はてなキーワード: 適用範囲とは
資格の参考書には多分例外なく、この本の内容を信じれば合格することを保障しない旨が書いてある。これは答えや解説の妥当性を保証しないという意味もあろう。つまり解説から得られる解法プロセスを信じて試験に臨んでそのプロセスが適用範囲であるはずの明らかな類題が出たとしても、そもそもそのプロセス自体合ってる保証がなく、そのプロセスで解いた結果間違った解答を導き出して試験に落ちることもあり得るがそんなことに対して責任は負わないということだろう。
一方大学受験の参考書にはなぜかそんなことは書いてない。もちろん合格など保障してるわけがないはずなのだが、資格試験の本とこぞってわざわざ当たり前のことが明記されているのに対し、大学受験だと明記されないことに今更気づき不思議さを覚えた。
「やり過ぎは毒だ」って。
「大は小を兼ねる」 「材大なれば用を為し難し」
これどっちも真実でしょ?
極端すぎるものは適用範囲を超えるけど、範囲内なら兼ねることができる。
お風呂の温度にしても10度だと冷えすぎだけど、熱くしようとして100度だったら茹でガエルだろ。
ちょうどいい40度前後が個人差でも選べることができるベストだろうが。
結局世の中の真理はいつも中庸にあってブッダが2000年以上前に結論出した答えにいつまでもたどり着けないのが人類に絶望した。
無味な人生を送れって言ってるんじゃなくて丁度いいお風呂の温度を探求すれば?って話。
でも「熱い風呂は健康に悪い!これからは水風呂だ!」もどうなんだよ。そのあと、どうせ「これからは熱い風呂だ!」の揺れ戻しだろ。
極端と極端は完全な中庸を探索するためのツールとして使われるものであるべきなのに、完全に流行を作り出すためのツールに成り下がってる。
人間の一生がたかだか80年程度でクソ雑魚のせいなのもあるけど、歴史からみて人類は同じことの繰り返しが多すぎだろ。
少しずつ前進してるにしてもいい加減、無意味な極端から極端といムーブメントは卒業してほしいんだわ。
個人か社会か?の話にしたってどっちか偏ったら結局全体の幸福度は下がるに決まってんだろ。
インフラが崩壊したら個人の自由が保たれても幸せなのか?財産持つことが許されないけど子供が沢山いりゃ幸せなのか?
違うだろーが。両方だろ目指すべきは。
そのために限られた時間金労力人をどう最高の配分するかが悩みどころなんじゃねーか。
なんでお前ら大半の思想家や政治家や凡人どもは極端なゴールしか設定できねーんだよ。
1日8時間+αで週5働いて、土日は友達と遊んだり夫婦や子供たちとサザエさん観ながらチャンコ鍋をつつく。
大半の凡人で才能のなく努力もできず環境も味方してくれないのが人間だろ。
大金持ちになりたいとかスターになりたいとか好きなことして生きていくなんて、9割の人間が無理なんだよ。
今の個人主義に偏りすぎた西洋社会では多くの人間が不幸になるし、
かといって東側のように個人の自由がなさすぎても文化的につまらない社会しか作れない。
結局のところ西側は拡大しすぎた個人主義にどこにボーダーを設けるのか、開きすぎた格差をどう解消するのかがゴールであって、
それを語らない思想家も政治家も全部まがい物にすぎない。一部の弱者だけを救済したところで解決にならない。
ポリコレやハラスメント問題にしても何でも極端から極端に走ろうとすんのはやめてほしい。
どうせそのあと30年や50年もすればまた元のファッションに戻っていくんだから。実につまらないよ。ダサい。なんの進化もない。
日本もどうせ人口ピラミッドが解消されはじめた前後でまた家長制度の復権に近いようなことが必ず起きる。
どれだけ否定したところで社会が揺れ戻しを起こすことで回復を狙うから「あり得ない」とか言っても現実として起きる。
あり得なくても隕石は地球に落ちてくるし、人間がどれだけ嘘を信じようとしたところで現実に発生するんだからどうしようもない。
極端から極端に映る過程もロスだし、毎回同じことを繰り返して大して進歩してない反省を得るのも本当につまらない。
歴史が苦手だったのは、こんな昔のイベントや用語を覚えて、いったい何になるんだ?と思ったからだった。
そして、個々の知識が細かすぎて、解くべき問題に結びつくまでが遥か遠い、とでも言うべき感覚が嫌だった。
知識をいくつも覚えて、それらを組み合わせてようやくたった一つの答えがわかる。
しかも、それも知ってるか否かだけ。私個人による創意工夫の余地も無い。端的に面白くない。
それらをもどかしく思っていたのだ。
まとめると、歴史は、覚えることのコスパが悪い知識であり、私個人を疎外する教科だと感じていた。
その点で、数学の知識、つまり、公式は一般性を持つので適用範囲が広いし、私の創意工夫も生かせる。
公式はひとつ覚えれば、多くの問題に適用できるのだ。覚える個数としても、そんなに多くない。
だから、ビジネス書に書かれた格言が多くの応用と工夫の余地を期待されるように、
私も適用範囲が広く、創意工夫できる知識こそが、本当に覚える知識だと思っている。
逆に言えば、歴史のように、ある物事の具体的な事象に含まれる細かい知識、
端的に言うと「トリビア」みたいなものをいくつも覚えることに意味が見出だせない。
世の中では、そんなものを細々覚えていって、物事全体の解決の際に役立つとでも思われているのだろうか?
当然、物事理解の前提を読み解く=問題文を読み解くくらいの知識量は必要なんだろうが、それらの知識が問題解決に役立つと思えない。
問題解決には知識よりも、発想力や計算力=論を組み立てる能力の方がずっと重要なはずだ。
よって、細々した知識の代わりに、ある物事に対して全体的に適用できる「公式」だけを知りたいと思うのだ。
何事でも、公式に当たるエッセンスだけをストックし、その物事に関して生じる諸問題を、
数学の問題のように公式と発想と計算力で処理したいと、個人的には思っている。
新入社員に対する書き物として、同期に対して好意を寄せるな、というのを見た。これが一般的なのかそうでないのかは判別し難いが、世間の流れとしてはあり得る話ではある。
しばらく前に、同一の企業や取引先関係で力の上下関係がある二人の交際がアウトという風潮になった。最近では、上下関係の有無を問わず、同一企業や取引先関係の中での交際がけしからんという風潮になっている気がする。これを新入社員にまで適用すれば、冒頭の、同期に手を出すな、という話になる。
企業内の恋愛が御法度ということになれば、次はバイト先や学校はどうなのかということになる。昔から中高の学内の恋愛を禁ずるロジックとして「無用なトラブルを防ぐ」という理由があったが、これが「セクハラへの予防のため」という理由となれば、反対することが困難となる。予言する。数年で学内やバイト先での恋愛というのは禁止されるだろう。それどころか、恋愛する、好意を抱くということ全般のリスクが問われるようになる。
さて、ではセクハラとしてみなされるリスクを回避できる恋愛の方法はなにかというとマッチングアプリがある。相手に対する好意の有無を登録することができるアプリであれば、「相手から拒否されているのに」というセクハラが成立するための要件を崩すことができる。すでに出会いの手段としてマッチングアプリは主流という話を聞くが、まもなく、出会いや交際の手段としてマッチングアプリが事実上唯一の公式的な手段となるのではないか。
とすれば、リアルな場での交際にアプリが侵食してくることも考えられる。たとえば、合コン、婚活パーティー等では、最初にアプリへの登録が求められるようになるだろう(婚活パーティーはもう既にそうなってるのかも知らん)。また、当初に述べた会社、学校などでのリアルな出会いに対して、アプリでの登録による合意取得、というステップを踏むことによって適法性を得るのが一般的となるかもしれない。
たとえば
みたいなことが増えてくるのかもしれない。
あるだろ。
目的は少子化対策で、不安なく子供を作れることで、具体的には子育てと経済上の競争原理を切り離す事だ。
リスキリング支援というのは要するに、金こそ出すが育休期間にも競争原理を導入します、と公言する事にほかならないんじゃないか。
そもそも育休や育児による時短勤務がキャリアにおける技能向上に悪影響を及ぼす事なんて避けようがないから、競争原理の適用範囲になってしまったら育休中はリスキリングした方が、それよりも育休取らない方が、いや子供産まない方がキャリア上有利に決まってる。
すでに相応のコストを支払って育休を普及させてきた方向性から言えば、育休中は家族と向き合う以外の事をしない方が正しいはずだ。
その間の職務経歴の空隙がキャリア上不利に働いてはいけないし、そのコストは会社や社会が負うのが当然。
・・・という世間的な合意形成を目指しているはずじゃないのか?
それが現時点においては理想論にすぎなかったとしても、少なくとも推進している側の長が育休中のリスキリングを肯定すべきじゃないはずだ。
リンディ栄養学 (Lindy nutrition) とは、「リンディ効果」と呼ばれる法則に端を発した栄養学。リンディダイエットとも呼ばれる。
古くから受け入れられてきた知識や習慣はそう簡単には途切れないということは、誰しもが経験的に知っている。そこには、長く使われれば使われるほど、つまり長生きすればするほど寿命が伸びていくという一種のパラドックスが生じているわけだが、これを科学的に説明したものがリンディ効果である。
リンディという名称はニューヨークにあるリンディーズという飲食店が元になっている。そこでは、毎晩コメディアンたちが集まり公演したステージの反省会を行っていたのだが、その会話の中でリンディ効果の原型とも言える仮説が生み出されたという。その後、大学教授によって現在の形に洗練されたこの法則は、リンディダイエットの提唱者であるPaul Skallas氏の手によって食事、健康、運動などあらゆる分野に応用され、一種のライフスタイルへと昇華された。
リンディダイエットの根幹にあるのは「時間こそが最も優れた判断基準」という思想であり、時間という試練に耐え、古来から生き延びてきた食生活ほど健康上の利点が保証されるとしている。リンディ効果に照らせば、そのような伝統的な食生活は今後も長きに渡って存続することが予想される。これはSkallas氏によれば、人間の消化器官は昔ながらの食生活に適応しているためであり、人間が慣れ親しんでいない加工食品が消費の中心となった西洋社会では、心臓病や糖尿病の罹患率が高まっているという。そのような訳でSkallas氏は、過去500年以内に発明された食べ物や飲み物を口にしないよう勧めている。
Skallas氏によれば、最もリンディな飲み物の一つには「紅茶」があるという。数千年の起源を持つ紅茶は、「ディープ・リンディ」な飲み物なのだ。一方で、コーヒーについては、「比較的新しいが、400年という時間のふるいにかけられたものであり、恐らく身体にも悪くないでしょう」と語っている。
また、20世紀に発明された紙巻きタバコはリンディではないため、リンディな形で喫煙したい人にはパイプタバコが勧められている。運動についても、現代的なエクササイズマシンではなく、ギリシャ神話に描かれたようなシンプルなウェイトリフティングこそがリンディな運動の仕方である。Skallas氏によれば、「ボディビルカルチャーは近代によって生み出されたグロテスクなサブカルチャー」であり、「運動の目的は筋肉増強ではなく、体の中で関わり合っている様々な仕組みの調整にある」のだという。
Skallas氏は、ヨガについても懐疑的な目を向けている。というのも、現代のアメリカ人が行っているヨガは20世紀に発明されたものだからだ。「ヨガは体に良いのか悪いのか、それはわかりません」「リンディは『それをするな』とは言わない。『何が起こるかわからない』と言うのです」
「ビデオゲームは?」
「リンディではないですね」
「大人のおもちゃは?」
「あちこちで犯罪を犯したり虐待する金持ち?とてもリンディです!」
エプスタインの例が示すように、リンディは道徳的な基準を内包しない。それが良いものであれ悪いものであれ、古来から連綿と続いてきたという事実には重要な本質が隠されているということをリンディは教えてくれるのだ。「人間の本質は変わりません」「古代の人々は人間の身体や行動について深く研究していましたが、それらは今でも有用です」
リンディ・ドリンクやリンディ・エクササイズなど様々な造語を作ってきたSkallas氏だが、隔離生活の閉塞感から逃れるために考案した「リンディ・ウォーク」は、中でも最も注目を集めていると言えるかもしれない。
「基本的にはただ散歩するという意味です」とSkallas氏は語る。「でも、多くの古代文化でも散歩は重要な伝統として扱われているでしょう。例えばキリスト教には『安息日の道のり』があります。ギリシャではヴォルタと呼ばれていて、イタリアにも同様の文化がある。これはただ歩くという目的のために歩いているだけなんです」
リンディ・ウォークでは、A地点からB地点へ真っ直ぐ向かうのではなく、目的地を決めず、手当たり次第に曲がることで心を刺激することが推奨されている。「歩いていたら面白いことが起きました。アイデアの波が次々と押し寄せてきたんです。考えようとしたわけでも何かを思いつこうとしたでもないのに、ただ現れてきた。魔法みたいにね」
現在ではSNSを中心にカルトな人気を集めており、大勢の人がリンディ・ウォークの最中に撮った写真をシェアしている。また、Skallas氏のツイッターアカウントも5万人を超えるフォロワーを擁しており、リンディの人気の高さが窺える。
Skallas氏は、リンディが人気を博した一因にはパンデミックの影響があったと推察している。氏によれば、これまで私たちは、人間を「不可侵の存在」だと捉えて楽観視していたところがあったのではないかという。しかし、パンデミックによって歴史上の出来事に過ぎなかった古代の大規模な危機が生じたことで、世界に対する人々の認識が一変。隔離生活の中で「欠乏」について考えるようになり、「人生において本当に必要なものはなにか」と自問するようになったことから、リンディに関心が集まったのではないかとしている。(ちなみに、500年前にも人々はマスクを付けていたことから、パンデミックも「ディープ・リンディ」なんだとか)
(多数説・判例)学園重視説
「ブルアカで抜いた生徒を庇うヤンクミ」の着想は、『ブルーアーカイブ』という作品が、プレイヤーの視点となる主人公が学園都市に教師として赴任し、生徒たちと交流を深めていくストーリー・舞台設定が、ドラマ『ごくせん』と類似していることに起因するものであるから、派生作品の中では、同じく学園ものの要素を持つ「ブルアカで抜いた生徒を庇うウテナ」「ブルアカで抜いた衛宮士郎を庇う間桐慎二」等のみを正統と認める立場。
(有力説)様式重視説
上記学園重視説の視点に加え、「ブルアカで抜いた生徒を庇うヤンクミ」は、『ごくせん』における、周りから糾弾を受けたり、冤罪を被ったりした不良生徒を主人公・山口久美子がひとり庇うという典型的なシチュエーションが踏襲されている、パロディとしての様式美にこそ重点があり、実際の作中に誰かを身を挺して庇う描写が存在するキャラクターでなければパロディが成立していないとする立場。
そもそも『ブルーアーカイブ』をやっていないしなんなら『ごくせん』もそこまでちゃんと覚えておらず、ただ「過酷なオナニー」という謎のワードの破壊力と、2022年に『ごくせん』の話をする絶妙なノスタルジー、やけに上手いモノマネが面白かったのであるから、モノマネが懐かしくて上手ければなんでも良いという立場。