はてなキーワード: 煩雑とは
お医者さん以外には関係ない話かもしれませんが、今後専門医制度というのが大きくかわるということでお医者さん近辺は大変揉めています。
端的にいうと今まである程度自由に更新されていた、整形、とか皮膚、とか泌尿器といった専門医を更新する際に勤務実績を付け加える、学会出席だけではなくレポートを課すなどして
更新を困難にして、(専門医を維持するのであれば)ある程度制度に基づいた臨床をやっていかないといけなくするということでしょうか。
内科については結構抜本的に話がすすんでおりまして、今まで内科認定医⇒各科(消化器、血液、呼吸器、循環器)専門医で事足りていたものの
今後はまず総合内科専門医なるものに進化してから各科専門医にすすむという形になるということで大変煩雑になります。
煩雑であっても、患者さんの利益になるのであれば一向に構わないと思うのですが、ここに内科専門医ではなく総合内科専門医という名前にしたところに
どこやかのえらい人の方図がすけているような気がしてならないのです。
というのも、現状、日本全国見回してみれば医療格差は確実に進行しています。某地域では当番病院を作って、あるいはその他の地域ではマンパワーがあって、ACS疑い、脳卒中疑いの患者搬送連絡などあろうものなら
あっという間にチームが参集して血管内治療含めてできるだけの方策を施行するでしょう。ただしそんなことできるのは(国土面積でいったら)十数パーセントにも満たない地域でしかありません。
厳然として、住んでる住所、病院との距離、そこの病院の医者がその日たまたま月に一度の休日だったなんでことで受ける医療の質は極めて大きなブレがあり、僕はこの状況については
国民の基本的人権を侵しているとしかいえないのではないかと考えています。
一方で国民の八割以上が都市圏で行えるような「スタンダード」な医療を提供できるようなシステムを構築するなんて医療従事者の確保からしてむりだし無い袖もふれないし予算なんてどうしてもつきません。人口1万人の町で年に四回起こる心筋梗塞と年に二回おこるtPA適応のために、365日体制をスタンバイさせるわけには行かないというのはお分かりいただけると思います。
そういった「居所」による人権の侵害が現実に存在する中で、それを声高に訴えられる前に、偉い人はわれわれ内科医をすべて内科専門医ではなく「総合」内科専門医にしようとし、また基本領域に総合診療科をつくり
そちらに若い医師を誘導するようきわめて複雑な新内科専門医制度を押し付けようとしているのでしょう。
もしあなたの街に総合内科専門医の先生(専門は神経だけどね)みたいな人が赴任したらとりあえずあの人に相談したらいわゆるテレビでやっているような茫漠としたイメージの最先端の医療につなげてもらえるというイメージをおもちではないですか?はっきりいって大きな間違い。です。
やっぱり初療で各科専門医が見た方が明らかに予後は良好と思います。総合診療科がなんとかみていくということと、各科待機のそろった病院の行う医療を比べれば雲泥の差です。
「総合」にはこんな意味がこめられているのでしょう。何かこの田舎で病気しても「総合」なあの人はなんとかしてくれるにちがいない。それ総合なんだと。残念ながらそんなことは期待できないと思います。
そうやって本来の意味での適切な医療が受けられずに亡くなっていく田舎在住の人たち。彼らの適切な医療を受ける権利を守ることは、現状の保険診療では無理だと思うし
気づかれる前に制度を変えてうやむやに何でも見れますなんて無責任なことを広めてなんとかしようなんてのがえらい人の考えなら、そのとばっちりを食らう現場の内科医はもっと反発してもいいのではと思います。
私は、看板として総合診療をかかげて治療することに大いに疑問をもっています。基本的な内科の力量を持った各臓器専門医が病態や社会的背景、かかりつけ具合などをみて、他分野専門医と相談してそのつど適切な医療を提供すればいいと思うのだが。それより、せっかくスペシャリティーを確立して生きていこうと思っているしょっぱなに、総合内科、総合診療と称して地域の医療格差を押し付けられる役割をはたすのはごめんだ。
非っ常によく分かる。自分も何年も何年も同じような思考ルートでハマっていたし、今も油断するとハマし、ある部分ではまだハマってるところがあるかもしれない。
この現象については、技術書の積み本している初心者への指針について書いた内容が結構参考になると思う。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n156280
「今自分とり得ることが可能な手段を使って、ボロボロでもいいので、最低限の目的(ソフトの振る舞い)を達成するにはどうすればいいか?」を考えることだ。
一番有名で情報が豊富そうな開発環境をデフォルト設定のままで使い目的を達成するために近いコードの前例をネットで散々探して、近いコードが記載されてれば有り難くコピペコードする。
もし目的がとあるライブラリを使って関数1つでできるって情報を得たならば、そこで初めてライブラリの取り入れ方を調べる。分厚い入門書1冊をあらかじめ写経しておく必要はない。あとで目次から「ライブラリの使い方」が辿れれば十分だ。
他のものが必要になったら、その都度必要な道具を追加するし、ついに開発環境の設定を弄る必要が出てくる時があるかもしれない。でもそれはその時だ。今ではない。
どうしても分からないことがあれば、散々馬鹿にしていたyahoo知恵袋に恥を忍んで質問を投げる場面があるかもしれない。女子小学生を装って有名プログラマーに@を投げてみろ。最速で返事が来るはずだ。
トップレベルのソフトウェア開発者ならレイピア+10が最強だと常識のように知ってるけど、こっちはそもそも手持ちのクラブしか存在を知らないし、持ってないが、まぁ小さな冒険はできるはずだ。
こういう必要になったらその時やろうって態度はソフト開発だどYAGNI原則って奴らしい。世界のみんなも悩んでるんだよ。心強いわ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/YAGNI
「目的の達成」それだけが最も大事な約束で、他はすべて余計なフレーバーだ。
エレガントなコード書き方や最新のテクニック、ベストな開発環境、新しい言語の利用などは全て目的達成するためのただの道具だ。初手から天才の振る舞いに惑わされてはいけない。
コピペコードのオンパレード、冗長でミスの発生しやすい古い表現方法、今では話題にもされない開発方式・言語。自分が知っている小さな手段。
今の装備で目的が達成できる見通しがあるならまずはそれでいこう。見通しでわからない部分・足りない部分に気づけば、そこを明るくする方法を探すことをまずは一歩目にしよう。
ボロボロの状態で目的が達成できたそのあと、じっくりとエレガントにすればいい。そして納得の行く仕上がりになったら、さも最初からエレガントだったように振る舞う(重要)
古い増田だが、事務方の人がエロサイト作ったケースが初心者の振る舞いの参考になるかもしれん。http://anond.hatelabo.jp/20101203150748
そして最短距離の測り方・とり得ることが可能な手段が技術力が上がるに連れて変わってくると思う。ソウルレベルが上がってくると、天才の振る舞いが最短距離に対しての合理だと気づく部分がある。
最先端のツールを使えば、人的ミスを減らし、使用するリソースを最小限に抑え、変更しやすく、また問題の特定も早い。それら全てに伴い、なによりやる気が削がれにくくなる!なんと素晴らしい。
Gitのおかげで破壊的な変更も気楽に試せるし、新規プロジェクトフォルダ(7)が何だったか思い出す作業から開放された!(※)
とにかく初手から最新の道具が必要かどうかと言われると恐らく必須ではないし、むしろ単に学習コストの支払いが上積みされて、目的達成への道を遠ざけるだけだろう。
そして支払いの負債が積み上がって行くにつれ、諦める率が上昇していくことを恐れないといけない。そしてついには諦めて亡者化する。
諦めに取り憑かれないためには自分が走り抜けられる最短距離を常に気にしないといけないし、実は回り道して当初気にかけていた天才が紹介してたツールを使いこなすことが結果的に距離を短くする方法だったかもしれない。
回り道するか否か、このバランスの取り方は常に難しいし、自分も未だに失敗することが多い。これどうしたらいいんですかねえ。
まぁ締まらない終わり方ですが、元増田の良き冒険が始まることを期待しています。
so the world might be mended...
※個人でやる分にはGitはソース管理が煩雑で開発効率が落ちてきたなと思ったら入れてもいいし、もちろん入れなくても良いと思う。(でも個人的には入れたほうが良いと言いたい。が、これにも惑わされるな。自分で絶対に必要かを判断しないと亡者化が近づく
一般名はタンドスピロンクエン酸塩で、1996年に発売された大日本住友製薬の抗不安薬である。
このセディールはggったらわかるのだけれども、びっくりするほど評判が悪い。
私はセディールに丸2年ちかく、1日3回世話になり続けた。
途中何度か油断して断薬したりもしたが、
その度に「やっぱりセディールがないとだめなんだ」と反省して飲み直した。
どれくらい飲んだんだろう。700日間飲んだとしたら2100錠だから、21箱?
私はセディールが好きだ。人生を救ってくれたと思っている。とても感謝している。
できれば1日3回の用法が煩雑なので徐放とか開発してくれないかと思っているのだが、
というわけで、ネットにセディール万歳記事が見当たらないと悔しいので、
どうせこの記事も埋もれるんだろうけど、それでも書きたい。自己満足です。
長くなるけど自己満足っていうことで許してほしい。
セディールの話をしているからには、私は抗不安薬を飲まなくちゃいけないような人間だ。
幼い頃はADHDのクラスメイトとセットで爪弾きにされて、彼女の失禁の面倒ばかりみていた。
その後不登校になって自殺未遂して、……まあ波乱万丈に鬱々と生きてきた。
受験生のときに、駿台模試の数学で偏差値103とったことがあるくらい。
他人にはほぼ無関心を貫いていた私も、さすがに驚いた。
「こんなに簡単な問題を解けない人がいるらしい」という方向に。
別に数学自慢をしたい訳ではなく、抗不安薬の薬効を褒めるに当たって
どういったバックグラウンドの患者であるかを説明したいのだが、
数学ができそうなことを書いてみたが、私は基本的にテストが苦手だ。
知らない場所へ行くのも大嫌いで、場所が変わったらただ硬直するだけの人になる。
たまたま前述の模試は知っている予備校の知っている部屋で開催されただけで、
別の部屋で開催していたら多分偏差値なんて40とかその程度に落ちていたと思う。
たとえば「月末に試験がある」とか、いつもと違う予定になってしまったら
食事も食べられないし、部屋の片隅でずっと猫のように丸まっている。
両親はいつも「私に物事を意識させない」ように気遣ってくれていた。
幸か不幸か、観察眼もないし日付や時間もよくわからない人間だったので
騙し騙し手を引けば、何にも気付かずいつも通りに過ごしていた。
「今日は一緒に出掛けよう」←よくあること
「この席に座って問題を解いてね」←よくあること
で、誤魔化すことが可能だった。
子供だましのようだが、子供だましが看破できないからASDなので仕方がない。
しかし、そんな風に一から十まで他人に面倒を見させる訳にもいかないだろう。
大学受験の段階で、かなりムリがあったと思う。
一般企業で働くのは無理だと気づいて、手に職をつけさせようとしたのだと思う。
という訳で、向不安薬の存在をはじめて意識したのは、大学の教科書の上だった。
そのとき、私はまだ精神科や心療内科の世話になったことはなかったのだが
セディールが、セロトニン5-HT1A自己受容体に部分アゴニストとして作用するとか、
受容体が脱感作してダウンレギュレーションを起こすことは何となく印象に残った。
他の多くの抗不安薬はGABAa受容体のCl-透過性をどうの、という作用点なので
「あー全然違うのが混ざってる、へー」程度だったと思うが。
まあいろいろあって、職場を追い出され、実家でもちょっとトラブルが起き
元々神経過敏であった私は、あっという間に鬱っぽくなった。
あくまで「鬱っぽく」だ。
適応障害と言われたが、私の問題は適応障害云々とは別のところにあった。
そりゃ何もなくても泣き出したりしたりしたけど。
ご存知の方もたくさんいらっしゃると思うが、
物音も人間の気配も何もかもが耐えられなくて、
外出してみたものの、机の下に隠れて出られなくなるような有様だった。
ちなみに、この時点でカウンセリングやテストを受けて、ASDが正式に発覚した。
また、これもよく知られていることだが、
私もその系統で、鬱や適応障害に投与される抗不安薬がほぼ使い物にならなかった。
たとえば、メイラックス(ロフラゼプ酸エチル)という薬がある。
成人なら1回2mgで1日1回服用の、長時間作用型の穏やかな抗不安薬だ。
高齢者などで1mgで投与されることもある。
1mg飲んだところ、2日間に渡って朦朧状態、ほぼ40時間ぶっ通しで爆睡した。
メイラックスは比較的コントロールできるので今も世話になることがあるが
初日に0.5mg(1mg錠を半分に割る)、以降1日おきに0.25mg(1/4に割る)。
この使い方は、自分の体感を頼りに半減期などを考慮して自分で計算して決めたものなので、
他の薬の感受性が高い人が同じ容量で効果を得られることなどを保証するものではない。
飲んだら千鳥足、からの爆睡。半日以上目が覚めない、そればっかりで、
とてもじゃないけれども、外に出ることを前提に使えたものではなかった。
なお、三環系や四環系、SSRI、SNRIなどは未経験である。
かろうじて大学だけは卒業したものの、卒業したところで私は立ち止まった。
そのまま部屋の外に出られなくて引きこもって終わる可能性も覚悟した。
そんな時に処方されたのがセディールだった。
効果は薄いかもしれないけれど、と抑肝散と共に処方されたそれを見て、
そして、こいつに即効性はないはずだ、と引きこもりの頭で考えた。
知らない。知らないけど、俗に作用発現に2週間と言われているということは、
とりあえず長く見積もって1ヶ月、高コンプライアンスを維持しよう。
とかなんとか。
目標は抗不安効果ではなく、セロトニン受容体を殴ることだと割り切り、
効果の体感がほぼない分、服薬忘れに細心の注意を払ったと思う。
で、2ヶ月くらい飲んだ頃、正直、「あんまり効果ないな」と思った。
依然として不調な時は不調だったし、
そこで面倒になった私は、薬のなくなるタイミングで勝手に断薬した。
2週間くらい放ったらかして、何だかイライラする頻度が増した。
落ち着かない感じというのだろうか。
その時にはすっかり忘れていた強迫行動がぶり返した気がした。
ベンゾジアゼピン薬の消費が増えかけたので、
その時即効性を感じた訳ではないが、数日後にぴたりと強迫行動は止まった。
日付感覚がないので、カレンダーにメモする癖がついていたせいだ。
そして、しばらくして十分に安定した頃合いに、
その直後はなんともないのだが、
数日するとまた覚えのある強迫行動がぶり返す。
退薬症状でいきなり強迫行動のような特徴的なものが発現したら、
何度か間をあけて飲んでは止め、を繰り返し、
たまに本気で飲み忘れる日も挟んで
カレンダーに出来上がった記録を見て、思った。
なんていう内容をやっていたので、熱心に信じることにした。
頻度は減り続け、今では月に1度も必要ない。
そのうち周囲の環境が変化してよくなったこともあってか、
こだわりも飛躍的に軽減した。
もちろん、今日も私は時計が読めないし、日付はよくわからない。
試験とか言われると倒れそうにはなる。
数字が大好きで、統計データを眺めてひとりでテンションを上げている。
でも、もしかして……?と思うことがある。
数年前より格段に増えた気がする。
「今は『じゅうしちすなわちごじじゅうにふんという時間』なんだなあ〜」と素直に受け入れて、
気にせずスルーすることができるようになった。
思えば、私はずっと怖かったのかもしれない。
歩く時は地面しか見ていなかった。
気づいたら増えていて、気づいたら減っている変なものによって
だから見なかったし、感心を払わなかった。
何歳になってもずっとポケモンを見ていた。
私はたいへん臆病だったのだ。
ところが、その恐怖心が、なんだかこの数年でスーッと、静かに
砂の山がいつの間にか溶けてなくなっているような感じで、小さくなっていた。
全てセディールのおかげかもしれないとまでは言わない。
私が単純に成長しただけかもしれない。図太くなったのかもしれない。
世の中に怖いものが増える、という感覚はやっぱり戻ってくると思う。
最近の私が服薬を忘れる時というのは、何かに熱中している時だ。
慣れ親しんだ恐怖心が平行するように顔を覗かせるのだ。
楽しい気分の時に忘れた時なんて、完全に意識の外へゆくはずだ。
でもそうじゃない。
ということは薬効は100%気のせいではないのではないか、と思う。
私はASDで、薬物過敏だし、普通の抗不安薬で昏倒する体質なので、
ベンゾジアゼピン薬を飲んでも普通に起きていられる人には、セディールは弱すぎるのかもしれない。
セディールは、私のような誰かにとって救世主になり得る良い薬だ。
読んでくれた人がいる気がしないが、もしここまでスクロールしてくださった方が
いたのだとしたら、ありがとうございます。
大日本住友製薬さん大好きだよ。
Ankiに代表される暗記系アプリは受験生が陥ってはならない罠だ。とにかくカード作成が手間すぎる。搾精ならされてみたいかもだけど作成はマジカンベーン。
あれを嬉しがって使ってる輩はおおよそまともじゃあない。重度の安本丹かまともに勉強したことがない仁丹飴かのどちらかだ。
いま声を大にして言いたい。今年の受験生はもう手遅れだが来年受験するそこの君、もう今日からAnkiを卒業しよう。
兎にも角にもありえぬ沼アプリ。はやくしろー抜け出せなくなっても知らんぞー。
海外ミリオネアのクイズ王がAnki活用してたからって凡人が真似しちゃイカン。カード作ってる間に覚えるからなんてたわ言はもう聞きたくない。亀毛兎角の与太話。
手間手間手間。とにかく手間だ。手マンはいいけど手間はイカン。手間暇かけてどうすんの。
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最も効率良い暗記法は、復習タイミング管理アプリの活用ではなく、参考書への直接の復習タイミングの記入である。
つまり所定の日数前の所定の記号がつけられた事項を復習し記憶度に応じて記号を更新する。これが概要だ。
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復習タイミングは初見の直後、翌日、7日後、30日後、90日後の5種類。「正」の字を使って欄外にタイミングマークを記入する。
簡単のため、5つのマークをm1, m2, m3, m4, m5とする。また、昨日、7日前、30日前、90日前のことをd-1, d-7, d-30, d-90とする。
つまりこういうことだ。何か覚えたい事項があればそこにm1の印をつける。そして一区切り勉強したら直後におさらいし、m2の印をつける。
また、毎日復習のためのまとまった時間(寝る前が最適)をとり、学習記録でd-1, d-7, d-30, d-90の学習範囲を確認し、
該当範囲をパラパラとめくりながら、それぞれm2, m3, m4, m5の印がついた事項を復習する。そして、記憶度に応じてタイミングマークを更新する訳である。
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飲み込みの早い人は以降の詳細は読まなくてよいが一応アプリ好きの粗チン野郎と粗マン女郎と犬畜生も対象としているので運用ケースを説明しておこう。
マークの更新は基本的に番号をプラス1する。m3ならm4になるという具合。ただし理解が良好なら飛び級しても良い。
また理解が不良なら覚え直しとしマークの筆順の最後の画を二重線にする。ここではm3'等と表記する。m3は7日後の復習だったがm3'は14日後の復習だ。
マークの視認性や復習の煩雑さを考えて覚え直しは1度までとする。また、諸般の事情でm1,m2の覚え直しはしない。
つまり、毎日復習すべき範囲は先述のものに加えd-14, d-60, d-180だ。
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悪いことは言わないから行った方がよい。つーか、行っとけバカ。理由は、「それが『親戚づきあい』だから」。
あなたが、その親戚の集まりを回避したい理由を、あなた自身が完全に理解しているかどうか、ざっと読んだだけでもいろいろ想像できるが、そこはあえて問わない。それよりも、切実にあなたが考えるべきことがあるのだから。それは、親戚づきあいというのは、儀礼化するほど簡単になり、儀礼を避けるほど煩雑になるという事実だ。年に一度五時間で済む、というのは、おそらく現時点で「最も儀礼化された簡単な親戚づきあい」なのだ。
あなたは、正月のその5時間以外の機会に、祖父母宅に行ってきなさいとか親戚づきあいを強要されたりしたことがあるだろうか? 多分ないのだろう。年に一度のそれが、黙って逃げ出すほど苦痛だというのは、多分そういうことなのだろう。逆に言えば、「年に一度の5時間を付き合う」ことによって、あなたは一年間分の親戚づきあいを免除されているわけだ。そこを考えたことがあるか?
あなたの家の正月のその5時間は、あなたの両親にとって、自分の親(あなたの祖父母)に対して「うちはこんな風にきちんと子育てしてますよ、干渉していただかなくても大丈夫ですよ(ニッコリ」というアピールをするための機会になっているだろうと想像する。あなたの両親も多分バカではないのだから、娘が自分の祖父母とあまり親しんでいないことは理解している、そして、あなたに祖父母周りの親戚づきあいを無理強いしようとしているわけでもないのだろう。これまでも、たぶんあなたの知らない所で
というようなやりとりが何度もあっただろうことは容易に想像される。言い換えれば、あなたの両親は、あなたのためにそうやって親戚づきあいの防波堤を務めてくれているのだろう。だから、年に一度だけ娘を祖父母宅に「見せに」連れて行くのだろう。それをバックレる?
言っておくが、あなたがその時間を「楽しくない」と感じるのは当たり前のことだ。その時間は「あなたを楽しませるための時間ではない」。あなたという存在が、親戚を安心させ、楽しませるための時間なのだ。そんな時間が、あなたにとって楽しければもちろん言うことはないのだが、仮に苦痛だとしてもそれは当然のことだ。だが、苦痛だからといってそれは避けることができる類のことなのか。あなたはその対価を「お年玉」だと思っているが、それは非常に浅はかな考え方だ。この一事だけで、あなたがご両親に大切にされて(言い換えれば充分に甘やかされて)育てられていることが分かる。
あなたが無断で逃走したらどうなるか? 菓子折をもって正直に「娘は来たくないようなので…」なんて言えるわけがない。そんなことを言ったが最後、「心配した親戚一同」が、あなたを探して東奔西走走り回る羽目に陥ること請け合いだ。いとこをはじめ、叔父さん叔母さん、祖父母がみんな、「ぬくぬくこたつで過ごす5時間」を捨てて、あちこち走り回ることになるぞ。場合によったら正月早々警察沙汰になってもおかしくない。高校生の娘が何も言わずどこかに行くというのは、「善良なご親戚一同」にとったら、それぐらいインパクトのあることなんだよ?
それを分かっているご両親は多分、「体調が悪くて寝込んでいて……いえいえ大したことではなくて…」みたいなごまかし方をするしかないだろう。場合によったら、父親が行って言い訳に、母親は「看病」という名目であなたを探し回る…そんな感じになるかもしれない。そして結局別の機会に、また「ご機嫌伺い」に訪問しなくてはいけないイベントが発生するだけだ。なんのかんのと理屈をつけて。だから、年に一度顔見せにいかなくてはいけないのは結局同じだ。むしろ、ご両親にしてみれば、祖父母に嘘は誤魔化さないといけないわ、娘は探し回らないといけないわ叱らないといけないわ、正月だけでなくまたあらためて訪問しなくてはいけないわ、と二重三重に手間である。仮に連絡されたら、警察だって大迷惑だ。それだけでなく、祖父母のお見舞い攻撃、様子伺いの電話攻撃、あるいは、「ひょっとして嘘付いてバックレてる?ような娘を育てた躾失敗疑惑への釈明」まで、とにかく面倒この上ないことになる。両親からあなたへの叱責も、そもそも誰にそんな考えを吹きこまれたんだ、とか、日頃の生活状況から思想状況までつっこまれ、場合によったらインターネット使用禁止とかスマホ取り上げとか、そういう騒ぎになってもおかしくない。お年玉なんてむしろ些末な問題だ(おそらく両親はあなた宛の「お年玉」を預かってくるだろう。そして、あなたは「病気が治り次第」、お礼の電話をかけ、次回の訪問を約束し、そして、両親に伴われてか一人でか、「正月の5時間」以上に苦痛な時間を過ごさなくてはならない羽目に陥ることは確実だ。)
あなたの「バックレ」の対価は、あなた自身よりもむしろ、あなたを守ってくれているだろうご両親はじめ周囲に多大な負担となってのしかかることになる。そうなって初めて、あなたは自分の「責任」が、自分の年玉ごときを対価にできないほど大きい物であることを知ることになる。「お年玉いらないからバックレてもいいでしょ?」ハッキリ言うが、それが甘やかされたバカ娘の戯言にしか聞こえない、というのは、こういう事情だ。「行かなくてもいいんじゃね」という理屈にもし一分の理があるとすれば、あなたが明日から独立して、親も親戚も全て捨てて、一人で生きていくから構わない、と言える場合だけだ。その覚悟がないなら、あなたにこの件についての決定権などない。(こういうことを、あなたの親は面と向かってあなたには言えないだろうから、代わりに言う。)
だから、悪いことはいわない。正月の親戚への挨拶づきあいなど、「儀礼」として淡々とやり過ごしておきなさい。親戚づきあいは「儀礼」で済ませられているウチが、一番平和でいいのだよ。用意した菓子折をもって、親に感謝しながら、殊勝なできた娘のような顔をして、「こないだ見つけたおいしいお菓子、みんなに食べて貰おうと思って買ってきたー」と、ニコニコ愛想を振りまいてきなさい。できれば、大しておいしくない菓子だったりすればするほど、ほほえましさが増していいよ。
KADOKAWAとはてなが共同で、新しい小説投稿サイトをオープンしたそうだ。
小説投稿サイト自体は今時珍しくない。が、公式で定められた作品の二次創作が可能だそうで、むしろ奨励しているように見える。
今まで出版界では、煩雑さ(と、もしかしたら売上げの事情)により、二次創作を黙認していた。
それが、TPPという時代の波により、こぞって「二次創作がなくなっては困る」というスタンスに転じている。
新しいサイトをこしらえて、さあどんどんやってください、と宣っているのだから、乗っかればいいようなものだけれども。
某大手サイトを見てみれば、数えきれないほどの二次創作がアップされている。アニメショップへ行けば、薄い本がいやというほど並んでいる。
男性向けは、絵の上手いこと、キャラクターが魅力的(多くは女性キャラが可愛い)ことが重視され、ストーリーに拘らない短いものが多い。
特に同人誌ではほのぼの系の4コマや短めの話、または山も落ちもないR-18が多く見られるように思う。
女性向けの大きな特徴は、キャラクター単体の魅力でなく、キャラクター同士の関係性、多くは恋愛関係が描かれがちなことである。
その夢を見る力(言い換えれば妄想力)による二次創作は、外野からすれば理解できないほどの熱量がある。
もちろん、男女や作品の傾向に関わらず、考察や本編の補完、シリアス物などの二次創作も多く存在する、が。
一介のオタクとして、色々な漫画を読み、アニメを観てきた。もちろん本家の作品に加えてグッズも買うし、その延長線上に、二次創作の消費がある。
しかし、薄い本を開きながら、スマホの画面を見ながら、あなたは思ったことがないか。
「これ、もう原作の要素どこにも残ってねぇな…」と。
この辺りは、人によってもかなり意識が異なるように思われる。ある男性は「本家じゃないんだから、本家から近いとか遠いとかどうでもいい。原作が全て」という意見で、それはそれで最もだと思う。
逆に、「原作が好きなら、どうしてこんな話を書いてしまうんだろう」と、割り切れない思いを口にするのも、むべなるかな、というところではある。
個人的には、二次創作というのは、あくまで「ファン活動」だと思っている。ある作品を好きになり、自分でもその世界に浸りたい、拡張してみたい、と思う気持ちから、人は絵を描いたり文字を
描いたりしはじめる、のではないのか。
商業ベースに乗る作品は、いや商業ではなくとも、人を惹きつけ、二次創作したいと思わせる作品には、当たり前だが「魅力」がある。
その魅力的な作品の、さらに好きな部分だけを抜き出し、都合のいいように改変し、はては自分の性欲のはけ口にして楽しいか。
見る影もなく可愛らしくなってしまった男性キャラ。何だかやたらとお手軽になびいてくる女性キャラ。そんなものを描いて、読んで、消費して捨てていくのは楽しいか。
慣れない書き方で肩が凝ったから手短に言うと、二次創作界隈って、残すべき文化がどうのとか言うほど高尚なもんだったんだっけ、という素朴な疑問である。
基本的には愛がだだ漏れてるだけのファン活動だろう。本家を超えることはないだろうし、これは本家を超えた!とか言われたらむしろ戦争が起きる。
コミックマーケットは確かに、「何かをつくる」「愛好する」、人の営みの祭典だろう。
参加していて誇らしいし、ずっと続いて欲しい。その中に、二次創作というジャンルも勿論あるべきだ。楽しみたいし、実際楽しい。
でも、
何が言いたかったのか忘れた。たぶん、自分から何か言いたかった訳ではない。
二次創作のことは好きですか。二次創作に大事なものは、何だと思いますか。
物語のことは好きですか。物語に必要なものは、何だと思いますか。
何かとても間違ったことを言っている気がするけども。叩き台のつもりで書いてるので適当に噛み付いてくれていいです。
以上。
私はそのタイプだなあ
だってクレジットカード等の名前の書き換えの煩雑さが家単位の呼称の喪失よりも重いとは思えないし
全員画数が少ないほうにしちゃえばいーじゃんって思ってるよ
離婚したのに夫の苗字のままの女性を2人知っているので何とも言えないなぁ…。
例えばレストランのウェイティングボードで偽名を書くのは自然じゃないですか。
(本名が勅使河原みたいな由緒ある苗字で画数多いし、ちゃんと読まれないし目立つので。田中とか鈴木とか書きます。)
例えばお店の電話予約の時とか、
字の説明が面倒だし、聞き取って書き留めてもらえないので、「田中です」って言います。(両者の手間軽減。)
そんなだから、その延長で適当な苗字と名前をクリエイトして常用しています。
ネット通販とか、実名ブログ(笑)とか、実名SNSとかで使ってるけど、何の不便もないけど。(実名じゃないっていうツッコミ。)
一般人だけど芸名みたいな感じかな。本名知らないリア友達も多いし、そっちのあだなで呼ばれて振り返るし。
自分が気に入っているし、画数も少なくて使い勝手がいいし、すぐ変換されるし。
まぁ、免許証とかパスポートは本名だけど。めったに使わないものだし。
仕事上の名前は旧姓のままだし、つまり3つくらいの名前を使い分けてるけど。
世の中の人が騒いでいるのって本名の部分だけど、本当にどうでもよくない??
@Popculproject
Japan Popculture Awardこと、JPAに作品は192作品集まりました。初めての試み、ガイドラインの煩雑さなど課題も多かったのですが、いっぱい応募があり嬉しいです。残念な作品も正直ありました。そのテーマならきちんと作品仕上げようよ、みたいな。#ぽぷかる
https://twitter.com/Popculproject/status/678533873471328256?ref_src=twsrc%5Etfw
※応募対象は、"「本気で作った」「何気なく作ってみた」「たまたま作った」そんな作品すべてを対象"となっています。 ( http://popcul.jp/popcul5/jpa/ )
ここ( http://togetter.com/li/915065 )からコピペしたんだが、昨日ぐらいから話題になってて、ずっとこのぽぷかる?の関連ツイッター見てるけど、マジクソ。
コンテストの主催者が審査員でもないのにツイッターで、コンテストの趣旨と真逆の発言して撤回しないとか言うのは初めて見たわ。
公式ツイッターで自分の考え書いてるし、神楽くるる( https://twitter.com/kagurakururu )とかいう関係者は何かカット&ペーストされる記事がどうだか書いてるし。
何か艦これとかの同人イベントとかでも主催者が逃げたとか聞くし、同人とかサブカル系のイベント運営ってクソな人間しかいないの?
実際裏側はどうなの?
俺も推薦に入ったところに入社せざるを得ない、選択肢がなくなる状況が嫌だったから、推薦を使わずに東京のITベンチャーに入社した。
地方工学部院卒だと、周りは基本推薦で大手の重厚長大な企業に就職決めるが、自分の様なケースは珍しかった。
留学から帰ってきて、いかに日本人は決められたレールの上を走る人が多いか嘆いていたりしてたので、そこのところはあまり迷わなかった。
ただ自分の力で切り開いていかないと行けない、と腹だけは括った。
入社してからは、エンジニアとしてサービス開発に携わった。学生時代の研究では他の人とソースを共有して開発することはまれだったので、gitでの管理やコーディング規約に基づく実装、設計、テストなど、サービスを継続的に開発し続けるための手法はとても参考になった。プログラミングはできるほうだと自負しており、そこそこ成果を残せたと思う。ただ打ち合わせがとても多いこと、ベンチャーと言いつつ期待していたほど意思決定が早いわけではないこと、1年目の新卒にそこまで裁量があるわけでもないことに不満を抱えていた。
数百人規模でベンチャー気質を求めてはいけない。ある程度成長したベンチャーは、考え方も能力も様々な人がたくさん入社して人が増え、少人数だとうまく行っていたこともなかなかうまくいかなくなる。制度作りをしていかないといけないがまだ追いついていない、という状態だった。
本当に個々の裁量の広さ、意思決定の速さを求めるなら、数人規模のスタートアップだと思う。
(ベンチャーという和製英語はとても定義が曖昧なので、ベンチャーを名乗る会社はやめたほうがいい。響きがいいだけ)
また、速度よりも保守性を重視して書かなければいけないところに少しモヤモヤを感じていた。研究では、いかに効率的で処理コストが低くできるか、といったことをしていたので、本質的な処理を書きたいとも思った。
エンジニアはプライベートでも勉強すべき、という風潮がなにかと話題になるが、自分で未来を切り開いていくためには必須だと思う。なので外部の勉強会に行きまくり、刺激を受け、とても刺激を受けた。こういうのは地方だとほとんど経験できないので、これだけでもきてよかったと思う。
勉強会はただ行くだけでは、刺激を受けただけで意味がない。なので勉強して発表できるようネタを作り、発表を繰り返した。
そうしているうちに、勉強会で知り合ったとあるスタートアップのプロダクトの開発を手伝うようになった。
自分の方向性とも合いそうだし、なにより面白いプロダクトで、貢献したいと思った。
結構きつかったけど、充実感があり、また身に付けたい技術を触ることができていたので、楽しかった。
また勉強会の露出の効果があって、イベントの技術スタッフとして呼ばれることも出てきて、いい時は日給10万くらいもらってた。
そんな感じで実力も自信も付けてきた頃に、スタートアップでフルで働かないかとお誘いがあった。
もうやめる気でいるときに、研究開発部の長から引き止められた。
かなり積極的に外部で活動してきたことが評価されていたらしく、以前から興味を持ってくれていたようだ。
その部署には、自分が尊敬している研究者がいて、前から気にはなっていた。
その人の元で働いてみないか、と打診された。
自分のなりたい将来像を考えた時、どちらがその能力を伸ばすのに適しているか、ひたすら考えたところ、残るほうがいいという結論になった。
ざっくり言うと、エンジニアよりリサーチャーのほうが性に合っていた。
会社名義で記事を書いて何度かバズって、中央省庁から問い合わせが来ていろいろ繋がったり、海外からなにか協力してできないか、とメールが来た。
業務で学んだことを生かして個人ブログに書いたらすごいバズって、仕事で会う社外の人が皆知ってくれてる状態になって仕事を進めやすくなった。
その後は、裁量を与えてもらって自由に研究開発を行っている。任せてもらっている以上、もちろん成果は出す。
入社する前に思い描いてたよりはるかにうまくいってしまったのだが、要因は、社外での活動を積極的に行い、社外認知度を上げたことだと思う。
社名がなくても、個人で仕事が来るくらいになること。
いくら社内で認知されようと、仕事ができようと、それは社内でしか通用せず、社外に出ても通用しない可能性がある。
高学歴なら大企業行っとけ。可能ならリクルートに行け。できるやつはどこにいても出てくる。転職しても前職が大企業だとなんだかんだ説得力がある。もしお前に実力がなかったとしても、大企業ならある程度寄生できるだろう。
ガチのスタートアップは優秀で即戦力な奴しか採らないから、学生時代にIT企業でバイトでもしてない限り新卒じゃ無理だ。
ベンチャー気質のIT企業入って、外部勉強会に参加しつつ何年か修行したあとに行け。参加するだけじゃ何も起きないから、発表しろ。
のかって分かりかねるよね。分かりかねるってのはアレだ。今俺が見ている景色がそれはそれはまったく何だ・・・非実在的な差・こkれをよみがえらせるのは、真の知っていうかでしかないわけで、結局人間は馬鹿なんだ、馬鹿だから場にぬなるだぶるすたんだーとって言葉を知ってるけれど、ソレに十雨中にしにして近いこごいn、、・・・・・あ。あ、わかりはじめた。今俺がいるアパートの一室、でもさ、それは結局この世に生を受ける、また人間の創りだす価値でしかこの世は判定さんでい出来ないわけで、オレの幼少期を思い返してみると。。。そうだな、オレが他人を省みているようで顧みなくなったきっかけは、やっぱり家庭環境なんだろうな。価値観、俺の家庭が持つ価値観。価値観もまた遺伝子のように伝承されるものの一つであり、それは俺も例外ではなく、そう価値観を育まれた。内向的だったなあ、幼少期の頃から、幼少期の頃から、人の顔色ばっかり伺っていた気がする。人の顔色を伺ってさ、両親の顔色、今日は喧嘩してないかな?とか?祖父母との軋轢はないだろうか?とかさ、子供の頃から気をつかっていたね。幼少期から育まれた性根なんだよ、。結局。三つ子の魂百までっていうけどまさにアレだ。俺ははみ出せなくなったんだよ。自分のカラから。何をやるにも、周りの顔がちらつく、両親や親類の顔がちらつく、。俺は俺が俺を俺たら占めていると思っていたけど、違うんだ。俺は結局、自分がないんのではないか・・・・・自分を足らしめるための自我が芽生えていないのではないかという気がしてならない。本当は実現したいこともあった。でもできなかった、ソレは俺の怠惰が産んだ結果かもしれないと同時に俺の心を縛る何かが、また。何かがあったんだ。俺の俺の心情には、幼少期から学生時代に成長して、思ったよ。俺は俺をさ、俺たら占めている、そんな気がして無かった。人の顔色が、社会の目が俺を狭くしているんだった。俺一人がこの社会にいられたら、どんなに楽だろうかと、何度となく考えた。それは馬鹿らしい考えだったけどだs。俺は、俺を俺であるために俺から俺を俺から開放する、そんな時分の中のアクションgあ必要だと、何度となく思ったよ。俺は俺を俺たらしめるものが何もない、てって、社会的にも精神的にも肉体的にもまたはそういう実存的な概念でもってしても、俺って一体俺なんだろうか。俺は俺であるから俺なのだろうか。俺は俺であるのは本当に俺が俺である証拠なのだろうか。俺が俺を俺たらしめる俺の部分は俺の中のどこのb俺を俺にしているのだろうか。俺が俺らしくらしくsらいく、俺がおれがgrで俺gであるための俺であるためにのおレレの俺rの己が己に打ち勝つための、でもソレは俺が俺であることが前提条件であり、俺が俺であるための俺でゃkぉ俺で俺は実に俺であるとのは誤認であって俺が実阿おrでhなく、俺が己を打ち勝つ俺は俺ではない、俺はが俺でなく俺であるための俺が俺を俺に俺たらしめる、俺たらしめるための俺が折れたら占めていなかった。結論的にはどうなんだろう、社会で生きていても、思う子男が多い、俺は何のために、こんなぼんやりと生きているんだろう、ぼんやりとぼんやり働いて、ぼんやりぼんやりと金を稼いて出ぼんやりぼんやりごぼんやりとぼんやり、何をするでもなく、何をするのでも、あk、何が必要なのだろう、承認欲求、承認欲求なのではなあk、て思ったこともあるが、そんな気がしない。社会的成功、社会的な欲求が満たされれば、俺はこんな気持ちにならないのかと言われれば、そうだと言えない、もっと根源的な、本能的な欲求が満たされれば俺はこんな気持にならないのかと言われればそうだと思わない。オレhのなかのもっと、、、人間の核の部分が満たされていないように感じる、そしてそれは人間社会では決して手に入るようなものではなさそうなのだ。非実在的な創作物からえられるものに、それは近いのかもしれない、、、もうすでに思考が、脳が、もうすでに、一元的な欲求では満たされなくなっていsル、気がする。3大欲求や、社会的な欲求、それではもう俺は満たされる気がしない。もっと根源的な、k,、というか、、次元を上げたものが必要だ。。宗教家の求めるソレに近いのかもしれない。宗教家が求めるものが、l超次元的な欲求を満たすものだとすれば、おあお俺が求めているもののに近いのもはそれだ。。超次元的な欲求というのは、、。ソレを言語化するすべは持ち合わせていないgあ、。、超次元的な欲求とは、まさに、現在認識されている次元を超越したものであり、超越するための、、その生きる方法がかるあお確率されていあない。ようにおもれえる。確率に必要な物は、、その、。ちょウ自然的な、もっと、脳髄を脳髄を根本的に揺るがすようあん、心、精神的ん欲求とは、ソレの角の部分を揺るがすような、そうういうも野にちかい。オレhがものも求めるものがもはやそこにしかないのだはないあk.。労働しても高リュうしても3大欲求を満たしても何をしても満たされることがない。。もっと欲求が湧いてくる根源、源泉がそこにはあるのではないか。。。姓名を維持すること、それによてって生じる姓名の根源、は一次的庵ものではあり、ソレを満たすには、また別のソレを満たさなければならない。それを満たすことはソレおwみたすことにつながり、まさに無限回廊そのものだl,満たすことが満たすものを呼び、満たすことがまた別の満たすおmのを呼ぶ、よって、人は、苦心してしまう。ではどうするべきなのかといえば、それはヒットつしかなく、その欲求が生じる、源泉を絶つ、欲求が湧いてくる源泉を満たせばよいのである。。。そしてソレを満たす方法を我々あh本来ならば探さなければならない。kもはや現代社会において、求められる命題はそれしかない。欲求が湧いてくる源泉あh、それは生命維持のための欲求や、社会的な、人間的な欲求とは確実に異なるものだ。欲求の源泉を、源泉が根源的に存在するのは何故か。それすら我々は理解できてイナイのだ。まだ。それが宗教家の言うような、超常的な存在、神や仏、、だと考える、当てはめっるlそういう認識に落とすことあh実に容易なことであるが、それは一種の逃避でしかない。超常的な存在によって、欲求や自身のまた雑然的な現象を説明させるノアh安易であり、もっと断罪されるべき施工方法なのだ。本来、これから、我々あh、原初にもどって、、考えなおさなければならないことは、人間的な、生物的な欲求、それの解消法ではなく、そんな全時代的な方法は唾棄されるべきだ。。我々がこれから求めるべきあ、欲求雨の源泉、精神的、と呼ばれるものに近いものの源泉を求め、そこを絶つべきなのだ。源泉が欲求を生み出しmその生み出した欲求がさらに欲求を生み出していく。源泉が生み出す欲求うは実に一元的なもので、一元的なものがもたらす欲求は欲求を解消されても、所詮一元的なものに、一元的な解消にとどまる、一元的な解消は一元的な解消でしかなく、多次元的な、根源的な、源泉をm,超時限的な源泉を解消するニアh所詮いたらない、。超時限的な源泉を解消するための、その方法は、人打つぃかなく、一つしか存在せず、根源的な、根源的な欲求を解消するための、夜急を解消するための、根源的、源泉的、超次元的、多次元的、超常的、超自然的な、その何かを解消するしか無い、のではある。一次元的な欲求をかいしょうするための現代のメソッド、法本論、それ自体すでに、前時代的、原初的な、人間の実態に沿うようなものではなくなってしまっている。一次元的欲求が社会、人間社会や事物ym出来事などによって実現されたとしても、それは所詮一次元的なものでしかなく、一次元的なものを一次元たら占めているにすぎない、。一次元的な欲求を愚かにも何百回、何千回、何万回とk気の遠くなるほどに実現させようとしている、人間社会、それ自体が誤りにすぎず、我々が目指すべき、自己実現、実現はまさに、一次元的なものを生じさせているものおの根源である。根源は源泉であり、一次元的欲求が生じる、その源泉を我々が、一次元的に解消してしまっていては、所詮、一次元的でしか無いことは明確。発送をかえるための、発想をかえる、それすなわち、欲求の源泉への対処法なのである。欲求の源泉といっても我々あh、未だかつて、それを言語化したり、ましてや認知したりすることはいまだかつて実現せしめたことはない。一次元的な自己実現が生み出す、一次元的ん自己実現あhは逆説的に一次元的な欲求をまた、同時に生み出すことも行っている。一次元的な欲求を解消し、一次元的な欲求を一次元的に解消せしめても、我々人間の構造的には、その一次元的な欲求を認知してしまうことにもつながってしまう。それを潜在的な意識下で我々あh一次元的案欲求のwパターンをmた、また認知してしまうことにもつながってしまう、。つまり、一次元的な欲求を煩雑にし、雑然にし、永久うに沸かし続ける源泉あh、根源的欲求のみならず、我々人間の構造的に、一次元的な欲求を認知し、解消することで、さらに一次元的な欲求のヴァリエーションを増やすことにもつながってしまうことで、一次元的な欲求が生じやすくなってしまっているために起きる、また一次元的な欲求の再生を我々は生きている間に繰り返すに至っている。一次元的よっキュうを我々が解消することがいかに愚かで、前時代的で、後進的な人間のための方法論なのか。。割れ和れはまだ完全に認知するに至っていない。。ソレは我々が現代社会に最適化された人間線を含有してしまっているからであり、人間性がまたは、一次元的な欲求を満たすために最適化されているための弊害、そしてソレは根源的ンは、間違いでしか無いのである。根源的に行って、一次元的な欲求を解消し続ける人間社会は変革が、根本的な土台から変革することが必要なのである。一次元的な欲求を解消し続けても一次元的な欲求は湧き続け、我々が頭を悩まし続けるに過ぎない。一次元的な欲求が生み出し続けリる一次元的な欲求の連鎖は一次元的な欲求を、解消してもまた一次元的な欲求を生み続けるにしか足り得ないことであり、そして自らが生み出す、一次元的な欲求を満たすべくして見たっす、一次元的な欲求はそれ自体が、我々に意味を附さず、一次元的な欲求は我々の認知の限界をたくみに利用した、いわゆる、無限切ろうてきにな、欲求の連鎖でしか無いため、一次元的な欲求を解消し続けいることの無為さが我々は十分に認知、しかしそれもまた、しかしそれおっもまた。、一次元的な認知でしか我々が認知できる一次元的なものでしかないkが、我々は一次元的んことへの唾棄、進歩性を持つべきフェーズに我々あは、ネクストフェーズに差し掛かっているのである。で、だがしかし、だsしがかし、そうはいっても、我々はまだ、全時限的、根源的ん欲求を解消するためのメソッドを持たない。根源的な欲求を解消するメソッドを持たない我々が出来ることは、そろそろ根源的な事象への認知を働かせることが必要なのである。根源的なよっキュうはそれ自体、本当に今現在、後進的な我々が認知できるかどうかは、我々はまだ分からない、根源的な欲求が生じる原因を突き止めることが出来るのは我々には不可能かもしれない。古代より、人間が、アミニズムであったり、様々な超常的な事象への畏怖から生じさせる、神であったり仏であったり、今日の宗教家が言うような、そのような超常的な存在は、我々はいまだかつて認知できていない、。そのような超常的な存在を認知し、逃げこむこと、ある種の逃避行動は容易であるが、我々は次のフェーズに来ている。次のステージは、フェーズあh、根源的な事象の解決だ。一次元的な欲求を解消して、そして、無限回廊に迷い込んでいる時代を捨て去れうべきkなのだ。根源的な、源泉的な欲求は、我々が認知できないだけで、それは、また、三大欲求や、つまらない、人間的、社会的な事物から生じる、一次元的な欲求ではない。一次元tねきな欲求が満たされたとこrであh、、我々が出来ることはただの堂々巡りでしかない。我々が真に、取り組むべきことは、源泉を、欲望の源泉を認知し、ソレを満たすことなのである。我々が必要であり、今後、必要である、そう、必要になる、もの、もの実物、出来事は、源泉を掌握し、我々を次のフェーズへ導くためのメソッドなのである。根源的、厳選的案事象は我々はソレを解消するに至っていない。根源的なよっキュ、う、それはまだ我々の認知科に及ぶに至ってはいないが、、しかいsk,、根源的にはソレをほっ知っている。割れ我が、欲望との闘争の歴史におおいて、必要であるノアh、根源的な欲求をいかに、認知するか。それにつきる。それを仮に、精神的、こころが我々の根源的な欲求の源泉であるとしようl.こころはまさに実態がない、我々の認知科に及んでいない。。こころを満たすものあh、今現在、流通している欲望では案あんあい、ない、先程述べた容易、に一次元的な欲望を満たすことは現代、人間社会で容易なことである。、それは3大欲求や社会的な、精神tねき充足に近いだろう。。そのようなつまらない、後進的で、憎むべき、唾棄すべき、事象はもうすでいnに我々あh手放すフェーズを迎えている。こころを満たすべき事象、こころを満たすべき事象は何に依るのだるか、だろうか。それは一時的な充足をすべて捨て去った。現代の宗教家が実行しているもののさきにあるといえるかもしれない。または、一時的な欲求を解消し続けた先に、いつかおとずれる、根源的な欲求を絶つフェーズへ我々あh訪れることができるのかもしれない。あるいは、もっとなにか、脳髄を揺さぶるような、脳幹をぶん殴るような、そんな衝撃が、精神的とも、身体的とも違う、そういうインパクトを我々あhどうにかして体験する必要があるのかそもしれない。そして、それは天啓に似た、それは気づき、根源的な、もっと、なにか、、。気づくことが必要なのかもしれない。。我々が持っている視点、認知では認知で起案い。。出来ない。認知を超える、あるいは認知を広げる、または認知の裏側にある、ソレを我々は認知することで、それこそ、根源的な、源泉的な、欲求、あるいはそれともまた違う、なにか、現代、現状、人間にhにはい。認知でないん、何かを認知するに至るのかもしれない。進歩的な、その知を我々が獲得するために派、現代を捨てる、執着を捨てる、そうsれは知のカタストロフィーである。それが、革命が必要なのだ。現代我々が、論じる、認知するっもの、知は、真の知へとは至っていない。としかいいようがない。。物量的観念的な充足、それはもう満たすことが可能なのであり、。それを我々はもう100年い所以上、、異常く、以上繰り返してしまっている。本来必要なのは、次のフェーズへ行くことダリ、次の知、知覚、認知は我々が1000年先の人類、10000年先の人類が獲得しているものを、我々h日進月歩で獲得しようとしている。真の知、というものは確実にそんな良い、、お、存在し、ソレは、現代社会、我々が、唾棄すべき、人間の一次元的なもの、そrは1000年後の人間にとてじゃは、非常に視野の狭いもおの、認知に至っていない、あらゆる観念が、我々あh100年後1000年ご10000年後「のために、認知に至るための準備をはじめなければならない。一次元的な欲求、認知は我々がすでに、うんざりするほど、まとわりついている一次元的な欲求は、早々に放棄するべきものである、それからまず、認知し、日進月歩的に個人個人が、一次元的な欲求を捨て、根源的な欲求、根源的な、源泉的な欲求をそうそうに突き止める必要がある。。。それは100年後、またh1000年後の人間にはアタリマエに認知されているもの、そう私が信じているものnにほかならにあない、人間なh、科学技術のみで進歩的、人間的な充足を得られるというのは、ある種の現代社会に蔓延する嘘でしかなく、本来我々が求めるものは、科学や産業、技術にはない。それらが我々に与えるもの、我々を救うものは、しょせん一次元的案欲求をでしかなく、それは今現在語られるつまらない愚かな、欲求のためのツールでしかない。我々が、本来求めるべきは、現代社会、に最適化されることではなく、現代社会に最適化された、欲求、身体的、精神的欲求ではなく、本来我々が求めるべきものは、それを超えた、ソレの下に埋まっている、またhあ、。ソレの裏側に潜む、または、それに内包されている、我々があいまだ認知下におくことができない、根源t気、源泉的な、欲求、または欲求とはまた何かの概念的な観念のを我々は更生のために、更生のために後世ために残すべきものであり、それは個人個人の意識ないから、進歩、進捗が行われるべきものにほかならない。一次元的な欲求は100年、1000年後の人間のコミュニティでは、それhあ、それはすでに実にチープな概念へと堕落していると私は確信を持って言いたい。。100年後1000年後、我々が途方も無い科学ギジュつを手に入れるか、それは、現代社会の病理のひとうつで一つである、一次元的な考え方であるが、我々が本来、欲するべきものは、必要とするべきものは、ほんr内は、本来は根源的な欲求、源泉的な内面、人間という存在が認知で規ていない、認知へ踏み出すことであり、それは100年後1000年後にはアタリマエになっている認知なのである、。我々あhまだ、それを見ることhおろあか、認知することができていない。それは我々の目の前にあるかもしれないし、考えもつかない、超次元的な認知下にあるものかもしれない、あるいは、常識、認知、知を混ぜっ返した裏に潜むような、今世では手に入れられない、真の知ともいえるだろう。宗教家が言うような概念の偶像化、は。教義化は我々の頭皮だ、逃避だ敗北なのだ。100年後、10000年後の人類、とも呼ぶべき我々の次のフェーズである存在が見れば、まさに嘲笑に附さずにはいられないような、後進的で全時代的な、そんな概念、我々が本来追い求めるべきものを放棄して、自ら目をそむけるような、そおようlそのような社会のあり方では、我々に待っているものあh破滅、あるいは、なにかもっと恐ろしい物がわれわれに待っているだろう。一次元的な欲求が我々に与えているものの本質は、破滅、破壊、終焉なのだ。。k我々が闘争するべきあh、経済的な、社会的な、政治的な、科学的な、技術的な、創造的な、文化的な、対人的な、そんな、ものではない。それらはすべて、現代社会をこうせいしている一次元的な事象でしかない、我々を惑わすものの一つでしか無い、100年後1000年後の人間がそのようなものには、おそらくkく、精神的な肉体的な充足を放棄しているだろう。超常的な存在、超自然的案存在、それらが存在するのかというう愚問、我々が、我々人類の中にこそ、認知の次のフェーズへの全身こそが、我々を真の人間、真の知へと導くものにほかならない。」l。人間との闘争、人間内の闘争を諦めることは非常に危険であり、我々が漸進的ことを及ぼす必要がある。。 Permalink | 記事への反応(1) | 01:45
無いけど、戸籍とかいろんな制度とか、多方面から離婚の事実を突きつけられ、また手続きの煩雑さに、簡単に言うと疲れてしまった。
食欲も落ちたし、人と会うこと・連絡をとることが億劫だったし、少しずつ笑顔も減って無気力になった。
そんな時、大物有名人の結婚やら一般の人の素敵なプロポーズを紹介する番組やら身近な友人の結婚や出産報告が重なった。
喜ばしいことだし、素敵な話だなって思う。
僻んでるわけじゃない。
でもそういう話を聞くと「自分は上手く出来なかったなぁ…」と、なんとなく寂しさを感じる。
それを友人に話したら「あなたより不幸な人はたくさんいるんだし…隣の芝生は青く見えるっていうけど、人間ってよく深いよね」という話になった。
いやそんなに羨ましく思ってるわけではないんだけどなぁと思いつつ、もうそういう会話すら面倒くさくなって何も言わなかった。
今の自分が恵まれた環境にいることは十分理解しているつもりだった。実家を頼れることも、保育園が見つかったことも、仕事が決まったことも、一応養育費と慰謝料も払ってもらえることも、随分恵まれていると思う。
先述のような寂しさを口にすること自体いけなかったんだろうか。
「あなたより不幸な人はたくさんいる」ってよく聞くけれど、なんかモヤモヤする。「今ある幸せを理解する、受け入れる」だけでいいと思うんだけど、なぜ他の不幸と比べられ、そんなこと言うなって言われるんだろう。
消費税の優れた点は
軽減税率 | 所得によらない一律給付 | 給付付き税額控除 | |
---|---|---|---|
概略 | 所得の低い者ほど支出に占める比率が高い特定品目の税率を下げる | 所得による区別なく皆に同じ額のお金を給付 給付付き税額控除の特殊な場合ともみなせる | 所得の低い者ほど多くのお金を給付 |
逆進性改善度 | 極めて小 | 中 | 大 |
コスト | 極めて大 | 小 | 中~大 |
コストの中身 | ・レジの新調や事務負担増 ・仕入れと出荷の税率が異なり得るため、仕入税額控除の作業が煩雑化 ・特例処置など他の制度との整合性を取るのが困難 ・インボイス導入が現実的には不可避 ・軽減税率入りへの業界のロビー費 ・軽減税率品目の恣意性、政治的コスト ・ラムゼー税率から乖離することによる資源配分の非効率化 | ・本人確認および振込先銀行口座の登録 | ・本人確認および振込先銀行口座の登録 ・所得把握のためのマイナンバー制度導入 ・所得の捕捉漏れ ・どの程度を低所得とみなして給付を増やすかの線引の恣意性、政治的コスト |
特記 | ・古くから消費税を導入した国では多く採用 ・消費税内で完結するため逆進性対策が採られていることが分かりやすい ・食品を持ち帰れば食料品扱いで軽減税率、店で食べれば飲食サービス 扱いで高い標準税率が適用などといった分かりにくさ ・生活必需品に限るにしても人によって生活必需品が異なる ・最大公約数的な生活必需品を絞り込んでの軽減では、適用範囲が狭く なり逆進性改善度がさらに低下 ・新しい商品の適用が遅れる ・先行導入国の事例検証から、近年では避けられることが多い | ・定額給付金で先例があり事務はスムーズ ・期初に給付を先払いすれば手元流動性に余裕ができる | ・フロー所得は少ないが貯蓄は多い、引退世代まで優遇してしまう ・期初に給付を先払いすれば手元流動性に余裕ができる |
ポイントは
さらに
所得階層別の軽減税率で浮くお金 http://anond.hatelabo.jp/20130121134436/
社会保障改革に関する集中検討会議(第九回)(資料3-7)参考資料 http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/syakaihosyou/syutyukento/dai9/siryou3-7.pdf
消費税増税時の逆進性・低所得者対策のQ&A http://www.dir.co.jp/souken/research/report/law-research/tax/12061901tax.pdf
食料品等に対する軽減税率の導入問題 http://www.nta.go.jp/ntc/kenkyu/ronsou/46/takada/ronsou.pdf
【図解・行政】海外の消費税の軽減税率 http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_pol_seisaku-syakaihosyo-zei-kaikaku20120507j-06-w310
消費税の逆進性とその緩和策 http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol9/management/18_tashiro.pdf
消費税の逆進性とその緩和策 http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/pdf/j41d03.pdf
消費税の逆進性対策を考える http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/pdf/j40d02.pdf
消費税は本当に逆進的か http://www2.osipp.osaka-u.ac.jp/~kohara/shohizei.pdf
消費増税議論(その2) http://diamond.jp/articles/-/15386
歳出だけでなく歳入(税制)にもある「ばらまき政策」 http://diamond.jp/articles/-/24255
消費税の軽減税率に反対すべき5つの理由 http://www.anlyznews.com/2013/01/blog-post_9526.html
軽減税率は世界の潮流でない http://agora-web.jp/archives/1512548.html
日本の所得再分配―国際比較でみたその特徴 http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis180/e_dis171.html
http://anond.hatelabo.jp/20150903155746
15年前くらいに、高校中退した者です。
親が説得できなかったら、奨学金など、他の手立てを頑張って探そう。
留学の手続きは本当に煩雑だけど、今すぐ取りかかればきっと間に合うよ。
今シニカルに構えるでしょう、で、多少マシな高校行けば状況違うかな、って少し思うでしょう。
全然変わらないよ。
失望が色濃くなって、ますますシニカルになって、けど周りはバカばっかりに見えるから、どんな助言も適当にあしらって、そうすると、ただでさえ薄い、自分のしたいことを、自分も他人もどうすることもできなくなって、しだいに何者でもない自分が嫌になって、自己嫌悪ばかり増していって、あっという間に輝かしいと思ってた十代は消え失せてしまうよ。
それは私のような怠け者で、馬鹿者で、皮肉屋の末路であって、元増田はそうならないと信じてるよ。
あれはもともとは国民皆兵の思想を植え付けるためのシステムだよ。
学校などで、他の人と協調することで学ぶことがある、という人が確実にいる。
それは正しい。
十代なんて、めいいっぱい自意識を高く、それに合わせて身体も飛び回らせて、かつ、性格は、ものすごくイヤ〜な奴でオッケー。
そのうち自分の嫌なやつさは、ある種の発達の遅さだということも、無理矢理気付かされることになるけど、そんなのをわざわざ自分から味わおうとする必要はなし。
・それができなきゃ元増田は私のように十代ムダにしてしまうかも
以上です。
私も、大変遅ればせながら、30歳直前にして、ようやく身体を飛び回らせてみよう、と思っている。
追記:
トラバもらって見返したら、たしかに海外万歳のめちゃ頭悪い文章で恥ずかしくなった…。
なんでもいいから、手っ取り早く分母を広げたほうがいいということが言いたかった。
万能感からでも劣等感からでも、現場に行き詰まりを感じたら、赤ちゃんレベルで扱われるようなところにいって環境をリセットするのがいい方法だと思う。
特別やりたいことないなら海外がいいのではないか、ということだったが、先走ってしまった。
でもそれなら、プログラミングでも起業でもなんでもいいのかもしれない。
とても自分の能力では敵わない!と思える環境にいると、自意識について考えるヒマもなくなって、元増田の才気がフルで活かされると思うよ。
連打キャンセルとは?
ストリートファイター2シリーズは、特定の小攻撃に限り立ち→しゃがみのモーションを切り替えながらの連打ができた。
単発で撃った場合は技の戻りモーションが発生するため、例えば小攻撃の後に発生の早い別の攻撃を持ってきてもつながることはない。(一部の目押しをのぞいて)
それを利用したバグ技として、スト2ターボまで有効だった連打キャンセル同時押し攻撃というものがあった。
有名なものはリュウ・ケンの下小k数発から立ち大pが連続ヒットするというもので、本来下小kから立ち小kにつながるはずの連打キャンセルに対し、立ち小kに大pを同時押しすることで小kよりも大pが優先して成立してしまうというバグだった。
スーパー以降は使えなくなってしまった技だが、連打キャンセルという概念自体は消えていないために、以下の様なテクニックが使えた。
・リュウ、ケンの近距離立ち小kからノーキャンセルで昇竜拳がつながる
立ち小kを押した後、昇竜拳のコマンドを入力し最後の斜め下レバーと同時に小kとpを同時押しする。
リュウ・ケンの近距離立ち小kは本来キャンセルがかからないが、立ちからしゃがみの連打キャンセルが空キャンされるため技の出が早い昇竜拳が連続でヒットする。
ちなみに、ケンであれば真空烈破も連続ヒットさせることができる。
下小kx2からソニックブームコマンドを立ち小kと同時に入力する。
・ガイルの下小pからノーキャンセルでサマーorダブルサマーがつながる
同じく連打キャンセルの原理ではあるが、しゃがみ小pからジャンプ小pへの連打キャンセルが有効になっているものと思われるテクニック。
ただし、内部的に連打キャンセルが有効になっているだけで、ジャンプでキャンセルされてしまうためかジャンプ小pは出ない。
連続小pから連打キャンセルのタイミングでジャンプ入力が成立して、その準備モーション中にサマーが成立するというもの。
コマンド入力としては、下小pを2~3回押した後、目押しのタイミングでレバー上と小p、1~2フレ遅れてkを押す。
サマーを入力しなくてもしゃがみ小pから数フレーム早くジャンプに移行できるため、攻めの戦術としても有効と思われる。
TZW氏が最多コンボで多様していた立ち小p連打から最速ジャンプ大kも、おそらくこの特性が利用されていたものと思われる。
・リュウの下小px2→立ち小pキャンセル真空波動を簡単に成功させる
下小pを2回入力した後、真空波動コマンドを入力して立ち小pと小を同時に押し、ボタンから素早く指を離す。
単純に考えれば、スパコンの成立よりも連打キャンセルが優先されているだけのものと思われるが、何故か小kを同時に押さないと成立しない。
おそらくは先述の同時押しバグをプログラムで無理やり封印しようとしているための弊害と思われる。
技を成立順に並べると以下のようになっているものと予想。
下小px2→真空波動コマンド→立ち小pで真空波動が成立しつつも、小kが押されたことで同時押しバグを防ぐため真空波動よりも小pが優先される→ボタン離しで改めて真空波動が成立する
どれも現役時代には発見されていたテクニックだったが、当時にしては手順が煩雑だったためか実戦で使われている場面はあまり見られなかった。
最近スパ2を題材にした増田を目にしたので、せっかくだからと文字に起こしてみた。
ちなみにこんなことばっかり探していたので対戦は大して強くなけど、久々に誰かと対戦したい!
界隈がゴミすぎて見たくないからテキトーにしか観測してないけど、「あのデザインを評価したデザイナー」だけの名簿を作って流布して「コイツらにはデザインのセンスないです、日本にとって害悪でしまむら以下の連中です」って周知すべき。
連中は美大行ってないし行っててもデザインの基本の授業はサボって受けてないし、受けてても審美眼が絶望的に無い、客観的に美しいデザインというのが見てもわからない連中なんだと思う。うんことカレーの区別つかないんだろうな。
こいつらは、自分の作品見てここをこうすると黄金比から外れるけど安定するし見目が美しいなーとか感じないんだろうな。
そういうの抜きで、シンプルで単純に手抜きして作ったから思い込みでキレイ!とか言うんだろうなって思う。
「作業が複雑で煩雑ですごく大変で結果がシンプル」なのがプロのデザイナーの仕事。
佐野、佐藤可士和、及び擁護クソデザイナーは「作業をシンプル」にしてうんこ出して満足???してるうんこ集団なんだろうなってあいつらの出したウンコ見ると常に感じる。
この間、飲みの席で上司がすごく得意気にこんな話をしていた。
「おれは検索エンジンを使うのが得意だ。お前らの半分以下の時間で目的の結果に辿り着ける」
確かに、この人は検索エンジンの使い方が上手だ。
その時も適当な技術的なお題に対してスマホで検索合戦をしていたが、じじいのくせに確かに周囲より早く答えを導き出していた。
まずは答えというのは疑問とセットになっているはずなので、質問者が使いそうな単語、しかもその質問でしか登場しないような単語を選ぶのがコツだという。
また、聞くところによると検索エンジンはまだまだ文脈に弱いらしい。(文脈自由言語?)
そのため、文章で質問するとむしろ余計な検索結果を導き出してしまうのだという。
もっと技術的な話が出ることを期待していただけに、その場はなんとも言えないしらけ方をしてしまった。
これを聞いて思ったのだけど、こういうのが検索エンジンの進化を遅らせている一番の理由なんじゃないだろうか。
例えば飛行機って便利なはずなのに、未だにライセンスのハードルが高くて、余計な知識をつめ込まないと操縦させてもらえない。
一度事故が起これば精子に直結する問題なのはわかるけど、それにしたってあの計器類の数は無駄に多すぎると思うんだ。
自動化は信用出来ないって考えが世の中まかり通ってるけど、本当は技術投入すれば大半を簡略化できるはずだ。
未だに人の目がコンピュータより正確だとは誰も思わないなはずなのだから。
本当はそこに技術革新の余地があるはずなのに、大きな問題に目を向けるあまり、煩雑でも成り立っていることをよしとしている状況って他にもいくらでもあると思うんだよね。
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さて、僕の住んでいる集落は山村で、四十戸ほど、統計によれば百人ちょっとの人口を有している。
幼児が二人、小学生が二人、中学生が二人、高校生が二人、二十代が二人とかそんな感じが男女を併せた若者の総数。
三十代は僕を含めて十人弱くらいいるかな。あとは世代が上がるほど人数が増えていく。
はっきり言えば大半が高齢者だ。
狭い集落で人間関係は濃く、僕が住み始めた頃、馴染めずに浮いていた。
・
空気はいいし、牧歌的な風景は広がるが、何をするにも人手が足りないからだ。
都市部にいれば『誰かがする』で済む自治会活動も、ゴミ拾いも、消防団も、葬式の手伝いも、生活道の除草も、神社なんかの祭事も、PTAもぜんぶ『自分』でしなければならない。『誰か』がいないのだ。
だから休みの日には早朝からお寺の掃除や、農道の草刈りにかり出される。
大半は老人だから、昼過ぎには体力が尽きて作業は終わるが、今度は酒宴が始まる。
自治会の総会に参加するのが面倒、とかそういう問題ではないのだ。とにかくいろいろな田舎のイベントが開催されるが、これに当たり前の様に参加できるようになるまで僕も数年かかった。このまま、バックれ続けていると、何とも知れんやつという評価が下る。地区内ではいないものとして扱われてしまう。実際にそういう人間が僕の地区にも数名いる。
確かに休日はつぶれるが、それでもまだ呼ばれて参加するだけなら気楽な方だ。
これがやがて、自分で人を呼んで作業するようになると、煩雑なことやストレスが一気に増える。
しかし、同時に地区内での評価が一気に上がる。この辺から、何かあるとかばってくれる人が増え、多少無茶をしても話が通るようになる。
都市部の小学生を呼んで草鞋編み体験でも開催したいと相談すれば、老人が集まってきて指導者を買って出てくれたりする。
作業が減ることはないが、何かやりたいと思えば増やすのは気分次第、ということだ。
そうして僕は休日のたびに何かやっている。平日より休日のほうがよほど疲れ、今の時期だとどんどん日に焼けて黒くなる。
これを老人になっても、死ぬまで続けていかなければならないが、地獄の様と捉えるかやりがい満点ととらえるかは人次第だけど、まあ僕は何とか楽しくやっている。
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毎月1000人程度の行列を従業員4~5人で捌いてたコツを書くよ。
行列の理由:新台のオープンと、あとはなんでかしらないけど毎月ある特定の日に行列ができた。(諸般の事情により理由は答えられません。)
パチンコ屋さんが整理券を配る理由は、開店時間前後に行列をつくると隣接店舗の入り口を塞いでしまうという問題を回避したいとう目的が一番にあります。
そのため、隣接店舗がオープンする前に整理券を配布して、行列を捌いてしまおうとしているのです。
はじめのうちは早朝から並び始める程度だった行列は、加熱していくことで徹夜組を生み出します。
なかには前日の21時、お店が閉店する前から並び始める人もいました。
話題性目的で容認していたものの、ある日おまわりさんからお叱りを受けます。
ピンとくると人も多いと思うのだけど、数年前に突然行列の深夜組に対する指導が厳しくなった時期がありました。
「深夜に起こりえる事故の責任を徹夜を容認している店舗側に求めますよ。罰せられたくなければ徹夜を禁止にしてね。」といった内容です。
遠回しに言ってるけど、深夜にトラブルがあって呼ばれるのは警察なんだから余計な手間かけさせるようなことはしないでねってことですね。
おまわりさんは他にも守らなくてはいけないものが沢山あるので、問題の原因を作るようなことは愚の骨頂。ぐぅの音も出ない正論です。
ちなみに某駅100周年の時に行列を解散させざるを得なかった理由もおそらくこれ。
「行列管理できてないけど、警察に警備でもさせるつもり?責任とれるの?」の一言で駅長のHPはゼロになったものと思われます。
この辺の指導が厳しくなることで警備員の人件費なんて用意できない中小店舗は先着順の行列が実質不可能となります。
それ以外にも、この業界特有の「なんでこんなに人が並んでるの?理由説明して?」っていう別角度からのつっこみもありましたがこれは割愛します。
それでもユーザーはある特定の日に大挙として押し寄せて来てしまいます。
なのに徹夜を容認することはもうできません。
そのため、多くのパチンコ屋さんは整理券配布を抽選という手段にシフトしていきました。
某テレビ番組で徹夜組の後ろに店舗スタッフが並んで、それ以降から整理券配布をするというスカッとする解決策が提示されていましたが行列規模が100人を超える程度になるとこの手段はまず不可能です。
想像してみてください。徹夜で100人並んでる後ろにスタッフがついて、これより前の人は無効ですとされた状況を。
もし自分がその中にいたらあらゆる理由を見つけて自分を正当化するはずです。
店側のスタッフは数名しかいません。その状況で数の暴力に立ち向かうことはまず不可能と思ってください。
結果として数に押し切られた店舗側の人間は、相手のルール違反を容認した上で、さらに自分たちの不備さえ認めさせられる事態に陥ります。最悪の場合、ルールを守った人間すら敵に回してしまいます。
しかしながら、行列管理のポイントはこの正義=量的要因にあるのも事実です。
ここで熱中症患者を量産した某ソーシャルゲームのイベントを思い返してみましょう。
あのイベントが失敗した一番の要因は、限定遥かに上回る人数が押し寄せてくることを想定できなかったため、限定数を上回る参加者に対する準備を怠っていたことにあると言えます。
運営陣は、限定を2~3割上回る人間が来て、間に合わなくてくやしー!くらいで終わるつもりだったはずです。
ところが限定数と同等、もしくはそれ以上の人数が集まってしまったことでまず行列管理が崩壊しました。
その上で、もらえなかった人間が一斉に運営側の準備不足を声高に叫び始めたことでルールと正義が逆転します。
さらに状況を悪化させた点は、本来限定だった特典をユーザー全員に配布してしまうという判断でした。
これによって先着のために払った多くの参加者の労力を無駄にしてしまったからです。
つまりは高いお金を払って準備したイベントなのに、参加者全てを敵に回す結果になってしまったというわけです。
これついて某駅100周年イベントでも同様のミスが見られました。
徹夜を禁止していたにもかかわらず、徹夜で並んだ人間達から優先してしかも時間を繰上げてまで販売を開始してしまったのです。
当然ルールを守った人間からは不満が噴出。その数があまりにも圧倒的だったため現場はパニック状態となり、そこに加えて警察からの中止命令。
結果的に後日希望者全員に販売となったわけですが、高い交通費をかけて現地に赴いたファンはがっかりしたはずです。
さらに豪華な装丁を施したあのカードがもたらした全体の赤字は考えるだけでぞっとしてしまいます。
圧倒的な参加者を前に、少数の従業員でルールを正義するにはどうしたらいいのでしょうか。
方法は単純です。ルールを守った人間が正義になればいいのです。
そうすれば、ルールを守った側の人間が従業員側の味方についてくれることになり、ルールを破った少数派に打ち勝つことが出来ます。
「行列管理やイベントで最も重要なことは、単純でわかりやすいルールを視覚的に内容的にも明確に発信すること」です。
イベントにおける失敗の大半の要因は、ルールがわかりづらい、もしくは視覚的に明確にされていないという点といっても過言ではありません。
逆を返せば、いくら完成度の高いルールでも参加者が理解できない、もしくは参加者同士で共有できていなければ何の意味もなさないのです。
そのために必要なことは、ルールの完成度よりもわかりやすさを追い求めることにほかなりません。
このことは、自分自身、店舗新規オープンの時に1000もの人間を整理券配布のために3時間近く拘束してしまったという実体験によって身を持って知ることになりました。
くわしくは割愛しますが、公平性を厳密に守るために手順が煩雑になりすぎたとでも言っておきましょう。
整理券を配布すると同時に投げかけられた1000もの罵倒は今でもそのときのまま夢に出てきます。
徹夜組に対して言えば、徹夜が禁止であることが参加者全員にわかりやすく伝わること、それにくわえてルール違反に対するペナルティが明確であることが求められます。
その点を曖昧にしておくことによって、徹夜組は自分たちの正当性を理論武装し始めます。そうしていつのまにか同士が集まった時点でモラルハザードが発生してしまうわけです。
ただ、昨今の状況において期待参加者2~300を超えるようなイベントで先着を行なったとして、徹夜を禁止することは弊害が多すぎるため不可能と考えたほうがいいかもしれません。
抽選にシフトするか、容認して警備を強化するためにコストを投入する以外手段はないと言えるでしょう。
某ソーシャルゲームイベントに関して言えば、どこまでが先着に間に合ったかを明確にする必要がありました。それによって、人数がオーバーした上で並ぶか並ばないかの判断が自己責任へと変ることができるからです。
ただし、詳しく調べていませんが徹夜組に対する禁止・容認の流れなどがあったとすればそんな単純な話ではなかったかもしれません。
さて、手前味噌な話に戻りますが1000人の行列をどのように4~5人で管理していたかの話に戻ります。
尚、徹夜が禁止になってしまったため、整理券の配布は抽選で行なっています。
・まずは列の先頭に一人が待機します。
・行列ができはじめると同時に、ナンバリングがされた抽選引換券を配布しながら列の最後尾へと移動し続けます。
・その時点での抽選引換券のナンバリングを確認し、抽選マシンに母数を入力。
・抽選開始時間に間に合わなかった参加者には、特例として配布した番号以降の整理券を配布しています。
この方法を取ることによって、行列に対する割り込み管理を行う必要がなくなります。
そして大事なことは、こうした抽選方法だということをルールとして明確に提示しておくことです。
・抽選開始時間までに来店できなかった場合は、それ以降の整理券を配布します。(ただし、これも5分程度で打ち切ります)
これらを抽選場所と列最後尾に並ぶ人間とにプラカードで持たせることで参加者に明確に伝えています。
この段階であれば、3人程度で捌くことが出来ます。
抽選に間に合わなかったユーザーは、先着順の列に誘導します。ただ、この列も経験上開店30分前で50人を超えるようなことはありませんでした。
つぎに実際の入場です。
・入場開始時間
・整列のための列が100番刻みでできていること
そして店頭には、100番刻みで番号が書かれたプラカードと、そこから伸びる並ぶ場所を示したテープが歩道にはられています。
これによって列は100人までしか伸びず、また整列開始時間が記載されているために、店舗前に行列ができる時間を最低限に抑えることが出来ます。
次にその10分間に集まってくる整理券を持った人間を、該当する番号の列におおよそ誘導します。
この時、全員を綺麗に番号順に並べる必要はありません。前後10人程度なら入場の時に整理し直せるからです。
そうすれば4~5人で1000人を捌くこともそれほど大変ではありません。
人間の心理的にも順番をシビアに守りたいのは100番程度までということが経験でわかりました。
その為、はじめの100人は一人ずつ番号を呼び入場させますが、それ以降は「110番までの方」「120番までの方」とある程度の括りで入場させます。
この時、できるだけ大きな声で番号を叫ぶのがコツです。
面白いことに、そうなると自分たちの番号を参加者同士が確認し始めるのです。
その分、順番をしっかりと整列させる労力を割愛することができました。
それに多少前後してしまったとしても、そのことについてクレームを受けたことは一度もありません。どこかに確認できなかった自分の責任を感じているのかもしれません。
抽選が厳密に行われることがわかれば、徹夜をしようとする人間は居ません。
徹夜組に対する対応の答えにはならないかもしれませんが、SNSで話題が一挙に広がり参加者が大挙して訪れる可能性のある今の世の中では、徹夜禁止の上で先着順というのははっきりいって不可能だと思っています。
コミケの徹夜問題が叫ばれていますが、いっそのこと抽選配布にシフトしてみてはいかがでしょうか。
抽選引換券と、抽選開始時間、入場と整列開始時間、自分たちが並ぶべき列が明確になっていれば、それほどの労力を必要とせずとも数千人を対処できるかと思います。
少しでも早く入場したい人は抽選に参加するはずです。
あとは抽選に間に合わなかったユーザーを先着で並べるための列管理が必要になりますが、それこそそれ以降は先着順の整理券でも配布すれば列管理の労力を入場直前に集中させることができるものと思われます。
都市圏で勉強会やら主導的にしているようなIT大手会社に入ったのだけど、数年働いた結果社内のシステムは作り捨ててしかいないということがわかった。
もし一度作ったシステムで機能が足りなくなったら新しくシステムを作って補う。または置き換えるシステムを作る。
ちなみに後者は成功しない。基本的に失敗して誰が責任取るのかよくわからない形で部署が解体されてプロジェクトがなかったとこになる。
でも大手で現状黒字だから誰も追求しない。景気が良い限り国民は政策に口出ししないという言葉があるらしいけど、株式会社も一緒らしい。
そうした結果どうなったかというと、サブシステムが無数にあるので全体を把握している人が限られ、メンテナンスできない(しない)システムが無数になり、運用コストが増えてユーザーの操作も煩雑になる。
「写メ」という言葉は、今や「携帯電話/スマートフォンで写真を撮ること」みたいな意味で使われるようになって久しくて、いまどき「メールしないのかよ」なんてツッコミは意味をなさないどころか、逆に「は?、何言ってんの?、頭おかしいんじゃないの?、うんこなの?」、とか言われても仕方ないわけだけど、もしも、用途ごとに呼び方を変えるような世界線があるとしたら、それはそれでめんどくさいのかもしれない。