はてなキーワード: 昭和時代とは
言語や文化、市場など基本的に「閉じた社会」である日本において、お上に承認されることにより連中の視野が広がったように見えているだけです。精神的鎖国はむしろより強固になりますし、実際特に文化的側面において取り残されているのは、諸君もよく指摘されるとおり。
大衆の反発ごときでは微動だにしない強固な権威構造がこの国にはあって、原住民はそれに阿諛追従し、おこぼれを頂戴することによって生かされているということです。
近代的ではない自我(原住民)が結合することによって、全体主義が出来上がるのは歴史が教えるところ。相互監視と同調圧力といった悪しき伝統も剥き出しですから、危機感持たないといかんでしょうね。
この国では公共交通が公共性を捨ててしまい、東洋社会の国民に蔓延する我欲の増幅装置に堕してますからね。あんな低俗なガス抜きに煽られる大衆が相手なら、企業は楽に稼げますし、権力者もやりたい放題でしょう。その行き着く先が何かということなんですが。
そんなカタストロフィを予期して自分らの取り分を確保し、逃げる準備をしている連中が散見されますね。連中は昭和時代の危機をそうやって乗り切った奴らの後裔ですから、やることは同じです。欧州各国のように軟着陸できればいいんですが、困難としか言いようがない。
大したことは言えませんが、個人が抱く企業や権威に対する生々しい危機感と当事者意識が日本と外国では段違いだなとは思っています。日本の大衆は疲弊しているとかよく言われますが、それは言い訳にはなりません。例えば韓国なんか日本どころではないくらい生活(たとえば通勤)は大変なので。
それはたぶん、自己や現状に対する肯定感の違いでしょう。何だかんだ言って日本人は今の日本の都市が好きで、韓国人やアメリカ人は祖国があまり好きではない。日本人にとっての「日本」は社会臭の希薄な共同体で、日本人はこれにぶら下がりますが、外国の場合はかなり決定的に違います。
公機関や民間共同体が自国民を養育し、中心から片隅まで面倒を見ていた時代、あるいは国民一人一人がそう信じることができる時代がいつまで続くかでしょうね。おそらくそろそろ限界。外国は最初から(良くも悪くも)そういう国ではなかったんです。
私は最近特に顕著な「日本の満員電車離れ」「日本の鉄道離れ」に注目しました。あれは、これまで日本の都市の信頼を約束してきた共同体の裏切りに対する訣別宣言です。そんな彼ら彼女らの受け皿として道路交通が機能するかが日本の復権の勝負の分かれ目でしょう。
とりあえず昔とは違い、日本国や日本の民間共同体がハード・クラッシュしたら困る人達が日本の外にもいるので、決定的な事件や災害、戦争などが起こらない限りは軟着陸するんじゃないかなとは思ってます(それが良いかは判りませんが)。
日本の場合、日本人の「日本的共同体幻想」と言語の壁のせいで精神的鎖国が続いてますから、常に「まずい」状況なんだと思います。日本の私鉄社会は車社会や国鉄を破滅させながら自分らの権益を確保した連中の残りカスですから卑怯なのは当然。そして同じように危険でしょうね。
韓国にしろアメリカにしろ日本ほど懐の深い国ではないですし、引き籠っていたら生きられなかったので外に目が向くんです。国際都市のインフラがガラパゴスではお話になりませんし、国内で市場が完結したら大国になりませんしね。当然、資源も流出しがちになるので、移民や外資や在外国民を受け入れたり、中国や主要先進国に学ぶ方向に舵を切ったということです。
日本人が日本の未来を中国や韓国になぞらえるのはそのへんの文脈。欧米やその既得権益の支配によってもたらされた貧困で食い詰めて切羽詰った原住民が、革命を起こして、エスタブリッシュメントになりましたよね。さすがに日本人はそこまでになれるかわかりませんが。(笑)
質問です。
私は鉄道が好きでそのニュースを見ていたけど、鉄道嫌いの人たちのコメントで埋め尽くされていた。
ぼくにはさっぱり分かりません。JR東日本は四季島について「おもてなしを提供する列車」って言っていたけど、問題は一体何?
確か大人の人達が「昔にまして車社会が酷くなっていて、搾取を工夫しないと生き残れないから」と言っていた。
けれども、今ではぼくの住む大都会も田舎も通勤通学ラッシュが深刻化しているほど公共交通は元気です。
今週か先週も、チカンという酷いことされたお客さんが「電車が怖い」と言っていました。
あとさ、バイク産業は停滞していると経済のニュースでバイク会社のホームページで嘆いていたけど、学生街の道路は昔に比べてバイクの混雑が酷くなっている。
パパもママもお姉ちゃんも交通事故が心配ばかりで、満員電車が云々とか言っていられない。
でも、世間は新車販売台数が減ったといえば、車社会は終わったとか言う。しかし現実は中古車とかあるから、車社会は終わってもいないんだね。(インターネット見て知ったんだけど)昔暴走族が流行っていたけど、その人たちが使っていた車やバイクは今も元気に走っているんだよね。バイク屋さんでも昭和時代や平成初期のバイクがいっぱい販売されている。車やオートバイって、50年以上長持ちしなければいけないというルールでもあるの?
ねぇねぇ誰か教えてよ。鉄道会社、オタクのお兄さんお姉さん。大人の皆さん。商売を出汁にいくら迷惑をかけても許されるの?先見が読める人は馬鹿呼ばわりされるの?
元記事:http://anond.hatelabo.jp/20170418044917
ただのストレス発散で書いたつもりが、1日2日でここまで反響するとは思ってなくて、びっくり。あちこちに記事が広がってる。とりあえず元記事の誤字脱字修正しました。
賛否両論の意見、PTAの在り方に対して疑問や不満を持っているひとがいること、PTAに対していろんな考えがあるのがわかった。
・ワーママは忙しい忙しいつってなんでも専業主婦に押し付けてくるんじゃねーよ!
とか。
化してるんじゃないかって話。
誰がPTAをやるかってやっぱりもめるんだ。お前がやれよ、お前がやれよって。
でも専業主婦もワーママも、本音はしたくないことだから、もめる。
だからなくなればいい。PTAの良い働きだけ、違う形で残せば。
誰かを否定しあうことではなく、そうなる原因がなくなったらいい。
いくつか気になったことがあったから、追記しとく。
なんでわざわざなんでそんなこと書くのかって?
この記事がマスメディアにもっと拡散されて、いろんなひとがPTAに疑問を持って、PTAの在り方が変わる「きっかけ」になってくれることを願うから。自分の子どもが大人になって親になるとき、子育てしやすい環境になっていてほしいから。
追記事項は、4点。
①PTAをなぜやめられないのか。なぜ退会できないのか。ママの本音。
それはママ友達の怒りを買い、子どもがいじめの対象になったら困るから。
別にママ友っていったって、友達じゃないから何言われたって構わない。でも親がママ友に悪く言われることで、ママ友間のトラブルの矛先がその「子ども」にいくことがある。
たとえ異常と感じていても、親である以上、子どもがいじめられる原因を作れない。それがPTAに参加しざる負えない共働き世帯の親達の弱み。はっきりNOが言えない。
②なんでPTAに参加しないとトラブルになるのか。PTAが正しく任意加入を説明してないから。
多くの保護者はPTAが任意のボランティア団体って知らない。入学当初は「絶対入らないといけないもの」みたいな感じで説明うけたし、加入の同意とかも聞かれなかった。同意なく自動的に加入して、自動的に口座からPTA会費が引き落とされてる。
「なんでPTA役員やらないんだ!」「なんで手伝わないんだ」ってみんながなすりつけ合い、トラブルになるのは、そもそもみんなが「PTAに加入して、参加しないといけないもの」って認識してるから。
PTAがちゃんと任意加入であることを、しっかり全員にわかるように説明しないからじゃないの?
だから仕事や介護は免除理由にはならない。強制的なものとみんな思ってるから。そういう規定になっている学校は多い。生活を守るものにも支障をきたす、その強制力は異常にきたしているのに、それが当たり前になっている。生きていくのに必要な仕事や介護、看病に支障をきたす地点で、もうPTAって組織が病的な末期状態であることを、知ってほしい。
絶対しないといけないことを「できない」ってやつがいたら、「はぁ?」ってなるのはあたり前。トラブルの原因。
PTAはしっかり「任意加入」であることを、今一度保護者達へ周知徹底しないといけない。じゃないと、PTA参加しないやつは「悪」っていう、まちがった認識が改善されない。
③PTA協議会はPTA会費何につかっているの?っていうかその活動必要?っていうの多すぎる。
PTA会費って本当に何につかってるのかわからない。学校で使ったPTAの費用じゃなくて、PTA協議会のほうね。
保護者達が払ったPTA会費の一部はPTA協議会に徴収される、らしい。
なんだけど、どうもその会計報告をみてると疑問が多い。
PTA協議会は日本PTA協議会っていうトップがあって、傘下に各都道府県や市町村にPTA協議会がある。それらの資金源は保護者から徴収したPTA会費とか寄付金とからしい。
どうもその会計報告をみてると、「それ、いるか?」っていうのばかり。
年間で各保護者達から徴収したPTA会費が1300万円くらい、その他寄付金などいれて、2700万くらいの資金がある。
そのなかでも、これ本当にいるの?って思ったシリーズ。
http://www.osaka-prefpta.jp/news/201612041.html
え、ちょっとまって、
いる?これ。
個人的には大会とかしたいなら、実費で個人的にしたいひとが自分の資金でやってくれって思った。
その他気になった経費シリーズ。
・各会議の旅費 55万円。どこにいくの?
・人件費 約730万円。 そんなすごい人手かかるの?
決算報告書:http://www.osaka-prefpta.jp/img/pdf/27k01.pdf
疑問出まくる。謎多すぎる。
わたしはそういった大会とかコンクールとか、よくわからん旅費とかに使う予算があるなら、子どもの安全とか、こども食堂とか無償の塾とか、教育に必要な施設投資とかに費やしてほしいのが本心。
っていうかPTAって子どもに対する親と教師の社会教育の団体のはずなのに、広報コンクールってなんだよ。PTA同士の能力争いになってるやないかい。もうPTAの目的、趣旨ずれてきてない?
ちなみにPTA協議会の役員報酬は、規約に記されているらしいけど、妙に給料が高い。って思ったのわたしだけ?
(報酬の額)
第3条 俸給月額は、500,500円を超えない範囲で、その都度会長が定める。
第4条 賞与は、年間2回とし、俸給月額の5ヶ月を超えない本意で、その都度会長が定める。
(その他)
参考:http://ameblo.jp/wasabiabo/entry-10452669422.html
これ今もそうなの?
平成17年度のネット上の情報だけど、最新の役員報酬はネットで検索したけど見れなかった。見つけたら教えて。
天下りの匂いがプンプンするけど、思い込み?有志のボランティア団体のわりに、トップもらすぎだろがい。
たぶん、うまく節約できたら1小学校につき登校時だけパートのおばちゃんとか、パトロールの人雇えるんじゃねーの。
無償の塾とか子ども食堂とか、たてれるんじゃねーの。こどもが遊ぶ広場、一個くらいつくれんじゃねーの。
とりあえず、親と教師が協力する社会教育に、何十万もかけるコンクールとか大会とか必要なのか疑問。時代に応じた子どもの教育のニーズをもっと精査して、必要な活動、費用、取捨選択してほしい。
④PTAの働きすべて、今の時代の子どもと親のニーズに合ってる?なんで見直さないのか
PTAってのは、もともとこどものために親と教師が協力して成り立つ社会教育の組織。
今のPTAって、それが成せてるの?が疑問。
草むしりとか、掃除とか、それって学校側の人件費の削減にしか見えないぞ。保護者はなんでも屋さんじゃない。
PTA役員はそういう活動を手伝ってくれる父兄を必死で探さないといけない。それらの活動が、PTAで本当にしないとけないのかっていう疑問。趣旨違うくね?
PTAっていう団体の在り方に、親同士がもめたり、多くの保護者が負担に感じるだけの組織なら、本来の目的に合ってるかどうかもわからない活動してるなら、PTAなくしてしまえ、って言いたい。っていうかなくしてくれ。一度リセットしたほうが良いって、こんなの。
少子化に伴って、1学年 生徒が70~80人なんてよくある話。昭和時代より半分くらい減った。学校にいる保護者の数も相対的に激減してる。なのに共働き世帯は増えて、親が家にいる時間は減ってる。子どもと接する時間も減っているのに、これ以上子育て世帯になにをしろっての。
もはや巨大化したPTAっていう組織より、本当に有志の方々からほそぼそと始まった「無料の塾」とか「こども食堂」とかのほうが、現代の子どもたちの教育に需要があるんじゃないか。それこそPTAの目標「社会教育」と合ってるよね。少ながらず結構な経費がかかるよくわからんPTAの広報コンクールとか大会より、子どもに良い教育効果があるのは、確かだろう。
http://kodomoshokudou-network.com/
最後に。
PTAってなに?
でも実態は違う。
学校現場では役のなすりつけ合いみたいな感じだし、仕事とか介護とか関係なく、強制力ははんぱない。
一部の役割は手指と合っていても、掃除とか、ベルマーク集めとか「それ手指と合ってるの?」って疑問が多い活動も多い。
学校行事を手伝うのは良い事。でも行事の多くは教育課程の一環なんだから、保護者の協力がないと成り立たないことが変じゃないか?保護者は便利屋か?保護者がいなくても最低限子どもが教育を受けれる環境があった上で、プラスアルファなにか協力するならありだと思うけど。
しかも有志ならまだしも強制て。保護者減ってんのに保護者の労力ないと義務教育成り立たないってどうなの。保護者は親であっても学校の労働者ではない。それで会費回収するってどういうこった。
親は親で家の役割があって、学校は学校の役割があるんじゃないか。PTAってそれが混同してない?
参考:http://www.garbagenews.net/archives/2014599.html
PTAを統括する都道府県のPTA協議会とか、トップの日本PTA協議会の会計報告にも疑問点おおすぎ。謎めいてる。
PTAって必要なの?何を目標にしているのかもわからないまま、ただ前年もこうだったから、のノリで継承されているだけにすぎない気がする。
時代に応じて変えなくてもいいの?活動内容は適切であってるのか?
わたしひとりがPTA役員になったって、きっと何もかえられない。
でも、ネットで拡散されて協議会とかメディアにこの問題が触れられれば、
何か変わるかな、って期待してる。
PTA、変わってくれ。
それが無理ならいっそなくなってくれ。
以上。
PTA集まりの日に仕事休めないっていったら、「みんなやってきたことなのになんでできないんだ」だって。
役員なら仕事を休むの当たり前だろと。みんなやってきたと。じゃあ役員なんでなったんだ、できないならなるなって。
職場に今日PTAの役員会議がありまして、休ましてくださいっていったらクビにされそうな空気理解してくれよ
死にそう
安倍さんなんとかしてよ
なんで仕事休んでまでしないといけないの
パートか専業主婦とかある程度時間とれるひと以外絶対無理じゃん
誰でもできるとか、無理しなくていいとかいったやつ誰だよ
っていうか仕事休んでまでやらないといけないPTAの集まりの仕事、なんなんだよ
内職かって
プリントの誤字脱字チェックとかプリント作るとか掃除とか本来学校の仕事だろうがよ
学校がちゃんと国なり公的機関に申請して金出してもらうのが提だろうが
校長なにやってんだよ
っていうかそもそもPTA会費って何に使われてるんだよ
なんで全校生徒から年間3000円位あつめてたら、
全生徒で年間150万くらいあるんじゃないの
それでベンチ何台買えるんだよ
なんで父母が苦労して学校用品買いそろえてんの
おかしすぎるだろ
なにこれ異常すぎ
普通にまかりとおってきてることがすごい
ここまでやっても逆にお金払わないといけない始末
みんなしたくないんだろうがよ
制度見直せよ
そんで集まってするのは「夏祭りどうする?」
もうLINEでいいわそんなこと
クライアントぶちってそんなこと
夏祭りどうとかこうとか
話しに行く社会人いたら怖いわ
電話でいいわ
学校にいいように使われてるだけ
どれだけ大変だと思ってるんだよ
みんなおんなじ仕事じゃないんだよ
みんな平日休めるわけじゃないんだよ
国もそろそろ動いてよ
働きながら子育てなんてできない助けてよ
っていうかみんなPTAの役員なんかやりたくないから、押し付け合ってるんでしょ
こんなみんながいやがる集まりに
なんの意味があるの
だれがみてもやってる内容なんて
非合理的にもほどがあるでしょ
やらないやつを批判する
みんなやってきたことだからって、
平成終わるかもってのに
時代が違うんだよ
みんな働いているんだよ
それでベルマーク集めとか
ベンチなんかいらんわ
もういらないでしょ
時代にあってねーよ
PTAなくなれ、
なくしてくれ
もういやすべてをやめたいわ
4/20誤字修正
http://anond.hatelabo.jp/20170420011316
ライブドアニュースにまで掲載されててちょっと自分でも引いている。
twitter、facebookバズってる。ただの愚痴だったんですが騒がしてすいません。
ママ友等人づてに聞いたPTA活動の情報もあります。誤認があったらご了承を。
PTA活動に対しては賛否両論。もしでも同じような悩みや不満があるひとの代弁になれたら。
誤解とかされる部分や、PTAに対する不満や悩みがあるので、追記する。
「仕事やめたら?変えたら?」とかいろいろ意見あり。みんなで協力する仕事だから、一人へると他メンバーの負担が増える。あまり好きに休みの希望をだせるような環境じゃない。
っていうかPTAのために仕事を変えないといけないのか、がまず疑問。
病気で休みますって言ったら休みなよ!って言ってくれるだろうけど、PTAって言ったら「どうしても、日中じゃないと無理?」っていうのが職場の本音だと思う。
毎月平日、繁忙期。その職場のひとにも子供がいる。わたしが抜けた分、みんなの負担が増えて、残業も増えるかもしれない。わたしだけPTAだし休ませて、って言いにくい。
世の中に3日後PTAで休みます、有給使いますっていってすんなり休める職業がどれくらいいるんだ?それは職場や立場や役割によって、やっぱり違うわけで。日本って有給とれるところもあるけど、とれないところもまだまだたくさんある。でも職業によっては、やっぱり難しいと思う。
自営業、教職、医療職、職場でも指導する立場、管理職、一人しかいないポジションの仕事とか、お客との打ち合わせもろもろ・・その役割の代わりがきかない日とか時間帯とか役割ってある。
今回でいろいろ調べてPTAが退会できること、加入は任意であることを知った。学校とはまったく関係ない違う団体であることも。PTAって学校の一部と思ってたけど、正式には普通の任意加入ボランティア団体。
今PTAやめたら100%ボロカスに言われだろう。怖いのは、子どもがその標的になること。ママ友間のトラブルは子どもを巻き込むことだってある。だから人間関係が絡んで、PTA無理→すぐ退会っていうわけにもいかない。
一回ママ友トラブルで、子どもがモロに標的になったのを間近で見た。過激派なんてどこでもいる、ママ友の中にもいる。注意しないといけないのはそういうひとって弱いものを狙うから。だからいやです、やめます、がすぐ通用できない。うまく付き合いざるおえない。
入学当初は「PTAに入らないと行事とか参加できないことがある」みたいに聞いてたから、絶対入るもんだ、って思ってた。きっとそういうパパママ多いと思う。入らないと子どもが学校で教育を受けられない、みたいに言われたらそら誰もが参加する。PTA入らないと学校教育受けさせないぞって今思えば子ども人質の脅し。
おまけに役員とかの免除申請に介護とか仕事、ひとり親は理由として許されない。うちはPTAの規約で決まってる。免除してほしいなら、会員全員の前でその理由を言わないといけない。さらしもんみたいに。で、全員に承諾を得る。その時の異様な雰囲気ったら、まるで公開処刑みたいだ。
確かにみんな同じ仕事。でもその人一人で生計を立てている「仕事」と、パートタイマーでちょっと生活の足しにするための「仕事」では、その家庭にとっての「重み」が違う。みんな仕事は一緒っていうけど、その中身や責任の大きさや役割は違う。
もうPTAって狂信カルトレベル。人の生活に必要なものまで支障をきたすんだから、すでにボランティア団体ではない。そうなる原因はやっぱり、強制力だろうと思う。集団心理だね、したくないのにやらされる。次はお前がやれよ、理由とか関係ねーよ、ってなる。参加する・しないの「選択肢」がない。これが保護者のストレスになるし、人間関係にも影響する。
PTAは組織として任意団体であることをもっと正しくしっかり説明してほしい。
団体としてそこが一番問題。上がおかしいから下が苦労するんだ。
http://www.asahi.com/articles/ASJ4D32GHJ4DUTIL007.html
通ってる学校がPTA会費を何に使ってるかはもちろん知ってる。気になってるのはPTAより上のPTA協議会。実はPTA会費はPTA協議会という団体にも徴収されるらしいんだけど、その会計報告の内容が理解できない。旅費で何十万とか、広報のコンクールや大会とかで何十万とか、、。協議会の役員の報酬は50万、賞与5倍なんて情報もあった。
ちょ、そんな経費いらなくね?何を協議してんだか知らないんだけど。
それはちょっとhttp://anond.hatelabo.jp/20170420011316にも書いた。日本PTA協議会なんか会計からみても1億以上のお金が動いているが、何に使っているか、サイトからだけではよくわからない。ひとつ言えるのは、一般人にわかりにくくしているんだろう。詳細は見えないようにしている。
おまけにPTA協議会は問い合わせ先がない。頻繁に会議はしているみたいだけど、実態はあるのかないのかわからない。お金回収してるのに問い合わせできないって、たぶん日本ではPTAとオレオレ詐欺くらい。
ある雑誌の記事では、PTA協議会のお金の使い方に懇親会にコンパニオンがきたり、高価なホテルでの交流会等、派手なお金使いについて指摘している。https://dot.asahi.com/wa/2017040700040.html?page=2
事実なら本気で腹立つ。
一部はPTA会費の徴収によるお金。そこに使ってる金をもっと見直せば、いろんな問題がなんとかなるはずじゃないの。教育に使うお金がないんじゃなくて、誰かが無駄遣いしてるんだと思うけど、違う?
保護者の多くがPTAをなぜ負担に思って、「いやなもの」として捉えるのか。
昭和時代は子ども多い、だから保護者も多い、専業主婦多いで、PTAのマンパワーは強かった。子どもの数がピークより半数くらいになった現代、保護者の数も半数くらいになっているわけで。
保護者数が減ってるのに、ほとんどの世帯ががっつりな共働き世帯になったから、PTAのマンパワーが弱くなってる。だけど時代や保護者の状況が変わっても、PTAの役割自体はそんなに変わってない。だからPTA役員と会員の各家庭の負担はさらに大きくなる一方。
「みんなやってきたこと」のキメ台詞でもみ消されるけど、その「やってきたこと」が今の「時代」に本当に現代必要なのかって言ったら、すべてがそうとはいえない。PTAに関しては。
人口や保護者の状況を鑑みても、実際PTAの負担は昔と比べて大きくなってると思う。
PTAって学校のお手伝いサークル、みたいに捉えてるひと、いますか?わたしはそう思ってた。
たぶん趣旨すら知らないで、お手伝いサークルと思って、しぶしぶ参加しているママパパが多いんじゃないだろうか。
でも実際は違う。PTAの本来の目的は親と学校が協力して社会教育をすることらしい。その時代にあった教育を親と学校が模索して開拓してきた歴史があるらしい。。
それだったら子ども食堂とか、そういった活動のほうがこの時代の「社会教育」によっぽど理にかなってる。あれこそ現代の親と学校が埋められない教育の穴を埋める、重要な「社会教育」だと思うから。
それと比較して、PTAの活動。学校内の掃除とかベルマークとか社会教育の一環じゃない気がして仕方ない。そんなこと言い出したら、窓ふきだってPTAの役割になる。掃除とか家でも自分の部屋の掃除自分でやれってこどもに教育しないのか?
PTAは、国が用意できない教育産業の労働力を、PTAの保護者が「子どものため」っていう善意で押し付けられて担っているだけにすぎない。
雑用係じゃない。
個人情報や権利がうたわれる中、学校は率先してPTAが任意団体であることを説明したがらない。
保護者に無償で、いやむしろ会費を徴収して働いてもらわないと、教育ができないし必要用品を購入できない。
「子どものため」っていう言葉は親をどうにでもできる魔法の言葉。
やらざる終えなくなる異常な状況は、親の善意に付け込むオレオレ詐欺と仕組みはかわらん。
でもPTAはよくわからないことにお金使ってるから、腹立つ。で、無償労働つき、ここは奴隷地区か。
今のPTAは「子どものための社会教育」じゃない。「保護者の無償労働団体」みたいなもん。
本当に子どものためって実感できる団体なら、誰からも不満はでない。
日本PTA協議会の会長は、PTA委員の負担について「協力し合えばなんとかなる」って言ってる。
そうなってるなら、こんなにネット上に不満や裁判の情報、あがらないでしょ。
とかいう考えや不満を自分の小学校でそんなことダイレクトに言ったら、みんなにボコボコにされると思うので、怖くていえません。
誰か挙手して言ってくれ。
もう仕事やめようかな、いやでもこれから子どもにお金もかかるし無茶な行動できない。体ふたつほしいドラえも-ん。
PTAの役割をしたくないっていうより、生活に最低限必要な収入源である仕事や、またその職場に負担かけてまで、PTAってしないといけないことなのか、ってことが腑に落ちてない。
もちろん有給とれるべきって意見あるけど、とれる環境じゃないし、時期によって繁忙期とかあるから。なんともいえない。
はっきり言ってわたしは天秤にかけたらPTAより仕事が大事で、正直仕事を選びたい。だって生活の源だから。
だからPTAはやらないってのか!って反感買うだろうけど、じゃあそのPTAの活動すべては子どもの教育にどれだけ必要に応じたなものなのか、示してほしい。たぶんそれを説明できるひとは少ない。同時に仕事は私を養ってくれるが、PTAはそうではない。
もうPTAなんて趣旨にあった機能はしていない。今の在り方を廃止して、改善してほしい。
職場が休めないって問題もあるけど、そもそもPTAの活動そのものが、必要かって前提で。PTA協議会なくなって困るひといたら何人くらいいるのか教えて。
入会のときの脅しも意味不明、PTA協議会とか会費の使い道も意味不明。PTA広報コンクールにPTA会費から予算何十万って、誰がそのコンクール見たいと思う?どの広報が一番いいか、なんて大人の能力争いで、子どもの教育関係ね-。
PTAの親の協力ないと学校教育できないって、じゃあ親は半分職員化してるんだから、PTA活動に対して賃金があってもいい。税金とか会費とかなんのためにあるのさ。
もし小学生の子どもがいる家庭にも時短が取りやすい制度があったり、PTAとかの学校行事はどんなことがあっても絶対休ませなければならない、みたいな、もう少し踏み込んだ育児支援的な法律あったら、喜んで受けるけど、世の中ってそうじゃないから。小学生ってまだ手にかかる子ども。ワーママにもっと行事参加すべきっていう意見が強いなら、親が働きながらと子どもの教育や学校に関われる制度を作ってほしい。
・PTA参加しない=悪
の世の中の風潮が、時代にあってない。
女性は働けとかやっぱり休めとか、あぁ意味わからん。どっちかにして。日本人やめたい。
ってまとめて言いたいのはやっぱり、
PTAってほんといるのかこれ。
PTAなくなればいいのに。
協議会って1億とか掛けてなに協議してんだ。報酬50万くらい設定して協議した結果がこれですか。
貸借対照表っていうのが読めない。詳しく読めるひといたら、この内容について教えて。
http://www.nippon-pta.or.jp/about/rkra7f0000000f8z-att/6b17e1c5da23905fc786dadeed7099e1.pdf
都道府県のPTA協議会なんか旅費50万とか、いや、あちこちいかなくていいから地元で働こ。
で下っ端の各小学校PTAは役割なすりつけ合い。おーい。なんでやねん。
コンクールも研究発表会も、何百万もかけてしなくていいから、登下校時だけパトロールのおばちゃん雇ってくれ。
PTA会員の負担減る。子ども安全守れる。定年のおばちゃん、儲かる!WIN WIN WIN!
あぁ何回考え直しても今のPTAっていらない。
古くてトラブルが増えてきた家は、一回つぶして立て直したほうがいいじゃない。
PTAも古い家と同じ。つぶれろ、今すぐ。立て直せ。古い家も立て直したら頭の黒いねずみだって、でていくさ。
「もうここには住んでられない!」って。
Permalink | 記事への反応(15) | 04:49
そういうわけで、今の日本で殺意の矢面に立たされているのは「日本の残滓」ともいえる。というのも最近の自公政権おろしの発言に、実に納得する。つまり、表面的に彼らがすべてを支配しているように見えるが、実は本当に窮地なのは、日本の残滓の側だろう。
1980年代は昭和時代だが、まだ発展の前半だったので、当時の国民の誰もが残滓と戦っていた。1990年代は残滓的なものがますます壊れていったが、それは都市部に限ったことだった。2010年代、もはや日本の残滓は、政治サブカル的手法によって相互がエンコ的に結び付きあわないと成り立たなくなってないか。
「おニャン子」の時代は握手券もなければ秋元康氏が支配層とずぶずぶになることはなかった。ニューミュージックや洋楽こそ限定的であった。しかし今の日本では、若者が音楽離れすらしている。非常識的なCDセールスや国策の迎合がなければ国民的グループは成り立たない。
ネトウヨのサブカル風味(あの暴走族らしさも含めて)は特殊だが、日本的な市民団体の多くは運動が成り立たなくなっていて、そういう政治団体の組合の会長が左翼趣味をまき散らして云々することはできなくなっている。壁も中身もうすっぺらいサブカルしかない。
「新自由主義」の美名のもとに、好景気まがいな豪華列車が全国各地で走ったり、今時ポストヤンキー名乗りをして道路利用者や警察から顰蹙を買う連中は、寝台列車を走らせていたり、痛車やラノベの競争が行われていた頃よりはるかに日本らしさを失っている。
「日本残滓」がモンスターになったものが、あらゆるものを蝕んでいる。というわけだ。1980年代から1990年代にヤンキーつぶしの迷惑をオタクが被っていた頃に比べると、今回の右傾化問題はちゃっちすぎじゃん。昔は、その地域の最大の家族一族が大金持ちになり支配層になり、色々な産業に口出ししているということだが、今は新自由主義で富裕層をインフレするというショボいやり口になっている。日本残滓は弱体化している。
この線香花火が消える寸前にブワッと燃えるような感じの「日本残滓の悪あがき」が、2010年代の日本なのである。非行のネタ消費も、鬱陶しいほどの鉄道の拝金志向やオタクのギャル・ヤンキー化もそう。全部が、断末魔。あからさまに必死になり癒着しあって虚勢を張っているだけだ。
だから虚勢であり、内実がないから、これはしょせん偶像でしかないし、前時代の論理であり、ネタでしかないし、あやかしであって、モンスターなのである。これに終止符を打つ、一種の抵抗を迎えるのが、今われわれ文明社会を信じて生きる都市住民にはあるのではないか。
あの問題が第二次自公政権という擬似右翼政権の幕切れで終わる訳がないと思っている。日本の社会性にも切り込まれるだろうし、現在の人類が(人類が何度も滅んだと言う説もあるため一応。)文明社会始まって以来受け継いできた帝国システムも、そろそろしっかりと「精算」されるはずだ。2017年から2019年はまさに一つの人類の伝統が東洋の小国から終わる時ではないか。日本人自ら日本の看板を捨てる。
今の日本人は2000年代までとはまったく異質で極左的だ。天皇制への疑念も高い。
だが日本で起きようとしている2019年問題とは、まさに“嘗ての中国”が行ったことと親和性が強い。現在の台湾や中国が王朝制度を破壊したように。それがわからない「肉屋を支持する豚」バカが支持母体となった社会は崩壊する。日本を故郷にもつ私にはまことに不本意だが、肝心の彼らがこうなのだからもうどうしようもないとなかばあきらめている。
腐っている方々のことではなく、若いうちから貯蓄や投資に強い関心を持ち将来に備える女の子たちのことらしい。
もらえたとしても受給開始の年齢は間違えなく引き上げられるし。
10年後ぐらいには受給開始が70歳ぐらいになっているのではなかろうか。
良いことだと思うよ?
投資(今は運用といった方がソフトに聞こえて好印象らしい)するにもまとまったお金があったほうがいいもんね。
……でもね。確実に婚期は逃すと思うよ?
20代・30代(前半)という女性としての資産価値が高いときになにやってるのさ。
20代をピークに迎えるその価値は日々どんどん目減りしていると思ったほうがいい。
貯蓄目標を達成して運用を開始してそこそこ安泰になったとしよう。
そのときに婚活したとしても、今までして来た貯蓄と運用が逆に足を引っ張るだろうね。
この人と自分の資産を分かち合えるのか? そこまでの魅力がこの人にあるのだろうか? この人と交際する価値はあるのだろうか?
見極める目がよりシビアになっているだろうね。
より広く視野を広げねば行けない年齢になっているのにかえって狭まれてしまっている。
もしくはうっかり今までの人生を振り返ってしまい「今までの私は何だったろう」症候群を発症してしまい吹っ切れたようにパーと豪遊してなくなっていく資産。
あ、人生振り返るのは若い内はいいけど40代ぐらいになると致命傷になりかねないからホントやめたほうがいいです。
まあ、「自分に旦那がいるなんて想像ができない」と10代・20代前半で悟ってしまうような容姿の持ち主なら仕方がないけどさ。
自分もそうだし(男だけど)。
でもこの場合、交際費など人関係でかかる費用も少ないからほっといてもある程度は貯蓄できるんだよね。
そこそこ貯めたあとはのんびり投資……じゃないや運用すればいいと思うよ。
……去年に運用損失出した下手くそがいうことではないけどね。確定申告せねば。
そうじゃないなら20代は頑張っていい男捕まえるほうに投資した方がいいと思うけどねぇ。
30代後半
40代?
……
あ、ちなみにこれ男なら十分アリだと思いますよ。
35ぐらいでそこそこが資産ができて絶望的な容姿の持ち主でなければモテモテになるのでは。
まあ、その場合でも『この人と自分の資産を分かち合えるのか?』問題はついてまわると思うけどさ。
イケメンが圧倒的に優勢なのは資産勝負ができない高校生までだしね。
(追記)
そう言われるとは思ってもみなかった。
アリとキリギリス的なことで考えたんだけど。
まあ、独身だし今後も結婚の予定もないからDVの心配はないから大丈夫。
万が一、いや億が一結婚できたとしたら気をつけないとね。
私は大の車嫌いだ。しかも家族共通で。しかし、それはとても凄い事だ。
それを実感したのは、GW休みで帰省したときにバイクを使った私と妹を除く2人が列車を使って帰省(といっても帰省先が都会なのでむしろ車やバイクを使う方が敷居が高いかもしれないが)していたということだ。(二輪車も車だよという突込みはなぜか通用しない)
「今時車嫌いっているんだね」
と言われた。ある意味で感心した。
今現在日本国内全体で車に関心のない人はいても車の免許がない人は10%強しかいない。二輪車にいたっては、もはや嗜好品扱いされている。
道路整備の進んでいなかった昭和時代なんかは庶民に二輪車は親しまれていたが、自動車が手ごろな価格で手に入れられるようになると、嗜好品としての認識が強まり、事実地方都市では日用品としての役目を終えた。
二輪急便が健在な都市部の人にとっては信じがたい話だが、地方にとってはバイクはもはや終わった乗り物同然と言うのが現実で、事実変わり者扱いしている地域もあるようだ。
1学年10クラス以上の高校だった。一部のクラスじゃ40人以上いたかもしれない。
球技大会や体育祭があったが、クラスから代表が出て他の生徒は応援。代表は友人でもないので応援する気も無く。
校内を巡回する教師がサボってる奴を捕まえるので仕方なく校庭でぼーっとしてる。
平成の今ならこんな生徒数の学校はあまりないだろうけど、クラス代表しか出ない、他の生徒は何もない座ってるだけの運動会なら
代表だけがんばって残りの生徒自習でいいじゃんかと思った。
社会人を経て思うのは、運動会とその準備する時間があれば
借金をしない家計維持とか、家庭科のようにグループではなく一人で料理と後片付けできるようにするとか
生活マナー、詐欺しない詐欺られないとか
社会人になって誰も教えてくれないけれど大事な事を教えるべきなんじゃないかと思う。
(グダポンbonchacchanga)「昭和時代はもうたくさんだ」
https://togetter.com/li/1070687
まあ、ある程度は正しいでしょう。
ファブリーズの件もそうだが、今の日本は「超潔癖主義」に蝕まれすぎではないかと思う。くさやが臭いのは誰がどう考えても事実なので、地元はこのCMに便乗するくらいでいいと思う。
何かにつけて「地域差別ガー」というバカにはあきれてしまうが、つまるところ地域の抱える不都合な事実を外部が指摘することを拒絶するけつの穴が小さい子供である。それこそ、彼らの好きな言葉を借りれば「言論弾圧愛好家」ではないか。文化や社会には二面性がある。
私が生まれて間もない頃の話だが、1980年代~1990年代の鉄道文化が洗練されていたという話題がSNSや掲示板で流行している。はっきり言って、不良が巣を作りそうな文化がそこにあったわけだが、それでも鉄道ファンは誇らしく思う。「鉄道王国」も日本文化だと自尊心を持っているはずだ。
本来文化・社会性とはそういうものではないか。2000年代の新自由主義旋風だって文化や科学技術などの高度化の裏に犯罪の高度化や富裕層人口のインフレの問題もあった。2010年代も1960年代の再来のようなのムードの裏に貧困問題があった。オートバイブームの裏にはシビアな封建もあった。
オタクが今日社会全般で受け入れられているという。あれといえば、昭和の負の遺産にもかかわらず迷惑者が誰も輩出しなかったことを「世界に誇る日陰者」と自画自賛する書き込みが拡散されたことが多くの人に衝撃を与えたものだった。案の定、オタク自身の努力で出世が実現するとスゴイ発言まみれになった。
冷静に考えてほしいのだが、同じ大衆の同胞であるべき人達がそれと村八分にされる時点で、そもそもすごくなんてないのである。そもそもオタクとは昭和時代の学歴社会化実験の失敗に伴いヤンキーと共に発生した負の遺産である。本来ここで必要な発想は、負の歴史として再発防止策を考えることであり、恥かしく思うべきことである。
仮にもしオタクがすごかったとしてもそれは個人個人がすごいのであってオタクはすごくないのである。社会が立派だったとしても、それは日本人の寛容性のことである。もしあなたが大衆の一員であれば、さほど無関係ではないか。
私は「オタクスゴイ」とそっくりな問題を抱えているのが「マイルドヤンキー」ではないかと思っている。地方のリア充の話題が出ると、なぜか不良とこじつけた話題が出てくる。不良とは縁のない人でもヤンキーのように扱われる、あの変な社会の空気である。
当たり前だが、リア充すべてが悪人なわけではない。大体ヤンキーの本来の意味は実は汚い。もともとはアメリカ人の白人を罵る言葉として生まれたものだ。ジャップと同じ意味合いでアメリカ人が「ヤ○○」の言葉を使うものとしてとらえてほしい。
マイルドヤンキーに代わる言葉はあるだろ。とんでもなくダサそうな文化を謳歌しているのは一握りの地方民のうちの一部とか、不良経験者だけではないかと思う。あのグダポンの撒き散らす固定概念への批判としてもいうが、私は地方を何度も見てきたが、北関東でもマイルドヤンキーなんて一握りの数しかいなかったよ。
そもそもマイルドヤンキーの言葉の根底に都会人による地方人への偏見がある。車好きを例に挙げるまでもなく、外国には日本人が思い浮かべる都市部の人間は殆どいない。むしろマイルドヤンキーの特徴として挙げられる、「買い物先でショッピングセンターに依存している」人は日本を出れば都市部ですら腐るほどいる。国土全体で鉄道依存社会が成り立つ国は、日本を除けば、オランダみたいな地形に恵まれる地域やシンガポールのような都市国家以外にない。
私はこの潔癖の究極が「子供」至上主義だと思う。日本人はみな車嫌いで鉄道好きというおかしな風潮も、子供のために嗜好を装う仕草だという。必死すぎる。大人な人は、それが普通ならしょうがないと受け入れるべきではないか。一番ひどいのは私鉄だ。
子供は日本人の美徳だと、道徳的な人を表す言葉として普及しているが、これはあの押しつけがましい「道徳」と同じうさん臭さを感じて、私は不気味に思っていることである。子供って要は非現実的理想の追求であり、病気だ。
そもそも日本の私鉄社会の根源は鉄道の公有化の失敗だとか戦争の連続による財政難だとか、歴史上におけるネガティブなものの副産物である。今でも「幼稚」とかいう。それはつまり堂々とした対等な存在としてリスペクトするものではなく、結局これは子供なる年齢を使った言葉で「恵まれない現実にある人達」を見下している、前時代的な、差別を連想する表現である。
欧米圏を見ればわかるように、鉄道は弱者というか、つまりよそ者、あるいは貧乏人や弱者のためにある公共施設であって、所得関係なしに使うことをよしとする、ましてや商売の道具としてみなす日本はおかしいのである。
一昔前ですら日本ではここまで「子供」はうるさくなかった。子供は大人らしい事由で成熟した男女を目指した途上段階であり、気づけば加齢で大人になっていた、あるいは10代ですでに見た目も中身も大人同然という人もごろごろいて、それがわずか15年ほど昔までの常識だった。
あるいは「リア充な美しい大人は好きですか」というように、青年性を脱した兄や姉であるべきだった。正しさではなく「美しさ」が評価された。この美しさという言葉自体清潔を意味するもので今の異常な潔癖主義に通じたのも、もちろん事実ではあるけどね。
特定の環境を聖域化し、あるいは特定の人を「聖人」化してみなし、それを潔癖性を極めた発想とともに崇拝し、潔癖と反する不都合な事実を見て見ぬふりをしたり、あるいは無理してでも隠蔽させようとしたり、それを指摘する存在を許さない、あの感覚。グダポンの言葉を借りればこれは畳精神である。
昔の高校を題材にした作品から黒髪すっぴんさんの描写を削減し、わざとそうでない人を代わりに差し替える。これも聖域を作る発想に由来することではないかと思っている。
その点、例えば私が韓国の学生をみて感動をしたのは、日本において学生というと黒髪が少ないイメージなのかもしれないが、実際には黒髪のおりこうさんが多くいたこと、そういう風潮がそこかしこにあったため、他人に緊張することがなかったからである。
バスの停留所で会話したローカルの若い女性は、なんかお茶目で、自分の生活圏にやってきた外国人を楽しませようというホスピタリティがあって、ものすごく魅力的だったが、やっぱり大人でオタクで、至上主義のない国のほうがよほど大人も魅力的だなと感じたのだった。
これは地方にも言える。マイルドヤンキーの連中なんてありゃ「普通のリア充か重度なオタク」だ。オタク?ってくらい偏執的で、大衆らしさに欠けている。いわゆる元ヤンさえ良くも悪くもリア充らしさがない(事実、彼らが外国に行くとサブカルオタク扱いになる)広い意味での問題なのだ。
日本に出てくるテレビのタレントには個性らしさがない。オタクがいない(例外はあるが)。根っこからのおりこうさんであることを売りにした俳優・声優がいないし、変わった趣味を売りにする者もいない。誰もがそうなるありのままもないし個人差もない。
これは、日本人の一定割合。どちらかといえば韓流ファン経験のある人たちで、同じくマイルドヤンキーか学がありそれなりに品格のあるような人が、ものの感じ方の成熟が遅れたことにあるんじゃないか、と私は思っている。子ども時代や貧乏なときは誰もが感性が幼稚で極端な理想を抱くものだ。
しかし、大人になり、10代になり、豊かになれば、あらゆる体験を通して現実を知るというか、様々な存在を知って、自分自身の肉体と考えの成長もあって、そういう非現実な理想を一度捨てることになると思う。代表が大学生における運転免許取得ラッシュだ。「免許取得者は学のない人のほうが多い」とか「都会人は一生免許と無縁」の虚構に気づく。
私達ネット原住民的には中二病とか高二病とも揶揄される、つまり冷笑主義にも陥るのだが、その現実・実在、不都合性を含めた事実の中にある魅力に気づき、そこから新しい夢を見出だしたりするのが、普通の諸外国ならハイティーンか遅くても20代で経験する段階で、日本人もかつてはそうだったのではないか。
そういうわけで、高学歴だろうと、立派な社会的地位にいようが、年齢が中高年だろうと、マイルドヤンキーと変わらないような潔癖主義の理想を振りかざして現実を拒絶したり自由な創造表現のユーモアを叩くあの感じは非常に納得がいかない。幼稚な人が多すぎる日本の現実がほんとつらいです。
(韓国などの例外を除く)外国のコンテンツは、優れた表現ほど徹底的に不都合な現実・事実に向き合っている。だが、それをただそのまま描いたり、不穏に誇張するだけではなく、そこから楽しさや夢を見出だそうとする傾向があると思う。その際にはお堅い因習を破ることになる。
だがその独創性の第一段階にある「お堅い因習を破ること」を全力否定するのがグダポンのいう「畳精神」であり、右派や私の言う「コリアニズム(文化的右傾化)」である。つまりどんな理不尽でもそれがしきたりで、その空間では聖域性を守るために自分が屈しなきゃいけないし、適応しない他者は咎めなきゃいけないという枷を兼ねた同調圧力も発生する。韓流ブームにものすごく親しんだ人ほど危ない。
ティーンエージャーになる前の現実離れした理想主義(と、それを理想を向けられた側がそのまま受けとめなければいけないということ)に畳精神やコリアニズムはとても相性がいいのである。新しい幼稚な感覚と、古い老いた因習をコラボさせると、アニメや漫画か特撮ドラマかビデオゲームまがいな、子供だヤンキーだという狂うジャパンがあふれるのである。
私が現代の日本はともかくとして一昔の韓流・華流コンテンツを敬遠したのは、アメリカのコンテンツとは違い、理想主義を極めたあのディズニーでさえ、そのテーマパークや映画などに「不都合な現実を受け入れた上でのイマジネーション」がないからだ。理不尽なものを批判的に描くこともなく、拒絶せずにそれを受け止めることすらしない。現実逃避ありきなのだ。
私の記憶する限り韓国や中国のテレビドラマやアニメには、日本人がネガティブ過ぎるとして驚いた自転車乗りの姿が描写されていない。1990年代や2000年代(2010年代)に日本型の暴走族が話題になったが、それを風刺するような作品は出てこない。当たり前だが韓国人や中国人のオタクを風刺するような作品もない(日本ですらオタク風刺作品はあるが)
そういう子どもたちはこうしたコンテンツの変わりに漫画や小説(ライトノベルを含む)やゲームのいかれた様子を見ることで、それを教訓にすることができるわけである。日本の作品で言えば喧嘩番長や龍が如くに出てくる「不都合な現実を誇張した」不健全で卑猥な日本の風景も、実は意外にも理想や夢とどこか通じるものがあるし、その中にもやはり社会に対するメッセージもある。
そう考えると、欧米程でないにしても自由な創意工夫性は日本においてはなんとか健在であり、その自由表現の娯楽を通して成長につながることもできたりし、その上でまた新しい夢が見れるというのが、本当にすごいと思っていて、韓国や中国にもそういうクリエイティビティを獲得するには、まず日本同様に現実至上主義と畳精神の解体を加速させることが必要なのだ。
(甘い言葉には苦い真実がある)オートバイは高校を卒業してから。オートバイ通学でもしたら、大人の思う壺ですよ。
(ビデオゲームの中だから許される)飲酒してあれしたいときはゲームの世界でやれ!
(大人としての誇りと責任)25才になって貧しくなくなったら、免許を取ってバイクとか車もって公共交通カンガルーを卒業しよう!
(無理はしてはいけない)車とバイクは80才まで!地方の公共交通整備を願う!!
(地方の声を聞け)満員電車は好きでもないけど、車社会は大嫌いだ。しかしここは日本。先進国の常識が通用する国だ。
(必要悪と不要悪)キモヲタは必要悪、ギャルは不要悪、不良とギャングは不要悪、鉄道趣味とオタクは必要善、私自身は不要善、リア充は不要善
(ブラック企業問題)ブラック企業と言う言葉を使えるようにしたのも、労働問題にあれこれいえるようになったのもすばらしい経済と社会の発展の賜物だ。感謝しろ。
(日本死ね)フツーの日本人を殺したのは日本か?日本を殺したのは日本人か?
(小日本鬼子)元珍走団は昭和時代のバイクメーカーの勇者たちと現代のバイクを愛する若者に顔向けできる筈がないんだよ、このたわけもんが。
(SEALDs棒子)SEALDsさん。あなたは神様でも左翼でも何でもありません。行動する保守と一緒で、街頭を暴れまわる現代版の暴走族です。不良らしく爆音と拳で勝負しなさい。
(平成は終わる。君主制も終わりか?)次の元号は何だろう?もしかして日本も共和化かな?
(2016年を振り返って、2017年の抱負)今年は小説屋デビューしかけました。次回は反日ネタ本を出版したいと思います。(執筆なう)
最近の日本のゲームがメチャクチャ品質に優れてると思うのは、表現のリアルさだな。表現の良いものを据置機・携帯機で販売し、その補助としてPCゲームを利用している。1970年代からトンデモ文化だったゲームは今や大衆文化。従来型ゲームを残し、進化させたことが奏功したともいえるよね。リア充の人は、アニメを見て、そこからPCのオンラインゲームなりスマホのゲームをしている人がいると思う。パズドラを深く楽しみたい人は3DSのみならずスマホを買う。ソシャゲとはオンラインゲームに近いスケールのものであって、中毒性質のない古典型とは違う。オタクならよくわかると思う。ゲーオタにとって任天堂やソニーのそれはXBOXとともに本格的にゲームを楽しむための機械。事実上のネトゲであるソシャゲは難易度が低く、リア充の遊びであって敷居が低い。深く味わうにはPCゲーム買うほうがよほど効率的だ。
こうしたゲームを含んだサブカルオタク圏というものがあり乗り物文化・非大衆文化がある。さらにそれと構造を共有する文化があって、それは「サブカル性」の存在が日本文化の繁栄を実現している場所なのだ。問題は、それ以外のもの。そこには深く楽しむのための技術がない。
たとえば中国には据置機ゲーム開発メーカーがないという。PCソフトゲームこそあるが、その品質も据置機にすら負けていることは、マリオを愛する日本の人間にはよくわかっている。ソシャゲ嫌いがほとんどだからね。韓流台流ゲームはアメリカ流のそれと比較するべき水準ではなく、どちらかというと和製オンラインゲームと似ていると思う。サブカルの拡張ために発展した据置機文化と共有できる要素がない。単に特殊アイテムを買うときだけに金を払わせるので収益性がない。ミーハーはともかく硬派からの評価は高いといえない。
アジア諸国の交通が長い間道路に依存していてそれを鉄道が補っているように、韓国や台湾や中国は鉄道オタクに対する理解が遅れている。アジア諸国はマイルドヤンキーが多いから、中韓台より事情は悪いかもしれない。「日本は異常なんだからいいだろ!」とヤンキーに言われそうだけど寛容性は大事よ?大卒の元ギャルにお世話になったことがある。ギャルはいい文化だと言っていた。誇らしげだった。しかし「リア充」という感覚ではなく「元ギャルの人」という意識があるような感じだった。鉄道好きだって「鉄道オタクではなく元変わり者」という感覚が古い世代にはあるはずだ。車・バイク好きのオタクに以前噛みつかれたが、それこそヤンキー文化のソフト版が車・バイクカスタムフェチでしょう。痛車好きは一応オタク文化だが、敷居が低いこと、イメージの悪い時代の存在、極めて似ている。鉄道好きも車・バイク好きもマイルドヤンキー化しているし硬派の存在を無視した大衆化だそう。道での繋がり傾向のサブカルとは違うのだ。
2000年代に不良の衰退でまともになった点や文化的歴史の位置づけにおいて、バイク文化とキモヲタ文化は似ている。どちらもへそがないものだ。しかしこれらはマイルドヤンキーとは違い、縦方向の上下があり、そこでは繋がりが途切れることない。バイクは1970~1990年代世代、キモヲタは1990年代世代が変わり者の集まりになっている。一方、鉄道路線と鉄道趣味の人口密度の関係はどうか。負の相関関係にあることは誰にでもわかる。とにかく地方ほど鉄道好きが多い。おまけに観光地化も進んでいる。足を引っ張る人間もいる。都会にこそアンチがいるどうもバイクよりかは可愛いバッシングに思える。
ソシャゲが生誕10周年を迎えるが普遍的なビデオゲームとの性質の違いがはっきりしているように、将来この溝は埋まらないと思う。そして、2000年代以降の最近に量産された書物にはこういうパターンが多い。物凄い売り上げになるが、誰にも知られない…。この手の似非サブカル文化がよくないのは、サブカルとは消費者の構造の違いがありすぎるのに、内実を伴う本当のオタク文化のようにビジネスの方向性として普遍化してしまうこと。しかし財界の都合はどうであれマイルドヤンキーの割合が高くなり、民度もばらつきが出てしまう。そこに道の繋がりはなく、完全な単細胞になる。
結果的にハイカルチャーでもなければ、サブカルでもない中途半端なサブカルチャーが寂れる。ギャル文化は(業界面で)のイメージが凋落して久しいがその人達の評判もクソッタレてるでしょ?ヤンキーみたいな末路を追うことになるんです。いい加減な文化はみんなどこも。もちろんアニメ好きや鉄道好きに対するバッシングもあって1989年の宮崎勤ショックや2002年の西武鉄道ショックがまさにそうなのだが、低迷期はわずか10年弱だったし、現在ではむしろ好かれている文化ので、私たち鉄道好きはほんとはめちゃ好かれ者なんだよね。「汚い日陰者」から一転して大成功ってすごすぎるよ。
最近の都市部では駐車場や駐輪場料金も安くなっているのに、いざ買うとなるとかなりの金額がかかり、トータル費用が原付バイクだけとっても最大で10万円台はいささか敷居が低いとはいえない。ロードバイクですら5万円以内で始める事等やろうと思えば可能だ。持続的に利用できて、かつ一定の敷居の高さがあればいいわけ。鉄道は厳かな仕来りを残しつつ観光要素があるのは非常に優秀で、バスもその点では平成以降は充実の流れがある。
最近流行っている鉄道不買運動は、田舎や外国から来たよそ者が参加できない、敷居が高い。しかし難易度の面でも非常に中途半端。ひどいと最低限度の駐車場駐輪場はおろかガソリンスタンドが整備されておらず、都会特有の曖昧な道路交通マナーとあって運転もめちゃくちゃ大変なのである。あれは遅かれ早かれにわかに終わる運命にしかないと思う。別に日本の大都会で増え続ける都市鉄道嫌いと車・バイク好きをDISってるわけじゃないが、日本ではロードサイド文化もろとも車社会は終わる運命にあるし、車やバイクは都市部ではスポーツ用具以外もはや意味ないし、アジア諸国を手本にした再開発を実行したらその発展の犠牲で欧米由来の都市文化の居場所が消えうせるのは必然でしかない。したがって現代であれば満員電車も大量の外国人も必要悪なので、日本は本当の意味で観光大国化がしたいなら防災などの予算などで余った分を人口増加対応に充てればいいと思う。歩道と車道を分離して歩道の容量を拡張する。近年では鉄道の整備に努めているようだが、例えば鉄道だけを取って鉄道の女性専用車が役目を終えたら、その跡にグリーン車を設置したらいい。乗客を分散させるのだ。
神奈川県の横浜の郊外はかつて、関東特有の田舎文化があった。昔の相鉄はローカル線同然だった。それが昭和時代の経済成長で都会の仲間入り。どれ程すごいかと言うと、昔は関東の仙台同然だった横浜の郊外が仙台市とは比べ物にならないような高度なニュータウンへと変貌したというのだ。話がそれてしまった。
電車男でサブカル文化が変わり、鉄道に対するイメージすらJR九州の躍進で変わった。縁の下の人を守り続けることが日本文化の持続可能性のポイントであり、もちろんそれを各現場の人が一番わかっていると思うんだよな~
「この世界の片隅に」はという映画(原作も含め)は時代考証のレベルを超え、(考現学というのかな?)
生活習慣や風俗、文化、地理、建物、看板、放送局のアナウンス、雑踏に響く声、当時の気象
ヴァーチャルリアリティー映画。昭和時代を描いたアニメだけど。
2時間と6分、昭和10年から20年までの広島や呉で暮らしていたような錯覚を覚えるようなVR感覚である。ヘッドマウントディスプレイ感覚。
このようにありとあらゆる情報(テキストというか記号やイメージ)をぶち込んでいくと
「3次元でも360度映像でもないのに、人間はVR感覚を味わう」という、新たな発明をしたので、ノーベル賞級の何かだと思う。
従来の作品では主人公は「特別で有徴」の人物だが、この物語の主人公はほんとうに「普通の女性であり無徴」である。
名前は「すず」。元素記号でいえば Snなんだよな。つまり主人公ではない。「すずさんはモブ」なんだよ。呉や広島で暮らしていた人の一部なんだ。
(逆に言えばそのことで、あの時代の呉や広島に暮らしていた人たち・・・それどころか戦前のありふれた日本人全員が主人公になりうるという効果)。
どこまで「片隅でありふれたもの」を精密に描こうとしていたのか、作者の執念が伝わる。呉の家も片隅にあるし。
戦前戦中という「過剰に語られてすぎてブラックボックス化していた世界」の壁を破壊し、
「思い出すための橋を渡した」という意味で、とんでもなく価値のある偉業だと思う。
戦争のことは置いておいても、
昭和の時代、あの日本家屋で、記憶の奥底にある、あの家で「我々の父祖はどういう気持ちで日々を過ごし、何に勤しみ、何を守り、何を失い、どんな生活をしていたか」
「どういう気持ちで結婚したか」というものはもはや思い出せなくなってきている。あの手触りや匂い。30代の自分の物心つく頃のギリギリ覚えてるあの感覚。
これだけなんだよほんと、
はじめて「ああ、これが戦前、これが私の祖母!これが私の祖父!」と思えたのは。
もう消えてしまった記憶を「やっと思い出した!」という気持ちが強い。実際あの日本の町並みや人々の生活は消えてしまった。思い出せるはずがないのに
、ほんと時代的にギリギリのところで、「記憶も記録も感覚もハードディスクごとフォーマットされる寸前のところ」で思い出した感じ。
ほんとこれは偉業だし、日本人の歴史意識…というか「民族のアイデンティティー」のレベルで重要な作品になるんじゃないかと思う。
記事には、その歳まで処女だと現実離れした理想を抱き、処女を貰った人と結婚と思い込んで初めてのセックスに突入しいざ結婚できないとメンヘラになったりするなどと書かれてあった。
ところで、私は25歳の処女だ。
私がこの歳で処女の理由は、単純に恋愛対象として見られるような外見や言動ではなかったからだろう。
そんな私だが、このままではダメだとこの間から婚活を始め、お付き合いを考えられるような人ができた。
付き合うとなると、もちろんどこかのタイミングでセックスするだろう。
私は恐らくえっちなことは嫌いじゃないし、興味はある。やってみたいという思いもある。
女同士で話していると大抵どこかで恋愛話になるので、無駄に知識だけ増え、一度くらい実地体験してみたい気にもなる。
しかし、だ。
25年間、家族以外誰にも見せたことのない場所だ。そこを誰かに明け渡すには、やはり心の準備がいる。
上手くいかなかったら…そもそも、生理的に受け入れられなかったら…など色々な不安や恐怖もある(その相手が生理的に受けつけないなら、相手を変えるしかないが)。
そして、はじめに言及したコラムのように、初めては結婚する人がいいという思いがどうしてもある。
こじらせているのは分かっている。面倒くさいのも分かっている。
今は、婚前交渉などふしだらな!的昭和時代ではない。
現実には、結婚する人が初めての人ではないほうが多数派だろう。実際やってみるとなーんだこんなもんかあ、大したことないななどと思うのだろう。
シャープがFoxconnに買収される方向になることが決まりつつある。
現時点では両社の交渉は延期だが、
最終的にはFoxconnに買収されることを私は支持している。
日本の社会全体で見ると、産業革新機構がシャープを買収して欲しいという論調だ。
エルピーダーメモリーの時、産業革新機構が出資したが、破綻した。
そもそも、コモディティ化が著しいメモリーに、日の丸だからというだけで
コモディティ化した製品なので、為替による影響が大きい製品なのに。
私も愛国者であるので、日の丸企業にシャープを買収して欲しいと思う。
だが、産業革新機構だったら、Foxconnのテリー・ゴウ氏に買収してもらう方がいい。
または、日の丸企業だったら日本電産のCEOなどハングリー精神を持っているところがよい。
日本電産のCEOもFoxconnのCEOも一代で大企業を作り上げたたたき上げだ。
一方シャープや産業革新機構のCEOは社内政治でCEOになったのだろう。
たしか、2000年前半あたりだろうか、シャープとサムスンが訴訟合戦となった。
シャープにとって不条理な訴訟にも関わらず勝ちに拘らないで、和解した。
これを見て、この会社先がないと感じた。
私は、数年前台湾にある、とあるグローバル企業の日本法人とプロジェクトを一緒に行った。
グローバルで活躍する台湾企業には、今の日本企業にはないコスト感覚がある。
なぜこのコストなのか細かくリーズニングが徹底的に要求される。
ただ、グローバルでみるとどうだ。
正当な主張をしない株主は正しいのか?
シャープを見ればなにか見えてこないだろうか。
「これからはすべての入口となるテレビが重要なのでテレビに力をいれる」
といっていたが、この昭和時代のパラダイム・先見性のなさをみて
株主は黙っていたのだろうか。
みなさんはどう感じられたか。