はてなキーワード: 言語環境とは
えっとね、東京大空襲がなければどうでもいいっていうのはわかるのよ。これまでの生活がそのまま続くわけだから。
で、他国に逃げられたなら日本がなくなってもどうでもいい、って言うから、これまでの家族、友人、知人とかの人間関係、言語環境含めた生活環境がなくなっても問題ない状況にあるんだろうなって思ったの。
そしたら、今、日本で暮らし続ける意味とか理由をどこに見いだしてるのか不思議に思ったの。
で、増田っぽくちょっと煽り気味に「しがみついてるの?」って聞いてみたの。
まあ、これはどうでもいいんだけど、「p→q」を「p∧q」と理解するってどういうこと?
今回のケースで言うと、俺が何をどう理解してるのか教えてもらえるとありがたい。
よくわかんないんだけど、「p→q」って「pならばq」、「p∧q」は「pかつq」だよね?
「尖閣諸島と竹島が奪われても東京大空襲がおこんなきゃどうでもいい」だとpが「尖閣諸島と竹島が奪われても東京大空襲がおこんなきゃ」でqが「どうでもいい」
「もっというと空襲があっても他国に逃げられたら日本がなくなってもどうでもいい」だとpが「もっというと空襲があっても他国に逃げられたら日本がなくなっても」でqが「どうでもいい」
京都弁や京都人の、皮肉や迂遠な悪口を言う存在というイメージがインターネットでネタにされることは多い。
大体の人間にとっては感覚的に自明だろうが、ネットで行われる京都弁ネタ、皮肉がうまい、婉曲的な言い回しを好むというステロタイプイメージの扱いはは、基本的に誉め言葉である。
インターネットというのは――もしくはオタクというのは――或いは日本人というのは――もしかしたら人類の多くが――皮肉や口の上手さ、風刺、アイロニー、ウィット、気の利いた言い回しといったユーモアを好むものだ。
たとえば、現実のイギリスのアイロニカルなジョークは人気だ。フィクションでは、ジョジョのプッチ神父のツバメの話やニンジャスレイヤーなどの捻った挑発も人気だ。
誉め言葉方面でも、漱石がI LOVE YOUを月が綺麗ですねと訳したというエピソードも人気だ(これは創作実話らしいが、人々がこのような婉曲表現がステキと感じるからこそ、創作実話なのに広まってしまったのだろう)。
意味が分かると怖い話、落語の考えオチ、なんかの楽しさも、遠回しだからこそ面白みが増す事例だろう。
しかしそれも素直に京都の高い言語文化を褒めるのでは面白みがないから、まるで京都人が意地が悪いから複雑な言い回しをしているかのようなひねりを入れた誉め方をしているわけだ。
少し蛇足になるが、最近はインターネットやSNSが一般化したことで、皮肉や逆説、反語表現などが誤読されることが増えたという話題をよく目にする。だからアイロニカルな表現は止めよう、と。
だが、私はSNS時代でも、アイロニーや皮肉や捻った言い回しを捨てるべきではないと思う。
言語表現・言語文化の洗練というのは、「誰にでも齟齬なく伝わり便利である」という実務的方向だけではなく、「美しい、おもしろい、何かが掛けてある」のような美的方向もあるだろう。
過去の歴史で、言語文化が発達したとされる場所や時代は、大勢の人間が言葉で交流ができる環境と余暇があって、面白みやひねりのある言い回しが沢山生まれたことで言語文化が花開いたとされることが多い。
まさにインターネットは人類史でもっとも広く日常的につながった言語環境だ。
そこで芽生えてきた、そして今後も花開くであろう、華美で、ひねっていて、アイロニカルで、美しくて、遠回しで、おもしろい言語表現を諦めるなんて、あまりにもったいないのではないか?
秋2018
・College Writing
話をしたり作品の分析をしたりは嫌いじゃないんだけどレポートを書くのが死ぬほどしんどい
好きな映画について書き始めたけど見直しすぎてこの映画嫌いになりそう
教授がユーゴスラビア出身の人なのでアクセントが聞いてて気持ちいい
・Intro to Philosophy
哲学(入門)
ソクラテスをベースにデカルトとかミルとか読んだり論法を練習したり
曖昧なことについて考えるのは好きだけど2-3年かけてみっちり勉強したいほどではないと思ったので専攻候補から除外
洞窟壁画とかから始まってピラミッドとかギリシャ彫刻とか仏像とかについて学んでる
美術は好きだけど興味があるのは絵画だから建築と彫刻ばっかりのこのクラスはあんまり面白く感じなかった
でも「アートって何だろうな」みたいなのがちょっと分かってきた気がする
・Multilingualism
この国で使われてる言語、他の言語から受けた影響、方言、文化グループ等について学んでる
正直クソ面白くて入学前には視野にも入ってなかった言語学に興味が湧いてきてる
・Applied Calculus to the Social Sciences
微積分?のクラス 応用問題としてリアルなシチュエーションの文章題とか出てくる
死ぬほどつまらないし教授何言ってっか分かんないしリタイヤしてしまった
冬2019(予定)
・Drawing 1
副専攻として美術やりたいし最近絵書いてなさすぎて画力心配だから基本的なとこから始める
春2019(予定)
・Intro to Cultural Anthropology(民俗学)
・Writing about Performance(レポートの書き方、演劇やダンスが題材)
・Color Theory(色彩理論)かPainting 1(油絵)のどっちか
他に取ろうと思ってる必修(一般教養?)
・理科応用:Data and Society (データと社会)
・数学(再挑戦):Excelかコンピューターサイエンスの入門
そろそろ一般教養を取り尽くしてしまうので専攻を決めないとまずいところだが分からん
法学とか医学とか暗記だらけのエリートルートは無理だしエンジニアリングとかコンピューターサイエンスとかのそこそこ高給安定ルートも興味が持てない
絶賛劇場公開中の楽園追放を観てきたので感じたことを列記したい。
ネタバレを含むので注意。
映画館の環境で観るべき作品なので、BDレンタルを待ってる人は迷わず足を運ぶべきだ。
DVDで見ようと思ってる人は機会損失となることを予言する。今すぐ考え直せ。
「楽園追放-Expelled from Paradise-」
からだにぴったりと纏わり付くスーツ(というかタイツ)は、およそ進歩的な人類を服装で表現する時にありがちな手法だ。観始めたとき、スタッフがスター・トレックの呪縛から逃れていないのではと思った。おそらくそれはあくまで地球残市民との対比をわかりやすく表現することと、特定の市場を意識した結果だろう。緑色の装飾品の意味はアンテナ?それとも光合成するとか?これは最後まで分からなかった。
16歳といえば日本では法的に婚姻できる歳。アンジェラは「他の捜査官を出し抜きたかった」といって物理的な身体の生成時間を早め、16歳の少女の身体を持ち地球に降り立つ。降り立つ時は子宮をメタファーとした卑猥なディティールで表現された。ディーヴァでは人類が考えうる精神的探求を経験したアンジェラだが、地球で生身の人類と出会い、「大人」になるためには、最低限16歳となり、生まれる必要があったのだ。映画の最後のシーンでは、地球で、フロンティアセッターを旅立たせることに意味を見出し、身体的な異性と接触する。ディンゴに抱かれた時アンジェラが顔を赤らめたのには意味がある。
日々進歩するテクノロジーニュースに賑わう私たちの世界にとって、理解しやすい範囲で、そして400年後には思想的に陳腐化していることを心配したくなるテクノロジーが使われている。しかしこの映画にとってはテクノロジーそれ自体は主題ではなく、グレッグイーガンのようについていけないぐらいの言語環境を構築する必要もない。この映画が語りたい言葉は、観客側の現実世界の、テクノロジーに溢れた社会での人間性を表現することにあるのだから。
映画の冒頭部分でアンジェラがディーヴァで公安捜査を行っているとき、突如ハッキングしてきたフロンティアセッターの犯行からアクセス元(!)を割り出し、回線(!)の中で捕まえようとアンジェラが文字通り電気信号となり、何故か金平糖のようになったフロンティアセッターと光速のアクションシーンを巻き起こす。映画館の音響環境で見たときは疑いようもなくゲームの「REZ」だと思ったし、エレクトロミュージックは最高にシビれた。
私はロボットが出てくるアニメを観るたびに「何故その形状なのか」に意識がいきがちとなってしまう。今回も、何故人型で銃型の武器やわざわざ剣や盾を使って戦わないとならないのか、または運転席でバイクに跨らないとならないのか、最後まで理解できなかった。宇宙スケールでの戦闘を表現するために「ロボット」という記号を使わないこと以外に方法がないのだろう。
地球に残された人類は、400年も経っているというのにナノハザードから時間が経過していないかのような荒廃した世界に住んでいる。廃墟都市のイージーなイメージであるアジアンな看板と雑多な路地そして個人商店。ディンゴはゆきずりの傭兵であり、西部劇のようなアンジェラとの出会いはディンゴのキャラクターをよく表していた。
劇中では骨、つまり身体で感じる音楽というものについて、電脳世界にのみ生きてきたアンジェラが首を傾げる。これは物語のテーマを象徴するデータと身体性の対比についての比喩である。
なぜ400年もの間、リソースについて有限ではあるが最高権限を持つディーヴァ首脳陣がおよそ意味を見い出せるとも思えない自治を続けているのか。同じバージョンのシムシティを数百年繰り返して飽きない自信は私にはない。進歩を繰り返した結果がジョージ・オーウェル的なディストピア?まぁ所詮は故郷を捨てて自分達の世界に引きこもろうとする人間達だったのだから仕方ないとも言える。
押井守のスカイ・クロラよろしく、キャラ立ちした少女たちが金太郎飴のように、アンジェラと同じく露出の高いスーツでバイクに跨り戦闘が行われる。この戦闘ではアンジェラはフロンティアセッターの演算能力を使い、ディーヴァ側の捜査員達より一歩秀でた戦闘能力を発揮する。お互いの戦闘方法に進歩した戦術といえるものが見い出しずらいが、そもそも進歩した人間が未だ殺し合いで解決しようと考えるのは400年後にとって果たして合理的であるのか。余談だがバイクとロボットが男性の象徴であるとするのは考えすぎだろうか。
ディーヴァとの戦闘が終わり、ディンゴによって人間と承認されたフロンティアセッターが宇宙へと旅立つ。と、この見送ろうというシーンで初めてアンジェラのブーツの固い足音が私の耳に障った。まるでこれから地球に足をつけて暮らそうと言っているかのような耳障りな音。このシーンの後、靴を脱ぐシーンがあるかと思ったが、それは野暮というものだろう。
以上、観た勢いで思ったことを綴ってみた。
都合がつけば来週にも、もう1度は劇場で観たいと思っている。