2015-01-02

Natural Color Phantasm Vol.5 『すべての愛情消耗品である

■その1。

 「やばい太平洋だ!」……プレイした感想は、まさにこれだった。休業しているとはいえ、商業誌編集者である筆者は、ゲームの題材として同人誌を扱うのは、やはり抵抗があったし、おたくである自分の状況を俯瞰的に扱うということを、美少女ゲーム表現するとは……という気持ちもあった。まあ、ありがちな先入観を抱いていたのだ。

 で、実際にプレイしてみたら、「ゲームとして良くできている」のだ。確かに、題材の違和感は拭えないのだけど、『こみっくパーティー』はゲームだ。ゲームとして面白ければそれでいいのだ。その驚きが冒頭の台詞に現れているんだけど、まあ、元ネタは分かるまい(笑)

 さて、『こみっくパーティー』というゲームは、特別思想性を見いだすことはできないけど、最大公約数の娯楽性を持った作品だと思う。実際、主人公に関する事柄以外は、かなりのバランス意識を持ってテキストが作られており、現在同人誌状況のプラスマイナスの両極を無難に取り込んでいる。これは、正月オールスター映画を作るようなもので、それ故に「無難」というのは、この場合、最大限の褒め言葉なのだ

 そして、最大公約数故に、どのような批評も内部に取り込んでしまうというか、あらかじめ批評予測された構造になっている。だからユーザーゲーム中の事象にいちいちツッコミを入れつつ楽しんでいるし、批評にしても、思想的な根幹は特に存在しないので、どうしても些細な設定に帰着してしまう。そういう意味ではライター泣かせというか、誰もが批評家然として語ることで楽しむ作品でもあるし、このゲームを語るのは、筆者の場合自分の半生を語るようなものでもあり、正直言って、気が重い。つまり、このゲームを語る事は、ユーザー自身同人誌観を語るのと同じなのだ。これは非常に恥ずかしい。

■その2。

 前号の「美少女絵師列伝」での、リーフ東京開発室インタビューにもあったけど、同人誌即売会という現象がそれほど普遍的ものになったのかと思うと、正直言って、また別の感情もある。筆者は同人誌世界に足を踏み入れて8年、その半分はまんが雑誌編集者として、絵に描いたように、おたくメディアと密着した生活を送ってきたけど、こうした俯瞰的自己言及するメディアが発生するあたりは、言葉は悪いが、同人誌世界成熟し、おたくイニシアチブを取る=経済的に勝利した状況になりつつあるのだな、と思い知らされた感がある。

 あと、『こみっくパーティー』には思想性が無いと書いたが、特定思想があったら、こんな広範な題材は取り扱わないし、結果として、一つの市場をめぐる噂話(都市伝説)の集合体という構成になるのも当然の事だろう。そして、このゲームは、善悪全てごちゃまぜにして、同人誌をめぐる状況を極力そのまま取り込んでいるし、登場人物がどれも清濁併せ呑む存在であることにも気づくだろう。特に、前半に関しては、主人公視点あくま素人として設定されているので、出会う人々がどれも過剰な存在に見えるのだ。また、冒頭で「主人公に関する事柄以外は~」と書いたのは、同人作家として成長するスピード素人視点が、後半になるにつれ、やや噛み合わなくなってくる為で、この辺で違和感を感じた人はいると思う。

 ところが、みつみ美里氏や甘露樹氏といった作画陣の流麗な絵柄のフィルターを通すと、清濁併せ呑んだ部分が届かなくなるという現象が起こってしまう。最近ユーザーの傾向として、ビジュアル的な構成要素だけで全体を判断するので、本来皮肉になるべき箇所が皮肉として通じないのだ。ユーザーフィルター上の表層(ビジュアルしか見ないので、キャラクター内面まで踏み込むことはない。この微妙なズレというか、奇妙な皮膜が形成された結果として、特に何の問題もなく『こみっくパーティー』は、美少女ゲームという商品として成立している。本当は、もう少し微妙立場にあるはずのゲームなのだけど。

 古参ユーザーは、シナリオも含めたトータルを見た結果として、自分同人誌観を語るのだが、最近ユーザービジュアル的な要素だけで判断するので、必然的に「キャラ萌え」といったベクトルへ向かう事になる。まさに、パソコン用語の「オブジェクト指向」ならぬ、「オブジェクト嗜好」といった所か。また、このタイプユーザーには、全肯定全否定という二つの判断しかない為、批評という概念自体が成立しなくなる傾向もある。

 批評の介在しない、言論一定化という状況で、他人との差異を何処に求めるかとなると、信仰心の強さを競う、という一点に帰着していく。信仰対象への愛情イコールで消費した金額に換算される為に、トレーディングカード流行したりもする。けれども、その信仰の強さが物語性を妨げる弊害も起きる。物語信仰対象を疑うことからまれものというか、強烈な信仰は、自己内面を相対化する心理機制を内包していないので、内面葛藤の結果としての物語は生まれにくいのだ。

 そして、信仰対象を次々と消費する現在おたく産業に於ける経済システムは、物語よりも情報を重視している為、物語需要は失われていく傾向にある。

 【ネコミミ】【ロリぷに】【眼鏡っ娘】【妹】【メイド】といった、快楽原則に忠実な根本要素に、作画技術画力技法)や、ブランド(描き手のネームバリュー)が絡みあった結果、萌えられるかどうかを判断する……このように、価値基準情報単位で捉えていくパターンが、先に述べた「オブジェクト嗜好」なのだが、そういった表層的な要素のみで判断すると、物語思想性は余計な要素=ノイズ以外の何物でもなくなってしまう。

 例えば、とあるゲームタイアップまんがで、元々、オリジナル作品を描いていた作家を起用したりすると、アンケートは絶好調で、単行本バカ売れしているのに、巷にはそのまんがに対するブーイングが溢れるという、パラドックスな状況が起こったりもする。

 これは、「ゲームの関連商品」として単行本を買ったんだけど、描いている作家作家性がノイズ判断されたからだろう。いわく「ゲームイメージを壊す」と。この場合、その作家の絵柄(ビジュアル)だけで起用するから、そんな事態になるのであって、ゲームアニメが主導する形でタイアップまんがを作るときは、キャラクターグッズに徹する、思想性の無い作家を選ぶ必要があるだろう。実際、最近のまんが業界周辺にはこういった、メディアミックス悲劇といえる現象が、日常茶飯事になりつつあるのだが……話がずれた。

 筆者は古いユーザーなので、エロの含有率で美少女ゲーム判断する癖がどうも抜けないのだが、現在美少女ゲームユーザーは大きく二つの属性に分けられると思う。「キャラ萌えできるか」「心の琴線に触れられるか」……しかし、両者は結局、コインの裏表で、どちらも表層の情報、つまり、あらかじめメディアによって価値判断処理が施された情報だけを消費しているという点では五十歩百歩に過ぎない。

 おそらく『こみっくパーティー』は、前者に属するのだろう。だが、萌え~なキャラいるかプレイする、感動できないからプレイしない、というレベルでは割り切れない懐の広さも、このゲームが持っていることは知っておいて欲しい。

 ……筆者は、ゲーム物語)の内部と自分の内部を相対化できるゲームが、良いゲームと考えているのだが、『こみっくパーティー』は十分、その条件を満たしている。題材が良いのか悪いのかに関しては、未だに判断し難いのだけど、ゲームとしては、まさに予想外というか、嬉しい誤算だったと言えよう。

  • http://anond.hatelabo.jp/20150102164017 http://anond.hatelabo.jp/20150102164122 http://anond.hatelabo.jp/20150102164324 http://anond.hatelabo.jp/20150102164531 http://anond.hatelabo.jp/20150102164610 http://anond.hatelabo.jp/20150102164646 http://anon...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん