はてなキーワード: 課題図書とは
早川書房のkindle1,500点以上半額を受けて、Amazonのリストから俺の興味のあるものをリストアップしたから、みんな見るとよい。
全部購入したいところだけども(全部買っても、たぶん1万円強に収まりそう。お得)、当の俺が何しろ吝嗇なので、気になったものは、まず図書館で検索 → 人気のため多量の順番待ち、もしくはそもそも在架なし、の場合にだけ、購入することにする。
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『息吹』
おそらく、今回の目玉の一つだろう。『あなたの人生の物語(映画題名『メッセージ』)』を書いたテッド・チャンの作品集。
試しに図書館で検索したところ、予約待ちではあるものの待てないほどではない。ということでいきなりだけど購入×。
ちなみに、同氏の『あなたの人生の物語』はボルヘスの幻想小説にロードムービーを掛け合わせたみたいな素敵な雰囲気の作品が多くて良かった。おすすめ。
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『ザリガニの鳴くところ』
今回の目玉その2。図書館検索すると…すごい、100件以上待ち。ということで買います。
ミステリーは普段あんまり読まないんだけど、話題となると触れたくなるのミーハーなんだろうな。
あと装丁が良い。カバーってほんと大事。電子書籍が勢力を拡大する時代でも。
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余談だけど、文庫で最近出た同じ作者の『文字渦』が面白かった。これもボルヘスっぽくて、あとは異様な世界をぎちぎち理屈と設定で詰めていくのが酉島伝法もちょっと入ってるかも。
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同じタイトル、同じ内容で日本発だったら手に取らなかっただろうと思うのは、なんとなくラノベを基本的に卒業したつもりでいるから。
そんな中で、中国のラノベってどんなもんや、って動機で気になったんだと自己分析する。こういうところに自分の変ないびつさを感じる。
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購入×。
ちなみに早川の戦争ものというと、『ブラックホーク・ダウン』の原作を思い出す。上下巻でサイズはあるけど、グズグズの市街戦で疲弊する現地部隊と混乱する司令部、隊員たちが基地で過ごす日常の描写が様々なコントラストを描いていて、それが果てしなく悪化して正義の上っ面さえまともに繕えなくなっていく様子が素晴らしい。激烈に面白いからおすすめ。
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購入◯。ケレン味◯。あと、何気に南方熊楠×SFって目新しい? めちゃ相性良いと思うんだけどな。
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『なめらかな世界と、その敵』『楽園とは探偵の不在なり』『月の光』『地下鉄道』『紙の動物園』『少女庭国』
×。どれも少し予約待ちすれば借りられそう。
気になってた本の半額セールが来る頃には図書館貸し出し予約もピークを過ぎている、ってことなんだな。と変テコなさとりを得る。
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『禅とオートバイ』
購入◯。タイトルで惹かれ、説明書きを読んでも何がなんだかわからないところにさらに惹かれ…。なんとなく予想はしていたが、図書館にも在架なしということで、買うことにした。
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なんだよ、買わねー作品ばっかりじゃねえか、ってなんとなく心苦しくなってきたので、今回セールになっている作品の中で、すで購入して良書だった本のPR。
①『サルたちの狂宴』
twitter → Facebookと後の世の巨大SNS企業を舌先三寸で渡り歩いたウェブデザイナーのドキュメンタリー。当人は技術力や創造性よりも機転とノリで生きてるタイプで、ほんとに虚飾&虚業って感じなんだけど、イヤミじゃなくそれも生きてく上で本質的に重要なスキルだと実感させるところがある。最近ノってる『トリリオンゲーム』にもちょっと近いかも。
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②『オクトローグ』
新刊だからもっとプッシュすればいいのに。酉島伝法のSF作品集。
初期の弐瓶勉漫画みたいな、ダークで無機的な荒廃と有機的などろどろぐちゃぐちゃがミックスされた至高の雰囲気。全編、Steamあたりで即でゲーム作品に展開できそうなくらい個々の完成度が高い。っていうか、このレベルでそれぞれを長編として起こさない酉島伝法には創作におけるコスパって概念がないのか? と思ってしまう。どうかしている(褒めてる)。
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ヴォネガットというとSF作家のイメージが強いと思うが、それ以外の作品にも素晴らしい小説がある。『ジェイルバード』はその一つ。
年齢を重ねることで区別されてくる人間の類型の一つに、他人と感情をむき出しにして触れ合うことができない者がいる。いわゆる「心が冷たい」人。
俺は、文学の使命の一つはこの「心が冷たい人」を救うことだと思ってる。『ジェイルバード』はそういう本。漱石好きな人とか意外とハマると思う。
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閑話休題。
『目を擦る女』
購入◯。最近亡くなった小林泰三の作品集。有名な『玩具修理者』しか読んだことがなかったので。
毒々しくも可憐な笹井一個の表紙が目を引く。装丁ってやっぱり大事だね(そういえば、この方も故人だ…)。
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『死亡通知書 暗黒者』
×。中国ミステリだそうだ。俺の生活圏の問題か、SFと比較するとあまり話題に入ってこなかった印象がある。
『息吹』といい、早川はこういうデザインの装丁好きだね(良いとは思う)。
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『華竜の宮』
×。椎名誠の『水域』といい、小野不由美の某作品のエンディングといい(ネタバレなので名前は伏せます)、文明は水没させてなんぼ、みたいなところが俺の中にある。
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×。あんまり趣味はよくない、と知りつつ、孤絶した文明と足で暮らす人々の特異な体質というテーマが好き。
似たような切り口で面白かったのは、『眠れない一族――食人の痕跡と殺人タンパクの謎』。不眠症、クールー病(ニューギニアのある部族が罹患する風土病)、同族食によって体内に蓄積されるプリオンがテーマの本。
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『透明性』
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ふと思い出したのが、別の作家の『全滅領域』。あまりにダウナーなので続編の『監視機構』で挫折したが、知らない人で『ソラリス』みたいな内省的なSFが好きな人はハマるかも。
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購入◯。そろそろル・グウィンに挑戦してみるか、ということで。
ただ、SFを露悪と飛び道具で評価するところが強くて思想性は最後に1%出てくればいいや、という性格なので、どうかな。合わないかもな。本当に一冊も読んだことがないから見当がつかない。
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×。「そんなに黒くない」「毛がない」…なんのこっちゃ?(amazon説明文ママ)
興味はあるけど挫折する可能性高いよなあ…と思っていたら、見透かしたように「必ず読み通せる科学解説」とまで書かれていて笑ってしまった。
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『100年予測』
×。国際情勢にフォーカスし、トランプ大統領誕生を予言したという本。
『紛争でしたら八田まで』が個人的に来ているのもあって、俺の中でいま地政学が熱い。
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×。
わかるようでよくわかんねー概念を三つ挙げろと言われたら、エントロピー、不確定性原理の次にアルゴリズムを挙げる。ちゃんと理解している人からすれば何を頭の悪いことを…という感じなんだろうけど。ここらでしっかり説明できるようにしておきたい。
ちなみに、よくわからんと言っておきながらアルゴリズム関連で面白かった本に、『マインドハッキング: あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』と『ニュー・ダーク・エイジ』の2冊がある。前者は政治的煽動を目的として展開されたSNS経由のターゲッティングと思想誘導、後者はテクノロジーの発達が不本意に実現してしまった笑えないナンセンスとグロテスクがテーマだった。
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結局、買わないでも借りればいいか、ってのがかなり多くなっちゃったな。最後に、今回のセール対象ではないけど早川から出ている本で「ちゃんと」買った良書を紹介して茶を濁しておきます。
類まれな想像力と合理性を持つ天才。強欲と自らでさえ使い捨ての駒のように扱うむなしさが同居する矛盾したパーソナリティ。「これをああしたらどうなるか」をプログラミングだけでなく現実世界に反映させてしまったエンジニアにして犯罪者、ポール・コールダー・ル・ルーを追ったノンフィクション。
犯罪ものであると同時に、この世界の構造の一端が見えるような錯覚を抱かせてくれる作品。
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②『闇の自己啓発』
反出生主義、変態性愛、身体改造、犯罪など、アンダーグラウンドだったりインモラルなテーマについて、決められた課題図書を通じて参加者たちが議論する体裁の本。内容それ自体も面白いけど、紹介されてる本が豊富で、そこから派生して読書体験けっこう広がる。
読んでて、最初は「自意識過剰過ぎてわけわかんなくなっちゃった大学生みたいだなー」ってイライラすることもあったんだけど、段々、各人の痛切なところとか博覧強記ぶりが見えてきて後半は感心しきり。面白い。続編読みたい。
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以上です。
人格が卓越していると、いろいろ得なことが多い。人格さえ優れていれば、どんな不祥事を起こしても許されるから安泰だ。だからつねに人格を磨くように心がけなくてはならない。会社で配られた本にそう書いてあった。研修で課題図書になっていたやつが、昨日ようやく読み終わった。
やる気は出た。だから今日は朝6時半に出社して、「人格の磨き方」を検索した。トイレを雑巾で磨けば人格も磨くことができるそうだ。
会社のビルをいったん出て、朝からやっているスーパーで洗剤と雑巾を買ってトイレに行った。便器はいい感じに汚れていた。誰かが的をはずして床に吹きこぼしていたので、それも雑巾で拭いた。便器がきれいになると、たしかに人格が磨かれた感じがある。
光る便器を見つめていると、もよおしてきたので、自分で磨いたばかりの小便器に放尿した。人格を磨いた後は、小便の勢いがたしかにいい。
誰かが入ってきて、隣の小便器に立った。高そうな青いスーツを着た人が、静かに放尿を始めた。その人はジャケットの内ポケットから何かを出し、無言で私のズボンのポケットへ入れた。こちらの顔を見ようともせず、尿が止むと身体を上下に揺らし、何事もなかったように出て行った。
ポケットを確かめると、マクドナルドのハッシュポテトが入っていた。まだ温かかった。人格を磨くと、朝マックに行かなくてもハッシュポテトが食べられる。方向性として間違っていなかったわけだ。
人格を磨くためなら今日は珍味おばさんにも優しくできるはずだ。この人は毎日のように会社へ電話してきて珍味を注文しようとするので、珍味おばさんと呼ばれていた。キッチンや洗面所に貼るタイルを売っている弊社に珍味も何もないのだが、電話を取った人がなぜかいつも私につなぐので、適当に返事してガチャ切りしていた。人格を磨くためなら、今日は全人的な応対をするだろう。
おばさんは始業後まもなく電話してきた。基本的に時間にはきっちりしているのだ。
「ねえ、ちんみちょうだい。あなたのちんみちょうだい」
「かしこまりました。赤黒くテラテラ光って、鼻を近づけると生臭さでむせかえるような、あの肉ですよね」
「そう……それ、それ……」
珍味おばさんは受話器の向こうで息を荒げながらメールアドレスを教えてくれたので、見積書を送った。
昼頃、三ツ桃さんが眉間にしわを寄せながらFAXを持ってきた。ひっつめ髪で、だいたいいつも厳しい営業部の先輩だ。
「この、鮭とば5箱って、なんの注文?」
「人生の糧、ですかね」
三ツ桃さんは瞳孔がひろがり、両手で口を覆ったまま動かなくなった。
「行きます? お昼」
オメガラーメンは混んでいた。満席のカウンターに座った客は肩を触れ合うようにして麺をすすっていた。店に入ってから三ツ桃さんは俯いたまま、一言も話さなかった。食べ終わって店を出たとき、「今晩、時間ある?」と訊いてきた。
夕方、会社を出ると三ツ桃さんの運転する車で国道を走った。車内はかすかな音でラジオが流れていた。信号待ちでウインカーの音がやけに大きく聞こえた。
「その人格、どうしたの」
「磨いたんです」
「そう」
会話はそれだけだった。運転している三ツ桃さんの横顔を見ると、歯を食いしばっているのか、顎の筋肉がやけに緊張していた。
夕闇が濃くなった頃、車は砂利の引いてある空き地のような所に入り、停まった。廃車や鉄屑が大量に積んであった。三ツ桃さんはトランクから棒のようなものを取り出し、からんと地面に投げてよこした。それは木刀だった。
三ツ桃さんは自分の木刀を上段に構え、タクェッと叫びながら振りかかってきた。拾った木刀で受け止めると、乾いた木と木が当たる音がした。そのまま横になぎ払うと、三ツ桃さんは後ろに飛びすさった。向けあった剣先を中心に、私たちは円を描くようにすり足で歩いた。つむじ風が古い落ち葉を吹き上げる。人格卓越の戦いはまだ始まったばかりだ。
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
選ばれづらいけど、読書感想文には物語じゃなくて実話ものを選んだほうが絶対に感想を残しやすいと思うよ
課題図書にも必ず伝記とかプロジェクトX的な本が入ってるでしょ
現実にあった話を読んだほうが自分の身近な世界との接点を想像しやすくて、本の内容を素直に咀嚼できるよ
それこそ「自分ならどうするか」「この本の人たちのように行動できると思えない」「本の人たちは困難に立ち向かって社会を変えられて本当にすごい」「自分もこうありたい」って理想的なことを簡単に書ける
まあどうしても図書の選定の時に、物語のほうがエンタメ要素があって読みやすそうって意識が働いてしまうのかもしれないけど、それは罠なんだよなぁ
創作された物語だと「面白い」「つまらない」以上の感想を持ちようがないから。
比較するにしても「自分」とじゃなくて、他の物語(小説だけじゃなくて漫画、アニメ、ゲーム、映画、ドラマ)のキャラとの比較が真っ先に思い浮かんで、余計に書けなくなっちゃう
感想文を書くのが苦手な人間は、反省文を書くのも苦手なはずである。
反省文では、自分の悪事を明確にして、それがどうして悪かったのか、そして、それをどう改善していくのかを書くわけだが、感想文もそれと同じだ。
その読書によって気づかされた自分の欠点を明確にして、それがどうして悪かったのか、そして、それをどう改善していくのかを述べる。
感想文では、その「気づき」に至った箇所を引用するところだけが違う。とにかく、感想文を書くときは、反省文を書くというモチベーションで書いた方が書きやすい。
だから、その読書も、自分の欠点を発見するために行うのだ。説教されてる感じがする部分、今まで知らなかったことが書かれた部分に線を引けばいい。
ちなみに、一部の人間が感想文を忌み嫌うのも、感想文に反省文のテイストを感じているからだと思う。なんで、悪いこともしてないのに反省文書かないといけないんだよ、という。
そして、学校が感想文というスタイルの宿題を辞めないのも、同じく、生徒にできるだけ反省させたい意志なのだろう。そういう意味で、感想文も道徳教育の一環だと思う。
ちなみに、「感想文」という名称ではあるが、学校側は課題図書の要約や個人的感想には、全く興味を持っていない。むしろ、ガキの稚拙な意見など、どうでもいいと思っている。
その読書によって、子供がどのように自己の行動を改善しようとするか、そこに一番の興味があるのだ。学校側が本当に求めているのは、感想文というプロセスじゃなく、行動変容という結果なのだ。
異性関係でボロ雑巾になっていて、ここんところとにかく自信を失っていたところの私が、唯一と言っていいほど自信を持っているのが読書感想文だった。そんな中、光属性の例の増潤を見て、ひとしきり笑ってひどい虚しさを覚えた私が、滅びよ人類と思いながら酒を片手に読書感想文に関する増田を勢いで書くのは、必然だったのだろう。あんなにブクマが付くのは完全に想定外だったが。
今でこそ読書感想文は自信があるが、昔は苦手だった。あらすじ書いて、作者が伝えたいことはこれじゃないか、みたいな書評もどきを書いていた。そのころの感想文なんて、「○○は「A」と、言いました。××は「B」と、言いました。でも本当は、BじゃなくてCです。××はうそをつきました。」とか書いてた。あまりにもわからなくて、親に聞いたら「これは感想文じゃない」だ。そのとおりだが、書き方がわからなかった。「感想文なんだから感想を書くんだよ。」そうなんだよな。しょうがないから最後にとってつけたように、「うそをつくのはよくないと思いました。」と書いて、感想文の完成だ。「うそをつくのはよくないと思いました」という嘘をついていた。
覚醒したのは小4。今でも内容までかなりの精度で覚えてるぞ、「カモメがおそう島」、実在するほうの兄が買ったのを、金使いたくなかった私が勝手に借りて読んだ課題図書だ。イースター島奇譚。今思い返せば、確かにいろんな切り口で感想文を書ける。習慣と善悪あたりは、多分大人が評価する子供の切り口ができるだろう。特に「カモメの無垢さ」と「習慣」あたりから、「自ら善悪の判断をつけずに、周りにあわせて他人を攻撃していないか?」「いつも習慣のようにやっていることもカモメにならないために善悪を考え直してみようと思った」みたいな事書いたらよく出来ましたハンコと原稿用紙2,3枚分の厚さの紙ペラが1枚が貰えるだろう。今の私だったら、対カモメの防御兵器になった仮面と絡めて「善悪の判断がつかないカモメから自らを守るのは仮面という盾であった。しかし、現在のインターネットの発達により作られた匿名という仮面は、人を攻撃する武器となり、インターネットカモメを生み出してしまった。さらに言えば、このインターネットカモメから身を守るのも、本音や本名を隠して別の人格を形成するペルソナ、仮面である。」とか書けるな。小学4年生で書いたら呼び出しまったなしだ。
今でこそ、そんなこんなを楽しめるが、当時の私はこの本を復讐譚として読み出してしまったのだ。復讐譚にワクワクし、カモメにもっと、もっとやれと思い、助けに来た船を襲った時はよくやったと思った。主人公はなぜ島民を許してしまったのだ!復讐をメインに添えやがれ!何がめでたしじゃ!と怒ったのだ。あらすじを3行で終わらせ、あとは全部怒った。先生に呼び出されて、「俺はこれ1番好きだよ」って言われた。紙ペラ1枚すら貰えなかったし、先生が読書感想文について何か教えてくれることはなかったが、この先生にはだいぶ救われた。正解じゃなくていいんだ、って気づけた。大人の正解と自分の正解が違うし、先生も大人だけど、先生の正解と大人の正解すらも違うとちゃんと気付けた。自他の境界がつくのは4歳頃と言われているが、私がついたのはこの経験があったタイミングかもしれない。まあ4歳と4年なら1文字しか違わないしええとこやろ。で、この本は「復讐」と見せかけて「ペルソナ」がテーマになるので実質ファイアパンチ。
ちゃんと読書感想文というものに向き合ったのが5年から。それからは賞もらったりもらわなかったり。内容はあんまり記憶にないな。例の技法で、ひーこらやってた課題から、自信をもってこなせる課題にはなってた。
だからこそ、読書感想文何を書いたら良いかわからない問題には「正しいテーマなど必要ない」「主役は本じゃない」「自分の誤読を書け」が特効薬だと思ったのだ。だからあんな傲慢な、誰もが自分が言いたいこと、主張したいことがあって、それを書けばいいのだ、のような文章を平気で書いてしまったのだ。「本から受け取ったものなんてない」は想定できた。だから自分語りを勧めた。「書けったってどうやったらいいの」も想定できた。だから「読書感想文こそが訓練」で予防線貼った。方法論がわかれば、あとは訓練次第だと思ったからだ。完全に、「そもそも自分のことすらも書きたくない」を想定していなかった。切実なトラバに気付かされた。それなのに、凄く偉そうなことを返信してしまった上に、結局「書きたくない」ならそう書けばいい、のテクニック論に終始して、書きたくない「気持ち」をないがしろにしてしまったかもしれない。よりにもよって「オチ」などと!「私ならこうする」ばかりで、我が強いは良いとしても、猛省しなければならない。
自分のことすらも書きたくない、の原因は、様々なブコメが大変参考になった。「手が疲れるから書きたくない」「原稿用紙アレルギー」なんかは、もう課題自体をやらないという選択しか出来ないだろう。ただ、「そもそも大人が信頼できないから内心を開陳したくない」が真因の場合、これほど悲しいことはない。とくに小学生からみた周囲の大人なんて、社会のすべてだと思っていてもおかしくない。その大人が信用できないときの辛さ、全てが嫌になっていくだろう。そして、大人の信用できなさなんて、「ウソを付くこと」「ごまかすこと」「言ってることとやってることのズレ」という基本の基本から来てるんじゃないか。そんな子供に、課題がこなせないなら嘘捏造もありやで、なんて、何の役にも立たないアドバイスじゃないか。
私には何が出来るか。何も出来ない。教育には一切関わっていないし、親になる予定が無くなったからこんな文章を書き始めたのだ。このままゆるやかに、一人死んでいくのが私なのだ。自分一人の人生すらまともに面倒見れない私が、救えると思うことすらおこがましいのではないか。
数少ない救いの1つは、私の書いた感想文テクで、「感想を書けばいいんだよ」以外の指導を親御さんたちが出来るようになってくれたら、読書感想文などというくだらない課題に苦しむ子供が少しは書くのが楽になることだ。「内心を開示したくない子を救えなかった」よりも、「正解を求めてしまう子を救えた」と考えよう。いかにも大人っぽい諦念だ。そしてもう1つの救いは、大人を信用できなくなった子供も、大人に開陳したくないだけであり、「何も思っていない」ではないことだ。私はそう信じたい。結局自分を救えるのは、自分しかいないのだ。自分だけは、自分の思いを信じていかなければならない。自分だけは自分を信じていて欲しい。ああ、いかにも大人が言いそうな言葉だ。こうやって言葉で反省して、嘆いてみせることも出来るようになってしまった。明日になれば、私はまた仕事に戻ってせっせと自分の世話に勤しむだろう。そんな仮面をかぶって、生きていくんだろう。
「感想は個々人で勝手に持っている」は真だと信じている。そう思っていないと、やってられない。
私だったら、これには「テーマが「嘘」「ペルソナ」なので実質ファイアパンチ」みたいなコメント書くね。自分すらも茶化さずにはいられない。嫌な人間、架空の兄だ。
そしてこんな長々しい自分語りを読んでくれてありがとう、前2つについたブコメもトラバも全部読んだよ。コロナ禍以降久々の退屈しない週末だった。私は感想文だけじゃなくて、文章書くの好きなんだな。
トップブコメにもある「子どもだから」「自我が確立してないから」仕方ないみたいな態度は子どもを軽んじてるし、そんな素振りを見せるのは逆効果だから絶対やめたほうがいいと思う。
読書感想文や作文が書けない子はとどのつまり褒められたいんだよ。大袈裟に言い切ってしまうと、書けない子は人から承認されうることがないと自分には存在意義がないと思う傾向にある。
変わった趣味を持ってて周りと話が合わなかったり、おっとりしていて出し抜かれがちな子。そんな子ほど周りより目立って称賛される立場でないと釣り合いがとれないんじゃないかと考えるのでは?と僕は思う。
もはや自分の思考なんかに興味を持つ人間なんていないというぐらい悲観的な子も中にはいる。現に自分はそういう小学生だった。
幼稚で平々凡々なものを提出して「自分は人より劣っているのでは?」「取り柄なんてないのでは?」という不安に苛まれること。それは彼らにとってのアイデンティティクライシスであり避けなければならない事なんだ。
そして本をよく読む子ほど文庫本の解説や雑誌新聞の書評といった「洗練された感想文」を目にしているため、自分もそういうものを目指して書こうとする。
評論や解説というのは対象をよくリサーチしそれで得た情報を整理していく作業。なので「かっこいい文章を書きたい」と手段と目的を倒錯させて取り掛かると当然うまく書けない。
この場合だと読書感想文のための読書になってしまうので本をちゃんと読めていないんだ。本を読んでいても、先生を唸らせる様な独創性がありかつ思慮の深い自論をどう構築するのかみたいなことばかり考えている。
(流石に小中学生でそれを明文化できるほどのメタ認知ができる天才なら苦もなく文章なんて紡げるので、本人は自分のそういう感情をはっきり把握はできていないだろうけど)
僕個人の体験からいうと「エルマーの竜の続きを考えよう」とか「ごんぎつねを一人称視点にアレンジしよう」みたいな課題は楽しく書けてた。そういう二次創作は対象を読んだときの解釈等で個性は出るけど、ベースは原作の世界観や設定を引き継ぐので気持ちが楽。
万が一「それは変だ」と指摘されても、「課題の物語がああなんだから仕方ないだろう」「自分の勝手な想像なんだから自由だろう」というダブスタで煙にまける。卑怯かもしれないがそうでもないと自分は書けなかった。
なので物は試しで増田もお子さんに課題図書の続きを考えることを一度進めてみてはどうだろう?
それですらすら物語を紡げる子ならなんとかそれを書き留めておく。そんで休み終盤でにっちもさっちもいかなくなった頃合にそれを基に読書感想文を完成させることを勧める。
自分の経験だと親に変わったアプローチを勧められると、どんな評価が下されるかわかったもんじゃないと反発していた。おそらくその案を採用するしかないというところまで追い詰められてないとすんなりそれを飲んで書き進められなかっただろう。だからあえて終盤まで書くことを意識させない方が却っていいかもしれない。
早い段階から取り掛かってしまうと「先生ベタ褒め完全無欠の読書感想文」を休み中ずっと追い求めるという地獄にのまれる可能性もある。それで苦手意識を強めるのもよくないので、そのためにも一旦読書感想文の存在を忘れさせてあげるのもいいのではないか。
「なぜ読書感想文を書くことが苦痛なのか?」という切り口の作文にスライドさせてけみたいなブコメもちらほらあるね。でも本の感想というテーマ設定があっても書けない子に、より自由度の高い作文は茨の道だろう。
小学生の子供がいる増田・ブクマカもいるだろ、その中に読書感想文が苦手だった奴いるだろ。8月も終わりに近づいてきて、そろそろ「かーさんとーさん、読書感想文ってどうやって書いたら良いの」が来る頃だろ。安心しろ、読書感想文でナントカ賞をいくつも貰った私が書き方を伝授してやる。これは私に娘息子が生まれたら伝授する一子相伝の技にしたかったんだが、そんな予定は一切なく、今後一生ないだろうという見通しになってしまったので全国公開だ。滅びよ人類。
そもそも、コロナ禍で3月4月休みだったけど夏休みはちゃんとあるのか?読書感想文の課題って今でもあるのか?しらねえ、書きたくなったから書くんだ。書かせろ。
なんでもいい。薄ければ薄いほどいい。読みやすいからな。課題図書じゃないと駄目っていう狭量な小学校なら課題図書でいい。私くらいになると増田でも書ける。あとで実践編やるので期待せず待て。
読書感想文の「読書」は前項で満たした。次は「感想」だ。感想に正解はあるのか?そんなものはない。感想とは誰のものか?筆者のものだ。筆者が絶対王政の、何やっても良い文章が感想だ。つまり、筆者が書いたことこそが唯一の正解だと心得ることだ。読書感想文の中ではな。
読書感想文苦手パーソンは、結構な割合で読書感想文の主役を「本」にしがちだ。だからあらすじを書きたくなるし、この本が伝えたいことは何か、みたいな答えを探し出す。それをやるのは感想文じゃなくて紹介文。読書感想文の主役は筆者。あらすじも引用も正しい読解も不要だ。堂々と誤読、曲解、勘違い、拡大解釈、被害妄想を自信満々に書いていけ。しかし、文章を書く訓練を積んでない人が「書きたいこと書け」って言われたって難しいことくらいはわかる。読書感想文こそが文章を書く訓練だからな。必要なのは具体的な方法論だ。
自分語りって嫌われがち?それは公園の砂場でしょんべんしたら嫌われるのと同義。しょんべんはトイレで。読書感想文はトイレだ。本を適当に開いて、気になった一文について文句つけたり褒めたりしよう。正しさは不要だ。そこに自分の体験をくっつければ、あっというまに400字は書ける。1ページ埋まったな?
自分語りに繋がるが、好きなものの話というのはリアリティがあって、本人にしか書けない素晴らしいお気持ちが書ける。好きなものと本との共通点をこじつけろ。400字は書けるな?
好きなもの同様、嫌いなものへの悪口もスラスラ出てくるものだ。嫌いなものの悪口言っても怒られないのが読書感想文という場だ。好きなだけこじつけて、比較して、罵倒しよう。適当な一文をあげつらって、怒って、作者は性格が悪いと決めつけよう。400字以上余裕だな?
何でも良い。その学年の児童・生徒が興味を持ちそうな、センセーショナルではない、できれば同じ議論が繰り返されてるような社会問題にこじつけよう。環境問題とか、食料廃棄問題とか、いじめ問題とか。本の感想として自分の体験を書いて、それを社会問題まで広げる。国語の先生の花丸と、ナントカ賞のニオイがしてきたな?
以上が方法論。賞が不要で、とにかく終わらせたいなら、社会問題にこじつける必要はない。自分語りだけでOK。さて、実践編だ。
実際に増田をピックアップして書いてみるぞ。まあ今のタイミングならこれだろ。
タイトル:嫌なら嫌とそう言おうぜ
自分はひねくれ者だ。いや、ひねくれ者でありたいと思っているだけの、単純な奴かもしれない。なぜそんなことを思ったかというと、兄から「お前は単純だな」と、何度もだまされてバカにされたからだ※。だから、単純であることは人として劣っていて、ひねくれているずる賢い奴のほうが優れている、という思い込みがあるのかもしれない。だから、自分はひねくれ者だ、なんてことを考えている。
今回読んだ本は「夫を松潤扱いしてみた」だ。松潤、松本潤といえば、アイドルグループの嵐のメンバーであり、とてもカッコいい人だ。夫を松潤扱いするということは、つまりは夫を騙して調子に乗せて、あとからハシゴを外してバカにする、自分がよく兄にやられていることを、自らが選んだ夫にするのか、なんて性格の悪いやつだと怒りを覚えた※。他人を騙してバカにして、何が楽しいのか!いじめと同じ構造じゃないか!と怒りつつも、自分もTBSの「モニタリング」という番組が好きなことを思い出した※。あれも、突然〇〇したら、人はどうするの?という、騙して反応を楽しむという構造だ。いじめと何が違うのか?そしてそれを笑って見ていられるのに、自分にふりかかったら怒ってしまう自分は薄情で性格の悪い人間なのか?そんなはずはない、あの性格の腐った兄よりも、自分はずっとマシなはずだ。兄とモニタリングは違うはずだ。
そんなことを考えて、頑張って違いを見つけた。「騙された側の反応」だ。兄はただ自分を不快にして、兄だけ笑って終わる。モニタリングは、騙された側も笑顔で、騙した側も笑顔だ。騙された側も嫌じゃないのだ。騙された側もハッピーに終わるなら良いことだ。騙された側が「嫌だ!辞めろ!」と言えば辞めるのがモニタリングだろう、ただ人に嫌がらせがしたい兄とは大違いだ。相手が嫌な気持ちになったら辞める、謝る、というのが、いじめ大好きな兄と普通の人の違いだろう。
実際に、この本も「夫」は楽しく騙されて、そして良い結果になっている。作者も、悪意が合って騙しにいっているのではなく、うまく調子にのせて良い結果を生み出している。そうだ、この「夫」は単純なのだ。そして単純で素直だからこそ、いい結果が生まれている。やはり単純であることは悪いことじゃない。悪意のあるひねくれ者の兄こそいじめっ子で、悪い奴なのだ。
しかし、自分も友達に対して「嫌だ」と思われていることをしてしまっているのかもしれない、という思いが出てきた※。いじりやからかいの名目で、いじめと変わらないことをしてしまっているのかも、と不安になってきた※。そこで、自分にルールを決めようと思う。「『嫌だ』と言われたら善意であっても辞めてきちんと謝る」だ。きっと、この本の作者も、「夫」が辞めてと言ったら素直に松潤扱いを辞めているだろう。嫌がらせのつもりはなく、悪意がないからだ。そして、自分も嫌だったらきっぱりと「嫌だ」と言うようにしよう。
米津玄師のLOSERという私が大好きな曲がある※1。とてもカッコいい曲で、タイトルは「敗者」なのに、全く負けている感じがない。歌詞はひねくれ者の歌詞でも、ひねくれてちゃ何も始まらないぜ、負け犬だっていい、遠吠えだっていいから、それこそ単純に「愛されたいならそう言おうぜ 思ってるだけじゃ伝わらないね」と歌っている。自分の好きな曲も、ひねくれ者でもいいから、思ったことを単純に言って伝える、そんな単純さを肯定している。やっぱりひねくれ者に憧れるのは辞めだ、単純に生きていこう。嫌なら嫌とそう言おう、悪意がない相手なら伝わってくれるはずだ。
今後、自分は「嫌だ」「愛されたい」をはっきりと言っていこうと思う。そして願わくば、この本の夫婦のように、信頼しあい、愛し愛されて幸せに生きていけるようなパートナーに恵まれますように※1。この祈りに、「恵まれますように、なんて受け身じゃ始まらないね」なんて混ぜっ返す、心の中の兄が顔を出してきた。兄は居なくても他人に嫌がらせをする。兄よ、愛されたいならそう言おうぜ。
※1 本当
原稿用紙5枚分である。書くのに1時間くらい。便宜上元増田のことを本と呼んでいる。賞がほしければ、ここから架空の兄への恨み節みたいなものを削って、もっと「いじめ」問題へフォーカスしていけばいい。今回は架空の兄への恨み節をメインに据えているが、やりたければ好きな曲とかゲームの話でも良いから、書けるものの話を延々すればいいし、ちゃんと本を読んだなら本の内容をメインにしてもいい。これ全部読んだ人はわかると思うが、私は元増田はそこまで読み込んでない。好き勝手自分のことを話しているだけだ。あらすじなんて微塵も引用してないし、正しいテーマなんて探していない。読書感想文なんて、本は添え物だ、好きなものと嫌いなものを書け。賞が欲しかったら社会問題をトッピングだ。簡単だろ、簡単に書くんだよ。難しく考えるな。
今年の夏の課題図書が図書館に置いてあった。小学校高学年が対象の本で『飛ぶための百歩』というタイトルだ。翼を広げた平べったい鳥の後ろ姿の曲線がに惹かれ、手に取った。なお、私は小学校高学年の少年少女ではない。夏休みの苦行、読書感想文を書かねばならぬ彼らがこれを必要としていることは認識していた。罪悪感はちゃんと持っていた。多少の良識がある大人だと、自分に言い聞かせた。
本の貸し出し、一番乗りだった。ごめんなさい。
この本は、目の見えない少年が人付き合いが苦手な少女に出会い、絆をつくる、ボーイミーツガールの物語だ。
タイトルにある「百歩」は山小屋の名前とラストでの「ここまでちょうど百歩だった」ことのダブルミーニングと思われる。ラストの舞台は1年後の話になるので、困難を乗り越えたあと、彼が良好な状態になる「ための百歩」だろうな、とタイトルの考察をした。
ただ、「飛ぶ」がわからなくて、いやラストシーンで”飛ぶ”んだけど”トぶ”にしか思えなくて、飲み込めなかった感あり、今もなお喉奥に引っかかっている。
この物語は、タカのひなが密猟者にさらわれ、それを救出し、巣に戻す、という事件があるのだが、都度、主人公の驚異的な聴力と、驚異的なモノマネ力が爆裂し、困難を乗り越える。その過程で主人公と少女はお互いの悩みをぶつけ合い、自身の在り方を見つめ直していく。
いいでしょ。いいんですよ。少年少女なんです。
でもね、1年後のラストシーンで主人公が上空を飛んでいるタカを「ぼくに会いに来た」とのたまい始めて、様子がおかしいと不安になる。よしんば、空を飛んでいるタカがその時のひなだったとしても、ひなは君を認識していないだろう。双眼鏡でヒロインに実況してもらわないといけないほどの距離にいたのに。
さらに彼は、崖に向かって走り、崖下へ飛び込んでしまう。空を飛んでしまう。比喩である。比喩であった。しかしこの描写は、私を完全に置いてけぼりにするには十分だった。
これは自論なのだが、舞台装置としての魔法・奇跡といったものは、冒頭の設定で使われるか、事件解決のために”1度だけ”使われるべきだと思っている。(SAVE THE CAT が言ってた)
この場合、事件解決に使われた主人公の驚異的な〇〇が魔法だとしたら、2回目が使われたのは残念に思ったし、なにより、最後の最後で突然、前触れもなく白昼夢のような魔法の世界が描かれ始めてしまったことで、今まで読んできた現実的な世界観との温度差が生じ理解が追いつかなくなった結果、本当に崖下にジャンプしたのだと解釈したほど混乱した。
それまで、物語の傍観者だった私は、彼が飛び立った崖に取り残され、空から降ってくる立方体のキャラメルを眺めていることしかできなかった。
さて、ラストシーンから書いてしまったのは悲しみが深かったからで、文字数的なノルマはまだ残っているので、この物語が課題図書たるゆえんっぽいところについて、述べたいと思う。
作中に明記されているが、この社会はマジョリティーが便利なように作られている。その中で、マイノリティはサバイブしていく作戦を練り続けなくてはならない。主人公は、このサバイブしていく少年である。しかし、ヒロインもまた自信のなさをを抱えたマイノリティでもある。
誰しもどこかにマイノリティを抱えている。その部分を痛むのではなく、誰かに助けを求めたっていい。また、マイノリティな部分を自覚して向き合うことも大事だ。
ボーイがガールにミーツして成長する話ですが、この成長は冒頭に述べた"崖からトぶ"力を得る、ではない。当然である。
ヒロインのキアーラは、男子に憧れられ、女子に嫌われるタイプのミステリアス引っ込み思案クールビューティーなわけですが、無言でジェスチャーをしたところで目の見えない主人公には何一つ伝わらず、口に出して表現せざるを得ない。その状況に置かれて初めて、言葉に出さないと気持ちは伝わらないことに気づく。
これは、万人に対してそうであることはご承知のとおり。しかし、ひるがえってみれば「言葉がなくても理解できる」と錯覚するほど、ジェスチャーやアイコンタクトからは多くの情報が得られる、ということなのだろう。
私の会社の営業が「付き合いの長い取引先とはWebミーティングでもいいけれど、新規さんは相手のクセが分からないから、やりづらい」と言っていたのを思い出した。だから”最大の理解者”というのは尚早すぎると思うよ、キアーラ。
主人公のルーチョは、目が見えないことを"アクセサリー"と考えている(この表現は好きだし、私もハンディは個性の一種だと考えている)のに、周りが「目が見えない」ことを前提に自分を見ることに怒りを感じている。
ルーチョは誰かに頼ることを極端に嫌う、意地っ張りで頑固な少年だ。でも、その意地っ張りは、誰かに頼ることなく、自分でできることは極限まで自分でやれるように訓練する努力にも結びついているのだと感じて、だれか、彼の頑張りを称賛して欲しいとずっと思っていた。
それをやってくれたのが、キアーラだった。私は心のなかで拍手喝采した。ありがとうキアーラ。ルーチョが君にミーツしてよかった。
キアーラが「口に出さないといけない」と気づいたのと同様に、ルーチョも「人は誰かに頼らないと生きていけない」と気付いてくれて、私は少年少女の成長の瞬間に立ち会ったことに感動した。青春だ。これが。
道中ギブアップしたルーチョのおばのベアは、彼ら二人が戻ってきたとき、どんな反応をしただろう。彼女はルーチョのこれからを誰よりも案じていたから、帰ってきた甥が自立への一歩を踏み出した様子を見て、泣き出さん勢いではなかっただろうか。
私だったら泣いてしまうだろう。自分では何年かけても気づかせることができなかったことを、甥に気づかせてくれた、昨日今日会ったばかりの少女と、それを受け入れた甥を全力で抱きしめたい。
靴ずれでズルむけになったかかとが痛いと言いながら。
まあ、1年後、なにわらってるの?と青ざめるのですけど。
余談
ボーイがガールにファーストコンタクトしたときにツンな反応をされたのを「質問4回でノックアウト」と表現していて、イタリアーノだなぁ、と思った。日常的に口説いてんの?
また、地獄のオタクなので、高校デビューした美少女キアーラがとんでもないギャルになっていて、初恋?をきび砂糖のごとく粉々に砕かれるルーチョはアリかな、と思いました。でも、見た目ヤマンバになってても関係ないのか、内面が見えるのは良いことだね。
良い女と良いセックスをしたい。
飯を食うとか、仕事するとか、俺のありとあらゆる行為の理由はコイツだ。
良い女、とはどんな女だろうか。肩ぐらいまでのショートカットであるとか、屈むと2リットルペットボトルがぶら下がってるみたいになるタイプの巨乳であるとか、下着には自分なりのこだわりがありますだとか、色々あるけれど、とにかく一緒にいて楽しい女、のことを言う。
良いセックス、というのはどんなセックスだろうか。良いセックスには良いストーリーが必要だ。大阪の道頓堀だとか京都の河原町だとかにあるひっそりしたバーで偶然隣りに座った女と好きな小説の話で意気投合。そのうちお互いの悩みだとかを話し合い、今までの恋人の良かった所、悪かった所、両親の変な癖だとかをざっくばらんに話していくうち、向こうはどんどん機嫌がよくなって最後に「なんだか、すごい楽しいわあ。明日も休みだし幸せー!」なんてすごい嬉しそうに満月のようににっこり笑った後、突然雲が掛かるみたいに妖しさを含み始め、そっと低いトーンで「この後どうする?」なんて囁かれ、そのままさっさと会計済ましてラブホにホテルに行き、ぐっちょんぐっちょんになった後、始発に乗るために誰も居なくなった早朝の繁華街を二人で歩く、みたいなのが理想のストーリーである。
俺はそんな良い女との良いセックスを求め、マッチングアプリに登録した。何人かの女性と会い、実際にセックスまでした事もあったが、良い女との良いセックスなんてのは一切無かった。
マッチングアプリで出会い、簡単にセックスできる女とは、つまらないセックスしかできなかった。こういう女には面白い共通点があって、会う前に「私ブスだけど良い?」とか「私太ってるけど大丈夫?」とかそんなことをご丁寧に確認してくる。当時俺はよくわからなかったからとりあえず会ってみたけど、本当につまらないセックスしかできない。これを読んだ男はよく覚えておくと良い。
まず勘違いしないで欲しいけど、ブスでもデブでも良いセックスをする女は居る。つまらないセックスというのは、その最中に俺の身体が突然バイブか何かに変わったとしても、相手はそのまま喘ぎ続けているんじゃないだろうかと白けるようなセックスのことだ。ま、仮につまらないのが目に見えていてもセックス出来るならするけどさ。
マッチングアプリに見切りをつけた俺は、次なる戦場として読書会を選んだ。細々と活動している小さな読書会だった。課題図書も面白そうだし、なにより場所が道頓堀の近くだったため、俺は良い女との文学的で良いセックスに想いを馳せながら読書会へと向かった。
読書会に参加した俺は、皆思い思いに感想を述べる女達の良さにグッときつつ、反省していた。読書会は非常に、本当に、心の底から楽しかった。それは純粋に読書会を楽しんでいる参加者や、楽しい会にしようと努めている運営の方々のお陰であり、そんな中セックスどうこうなんて考えていたのが、本当に失礼だと思ったからだ。俺はクソだ。
読書会が終わり、一人夜の道頓堀を歩く。俺も結局、セックス以外に自己確認の手段がないつまらない男だ。 良い女は俺なんかとは遊ぼうだなんて思わないだろう。マッチングアプリをやっている良い女は俺のつまらなさを易々と察知したことだろう。良い女は良いセンスも兼ね備えているので敵わない。
良い女と良いセックスをするには、当然だがなによりも自分が良い男でなくてはならない。どうしたら良い男になれるのだろう。だが、良い男になろうと思って何かする時点でクソみたいな男にしかなれないということだけはハッキリとわかる。結局は才能と運だと俺は思う。本当は運も才能に含まれるのだけど、才能だけっていうのはあんまりな気がしたからそこは分けた。
俺も、マッチングアプリに蔓延るクソみたいな女も、才能と運が足りなかった。悲しいな。一杯飲もうぜ。なぁ、セックスしよう。いやいや、君は自分が思っている以上に可愛いって。特に目元とかキュートだ。こんなしょーもないメンタルのままじゃお互いダメだろうけど、最近なんか寂しいし、今日くらいはええやん?
道頓堀の街は賑やだ。なんばへ向かう通りはラブホテルが何件も並んでいる。カップルが目の前でラブホテルへと入っていくのを何度も見た。彼らの何組かは今晩、良いセックスをするだろう。俺はせめて良いオナニーをしてやろうと心に決めた。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 91 | 16414 | 180.4 | 53 |
01 | 65 | 4321 | 66.5 | 45 |
02 | 80 | 8389 | 104.9 | 47 |
03 | 5 | 531 | 106.2 | 132 |
04 | 13 | 3729 | 286.8 | 74 |
05 | 9 | 883 | 98.1 | 60 |
06 | 14 | 2305 | 164.6 | 47 |
07 | 43 | 3696 | 86.0 | 44 |
08 | 68 | 4893 | 72.0 | 37.5 |
09 | 120 | 11902 | 99.2 | 40.5 |
10 | 141 | 9510 | 67.4 | 32 |
11 | 141 | 12036 | 85.4 | 40 |
12 | 133 | 8323 | 62.6 | 37 |
13 | 108 | 9428 | 87.3 | 49 |
14 | 167 | 7495 | 44.9 | 22 |
15 | 132 | 10729 | 81.3 | 28 |
16 | 120 | 10646 | 88.7 | 34.5 |
17 | 164 | 11796 | 71.9 | 44.5 |
18 | 120 | 14812 | 123.4 | 30 |
19 | 92 | 9589 | 104.2 | 37.5 |
20 | 125 | 9658 | 77.3 | 27 |
21 | 123 | 14375 | 116.9 | 42 |
22 | 119 | 9105 | 76.5 | 30 |
23 | 139 | 11308 | 81.4 | 40 |
1日 | 2332 | 205873 | 88.3 | 37 |
バーテン(19), GSOMIA(22), GSOMIA(5), バーテンダー(26), EC2(4), 課題図書(5), 送信先(3), 捨象(3), 原稿用紙(9), オンプレ(3), 混線(3), 破棄(31), 日韓(17), バー(18), 報復(9), 韓国(105), クラウド(7), 北(7), 外交(8), 夏休み(9), 反日(9), 聞け(19), 韓国人(14), サーバー(6), 両(6), ロシア(11), 北朝鮮(12), 米(12), モテ(21), 非モテ(13), アメリカ(40), なろう(9), 戦争(25)
■1999年と2009年は大きな違いだったけど、2009年と2019年はそんな変わんない /20190822233353(15), ■息子が妹にセクハラする。 /20190823122351(12), ■普段は敵だけどある時だけ共闘するシーン /20190823165435(11), ■職業・バーテンダー /20190822170940(10), ■ /20190823163251(10), ■幸せなら態度で示そうよ /20190822162044(8), ■anond:20190823152435 /20190823152530(8), ■「メールを送りましたので確認お願いします」という電話 /20190823100719(7), ■コミュ障の会社勤め /20190822194952(7), ■読書感想文は苦手 /20190823120243(7), ■終わり切ったIT業界の今と昔の仕事の仕方の違い~SIからweb系まで~ /20190823153139(7), ■かわいくて素直なら結婚なんて1秒で出来るのに30にもなって独身の主査とか何して生きてんだろ /20190823171309(6), ■人間としての義務教育もできなくて辛いのでアドバイスがほしい /20190823085401(6), ■そうよ私は体操部出身の女 /20190823142842(5), ■温度が出てくる歌 /20190823150142(5), ■しょうがないなあ、のび太くんは。ちょっとだけだからね! /20190823023102(5), ■彼氏できねえ /20190823231833(5), ■確かに戦争ってのは経済政策としては特効薬なんですよ。 /20190823020333(5), ■韓国が感情的という話 /20190823002214(5), ■ /20190823095043(5), ■会社で仕事中だけど /20190823093450(5)
6547499(1734)
冷房の効かない校舎の中、テストを制作したらお互いで解き明ってダブルチェックするというルールのせいで強いられる付き合い残業。
その中で黙々と読み進めているが、とてもつらい。
私の担当分10冊のうちあと3殺、夏休みが終わるまでに読み終るかも分からない。
夏休み明け抜き打ちテストというワーカーホリックな主任の思いつきが無かったところで、読み終わっていたかは定かではない。
学校が指定したのが全20冊、それを皆で分担するはずが1人また1人と理由をつけてパイを押し付けていき、いつの間にか私がその半分を背負うことになった。
昔読んだことがある本が3冊あったので実際は40日で7冊読めばいいだけなのだが、自分の意志で買った訳でもない本をこの年になって読むのはなかなかにやる気が削がれ後回しにしてしまった。
3冊目が読み終わる頃に「これ……10冊分の読書感想文採点するのも私か……」と気づいてしまったのがよくなかった。
そこで気持ちが萎みきってしまい文字が全く頭に入らなくなった。
なんでこんな目に会うんだろう。
滅びればいい。
書きたいやつはブログでやってろ。
『キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
ほどよく100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。
MCU(マーベルヒーローの映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションやCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。
『キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点だから全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。
でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃんと言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。
いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。
ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者はヒーローに感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍を他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。
アイアンマンやキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面の孤独や、大切な人を失ってしまう絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人が生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローはヒーローでありつつ僕らと同レベルの人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。
マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品の性質上、ヒーローの専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。
その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係のコンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。
そういう内面的な危機を乗り越えた「から」精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。
言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。
この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議な出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。
この構造において、ヒーローの内面的な資格は「不幸とその超克」だ。
でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。
ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。
主人公キャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88の風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女の内面の悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。
クリーの指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐の意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。
映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女が内面的な意味でヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画は破綻してないしちゃんとドライブされている。
これってどういうことなのか? 内面の葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーローの資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?
結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロル・ダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。
この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。
作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代の記憶としてカートレースの事故にあう。子供野球で三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。
そして彼女はなんだかんだ人生につきものの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロット(エリートの象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。
その実験部隊でトラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディ・ローソン博士を助けるために飛行任務に立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。
その実験部隊で同僚でもありキャロルの親友の黒人女性パイロット、マリア・ランボーのセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロットに立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友が主人公を思い返した言葉だ。
この立候補のとき、キャロルはスーパーヒーローの能力を持たない普通の地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである。
能力のみならず、内面の危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきものの特別な悲劇は経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷を帝国に焼き尽くされたりしていない。
この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。
つまりカートレースの事故から負けん気で立ち上がったとき、子供野球で三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロル・ダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーローの資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルはヒーローの能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのものは子供時代と変わらない。
あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。
それはつまり、主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇や喪失も必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数の普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。
これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマの構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。
そのチャレンジがとても良かった。
アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さらに子供をターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要なポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。
日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割の文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカやアイアンマンがいる。
人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。
近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。
『アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。
MCUにおける二大ヒーロー、キャプテン・アメリカとアイアンマンは「能力を持つものの社会貢献」をめぐる物語で対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。
その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女の提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。
困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇だから、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。
主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰に位置すると思うのだけど、政府の超人兵士計画で生まれたキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長で発明家で大富豪でちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面の姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。
その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。
タイトルの通り。
今は子供もおらず暇なので何か資格でも…と思い興味のある分野の勉強を始めた。
狙っていた資格は無事に取得できたが、読みたいと思い買った本や課題図書が全く読めずに積読は増える一方。
読まなきゃという意思はある。時間もある。公式でも勧められていたしきっと良書なんだろう。でも読むのが億劫で途中でやめてしまう。
文章を理解するベースは少しはあると思う。そこそこ有名な国立大学卒(文系)で学生時代は国語と英語だけは得意な方だった。
でも読めない。
本が読めない。
最後まで読めない!
年齢のせいだろうか?子供の頃は本が好きで常に何か読んでいたのに…。
とりあえず今持っている本を消化したい。
私と同じような悩みを持っている人はいるのだろうか?
教えてほしい。