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2022-09-27

追記:リコリス最後まで見たけどアニメ業界作家性の劣化を感じた

https://anond.hatelabo.jp/20220926044355

この記事追記です。たくさんコメントいただいたので追記していくなかで返していきます

コメントへの返信

テーマをほっぽりだすような作家性のなさ」あれのテーマってかわいい女の子制服着せてガンアクションさせたろ!でそれ以外の設定は全部フレーバーだと思ってたわ

似たようなコメントはどちゃくそいただきました、リコリコを擁護する側の方達も大多数の方はこの作品作家性がない・乏しいことは同意していただけてますね。

作家性を忌避することが現代社会の歪さの現れと図らずも書いたんですが、わりと共感していただける方がいてうれしいです。

テーマ性を追求する作品や完成度が高い作品がウケなくなってるのかなとは感じています、まるでTiktokのように中毒性のある快楽原則しかないようなエンタメを凄まじいスピードで貪るように消費していくのが現代社会なのかもしれません。

ただ一つだけ言っておきたいのはアニメ界で代表的作家たち、例えば富野由悠季宮崎駿押井守庵野秀明、彼らは作家性だけで名をはせたのではなく商業的にも成功を得ているのです。

作家性と商業性、エンタメは両立しうるのです、相反するものではないのです。そういったことをリコリコには期待したのです。

確かテレビアニメ1話制作時間は通常3ヶ月ぐらいかかるので、1クールの途中で人気出たから話の方向性変えるみたいな事は基本物理的に不可能だと思われます

こちらの話は真偽は不明ですが、だとしたら放送前にも関わらず欲をかきすぎた、終盤の脚本ストーリークオリティの練り上げがたらなかった、それにつきます

言いたいことはわかるけど、「悪しき組織がぶっ壊れてめでたしめでたし」なんていかにもアニメの中だけの話じゃん?「悪しき政府組織が罰せられないまま世界は続いていく」のほうが現実を描いてると言えない?

それが作品として明確にやりたいことでしたらいいですが、そうではなくDAの加害性が示されないのは単純に脚本稚拙だっただけです。テロリストの真島が語っているといったコメントもありましたが浅いのです、例えばガンダム逆襲のシャアで劇中の登場人物の「人類すべてを抹殺する」といったセリフがありますが、製作者が明らかに本気で人類全て殺すとセリフとして表現しています。他の人がやったら馬鹿馬鹿しくて気恥ずかしさすら感じますが、逆襲のシャアにはそれない、何故なら監督がこれしかないと本気で全人類を粛正したいと思いセリフ指定たからです。リコリコの真島が語っていることは軽薄で浅はかさしか感じずその思想バックグラウンドも作中では語られないため、監督の本気さが感じない、それは明らかに脚本の練り上げ不足なのです。

何こんなアニメにマジになっちゃってんの?

うるせえ、こっちはお前が精子の頃からオタクなんだよ、アニメにも本気になれないやつは去れ

思ったより多くの人が記事を読んでくれたみたいなのでオタクらしく推し普及活動

A KITE インターナショナルヴァージョンhttps://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00IIJKQ9K/ref=atv_dp_share_cu_r

索敵範囲だとリコリス・リコイルの先行作品GUNSLINGER GIRLを上げている人が多かったですが、私はリコリコを最初見た時セーラー服を着た少女殺し屋のガンアクションアニメとして梅津泰臣監督の"A KITE"が頭に浮かびました。

1998年作品しかも18歳未満禁止エロアニメ若い子が知っているか不安ですが、大変よくできたエログロガンアクションものアメリカでも実写映画化したほどです。リンクAmazonレンタルインターナショナルヴァージョンといって海外普及向けにエッチなシーンは削られた作品となります、つーてもそれなりに残ってますが。リコリから砂糖を抜いてちょっと内容をエログロに入れ替えたくらいの作品といった気持ちで見て頂ければ。オリジナル配信で見たい場合FANZAとか大人向けのサイト大人になってから見てください。

2021-09-09

立憲民主党の七つの政策発表は、政治センスより広告代理店の力が足りない

立憲が発表した七つの政策について、「個々の必要性は分かるけどこのタイミングで大々的に発表するほど話題性ねえのが半分くらいあるだろ」って言われてる。

いやまったくその通り。

これって政策の練り方とか議論の仕方とか政治センスダメってより、視聴者へのエンタメ演出センスがないのが問題であって、広告代理店ちゃんと協力してほしいんだよな。

見せ方が下手。

注目度と期待度の高い、選挙戦が実質始まって最初情報発信というタイミングにふさわしいキャッチーさがなかった。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20210907/k10013248911000.html

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210908083306

別に政治家の演出センスなんて最低限で良いんだよ。

エンタメより政治勉強してほしいし、エンタメについては広告代理店とかの専門家外注してくれ。

オバマだってスピーチライター雇ってがっつり演説練習してるだろ。

自民党電通ガッツリ組んで、そのやり方があくどいと批判されることもあるけどたぶん効果もあげてる。

立憲は広告代理店と組んでないのかなと思って軽くググったら、民主系は博報堂と仲がいいって出てきたけど、ホント

今も組んでるの? 博報堂意見を聞いてたならもうちょいマシになってるんじゃない?


俺は世の中のこと何にも知らねーオタクだけど、音楽ライブでも、ゲームの新キャラ発表会とかでもテンプレってあるじゃん

ライブなら一曲目にアルバムの目玉になってるようなカッケエ曲をドジャーンとやっちゃうゲーム発表会なら目玉の内容を最初くらいにドーンと出しちゃう

出し惜しみはしないで最初からテンション爆上げでフロア熱狂スマブラにスゲーキャラが登場して面白外人は画面も見ないで抱き合って号泣SNSで一気にトレンドにあがる。

渋い曲とか、こまごまとした情報とかはそこから出していって中継ぎ。

そんでラスト一曲とかアンコール曲でキャリアを通じた代表曲で盛り上がりは最高潮。発表会ならラストに目玉を越える物凄い隠し玉サプライズ情報を投下したりしてウオーー!となって、フロア爆発、リアクションユーチューバーは機材破壊SNSはそのサプライズ情報について語り続けられるからトレンドにも長く残る。

うまく快楽原則を利用してる。

立憲の七つの政策発表は、ライブMCから始まったみたいな感じだよな。

政権とったら法改正なしで即やることだけをまとめてるからあいう内容になるんだよってのはわかるけど、そういう理屈を言われてもフロアは盛り上がらない。

法改正なしで即やることを考えたら、必要な話ではあるけどいまいち見栄えしないな、これは二の矢にして、最初情報公開ではもっとキャッチーな内容にしよう……としてくれりゃよかったんだ。

それを政治家が判断するのが苦手でも仕方ない。だからこそ演出家と手を組むべきだ。

違いますかね。

2021-03-30

anond:20210330061503

そもそも人間快楽原則にのっとった行動が悪なら食べることも眠ることも悪になるな、世の中正義だの悪だの二元論に振り分けられない事の方が多いしそんな一々分けてたら疲れるぞ。

全ての生き物は繁殖するし、多様性のある生き物だけが生き残ってく、一時期もてはやされてる物差し人間を考えない事だな。

2021-03-20

アートが好きという人の中に、チームラボやライゾマティクスを見るのが好きという人がいる

私は彼らの作品に興味はないし、正直彼らが好きと言われると、

この人はあまりわかってない人なんだな。と反射的に考えてしまう。

なぜそう考えるとかというと、直感的な判断言語化が難しいのだが、

チームラボやライゾマの作品には、奥行きがないと感じる

露骨に美しく、露骨に心地良く、それ以上の意味がない

20世紀美術発見した快楽原則を借用した、大衆向けの視覚マッサージのように思える

20世紀以降の美術は美の領域拡大を行ってきた

これが美しいと美しくないのギリギリ境界を探り、美術として扱える範囲を広げてきたし、美のど真ん中を目指すことに価値がない

古典的モダンアートを愛する自分としては、相変わらずそれが正しい美術のあり方の一つという思考が抜けない

その基準判断すると、チームラボやライゾマの作品ベタすぎて退屈なのだと思う。

2019-09-03

国内の少数派の主張やデモなどの手段政府に物申すことをことごとく冷笑してきたネトウヨが、なぜか外国のことになると加油一色になる不思議

あんたらは民主主義代弁者などではなく、自分快楽原則に忠実なだけの昆虫だよ。

2017-12-30

anond:20171230111228

三児の父ですが概ね同意です。俺達は雰囲気で子作りをしている。

お互い新しい価値観を受け入れることを恐れずに建設的にお話ができるなら、いくつかご質問

ひとつ

幸せになる可能性がある」より「苦痛を感じる可能性がない」方が良いのは明白です。「マイナスは確実にあるが、もしかしたらプラスもある」より「確実にマイナスはない」のほうが合理的です。

ここをもう少し詳しく。「明白です。」「合理的です。」の根拠がないように見えます

幸福苦痛プラスマイナスで捉えることができるならば、期待値プラスの際に生むことが正当化できませんか?

ふたつめ

幸福苦痛存在しない「生まれなかったもの」と

苦痛の多い「生まれもの

とを比較していますが、非存在について語ることは不可能なのでは?

まれていないものには意思人格もない、とかそういうスピリチュアルな話ではなくて、

存在でないものには幸福苦痛存在しないという状態すら存在しないので比較することはできないでしょう、という話です。

みっつめ

死の苦痛をかなり大きく見積もっておられるようですが、論理的に考えれば死を経験した人は存在しないので苦痛かどうかはわからないのでは?

快楽原則根拠に、遺伝子が死を憎むから本能的に恐怖、苦痛を感じるのだ。という話になると本能的に(=論理的でなく)死を忌避する姿勢容認するということになります

それが容認できるならば、本能的な生殖容認できるのでは?それができないならば、それは論理ではなく感情問題なのでは?

2017-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20170212101348

処女厨の発想だよね。でも、宝物であるキャラクターを奪還するのだから傷ついてないほうが読者的に気持ちいいと思うけど。

そこは商売なので快楽原則に基づいたほうがよい。そうじゃないほうがいいというのは、そういう趣味なんだね、としか言えない。

2016-06-29

http://anond.hatelabo.jp/20160629012232

まーた「俺が嫌いなものは悪だ!」論かよ。

アクションの爽快感が目当て、って要するに別ベクトル快楽原則を存分に摂取してますよ~って言ってるわけで、オタク萌えを求めるのと大差ないって気づけないのかな。

街中でのドンパチに巻き込まれて、死んだり生活基盤が破壊される人たちの事考えながらアクション映画を見たりしないでしょ? 

彼らをただの舞台背景として扱うのは気持ちの悪い行為だ!と糾弾する事も出来るんだよ。

2015-04-19

ネット右翼」「ネトウヨ」達がなぜデマを信じ広めるか解ったわ

例えば「日本のどこそこで震災があった時、在日朝鮮人事態に便乗して女性レイプした!」ていうネット上の噂があったとするじゃん。

ここで「ネトウヨ」以外の人間はこう考えるわけ。

「そんな事件、嫌だな」

「そんなことがあったなんて信じたくない」

「そんなことがなければいいのに」

そしてその上で、噂が事実として認定されたとき「許せない」と思う。普通こうでしょ?

ところが「ネトウヨ」達にとっては真逆なんだよ。彼らはそんな噂を見た時、こう思う。

「なんて嬉しい事件なんだ」

「こんな楽しいことがあるなんて」

「できれば本当であってほしい」

……なぜなら「ネトウヨ」はリアル根付いた人たちの痛みなり哀しみなりに寄り添うわけではなく、ネットで「敵」として認定された相手をみなで叩くゲームを楽しんでるに過ぎないんだから。そんなゲームの格好の材料となる「在日レイプした!」て美味しい話、嬉しくて楽しくて本当であってほしくないわけがない。

そう、彼らが「敵」の失点となる情報を得たとき感じるのは、いちおう表面上は見せる怒りや憤りや失望じゃない、紛れもない快楽なんだ。

やったーまた在日どもが不快な行動をしてくれたぞ、と(噂や未確定の段階で)喜んでるんだよ、彼らは。

そしてこの「嬉しくて楽しい情報が本当であって欲しい!」から、「いや本当じゃなくてもとにかく本当にしたい!」まで発展するのは必然と言ってもいい。だってさ、それら「敵」の失点となる情報=噂はあればあるだけ、「敵」を叩く格好の武器となるんだからゲームを楽しむなら、そっちにそっちにって感じになるじゃん。

こうやって単純な快楽原則にのっとったシステムとして、デマは信じられるし広まるんだ。

また「ネトウヨ」諸氏に聞いてみたい。あなたは相手がとにかく悪魔であること、巨悪であることを、むしろ望んでいませんか?と。あなたが例えばTwitterで「朝鮮人がまたこんな行為を!」という未確定な情報リツイートするとき、何がその動機ベースになっているのですか、と。

念のため補足すると、これが「ネトウヨ」に限らないという意見には同意するッス。自分観測範囲の話をしたので他のサヨクなりなんなりもまたこの手の何かになってる可能性もあると思う、てーか「ネトウヨ」だけが突出してバカって世界観のほうがむしろありえん。

2015-01-02

Natural Color Phantasm Vol.5 『すべての愛情消耗品である

■その1。

 「やばい太平洋だ!」……プレイした感想は、まさにこれだった。休業しているとはいえ、商業誌編集者である筆者は、ゲームの題材として同人誌を扱うのは、やはり抵抗があったし、おたくである自分の状況を俯瞰的に扱うということを、美少女ゲーム表現するとは……という気持ちもあった。まあ、ありがちな先入観を抱いていたのだ。

 で、実際にプレイしてみたら、「ゲームとして良くできている」のだ。確かに、題材の違和感は拭えないのだけど、『こみっくパーティー』はゲームだ。ゲームとして面白ければそれでいいのだ。その驚きが冒頭の台詞に現れているんだけど、まあ、元ネタは分かるまい(笑)

 さて、『こみっくパーティー』というゲームは、特別思想性を見いだすことはできないけど、最大公約数の娯楽性を持った作品だと思う。実際、主人公に関する事柄以外は、かなりのバランス意識を持ってテキストが作られており、現在同人誌状況のプラスマイナスの両極を無難に取り込んでいる。これは、正月オールスター映画を作るようなもので、それ故に「無難」というのは、この場合、最大限の褒め言葉なのだ

 そして、最大公約数故に、どのような批評も内部に取り込んでしまうというか、あらかじめ批評予測された構造になっている。だからユーザーゲーム中の事象にいちいちツッコミを入れつつ楽しんでいるし、批評にしても、思想的な根幹は特に存在しないので、どうしても些細な設定に帰着してしまう。そういう意味ではライター泣かせというか、誰もが批評家然として語ることで楽しむ作品でもあるし、このゲームを語るのは、筆者の場合自分の半生を語るようなものでもあり、正直言って、気が重い。つまり、このゲームを語る事は、ユーザー自身同人誌観を語るのと同じなのだ。これは非常に恥ずかしい。

■その2。

 前号の「美少女絵師列伝」での、リーフ東京開発室インタビューにもあったけど、同人誌即売会という現象がそれほど普遍的ものになったのかと思うと、正直言って、また別の感情もある。筆者は同人誌世界に足を踏み入れて8年、その半分はまんが雑誌編集者として、絵に描いたように、おたくメディアと密着した生活を送ってきたけど、こうした俯瞰的自己言及するメディアが発生するあたりは、言葉は悪いが、同人誌世界成熟し、おたくイニシアチブを取る=経済的に勝利した状況になりつつあるのだな、と思い知らされた感がある。

 あと、『こみっくパーティー』には思想性が無いと書いたが、特定思想があったら、こんな広範な題材は取り扱わないし、結果として、一つの市場をめぐる噂話(都市伝説)の集合体という構成になるのも当然の事だろう。そして、このゲームは、善悪全てごちゃまぜにして、同人誌をめぐる状況を極力そのまま取り込んでいるし、登場人物がどれも清濁併せ呑む存在であることにも気づくだろう。特に、前半に関しては、主人公視点あくま素人として設定されているので、出会う人々がどれも過剰な存在に見えるのだ。また、冒頭で「主人公に関する事柄以外は~」と書いたのは、同人作家として成長するスピード素人視点が、後半になるにつれ、やや噛み合わなくなってくる為で、この辺で違和感を感じた人はいると思う。

 ところが、みつみ美里氏や甘露樹氏といった作画陣の流麗な絵柄のフィルターを通すと、清濁併せ呑んだ部分が届かなくなるという現象が起こってしまう。最近ユーザーの傾向として、ビジュアル的な構成要素だけで全体を判断するので、本来皮肉になるべき箇所が皮肉として通じないのだ。ユーザーフィルター上の表層(ビジュアルしか見ないので、キャラクター内面まで踏み込むことはない。この微妙なズレというか、奇妙な皮膜が形成された結果として、特に何の問題もなく『こみっくパーティー』は、美少女ゲームという商品として成立している。本当は、もう少し微妙立場にあるはずのゲームなのだけど。

 古参ユーザーは、シナリオも含めたトータルを見た結果として、自分同人誌観を語るのだが、最近ユーザービジュアル的な要素だけで判断するので、必然的に「キャラ萌え」といったベクトルへ向かう事になる。まさに、パソコン用語の「オブジェクト指向」ならぬ、「オブジェクト嗜好」といった所か。また、このタイプユーザーには、全肯定全否定という二つの判断しかない為、批評という概念自体が成立しなくなる傾向もある。

 批評の介在しない、言論一定化という状況で、他人との差異を何処に求めるかとなると、信仰心の強さを競う、という一点に帰着していく。信仰対象への愛情イコールで消費した金額に換算される為に、トレーディングカード流行したりもする。けれども、その信仰の強さが物語性を妨げる弊害も起きる。物語信仰対象を疑うことからまれものというか、強烈な信仰は、自己内面を相対化する心理機制を内包していないので、内面葛藤の結果としての物語は生まれにくいのだ。

 そして、信仰対象を次々と消費する現在おたく産業に於ける経済システムは、物語よりも情報を重視している為、物語需要は失われていく傾向にある。

 【ネコミミ】【ロリぷに】【眼鏡っ娘】【妹】【メイド】といった、快楽原則に忠実な根本要素に、作画技術画力技法)や、ブランド(描き手のネームバリュー)が絡みあった結果、萌えられるかどうかを判断する……このように、価値基準情報単位で捉えていくパターンが、先に述べた「オブジェクト嗜好」なのだが、そういった表層的な要素のみで判断すると、物語思想性は余計な要素=ノイズ以外の何物でもなくなってしまう。

 例えば、とあるゲームタイアップまんがで、元々、オリジナル作品を描いていた作家を起用したりすると、アンケートは絶好調で、単行本バカ売れしているのに、巷にはそのまんがに対するブーイングが溢れるという、パラドックスな状況が起こったりもする。

 これは、「ゲームの関連商品」として単行本を買ったんだけど、描いている作家作家性がノイズ判断されたからだろう。いわく「ゲームイメージを壊す」と。この場合、その作家の絵柄(ビジュアル)だけで起用するから、そんな事態になるのであって、ゲームアニメが主導する形でタイアップまんがを作るときは、キャラクターグッズに徹する、思想性の無い作家を選ぶ必要があるだろう。実際、最近のまんが業界周辺にはこういった、メディアミックス悲劇といえる現象が、日常茶飯事になりつつあるのだが……話がずれた。

 筆者は古いユーザーなので、エロの含有率で美少女ゲーム判断する癖がどうも抜けないのだが、現在美少女ゲームユーザーは大きく二つの属性に分けられると思う。「キャラ萌えできるか」「心の琴線に触れられるか」……しかし、両者は結局、コインの裏表で、どちらも表層の情報、つまり、あらかじめメディアによって価値判断処理が施された情報だけを消費しているという点では五十歩百歩に過ぎない。

 おそらく『こみっくパーティー』は、前者に属するのだろう。だが、萌え~なキャラいるかプレイする、感動できないからプレイしない、というレベルでは割り切れない懐の広さも、このゲームが持っていることは知っておいて欲しい。

 ……筆者は、ゲーム物語)の内部と自分の内部を相対化できるゲームが、良いゲームと考えているのだが、『こみっくパーティー』は十分、その条件を満たしている。題材が良いのか悪いのかに関しては、未だに判断し難いのだけど、ゲームとしては、まさに予想外というか、嬉しい誤算だったと言えよう。

Natural Color Phantasm Vol.4 『優雅で感傷的な美少女ゲーム

■その1。

 前回の原稿で、オタク業界蔓延している過剰なヒーリング志向について軽く触れたのだが、今回はそのあたりを少し突っ込んでみたい。というのも、「癒し」という言葉が、やたらと濫用され、単にナルシズムを肯定する為の方便に陥っているような気がするからだ。

 さて、過剰なヒーリング志向本質は、常に表層的な感動状態を維持したいという意志で、まあ、完璧に「感動ジャンキー」に陥っているのだけど、実の所、表層的に感動させるのは案外、簡単だったりもする。「心の琴線」というスイッチを押してやれば良いのだから。そして、感動のスイッチを押してくれるのを待ち望む人々の需要に合わせ、感傷的な設定のおたく向けメディアも大量に供給される時代になったけど、その水準には千差万別あるのも確か。

 で、今回取り上げるゲームは『終末の過ごし方なのだけど、このゲームインタラクティブ性はほとんどない。あくまで、CG分岐を加えたデジタル小説というスタンスである。その為、うっかりいつものくせで速読法を使ったら、一時間もかからずにクリアしてしまった。

 プレイヤー視点主人公ではなく、あくまで読者という第三者で設定されていて、その距離感淡々としたイメージを増幅している。でも、美少女ゲームのはずなのに、感傷的な気持ちだけが残るというのは、どこか肩透かしな印象も受けるし、ゲームとしては、正直言ってあまり評価できないけど、心の中にひっかかりを残すという点では、上手い作品だと思う。……そして、淡々としたイメージ大事にしたことが、良くも悪くも物語を支配している。

 まず、終末が近いのに、あくま日常の延長を望むという意志を描くには、やがて来る非日常との対比が必要なのだけども、非日常予兆が感じられるのは、章ごとのプロローグ的なラジオと、登場人物の断片的な台詞だけだったりする。主人公達以外の行動を具体的に描いてしまうと、せっかくの世界観が崩れてしまうという危険はあるけど、それにしても、慎重過ぎた気はする。また「終末」が、実際は「週末」としての意味しか持たず、学校という閉鎖空間への追憶に留まってしまったことに、少々歯がゆさもある。

 『終末の過ごし方』は、感傷的な演出舞台を、意図的に仕掛けることで成功した作品だ。それは、需要に対して忠実な姿勢だと言えるし、作品の水準も高いんだけど……。

■その2。

 確かに、筆者は昔、虚構としての学校を描き、虚構追憶を描いた『雫』を支持した。感傷的ではあっても『雫』には、自分の中の闇や暴力性を見つめる視点があったし、自分が何者であり、何処から来たのか、その理由解体し、文脈化しようとする意志があったように思う。

 最近ユーザーの嗜好が視野狭窄的になっているというか、感傷的な設定のみに過敏に反応して持ち上げ、他の要素に対しては全く盲目になるという妙な風潮が、急スピードユーザーメーカー感覚を支配しつつあるような気がする。この風潮に乗った作品がヒットを飛ばしているのは、他のメディアでも顕著に見られる傾向ではあるが、美少女ゲーム業界では、更に明確な形で現れている。その責任が誰にあるかは、また改めて書くつもりだが……。

 ……しかし、それほどまでに「癒し」が必要なのか? 過剰な「癒し」を消費する世界は何なのだ? という疑問は、心に残ったままだ。

 話がずれるけども……残念ながら、世界方向性を失っている。向上心を生むべき壮大な目的は、社会のどこにも存在しないし、怠惰で澱んだ空気世界を支配している。先日、「児童売春禁止法改正」という事件があって……まあ、それ自体は強行した側も反対した側も、本質とかけ離れたつまらない思惑で動いているのが見え見えで、滑稽な印象しか抱けなかったのだけど、そんな澱んだ世界からこそ、そもそも少女ポルノ問題となった訳だ。

 だいたい、少女ポルノ需要が無ければそもそもそんな話にはならないし、何で需要があるかといえば、少女の瑞々しい生命力媒介として、一瞬でも澱んだ空気から解き放たれたい=癒されたいという潜在的意識があるからだろう。もっとも、それも安易幻想ではあるんだけど。

 だから、癒されたいという本質が研ぎ澄まされた結果として、ポルノメディアエロから乖離していくという現象も起きる。元々、肉体性の希薄二次元メディアである美少女ゲームでは、更に現象が極端になっていくのは当然なのかもしれない。

 僕らが置かれている世界は、全体としての方向性を失った為に、社会と向き合う意志を持たなくても十分に生きて行けるし、自分立脚点を相対化する必要に迫られることも無い……むしろ、それを持っている者、自覚的である者が排除されていくというパラドックスも生じている。

 各々が「癒されたい」「楽になりたい」という快楽原則に忠実であるまりに、自覚的存在は、快楽原則を脅かす存在として、集団の中から自動的排除されてしまう。そうやって完成された巨大な快楽原則システムには、既に評価軸なんてもの存在しないし、結果として、罪の意識漂白した、商品としての表層的な刺激だけが残ってしまった。

 ……だからこそ、優雅でも感傷的でもない、痛みを伴う物語必要になっていると思うのだけど?

■総括。

 本当は、それぞれのユーザーが、ゲーム物語)に対して、どのような意志を感じるかが問題で、このコラムも、あくまで参考資料だと思って欲しいなあ……という訳で、なんだか賛否両論な『こみっくパーティ』だけど、次回、テストプレイが間に合えば取り上げてみようかなあ、と思います

 あと、批判するつもりは無いのだけど、なーんか、批判的な言い回しが多くなってしまう……というジレンマを抱えながらも、同時に、論評に耐えられるだけの水準が無い、つまらないゲーム最初から取り上げないのが、このコラムだったりもするので、ここは一つ、実際にプレイして、自分なりの感想を持って欲しいのだな。

2013-06-19

快楽原則に「彼岸」などない

快楽原則彼岸に死の欲道や涅槃原則があるわけではない

超自我現実原則個体適応的な側面を担い

現実場面で行える最大幸福を支持するものであるならば

主観世界において苦痛を最大限取り去る手段である「死」を目指す所に、どうして快楽原則彼岸など見出せるもの

快楽と死は地続きであり、それはラカンの「リビドーの変遷の最後の段階は、石の平穏へと戻ることである」という言葉がこれを確認する示唆に富んでいると考える

個体としての人間はその主観視点において、快楽原則奴隷とならざるを得ない

原初の快楽原則現実原則ベールかぶり超自我指導を受けるが

それでもなお、欲求の断念が継続する場合に「欲求そのものを抑圧、もしくは消しさる」という方向に自我は動き出す

その究極の形が、欲求を生み出して、それを断念させ、峻厳さと不寛容さを生み出す原因となっている「私」そのものの打倒という形でなされる

それは人が持つ内向性の周縁部に位置しており、外向性の周縁部で人を殺める現象が起きる事とのシンメトリーとなる

しかし、内向であるからと言ってそこに外界の存在がないわけではない

矛盾するかのように聞こえるが、私はそこに一定解釈を持ちうると考える

すなわち、「私」そのものの打倒とは、何によって行われようとするかについて再考する事でそれが得られる

先に書いたように、欲求への不寛容を生み出す「私」を打倒する方法の一つとして死がある、自殺がある

けれど、「私」が、自我がその断念を繰り返し、超自我不寛容を強めたのは、紛れもなく現実からの影響に他ならない

さらに言えば、人が人として成長せざるを得ない時、自分自分として成長したい・適応して現実での快楽を得たいと思った時に、必然的に自らへの不寛容を強めざるを得ないという事だ

快楽原則に従って現実原則を生み出す事が、一見して快楽原則を否定し対立するように見えるのは非常にパラドキシカルである

閑話休題、この説で言いたい事は簡潔に言うとこうだ

「私は「私」を打倒するが、「私」とは現実まり欲求断念の原因となった事物人の象徴である」と

現実の規則、すなわち父や法や規律や道徳能力の制限というものが、欲求断念を生み出している

欲求の断念は超自我不寛容を生み出し、その不寛容涅槃規則を生み出す

であれば、涅槃規則で生み出された死の欲動が打倒せよと叫ぶのは、象徴的な意味での父であるともいえる

「生まれてこなければよかった、消え去りたい、自分を殺したい、死にたい」という言葉は、内在化された父を消し去ることとなる

また同時に、快楽原則に従いながらも他の快楽原則を打倒せしめんとする涅槃原則は、快楽原則が母的な側面を持つ事からも、象徴的な意味での母を殺す事になるだろう

かくして、涅槃原則とは父と母を打倒し、しかして母と父をその原動力とする極めて逆説的な構造となっている

 
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