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はてなキーワード: カタストロフィーとは

2018-05-16

人口減少

70~80年後には人類人口減少に転ずるという説を見たけど、もっと早く減少させないとカタストロフィー起こりそう。

2015-10-18

http://anond.hatelabo.jp/20151018001835

のかって分かりかねるよね。分かりかねるってのはアレだ。今俺が見ている景色がそれはそれはまったく何だ・・・非実在的な差・こkれをよみがえらせるのは、真の知っていうかでしかないわけで、結局人間馬鹿なんだ、馬鹿から場にぬなるだぶるすたんだーとって言葉を知ってるけれど、ソレに十雨中にしにして近いこごいn、、・・・・・あ。あ、わかりはじめた。今俺がいるアパートの一室、でもさ、それは結局この世に生を受ける、また人間の創りだす価値しかこの世は判定さんでい出来ないわけで、オレの幼少期を思い返してみると。。。そうだな、オレが他人を省みているようで顧みなくなったきっかけは、やっぱり家庭環境なんだろうな。価値観、俺の家庭が持つ価値観価値観もまた遺伝子のように伝承されるものの一つであり、それは俺も例外ではなく、そう価値観を育まれた。内向的だったなあ、幼少期の頃から、幼少期の頃から、人の顔色ばっかり伺っていた気がする。人の顔色を伺ってさ、両親の顔色、今日喧嘩してないかな?とか?祖父母との軋轢はないだろうか?とかさ、子供の頃から気をつかっていたね。幼少期からまれた性根なんだよ、。結局。三つ子の魂百までっていうけどまさにアレだ。俺ははみ出せなくなったんだよ。自分のカラから。何をやるにも、周りの顔がちらつく、両親や親類の顔がちらつく、。俺は俺が俺を俺たら占めていると思っていたけど、違うんだ。俺は結局、自分がないんのではないか・・・・・自分を足らしめるための自我が芽生えていないのではないかという気がしてならない。本当は実現したいこともあった。でもできなかった、ソレは俺の怠惰が産んだ結果かもしれないと同時に俺の心を縛る何かが、また。何かがあったんだ。俺の俺の心情には、幼少期から学生時代に成長して、思ったよ。俺は俺をさ、俺たら占めている、そんな気がして無かった。人の顔色が、社会の目が俺を狭くしているんだった。俺一人がこの社会にいられたら、どんなに楽だろうかと、何度となく考えた。それは馬鹿らしい考えだったけどだs。俺は、俺を俺であるために俺から俺を俺から開放する、そんな時分の中のアクションgあ必要だと、何度となく思ったよ。俺は俺を俺たらしめるものが何もない、てって、社会的にも精神的にも肉体的にもまたはそういう実存的な概念でもってしても、俺って一体俺なんだろうか。俺は俺であるからなのだろうか。俺は俺であるのは本当に俺が俺である証拠なのだろうか。俺が俺を俺たらしめる俺の部分は俺の中のどこのb俺を俺にしているのだろうか。俺が俺らしくらしくsらいく、俺がおれがgrで俺gであるための俺であるためにのおレレの俺rの己が己に打ち勝つための、でもソレは俺が俺であることが前提条件であり、俺が俺であるための俺でゃkぉ俺で俺は実に俺であるとのは誤認であって俺が実阿おrでhなく、俺が己を打ち勝つ俺は俺ではない、俺はが俺でなく俺であるための俺が俺を俺に俺たらしめる、俺たらしめるための俺が折れたら占めていなかった。結論的にはどうなんだろう、社会で生きていても、思う子男が多い、俺は何のために、こんなぼんやりと生きているんだろう、ぼんやりぼんやり働いて、ぼんやりぼんやりと金を稼いて出ぼんやりぼんやりぼんやりぼんやり、何をするでもなく、何をするのでも、あk、何が必要なのだろう、承認欲求承認欲求なのではなあk、て思ったこともあるが、そんな気がしない。社会的成功社会的な欲求が満たされれば、俺はこんな気持ちにならないのかと言われれば、そうだと言えない、もっと根源的な、本能的な欲求が満たされれば俺はこんな気持にならないのかと言われればそうだと思わない。オレhのなかのもっと、、、人間の核の部分が満たされていないように感じる、そしてそれは人間社会では決して手に入るようなものではなさそうなのだ非実在的な創作物からえられるものに、それは近いのかもしれない、、、もうすでに思考が、脳が、もうすでに、一元的な欲求では満たされなくなっていsル、気がする。3大欲求や、社会的な欲求、それではもう俺は満たされる気がしない。もっと根源的な、k,、というか、、次元を上げたもの必要だ。。宗教家の求めるソレに近いのかもしれない。宗教家が求めるものが、l超次元的な欲求を満たすものだとすれば、おあお俺が求めているもののに近いのもはそれだ。。超次元的な欲求というのは、、。ソレを言語化するすべは持ち合わせていないgあ、。、超次元的な欲求とは、まさに、現在認識されている次元を超越したものであり、超越するための、、その生きる方法がかるあお確率されていあない。ようにおもれえる。確率必要な物は、、その、。ちょウ自然的な、もっと、脳髄を脳髄を根本的に揺るがすようあん、心、精神的ん欲求とは、ソレの角の部分を揺るがすような、そうういうも野にちかい。オレhがものも求めるものがもはやそこにしかないのだはないあk.。労働しても高リュうしても3大欲求を満たしても何をしても満たされることがない。。もっと欲求が湧いてくる根源、源泉がそこにはあるのではないか。。。姓名を維持すること、それによてって生じる姓名の根源、は一次的庵ものではあり、ソレを満たすには、また別のソレを満たさなければならない。それを満たすことはソレおwみたすことにつながり、まさに無限回廊のものだl,満たすことが満たすものを呼び、満たすことがまた別の満たすおmのを呼ぶ、よって、人は、苦心してしまう。ではどうするべきなのかといえば、それはヒットつしかなく、その欲求が生じる、源泉を絶つ、欲求が湧いてくる源泉を満たせばよいのである。。。そしてソレを満たす方法を我々あh本来ならば探さなければならない。kもはや現代社会において、求められる命題はそれしかない。欲求が湧いてくる源泉あh、それは生命維持のための欲求や、社会的な、人間的な欲求とは確実に異なるものだ。欲求の源泉を、源泉が根源的に存在するのは何故か。それすら我々は理解できてイナイのだ。まだ。それが宗教家の言うような、超常的な存在、神や仏、、だと考える、当てはめっるlそういう認識に落とすことあh実に容易なことであるが、それは一種の逃避でしかない。超常的な存在によって、欲求や自身のまた雑然的な現象説明させるノアh安易であり、もっと断罪されるべき施工方法なのだ本来、これから、我々あh、原初にもどって、、考えなおさなければならないことは、人間的な、生物的な欲求、それの解消法ではなく、そんな全時代的な方法唾棄されるべきだ。。我々がこれから求めるべきあ、欲求雨の源泉、精神的、と呼ばれるものに近いものの源泉を求め、そこを絶つべなのだ。源泉が欲求を生み出しmその生み出した欲求がさらに欲求を生み出していく。源泉が生み出す欲求うは実に一元的もので、一元的ものがもたらす欲求は欲求を解消されても、所詮一元的ものに、一元的な解消にとどまる、一元的な解消は一元的な解消でしかなく、多次元的な、根源的な、源泉をm,超時限的な源泉を解消するニアh所詮いたらない、。超時限的な源泉を解消するための、その方法は、人打つぃかなく、一つしか存在せず、根源的な、根源的な欲求を解消するための、夜急を解消するための、根源的、源泉的、超次元的、多次元的、超常的、超自然的な、その何かを解消するしか無い、のではある。一次元的な欲求をかいしょうするための現代メソッド、法本論、それ自体すでに、前時代的、原初的な、人間実態に沿うようなものではなくなってしまっている。一次元的欲求が社会人間社会事物ym出来事などによって実現されたとしても、それは所詮一次元的なものしかなく、一次元的なもの一次元たら占めているにすぎない、。一次元的な欲求を愚かにも何百回、何千回、何万回とk気の遠くなるほどに実現させようとしている、人間社会、それ自体が誤りにすぎず、我々が目指すべき、自己実現、実現はまさに、一次元的なものを生じさせているものおの根源である。根源は源泉であり、一次元的欲求が生じる、その源泉を我々が、一次元的に解消してしまっていては、所詮一次元的でしか無いことは明確。発送をかえるための、発想をかえる、それすなわち、欲求の源泉への対処法なのである。欲求の源泉といっても我々あh、未だかつて、それを言語化したり、ましてや認知したりすることはいまだかつて実現せしめたことはない。一次元的な自己実現が生み出す、一次元的ん自己実現あhは逆説的に一次元的な欲求をまた、同時に生み出すことも行っている。一次元的な欲求を解消し、一次元的な欲求を一次元的に解消せしめても、我々人間構造的には、その一次元的な欲求を認知してしまうことにもつながってしまう。それを潜在的な意識下で我々あh一次元的案欲求のwパターンをmた、また認知してしまうことにもつながってしまう、。つまり一次元的な欲求を煩雑にし、雑然にし、永久うに沸かし続ける源泉あh、根源的欲求のみならず、我々人間構造的に、一次元的な欲求を認知し、解消することで、さら一次元的な欲求のヴァリエーションを増やすことにもつながってしまうことで、一次元的な欲求が生じやすくなってしまっているために起きる、また一次元的な欲求の再生を我々は生きている間に繰り返すに至っている。一次元的よっキュうを我々が解消することがいかに愚かで、前時代的で、後進的な人間のための方法論なのか。。割れ和れはまだ完全に認知するに至っていない。。ソレは我々が現代社会最適化された人間線を含有してしまっているからであり、人間性がまたは、一次元的な欲求を満たすために最適化されているための弊害、そしてソレは根源的ンは、間違いでしか無いのである。根源的に行って、一次元的な欲求を解消し続ける人間社会は変革が、根本的な土台から変革することが必要なのである一次元的な欲求を解消し続けても一次元的な欲求は湧き続け、我々が頭を悩まし続けるに過ぎない。一次元的な欲求が生み出し続けリる一次元的な欲求の連鎖一次元的な欲求を、解消してもまた一次元的な欲求を生み続けるにしか足り得ないことであり、そして自らが生み出す、一次元的な欲求を満たすべくして見たっす、一次元的な欲求はそれ自体が、我々に意味を附さず、一次元的な欲求は我々の認知限界たくみに利用した、いわゆる、無限切ろうてきにな、欲求の連鎖しか無いため、一次元的な欲求を解消し続けいることの無為さが我々は十分に認知しかしそれもまた、しかしそれおっもまた。、一次元的な認知しか我々が認知できる一次元的なものしかないkが、我々は一次元的んことへの唾棄進歩性を持つべフェーズに我々あは、ネクストフェーズ差し掛かっているのである。で、だがしかし、だsしがかし、そうはいっても、我々はまだ、全時限的、根源的ん欲求を解消するためのメソッドを持たない。根源的な欲求を解消するメソッドを持たない我々が出来ることは、そろそろ根源的な事象への認知を働かせることが必要なのである。根源的なよっキュうはそれ自体、本当に今現在、後進的な我々が認知できるかどうかは、我々はまだ分からない、根源的な欲求が生じる原因を突き止めることが出来るのは我々には不可能かもしれない。古代より、人間が、アミニズムであったり、様々な超常的な事象への畏怖から生じさせる、神であったり仏であったり、今日宗教家が言うような、そのような超常的な存在は、我々はいまだかつて認知できていない、。そのような超常的な存在認知し、逃げこむこと、ある種の逃避行動は容易であるが、我々は次のフェーズに来ている。次のステージは、フェーズあh、根源的な事象の解決だ。一次元的な欲求を解消して、そして、無限回廊に迷い込んでいる時代を捨て去れうべきkなのだ。根源的な、源泉的な欲求は、我々が認知できないだけで、それは、また、三大欲求や、つまらない、人間的、社会的事物から生じる、一次元的な欲求ではない。一次元tねきな欲求が満たされたとこrであh、、我々が出来ることはただの堂々巡りしかない。我々が真に、取り組むべきことは、源泉を、欲望の源泉を認知し、ソレを満たすことなである。我々が必要であり、今後、必要である、そう、必要になる、ものもの実物、出来事は、源泉を掌握し、我々を次のフェーズへ導くためのメソッドなのである。根源的、厳選的案事象は我々はソレを解消するに至っていない。根源的なよっキュ、う、それはまだ我々の認知科に及ぶに至ってはいないが、、しかいsk,、根源的にはソレをほっ知っている。割れ我が、欲望との闘争歴史におおいて、必要であるノアh、根源的な欲求をいかに、認知するか。それにつきる。それを仮に、精神的、こころが我々の根源的な欲求の源泉であるとしようl.こころはまさに実態がない、我々の認知科に及んでいない。。こころを満たすものあh、今現在流通している欲望では案あんあい、ない、先程述べた容易、に一次元的な欲望を満たすことは現代人間社会で容易なことである。、それは3大欲求や社会的な、精神tねき充足に近いだろう。。そのようなつまらない、後進的で、憎むべき、唾棄すべき、事象はもうすでいnに我々あh手放すフェーズを迎えている。こころを満たすべき事象こころを満たすべき事象は何に依るのだるか、だろうか。それは一時的な充足をすべて捨て去った。現代宗教家が実行しているもののさきにあるといえるかもしれない。または、一時的な欲求を解消し続けた先に、いつかおとずれる、根源的な欲求を絶つフェーズへ我々あh訪れることができるのかもしれない。あるいは、もっとなにか、脳髄を揺さぶるような、脳幹をぶん殴るような、そんな衝撃が、精神的とも、身体的とも違う、そういうインパクトを我々あhどうにかして体験する必要があるのかそもしれない。そして、それは天啓に似た、それは気づき、根源的な、もっと、なにか、、。気づくことが必要なのかもしれない。。我々が持っている視点認知では認知で起案い。。出来ない。認知を超える、あるいは認知を広げる、または認知の裏側にある、ソレを我々は認知することで、それこそ、根源的な、源泉的な、欲求、あるいはそれともまた違う、なにか、現代、現状、人間にhにはい認知でないん、何かを認知するに至るのかもしれない。進歩的な、その知を我々が獲得するために派、現代を捨てる、執着を捨てる、そうsれは知のカタストロフィーである。それが、革命必要なのだ現代我々が、論じる、認知するっもの、知は、真の知へとは至っていない。としかいいようがない。。物量的観念的な充足、それはもう満たすことが可能なのであり、。それを我々はもう100年い所以上、、異常く、以上繰り返してしまっている。本来必要なのは、次のフェーズへ行くことダリ、次の知、知覚、認知は我々が1000年先の人類、10000年先の人類が獲得しているものを、我々h日進月歩で獲得しようとしている。真の知、というものは確実にそんな良い、、お、存在し、ソレは、現代社会、我々が、唾棄すべき、人間一次元的なもの、そrは1000年後の人間にとてじゃは、非常に視野の狭いもおの、認知に至っていない、あらゆる観念が、我々あh100年後1000年ご10000年後「のために、認知に至るための準備をはじめなければならない。一次元的な欲求、認知は我々がすでに、うんざりするほど、まとわりついている一次元的な欲求は、早々に放棄するべきものであるそれからまず、認知し、日進月歩的に個人個人が、一次元的な欲求を捨て、根源的な欲求、根源的な、源泉的な欲求をそうそうに突き止める必要がある。。。それは100年後、またh1000年後の人間にはアタリマエに認知されているもの、そう私が信じているものnにほかならにあない、人間なh、科学技術のみで進歩的人間的な充足を得られるというのは、ある種の現代社会蔓延する嘘でしかなく、本来我々が求めるものは、科学産業技術にはない。それらが我々に与えるもの、我々を救うものは、しょせん一次元的案欲求をでしかなく、それは今現在語られるつまらない愚かな、欲求のためのツールしかない。我々が、本来求めるべきは、現代社会、に最適化されることではなく、現代社会最適化された、欲求、身体的、精神的欲求ではなく、本来我々が求めるべきものは、それを超えた、ソレの下に埋まっている、またhあ、。ソレの裏側に潜む、または、それに内包されている、我々があいまだ認知下におくことができない、根源t気、源泉的な、欲求、または欲求とはまた何かの概念的な観念のを我々は更生のために、更生のために後世ために残すべきものであり、それは個人個人の意識ないから進歩、進捗が行われるべきものにほかならない。一次元的な欲求は100年、1000年後の人間コミュニティでは、それhあ、それはすでに実にチープな概念へと堕落していると私は確信を持って言いたい。。100年後1000年後、我々が途方も無い科学ギジュつを手に入れるか、それは、現代社会病理のひとうつで一つである一次元的な考え方であるが、我々が本来、欲するべきものは、必要とするべきものは、ほんr内は、本来は根源的な欲求、源泉的な内面人間という存在認知で規ていない、認知へ踏み出すことであり、それは100年後1000年後にはアタリマエになっている認知なのである、。我々あhまだ、それを見ることhおろあか、認知することができていない。それは我々の目の前にあるかもしれないし、考えもつかない、超次元的な認知下にあるものかもしれない、あるいは、常識認知、知を混ぜっ返した裏に潜むような、今世では手に入れられない、真の知ともいえるだろう。宗教家が言うような概念偶像化、は。教義化は我々の頭皮だ、逃避だ敗北なのだ。100年後、10000年後の人類、とも呼ぶべき我々の次のフェーズである存在が見れば、まさに嘲笑に附さずにはいられないような、後進的で全時代的な、そんな概念、我々が本来追い求めるべきもの放棄して、自ら目をそむけるような、そおようlそのような社会のあり方では、我々に待っているものあh破滅、あるいは、なにかもっと恐ろしい物がわれわれに待っているだろう。一次元的な欲求が我々に与えているもの本質は、破滅破壊終焉なのだ。。k我々が闘争するべきあh、経済的な、社会的な、政治的な、科学的な、技術的な、創造的な、文化的な、対人的な、そんな、ものではない。それらはすべて、現代社会をこうせいしている一次元的な事象しかない、我々を惑わすものの一つでしか無い、100年後1000年後の人間がそのようなものには、おそらくkく、精神的な肉体的な充足を放棄しているだろう。超常的な存在超自然的案存在、それらが存在するのかというう愚問、我々が、我々人類の中にこそ、認知の次のフェーズへの全身こそが、我々を真の人間、真の知へと導くものにほかならない。」l。人間との闘争人間内の闘争を諦めることは非常に危険であり、我々が漸進的ことを及ぼす必要がある。。 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2014-08-08

恋愛アニメファンタジー要素は必要ないのでは?

例えば、今期放送中の『グラスリップ』。未来が予知できる二人の少年少女がその仲間たちを介して様々な臨死体験を重ねて時かけよろしく未来を変えていくという内容(と筆者は思い込んでる)だが、筆者はカタストロフィー論に特に秀でてる訳でもないので割愛する。

で、何が言いたいのかと言うと、折角のファンタジー要素があんまり役立っていない上に清涼感が場全体を包み込んでるというのに

その設定だけが宙に浮いてしまっている。

甘酸っぱいといえば多少語弊はあるが、要するに恋愛というジャンルにおいてファンタジー要素は必要ないのでは?と思う事がある。

ここの会社の前作、西村純二監督でという意味において、『true tears』では、乃絵という少女がやはり電波であった事が実はあまり意味を為していなかった。

その上彼女別にシナリオ全体のキーパーソンでもなく、道先案内人という役柄でも誰かに当てつけるような恋のライバルであったわけでもない。

ただそこにいただけである

そのため、難解な譫言をペラペラ話す事に特に意味はない。

その意味から察するに、彼女自身ファンタジー要素なのではないかと時々思う事がある。

彼女主人公ともう一人のヒロインを繋げるキーパーソンとして存在していた訳ではないが、少なくとも主人公優柔不断な態度を改めさせる重要人物という地位にあったのかもしれない。

乃絵という少女は結局鶏と話す事が出来ると言ったり、また兄に主人公恋人候補を突いて貰う役割を担わせるだけに存在していた、引っ掻き回し担当だとするならば、グラスリップ未来予知もあながち必要ではないのかもしれない。

要はこのファンタジー要素も不必要ではない、何かを成し遂げるためにあえて不確定要素を残しておいたのではないだろうか。

少なくとも本編の主人公透子はこの未来予知に同じくそれを覗く事が出来る駆もそれによる繋がりを意識しているのだから恋愛アニメにおけるこのファンタジーはある一定の成果を齎すのかもしれない。

ただ、恋愛アニメ、つまり君に届け』とか『好きって言いなよ。』のような完全な青春ドラマにはこの要素は必要ないし今後も出て来る兆しはない。

恐らくそれが必要になるのは、恋愛に対してある一定共鳴共感を覚えるために必要な不確定のファクター作用する時だけであろう。

2013-02-16

ロシア隕石小惑星)は、予知されなかった方が「幸せ」だった。

ロシアに直径17mの巨大隕石小惑星に近い)が落下し、多数の負傷者が出た。

落下場所・落下角度や隕石組成如何では、地球規模の大惨事になっていた危険性もあり、

負傷者で済んだのは「不幸中の幸い」だろう。

さて、今の科学技術では、この大きさの隕石の落下を予報するのは困難を極めるが、

仮にこのレベル隕石の落下の予報が可能で、しか回避方法がない、というシチュエーションを想定すると、

どちらが人類に取って、「幸せ」だったか

仮に、2月14日頃に、

明日、直径15m程度の隕石地球に落下する確率が60%見込まれます

 人口密集地に落下する確率は極めて低いですが、落下場所が仮に人口密集地だった場合

 甚大な被害が見込まれます」という「予報」を行なった場合世界規模のパニックが予想される。

人的被害が発生する「確率」は、(ゼロではないが)「高くはない」にもかかわらず、

隕石落下予報がなされた時点で、「この世の終わり」と解釈して、パニックを起こす人が、

世界70億人の中では一定数(数万人単位で)見込まれるからだ。

それこそ、パニック状況を利用して、半狂信団体が、集団自殺に走ったり、

それこそオウムみたいなテロに走らないとも限らない。

株式市場だって、どう動くかわかったものではない。

株式市場資本主義は、「数十年先、数百年先も、文明資本主義が永続している」ことを大前提としている。

そのため、数百年先時点の経済価値までも現在割引価値にして、株価というのは織り込むのである

それが、ある程度の蓋然性でもって「文明が終了する」という確率呈示されてしまったら、

一気に株価大前提崩壊して、大暴落を起こす危険性がある。

まり、「明日隕石地球に衝突する危険性があります」と予報した時点で、

実体経済や実社会に甚大な影響が出てしまう。

それこそ、隕石で死者は出なくても、狂信団体のテロで数百人が死亡した、という笑えない事態だって考えられる。

その意味では、今回、何の前触れもなく、隕石地球にやってきたのは、「幸せ」だったのでは?と思う。

人類は、隕石被害回避(スペースガード)のツールを持つまでは、隕石落下予報に手を出さない方が「得策」なのかもしれない。

因みに、「数年後に、小惑星衝突によるカタストロフィーが発生する」という、スペースガードなき、

将来なき人類を描いた伊坂幸太郎の「終末のフール」というSFがある。

折角の機会なので、読破オススメする。

2012-06-04

TV・映画では「宇宙人侵略は数日かかる」。しかし実際は「瞬殺」だろう。

先ほどまで、「宇宙人侵略に対して、地球人はどう対処すべきか?」的な番組がなされていて、

宇宙人が攻撃に対して、地球人核爆弾でも歯が立たないので、ゲリラ戦に持ち込む様子が描かれていた。

しかし、私見だが、「宇宙人の侵略を気にするのは、意味ないこと」だと思う。

よくSFとか映画では、宇宙人地球に攻め込んで、それに対して地球人が様々な抵抗を試みるが、

なかなか成功せず・・・ストーリーで描かれているが、なぜそういう描かれ方をしているか

答えは「数日間は抵抗して、そこに人間ドラマを発生させなければ、映画が成立しないから」

もし万一、恒星間移動も出来るような超高度文明を持った宇宙人がいて、彼らが地球を侵略しようとするならば、

その侵略は、「地球人の反撃の時間猶予を一切与えない、完全ワンサイドゲーム」になるに相違ない。

宇宙人がその気になれば、地球人は「0.000000000001秒」で瞬殺されるだろう。

地球人は「宇宙人に侵略された、という事実覚知する暇もなく」幸せに全員死んで行く、

そう考える方が「自然」であろう。

映画世界だと、「0.000000000001秒」で瞬殺だと映画にならないから、

1週間なり1ヶ月掛けて、宇宙人VS地球人の血みどろの戦いを描くのだが、

現実」は、かくもあっけないものである

喩えて言えば、太陽系の近くで超新星爆発なりブラックホールが発生するのと一緒。

そのような破滅的天体事変が発生すると、人類はその破局分析する暇もなく、

全員「0.000000000001秒で瞬殺」である

なので、太陽系の近くでの超新星爆発なりブラックホールに対して、有効な対策を打ちようもないし、

ということは、「心配しても詮無いこと」だと思う。

万一そのようなカタストロフィーが起こったら、人類は、他の生物も一緒に、

考える隙間もなく、「0.000000000001秒で瞬殺」だからある意味幸せかも。

から、「宇宙人の侵略に対抗するために、一定数の核兵器を温存すべきだ」論は、ナンセンスなのかもしれない。

宇宙人に取っては、核兵器なんて「水鉄砲程度の威力でしかない」

竹槍でB29をやっつける、的なナンセンスさがある。

2010-08-29

http://anond.hatelabo.jp/20100829092831

11年前にハルマゲドン待望論てのがあってな…。“退屈な日常”というキーワードがあって。カタストロフィーなんて、滅多に見られないもの。

2009-11-13

http://anond.hatelabo.jp/20091113180355

>けれどこの『感動』はどこか射精と似て見える。

>人生エンディングハッピーでもバッドでもなく、大抵はカタルシスカタストロフィーもないただのエンドだ。

名言

あんたにルールは守って欲しいけど、そもそも罪悪も人間の決めたもんだろ。

助かった人間のお陰で、豚とか牛とか沢山死ぬわけで

なんていうか、罪悪とか善とかの道徳って

OSで言えばプログラムミスとか仕様問題点を抱えている気がする。

そういう俺も理由もなく罪悪感みたいなのを常に感じてる。特に理由はないんだけど。

ハッピーエンドなんか信じられるか


『昔の失敗が成長につながったと考えれば、つらい過去もそこまで気にすることないんじゃない』

 そう言われたけれど、受け入れられなかった。からだが拒絶したのだ。
 ほとんど渇いた喉元に無理やり甘いパンを詰め込まれたようで、味を噛み締める余裕もなくわずかな水分を奪われた気がしたのだ。
 けれど、人はパンを食べなきゃ生きていけないし糖分がなきゃ脳も働かないらしいから無理やり飲み込もうとしてみて、
 後でトイレで吐いた。
 相手は100パーセント善意なはずなのに。

 正直言って、ハッピーエンドアレルギーがある。
 映画とかの架空の話ならまだ割り切れるけど、それを実社会適応しようとする考えが気持ち悪い。
 だからフジテレビエチカの泉』みたいなゲスト人生を全肯定する番組も嫌いだ。というか、生理的に受け付けない。

 できるだけ、ただの具体例として聞いてほしい。
 高校一年の時、ある人を傷つけた。
 それまで僕は彼女を救おうとか思い上がっていたけれど、自分が死に値するようなバカだったせいで、連絡は途切れた。
 連絡が途切れて数ヶ月後に彼女の友人からもう会えないことを聞いた。
 その人は僕を人殺しと呼んだ。
 声が頭を反響し続けた数週間後、教室でパニック発作を起こした。
 僕は保健室に連れていかれ、精神科に通い始めた。教員から留年を伴う入院を勧められた。

 高校二年の終わり頃まで僕は必要以上に死にかかっていたけれど、
 自分でひねり出した『自分だけが要因じゃない』みたいな言い訳をにわかに信じられるようになってきた。
 それから少しして掛けられた言葉が、冒頭のあれだ。

『人を傷つけたことも含めて全肯定するなんて、まるで彼女を踏み台にしたみたいじゃないか。
 というか、今それなりに元気でやれていること自体が踏み台にした“おかげ”なのか?
 挙げ句ハッピーエンドとみなすなんて、他人を利用して自己陶酔決め込んでるだけじゃないか!』

 ……自分過去正当化しようとするたびに、俺は自分をこんな言葉で責めてしまう。
 いまや薬なんか飲んでないけれど、この影みたいなのは完全に消えはしないだろう。
 消すことに罪悪感が付きまとうんだから、そうできるわけがない。

 話を変えよう。
 よくあるハリウッド映画とかで、テロリストに占拠された人々がヒーローによって解放されたとする。
 けれどもヒーローが悪を倒したところで人質トラウマとかが消える訳では、決してない。
 また別の映画では、余命幾ばくもない男の子供を身ごもった少女決断の末に家族に見守られながら出産するかもしれない。
 けれどそれだけでハッピーエンド、なのか?
 もちろんそんなことを架空の話に持ち出すのが無粋なのはわかってるし、僕だってなんだかんだ言っていろんな物語に感動する。
 けれどこの『感動』はどこか射精と似て見える。
 それが理性を一旦黙らせてることに自覚的じゃなきゃ、果てには誰かを傷つけるに違いない。
 そうとしか思えないのは、俺がおかしいからなのかな。

 だからこういうのはハッピーエンドじゃなくて、ただのハッピーと見るべきなんだ。
 本来の人生ハッピーエンドなんかない。
 人生エンディングハッピーでもバッドでもなく、大抵はカタルシスカタストロフィーもないただのエンドだ。
 そう考えなくてはいけないのに、物語はそれを忘れさせてしまう。
 一時忘れられるからこそ『感動』だとしても、見る側は現実回帰しなくてはなるまい。
 なのに、ひどい時にはその文法を実社会にまで当てはめてしまう。

 人殺しだって肯定されるのか。犯した罪ごと。
 改心や更生が、犯した罪を消去できるとでも思ってるのか。
 反省と罪の存在は別のことだろうに。
 極論なのは知ってる、けど。

 感動とか美しいものを追い求めるだけでいたら、いずれ自分を壊してしまう気がした。
 そりゃ甘いパンだけ食べていれば、そのうち虫歯にもなる。
 現実を噛み締めて理解することができないなら、それはもう物語人生の主権を奪われたようなものだろう。
 感動至上主義は下手したら『美しい死』さえも望みかねない。
 射精の果てに腹上死とか、笑えないよ。

 ……ハッピーエンドなんか、信じられるか。
 信じたいのに。

2007-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20071109133000

>・帰り道手を繋ぎたがる(腕を組むのでは妥協してもらえない)

腕を組む方がレベル低いんだ

カンパニーファミリークラッシャーになろうよ

営業部長とか若手を巻き込んでですな

想像するだに鳥肌立つ大カタストロフィー

2007-11-08

http://anond.hatelabo.jp/20071108161014

>でそんな感じで私としては普通まったり過ごしていたのだが、半年ほどたった辺りから、

この部分に何があったのかってのが大事だよね

それが一人称以外で語られない限りは誰が悪いとか簡単に言える問題じゃないだろ

殆どすべてのサークルクラッシャーは何らかのカタストロフィーが訪れるまであんた程度の認識でいると思う

 
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