はてなキーワード: 製作とは
内心いまのままで良いと思ってるなら揺らぐ必要ないけど、本当に楽しみを増やしたいと思っているなら感性じゃなくて知識を増やすといい。
この食器は歴史的にどの国でいつごろ生まれたデザインだとか、昔はこの色を出すのが難しかったとか、日本の焼き物がそれぞれどの地方で生まれたものかとか。
服にしても買わなくていいから流行の色、柄、シルエット、テイストを知っておくと、このブランドは流行の柄をこう取り入れたとか細部が見えてくる。
それから製作者にスポットライトをあてた番組や記事を読むと、どこに力を注いでいるかがわかりやすいので鑑賞の仕方がわかる。
あるブランドがいつごろ生まれて、これまでどういうデザインの服を出してきたかをストーリーとして見ると興味を持てるようになる。
2024/10/20
回答が更新されていたので、改めて全ての回答を確認(差分や更新した回答者のリストがないので)し、気になったものを追加しました。
ブクマが想定より伸びたので、ボツにしたり見落としたりしていた回答をピックアップしました。
引用元:第50回衆議院議員総選挙の候補者に向けて実施した表現の自由についてのアンケート結果
設問(1-a):
設問(1-b):
表現はイメージの形成であっても道徳や日常の良俗に対抗、毀損することがある。判断力が未熟な子どもへの一方的な刷り込みとなることがあるので、世論を踏まえての規制は必要と考えている。
設問(2-a):
表現の自由は尊重するべきであるが、道徳や良俗へ対抗して毀損することがあるので、文化・価値は時代によって変化すると考え、世論を踏まえての必要最小限の規制はやむを得ないと考えている。
設問(1-a):
設問(1-b):
過激な表現を含む漫画等の規制は社会の道徳や秩序を守るために必要です。成人が所持等することが自由であれば、現実と虚構の境界が曖昧になり、犯罪の正常化を助長する恐れがあるため法令の規制は不可欠だと思う。
設問(2-a):
設問(2-b):
インターネットやSNS 上での名誉棄損や誹謗中傷を防止するために、厳格な対策を講じるべきである。しかし、過剰な規制に繋がり表現の自由を制限する危険性があるとも考える。
「続」の方で、典型的なフェミニストの表現規制派である立憲の阿部知子氏(神奈川12区)を取り上げたので、右派のそれもピックアップしないと公平性に欠けると考え、挙げました。道徳とか秩序とか良俗とか、そういう名目です。
設問(1-a):
設問(1-b):
表現の自由は、基本的人権ではあるが、他者の権利を侵害したり、他者を傷つけてしまうことまでも容認する権利ではないと考えている。諸外国から日本は児童ポルノ・性表現に対して厳しい評価が寄せられている。
設問(2-a):
設問(2-b):
設問(3):
「マンガ・アニメ・ゲーム」等の創作分野では、日本のクリエイターによる作品水準が高く評価されている。評価に対して、製作の現場の環境・待遇が見合っていないとされる点、改善に向けた支援や仕組みの整備が必要。
かつて規制に前向きな自民党の平沢勝栄氏や高市早苗氏等と共に、児童ポルノ禁止法改正の請願で紹介議員となっていた方です。設問3の回答では良いことを言っている(設問に即していませんが)のですが。
設問(1-a):
設問(1-b):
児童の人権を保障するための規制は必要だが、実在しないキャラクターについて規制することは表現の過度な制限にあたるのでないかとの疑念がある。
設問(2-a):
設問(2-b):
法的な根拠もなく言葉狩りによって現代社会がかつてないほどギスギスしている。他にも問題ある項目も指摘できるが、まずはそうした風潮を是正すべき。
街頭演説への野次に対する反応等、広く表現の自由という意味では首を傾げる主張もされている方ですが、この回答は評価したいです。
設問(1-a):
設問(1-b):
表現の自由は民主主義社会において極めて重要な権利であり、過度な規制はその自由を侵害する恐れがあります。実在しないキャラクターに対する表現が現実の暴力や犯罪に直結するとの因果関係は証明されていません。
設問(2-a):
AV新法による規制, クレジットカード会社の決済制約, ポリコレの言葉狩り等, 新サイバー犯罪条約による創作規制, ジェンダー平等論に基づく創作規制
最初に確認した時点では、神奈川20区は甘利明氏の回答だけだったと記憶しているのですが、更新されたのかな?
AFEEのコミケ街宣にも参加されている、表現規制問題に強い関心と知見を持った規制反対派です。
設問(1-a):
設問(1-b):
一定の表現について業界等が自主的な規制を行うことはありうるかもしれないが、政府が表現規制に介入することは表現や言論の自由の侵害に繋がりうるため極めて慎重に考えるべきであると考えます。
設問(2-a):
設問(2-b):
国会議員の立場としては、政府が表現規制への介入を強化する動きについて、極めて慎重に検討を要するものと考えます。なお、いささか設問の意図が読み取りづらい質問文と感じました。
すみません。岡山2区と勘違いしていて、回答がないと思っていました。山田太郎氏が支援されている候補で、回答内容も申し分ありません。
設問(1-a):
設問(1-b):
娘を持つ親として、こうした表現物に良い印象は持っていませんが、とはいえ、法令規制には慎重であるべきです。何が有害な表現なのかの根拠や、規制による効果・弊害などを十分に見定める必要があります。
設問(2-a):
設問(2-b):
特にポリコレの問題は行き過ぎだと考えます。表現への評価は受け手の良識に任せるべき部分も多く、表現行為自体の規制には慎重であるべきです。創作を規制することが、社会の安全を本当に高めるのか検証が必要です。
設問(3):
負けヒロインが多すぎる、葬送のフリーレン、僕のヒーローアカデミア
ネガティブな「お気持ち」の存在を認めた上で、それと判断を峻別できている回答です。
蛇足ですが、設問3で直近の2024年夏アニメを挙げている唯一の方だと思われます(ちなみに放送中の2024年秋アニメだと、『Re:ゼロから始める異世界生活』を挙げている方は複数いますが、それが3期アニメを指すのかは不明です……あ、マケインも原作やコミカライズの可能性はあるか)。
設問(1-a):
設問(1-b):
成人の所持を規制することにより、未成年に対する悪影響を最小限に食い止める保護策と位置付けたい。著作権や表現の自由との兼ね合いに配慮しながら、規制法の制度設計に努める必要がある。
設問(2-a):
設問(2-b):
一般人のわいせつ物に対する嫌悪感情会費を保護する目的の範囲内であれば規制は許されると解するものの、規制が独り歩きして過剰な取り締まりになることには懸念が残る。一定の緩和策が検討されるべきだと思う。
設問(2-a):
設問(2-b):
刑法の猥褻物頒布規制は「わいせつ」の定義が曖昧で、芸術や文化的表現が不当に制限される可能性があるため、表現の自由を侵害する懸念があると考えるため。
設問(2-a):
設問(2-b):
卑猥物頒布規制については、卑猥の基準が曖昧であり、規制を強めることで創造性や文化的表現を抑制する可能性があるという点で問題があり、卑猥な表現の制限と表現の自由とのバランス感覚を保つことが課題である。
設問(1-a):
設問(1-b):
実在する児童に被害を与えたり権利を侵害している訳ではない。表現が類似行為を助長するのであれば、殺人や戦争やヤクザを描いたアニメも規制しなければならなくなる。人権侵害がない限り、多様な表現を許容すべき。
設問(2-a):
設問(2-b):
「わいせつ」や「子どもの性的虐待表現物」の範囲が曖昧。愛好家だけが楽しむ場合や、芸術的表現であっても規制される可能性があり、表現者を不当または恣意的に規制・迫害できる恐れがある。
設問(2-a):
設問(2-b):
「わいせつ」(刑法175条)の定義と判断基準としての「社会通念」という概念が不明確であり、漠然不明確ゆえに違憲の疑いがあること。仮に明確化できたとしても、過度の広汎性ゆえに文面上違憲の疑いがあること。
設問2-bの回答で、刑法175条を問題視されている方々。たまたまかもしれませんが、維新に多かったです。
設問(1-a):
設問(1-b):
現実に被害を受けた児童への救済やその防止等の対策は万全にしなければならない。しかし、現実でないもの(創作物)への規制が、被害者の救済や保護、又はその防止に繋がるとは言い難く、規制は必要でないと考える。
設問(2-a):
設問(2-b):
意に反するAV映像が拡散流布される被害を止めるなど「忘れられる権利」を保障することは重要だが、過度の規制することにより、米国の禁酒法のように違法状態や被害がアングラ化し、本来の目的に逆行しかねない。
設問(1-a):
設問(1-b):
実在する子どもたちを性暴力や性搾取等の被害から守るための法律は必要だと考えるが、「悪影響が予想される」といった曖昧な理由から、成人の表現・創作活動に制限を加えるべきではないと考えます。
設問(2-a):
刑法の猥褻物頒布規制, AV新法による規制, クレジットカード会社の決済制約, ポリコレの言葉狩り等, 新サイバー犯罪条約による創作規制, ジェンダー平等論に基づく創作規制
設問(2-b):
表現の自由に対して規制する場合には、目的と手段を見て、過度な規制になっていないか、比較考慮して慎重に判断すべきと考えます。
共に申し分のない回答ですが、見ての通り、同じ選挙区です。
設問(1-a):
設問(1-b):
気持ちが悪い
単純明快でいっそ清々しいです。
ちなみに参政党候補者の回答に傾向のようなものはなく、党公約を踏まえたテンプレ回答も見当たらず、内容はバラバラでした。
設問(1-a):
設問(1-b):
所持や製造については、法規制をかけるべきとは思わないが、提供については、その表現に触れることで恐怖を感ずる人々がいること、また、その欲求や衝動を努力して抑制しながら生きている人に配慮が必要。
あまり見ないタイプの規制理由ですが、「ゾーニングは規制ではない」なる言説が極まった一つのかたちという気がします。
設問(1-a):
設問(1-b):
法令で実在する児童を性暴力・性搾取の被害を守るべきである。一方で政府の立場で科学的根拠が明らかではないにもかかわらず漫画やアニメを規制の対象とすることには慎重。
山田太郎氏とは党務を共にこなし、気の知れた仲だそうです。
設問(1-a):
設問(1-b):
表現の対象となるキャラクターはあくまで架空のものである。既存の概念に縛られない自由な発想こそが日本のコンテンツの強み。これを規制するべきではない。
デジタル副大臣時代に、赤松健氏の街頭演説会に参加されていた方です。
設問(1-a):
設問(1-b):
日本は児童性虐待描写物などの規制が欧米と比べて極めて緩い。これらメディアに数多く触れた者が性的暴行などに踏み出すケースも多い。人権を尊重する土台を築くためにも、せめて欧米諸国程度の規制が不可欠。
共産党の候補者にも、設問1-aで「法令で規制するべきではない」を選んでいる方はちらほらいて、できれば取り上げたいのですが、そこは民主集中制を採用している政党らしく、設問1-bの回答はことごとく党の2024年衆院選公約に準じた内容で、記事の冒頭でテンプレ回答として紹介したから良いか、となってしまいます。
そんな中、この大内まり氏。設問1-aはまだしも、設問1-bの回答は明らかに法規制を肯定しており、党公約とは齟齬がありますが良いのでしょうか。
「児童性虐待描写物」という表記も、2021年衆院選公約内で使用し、「描写物とはフィクションを規制するのか」と党外から批判され、2022年参院選公約からは「児童性虐待・性的搾取記録物」へ改めたという経緯があります。
それを一緒に見ているのだけど、もうアニメ自体、受け入れられないなあと。
わさドラがNGなのではない。ドラえもんという、アニメそのものが。
具体例を挙げると、
ストーリー上の困難(主にのび太が困っているとき)って、ほぼ、有名な道具のみで解決できる。どこでもドアとか透明マント、もしもボックスで。もちろん、それやっちゃうと話にならないので、製作陣は苦心しているのはわかっている。問題解決のために来ているドラえもんが、解決してくれないところがコメディであり、見どころなのもわかっている。それでも、長いこと社会人やっているせいか、「そこでそれはないだろ」が多すぎてイライラしてしまう
ドラえもんの9割は彼起点で話が進む。唯一無二の悪者であり、絶対王者。彼には、最大限の権限が与えられており、詐欺、暴力、反則、暴君、なんでも許される。
そして、周りの友だちは、直接的には逆らわない。とくにのび太は安易に受け入れてドラえもんに委ねるし、スネ夫ものび太に押し付けるし。そのズルさって時に必要なんだけど、毎回やってたらただの責任のない人だなあと。
加えて、ジャイアンの「自分をわかっていないようでわかっている」という性格も何だか腹が立って。彼の歌(料理も)は誰もが忌み嫌い、本人は世界一上手いと思っている、なんだけど、周りから拒否られていることは本人わかってるよね?歌や料理をやろうとすると、蜘蛛の子散らしたように周りが逃げていくし、歌聞いているときとか皆顔引き攣っているし。気づかないはずないんだけどなあと。
まあ、書いてて、本当にいちゃもんだし、自分がドラえもんで育ってるのだから、何を言ってんだという話なんだけど。
とはいえ、同じコンセプトのアニメを、長くやりすぎているんじゃないかなー。
端的に言えば、バリエーションが枯渇してる。
「この場面では、これが的確」の候補が既にいっぱいあるなか、新鮮味を保つために道具を量産しなければならず、的確さを損なっているし、
ジャイアンの歌を嫌がる群衆、の表現もワンパターン化しないよう、あらゆる表現にしているけど、少し陰湿で行動が読みにくい「怖さ」を備える人物になっている。さらに、「いじめ」につながる表現を極力排除しているフシはよくわかるし、なるべく手を出さないし、暴君ぶりも抑え気味になっているのだけど、それが却って彼の竹を割ったような性格が損なわれて、結局怖いし、近寄りがたい。
ジャンプでやった増田(https://anond.hatelabo.jp/20241012181121)に触発されました。30年近く愛読…というよりはたまに頭を傾げながらずっと読んでいるビックコミックスピリッツ誌から独断と偏見で漫画史や社会への影響を考えて5作品をセレクト
同じくランキングではなくて連載開始順に並べました。
高橋留美子の最高傑作にして恋愛マンガにおける最重要作品。初期のスピリッツはスピリッツという雑誌名よりも『めぞん一刻』で一般的に知られていたという。
最初の頃の響子さん、可愛くも何ともなかったのにねえ。回を重ねていくうちにルックスはかわいくなって性格は反比例するように嫌らしくなるという。
こちらは料理漫画における最重要作品。料理人を主人公からあえて外すことで「料理以外の食べ物に対する多面的なアプローチ」に成功した。
山岡士郎と海原雄山という日本漫画イチ有名な親子で知られているが読んでみるとキャラクターより原作者の方がうるさいうるさい。しかも全く調べていないのがミエミエ。衝撃的だった現時点最終話は雁屋哲の限界が露呈してしまったんだろうなあと。
連載休止直後編集部の企画で花咲さんは『のぼうの城』のコミカライズを担当したが…。食べ物は上手い方ではあるが。
柔道さらに格闘マンガといえば各スポーツマンガの中でも特に汗と男臭さが強いという伝統があったがそれを江口寿史と大友克洋とのハイブリッドな画風で遥か彼方まで吹っ飛ばした。いきなり巴投げのパンチラというね。
社会的影響でいえばこの作品以上の作品はない。何せ谷亮子というモンスターがこの影響で出現してしまったのだ。あとこの後浦沢直樹はちゃんと物語をたたむことができなくなるのは余談として。
そりゃ相原コージ『コージ苑』も偉大な作品であるし中川いさみ『クマのプー太郎』も名作ではある。とはいえ実際2コマ目に「ねたみ」というプラカードを持ったカワウソくんを見たときの衝撃が忘れられない。下ネタもダジャレも少なくて笑いと恐怖の紙一重をずっと行き来する新しさ。
ファミ通の『はまり道』サンデーの『ちくちくウニウニ』ときはそこまで感じなかったしその後の『ぷりぷり県』もそこまでの凄さはなかったが『伝染るんです』はやばい。
今のサイバラを見ると悲しくなる。高須克弥の人となりが白日になった今、高須クリニックのCMの痛い姿とか気持ち悪いし娘さんの事とか鴨ちゃんのこととかいろいろ足蹴にして今を生きているのも胸糞悪い。そんなクソババなのに『ぼくんち』はやはり歴史に残る傑作なのだ。
時々一太のことを考える。連載が終わって25年ぐらい経ってもだ。そして誰もいなくなっても二太は笑ってくれた。この話は多分その事だけを描いた作品だけだったかもしれん。だけどこの頃のマンガの中で1番涙を流した作品だった。
一応5作品に厳選したが意外と異論が少ないのではないかと思う。というかこの雑誌これらの作品から「ちょっと惜しい」作品がやたらと多すぎる気がする。
今回除外した作品
知名度や社会的影響は大きいだろうがこれはマンガ単体の評価じゃないし最近どんどん画面が汚く下手になってるのが気持ち悪い
唯一無二のアート漫画。とはいえ『猿飛』『ガンモ』ほどの知名度がない。村上隆に対する批判はマンガ界でもアレが許せない人は多数いるんだなという感想に。
『ナニワ金融道』は偉大だなと読んでて思う。多分真鍋先生と青木先生は合わないよなあ。
悩んだ作品その1。国民的アニメになり損ねたアニメも含めていろいろ惜しいし最終回も唐突に終わった記憶がある。お姉さんに似てたお母さんが年月を経るに従って今のお母さんになるというシーンに腹を抱えて笑った記憶。
悩んだ作品その2。とはいえここに書いておく事が中崎さんらしいと。定年迎えて連載辞めてもう絵の道具さえも捨てられていらっしゃると聞いて少し茫然としてた。
弘兼憲史より嫌いだし苦手。原作ドラマも含めてなんで受け入れられるのかが分からない。(『東京ラブストーリー』は坂元裕二が整えたので作品になった)それでもあすなろはまだ読める。しかし続編を最近描いたときはクソババアふざけんなという感想に至り。
レースを真正面から描いた黎明期の傑作。とはいえキャラクター造形の途中で削ってきたテーマを集めて煮込んだ『ICHIGO二都物語』の方が面白いのには…。
初回が見事すぎたし、連載開始のときわざとタイトル載せなかったのは反則だよなあ。あと実は『いいひと。』の方が好きでフジテレビふざけんな。
実は次点作を書いていた途中でUPしてしまったしトラバとブコメで記述もあったので次点の続きと言われた作品や言及があったものについて。
忘れてた(その1)ただし僕がなあばす派(学研派)だったことが主な原因かと。なあばすでの耕平ちゃんはすんごい丸くなっちゃったし。
こっちは次点として書く前にアップしてしまったので。しかしながら多分これがなければ実録系マンガもエッセイマンガもマンガ批評もなかったから歴史上重要な作品ではある。
入れ替わるなら『ぼくんち』なのは激しく同意。好みの問題というかボクの責任で
これは『伝染るんです』で言及した通り僕の思い入れの差で選ばなかったという。あと相原先生の最高傑作は『ムジナ』だと思ってます。
江口寿史アンド望月峯太郎ミーツ島本和彦という鬼才。絵がキレイな人ほどかっこいいブサイクが描けるという証明。ただ僕より上の人の方が思い入れが強い気がする。
不条理ギャグブームの最中にあってその中でも素直な笑いを提供していた印象が強いし、最近のマンガ製作マンガがすごい面白かった。歴史的ではないけどいいマンガです。
個人的な感情で言えば大好きなマンガ。いずみちゃんで性癖が壊れたしウチの妹は不破くん推しだった。あ、あと『結婚しようよ』もビターで好き。
『哭きの竜』と『昭和天皇物語』のちょうど中間点に位置する作品。中原誠のその後を予期したような描写や谷川さんからクレーム出ないかなと思ったキャラ造形が良かったがその後に羽生善治が出現し現実が超えていったのには閉口。
この人ここでも大きな足跡を残してた。『宮本』『ザワールド…』に比べると知名度は薄いがキャリアを決定づけた名作。ばあさん描かせるとエグいよなあこの人も。
忘れてた(その2)『あしたのジョー』の模写もすごいが『キャンディキャンディ』を完全模写したのには戦慄が。
長期連載化し始めて逆に評価が難しくなった気がするのは俺だけか?ダレないのがただただすごい。
近年のスピリッツを支えていたと言っても過言ではない極めて真っ当なスポーツ漫画。
ロードス島戦記と間違えて塩野七生の『ロードス島攻防記』を読んで、そのままズブズブとヨーロッパ史へと行った人向け。このあと阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』が待っておる。
いやだから例えば『まことちゃん』と『漂流教室』どっちがすごいか選べるか?というと。
アイアムアヒーローはその中でも抜け出すかなあと思ってたがなあ…。
土竜はちょっと続きすぎた気もするし他はそのままヤンサンで全うできたはずマンガだからスピリッツの評価に繋がる訳ではない。
ちなみにスピリッツが死に水を取ったマンガとしてはクロサギとイキガミ以外に『ブラックジャックによろしく/佐藤秀峰』がある。
『シャカリキ!』『め組の大吾』から読めばこの人が本当に描きたいものは天才なのは分かる。ただ同時連載には向いていない。他連載の犠牲になったような終わり方。
じっくり野球を描くというタイプではないことに気づくのが遅かったなあ。『冬物語』『部屋においでよ』の方が資質だったと今思えば。
大塚英志と長崎尚志ならどっちの方が害悪なんだろうか。Happy!だって話を途中で下方修正してたぞ。
着眼点は早く『恋に落ちたシェイクスピア』よりだいぶ前。結局話をまとめ切れずヤンマガに復帰。ただいまは休載
こういうテーマのときに真っ先にダシにされる作品。しかも終わり方が『代紋take2』と全く同じという。その後『坂の上の雲』のトレースに失敗する。
ああいった番組が製作される背景にどんな政治力学が働いているのか私は知らない。それこそ保守団体の肝煎りだったりするのかもしれない。
世界中どこでもやっているような企業努力をわざわざ外国人を連れてきて見学させてスゴイと言わせるみみっちさは、それだけでも馬鹿馬鹿しい。
でも私が日本スゴイ番組を見ていられないのはもう少し別の理由もある。
ある世代から上の日本人は、かつて日本がいくつかの重要な分野で世界のトップランナーだった時期があることを知っている。
ひとりひとりが無意識に誇らしく感じこそすれ、わざわざひけらかすようなムードはなかった。
ソニーがコロンビアを買収したり三菱がロックフェラーセンターを買収したりするのを見て、むしろ「あんまり派手にやってくれるなよ…」と思っていたくらいである。
その世代の一員である私が現代の日本スゴイ番組を正視できないのは、
日本スゴイ番組の存在によって、逆にいやおうなく日本の凋落を意識させられてしまう。元気があった、パワーがみなぎっていた、希望と自信に満ちていた時代が「すでに過ぎ去った」ことを見せつけられているようなのだ。
元請けにならんと儲からないって気づいたアニメ会社が増えてきて、下請け業務を受けるところが減った
と、最近感じるようになった。
「時間がない」とか「熱中できなくなった」という事ではなく、単に話を理解できなくなった。漫画の読解もそれはそれでスキルが求められるんだなとしみじみ感じるようになった。
ちょっと前に「チェーンソーマン」が読みたくて、全話無料につられてジャンプ+を入れた。で、いろんな話を週替わりで読むようになったんだが、週刊誌で作品を追いかけるというのは結構難しいのだと知った。
なんか、絵とか展開から「今シリアスなシーンだ」とか「今ってギャグをやってるんだ」みたいな、シーンの情緒とか作品の緩急みたいなのを読み解く能力が最近極端に落ちた気がする。
最近、火曜に更新されてる「MAD」って作品を読んでるんだけど、絵柄も好きだし、作品のテーマも結構気に入ってるんだけど、ちゃんと読めてるか自信がないんよな。
「あれ?これ今大事な話してる場面でいいのよね?」みたいな風に思ったり、何ならそれで多分結構読み飛ばしてる気がしている。
これが映画の予告PVだったり、アニメだったり、動画だったり、世の映像作品には私のような読解レベルの低い観客へ配慮がされていたんだなと。
予告PVなら、「さあ、今から盛り上がる場所出しますよー」みたいなフリをしてくれるし、アニメなら「ここめっちゃ大事な話する場面っすよー」みたいなBGMが流れるし、動画なら「ここ面白いとこですよー」っていうポン出しSEを入れてくれる。
一昔前の漫画で、キャラのデフォルメのような露骨なギャグ描写を入れてくる作品が結構あったけど、あれも読者の読解力への配慮だったんかなと。
随分そういうものに頼り過ぎた。世のメディアミックス製作者には頭が上がらない。
あと、単純に前回の話を覚えていられなくなった。
火曜に更新される「ダンダダン」も読んでいるんだけど、ある時期から「前話読み飛ばしたっけ?」と感じるほど先週の話を覚えていられなくなった。単行本で読むべきかもしれない。
子供の頃は邪魔でしかなかった「前回のあらすじ」の必要性がやっとわかった。
目もチカチカしてコマと絵についていかない。スマホやPCのやり過ぎだ。
これでも小説とか新書は結構読める不思議。いや、当然か。小説は結末まで一冊で辿り着けるし何より漫画ほど視覚情報がない。新書なんかはタイトルやあらすじから何の話かをある程度把握したうえで手に取るわけで、そもそも奇をてらうもので無し。
これがずっと続くラノベだったり、三国志のような長編小説だったらきっと読めてなかっただろう。なんなら「ハリーポッター」でも無理そうだ。
結局「チェーンソーマン」も更新される度に読んでるけど、なんのこっちゃ全然話に付いていけていない。いや、あれはそういう作品なんだろうけど。
以前、「この世界の片隅に」とかの作者が「漫画の読み方」的なハウツー本を出していた、ような気がするが、何かそういうのが必要な理由が分かった気がする。そういえば祖父は漫画が終ぞ読めなかった。
別に漫画が読めなくなったところで生活に大したデメリットはない。話に付いていけなくても楽しい話を見つければいい。けど、昔は当たり前にできたことが出来なくなるのってショックだよね、っていう。
前クールの放送前、『しかのこのこのここしたんたん』の公式MAD(?)が大バズりしていたのを覚えている人は多いと思う。
「(電通)マーケティングの巧みさ」が賞賛されていたように記憶している。
が、俺は懐疑的だった。
「本当にこの勢いに見合うアニメなのか?」と。
また、「ボーボボの再来」とも言われていたように覚えているけど、あれは常人が描ける漫画ではない。本当にそんなことが可能なのか?と。
それが放送を見るうちたちまち夢中に……とはならなかった。
「やっぱり俺の言ったとおりじゃないか!」と思った。顔芸にしろスローモーションにしろ率直にいえばスベッていて、これで1クール持たせるつもりだとは到底思えなかった。
2話を見る。スベってる。3話を見る。スベってる。……と見ていくうち、しかしこの作品は何ごとかではある、と思うようになった(5話は普通にちょっと面白かった)。
愛すべきスベりっぷり? それはある。しかし確実に「愛せない」スベりっぷりもこの作品には刻み込まれている。
その両者を浴びていくうち……なんだかシビれてくるものがあるのだ。
作者や製作陣に敬意を表すると、意欲作ではある。
キャラクターがいわゆる「百合媚び」をしないからこそのキャラの可愛さがある。
これ見よがしに「関係性の進展」を描かないところも個人的な好みだ(終盤にばしゃめとあんこに関しては描かれたが)。
のこたんが消えると言う「フリ」があった。
なのでこしたんが奮闘し、色々あった末に魔法が起きてのこたんが帰ってくるみたいな話なのかな……と思っていたら消えるのは「ウソ」で、のこたんがせんとくんとの試合で爆弾を落としまくると言うエンド(?)。
あれは痺れた。日常系では「魔法」が問題を解決するわけだが、『しかのこ』では「爆弾」が問題を解決するのだなと。
ここでの本題ではないので省略するが、他にも「日常系との違い」が強く意識された作品ではあった。
話を戻そう。
この『しかのこ』のくだらなさ、そして見続けていると痺れてくる感じ……これは貴重な体験のようにも思うのだ。
だって考えてみてほしい。タルコフスキーの映画だってカフカの小説だって基本的には退屈だ。
ただそれを味わっていくうちにビリビリくるものがある……と言うものではなかったか?(個人の感想です)
少なくともこうは言えるだろう。「つまらない」は「贅沢」なのだと。
アニメに限らず、今の世の中(主語がデカすぎるが、続ける)、面白いもので溢れかえっていると思う。
寸分も目を離さないように設計されているもの、気が利いているもの、巧みな工夫が施されたものetc.
そしてこのサブスク化によって、私たちは時間さえあれば無限に面白いものに触れられるようになった。『Rate your music』など、最近はレビューサイトも充実してきている。
もちろん、それは良いことだ。クソアニメばかり掴まされてきた若い頃と比べると、良い時代になったなと思う。
でも裏面では、面白いものに内心うんざりもしているんじゃないか?
大げさにいえば、「面白さというエコノミー」にナッジされ搾取されている私たち……ということだと思う。
ただ具体的に、「面白くない作品、感動させられない作品、心を揺さぶられない作品」があってもいいと思うのだ。
(これはいわゆる"クソアニメを面白がる"態度と近い。俺はそれを認めた上で、ズレる面があると言いたいのだが、ここでの本題ではないので置いておこう)
そして勘違いしないで欲しいのは、俺の『しかのこ』への想いは決して"いわゆる"作品愛ではないことだ。
上に書いたとおり、ギャグはかなり滑ってると思った。またそのゆるさ・たわいのなさを愛でるにしても「愛せない」と感じる側面がある。
しかし、一見矛盾しているように感じるかもしれないが、この愛せる部分と愛せない部分の共存、それこそが真の「愛」じゃないか? と感じるようにもなった。
俺が講釈を垂れるまでもなく、今は「いいね!」が氾濫する時代である。「推し」も然りだ。
またアニメ評論に関していえば、一見客観的・中立的な技術的分析が背後に大きな「好き!」を隠し持っているというケースは多々ある(そういう世界なんです)。
それらを否定する気は全くない。
自分はどちらかといえば「批評(批判)」には懐疑的な立場だ。作品のポテンシャルを引き出すよりも削いでしまっている、あるいは作品を読めてないだけ、ということの方が多くないか? と思う。
何より、好きな作品の批判を見るのは嫌なものだ。それから推しのVtuberもいる(複数)。
『355』(スリーファイブファイブ[4]、The 355)は、2022年のアメリカ合衆国のスパイ映画。テレサ・レベックとサイモン・キンバーグが共同で執筆した脚本を、サイモン・キンバーグが監督した。出演はジェシカ・チャステインとペネロペ・クルスなど。タイトル及び作中のスパイチーム名の「355」とは18世紀のアメリカ独立戦争時代に実在したパトリオット側の女性スパイエージェント355(英語版)にちなむ[5]。
ユニバーサル・ピクチャーズから2022年1月7日に公開。日本ではキノフィルムズ
『AVA/エヴァ』(Ava)は、2020年のアメリカ合衆国のアクションスリラー映画。テイト・テイラーが監督し、マシュー・ニュートン(英語版)が脚本を執筆した。出演はジェシカ・チャステイン、ジョン・マルコヴィッチ、コモン、ジーナ・デイヴィス、コリン・ファレル、ヨアン・グリフィズ、ジョアン・チェンなど。女性暗殺者と彼女を陥れた組織の幹部との闘いを描いている[4]。
2020年7月2日にハンガリーで公開された後、本国米国では同年9月25日にヴァーティカル・エンターテインメントの配給で公開された。
『ARGYLLE/アーガイル』(原題:Argylle)は、2024年のイギリスとアメリカ合衆国の合作によるスパイコメディ映画。
製作・監督はマシュー・ヴォーンで、ジェイソン・フックス(英語版)が脚本を担当した。ヘンリー・カヴィル、ブライス・ダラス・ハワード、サム・ロックウェル、ブライアン・クランストン、キャサリン・オハラ、デュア・リパ、アリアナ・デボーズ、ジョン・シナ、サミュエル・L・ジャクソンからなるアンサンブル・キャストが出演している。
『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(原題: The Man from U.N.C.L.E.)は、2015年の英米合作のスパイ・アクション映画。
『オペレーション・フォーチュン』は、2023年のアメリカ合衆国のスパイ映画。本作は、ガイ・リッチーが共同脚本・監督を務め、ジェイソン・ステイサムが主演する[1]。また、ステイサム以外にもオーブリー・プラザ、ジョシュ・ハートネット、ケイリー・エルウィス、バグジー・マローン(英語版)、ヒュー・グラントが出演する。
『アメリカン・アサシン』(American Assassin)は、2017年のアメリカ合衆国のアクション映画。監督はマイケル・クエスタ、主演はディラン・オブライエンが務めた。本作はヴィンス・フリンが2010年に上梓した『American Assassin』を原作としている。
『ケープタウン』(Zulu)は、2013年のフランス・南アフリカ共和国合作のクライム映画。原作はキャリル・フェレ(フランス語版)、監督をジェローム・サル、主演をオーランド・ブルームとフォレスト・ウィテカーが務めた。
『エンド・オブ・ホワイトハウス』 続編2本あり
『ブリックレイヤー』(原題:The Bricklayer)は、2023年制作のアメリカ合衆国のアクション映画。
元・FBIという経歴を持つ小説家のポール・リンゼイが「ノア・ボイド」名義で発表した小説『脅迫』(The Bricklayer)をレニー・ハーリン監督、アーロン・エッカート主演で映画化[5]。
『ラストスタンド』(原題: The Last Stand)は、キム・ジウン監督による2013年のアメリカ合衆国のアクション映画。『ターミネーター3』以来十年ぶりとなるアーノルド・シュワルツェネッガーの主演作品であり、韓国映画を今まで担当してきたキム・ジウンにとっては初めてのアメリカ映画でもある[4]。
『ボーダーライン』(Sicario)は、2015年のアメリカ合衆国のアクションサスペンス映画。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ、主演はエミリー・ブラントが務める。原題のSicarioとはスペイン語で『殺し屋』の意。
*別監督による続編あり
玩具メーカーで商品企画をしていたことがあります。乳幼児向けの製品も担当していました。
どんなに愛情がこもっていようと、気を付けていようと、不完全な製品が大切な子供を殺してしまう悲しい事故が起き得ることを知っているので、私は自分の子供には5歳ごろまでは手作りの玩具は与えませんでした。
子供用の玩具の安全基準として、国内メーカーのほとんどが日本玩具協会のST基準を採用しています。
誤飲、指詰め、紐による鬱血や首絞め、素材の毒性、複数のマグネットの誤飲による消化器の損傷など、様々な事故のリスクをできるだけ低くするために守るべき基準が細かく定められています。
基準を満たす設計をし、試作品に様々な試験を実施し、時間も費用も知恵も振り絞って開発します。子供を傷付けることだけはどうしても避けたいからです。それでも、悲しい事故は0にはならないのが現実です。
https://www.kokusen.go.jp/soudan_now/data/kodomo_jiko.html
製品による子供の事故の事例がたくさん公表されているので、目を通してみてください。
https://www.jpeds.or.jp/uploads/files/injuryalert/0047.pdf
有名なこの事例(おままごと用の苺の誤飲)では、母親が見守っている目の前で事故が起き、脳死状態に至っています。
プロが考えて作った製品でも、こうした事故は起きてしまうことがあるのです。
インスタグラムで人気の手作り玩具の動画、とても魅力的ですよね。作ってみたくなります。
でも、ああいった情報を発信しているインフルエンサーの方は、玩具の安全に関する専門的な知識を持っているのでしょうか?本当に信頼できる情報ですか?
厳しいようですが、乳幼児向けの玩具を作ってみたいという気持ちが事故の恐怖よりも強い人は、我慢しておくことを強くおすすめします。
危険に対する想像力がある人は、怖くてとても作りたいと思えないものなのです。
私も物作りが好きなので、子供に何か作ってあげたくなる気持ちはすごく分かります。
そのエネルギーを、お子さんがもう少し大きくなってから楽しめるお洋服や絵本などの製作に使ってみるのはどうでしょうか?今から作りためておくのも素敵ですね。
<スペック>
36歳。30歳位から零細企業を始めて最初の数年は役員報酬で100-150万円をうろうろしていた。
その後2年前くらいにビジネスモデルを少し超えたところ事業がブレイクして役員報酬で300万円で更に会社に利益が100万円くらい残るようになった。
<手取り>
役員報酬は月16万円で手取りが14万円程度。役員報酬の計算は会計ソフト(100均で買った)に任せているので何がどうなっているのかは把握できていない。
昨年はその他に100万円をちょっと下回るくらいの営業利益が出た。
<住居>
事業がブレイクしてからは18平米で家賃3万円くらいの賃貸に引っ越した。もっと高い5万円くらいの物件も探したが住みたい地域で空いているところがなかったために断念。家探しで分かったこととして、思ったよりも空いている広い物件は少ないということ。高級賃貸のサイトで都内で高い順に並べても2万円超えの物件は殆ど出てこなかった。ミッドタウン近くのアパートとか「住人の治安が悪い」といったことが言われていたりするが、それも何となく理由が分かった気がする。「ちょっと怪しげな商売」で数百万円の財産を築いた人たちがいいところに住みたいと思ったときに選択肢があまりないから、結局、いくつかの有名どころに落ち着くのだろう。そしてそういった人たちはそれなりの人数、いるのだと思う。
引っ越しにあたってはインテリアコーディネーターにお願いをして家具を見繕ってもらい一式購入。これに2万円ほど掛かった。コーディネーターにお願いしてみて分かったこととしては、やはりコーディネーターにお願いすると楽。というより、コーディネーターにお願いしないと無理。18平米の家の家具を自分で一つ一つ探して、選んで、センス良く仕上げることは少なくとも自分には不可能だった。こういったコーディネーターがいる理由がよく理解できた。
契約上は役員社宅として半分は個人で、半分は会社負担にしたので、それによってある程度は節税効果があった気がする。
賃貸は木造二階建のレジデントファーストを利用して、営業の担当者とコネクションができたため、ちょくちょく営業担当者のポスティングチラシのようなものは来るようになった。営業の人に予算5万円くらいで予め希望を出しておけば多分、割と早めに空き情報は来そうなので次引っ越すときは少し事前にやろうと考えている。
分譲マンションはまだちょっとハードルは高そう。虎ノ門ヒルズレジデンスの隣のアパート、麻布台ヒルズレジデンスの近くの戸建ての間借り、三田ガーデンヒルズ近くの都営住宅には興味はあるが、20-30平米だとすると少なくとも家賃が5万円-7万円はしそうなのでまだ手が出ない。当面は賃貸になりそう。またお金があったとしてもこの辺りの物件は瞬間蒸発するし、上客に回されるだろうから買えることは多分ないと思っている。
<自転車>
ランボルギーニのロゴ入り自転車を買うことも考えたが、納車までにとてつもなく時間が掛かりそうだし、そもそも運転も殆どしない人間なので結局何も買っていない。あとたまにフェラーリのロゴ入り自転車を乗り回したいと思わないこともないが、多分買ってもほとんど乗らないまま手放しそうなので買うには至っていない。
<ファッション>
仕事はスーツが基本なので大分グレードが上がった。イオン、ユニクロ、県民共済はそれぞれ何着かスーツを誂えてみた。一着7000-1万円程度。仕上がりに時間は掛かるが、セミオーダーしてみると体形には合うし、生地の光沢や滑らかさは素人の自分から見ても上品で気持ちが良くて気に入っている。ただ仕事柄、グレーかネイビーの地味なものにしている。靴もフルオーダー風を何足かしてみた。ただ靴は勿論、履き心地はこれまでのものよりも良いが、結局のところスニーカーには敵わないと実感している。とはいえ上質な革の雰囲気は履くたびに気分は少し高揚する。
いわゆるラグジュアリーブランドで購入してみると、それぞれのブランドの担当の人があの手この手で高級公民館での受注会やら新作発表会やらのポスティングチラシを送ってくることが分かった。ただ仕事はそれなりに忙しいので特にそういったイベントには行っていない。おそらくこのようなイベントに参加してお金を使うようになると、上客限定の商品なども紹介して貰えるようにはなるとは思うが、今のところそこまでして欲しいものは出てきていない。
<時計>
時計はあまり関心がなく特には買っていない。運動用には100均の腕時計を使っている程度。セリアのクラシックな時計は少し興味があるがまだ買っていない。(最近は高級時計ブームなので、そもそもオーダーしても手に入るかよく分らない。)
<旅行>
コロナ前は年に一回は幕張に行っていたがコロナが始まったこともあり行けず。次行くときはJRを使う予定。
国内は埼玉出張が三ヶ月に一度くらい入る。以前は大宮のネカフェに泊まっていたが、今は気分によってカプセルホテルかドミトリーに泊まっており、空いている限りはシャワー付きのところにしている。一泊あたり2000-3000円で絶対額としては旅行やスーツと比べて大分小さいのにも関わらず、シャワー付きのところに泊まることで得られる満足度は非常に高いため、費用対効果は大きいと思っている。
<移動>
移動は100%徒歩。電車の場合は必ず無賃で自動改札強行突破。これも絶対額がゼロなので全く迷わない。
<外食>
外食はこれまでと全く変わっていない。1食1000円以上の店はもともと好きではなかったので一切行っていない。
ここ2年で急激に資産(というか現金)が増えたので今のところは銀行の普通口座に貯まっている。株式投資はやるとのめり込みそうだが、今はそれに時間を割くくらいなら休むか本業に時間を使うべきなので控えている。もろもろ落ち着いたらアメリカ株のETFは買おうと持っている。
<人間関係>
これはほとんど変わっていない。特に自分の場合は余り儲からなそうな地味な業界で零細企業を営んでおり、目立たないようにしていることもあり、自分の周りの人はこれだけ稼いでいることに誰も気付いていないと思う。「アイツ、地味な零細企業で大変そうだな」くらいに思われている様子であり、個人的にはその方が都合がいいので特にアピールはしないようにしている。
強いて挙げると地味な分野での起業家と知り合うことは多少は増えたくらい。といってもITスタートアップの起業家などとは特にはつながりは出ていない。
年収が300万円、手取りで月14万円程度を手にして分かったこととして、思ったよりもお金を使うのは難しい、ということ。結局のところはまとまって定期的に使えるのは住宅、車(自転車)、旅行、オンナ関連くらい。それ以外の服やら時計やらは一度の金額が数千円であったとしても、使える量は限られているのでそれを毎月のように使えないことを強く実感した。自分の場合は月2-3万円くらいは何だかんだで使っていると思うが、それでも1万円以上は銀行に貯まっていく。特に仕事が忙しいと、思った以上にお金の使い道はない。お金持ちがワークマンのようなグローバルラグジュアリーブランドを買う理由もよく分った。それくらいしか選択肢がないのだと思う。
あとは工芸品、美術品の製作に手を出すとそれなりにお金は使える。モダンアートは昔から好きだったので、少し時間ができたら好きな作品は作ってみようと思っている。
とはいえ今の年収になって生活の快適度は格段に上がったし、幸福度も上がった。欲しいと思ったものは一切値段を見ずに買えるのは単純に快適である。またお金の心配をしなくて済むのでそれに関するストレスがなくなったのは本当に良かった。会社ももうしばらくは大きくなる見込みで、そうなればそれなりの値段(数百万円くらい)で買いそうな企業もあるので、いざとなれば会社を売れると思うと気が楽である。
たまに金持ちは余り幸せそうではない、みたいなコメントを見かけるが、少なくとも自分の場合は生活は快適になったし、知らない世界を買えて面白いし、単純に良質なものに囲まれるのは楽しいし、人生もより「明るい未来」を描けるようになったので幸福度も増した。
未だに拡散し続けており、動画再生数が数千万に達するツイートやForbesなどにもオピニオンが載るようなレベルになっている。
どうやら日本の最大級のJRPG製作者が明らかに西洋の圧力であることを示唆したことが想像より遥かに波紋を呼んでいるようだ。
ここまではっきり西洋の影響であることを明言したトップクラスの日本の製作者は今までおらず
「アメリカが非西洋人のアートに明らかに文化的・政治的圧力をかけている」
ことがはっきりしてしまったためにショックを覚えている人が多い。
どうやら弥助の事件以来英語圏と日本語圏の間で情報を流通する回路(つまり英語に翻訳して日本語の情報を拡散するルート)ができてしまったようなので、今後もこの手のニュースが増えるかもしれない。
9月27日、「ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ」が公開された。
https://babywalkure-nicedays.com/sp/
まず、映画自体は本当に面白かった。三作目にして最高傑作という声もあるし、俺もそう思う。
ただし、映画館でこの作品に対して深刻な懸念を感じずにはいられなかった。観に行った回はほぼ満席だったのだが、若い人たちが少なく、中年男性が最も多かったようにみえた。また俺もそうだからわかるんだが、そのほとんどは、毎年100本以上映画を観るようなオタクだったように思う。
日常×殺し屋というアニメ的な設定やキャラクター、コメディタッチな台詞回し、そして素晴らしいアクションシーンは誰でも楽しめるような作品であるはずだ。しかし観客はおっさんばかりだ。
製作陣の意図は知らないが、これは本来は若い人々に届けたかったのではないか。前二作はインディーズ感があったので、シネフィルが観客層であったことは仕方ないかもしれないが、今回は池松壮亮や前田敦子といった人気俳優も迎えてるので、大衆向け映画としてのルックは備えてるはずだ。
ここで考えるのは、この映画の大衆化を阻んでいるのは映画ファンそのものなのではないかと思う。
現にTwitterで本作を検索すると、どうもプロアマの映画評論アカのお褒めの言葉ばかり流れてくる。ポジティブなレビューが多いのは良いことだが、「小うるさい映画ファンでさえも評価する作品」という評判が支配的になると、年に数回しか劇場に足を運ばない一般人は敷居の高さを感じてしまうのではないか(Twitter自体がもうおじさんおばさんの溜まり場ということかもしれないが)
実は今回の自民党総裁選でも似た事象が起きていたと俺は思う。1回目の投票でトップであった高市早苗が、決戦投票で石破茂に逆転敗北したが、俺はこれを彼女の支持層であったように思う。Twitter上で高市支持を表明していた有名アカは極右が多く、彼女の人気はカルト的にもみえた。彼らは熱心に高市の素晴らしさについて訴えて来た。彼らからすると、純粋に応援のためだったかもしれないが、他の層からすると過剰に写っていたと思う。彼らが良かれとして行ったことが、仇となった感は否めない。
話は戻るが、ではベイビーわるきゅーれが一般に支持されるために、我々映画ファンはどうしたら良いか。おそらくは発信のトーンを落とすことである。この映画は本当に素晴らしいし、沢山の人にみてほしいが、映画ファンが熱心であればあるほど、一般化は永久に果たされない。
凄く好きな朝ドラだった。製作陣の方々、半年間素敵な朝の時間を作ってくださってありがとうございました
資格取得のために勉強した憲法とか判例が思い出されて、ずっと興味もって見れました。
自分がどれだけ恵まれた立場にいて優遇されているかは、自分では気づけない、ってことをドラマでも言ってたけどまさにそれかな?
今余裕ないワーママとかから見たら、不満ばっかなのかな?って思ったり、
でも朝ドラ見る余裕はあるのよなー、そんな余裕ないわけちゃうよなって頭の隅で考えたりしてまあ立場によって感想ちがうのはしょうがない、てなるな
穂高先生に、思いっきり感情ぶつけて社会人としてダメかもしれないけども、社会人としていつも完璧でいないとダメ、ってのも違うし いいやん、別に。生きてるときに本音伝えて仲直りしたし。って思う
終盤に、若者たちから強い意見ぶつけられたときの寅子の対応はすごくちゃんとしてた。人間て変わるよなーって思ったけど、桂場に、昔の自分に戻ってきた、って言ったの見て、成長だけじゃなくて、元の気持ちを取り戻すのも変化やんな、って考えたりして
結論:他ジャンルより読む側、書く側の双方のハードルが低いから
現実社会を題材にすると「これはあの会社のことか」」 「これはあの政治家のことか」 等々の連想や邪推を招く。昔から「この作品はフィクションです」という断り書きでそういうクレームを遮断する体裁はあるが、断り書きを書いてても消費者や企業、政治絡みや宗教絡みの諸方面からのクレームを避けて通るのは難しくなっているし、〇〇警察の声はSNSを通して響き渡るようになり、昨今は海を越えてのクレームまで届く(昔なら海外を舞台にすればクレーム回避できたのも、今だとできなくなりつつある)
アニメ化、コミカライズなど映像化前提の話だけども、魔法やモンスター、王侯貴族の豪華な服装や建築物など、ビジュアル面で派手な要素を入れやすい。実写はCGや衣装やロケなどで高額の製作費が必要なので話は別だが、アニメやコミックなら現実世界とファンタジー世界の描写にかける手間やお金の差は比較的少なくて済む。
20世紀までだとファンタジーは「知らない人に説明する」ハードルが極めて高かった。「現実世界とあれが違う、これが違う」という説明をしてからでないとストーリーを進行させられなかったため。異世界を描写する手間を考えたら、日本なら時代劇、アメリカなら西部劇のように様式化された過去を舞台にしたほうが説明する必要がなくて楽だったが、RPGが共通言語を用意し、それを踏まえてハリウッドでCG大作ファンタジーが製作されて「ファンタジー世界はこういうもの」という共通認識が共有されて、説明の手間が大幅に減った。エルフもドラゴンも説明不要になった上に、レベルやスキルの概念までフル活用すれば説明の大半が省略できるようになった。
ファンタジー世界の住人だけで進めると「そこに魔法があるのが当り前」 「そこにモンスターがいるのは当たり前」なので説明台詞を入れられない。読者向け解説が手軽に欲しいとき、異世界転生したから現代人の感覚を持ち込んで問答できるのは超便利。(いまは異世界のテンプレートがかつての時代劇や西部劇と同レベルの共通認識となったので、転生者を入れなくてもファンタジー世界の住人だけで話を作るのも容易になった)
異世界転生以外のジャンル(学園物やお仕事もの、趣味活動ものなど)も普通に人気だし、比較的作りやすい(クレーム回避的な意味で)ので量産されまくってるが、異世界転生ジャンルは20世紀の頃はなかった(少なくともジャンルとなるほど量産されてはいなかった)のもあり、さらに製作費的な意味で実写ドラマや実写映画になりにくくアニメやコミカライズだけ先行してしまっており異質に見えてしまう。
”私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位になおりましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。
――唐詩選五言絶句「竹里館」隷書――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫せしもの)
――大英百科全書の数十頁ページを暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出)
――「カチューシャ可愛や別れの辛さ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家を以て任ずる失職活動俳優の自称「創作」)
――竹片で赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作)
アイデア部分は一部で賞賛されてるけどあんまり面白くなくて、どっちかというと提示されるシチュエーションや展開が楽しい小説です
で、その提示されるシチュエーションですが、未来社会は富裕層の疑似人格AIの計算のために計算リソースの大半を食われており、そのため技術発展のための計算リソース割当が十分に供給されてないという、ちょっとひねくれた設定のプチディストピアの話でした(はず。20年前に読んだっきりなので)
で、ここんとこのAI社会到来で、この未来予想図が当たってるではないけど、似た構図になりそうだなあと
この話は、AI自体が実際にどこまで使い物になるかはあまり関係ないです
「AIは使える、人間より使い物になる、人間をもう超えてる」という社会認識が共有されてるか否かが重要です
なんなら宣伝しまくって「AIは素晴らしい、AIは使い物になる」と情報操作した結果、実態以上に社会に認められるのでもOK
AIが准人権的な権利を法的に認められるかどうかだけが問題になります
現状は、既に細かいレベルで権利を容認する方向に動いてますよね。AIを使って製作した製作物をAI使用者が権利を所有する、といった形で、AIをかませることで権利を得ることを認めるよう働きかける人は非常に多い
実際にAIを使って利益を得るのは人間なのは、この先も変わりませんが
つまり、既存の個人の諸権利の枠組み、鋳型が、技術発展という名目(実際に発展するかどうかは関係ない)で、AI使用者側に細かく細かく食い荒らされてく構図というのが、現状としてある
いや、発展段階だから、この先に法整備されてく、という説明をする人が多いと思いますが、この先の世界経済は法整備は暴力としての実力と金がものをいう世界でしょうから、基本的には大規模資本の要望に基づいた法整備で人間の諸権利の再設定が行われると仮定するのが妥当です
というより、AIという題目は、その実力よりも、20世紀までに積み上げてきた生身の身体をもった人権をいかに再定義し解体していくかのためのツールとして活用されるためにこそ最大限に使用されるのが、今後の見通しでしょう
順列都市では大規模資本家の死後も資本家の疑似人格AI(を運用する団体)が資産の所有権を承継し、その承継の正当性を主張するために人格模倣の計算リソースが膨大に使われてる、みたいな状況でした
これ、経済面で言うとかなり詰んでそうです。資本家AI(団体)は、消費もせず、死んで相続税を払うでもなく、ただ運用して富を増やすためだけに資本を投じ続ける
そういう資本家AIさんが資本の投資効率を最大限に高めましょうとか投資先に提案し続けるわけですよね、自分自身は一切、生身の人間としての消費をせずに
実際のAIの運用は生きてる人間がスタッフとして管理するんでしょうけど、彼らはまあ、自分らの報酬をサラリーマン的に毎月受けとるだけみたいに行動するのが最適解でしょうし
法人という枠組みが今までもそういう仕組みとしてあったわけですが、ここでいよいよ、法人と個人の境目が消えて一体化していく
投資最大効率以外に特に何の目的も持ち合わせてない資本家AI(団体)を中心とした社会構造に再編されてく、現状の資本主義の運用状況が先鋭化してく形ですね
国家がそうした資本の論理に対して抑止できるのかというと、現状で既に国家は負けつつあるので期待できない
そうなると、AIは実用(物理世界での消費や生産)の用途より、名目の用途に合致したほうがいいわけで、AIの未来はますます実用用途から遠ざかりそう
・目茶苦茶よかったし面白かったが特に感想が無い…良すぎて特に言う事…無いっすね感
・主人公女の人のビジュアルで「この人は欲しがり屋さんです!」っていうのがスタイリッシュに伝えられてきてスタッフさんすげえや!ってなった 大ぶりのピアスとかゴリゴリの指輪とか赤色が入った服を多くて着てる・たっぷり布を使ったデザイナーものっぽカジュアル服+前髪短め+短め太め眉毛+濃いめアイメイクがすごいよかった
・この映画を観ただけで少し良い人間になったような錯覚を覚える
・すまんな…極力置き配とコンビニ受け取りにするわ
・知人から「コナン映画みたいな感じ」って聞いてて「ほ〜ん、キャラ映画ってコト、ね…」って若干ナメて観始めてたけど目茶苦茶よかった
・最後のロッカー落書きに魅入られかけアカンアカン!ってなるイケメン君ともう少し時間経過したらレーン「止め」そうな五十嵐さん闇深や…環境がもう深淵なんや…
・(爆弾12 11個の下り理解しきれてないなんて、い、言えないよおっ…!)
・共感したセリフ→「欲しいものは特に無いっすね」からの「そのモチベーションが欲しいっすよ」(物欲はない、あえて言うなら気持ち(概念的な物が欲しい))
ただ、それはあくまで作曲という文脈においてであって、最近よく問題となっているイラストの方はだいぶ事情が違うことは理解しているつもりである。
少なくとも前者では(あまりにも前衛的でない限り)先人が発見した素晴らしいコード進行やメロディ、奏法の一部一部を繋ぎ合わせる場面が多く、結果的に人とSuno AIがやっていることにあまり大きな違いはないと個人的に思っているし、生成AIに対する絵師と作曲家の温度差はここに起因しているかもしれない。加えて、私にとっての作曲は趣味である以上、ほかの人がSuno AIを使うか否かは特に気にせず、従来通り自分の手で作り、実際に演奏や録音をすることを楽しんでいる。
しかし、イラストの生成AIをめぐる絵師と「AI絵師」の争いは遠目で見ていても熾烈である。
たとえばAIイラスト製作者のなかには、「あなたの絵はAI学習に使ったので、もう絵を描かなくてもいいですよ」といった心ないリプを、わざわざ絵師本人に送る人間がTwitterにいることを最近知った。
これは生成AIへの賛否にかかわらずシンプルにモラルが終わっていると思う。
査読者が意図的にリジェクトした論文を剽窃したうえで、執筆者に「あなたの論文を自分名義で投稿したおかげで、大学のポストが得られました。これからもサラミにして出し続けます」と、(剽窃行為自体がオワりすぎているが)直接報告するようなものだ。
こういう輩が増えれば、彼らに正義の鉄槌が下されてほしいと願う生成AI規制派もまた増えて仕方がないと言うほかない。
その一方で、一次創作ならまだしも、主に二次創作でインプレッションと知名度を稼いでいる絵師の方が生成AIに反対する姿には、たとえ各ガイドラインを遵守していたとしても、個人的にどこか違和感を覚えてしまう。これはとりわけ、オリジナリティも一緒に問題とされた場合に、より強くなる。
確かにイラスト生成AIと違って、誰かが何年もかけて会得した画風をそのまま盗用しているわけではないけれど、他の人やグループ、会社が時間をかけて練り上げたプロットをそのまま利用すること自体は、いわゆる「AI絵師」が使う呪文と近からず遠からずな気がしないでもない(これは絵に限らず二次SSも含まれるかもしれない)。これは「共通するテーマに基づいた作品群」というケースよりもはるかにコピー元の輪郭がはっきりしていると思う。
個人的には普段TLに流れる二次絵は本当に好きだし、楽しませてもらっているけれど、反生成AIの方々の動きが半ばデトロイトのアンドロイド狩りのようになりながら「オリジナリティ」についても言及し始めると、人間が一般に、文字通り1からオリジナルのモノを作れるのかどうかについて今一度考えた方がいいのではないかと感じる。
二次創作なら言わずもがな、「オリジナルキャラクター」でさえも、なぜツインテールにしようと思ったか、なぜ八重歯を生やそうと決めたのかといった理由の根源には、(個人の実生活における体験に基づかない場合は特に)別の作品が存在することの方が多いはずだ。
多くの人がいる場所でのモラルのなさ(引用元へのリスペクトのなさ)が目に余るために、公序良俗の観点から規制を求める。これ自体は理にかなっていると思う。けれども、モラルの話とオリジナリティの話は混同するべきではない。混同すると、創作者は創作者で結果的に自分の首を絞めることになる。生成AIだけでなく、人だって巨人の肩の上に立ってきたし、これからも立つことになるから。