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はてなキーワード: 事物とは

2021-09-15

歴史的事物無視して通る公共交通が大好きだ

日本橋の上を通る首都高速

平城京跡を横断する私鉄

みたいなやつ。

歴史的場所からと立ち入りを厳重に管理されるよりもずっと「生きてる」って感じがして大好きなんだけど、他に無いんかな。

(前者は地下化の予定、後者移設計画があるらしく、そのうち見れなくなってしまうのが残念。)

2021-09-02

賢者歴史に学ぶ」というけど、後出しジャンケンで勝ってるだけでは?

何か悪いことが発生してから歴史上で似たような事例を拾ってきて偉そうな顔してるだけに感じる。

逆に、歴史に無いことが発生した場合は、歴史にどう学ぶのだろう。「想定外」とは、歴史に対する過学習の結果ではないのだろうか。

また、歴史にある失敗が新たな成功の種を潰している(失敗の隣りにある成功を見えなくしている)ということもある。歴史未来を妨げることもあるのだ。

それらのことも語ってこそ、正しく「賢者」は学べるのだと思う。

もっと言うなら、そういう一面的視野に陥らないよう「賢者は何にでも学ぶ」のが正しい。

歴史重要性は、その「何にでも」の一部分としての重要性でしかない。One of them 以上のものはない。

歴史だけを特出しして「賢者歴史に学ぶ」という言い方は、まさに「愚者経験に学ぶ」のと同じくらい、誤解のある言い方である


追記

トラバの通り、この慣用句が誤解からまれたのだとしても、それが人口膾炙するうちは、その誤りを述べ続ける必要があると思う。

さら上記に付け加えるなら、「歴史」は未来事象に直接結び付かないし、その膨大な蓄積を学ばないといけない

(「歴史に学ぶ」っていうけど、あれだけ膨大な蓄積があれば、何かしらヒットするものがあっても当然。

しかし、そのごくたまにあるヒットに掛ける学習コストもったいない歴史コスパで劣る)

という点で、むしろ愚者学習対象とされる「経験」にさえ劣る。

教訓を得たい事象が決まっているのであれば、歴史という膨大な蓄積を学び直すより、その事象に関わる人間経験を付き合わせた方が、効率よく教訓が得られるだろう。

そうやって、過去の膨大な蓄積に悩まされるという点では、歴史若い人間にとって、まさに「呪い」に他ならない。

古い歴史というものが、若い人の経験邪魔をする。むしろ経験こそ、これから未来に直接結び付くものなのに。

から、「歴史を学ぶ意味がわからない」という意識が、子供たちから表現されることがあるのも当然だと言える。

それなのに社会は、歴史を「学ぶ」べきものだと押し付ける。趣味や娯楽でなく、教訓の素材として「学ぶ」べきだと押し付ける。

それだから若者にとって歴史は、スレッドに昔から居るコテハンみたいに見えるのだ。

学ぶべき存在というよりも、理由もない謎のルール押し付ける目障りな存在になってしまっているのだ。

過去がそうだったから。って、その結果は合理的なの?倫理的なの?最善手なの?)

また、遺跡発掘のせいで都市開発が遅れていくように、歴史事物は人々に存在のための負担を強いる。

それのみならず、現代人が生きるための資産子育て支援費用、新しい技術への投資 等)を、歴史事物維持管理費用として食い潰す。

から、今生きる人間のために、残すべき歴史事物を今より厳選していくべきではないのか。

古い建物から、古い遺跡からと何でも残そうとするのは、若者に与える予算を残すために辞めるべきではないのか。

歴史事物押し付けは結局、世代間抗争に繋がるのではないか

まとめると、歴史現代人が生きるための資産を食い潰し、代わりに理由のないルール押し付け、それでいて、後だしジャンケンの道具にしかならない。

から私たちはまず、歴史というものを、教訓事項を得る素材なんかではなく、例えば数学などと同じように、社会から遊離した学問ひとつとして遠目に眺めるようにし、

そして、例えばスポーツのような個人的趣味や娯楽のひとつとして扱うところから始めるべきなのだ

まり歴史価値は、他の学問趣味価値に勝らないのだと正しく認識すべきだ。

賢者歴史に学ぶ」などと他の事項以上に「学ぶ」べき高位のものとして存在しようとするから、様々な批判対象になるのだ。

2021-08-10

anond:20210809205027

こういうのは流れみたいもんだから大丈夫だよ。

規制する方向へと進んでいるのは間違いないけど

ある地点まで行くと逆転して

バカバカしい規制なんてなくそうよ、となるから

色々と物議を醸すことが多い90年代事物が掘り起こされてるけど

あの時代なんてまさにそういう時代から

80年代面白ければいいんだよ、という流れを引き継いでいった時代から

なんか流行りみたいなものがあってある時代自由を求めて

ある時代規制を求めるんだと思う。大衆は。

2021-07-17

私が歴史小説を好んで読むのは「神の視点」を持つことができるから

登場人物翻弄されるその出来事の結末を、彼らにとって未来である私はすべて知っている。

から、彼らが知能と技術を尽くしたその行動の正否を、単なる一個人しかない私が、100%正しく評価できる。

この感覚がたまらなく快い。

社会的有意義価値を持たない自分が、歴史的有名人の行動を逐一評価できるという感覚

から、私は小説の中でも歴史小説ばかりを好き好んで読み続けてしまうのだ。

また、近現代小説ともなると、現在では当たり前に使われる科学技術(例えば、「えてきてる」だとか)に、登場人物が強い驚きを示すシーンも快い。

その人間を強く興奮させる驚きを、自分は既にいつとも知らず超越できているという感覚

またそれは、自分子育てを行っていた昔の、子供テレビやら自転車やら色々なものに興味を示していた様子を想起させる。

でも、歴史というもの自体は大嫌いだ。

歴史は、学問履歴と違って、論理的に発展したわけでもないし、それが人間にとって最良に発展したわけでもない。

それなのに、「賢者歴史に学ぶ」とか称して、歴史自分辞典かなんかのような学ぶべき規範だと勘違いしている。

歴史なんて、アドホックパターンの羅列でしかないだろう。

歴史=暗記科目と思われているのも、ひとつひとつイベントアドホックで、共通項が見いだせない作りになっているからだ。

から歴史が多くの「賢者」に学ばれるためには、もっと一般化した形で表現されるべきだと思う。

まり歴史は暗記すべき物事に溢れた情報形態であることを止め、理想的には数学公式のように、色々な時代フィットできる教訓のような形を取るべきだと思う。

そういう一般化も目指さないで、「賢者歴史に学ぶ」なんて述べる人間は「想定外」という言葉をどう思っているのか。

そりゃ、歴史的情報は暗記に閉口するほど豊富なので、どこかが現代事物が似ていて、教訓が拾えたりすることもあるだろう。

しかし、何か悪い事項が発生したあとで、この教訓はこの歴史的事物からも読みとれる、だなんて言っても仕方がない。意味がない。

から歴史家には、未来に発生する事項に先行して、歴史的事物一般化した教訓にまとめる努力必要なのではないだろうか。

歴史家は、歴史における未知の事項を明らかにすることにだけ力を入れているように思うが、

個人的には、そういうのいいから、早く「まとめ」のフェーズに入って教訓化しろよ、早く教訓として歴史的情報圧縮しろよと思う。

まり歴史はあらゆる情報網羅する情報可能体であろうとする努力を辞め、その一部分でも「まとめ」として有意味な教訓を抽出してほしいと思うわけです。

いや、「まとめ」の部分は歴史以外の学問がやるべきってことなのか?

もしそうであったとしても、「賢者」が学ぶべきなのは、そっちの学問だよな。

現代に生きる我らが得るべきなのは歴史的素材に関する知識じゃなく、現代に使える教訓なのだから

というわけで、歴史学問総体として嫌いだが、部分的イベントとしては快いと思うわけです。

そして、その「まとめ」の一形態歴史小説だと思うので、そういう意味でも、歴史小説を好んで読み続けるのです。

2021-06-30

自分の心の中に作り上げた仮想世界抽象世界における感覚物理的な事象として捉えてしまうところに人間限界というものがある。

これは本来動物抽象世界などというものは持ち合わせておらず、すべて物理現象に対する脳の対応として感覚器を発展させてきたからだ。

から苦い思い出などというわけのわからんものを作ってしまう。

メモリーに苦いも甘いもないのだ。ただの情報でその情報に基づく行動を起こせばいいだけなのだ

しかし、苦い思い出はときに人の行動をにぶらせる。

これは感覚器を物理的にしか働かせることが出来ない、

仮想的に抽象事物の優劣を感覚器に委ねて判断することの弊害である

2021-05-24

地方文学賞メモ

地方新聞主催

文学賞締切400字詰め原稿用紙賞金応募総数発表条件
北日本文学賞8月31日30枚100万円1100強1月1日新聞紙特になし
埼玉文学賞8月31日50枚50万円?11月上旬埼玉新聞紙県外者の場合は、埼玉事物風土人間歴史など埼玉との関わりをテーマにした作品であること。過去の受賞作はウェブで見られる
南日本文学賞年末年始50~60枚30万円100強3月上旬新聞紙鹿児島県在住者、あるいは出身
北日本児童文学5月末日30枚50万/10400強11月新聞紙上、およびwebun特になし

都道府県主催

文学賞締切400字詰め原稿用紙賞金応募総数発表条件
内田百閒文学賞5月末日20~50枚100万/20400弱11月下旬岡山舞台となる作品や、岡山出身人物自然文化風土物産などを題材とした作品
やまなし文学賞11末日?80~120100万/30万300強3月上旬山梨日日新聞紙上、及び同紙電子版に掲載、受賞作は単行本として刊行特になし
伊豆文学賞10月1日30~80枚100万/20万/5万260前後4月上旬入賞作品を収録した優秀作品集を作成伊豆をはじめとする静岡県内の自然地名行事人物歴史などを題材(テーマ)にした小説随筆紀行文。掌編部門
新潟日報文学賞9月1日30枚30万?11月1日応募資格新潟県内在住者と新潟県出身者に限る

自治体主催

文学賞締切400字詰め原稿用紙賞金応募総数発表条件
太宰治賞12月10日50枚~300枚100万1440前後5月初旬、受賞作品、優秀作品、最終候補作品は、選評とともに「太宰治賞2020」(20206月刊行予定)に収録特になし
坊っちゃん文学賞9月30日4000文字50万/109300強?ショートショートの賞にリニューアル
舟橋聖一顕彰青年文学賞9月18日50枚30万?2月頃?満18歳から満30歳までの青年
阿波しらさぎ文学賞6月1015枚30万/10万/5万460強8月徳島新聞紙上および徳島新聞電子版に掲載。受賞作は発表後、文芸誌徳島文學」に転載特になし
ちよだ文学賞4月30日30枚100万42010月、市役所にて販売特になし

めんどくさくなってきたのでここまで、適宜追加予定。湯河原のやつはNONに掲載されるみたい。あと、探すと結構ミステリの賞が多い。

そのほか

文学賞締切400字詰め原稿用紙賞金応募総数発表条件
仙台短編文学賞11月上旬25~35枚30万/5万400弱公式ホームページならびに河北新報紙上、小説すばる」に掲載仙台宮城東北となんらかの関連がある作品

参考資料

Wikipedia、各文学賞サイト

免責

この表を利用することによってトラブルは一切責任を負いかます

誤りがあるかもしれないため、必ず公式サイト確認してください。

メモ

https://tadeku.net/80142/

2021-05-10

anond:20210509143308

クルっと逆だろ。

もともと萌えは男オタク向け美少女関連のものに対して使われる狭義な用語だったのが言葉が普及して色々な事物に対しても萌えと使われるようになった。

オタクという言葉の使われかたと同じような経緯を辿っている。

2021-05-05

anond:20210504231825

すごい間違っている。

マクガフィンとはドラゴンボールでいうとドラゴンボールのような存在だ。

ドラゴンボールとはなにか?

七個集めれば願いが叶うもの

それを集めて願いを叶える。

マクガフィンとはこのように最低限度の説明物語を転がす存在でなければならない。

 

増田理論でいくと、この説明だけでは足りていなくて

この世界には神様という存在がいて昔その神様がつくったもの

その神様がなぜそんな物を作れるかと言えばその神様ナメック星というところから来た異星人で……、

「えっ?異星人?神様の話じゃないの?」

読者は意味わからんようになって無事物語を放り出す。

具体的にはジャンプを捨ててファミコンで遊ぶことになるわけだ。

もちろん現在の我々は長期連載の恩恵により、

ドラゴンボールとは何かということをしっかりと説明してもらっていて

しろ、その世界観に魅力を感じているのだがそれとこれとは別の話だ。

俺は海賊王になる!さあ冒険に出発だ!これがマクガフィンだ。

増田マクガフィン解釈が間違っている。

多分増田物語を作ったらひたすら設定語りが始まるタイプ物語になるのではないかな。

まあそういうもののほうが受ける世の中なのかもしれないが、

からといって勝手マクガフィン意味創作するのは止めて欲しい。

そういうことをするのはジョージ・ルーカスになってからにしてくれ。

2021-05-03

歴史的事物の保存はどこまで行うべきなのか

今のペースで保存を続けていけば、いくら公共団体たる規模の大きい施設を以てしても、早晩限界を迎えるだろう。

そもそも歴史的事物の保存にはどんな価値があるのかを見直さないといけない。

どのラインを越えれば、「歴史的価値がある」と呼ぶべきなのか。

どのラインからは、今生きる自分たち利益犠牲にしても、その保存に費用をかけるべき価値があるのかということを。

私的コレクションとは違い、なんでもかんでも集めればいいというわけではないのだ。

そして今はデジタル化ができる。事物をそのまま管理保存する必要なんてないはずだ。

私は歴史というもの嫌悪を抱き、過去存在しないものとする「5分前仮説」を好む。

それは、過去を失いさえすれば、過去に受けた他人への恩を全て帳消しにできるから

御恩という債務から自由に過ごせるから

今この時点から生き直せるのであれば、他人に引け目なく明るく生きれる気がする。

過去に受けた他人からの恩というものが私は重く感じられるので、私が過去を思い出すことは滅多にない。

2021-05-02

行政文書みたいに、文化的事物も保存期限が来ると、原画フイルムに始まり、その販売物や二次創作物に至るまで全てを破棄しなくてはいけない、みたいな世界を設定として考えた。

保存期限の延長、そして公文書館への移管を目指して権利者側と国が対立するみたいな構造小説が書けそう。

2021-04-17

私はクソコラが嫌いだ

私はクソコラが嫌いだ。

ネットに数多存在するクソコラを見て笑えていたのは過去の話だ。

笑えなくなったのは私が間接的に「される側」になったためであり、この記事にはそれに関した懺悔の思いも含まれている。

この記事はいわゆる「お気持ち」であり、二次創作への個人的価値観もあり、また、製作であるが故に匿名にせざるを得ない情けなさをないまぜにした長ったらしい愚痴である

=====

インターネットには実写、イラストわず無数のクソコラが転がっている。

まだましなもの人物を雑に切り抜いて別の背景に合成したり、当事者から許可の降りているコラージュだ。(ぼっさんなどが最たる例だと思う)

故に、私がここで明確に「嫌い」とするクソコラは全ではなく、「製作者側の許可はなく、二次創作範疇であり、且つなんらかの二次的影響を波及させるものである

正直、公式画像使用している時点で本当に二次創作範疇であると言えるのかは微妙であるが、製作側が直接注意をしないのであれば黙認の範囲なのだと思う。

以下記事内でクソコラというワードが出た場合は、このように対象限定したものであるということである

 

また、大きめの主語となるため特定などに意味はないとは思うが、大なり小なりフェイク部分を混ぜることをご容赦願いたい。

(このような稚拙一方的な狡く読みづらい文章を読む物好きがいればの話であるが)

これは例えの話である

あるアニメにおいて、至極真っ当なキャラクター存在する。

そのキャラクター作品内では比較的人気は高くなく、しかし嫌われているわけではない。

性格や設定にある程度の尖りはあれど、それは創作キャラクターにおいては大して異様な特徴ではない。しかし、その少々尖った部分がそのキャラクターに深みを与え、個として際立たせているポイントでもある。

このようなキャラクターなど無数にいると思う。むしろこちらの方が基本的には多いはずだ。

こうしたキャラクターが、時にクソコラの餌食となるのだ。

 

今まで見てきた犠牲者達のパターンはいくつかある。例を挙げると、

画像の頭部を切り抜かれ、実写や全く異なる体型の別キャラクターの頭部にすげ替えられる

身体の一部を過剰に変形させ、原型からかけ離れた骨格になる

名称の似た別のキャラクターと融合させる

二次創作で誇張されがちな尖ったキャラクター性をより強調して変態性へ改変する

etc.

しょうもな……

問題はこれらのクソコラ犠牲者達が、前述の通り「作品内では比較的人気ではない」部分にある。

もしこのクソコラ対象がその作品で最も人気のあるキャラクターで行われていたとき不快感を顕わにする人々は多くいるし、それを声明する。

しかし、往々にして比較的人気のないキャラクターの数少ないファンたちは、これらのクソコラを楽しむ「実はそのキャラクター自体はどうでもいい大勢の人々」を前に閉口することがままある。

「言っても仕方ない」、「水を差したくない」、「自分が見なければいい」くらいの気持ちであると思う。

私もそうしたいと思っている。

 

こうしたクソコラにはさらに先の問題存在する。

それは、「キャラクターイメージの改変」だ。

少し前に、二次創作におけるキャラクター改変を糾弾する文章投稿され、話題になった。

私は該当の記事の(過激言動はともかく)内容については同意できる部分が多かった側だ。

二次創作をするにあたり、元のキャラクター性を捻じ曲げる行為は、それが必要でなければすべきではない……というべきか、「二次創作である意味が無い」というべきか……

 

特定キャラクター性を捻じ曲げたり、極端に誇張したりした作品群が広く認知されたときファン間においてあまりにもあんまりだと思える状況が起こる。

『(該当キャラクター)って、〇〇(クソコラによって付与された改変)だよね』

このキャラ改変が単独同人作家によるものであれば、作家性がついて回るためある程度「二次創作である」という感覚視覚的にも制限を与えてくれる。

しかし、クソコラは“公式画像使用している”という部分があり、故に“誰が作っても視覚的な作家性が希薄になる”のだ。

 

どういうことか?

Twitter蔓延する漫画の数コマの改変コラ画像がよい例である

その改変コラ画像は、誰が作ったものであるか、パッと見て判別できるだろうか?

少なくとも私にはできない。

そしてできないからこそ、製作者以外の人間別所使用拡散するし、更にその作家性は限りなくゼロに近づいていく。

作家性がほぼ失われた二次創作であるコラ画像が高い認知を得たとき、それは一定概念となって読者やプレイヤー認識に擦り込まれしまう。

これが最大の問題だと私は思っている。

変態ではないキャラクター変態とされたり

決して筋肉質ではないキャラクターがムキムキマッチョとされたり

言ったこともない台詞がそのキャラクター代名詞とされたり

……

そしてそれらの認識ファンの間で“常識”になる。

そしてとき無能製作側がそれを逆輸入する。

そのキャラクターを好きな者、製作に関わった私からしたら、かなり“““嫌”””なのだ

もし私がこの吐き出しを行う切っ掛けになったキャラクタークソコラが、「1人1回くらい」のものであれば何も感じなかったと思う。

ここまで汚物を垂れ流しているのも、そのキャラクタークソコラを年単位で作り続けている者たちが存在するからだ。

真っ当に作ったキャラクターが、そのクソコラによって「変態キャラ」にされているからだ。

 

この感覚はおそらく、「そのキャラクター純粋に好む人」「製作側になった人」にしかからないのだと思う。

実際、そうしたクソコラを笑って楽しんでいた人物が、己の最も好きなキャラクターにその歯牙がかかった途端に不快感を顕わにしたのを見ている。

 

クソコラに愛はなく、愛あるクソコラ存在しない。

そこにあるのは自覚のない悪意だけだ。

そのキャラクターは、お前のものではない。

 

何故ここまでこれらクソコラ嫌悪するのか。

それはかつて、クソコラとは言えないが若輩の私は知り合いの創作キャラクターを改変して遊び、当事者に苦言を呈されたことがあるからだ。

そのときは戯れのつもりであった。そのとき申し訳なかったという気持ちはあった。

が、いざ、しかも全く面識のない人間の手によって「される側」に立ったとき、愚かにもようやくその苦しみを理解してしまった。

ここ数年、私はそのことについてより深く反省し、恥ずかしかったと思い、思い出す度に身悶えするような懺悔の思いに苛まれている。

おそらく当該人物はもう気にしていないとは思うが、かといって許されたわけでもないと私は独り悔やんでいる。

これは自己嫌悪と、自己投影による己かわいさの苦しみによって引き起こされている嫌悪感の吐露だ。

 

よりにもよって商業方面での製作側になったため、そのキャラクターの全権を持っているわけではなく、個人的に釘を刺すことも出来ず、Twitter愚痴るのも都合が悪く、こうして匿名に甘んじている。

 

コラージュをやめろとは言わない。言えない。

ただ願わくば本来キャラクター尊重された上で二次創作が行われるようにならんことを。

 

 

[追記4/18]

記号については私が変えればいいだけのことに思えたので消した。

 

かに何かを強要している文章ではないし、反応に対して何か返すことはしないと思っていたが、私の文章の拙さ故に明らかに読み違えられていそうなことに関してだけ補足。

「人気キャラクタークソコラされない」のではなく、「人気キャラクタークソコラに対してはキャラクターを好む人間の母数が多いため不快感を口に出す方もそれなりに現れる上、人気キャラクターであるが故にクソコラによる二次創作認識は拡がっても同時にそれが公式ではないという感覚も伝わりやすい」ため、私が嫌悪している(記事内における)クソコラ群とは少しばかり性質が異なると考えている。

あらゆる事物には例外があることも理解している。

私がここでクソコラと呼んでいるのは、あくまで「人気が無い故に歯止めの利かなくなっているコラ画像」であって、すべてのクソコラではありません。

[追記ここまで]

2021-03-22

菰田

以上のお話によって、郷田三郎と、明智小五郎との交渉、又は三郎の犯罪嗜好癖などについて、読者に呑み込んで頂いた上、さて、本題に戻って、東栄館という新築下宿屋で、郷田三郎がどんな楽しみを発見たかという点に、お話を進めることに致しましょう。

 三郎が東栄館の建築が出来上るのを待ち兼ねて、いの一番にそこへ引移ったのは、彼が明智交際を結んだ時分から一年以上もたっていました。随したがってあの「犯罪」の真似事にも、もう一向興味がなくなり、といって、外ほかにそれに代る様な事柄もなく、彼は毎日毎日の退屈な長々しい時間を、過し兼ねていました。東栄館に移った当座は、それでも、新しい友達が出来たりして、いくらか気がまぎれていましたけれど、人間というものは何と退屈極きわまる生物なのでしょう。どこへ行って見ても、同じ様な思想を同じ様な表情で、同じ様な言葉で、繰り返し繰り返し、発表し合っているに過ぎないのです。折角せっかく下宿屋を替えて、新しい人達に接して見ても、一週間たつかたたない内に、彼は又しても底知れぬ倦怠けんたいの中に沈み込んで了うのでした。

 そうして、東栄館に移って十日ばかりたったある日のことです。退屈の余り、彼はふと妙な事を考えつきました。

 彼の部屋には、――それは二階にあったのですが――安っぽい床とこの間まの傍に、一間の押入がついていて、その内部は、鴨居かもいと敷居との丁度中程に、押入れ一杯の巌丈がんじょうな棚があって、上下二段に分れているのです。彼はその下段の方に数個の行李こうりを納め、上段には蒲団をのせることにしていましたが、一々そこから蒲団を取出して、部屋の真中へ敷く代りに、始終棚の上に寝台ベッドの様に蒲団を重ねて置いて、眠くなったらそこへ上って寝ることにしたらどうだろう。彼はそんなことを考えたのです。これが今迄いままでの下宿屋であったら、仮令たとえ押入れの中に同じような棚があっても、壁がひどく汚れていたり、天井蜘蛛もの巣が張っていたりして、一寸その中へ寝る気にはならなかったのでしょうが、ここの押入れは、新築早々のことですから、非常に綺麗きれいで、天井も真白なれば、黄色く塗った滑かな壁にも、しみ一つ出来てはいませんし、そして全体の感じが、棚の作り方にもよるのでしょうが何となく船の中の寝台に似ていて、妙に、一度そこへ寝て見たい様な誘惑を感じさえするのです。

 そこで、彼は早速さっそくその晩から押入れの中へ寝ることを始めました。この下宿は、部屋毎に内部から戸締りの出来る様になっていて、女中などが無断で這入はいって来る様なこともなく、彼は安心してこの奇行を続けることが出来るのでした。さてそこへ寝て見ますと、予期以上に感じがいいのです。四枚の蒲団を積み重ね、その上にフワリと寝転んで、目の上二尺ばかりの所に迫っている天井を眺める心持は、一寸異様な味あじわいのあるものです。襖ふすまをピッシャリ締め切って、その隙間から洩れて来る糸の様な電気の光を見ていますと、何だかこう自分探偵小説中の人物にでもなった様な気がして、愉快ですし、又それを細目に開けて、そこから自分自身の部屋を、泥棒他人の部屋をでも覗く様な気持で、色々の激情的な場面を想像しながら、眺めるのも、興味がありました。時によると、彼は昼間から押入に這入り込んで、一間と三尺の長方形の箱の様な中で、大好物煙草をプカリカリとふかしながら、取りとめもない妄想に耽ることもありました。そんな時には、締切った襖の隙間から、押入れの中で火事でも始ったのではないかと思われる程、夥しい白煙が洩れているのでした。

 ところが、この奇行を二三日続ける間に、彼は又しても、妙なことに気がついたのです。飽きっぽい彼は、三日目あたりになると、もう押入れの寝台ベッドには興味がなくなって、所在なさに、そこの壁や、寝ながら手の届く天井板に、落書きなどしていましたが、ふと気がつくと、丁度頭の上の一枚の天井板が、釘を打ち忘れたのか、なんだかフカフカと動く様なのです。どうしたのだろうと思って、手で突っぱって持上げて見ますと、なんなく上の方へ外はずれることは外れるのですが、妙なことには、その手を離すと、釘づけにした箇所は一つもないのに、まるでバネ仕掛けの様に、元々通りになって了います。どうやら、何者かが上から圧おさえつけている様な手ごたえなのです。

 はてな、ひょっとしたら、丁度この天井板の上に、何か生物が、例えば大きな青大将あおだいしょうか何かがいるのではあるまいかと、三郎は俄にわかに気味が悪くなって来ましたが、そのまま逃げ出すのも残念なものですから、なおも手で押し試みて見ますと、ズッシリと、重い手ごたえを感じるばかりでなく、天井板を動かす度に、その上で何だかゴロゴロと鈍い音がするではありませんか。愈々いよいよ変です。そこで彼は思切って、力まかせにその天井板をはね除のけて見ますと、すると、その途端、ガラガラという音がして、上から何かが落ちて来ました。彼は咄嗟とっさの場合ハッと片傍かたわきへ飛びのいたからよかったものの、若もしそうでなかったら、その物体に打たれて大怪我おおけがをしている所でした。

「ナアンダ、つまらない」

 ところが、その落ちて来た品物を見ますと、何か変ったものでもあればよいがと、少からず期待していた彼は、余りのことに呆あきれて了いました。それは、漬物石つけものいしを小さくした様な、ただの石塊いしころに過ぎないのでした。よく考えて見れば、別に不思議でも何でもありません。電燈工夫が天井裏へもぐる通路にと、天井板を一枚丈け態わざと外して、そこからねずみなどが押入れに這入はいらぬ様に石塊で重しがしてあったのです。

 それは如何いかにも飛んだ喜劇でした。でも、その喜劇が機縁となって、郷田三郎は、あるすばらしい楽みを発見することになったのです。

 彼は暫しばらくの間、自分の頭の上に開いている、洞穴ほらあなの入口とでも云った感じのする、その天井の穴を眺めていましたが、ふと、持前もちまえの好奇心から、一体天井裏というものはどんな風になっているのだろうと、恐る恐る、その穴に首を入れて、四方あたりを見廻しました。それは丁度朝の事で、屋根の上にはもう陽が照りつけていると見え、方々の隙間から沢山の細い光線が、まるで大小無数の探照燈を照してでもいる様に、屋根裏の空洞へさし込んでいて、そこは存外明るいのです。

 先まず目につくのは、縦に、長々と横よこたえられた、太い、曲りくねった、大蛇の様な棟木むなぎです。明るいといっても屋根裏のことで、そう遠くまでは見通しが利かないのと、それに、細長い下宿屋の建物ですから、実際長い棟木でもあったのですが、それが向うの方は霞んで見える程、遠く遠く連つらなっている様に思われます。そして、その棟木と直角に、これは大蛇肋骨あばらに当る沢山の梁はりが両側へ、屋根の傾斜に沿ってニョキニョキと突き出ています。それ丈けでも随分雄大景色ですが、その上、天井を支える為に、梁から無数の細い棒が下っていて、それが、まるで鐘乳洞しょうにゅうどうの内部を見る様な感じを起させます

「これは素敵だ」

 一応屋根裏を見廻してから、三郎は思わずそう呟つぶやくのでした。病的な彼は、世間普通の興味にはひきつけられないで、常人には下らなく見える様な、こうした事物に、却かえって、云い知れぬ魅力を覚えるのです。

 その日から、彼の「屋根裏の散歩」が始まりました。夜となく昼となく、暇さえあれば、彼は泥坊猫の様に跫音あしおとを盗んで、棟木や梁の上を伝い歩くのです。幸さいわいなことには、建てたばかりの家ですから屋根裏につき物の蜘蛛の巣もなければ、煤すすや埃ほこりもまだ少しも溜っていず、鼠の汚したあとさえありません。それ故ゆえ着物や手足の汚くなる心配はないのです。彼はシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁ちょうりょうしました。時候も丁度春のことで、屋根裏だからといって、さして暑くも寒くもないのです。

 東栄館の建物は、下宿屋などにはよくある、中央まんなかに庭を囲んで、そのまわりに、桝型ますがたに、部屋が並んでいる様な作り方でしたから、随って屋根裏も、ずっとその形に続いていて、行止ゆきまりというものがありません。彼の部屋の天井から出発して、グルッと一廻りしますと、又元の彼の部屋の上まで帰って来る様になっています

 下の部屋部屋には、さも厳重に壁で仕切りが出来ていて、その出入口には締りをする為の金具まで取りつけているのに、一度天井裏に上って見ますと、これは又何という開放的な有様でしょう。誰の部屋の上を歩き廻ろうと、自由自在なのです。若し、その気があれば、三郎の部屋のと同じ様な、石塊の重しのしてある箇所が所々にあるのですから、そこから他人の部屋へ忍込んで、窃盗を働くことも出来ます廊下を通って、それをするのは、今も云う様に、桝型の建物の各方面に人目があるばかりでなく、いつ何時なんどき他の止宿人ししゅくにんや女中などが通り合わさないとも限りませんから、非常に危険ですけれど、天井裏の通路からでは、絶対にその危険がありません。

 それから又、ここでは、他人秘密を隙見することも、勝手次第なのです。新築と云っても、下宿屋の安普請やすぶしんのことですから天井には到る所に隙間があります。――部屋の中にいては気が附きませんけれど、暗い屋根からますと、その隙間が意外に大きいのに一驚いっきょうを喫きっします――稀には、節穴さえもあるのです。

 この、屋根裏という屈指の舞台発見しますと、郷田三郎の頭には、いつのまにか忘れて了っていた、あの犯罪嗜好癖が又ムラムラと湧き上って来るのでした。この舞台でならば、あの当時試みたそれよりも、もっともっと刺戟の強い、「犯罪の真似事」が出来るに相違ない。そう思うと、彼はもう嬉しくて耐たまらないのです。どうしてまあ、こんな手近な所に、こんな面白い興味があるのを、今日まで気附かないでいたのでしょう。魔物の様に暗闇の世界を歩き廻って、二十人に近い東栄館の二階中の止宿人の秘密を、次から次へと隙見して行く、そのこと丈けでも、三郎はもう十分愉快なのです。そして、久方振りで、生き甲斐を感じさえするのです。

 彼は又、この「屋根裏の散歩」を、いやが上にも興深くするために、先ず、身支度からして、さも本物の犯罪人らしく装うことを忘れませんでした。ピッタリ身についた、濃い茶色の毛織のシャツ、同じズボン下――なろうことなら、昔活動写真で見た、女賊プロテアの様に、真黒なシャツを着たかったのですけれど、生憎あいくそんなものは持合せていないので、まあ我慢することにして――足袋たびを穿はき、手袋をはめ――天井裏は、皆荒削あらけずりの木材ばかりで、指紋の残る心配などは殆どないのですが――そして手にはピストルが……欲しくても、それもないので、懐中電燈を持つことにしました。

 夜更けなど、昼とは違って、洩れて来る光線の量が極く僅かなので、一寸先も見分けられぬ闇の中を、少しも物音を立てない様に注意しながら、その姿で、ソロソロリと、棟木の上を伝っていますと、何かこう、自分が蛇にでもなって、太い木の幹を這い廻っている様な気持がして、我ながら妙に凄くなって来ます。でも、その凄さが、何の因果か、彼にはゾクゾクする程嬉しいのです。

 こうして、数日、彼は有頂天になって、「屋根裏の散歩」を続けました。その間には、予期にたがわず、色々と彼を喜ばせる様な出来事があって、それを記しるす丈けでも、十分一篇の小説が出来上る程ですが、この物語の本題には直接関係のない事柄ですから、残念ながら、端折はしょって、ごく簡単に二三の例をお話するに止とどめましょう。

 天井からの隙見というものが、どれ程異様な興味のあるものだかは、実際やって見た人でなければ、恐らく想像も出来ますまい。仮令、その下に別段事件が起っていなくても、誰も見ているものがないと信じて、その本性をさらけ出した人間というものを観察すること丈けで、十分面白いのです。よく注意して見ますと、ある人々は、その側に他人のいるときと、ひとりきりの時とでは、立居ふるまいは勿論もちろん、その顔の相好そうごうまでが、まるで変るものだということを発見して、彼は少なからず驚きました。それに、平常ふだん、横から同じ水平線で見るのと違って、真上から見下すのですから、この、目の角度の相違によって、あたり前の座敷が、随分異様な景色に感じられます人間は頭のてっぺんや両肩が、本箱、机、箪笥たんす、火鉢などは、その上方の面丈けが、主として目に映ります。そして、壁というものは、殆ど見えないで、その代りに、凡ての品物のバックには、畳が一杯に拡っているのです。

 何事がなくても、こうした興味がある上に、そこには、往々おうおうにして、滑稽こっけいな、悲惨な、或は物凄い光景が、展開されています。平常過激反資本主義議論を吐いている会社員が、誰も見ていない所では、貰もらったばかりの昇給辞令を、折鞄おりかばから出したり、しまったり、幾度も幾度も、飽かず打眺うちながめて喜んでいる光景ゾロリとしたお召めし着物不断着ふだんぎにして、果敢はかない豪奢振ごうしゃぶりを示している、ある相場師が、いざ床とこにつく時には、その、昼間はさも無雑作むぞうさに着こなしていた着物を、女の様に、丁寧に畳んで、床の下へ敷くばかりか、しみでもついたのと見えて、それを丹念に口で嘗なめて――お召などの小さな汚れは、口で嘗めとるのが一番いいのだといいます――一種クリーニングをやっている光景、何々大学野球選手だというニキビ面の青年が、運動家にも似合わない臆病さを以て、女中への附文つけぶみを、食べて了った夕飯のお膳の上へ、のせて見たり、思い返して、引込めて見たり、又のせて見たり、モジモジと同じことを繰返している光景、中には、大胆にも、淫売婦(?)を引入れて、茲ここに書くことを憚はばかる様な、すさまじい狂態を演じている光景さえも、誰憚らず、見たい丈け見ることが出来るのです。

 三郎は又、止宿人と止宿人との、感情葛藤かっとうを研究することに、興味を持ちました。同じ人間が、相手によって、様々に態度を換えて行く有様、今の先まで、笑顔で話し合っていた相手を、隣の部屋へ来ては、まるで不倶戴天ふぐたいてんの仇あだででもある様に罵ののしっている者もあれば、蝙蝠こうもりの様に、どちらへ行っても、都合のいいお座なりを云って、蔭でペロリと舌を出している者もあります。そして、それが女の止宿人――東栄館の二階には一人の女画学生がいたのです――になると一層興味があります。「恋の三角関係」どころではありません。五角六角と、複雑した関係が、手に取る様に見えるばかりか、競争者達の誰れも知らない、本人の真意が、局外者の「屋根裏の散歩者」に丈け、ハッキリと分るではありませんか。お伽噺とぎばなしに隠かくれ蓑みのというものがありますが、天井裏の三郎は、云わばその隠れ蓑を着ているも同然なのです。

 若しその上、他人の部屋の天井板をはがして、そこへ忍び込み、色々ないたずらをやることが出来たら、一層面白かったでしょうが、三郎には、その勇気がありませんでした。そこには、三間に一箇所位の割合で、三郎の部屋のと同様に、石塊いしころで重しをした抜け道があるのですから、忍び込むのは造作もありませんけれど、いつ部屋の主が帰って来るか知れませんし、そうでなくとも、窓は皆、透明なガラス障子しょうじになっていますから、外から見つけられる危険もあり、それに、天井板をめくって押入れの中へ下り、襖をあけて部屋に這入り、又押入れの棚へよじ上って、元の屋根裏へ帰る、その間には、どうかして物音を立てないとは限りません。それを廊下や隣室から気附かれたら、もうおしまいなのです。

 さて、ある夜更けのことでした。三郎は、一巡ひとまわり「散歩」を済ませて、自分の部屋へ帰る為に、梁から梁を伝っていましたが、彼の部屋とは、庭を隔てて、丁度向い側になっている棟の、一方の隅の天井に、ふと、これまで気のつかなかった、幽かすかな隙間を発見しました。径二寸ばかりの雲形をして、糸よりも細い光線が洩れているのです。なんだろうと思って、彼はソッと懐中電燈を点ともして、検しらべて見ますと、それは可也かなり大きな木の節で、半分以上まわりの板から離れているのですが、あとの半分で、やっとつながり、危く節穴になるのを免れたものでした。一寸爪の先でこじさえすれば、何なく離れて了い相なのです。そこで、三郎は外ほかの隙間から下を見て、部屋の主が已すでに寝ていることを確めた上、音のしない様に注意しながら、長い間かかって、とうとうそれをはがして了いました。都合のいいことには、はがした後の節穴が、杯さかずき形に下側が狭くなっていますので、その木の節を元々通りつめてさえ置けば、下へ落ちる様なことはなく、そこにこんな大きな覗き穴があるのを、誰にも気附かれずに済むのです。

 これはうまい工合ぐあいだと思いながら、その節穴から下を覗いて見ますと、外の隙間の様に、縦には長くても、幅はせいぜい一分ぶ内外の不自由なのと違って、下側の狭い方でも直径一寸以上はあるのですから、部屋の全景が、楽々と見渡せます。そこで三郎は思わず道草を食って、その部屋を眺めたことですが、それは偶然にも、東栄館の止宿人の内で、三郎の一番虫の好かぬ、遠藤えんどうという歯科医学校卒業生で、目下はどっかの歯医者助手を勤めている男の部屋でした。その遠藤が、いやにのっぺりした虫唾むしずの走る様な顔を、一層のっぺりさせて、すぐ目の下に寝ているのでした。馬鹿几帳面きちょうめんな男と見えて、部屋の中は、他のどの止宿人のそれにもまして、キチンと整頓せいとんしています。机の上の文房具位置、本箱の中の書物の並べ方、蒲団の敷き方、枕許まくらもとに置き並べた、舶来物でもあるのか、見なれぬ形の目醒めざまし時計漆器しっきの巻煙草まきたばこ入れ、色硝子いろがらすの灰皿、何いずれを見ても、それらの品物の主人公が、世にも綺麗きれい好きな、重箱の隅を楊子ようじでほじくる様な神経家であることを証拠立てています。又遠藤自身の寝姿も、実に行儀がいいのです。ただ、それらの光景にそぐわぬのは、彼が大きな口を開あいて、雷の様に鼾いびきかいていることでした。

 三郎は、何か汚いものでも見る様に、眉をしかめて、遠藤の寝顔を眺めました。彼の顔は、綺麗といえば綺麗です。成程彼自身で吹聴ふいちょうする通り、女などには好かれる顔かも知れません。併し、何という間延びな、長々とした顔の造作でしょう。濃い頭髪、顔全体が長い割には、変に狭い富士ふじびたい、短い眉、細い目、始終笑っている様な目尻の皺しわ、長い鼻、そして異様に大ぶりな口。三郎はこの口がどうにも気に入らないのでした。鼻の下の所から段を為なして、上顎うわあごと下顎とが、オンモリと前方へせり出し、その部分一杯に、青白い顔と妙な対照を示して、大きな紫色の唇が開いています。そして、肥厚性鼻炎ひこうせいびえんででもあるのか、始終鼻を詰つまらせ、その大きな口をポカンと開けて呼吸をしているのです。寝ていて、鼾をかくのも、やっぱり鼻の病気のせいなのでしょう。

 三郎は、いつでもこの遠藤の顔を見さえすれば、何だかこう背中がムズムズして来て、彼ののっぺりした頬っぺたを、いきなり殴なぐりつけてやり度たい様な気持になるのでした。

 そうして、遠藤の寝顔を見ている内に、三郎はふと妙なことを考えました。それは、その節穴から唾つばをはけば、丁度遠藤の大きく開いた口の中へ、うまく這入りはしないかということでした。なぜなら、彼の口は、まるで誂あつらえでもした様に、節穴の真下の所にあったからです。三郎は物好きにも、股引ももひきの下に穿いていた、猿股さるまたの紐を抜出して、それを節穴の上に垂直に垂らし、片目を紐にくっつけて、丁度銃の照準でも定める様に、試して見ますと、不思議な偶然です。紐と節穴と、遠藤の口とが、全く一点に見えるのです。つまり節穴から唾を吐けば、必ず彼の口へ落ちるに相違ないことが分ったのです。

 併し、まさかほんとうに唾を吐きかける訳にも行きませんので、三郎は、節穴を元の通りに埋うずめて置いて、立去ろうとしましたが、其時そのとき、不意に、チラリとある恐しい考えが、彼の頭に閃きました。彼は思わず屋根裏の暗闇の中で、真青になって、ブルブルと震えました。それは実に、何の恨うらみもない遠藤殺害するという考えだったのです。

 彼は遠藤に対して何の恨みもないばかりか、まだ知り合いになってから半月もたってはいないのでした。それも、偶然二人の引越しが同じ日だったものですから、それを縁に、二三度部屋を訪ね合ったばかりで別に深い交渉がある訳ではないのです。では、何故なにゆえその遠藤を、殺そうなどと考えたかといいますと、今も云う様に、彼の容貌言動が、殴りつけたい程虫が好かぬということも、多少は手伝っていましたけれど、三郎のこの考かんがえの主たる動機は、相手人物にあるのではなくて、ただ殺人行為のものの興味にあったのです。先からお話して来た通り、三郎の精神状態は非常に変態的で、犯罪嗜好癖ともいうべき病気を持ってい、その犯罪の中でも彼が最も魅力を感じたのは殺人罪なのですから、こうした考えの起るのも決して偶然ではないのです。ただ今までは、仮令屡々しばしば殺意を生ずることがあっても、罪の発覚を恐れて、一度も実行しようなどと思ったことがないばかりなのです。

 ところが、今遠藤場合は、全然疑うたがいを受けないで、発覚の憂うれいなしに、殺人が行われ相そうに思われます。我身に危険さえなければ、仮令相手が見ず知らずの人間であろうと、三郎はそんなことを顧慮こりょするのではありません。寧むしろ、その殺人行為が、残虐であればある程、彼の異常な慾望は、一層満足させられるのでした。それでは、何故遠藤に限って、殺人罪が発覚しない――少くとも三郎がそう信じていたか――といいますと、それには、次の様な事情があったのです。

 東栄館へ引越して四五日たった時分でした。三郎は懇意こんいになったばかりの、ある同宿者と、近所のカフェへ出掛けたことがあります。その時同じカフェ遠藤も来ていて、三人が一つテーブルへ寄って酒を――尤もっとも酒の嫌いな三郎はコーヒーでしたけれど――飲んだりして、三人とも大分いい心持になって、連立つれだって下宿へ帰ったのですが、少しの酒に酔っぱらった遠藤は、「まあ僕の部屋へ来て下さい」と無理に二人を、彼の部屋へ引ぱり込みました。遠藤は独ひとりではしゃいで、夜が更けているのも構わず女中を呼んでお茶を入れさせたりして、カフェから持越しの惚気話のろけばなしを繰返すのでした。――三郎が彼を嫌い出したのは、その晩からです――その時、遠藤は、真赤に充血した脣くちびるをペロペロと嘗め廻しながら

2021-03-13

プログラミングができるようになるタイプとそうでないタイプの違い

コードレビューをずっとやっていると、伸びるタイプかそうでないかが提出してくるコードで分かるようになってくる。

ざっくり

を見る。

コードフォーマット

コードフォーマットで頻繁に同じような指摘を受けるタイプは明らかにエディタコンソールといったツールが使えていない。

人間作業の精度を上げるのではなく、100%の精度で作業してくれるツールやらせれば良い。

些末なミスツールが拾ってくれる方が高速で、正確で、なにより心理的負荷が低い。

リファクタリング機能コードフィックスの提案を有するツールなら学習のペースも上がる。

コードフォーマットで消耗しているようでは、本来重要なはずの作業学習時間が取れないのは自明だろう。

命名

命名を軽視する者は、作業対象となっているコードがどんな責務を負うか、自身の書いたコードの内容すらも完全には理解していない傾向が強い。

(ここではあえてクラスメソッドという表現を避けるが)扱うコードが何をするもので、何に依存し、どこから呼ばれるか。

どういったエラーが出うるかエラーは今のレイヤ対処しておくべきものか、他のレイヤの責務か。

命名にはそういった情報が反映される。英語が苦手?プログラミングで使う語彙なんて極めて少ない。高校生ぐらいのレベル英語ができれば十分だろう。

しろ、先人が少ない語彙でどうやって事物表現してきたかを学ぶべきである

求められるのは正確さと一貫性であり、誰もボキャブラリーなんぞ求めていない。少ない語彙で正確に表現できるぐらいに対象コードを整理しろ

命名がうまくいかないのはお前の英語力が低いからではない。コーディング力か、コードが扱うドメインへの理解が弱いからだ。

というようなことを、心理的安全を慮り10倍、100倍に希釈して伝える仕事をやっている。

2021-03-11

anond:20210311113554

個を見れば

増田は個を見ているのか。じゃあ、

 

関係萌え理解できるけど個人を推す感情理解できない。例えその関係性の片割れであったとしても個人としてはどうでもいいというか何を思えばいいのかよく分からないんだよな。

 

↑ コレは関係ということでいいか? とりあえず無関係ということで進める

 

増田という個は "他の誰がいなくとも増田という個に変わりがない"、増田という個は世界の主人だ』、これは理解出来そう?

 

もう少し付け足すならこんな感じ↓

 

地獄とは他人のことだ」

人間本質はあらかじめ決められておらず、実存が先行した存在である。だからこそ、人間は自ら世界意味づけ行為を選び取り、自分自身意味を生み出さなければならない」

人間はだれしも自分のおかれた状況に条件づけられ、拘束されているが、同時にあくまでも自由存在である。したがって、どんな局面においても人はその状況の限界内で自由に行動を選択しなければならないし、自由選択した以上は自分の行動に責任を負わねばならない。」


疎外とは外的条件によって自分の主人でなくなること

例えばマルクスは、疎外という言葉を、外的条件によって自分の主人でなくなること、事物奴隷になることの意味に使っている。

マルクスでは、資本主義制度の下での労働です。初期のサルトルはごらんのとおり、「まなざし」なのです。

したがって、マルクス場合は疎外の克服のためには社会変革が必要となるのですが、

初期のサルトル場合は、意識の変革、意識努力が求められる。


それにしてもサルトルはなぜまなざしを向けられることを他有化と考えるのか。

考えの筋道はこうです。

 

私はまなざし世界に向けることによって世界意味構成し、所有していた。

ところが他人まなざしが出現すると、今度は他人が私の世界構成し、所有し、私の世界は盗まれる。

そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価相手に委ねられ、自分自分のものではなくなってしまう、と。

しか他人いるかぎり、

そして他人自由であるならば、

私がこうした他有化を蒙(こうむ)るのは当然のことです。

そこでサルトルはこれを「自由受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。


http://textview.jp/post/culture/22918

 

ここまでは大丈夫そう?

長文が読みたくない場合増田という個は "他の誰がいなくとも増田という個に変わりがない"、増田という個は世界の主人だ』だけわかればいいよ

2021-03-08

数学無慈悲なまでに積み重ねの教科

他の教科だとなかなかこうはならない。

小学校1年生の漢字を覚えていなければ小学校2年生の漢字を覚えられないということにはならない。

奈良時代学習完璧理解していないと平安時代学習がうまくいかないということもない。

同じ理系科目である理科物理化学生物地学)も、たとえば小学校学習ができなくても中学校で、中学校学習ができなくても高校で、得意になれるくらいには、カリキュラム独立している。

しか算数数学はそうではない。

小学校1年生の学習理解しないまま、小学校2年生の学習に進むことはできない。

学習したつもりでも、実は理解しきれていない箇所があれば、必ず後に響く。

もちろん他の教科も初めから順番に学んだ方が当然わかりやすいし、それに越したことはない。

ただ数学のそれとは取り返しのつかなさが違う。

誰かがスキルリーに喩えていたのがわかりやすかった。

数学は前のスキル解放しなければ次がとれないスキルリー

一方、他の教科は、推奨レベルお勧め解放順、必要ポイントの差はあるけれども、基本的にはどこからでも取っていけるスキル表だ。

この数学の積み重ね性を表す顕著な例として、たとえば、高校3年(2年かも?)で習う微分導関数)の定義を考えてみる。

f'という記号が導入されて、limなんちゃらかんちゃらで、f'(x)は定義される。

そうしたら教師が、例えばf(x)に具体的な関数x^3を当てはめると、ここがこうなって、3x^2になるんですと。

この「具体的な関数」って言葉面白いよなあとつくづく思ってしまう。

この説明の中ではx^3は「具体的」なのだ

中学の頃には、関数理解するため、xに「具体的な数」たとえば10を入れて考えてみましょうとか言っていたはずなのに。

具体的ってなんだ?

コトバンクで調べると、「はっきりとした実体を備えているさま。個々の事物に即しているさま。」だという。

小学校で初めに数を習う時、我々は指を折ったり、タイルを数えたり、林檎想像したりした。

そうだ、それこそが真に具体物だ。

自体が、それを抽象化した存在にすぎない。

したがって我々は、導関数定義を「具体的に」理解しようとする際、まずf(x)に具体的な関数x^3を当てはめ、そのx^3を理解するためにxに具体的な数10を当てはめ、さらにその10理解するために林檎10個を思い浮かべ……

とはならない。

関数のことを理解する時、我々は数のことはもう既に具体的だと思って接している。

同じように、導関数理解に臨もうという段階では、個々の関数のことはもう具体的だと思えるようになっている。

そう思えるようになるほど、個々の数や関数に対する様々な操作を、手癖レベル熟達し、理解している。

理解して慣れ親しむことで、抽象物は具体物に変わるのだ。

そうして、その新たに手に入れた具体物を土台にして次の抽象が受け入れられるようになる。

これが数学は積み重ねと言われる話の核であり、一度理解をとばせばたちまち着いていけなくなる要因である

2021-03-06

anond:20210306075309

oI(1)[i]名 ハングル母音字母の一つであるIの名称.

oI(2)[iイ]名 1 歯.

oI(3)[i]名 «虫» シラミ(虱).

oI(4)[伊][i]名oI⁇⁇(伊太利)の縮約形:伊.

oI(5)[利][i:]名1oI⁇(利益)の縮約形:利益.

       2⁇⁇(邉利)の縮約形:利子.

oI(6)[李][i:]名«姓»イ,リ,李.

oI(7)[里][i:]名 里,地方行政区域の最小単位,面、?の下.

oI(8)[理][i:]名 理,1(事物現象存在する)不変の法則道理.2(朱子学で)宇宙根本原理.対(義)??(氣)3????(理學)の縮約形.

oI(9)[i:]名 イー(英語アルファベットの第5字.E,e)

oI10

oI11

oI12

oI(13)

oI(14)

oI(15)

oI(16)

oI17

oI(18)

辞書1422ページ)

2021-03-02

anond:20210302112759

からですが、黒人なりLGBTなり恐い犬なり何であれ、嫌う自由を認めて欲しい、と言われると

「内心で思うのは自由」「それを公に主張することは対象の人・事物自由を奪うことにつながるので要注意」という話になるのだが、

「そういう人・事物距離をおきたいのに今の社会では叶わず実質的自由を阻害されている。この事態を解消したい」となると、

「同じ思いの人達連帯してポピュリズムに訴えて、『同じバス電車に乗らなくて済むように法改正せよ』(例)と働きかけるのがよい」

「もしくは自分意識改革をしてしまうのが手っ取り早い(彼らを嫌っている自分の内心の方を変えてしまう……見た目は我慢と同じだが)」

みたいな回答になってしまます


多分、元増田の思いとしてはそこまで過激な話ではなく、「嫌いと言っただけで鬼の首でも取ったかのように総叩きにされるのはおかしいのではないか

くらいの疑問が出発点だと推測するが、個人的にはこういう何が差別であるという話は価値観一時的流行だと思っている。

何かの正当性に基づいた正当的な攻撃というよりも、流行の言説にそぐわない発言をすると流行御旗のもとに殴られるという現象であって、

そういうものだと受け入れるしかないし、納得がいかないならやっぱり増田なりなんなりで同じ思いの人達に声を届け問題意識を共有しつつ、

流行を変えていくよう働きかけるしかない。

いまは匿名増田なりで自分意見を表明することは、よっぽどの内容でない限り自由に(=実害を被ること無く)実行できるが、

皆の「嫌い」の想いを綺麗にまとめ上げることが出来れば、

それに対する抗弁をネット上で表明するだけで思想犯として収獄されるよう流行を変えることも不可能ではないはず。


皆が自由に好悪・気持ちを表明しつつ、それ自体他者への攻撃とはならないように……というのは確かに美しいのだが、

何が攻撃であるかの区別評価をつけること自体が十分に攻撃的なので、仕組みづくりとしては表明が全方向的に「攻撃にならない」ようにする他なく、

それは仮に実現されると、何を言っても誰にも響かない無感動の社会になってしまいませんかね。

そういう哲学的ゾンビステージには当面辿り着かなくていいだろうと個人的に思います

2021-02-27

事物への理解を「解像度が高い(低い)」って言い方すんのやめろ

これマジでなんなんだ。小鼻膨らませて言ってる感じが最高にうっとうしい。二度と言うな。

観察が鋭い、造詣が深い、でいいじゃん。

2021-02-10

anond:20210210124726

かにも誤字がひどい

「買う額」→たぶん「高額」?

事物」→「事例」?

「荒れ」→「アレ」?なんかおもいあたる事例でもあるのかね

 

オリジナルっていっても業として販売してるんだから

知的財産権商標権意匠権)をとって防衛した上で警告すればいいのに

本腰いれてしらべたら全部大手企業マネなんだろうにと思う

くだらない

ハンドメイド界隈がひどい

今に始まったことじゃないが

 

自分は絵を描いてそれをsuzuriとかでスマホケースにしたり

粘土オリジナルビーズ作って材料として販売したり、それをピアスなどに加工して売る趣味を持っている

地元しか活動していない弱小ハンドメイド作家である

 

ものを作るのは楽しい

だが最近は物をつくるというより安価転売品をハンドメイドと偽り

買う額販売する輩が多い。

 

あと食べ物レジンコーティングして大儲けする作家が出て

それに便乗したカビ作品売るド素人が現れた。

 

そして駆け出しハンドメイド貧乏人)に「こうすれば売れる」という

情報商材が横行。

そりゃ宣伝力で自分作品の売れ行き左右されるが、

それは運と実力(作品の完成度)が重要であるのになぁ。

 

オカンアート侮辱される荒れはまだまし。

こういう人としてどうよと思うような事物が多くてげんなりする。

私の発言でなにか変わることはないから、

ただ黙ってオリジナル作品を作っていくしかない。

 

追記

ピアルではなくピアスです

失礼しました

 

2021-02-05

はっきり言って最低だ

この国の人間は法や倫理というよりも他者を参照して自分立ち位置を決めるばっかりであるから

一度過半数熱狂的になると全員が熱狂的になり,また半分が冷静になったときには「自分もそうだ」と言って一億総懺悔する.

すなわち根本的にこの国には二大政党制不可能であり,対立を嫌うから連立政党制も不可能であり,

本質的国民の中には全体主義を渇望するマゾヒストしかいないといっていい.

安全を軽視するし,記録も軽視するし,その場で記録されなかったこ物事事物が動く.

戦争ときだって合理的目的よりも思想的意義を説いて戦力の逐次投入するし兵站も軽視する.

このような性質を培ってしまった原因というのはおそらく,

そもそも島国であるが故に他の文化圏人間との論理的対話による合意形成の機会が根本的に少なく,

「我々は同一種である単一民族である」というふざけた幻想で,価値観は口にせずとも共有して当たり前だと

遺伝子レベルで刻みこまれしまっているからであろう.

2021-01-22

神様信仰することのアホらしさ

タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人神様信仰していない。私は神様ではなく自分幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人信仰している。

私の家系日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家仏壇を拝むときだけだ。クリスマス初詣もするし、お守りを持つこともある。

このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如である批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。

しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。

日本人宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教儒家思想キリスト教などが入ってきても変わらなかった。

このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系災害の多さに求めた。日本人古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国植物動物の息吹があまねく見受けられるのである

こうした環境日本人精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米中東のような一神教的な絶対神日本征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教神の国の一部として取り込まれるのだから

遠藤周作小説沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本根付かず改変されていることを元宣教師フェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなである

一方でキリスト教イスラム教などの一神教誕生したのは、砂漠の国中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。

それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパ民族合理的従順だったかであるヨーロッパ生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャローマ代表される科学合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。

ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本一神教が人々を統べる欧米中東差異が分かる。そして、これが日本無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。

一神教宗教観は日本無宗教非難するが、それは無宗教神様信仰しないからだ。一神教の神は世界創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教非人間的な態度であり、シリアルキラー同類存在なのだ。先の私の小学校先生無宗教人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由無宗教に求めたのだ。

その上で私は一神教宗教家の方々の私の宗教観への批判反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。

先ほど私は日本宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである

私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。

沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしま申し訳なさで死んでしまいそうだ。

何か危機に陥ったときにかつては祭祀加持祈祷に頼っていたであろうが、科学時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。

今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。

では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなとき世界沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。

だが、それは私が世界とのコンタクト放棄しているかである世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである

私は長々とここまで語ったが、私は他人宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。

私の記事は以上だ。

2021-01-09

anond:20210109214003

はてなー社会への適合に困難がある人間見ると簡単アスペ扱いするよな

俺は特定事物にこだわりを持ってないし運動操作も苦手ではないよ

 

しかし元から出来ない人として接してくれるんならそこまで悪い気はしないわ

問題は「この人は自分に対して悪意があるか手を抜いているんだろう」と決めつけて接してくる人間

こういうのの方が対処が難しい

2020-12-20

anond:20201220133144

ハラスメントは全て誰かの無知精神問題で起きる事だから、該当するか否かという点ではYesセクハラに該当する。

増田がモヤッとしてるのは「世間一般ではセクハラへは悪だから糾弾しなければならない」ようだけから自分被害を受けたのだから相手糾弾すべきだったのだろうか?」という事のように見受けられるのだが、

こういった事物の負の連鎖は誰かがちょっと頑張って止めれるなら、それに越したことはない。

もちろん悪意から延々と繰り返すようなら、穏当な解決策は望めないかも知れないけれど、この件は増田が出来た人物なのもあって穏当に解決した。

ひとつ徳を積んだということで、いいんじゃないかな。

2020-11-21

anond:20201121233429

嘘とは言い切れない

自己不安定な人ほど強い拠り所を必要とする

ここでいう強いとは、正義というか正しさというか、自分が折れてもこれだけは折れないと信じられる事物思想である

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