「事物」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 事物とは

2023-05-28

anond:20230528201045

だってそもそも「在った」ことを知らないんだからしゃーない

よく言われるがそういう意味検索できない事物存在しないといえる

ミイラ伝説おもしろいよな!)

2023-05-02

鈴鹿央士って誰に許可得て鈴鹿を名乗ってるの?

自分三重県鈴鹿市出身現在鈴鹿市在住、幼い頃から鈴鹿という言葉に囲まれて育ってきた。

私の地元には鈴鹿と名のつく施設がたくさんある。遊園地学校山脈企業デパート等、様々な場所鈴鹿という言葉が使われているが、それらはもちろん鈴鹿に縁を持つから鈴鹿を名乗っているわけだ。

そんな自分が同じく鈴鹿を名乗る、新進気鋭の俳優鈴鹿央士」を見ると、どうしても「鈴鹿央士って誰に許可得て鈴鹿を名乗ってるのか?」と感じてしまう。

鈴鹿という地名

そもそも鈴鹿という言葉出自は非常に古く、地名の成立から定かではない。

最も古いところでは日本書紀西暦720年完成)にも鈴鹿の名は登場し、それでいうと我々鈴鹿市民は1300年以上鈴鹿という地名を守ってきたことになる。由来も鈴をつけた鹿がいたとか、鹿に鈴をつけて川を渡ったとか、古い地名によくあるように色んなふうに言われている。

だいたい鈴鹿をスズシカでなくスズカと読むのもその成立が古いことを表す証左だ。古代日本では鹿のことを単にカとか、カノシシなどといった。もし令和の時代に鈴と鹿を使った地名を作るならスズシカだろう。でも鈴鹿市は1300年代住民がその名を守ってきたからスズカと呼ぶのだ。

日本には他に鈴鹿という地名鈴鹿と呼ばれる事物はない。正真正銘鈴鹿の民がずっと守ってきたからこそ、鈴鹿という日本語が存在するわけである

鈴鹿央士

鈴鹿央士に関して特段の説明不要かと思う。それでも知らない人のために説明すると、彼は映画ドラマで広く活躍している俳優だ。最近だと2022年に大ヒットした木曜劇場ドラマ「silent」にも出演していた。要は期待の若手俳優である

この鈴鹿央士なる人物テレビに出てきた頃、自分はてっきり鈴鹿という名字本名なのだろうと思っていた。しかし、名字芸名で後からつけたものらしい。そうなると鈴鹿という芸名はやはり鈴鹿市に由来するような名前なんじゃないか?とちょっと期待してしまう。鈴鹿央士の芸名命名についてのエピソードがあるので紹介する。

央士が高校2年生だった2016年、ある映画ロケが通学していた高校で行われ、エキストラとして参加。その際、出演者広瀬すずの目に留まり広瀬マネジャースカウトするよう進言した。

2018年スカウトきっかけに、東京大学へ進学すると同時に芸能事務所所属広瀬すずの「すず」にちなんだ芸名として「鈴鹿央士」とした。

(wikipediaベースに一部削除・追記

いたことにこの俳優鈴鹿を名乗りながら鈴鹿市とは何ら関係がないらしい。ただ広瀬すずになぞらえて鈴がつく名前なら何でも良かったようだ。

鈴鹿の民が1300年守ってきた鈴鹿という地名、なんら鈴鹿との関係も持たない俳優が、ただ鈴が付く言葉なら何でもよかったという理由自分芸名として使っているのはなんだか釈然としない。

それに加えて情報汚染である最近ニュースサイトでも鈴鹿が踊る題目をたびたび目にするようになった。しかし中身を開いてみると鈴鹿央士の話題であるテレビを見ていても「鈴鹿が〜」という話を聞くことがあった(日テレ系だったと思う)。なんだなんだとテレビを見るとこれまた鈴鹿央士の話題鈴鹿と言うのに鈴鹿市関係なくガックリくる。

鈴鹿という言葉はこれまで我々鈴鹿市民が使い、我々鈴鹿市民のためにある言葉だったはず。どうして鈴鹿の地に関係のない人間話題に吸い込まれないとならないのか。

思考実験

鈴鹿市民だからといって鈴鹿央士の名にケチをつけるな、鈴鹿を名乗ることぐらいいいじゃないかというご意見ももちろんあることと思う。おそらく鈴鹿央士に対するこの憤りは、幼い頃から当たり前に鈴鹿という地名に囲まれてきた人間でないと通じない。なので1つ思考実験をしてみたい。以下はあくまフィクションの話だ。

最近ハリウッドで新進気鋭のイケメン俳優デビューした。身長190cm、ふわりとした金髪に青い目、スーツのよく似合う長い足は白人の特徴をよく表している。彼は芸名Mr. Japanを名乗り、現在ドラマ映画に大活躍している。

Japanを名乗った理由は意外だ。彼は学生時代Justin Bieberに声をかけられそれをきっかけに俳優の道を歩むことになった。この道を進むきっかけになったJustinに感謝気持ちを込めて、芸名はJで始まるものにしたいと考えた。別に日本思い入れはなかったがJから始まる適当単語Mr. Japanを名乗っている。

彼の活躍ニュースサイトでもよく見かける。「Japan映画大人気!」「いま大注目のJapanに密着」。日本で生まれ育った私達が密かな期待を込めて記事を開くと、その中身はMr. Japanニュースだった。テレビでもJapanの声を聞く。「Japanの演技は最高ね」「会ってみたいセレブはやっぱりJapanだよ」。メディアではもうすっかりJapan=日本イメージではなくJapan=イケメン映画俳優になった状況に、日本で生まれ育ったあなたは深く溜息をつくのだった。



もしあなた上記思考実験でため息を付いた人物であったら、Mr. Japanに「誰に許可得てJapanを名乗ってるの?」と文句の一つでもつけたい気持ちになったりしないだろうか。そうであればその気持ちは今自分鈴鹿央士に感じているものと同じものだ。


私は鈴鹿央士に特に攻撃的な感情があるわけではない。ましてバッシングしようとか活動止めさせようだなんてことは微塵も思っていない。ただそれでもやはり、鈴鹿市になんのルーツ思い入れもないのに勝手鈴鹿を名乗っていることに、深い憤りを覚えてしまうのだ。

最後に、どうして携帯電話でスズカと入力して一発で鈴鹿と変換できるのか、それは鈴鹿市民がこの地名を大切にし守ってきたからこそなのだ鈴鹿央士さんが鈴鹿市で1300年守られてきた鈴鹿という地名になんの思いも持たないのであれば、さっさと改名してもらいたいものである

2023-04-02

比喩を用いた説明は誤解されやす

 比喩は、1つの事物概念を別の事物概念比較することで、よりわかりやす説明するために用いられますしかし、比喩を用いた説明は、誤解される可能性があります

 まず、比喩あくまでも類推であるため、比喩表現された事物概念が実際の事物概念と異なる場合があります。例えば、「彼女笑顔太陽のように輝いていた」という比喩は、彼女笑顔が実際に太陽のように輝いていたわけではありません。

 また、比喩には複数解釈存在する場合があります。例えば、「彼女の声は鳥のさえずりのようだ」という比喩は、彼女の声が高い・美しい・響き渡るなど、複数意味を持つことができます

 さらに、比喩主観的表現であるため、聞き手読み手解釈によっては、作者や話者が伝えたかった本来意図と異なる解釈がなされることもあります。例えば、「彼女は小さな花のように可憐だ」という比喩が、相手にとっては「小さい」という意味で捉えられてしまい、作者が伝えたかった「可憐な」という意味が伝わらない場合があります

 以上のように、比喩を用いた説明は、誤解を招く可能性があるため、注意が必要です。比喩を使う場合は、正確性を確保するために、よく考えて表現することが大切です。

ChatGPTで作成

2023-03-15

anond:20230315141157

とあるいきさつでネオジオポケットかいハードポケットラブという恋愛ゲームを知ったんだがwiki情報ではデザイナーに三人も挙げられてる。

ジャケットを見る限り艦これみたいにいろんなデザイナーキメラぽっくは見えず画風は統一されているので多分キャラはそのうちの1人が担当してるんだと思うが誰なのだろうか。

グーグル検索しても6ページしか出ない。インターネット流行する前の事物情報にはネットは弱いねえ。

2023-03-13

anond:20230313180902

単語の拾い食いすんなや。

抽象的なほどえらいとか言ってないで。

モノ自体価値と、たとえば投機ゲームによるモノの価値とは別よな。

具体的事物概念としての価値を分離できなかったら(抽象化できなかったら)「別よな」と言われてもわからんだろうと言ったまでや。

じあたまの話なんかしてないしな。

「泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ」をもじって「バカ地頭には勝てない」と言い、そうすると地頭ってなんだよと意味が宙に浮くというボケやで。わからんかったらわからんでええ。

仕切り直すと、じぶんからべんきょうするほどピカソの絵の良さ、面白さがわかるのは当然だろう。そこまでは異論ないよな。

何も知らずに見ても名画なら感動するはずや! っていう原理主義の奴とはちょっと話にならん。

で、その「良さ」がストレートにこんにち値段に繋がってるというのがまちがい。

バブったのは偶然や。という、とても単純な話しかしてない。

なんかお前以外にもう一人本格的なバカがいるみたいでうっとうしいからもうやめるで

/つごう3人か。

2023-03-10

[]誰をフォローするべきか

あなたが今持っている情報によって、事物演繹され、記憶上にない事柄計算されるとする。

このときあなたオリジナルで見つけ出した技術定理の類が情報となる場合もあるし、他者から受け取ったケースもある。

ここで重要なのは他者との相互作用関係する場合、双方の利害が一致しなければ情報あなたにとって不利になるように計算されるということ。

例えばあなた権威主義学者相互作用したとする。あなたが「AI数学の定式化を自動化できる」という情報を持っていると、権威主義学者はそれを潰しにかかるのである

まりあなたがフォローすべきなのは弱者にチャンスを与えるタイプの一部の海外勢(強者)か、または天才的知能を持つタイプ弱者であることがわかる。

訓練を積むと、まずいコウモリが現れたら、それがコウモリであるとわかる。

目的をはっきりさせて、フォローする人間を見極めろ。

謎の文字列: 011010010100011000111111110000100010101000001000110011100000000011110000011101010011101

2023-02-10

anond:20230207223527

コラボ男性が女を買う文化批判は、家出少女を家で保護とか言って沢山飼って売春させて金儲けしてる○○○○とか○○○みたいな連中とそいつに金出す買う男とそれを看過する女性軽視社会への批判から

一般男性はその片棒を担ぐなって話であって

あとバカすぎて事物理解ができないオタク実害のある迷惑オタクが沢山いるって部分にまで目を向けねえと片手落ちやぞ

2023-01-14

少子化解決するための穏健なる提案

日本において少子化問題1990年の1.57ショックにより表層化してから二十年以上が経過し、2010年以降に人口減少社会へと突入してから十年以上経過したが

未だに有効解決策が見出されていない。本稿は少子化解決すると共に親の質や家庭ごとの経済格差など家庭に関わる子供問題などを副次的解決しつつ国力の増強を

意図した提案をするものである

まず本稿では少子化の原因は出産国民の完全なる自由意志に任せているためであると考える。

なので解決策は国民出産強制するか何らかの強力な動機を与えるものになる。

まず強制政策であるが、かつてブルガリア独身税なるものが導入されたが惨憺たる結果に終わったことに異論はないであろうし、現行法的にも国民感情的にも

強制政策は導入自体が多大な困難を伴うものであるため解決からは完全に外れる。

次によく行われている出産一時金や教育費を無料にするなどのコスト軽減政策であるが、これらは一見良い政策のように思えるが実際に効果が大して上がってない上に

構造的な問題としてこれらの政策が働く前に自由恋愛市場からカップルが発生する必要があり、子供を作るとなれば基本的には結婚するであろうからまりはこの政策

辿り着く前に結婚という大きな障害があるのである

また結婚するカップルというのは元々子供を作る人達多数派であろうからコスト軽減策が出生率に与える影響は小さいと予想される。

そもそも教育費を無料にしたところで、他にコストが掛かるのは変わらないし金銭だけでなく時間的精神的・肉体的・社会的なコストなどを様々なリソース子供のために

注がなければならないし、また子供自体がろくでもない人間になってしまったり、無知上に取り返しのつかないことをしでかしてしまリスク人生に影響を与えるような

重い障害を伴って生まれしまリスクもある(この障害リスクは晩婚化により染色体異常の確率が上がるため近年このリスクますます高まっている)。

これらのリスクコスト過去よりは理性的になったであろう人間にとって結婚出産を躊躇する重い原因になるであろう。

そこで本稿では強制自由中間にあたる政策出産育児を分業して産業化する政策提案する。

具体的には母体となる女性政府が雇い入れ、わりの良い給料を払い仕事として子供を生んでもらうのである

この提案脊髄反射的な拒絶反応を起こす人もいるであろうが、現代社会ではどの道なんらかの仕事をして金を稼がなくてはならないし、出産仕事にすることを選ぶ事自体

その人たちの自由意志なのであるから、この仕事に付きたくない人は付かなければよいだけなのである

仕事存在自体が許せないという方にはより良い少子化解決のための具体的提案をしていただきたい。

さてこの政策をより詳細に検討していこう。

まずこの母体となる女性の年齢は子の染色体異常の発生確率を下げるために二十代に限定健康診断を通過した者のみ雇い入れるべきである

そして精子の方は男性から買い取って精子バンク登録しておき母体ランダム付与するべきである

このランダム付与することは重要であり、遺伝多様性を確保すると共に精子遺伝子疾患などの病気が含有されていた場合リスクヘッジとなる。

女性の方も仕事でやっているのであるから顔が良かったり、良い大学に出ている男の精子でないと受け入れないといった我儘を言える立場にはないはずである

次に生まれてきた子ども育児問題出産仕事にしていた女性が30代を超えて適正年齢を過ぎた後のセカンドキャリア問題を同時に解決する。

まず出産仕事中はそれ自体給料が発生するために他のことをする時間的余裕はたっぷりあるであろうからこの期間に育児幼児教育に関する専門教育を受けてもらうのである

そして30代を過ぎれば次の仕事として育児担当してもらうのである育児をする子供はこの政策の枠組みで生まれた他の女性が生んだ子供も当然含まれる。

よって他の育児担当女性と共同で育児を行うために近年問題になってる育児ワンオペが発生することはないため精神的・肉体的な負担普通よりも軽減されるであろうし、

その上で給料までも発生するのであるから出産育児間中収入が途絶えたり、別の仕事をしていた場合会社内での地位が下がるといった問題も発生することはない。

付け加えておくとこの育児に関する教育を修了した後は妊娠間中であっても初期の頃なら育児に参加することも可能であるだろう。

また子供にとっても多様な大人に触れあえることは比較的多くの経験を積むことにもなるし、多数の人間による監視子どもたちに行き届くために家庭内で起こりがちな

性的暴力的問題が発生する可能性が下がったり、通常のように素人試行錯誤をしながら育児をするのではなく育児に関する教育を受けた人間育児担当するなど

子供にとっても多くのメリット存在する。

また必ずしも育児を次のキャリアにする必要なく、政策の一環としてWebエンジニアなどリモート可能仕事に関する教育システムを設けてもいいだろう。

さて、これらのシステム機能するには出産育児をする女性たちが一つの場所に集まる必要がある。なのでこれらの政策を実行に移す場合病院学校等も備えた

出産育児専用の特区を全国に複数所作るべきであろう。病院女性たちが住まうマンションの近く(この住居は政府提供するものである)に置くことで急な出産

などにすぐさま対応出来るようにすることが可能である。また育児をする建物を1階建ての平屋に限定すれば、位置エネルギー運動エネルギーの交換により

子供意図せずして悲惨なことになる事故を防止しやすくなるだろう。

より先進的に車両による移動等を基本的禁止することで交通事故の発生を防ぐと共にアクセスやす場所必要施設を備えることで

車両による移動の必要性を下げるなどより出産育児に特化したシステムにすることを検討してもよいだろう。

また集団食堂を作り妊婦達にはそこで作られた栄養管理に行き届いた食事を食べてもらってもいいだろう。これは個々人で料理を行うより効率的である母体をより健康するため

にも効果を発揮するであろう。

全国に複数箇所用意するのは一つの場所に大量の人間を集めると管理が困難になるのもあるし、先に上げた車両規制等は特区の面積が広くなるほど不便なものになるし、

なんらかの病が流行した場合やそれこそ有事が発生した場合被害を抑えるためである

さて日本国憲法には教育を受ける権利子供保護者教育を受けさせる義務記載されているわけであるが、本稿では子供を雇い給料を払って学校に通ってもらう

ことを提案する。これには主に2つの強い理由存在する。

まず第一子供勉強する強力な動機を与えることである子供でもお金価値理解出来るので子供勉強の対価として給料を払うことは子供にとって勉強するための

強力な動機になるであろう。より強い動機を与えるために成績次第でボーナスを与えるとこのシステムはより良く機能するであろう。

これにより子どもたちは”何のために勉強するのか”という勉強自体の退屈さ、勉強という苦痛を伴う行為から得られる報酬がないことによる勉強動機消失等の問題から

開放されるのである子どもたちが強い動機を持って勉強することは将来的に有能な人材誕生するということであり国家にとっても大きな利益を得ることが出来る。

子供お金のために勉強することに拒否感を覚える方々は現状で既に勉強とは基本的に良い仕事に付くために行うものであり、つまりは元々お金のために勉強したりさせたり

していることを失念しているに違いない。

第二に子どもたちが成人したとき社会活動をするための資金がない、というような事態を防ぐためである。これ自体は成人したとき一定資金付与しても解決

することである勉強報酬として与えれば動機づけと成人後の金銭問題の両方を解決することが可能になるのである

私の提案は以上である

これは実行しようとすれば極めて大きな計画であるので詳細に検討すべき事項は他にも多くあるであろうが、本稿で提案の骨格については説明し切れたと思われる。

育児担当する人間精神的・思想的な調査は定期的に行うべきであろう。特定宗教思想子供に植え付けることが可能立場にいる人間に対して何の検査も行わない、

というのは後にシステム汚染される原因になりかねない。

育児に関しては老人を雇い入れてもいいかもしれない。育児教育に関して修了して身辺調査をした上でだが、老人たちは政府から給料を・子供から活力を与えられ、

子どもたちは老人達言葉からより多様な経験を得られるであろう。また年を取っていれば性的事件を起こす可能性は比較的低いと思われる。

学校での授業であるが、これは予備校進学校から優秀な教師を集めて授業の動画複数撮影してそれを用いて授業を行うことを提案する。これは教師の質の差に

起因する問題の発生を防ぎつつ質の高い授業を子供に受けさせると共に生身の教師負担を軽減する効果もある。生身の教師はそこにいなければ出来ない仕事に集中する

べきであろう。

*この政策システムであるが、親に問題があるなどして親から独立したい子供の第二の家とすることで将来的に有益人材にしやすくしたり、共働き育児に疲れ切った

親たちが子供を預けられる場所として機能させてもよいだろう。

*財源的な問題については日本通貨発行権を持つ自国通貨建て国債運用の変動相場制の国であるために、円に関しては日銀当座預金残高に記帳して通貨発行益で得ればよく

財源的な問題存在しないという立場を取る。また通貨発行権を用いずとも国債による財源確保であれ内生的貨幣供給論により政府支出と同額の預金通貨創造され、最終的には

民間銀行日銀当座預金国債購入前と同じ水準に戻るためにクラウディングアウトは発生しない。つまるところ財源確保という面だけで見れば通貨発行と国債発行の違いは

日銀負債が増えるか、民間銀行負債が増えるかの違いしかないためにどちらの手段調達してもよいものと思われる。

 また多くの時間と数多の資源を費やさなければ創造出来ない実体のある事物よりもキーボードを叩き数値を入力すればいくらでも創造可能事物の方を大多数の国民

より大切にするのであれば、そのような国家は衰退すべくして衰退し滅ぶべくして滅ぶのだと確信する。十分なマネーさえあれば砂漠の真ん中でタイムマシンを買えると思ってる

ような人間がこの国の大多数を占めてないことを願う。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-11-23

anond:20221123125413

鍵っ子元増田では取り上げられてないが、これも死語だな)とかみたいに、社会一般化したために特別呼称を付けて区別する必要がなくなった類の事物では

当時は水の節約のために朝シャンは避けようなんて言説があったが、SDGs現代社会で、出勤登校前にジョギングとかしてシャワーで汗を流すのは止めようとか言われないのは面白い話だなと思う

2022-10-15

anond:20221015063657

基本的にあらゆる事物について考える前に「考えるかどうか」の動物直観フェーズがあるだろ?

直観的に、主観的に「気になる感じがするなあ」と思うから考えるわけで、その部分の話だよ

2022-09-15

anond:20220912130057

ネガティブに感じるのは、類推うんぬんというより、単純に「など」にこの用法があるからだと思う。

この意味だと「こんな下らないこと言ってやがるぜ」みたいなニュアンス解釈することが出来るので。

https://www.weblio.jp/content/%E3%81%AA%E3%81%A9

>2 ある事物を例示し、特にそれを軽んじて扱う意を表す。否定的表現の中で多く使われる。

2022-09-05

それまで興味なかった事物に一気にハマった経験談を聞きたい

どんなきっかけでそうなれるの?

2022-08-24

anond:20220824131856

https://www.weblio.jp/content/%E3%81%AF

2 ある事物を他と区別して、または対比的に取り立てて示す意を表す。

お前の負け

2022-08-20

anond:20220819233915

例に挙げられたものは、どれも不確定なものを指す言葉だな。



関係性」にも類似する性質があるなら、「彼と特定団体との関係性を探る」のような真偽や程度が定かでない事物を取り上げた文は妥当だが、「私と彼は、同じ高校出身という関係性だ」のような文は不適切だと考えるべきだろうな。

2022-08-17

中二病って早めにかかっといた方がええんや

最近ニュースに対するコメントとか見てると

中二病若いうちになってりゃ大人になってからそんな陰謀論めいた事やエセ事物を信じなかったろうになと

一生治らんやつもいるかもだが

2022-07-27

報道番組アイドル声優ナレーションさせるの、あれ本当にやめてほしい。

そういう人の声を聴くだけで変な気分になるし、場所考えろと思う。オタク事物がそれ以外の領域に闖入するのは居心地が悪い。

 

報ステクロ現てめーだよ。

2022-05-20

https://anond.hatelabo.jp/20220520122614


     当院(飯沼病院)には、処方薬のクエチアピン、ベンザリンを取りに来る程度。とにかくないと全く寝られないし、服薬しなかった場合には翌日に全く頭が

       働かないと主訴する。黒羽刑務所体験他者不信から精神状態改善せず非常に悪いまま維持されており、当院院長や主治医の私に対しても

     大声を上げたことがある。そのことで一度警察がきたことがある。勉強熱心が評価され過去東京大学に入っていたが卒業前後から多くの者に裏切られ

      精神破綻し、平成24年に警察2ちゃんねるに書かされて罠にはめられ逮捕刑務所という非常に劣悪な施設で稼働した。

        精神状態は非常に悪く、現在社会人には性格の悪い者が多いと嘆き、他者との交流もなく、事物の理非善悪区別もつかなくなっている状態にあると判断する。

2022-05-12

anond:20220512195442

俺みたいに、支出必要事物に誘惑されないよう精神修養に励もうと思いました、という結論に至らないだけマシではある

2022-04-14

anond:20220414232427

为什么除了我,没有人嘲笑这个地狱?

就像一些作品一样,有这种制造新事物的创新,创业精神,有很多作品都是地狱般的代表

我不知道这已经发生了多少次。

如果你努力工作,鼓励它,上面的人就会开始走火入魔,这条路线肯定会崛起,也会失败,但我看到自己被作为牺牲品。

反正我可以看到它是这样失败的,但有那么多的声音要求下一个诱饵。

这个理论是,嗯,"你没有足够的能力去做你没有能力做的事情"。 而当你试图在目前腐朽的日本做一些新的事情时,你就是一个好心的傻瓜。 我也是如此。 所以你真诚地相信,这是因为你没有这个能力

你是个软蛋,但你不能这样做,因为你没有能力。 你认为如果你是一个体面的人,你就会成功。 如果你足够幸运,来自一个大家庭,那么,这不是零。

太糟糕了。 我像一只蟑螂一样生存着,因为我的家人有点厚道。 我把自己和那个家庭隔离开来,因为他们也是狗屎。 我将继续粉碎那些哭泣的腐朽的创新。

我有办法,但不是在日本。 好吧,如果我出国,我还有机会,我可以用一只蟑螂的生命力来冒一点险,所以我最后一搏了。

2022-04-11

anond:20220409172737

魔法ものを別のものに変身させて謎を解くみたいなゲームを作りたい

例えば石を鍵に変えて使うとか、ヘビを縄にして上に登る、主人公が鳥になって逃げる、あるいはそこら辺のものを鳥にして外に飛ばすみたいな仕組みを使いたいんだけど

現状のこれは全く面白そうじゃないし、仕組みが単純すぎて解決した時の達成感もなさそう

どうやったらアイディアに深みが出る?

アプローチはいろいろあるかとは思う

ただゲームに関して言えば、

手法よりも目的を設定した方がいい場合が多い

自由度に対してルール制限を設定した方がよい

ということが多い

おそらく今回だと想定しているのはパズルアクション、もしくはそれらを含めたRPGのいずれかかと思う。

今回は仮定としてパズルゲームとしてみよう

パズルゲーム場合

この場合パズルゲーム脱出ゲーム推理ゲームという言い方が正しいかもしれない

例えば脱出ゲームなら、閉じ込められているところで想像力を発揮して魔法を使って脱出せよ!になる

さて、この場合の「面白さ」というのどこになるだろうか

おそらく「閉じ込められているところで想像力を働かせる」ところがこれの面白さになるかと思う

魔法が使える、という前提であれば部屋に置かれているものは、表示通りとは限らない。組み合わせることで全く別のものに変わるかもしれない

ただ、あまりにもルールなく何でも変わってしまっては遊びとして成り立たない。

そう、遊びには自由度とともに一定ルール必要なのだ

じゃんけんというゲームにおいてぐーちょきぱーという出せる手が有限なルールがあるから面白くなる

いか自由ゲームオープンワールドのようなゲーム想像してもらえばいい)といえど、使えるギミックは有限であるし、やれる行動も大本をたどればそんなになかったりする

ということで魔法、といっても一定ルールを持たせることが重要になる

このルール自体は何でもいい

例えば「その事物と『しりとり』で繋げられるものに変化できる魔法」というルールだとどうだろう

「へび→ビニール」紐のような形だ

ただこれだけだとなんでも変換できすぎる。最悪扉をラッコかに変換してもOKなわけだ

例えばその事物の大きさや重さのためには、決まった単語しりとりをつないでいかなければとかならどうだろう

扉→ラッコ子供木星いくら

くらいでようやっと扉は変身できるとか

これが面白ルールになるかはさておき、これならばアイディアの深度は「どうしりとり制限を持たせるか」の話に変換できる。

これを突き詰めていけばちょっとしたオリジナリティ行為面白さにつながる可能性があるのではないだろうか

以上のようにゲームアイディア特にギミックそれ自体に主眼を置きがちになるが、

「それを使って何を達成させたいのか」

ギミックルール制限は何なのか」

ということの方がゲーム自体面白さ(世界観アートワークを除く、単純な遊びの面白さ)というに比重が大きいのでそれらを考えてみた方がよいかなあと思う

2022-04-01

anond:20220401095635

跡形(あとかた)

形跡(けいせき)

足長(あしなが)

長足(ちょうそく)

雨風(あめかぜ)

風雨(ふうう)

勝戦(かちいくさ)

戦勝(せんしょう)

気短(きみじか)

短気(たんき)

鼓腹(こふく)

腹鼓(はらづつみ)

子孫(しそん)

孫子(まごこ)

事物(じぶつ)

物事ものごと)

月日(つきひ)

日月(じつげつ)

日毎(ひごと)

毎日(まいにち)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん