい。
例えば名作と名高い「猫の地球儀」は
と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続の接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自の専門用語を第二文目で出すなど言語道断である。
しかし筆者は、上述の水島のドカーンをはるかに凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。
作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっとも妥当であるように思われる。
従って、アクションから入ろうが主人公の身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。
頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。
また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物の存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果的であると主張する。
こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写の臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。
止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定の時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家は西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。
仮に作家が自分の想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家の想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画が再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂いも付与されているのであれば、臨場感はさらに高くなるだろう。
絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークのセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法の類似点、相違点については十分な調査と検討が必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。
より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校でテストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。
これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット上必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車でヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである。
クーンツは会話は全体の20~30パーセントは必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるがバランスが必要である。
その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツは発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語と日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。
ヒックスは会話の機能として、「ストーリーを前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。
このようにクーンツ、ヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家陣からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。
この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本や筒井の批判するところと言いうるだろう。
説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報を記述してしまう、という点がよく指摘されるところである。
一方で三人称体は登場人物の知りえない情報を記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。
このことから水島は、「楽しさ重視のコメディは一人称」が望ましく、「複雑なストーリーは三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。
一方で飯田は三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田は一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公の一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。
とはいえ三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。
一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法は自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称のメリットと、感情移入を容易にする一人称のメリットを同時に享受できる極めて強力な技法である。
なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロの作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。
他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家が登場人物を批評したり意見を述べるのは19世紀の時代遅れな手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。
端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。
筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論が必要であることから本稿では割愛する。
水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリーの情報を提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックはドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。
一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述はある意味でこのフラッシュバックの効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである。特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。
クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。
推敲の重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定の時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。
冲方は推敲の要点として、「冒頭とラストにインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件(物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。
最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディア、プロット、原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。
幼稚園児の頃に、(当時はお嫁さんになりたいという生き方が主流だった)自分は働いて自分の稼ぎは自分で稼ぐといい、
変な子ねといわれつつも、(当時、まだ主流だった)女としての生き方=一般職で寿退社・専業主婦という息方だけは御免だと思っていた。
専業主婦なんて遅れてる、バリバリ働く女がかっこいいのよ!って時代だよね。
男だったらそんなの当たり前だから敢えて主張しないし意識もしないけど。
つーか増田より10歳以上年上だけど、自分が幼稚園児の頃ですら「お嫁さん」なんて答える女児は少数派で
ケーキ屋さんお花屋さんか先生看護師スチュワーデスって辺りがありがちな答えだったけども。
そもそも幼稚園児が「一般職」なんて言葉を知ってる訳ないし、会社員なんて男児であってもなりたいものにはまず上がらないよね。
もっと特殊かつ幼稚園児にも分かりやすい職業を答えるのが普通。
西谷は「主人公は作家の分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公が作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビのラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。
このように見てみると登場人物と作家の関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考は作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。
この点でヒックスは登場人物を作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分の嫉妬深い側面を誇張した人格を創造する、というもので、全くの新たな人格を創造するのではなく、そのベースはあくまで自分自身だとする。
これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身が名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。
登場人物は作家自身である。主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体は作家の人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家の人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。
「キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定の合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物の人格のベースは自分自身である以上、ほとんど常に作家の想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。
なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合、ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。
ヒックスは登場人物を創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックスが否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。
ここでいう「夢」はその登場人物の人格に依存して考えだされるべきものである。これは大塚が世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。
もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人の人格にしかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義が必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家が適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。
西谷がヒロインのブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。
以上のように作家と登場人物の関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家が主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待を作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。
西谷同様、筒井は「自分が作品に感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。
本格ミステリやSFなど、感情移入を必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説は存在する。しかし感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。
さて、基本的に読者の感情移入は物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。
まず榎本や水島は主人公の年代をターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベの主人公は中高生であることが望ましいと言う。同じ理由で性別も男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズやブギーポップのように女性主人公の成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生の感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。
まず作者自身をモデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。
主人公に求められる特質について、西谷、榎本、飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。
そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやすい主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である。
一方で「低スペックで卑屈、無個性、へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公のラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。
しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人的能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本や飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及は最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。
さて、筆者はこれらの各説は人物の能力と精神と倫理を区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。
能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能な行為の名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能力であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人的能力を持っていても(それが物語上必要ならば)問題ない。
次に主人公の精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情がオープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。
最後に主人公の倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子にモテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。
一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である。
Unlimited Blade Worksとかマジカッコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しかし倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。
さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初に主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難な戦略だと言える。
こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入に成功すると、自然とハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入の効果が高いという指摘だと言えよう。
西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。
そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物のギャップである。
本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味で定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。
飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面でギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物」であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。
ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレは多面的な感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。
「ツンデレ」は言動まで類型化された属性である。本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。
良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶でバイトが事務的に発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。
さて、さらに飯田はギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充的イメージと「オタク」が持つ根暗でコミュ障的イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである。
このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効に機能する。
例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的なレベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。
西谷は主人公とヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しかし主人公、ヒロイン、親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。
2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。
才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。
これが意味するところは、才能のあるワナビは他人の書いた創作技術本を読んで必死にトレースしたりなどしなかった、という非情な現実である。ノウハウ本を欲するのはいつだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビは今日も選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。
スティーブン・キングがプロットなど不要だと言う一方でディーン・クーンツはプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方は世界から作らないようでは話にならないと言う。
ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。
実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。
手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。
もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。
大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。
Hard work beats talent when talent doesn't work hard.
Tim Notke
本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点でラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的な努力を実現する上での一助となれば幸いである。
本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベルの新人賞に向けてワナビが執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的なラノベの定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題はこのラノベの本質的定義の限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。
本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。
まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。
ラノベ作家は商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田はキャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞は商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビの承認欲求を満たすためにあるわけではない。
新城はラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生」であるとする。飯田はさらにラノベの読者はアニメや漫画、ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本も西谷も水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。
ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。
新人賞の下読みの多くは大学生のバイトであり(あるいは主婦や新人編集者)、選考するのはプロの作家であり、プロの編集者である。いずれにせよ選考過程に中高生は存在しない。
読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロの作家とワナビでは立場が違う。ワナビはラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者が想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本は現実の中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実の中高生には圧倒的にウケるが20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである。
行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかしプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説の煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。
最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア、原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディア、プロット、原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。
本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家も存在する。
一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題を引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。
以下、それぞれの段階についての各論に入る。
「アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語、キーワード、フレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである。
冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディアを連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。
しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。
この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方は主題、世界、人物、物語、文体の5種であるとするし、榎本はキャラクター、世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体が意味を持つものではないが、それぞれが独自の用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。
本稿では主題とテーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである。冲方や大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。
主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚は作成した主人公像の要素を深化させそこから主題を抽出するとしている。榎本はプロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷は執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。
このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。
繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題と関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアとアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。
この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。
設定資料集が好きな人が存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定の物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語の設定資料集など誰も目を通してくれはしない。
このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本は主題を台詞や地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツは主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞や地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。
本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報(名前、性格や容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。
一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則、身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界」である。
いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方や水島は世界が先だとするし、大塚や西谷は登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。
しかしながら冲方と大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。
冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界と時代に左右されたもの」と言い、このような世界だからこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性を要求する。
大塚もまた登場人物の個性については「キャラクターが所属する「世界」の物の見方の価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性を要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方も大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。
ワナビの「世界」について「リアリティが自分の身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校とコンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。
冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。
その一方で登場人物については、冲方はそれが主題に関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島も登場人物はプロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初に長大なキャラ表を作るというワナビにありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物は存在していない」と断じる。
だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツはプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長、体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。
「登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合は最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。
これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときのリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャートを作成するのが良いとして、さらには性格、趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。
ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。
最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである。 Permalink | 記事への反応(5) | 20:41
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1354368948
自称「完璧主義者()」に限って、全然完璧主義じゃないと言う皮肉。
ま、そう言う人間たまにいるけどな。どこにでも。
あぁ、そう言えば前バイトしてた零細企業八百屋の一人社長も「俺は完璧主義者だから。」とか薄ら笑い浮かべながら言ってたな。
「え?お前の何処が完璧主義なんだよ?」と普通は思う。(ある意味他人に完璧主義を強要する「完璧押し付け主義」なのかもしれない。)
言った事をやらないし、やりきらない。宣言した事を「貫徹()」しない。(そのくせ他人には貫徹を強要する。まぁ、ありがちなブラック企業の体質か。)
さらに、自分で出来もしないのに「出来る!」と宣言した事を結局自分の手に負えないから他人の責任として擦り付け、他人にやらせる。しかも対価は支払わない。
全部無料でやらせようとする。(例えそれが「他社でも」だ。完全に異常だろ、、、)
物の扱い方から客に対する態度、取引先には平気で横柄な態度を取る。
勿論、それは他の人間も認める所だった。
(まぁ、好き勝手生きてきたようだから、常識が欠落しているのは仕方ないんだろうけど。それにしても酷すぎる。)
一番厄介な状態。
その状況がソイツの傲慢さを加速させる。周りが見て見ぬフリをするから。
(まぁ、「忙しいからそんな下らない人間を相手にしてられない。」と言うのもある。)
だから他人には凄く横暴に振る舞い、自分の非は絶対に認めない。
自分が原因で招いたミスも絶対に認めないし、まずもって絶対に謝らない。
「ごめんなさい。」の一言も言わない。要するに謝る気持ちがそもそもない。
と言うか取引先の人にさえ「なんでそんな偉そうなの。」と注意される程。もうレベルが幼稚園児。
前述のように謝らないどころか自分の非によって出来た「責任」を平気な顔して他人に擦り付ける。
でもソイツの精神的視野が狭いから、自分の行為を客体的に見られていない。
更に自分で信じ込んでる偽善活動をしてるから、何やっても許されると勘違いしている。
人を笑わせるのが大好きで、得意だ。大学生になった今でもこれは自信がある。
小中高、ずっとクラスの「人気者」(別にカッコ良かったとかスポーツが出来たわけじゃないけど)だった。今はクラスとかないからそんな大層な肩書は頂いていないが。
だけどいつの間にか、苦痛になるときが出てきた。まあありがちな話だけれど、自分がピエロのように思えてきてしょうがないのだ。
いや、ピエロであることは構わない。別にとんでもない自虐やら身体を張った芸で笑われてるわけではないのだし、人を笑わせることはやっぱり楽しいし、笑ってもらえたら嬉しい。
じゃあ何が問題なのかといえば、自分が真剣な悩みを抱えている時。誰かに相談しようと話し始めても、「明るく楽しい自分」というキャラ付けから外れてしまうことが怖くて、ついなんでもないようにネタにして話したりする。だから、本当に悩んでることはこうやって増田で書くくらいしかできない。
絶賛劇場公開中の楽園追放を観てきたので感じたことを列記したい。
ネタバレを含むので注意。
映画館の環境で観るべき作品なので、BDレンタルを待ってる人は迷わず足を運ぶべきだ。
DVDで見ようと思ってる人は機会損失となることを予言する。今すぐ考え直せ。
「楽園追放-Expelled from Paradise-」
からだにぴったりと纏わり付くスーツ(というかタイツ)は、およそ進歩的な人類を服装で表現する時にありがちな手法だ。観始めたとき、スタッフがスター・トレックの呪縛から逃れていないのではと思った。おそらくそれはあくまで地球残市民との対比をわかりやすく表現することと、特定の市場を意識した結果だろう。緑色の装飾品の意味はアンテナ?それとも光合成するとか?これは最後まで分からなかった。
16歳といえば日本では法的に婚姻できる歳。アンジェラは「他の捜査官を出し抜きたかった」といって物理的な身体の生成時間を早め、16歳の少女の身体を持ち地球に降り立つ。降り立つ時は子宮をメタファーとした卑猥なディティールで表現された。ディーヴァでは人類が考えうる精神的探求を経験したアンジェラだが、地球で生身の人類と出会い、「大人」になるためには、最低限16歳となり、生まれる必要があったのだ。映画の最後のシーンでは、地球で、フロンティアセッターを旅立たせることに意味を見出し、身体的な異性と接触する。ディンゴに抱かれた時アンジェラが顔を赤らめたのには意味がある。
日々進歩するテクノロジーニュースに賑わう私たちの世界にとって、理解しやすい範囲で、そして400年後には思想的に陳腐化していることを心配したくなるテクノロジーが使われている。しかしこの映画にとってはテクノロジーそれ自体は主題ではなく、グレッグイーガンのようについていけないぐらいの言語環境を構築する必要もない。この映画が語りたい言葉は、観客側の現実世界の、テクノロジーに溢れた社会での人間性を表現することにあるのだから。
映画の冒頭部分でアンジェラがディーヴァで公安捜査を行っているとき、突如ハッキングしてきたフロンティアセッターの犯行からアクセス元(!)を割り出し、回線(!)の中で捕まえようとアンジェラが文字通り電気信号となり、何故か金平糖のようになったフロンティアセッターと光速のアクションシーンを巻き起こす。映画館の音響環境で見たときは疑いようもなくゲームの「REZ」だと思ったし、エレクトロミュージックは最高にシビれた。
私はロボットが出てくるアニメを観るたびに「何故その形状なのか」に意識がいきがちとなってしまう。今回も、何故人型で銃型の武器やわざわざ剣や盾を使って戦わないとならないのか、または運転席でバイクに跨らないとならないのか、最後まで理解できなかった。宇宙スケールでの戦闘を表現するために「ロボット」という記号を使わないこと以外に方法がないのだろう。
地球に残された人類は、400年も経っているというのにナノハザードから時間が経過していないかのような荒廃した世界に住んでいる。廃墟都市のイージーなイメージであるアジアンな看板と雑多な路地そして個人商店。ディンゴはゆきずりの傭兵であり、西部劇のようなアンジェラとの出会いはディンゴのキャラクターをよく表していた。
劇中では骨、つまり身体で感じる音楽というものについて、電脳世界にのみ生きてきたアンジェラが首を傾げる。これは物語のテーマを象徴するデータと身体性の対比についての比喩である。
なぜ400年もの間、リソースについて有限ではあるが最高権限を持つディーヴァ首脳陣がおよそ意味を見い出せるとも思えない自治を続けているのか。同じバージョンのシムシティを数百年繰り返して飽きない自信は私にはない。進歩を繰り返した結果がジョージ・オーウェル的なディストピア?まぁ所詮は故郷を捨てて自分達の世界に引きこもろうとする人間達だったのだから仕方ないとも言える。
押井守のスカイ・クロラよろしく、キャラ立ちした少女たちが金太郎飴のように、アンジェラと同じく露出の高いスーツでバイクに跨り戦闘が行われる。この戦闘ではアンジェラはフロンティアセッターの演算能力を使い、ディーヴァ側の捜査員達より一歩秀でた戦闘能力を発揮する。お互いの戦闘方法に進歩した戦術といえるものが見い出しずらいが、そもそも進歩した人間が未だ殺し合いで解決しようと考えるのは400年後にとって果たして合理的であるのか。余談だがバイクとロボットが男性の象徴であるとするのは考えすぎだろうか。
ディーヴァとの戦闘が終わり、ディンゴによって人間と承認されたフロンティアセッターが宇宙へと旅立つ。と、この見送ろうというシーンで初めてアンジェラのブーツの固い足音が私の耳に障った。まるでこれから地球に足をつけて暮らそうと言っているかのような耳障りな音。このシーンの後、靴を脱ぐシーンがあるかと思ったが、それは野暮というものだろう。
以上、観た勢いで思ったことを綴ってみた。
都合がつけば来週にも、もう1度は劇場で観たいと思っている。
十年以上昔、小学生だった頃、何の気なしに学校の掃除をしていたことがある。昼の休み時間、自発的に、一人で黙々と。
掃除を始めたことに意味はなかった。昼休みを一緒に楽しく過ごして遊ぶ友だちもいなくて、しかも家で一人ゲームで遊ぶことに慣れた自分は、学校で時間を潰す手段に飢えていた。
学校で一人時間を潰す手段の最たるものは図書室での読書だろうが、自分の住んでいたところは田舎で、その蔵書は微々たるものだった。興味のあるものは高学年に上る前に全て読み終わるほどだったし、だからといって興味のない本を読むには、当時の自分はまだ堪え性が足りていない。
それである時ふと、することがないのなら、昼休みと五時間目の間にある掃除の時間を前倒ししようと思いついた。例えるなら、夏休みの宿題を最初の数日で終わらせておく気分で。
あとは昼休みが終わって校庭から帰ってきたクラスメイトをちょっと嬉し驚かせたかったのもある。皆まじめにやらないから一人でやったほうが早いんじゃないかと思っていたのもある。
それで実際動いてみると、最初は自分の思い通りに事が進んだ。クラスメイトは正直「いいの?」と戸惑っているようだったけれど、面倒なことをしなくて済んだのだから喜んでいた部分もあった、と思うたぶん。その後も数回やるうちは、お礼を言われたりして、単に気まぐれでやっているのだということで事は済んでいた。
ただそれが一週間、二週間と続くようになると、やはりちょっと変な空気になった。そしてその雰囲気は次第に担任の先生にも伝わった。
そう理由を尋ねられても困った。今でこそ説明は付けられるが、その当時はそれをうまく言葉にできるほどの力はなかったから。
「暇だから」
結果、そういう答えが自分の口から出た。先生は納得しなかった。
「本当は誰かにやれって言われたんじゃないの?」
そう言われて初めて自分も気がついた。先生は理由付けに迷った結果、この子はいじめにあっているのではないかと考えたのだろう。
「……違います」
そう言うと、先生はどうにも困った顔をした。判断がつかないという様子だった。それから少しやりとりがあった後、
「じゃあ誰に言われたわけでもなく、自発的にやってるのね?」
「……はい」
それは先生にとってみればただの強い念押しだったのだろうけれど、自分は先生に一人呼び出された経験があまりなかったから、なんとなく自分が怒られているような気分になった。もともと涙腺も緩い方だったから、涙もこぼれた。
結局、自分は次の日からは掃除を止めた。自分の行動で周囲が予想外の反応を示したので、もう面倒というか、嫌になったからだ。すると、クラスメイトの誰が言い出したか、偽善だ偽善としばらくからかわれることになった。
それで若干嫌な思いはした覚えはあるが、そこから先生が懸念したいじめが起こることはなかったし、しばらくはもやもやとしていたものの、時間が経つといつの間にか全てを忘れてしまった。
この前地元に戻ってまた帰る新幹線の中、そういえばとこのことを思い出した。その時自分はちょうど就活の時期だったから、じゃあこの時自分は何を学んで今に至るのだろうと眠い頭で考えた。
「はっきりとした裏付けのない善意っぽい行動は、だいたい善意に受け取られない」
「本当に相手は言いたいことを言っているのか、確認する方法は何かあるか」
あとは余計な、出る杭は、とか、その時はそういうありがちな題を立てるだけで終わったんだけど、もうちょいなんかなかったかなと今思い出して考えてる。
12/7 追記
ブコメで予想外に色々な反応があって驚いた。
一個だけ、モデルにした当時の先生は決して悪い先生ではなかったとだけ。責任感に積極的なものと消極的なものがあるなら、その先生は積極的な方の責任感を持ってたし、個人的にはそれは良い先生の条件に含まれると思うので。
シェアされた保守速報の記事は、「民主党が小学4年生のふりしてアベノミクス解散に疑義を唱えるステマサイト開設か!? ネット炎上」というもの。
記事を普通に読めば見出しのように民主党が関わっている根拠はどこにも書かれていないことは一目瞭然であり、安倍首相もその点は言及しているが、民主党批判さえされていればいいと思ったのでシェアすることにしたのだろう。安倍首相にとっては特に珍しくもない行動と思われる。
安倍首相も、保守速報の記事内容を読んで、「なんだ民主党関わってる証拠ないじゃん」とさぞがっかりしたことだろう。見出しを読んで色めき立った気持ちを返せと保守速報に怒っているかもしれない。
ただ保守速報は単なる2chコピペまとめサイトなので、元記事がある。元はnetgeekの「【炎上】民主党が小学4年生のふりをしてアベノミクス解散に疑義を唱えるステマサイトを開設か!?」という記事だ(現在タイトル変更済み)。
はてなブックマーク - 【炎上】民主党が小学4年生のふりをしてアベノミクス解散に疑義を唱えるステマサイトを開設か!? | netgeek
保守速報はnetgeekの記事を丸コピペしただけ。コピペまとめにありがちな見出しを勝手につけてデマを煽ることをしただろうと文句のある人もいるだろうが、残念ながら見出しもnetgeekをコピペしただけだ。つまり安倍首相が紹介した内容はnetgeekの記事そのものである。
今回の件では「保守速報という媒体」の政治的性質を問題視する批判意見が目立ち、首相が紹介した記事の内容の質等についてはあまり議論が起こっていない。週刊誌以下のネット記事を首相が紹介するのはどうなのって議論はあってもいいはずだ。また、著作権上の違法性も指摘されているコピペコンテンツを首相が紹介した是非というのも議論になるかもしれない。
netgeekといえば、最近は他バイラルメディアのパクリ問題などを上手く煽りながら追及していて炎上大好き、祭り上等というイメージがある。しかし、せっかく自分の記事が一国の首相に言及されたというのに、そのことについて書かれた記事は未だにない。というか安倍首相に言及されたのが自分の記事だというのを完全スルーしている。
この記事でも、安倍首相がシェアしたのは保守速報の記事であると書かれているだけで、保守速報にコピペされる形でnetgeekの記事が安倍首相に言及された件は書いていないのだ。安倍首相に紹介されたバイラルメディアの記事なんてそうそうあるもんじゃない。初めてのことかもしれない。シェア問題への批判の多くは「保守速報をシェアしたこと」であるので、「コピペブログではなく元記事をシェアしてください」と首相のFBに投稿すれば、絶好の宣伝の機会にもなるのに。
僕の同僚に、海外ボランティアで働くことが夢、という人がいる。
あまりに何度も聞かされるので、彼の心理には何かあるのではないかと思い、僕なりに同僚の心理を分析してみた。
まず、夢を語った後、必ず今はそれができない理由もセットで語る。これもありがちな理由である。要するに家庭の事情である。彼の家は母子家庭で母親、祖母の面倒を看なくてはならず、家を空けることができないということらしい。確かにこれは素晴らしい。実家住まいで親のスネをかじりまくってる僕からしたら、なんという立派な心がけだろう。
海外でボランティアすることは確かに素晴らしいことだ。理想が高い。ただ単に、経済的に成功したいとか、女にもてたいとかいうよりはワンランクもツーランクも高い崇高な理念だと思う。要するに、目標とする人は、ビルゲイツではなくイエス・キリストですと、言っているようなものである。
ではなぜ、そんな高い理想を掲げるのか?
僕は最近、ある資格を取った。その分、数万円だけど給料が上がった。その分だけ、同僚よりは毎月もらっている給料も多くなったはずだ。でも、その資格を取るのに10年以上の時間をかけてしまったため、とても月数万円の手当ではペイできているとは思えない。この資格は職場の上司も取れなかったものなので、上司にも認めてはもらえず、職場では仕事できるキャラとして扱われてはいない。むしろ、職場のお荷物扱いである。でも、職場から離れた第三者から見れば、彼と僕なら資格を持ってる分、僕のほうが仕事できるように見てもらえるかもしれない。もちろん同僚もその資格の勉強はしていた。毎年試験シーズンが近づくと勉強を再開する。 数カ月すると勉強の話をしなくなる。すると、海外ボランティアの夢を語りだす。毎年、この繰り返しだ。
要するに高い理想を掲げることで、二人の勝ち負けを決めるラインを引き上げたいのでは?と僕は思った。
つまり、海外ボランティアしてないおまえも負けだよ、と暗に言いたいのではないかと思った。
俺たちの勝ち負けを決めるラインは、こんな小さな会社でやってる仕事ではなく、地球規模で活躍してるかどうかだよ、と言いたいのではないのか?
どちらも世界を股にかけて仕事していない。つまり俺も負けだけど、お前も負けてるよ。
だから、おれと話しするとき、ドヤ顔するんじゃねーぞ。このクソ野郎!!
おそらく皆さんの周りにも大きな夢を語る人がいるはず。ただ、その大きな夢を語る人は、その夢の実現よりもむしろ、勝ち負けラインをあいまいにしたい人がほとんどなのではと思う。本音は実現させるつもりはないので、語る夢はデカければデカいほど良い。勝ち負けラインをはるか彼方に引き上げることにより、自分の周りから勝者を消滅させる。
そういう人は、いつも人との勝ち負けを気にしながら人と接しているので、誰かにその勝ち負けラインを超えられはしないかといつもビクビクしている。僕もその同僚にお道化やお世辞もいっぱい言っているつもりなんだけど、彼との関係はどうも上手くいっていない。
団栗の背比べ
【読み】どんぐりのせいくらべ
空き家の問題を語る時は、色んな話がごちゃまぜになりがちなので、
ガッツリボジショントークで、解説してみることにする。
要は「固定資産税が変わらずに、撤去費用役所持ちなら、何が変わる?」という話。
みんな空き家買おうぜ。
NHKの「郊外住宅地の見えない空き家」では、あえて郊外という高度成長時代の職場から離れたベッドタウンに焦点を当てている。
ただ、途中のグラフでも上手いこといってないように、東京の単身・老人世代が多いとか、ちょっとチグハグだ。
まず、「空き家」を、理解しやすいように4つに分類しておこう。
本来は「郊外住宅地の見えない空き家」には入らない話なんだが、グラフにすると入ってきちまう。
古くなってきたワンルームマンションで、学生が減ると、まあ空くよね。
あとは、地方の一戸建て。誰も借りない。不動産屋でも持て余し気味。
親が死んで相続したけど、もう俺マンションローン中だしなあ、なんて物件。
両親の思い出を整理する時間はないし、かと言って全部捨てるには忍びない。
売ろうかなあ、どうしようかなあ、とちゃんと税金は払ってるパターン。
賃貸も販売もそうなんだけど、バブルって言うと言い過ぎだが、思った値では売れないね。
のに、やっぱり人間「家賃は下げたくない」「この値段以下では売りたくない」となりがち。
まあ、掲載料を頂ければ高値で掲載し続けても不動産屋的には問題無いですからね。
別に借り手見つからないとか、売れないとか、不動産屋困らないし。
思い出の家として倉庫代わりにしてたり、昔の土地を売って都会でマンションでも買いたいんだけど
「古家付きなんで評価的にはマイナスですねぇ諸経費引くと150万くらいかな」とかで売りたくない。
あと、超揉めてる。そもそも誰が相続したのかわからない。撤去費用がないしなあ。
とかナントカやってるうちに、経年劣化や台風一過であちこち壊れていく感じ。
売れないか、売りたくないか、どっちかだから。
(なお、課税標準1/3になるタイプの家はまあまあレアケースだから触れない)
なんか変じゃない?
その廃墟は、年間3~10万円くらい無駄にカネが出て行ってる。
もちろん古家を潰せば18~60万円になるから潰す理由はない。
じゃあ、なんで住んでもいないのに売らないの?
簡単な方からね。
「思い出の家」や「バブルの残り香」だと、売りたくない。
単に近所の人が「あそこ空き家だし、不審者が住み着いても嫌だし……」というレベル。
まあ、治安悪化につながりかねないというのも判らなくはないが、
実体的にはバブル期のリゾートマンションとかも、結構こういうの多い。
リゾートマンションみたいに不払い管理料で、とかは実は管理組合が競売にかけて強制的に精算するって荒業がある。
(たいてい管理組合が機能してないから問題なのであって、残債整理も行政が手を入れるという手段は残されてる)
これが、「あの土地は高く売れる」とか「先祖伝来の土地だから」とかで放置されると廃墟になる。
これね、売主が満足する値段が付けば売れるという意味で売りたくない理由に聞こえるかもしれないんだけど、
実質的に「売れない」のよ。売主が納得する値段は(たぶん)本人が生きてるうちにはつかない。
(バブリーな地価上昇が夢物語だと言うのは同意してもらえると思うが、そう思わないお年寄りも多いということよ)
身寄りのない年寄りにも法律的には権利のある親類が居るかもしれない。
母親は老人ホーム。兄貴は売ってカネにして分けようというが、妹が「父は生前残してほしいと言ってた」とか揉めてる奴。
もうね、正直触りたくないですそういう揉め事。
築年数不明な古家付き借地権。土地はその辺の顔役が持ってて絶対売らない。田舎。300万。買う?
人は減ってきてる。空き家が増えてる。
ということはだよ。わざわざ郊外まで行かなくても、手頃な値段の家って沢山あるのよ。
職場から電車で一本。駅近。でも古家付きで売れない。こういうのは更地にして新築立てりゃ売れますよと言いやすい。
調べたら実家の近所の廃墟もオヤジの持ち家だった、物納するにゃカネがある。そもそも廃墟だから物納対象外だ。
値段を下げたら売れる?売れない。そもそも仲介手数料の旨味もないし売り込む理由がない。
だから、「郊外住宅地の見えない空き家」は、どん詰まって放置される。
(蛇足。民法第717条読むと、ボロ家を捨て値で貸せない理由がわかるよ。無過失責任超重い)
固定資産税取られるぐらいなら売ったり貸したら良いのに、という質問が本質。
売れないし貸せないんです。
撤去費用も立替費用もなく、売り更地にも新規賃貸物件にも出来ない。
売れるアテもない。引き取り手もいない。
これが「固定資産税UPは一定期間保留」だけだとあんまり減らない。
追加で「警告から一定期間後に、撤去費用は役所持ちで、強制撤去」にするとほぼ無くせるとは思う。
おたくの教会が信者の生活に口出ししないことが他の教会もそうだという担保にはならないって話。
「だからよく調べろよ、そこでありがちな反論はこういうのだよ」って話しだろ?
全教会がそうだって書いてるか?決めつけてるのは誰だか考えてみなよ。
それが聖書と一致してるかどうかはまた別の話。
おたくの牧師だか神父だか長老だかがなんて言ってるかじゃなくね。
「他の誰もしていない」とか「決めつける」とか「誰それに失礼」とか
相手の主張は無視して感情的に攻撃してうんざりさせてるだけで反論になってない。
このやりとり見てキリスト教はさすがに穏やかで忍耐強くて愛があるわーとは思われないだろうね。
3週目まで見てきたけど、なんかチグハグな出来になっていると思う。
主役の二人含め、キャストの演技と配置は申し分ない。
どれも魅力的で、現状だともったいないくらいのアクの強さである。
しかしこのままでは、
朝ドラにありがちなテンポの遅さ、回想の多さ、繰り返しの多さ、
見続けるのが辛くなってくる。
総集編だけやって欲しい状態になる。
なんというか、脚本が慎重すぎるんだと思う。
初の外国人主人公をお茶の間に浸透させるため、という気持ちもわかるけど、
広島でも大阪でも、本筋ないがしろにしてまでイビリを入れる必要があったのか?
「で?この脚本のどこにいけずが入るんや?ウケるのはいけずやでぇ」
とか何とか言ってゴリ押ししたみたいに思える。
それでも最初の週くらいはいいかなと思ってたけど、いい加減飽きる。
しつこいアピールが盛りつけられてるだけのドラマを誰が見たいだろう?
いくらなんでも陳腐すぎないか?
大前提さえ怪しくなるような人物造形じゃないか。
くらいの設定を活かしたセリフを言わせればいいのに。
ピン子の泣き落としと言い相武紗季の塩ドバーといい、
妙に人格者過ぎて亀山のダメさが際立ってしまう鴨居の社長といい、
すべての要素がつまみ食い程度で、今作独特の設定を活かした
掘り下げが全然されていないのが気になる。
エリー自身はずば抜けて自然かつ繊細な演技をしてるから見ていられるけど、
脚本的には「なんでスコットランド人なの?」というレベルである。
後先考えずに気に入った女を攫ってきた馬鹿な日本人男の話じゃないでしょ?
ウィスキー作りを支えるパートナーとしての活躍をさせて差し上げろよ。
結局のところ、「派手な外人が出てるけど、普通の日本のドラマですよ!」と
だからピン子のいけずも中途半端、相武紗季のいけずも中途半端、
わかりやすいホームドラマのセリフを再現するためだけに手駒を動かしているから、
アイディアはいいのに、失敗しないことにこだわりすぎて陳腐化してる。
そりゃね、新しいことを始めるときは変える要素は一つだけってのもわかりますよ。
でも現状だと、変えた必然性を一つ一つ潰してるだけなんだよ。
「マッサン」の題材もキャストもここ数年で一番と言っていいくらい好きなので、
ほんとなんかもっと頑張って欲しい。
ガツンと来るシーンをいっぱい作って欲しい。