はてなキーワード: 課題図書とは
2人の男児の母です
2人ともまだ未就学児だけど、上の子は年長になったので徐々に性教育を始めてる
性教育といっても、
「誰かが勝手にみたり触ったりしちゃいけない、大切な場所だよ」
「もし無理に見ようとする人がいたら、それは悪い人かもしれない。お母さんに教えてね」
というようなことを、徐々に説明してる程度
それで、私は女だから男の子の性の目覚めについては分からないことが多い
でもやっぱり将来だれかを傷つけるようなことにはなってほしくないと思ってる
それで、巷に溢れるAVって暴力的だったり性差別的だったりするじゃないですか
それはもちろんフィクションなので、大人が楽しむ分には全然アリで何の問題もない
だけどやっぱり、感受性の豊かな十代の初めに刺激の強い性に触れると、それが性的興奮の原体験になってしまって、
その後の性生活にも強烈な印象が残ってしまうことはあるんじゃないかなと思う。
かといって、親が「性的に安全なもの」を取捨選択して「子供に与える」のって、それはそれでグロテスクというか、トラウマになりそうな気もする
だから成人指定とかR18とかをもっと細分化して、R13とかR15とかのAVがあればいいのになと思う
心や身体の発達に応じて、適したAVも違うんじゃないかと思うんだけど、どうだろう
そういう十代初め向けのAVには、暴力的要素や差別的な要素を廃して、でもちゃんとエッチでさ
https://anond.hatelabo.jp/20180124221748 を読んで現場は大変なんだなと同時にそういうものを書き込んでくださった増田さんに感謝している。
大変そうだけれど、無理しすぎず、ほどほどのところで過ごして欲しい。
それだけじゃ何なので、掲題通りである。
一時期入り浸っていたことがあるので記憶のある限り書いてみる。
小学校は何回か転校していたため、正直各学校の独特の匂いとやけにじめっとした、あるいはやたら日当たりの良い図書室の壁に添って作られた本棚を思い出す。図書カードの置かれたあのカウンターだとか。おとなしそうな図書委員だとか。似たような雰囲気だなあと思っていた。
低学年の頃は授業時間に行く以外では寄り付かず、気が向けば学級文庫か自宅にある本を読んでいた。
その頃好きだったのは大判で、フルカラー写真が多く載っていたこまごましたものが特集されていた本だった。
ただ眺めているのが楽しかった。シリーズで何冊かあったが、色で分類されていたと思う。漢字で書かれていたテキストの部分も気が向けば適当に読んでいた。
不遜な子どもだったので、およそ感想文の類を提出したことがなかった。課題図書もふーんと眺め一度だけ気になったものを借りたか買ったかした程度だった。
自宅では主にオカルトに凝っていた時期だったと思う。魔女とか怪談とかそういうものを読み漁っていた。
なんとなく耳をすませばを思って、半年かけて図書室の本を全部読んでみた。伝統ある学校に比べたら冊数はそれほどでもないと思う。普通教室3部屋程度。読んでみたが読んだはずの本でもおぼえていない本が結構ある。
きっとその頃は読み切ることが目標だったのだろう。それでもいまだにその頃出会った作家で読み続けていたり、何冊も装丁違いで購入した本があることはひとつの宝物だと思っている。
あとすべり止めで受けた私立高校の入試で読んだことのある作品が題材だったのも愉快だった。
そこから高校までで多いときは一晩に文庫8冊。一番かかったのが篠田節子氏のハルモニアで2日だったと思う。
なんとなーく早く読めるようになったりもした。あの数年間は登下校時にも本を手放さなかった。
勉強はあんまりしなかったけれど、勉強せずに中学2年で漢字検定2級が受かる程度には知識も増えた。
当時は図書カードがあったので、誰がどの本を借りたのか分かるのも面白かった。天沢聖司にも月島雫にも出会えなかったけれど。
ここ数年で文庫化された書籍も当時はハードカバーで、月に10冊前後は購入されていた。それを片っ端から読みつつ、すでにあった蔵書も読んでいた。
多感なお年頃なので、性描写のあるものに出会うと成人指定の境界ってどこやねんと思ったりしながら読んだ。(し、本屋に行けば女性向けのBL小説は性描写があっても普通に買えた。謎だ。凝り性なものでそちらもだいぶ読んだがこちらは卒業したかもしれない)(コバルト文庫でも結構あると思う)(基準が謎だ)
野中柊氏のダリアとか、ドキドキしながら読んだ。今思えばかわいいものだ。
後宮小説なども読んで良いのかなと思いながら読んだ。
地元の公立高校で初めて、司書さんという存在を校内に認識した。いつも白衣をまとった女性で、図書館以外にもいるんだなと思った。その学校では希望があればCDなども購入していた。
アングラっぽい写真集や当時走りだったライトノベルを一式入れてくれたりもした。(その後、メディアミックスされた各作品の初版本が揃っていたため、数年後盗難にあったそうだ。嘆かわしいと同時に初版本に価値を見出す感覚がまだあるのだなと感じた)
同時に、遠野物語をはじめとする民俗学やら薔薇の名前やらを借りまくっていた。
学業に励む生徒にとっては、赤本がずらりと並んだ赤本専門の小部屋があるのも魅力だったかもしれない。
その頃は読んだなあというほどは読んでいないと個人的には思っている。
ただ、気になっていた本たちをするする入れてくださった司書さんには当時も今も感謝している。
森博嗣氏のシリーズもいくついれてもらっただろうか。講談社ノベルスがやたら充実していた。
お小遣いでは追いきれない本たちをあの時期に読めたことには感謝しかない。
ちらほらある小説もだいぶ前で時が止まっている。
大型書籍は比較的充実していたが、借りるには重いので閲覧のみとなる。
専門書も同じく時が止まっていた。
半地下で静かで独特の雰囲気が好きだったけれど、およそ学業のための空間ではなかった。
卒業後も利用できるということだったが、生憎地域の図書館の方が便利であった。
今につながる本の思い出。
急接近したり、離れたりしつつも、どんな格好であれ図書室・図書館は存在してくれればいいなと思う。
読む子は何をしても読むし、読まない子は読まない。
ひどいようだがそんなもんだよなと思う。
あるときブログで家族から勧められた本が という記事を見て、自分の家ではない習慣だなと思った。
家の中にある本は読みたいだけ読んだ。隔離されているような本も気になればこっそり読んだ。
教育機関にあったら驚かれるかもという本もリクエストして入れてもらえれば読んだ。
面白かった本を教えてと訊かれたら100冊くらい列挙できた(今はどうだろう?)
それだって、きっかけは耳をすませばだ。(個人的な気質はあるにせよ)
こういう本が読んでみたいなと思って書いたこともある。
作文はからきしだけど、幸か不幸かある程度蓄積があるので大学教員には高評価だったりもした。
もうちょっと器用だったら桜庭一樹氏のようにアウトプットにも使えたかもしれないが、そこに愛が足りなかった。
ルールのあるなか、大変苦しんでらっしゃる元増田さん越しに、学生時代、本を介してお世話になった司書さん司書教諭の先生方には感謝を伝えたい。
思えば、落ち込んで図書室にこもっていたような日もあったと思う。
期限通り返せなくてお手間を取らせたこともある。申し訳なかった。
読書感想文ってさ、あらすじを規定量分書いて最後に『面白かったです』で締めるのが慣れない子供の基本だと思うんだけど、最後に『面白くなかったです』と書くためには一体、どんな本を読めばいいのだろう。
もちろん、個人の感想なんだから、なに読んでも面白くないと言い切るのもいいんだけど、客観的に面白いと評価されている本を読んで面白くないって、そりゃ読み手の問題も浮き彫りになるので、そうじゃなくて面白くない本を読んで、先生も納得の『面白くなかったです』を下したい。
腐っても課題図書ならある程度の面白さが担保されていると思うんだけど、どうなんだろう。
やっぱり大手出版社ならある程度、チェックもしっかりしてるだろうし、そもそも面白くないなら本にならないだろうし。
あるいは、政治家が政治資金獲得のために書き下ろした社会問題をテーマにした小説とか。でもああいうのはゴーストライターがついているのか秘書がしっかりしているのか、固くて基本に忠実な話づくりなんだよね。
先生の担当する授業での課題図書らしく、その授業の生徒たちは感想として「こんな酷いことがあるのかと驚いた」「ショックを受けた」などが多く、先生自身も「すごく濃いよ〜ドキュメンタリーだから現実を知るにはすっごくいい」と言った。
読了。むしろ、わたしが受けた感想は主に、「あぁ、子供はやはり産むべきではない」だ。
最近、やっと子供も欲しいの思えるようになったが、それは間違いであったと、この本を読んで思い直した。
「ショックだった」「こんな現実があるのかと驚いた」。たしかにショックだ。現実は厳しかった。
盆にもなると親戚のちびっ子がやってきて本を読む。
嫌な宿題ではあるが、夏のアクティビティだと思えば腹も立つまい。
さて、親戚のちびっ子から「書き方を教えてくれ」と言われたとき用にアンチョコを書いておく。
「あら?増田くんは勉強が取り柄じゃなかったのかしら?」とかイヤミを言われないようにだ。
(盆に実家なら、結婚しろだのシャンとしろだので既にお腹いっぱいだろう)
さて、なんとか本は読み終わったとしよう。
ここで「あらすじを書けば良いよ」はアドバイスでは無い。
日曜朝のガンダムUCを見ていれば判る通り、つめ込みは超絶技巧だ。
ガンダムUCは、主人公のバナージくんが出会う女性をことごとく不幸にする物語にも見える。
でも「バナージくんは無自覚なジゴロだと思います!」とか書くと、きっと怒られる。
基準が不明確なものでダメ出しをされ続けると、大人でも壊れてしまう。
ポイントは2つ。
「読んだ感想」を書くのではない。
ただ、課題図書で考え方に変化が起きることは滅多に無い。
自分は変わらなかった、でも、たぶん本の登場人物は変わったハズだ。
ネガティブな状態から、ポジティブな状態に変わったポイントを探すのだ。
そろそろネタバレせずにTV版ガンダムUCに例えるのも限界だが、
あたりだろう。
ココが一番の難物で、うまく出来るとコンクールで賞が取れる。
そして、本の中にあるキッカケで、ポジティブな思いに変わったとする。
本当に何のエピソードもない場合もある(恨み辛みの無い子も居る)ので、
最近のニュースから似たものを探して考えても良いかもしれない。
書く内容が拾い出せたら、書いてみよう。
だいたい、コレを書いていると決められた最低枚数は超える。
「理屈では消せんのです。恨みも、後悔も」そう言ったあとにジンネマン大尉は、ずっと昔に亡くなった妻と娘に呼びかけた。それは変えられない過去への呼びかけで、自分にもその気持ちが判るような気がする。自分が飼い犬のゴローへ最後に呼びかけたのは「お前は留守番だ。俺は楽しんでくるね」だった。何の気なしにかけた言葉だったはずなのに、それから旅行に出掛けてもどこか楽しめない自分が居た。それが、ジンネマン大尉がどこか娘と重ねて見ていた、養女であり部下のマリーダから(以下略)
ここまできてやっと、「気持ち」や「感想」や「思い」を追加する。
ジンネマンの気持ちが判る、マリーダはこう考えたんじゃないか、自分はこんなことが起こったと思う。
文章の骨格(ネガ→キッカケ→ポジ)が既に書けているので、多少いじっても構成は壊れない。
最後に、文章の体裁(てにをは、漢字、人物名)を見直して、完成だ。
本を読んで「より良くなった」という報告を期待されている。
だから、本の中で変化のあった人物を探し、
http://www.j-sla.or.jp/material/contests/qa.html
小学校学習指導要領(平成10年度改定)は国語科の「第5学年及び第6学年」の教育内容として「書くこと」の能力を育てるため「事象と感想、意見などとを区別するとともに、目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること」について指導することとし、また、「読むこと」の能力を育てるため「書かれている内容について事象と感想、意見の関係を押さえ、自分の考えを明確にしながら読むこと」について指導することと定めている。読書感想文の作成はこれらの指導の一環として行われる。ただし、学習指導要領における各規定は「事象」と「感想」「意見」の区別・関係把握について指導することを主眼としているため、「感想文」の作成よりも「論文」の作成を想定しているとする意見もある。
読書感想文の作成指導においては単なる読後「感想」の記述にとどまらず自己の経験等を交え自分の「意見」を記述することが求められることも多い。そのため、客観的な文章の作成はあまり重視されず主観的な文章の作成が奨励される。さらに、道徳的な感想には高い評価が与えられやすい。
課題図書に選出されると全国の小学校の児童の親が購入することになり、作者・出版社に莫大な利益をもたらすことが約束される。しかしこの指定課題図書への選出基準は曖昧かつ不透明であり、作家・出版社・選考委員の癒着による影響が懸念されてきた。
読書感想文(どくしょかんそうぶん)とは、就学児童らに活字に対するアレルギーをもよおさせ、大衆を愚かなままに留めるために学校教育に組み込まれている「報われない労働」の一種である
Q:読書感想文は、何のために書くのですか。
書くことによって考えを深められるからです。読書感想文を書くことを通して思考の世界へ導かれ、著者が言いたかったことに思いをめぐらせたり、わからなかったことを解決したりできるのです。ですから読書感想文は「考える読書」ともいわれます。また、どんなに強く心を動かされても、時がたてばその記憶は薄れてしまいます。読書感想文は自分自身の記録です。読み返すことによって、いつでも「感動した自分」に出会うことができるのです。
Q:なぜ、本を読むことが大切なのですか。
一冊の本が、人生を変えてしまうことがあります。本の中で旅をしたり恋をしたり、冒険をしたり……。人は本の中でいろいろなことを体験できます。登場人物と自分の生き方や考え方を比べて、共感したり反発したりします。また、本を使って、疑問に思ったことを解決するために調べることもできます。本を読んで新しいことを知ると、びっくりしたりうれしくなったりします。本は、人の心を成長させてくれ、いろいろなことを教えてくれる友だちです。
Q:何をどう書けばいいかわかりません。どうすればいいですか。
本を読んで自分がどこに感動したのか、なぜ感動したのかを考えましょう。そしてもう一度本を読んでみましょう。自分の生き方や経験と本の世界とを照らし合わせると、いろいろなことが見えてきます。感じたこと、思ったこと、連想したことなどを忘れないうちに全部メモしておきましょう。そうしたら、順番を入れ替えたり内容を補ったりして、どう書けば自分の心の動きにぴったりするか、それがうまく人に伝わるかを考えましょう。先生や家の人と相談してみるのもいいでしょう。そうするうちに何をどう書けばいいのか、自分が一番言いたいことは何なのかがはっきりしてきます。書き終わった時には、それまでとはどこか少し違った自分になっていることに気づくはずです。
という話を大真面目にやってる話があってくっそ面白かった。
結婚するにしても犯すにしてもそのくらいの女性とヤりたいしはらませたいと。
しかし一方の女性はそのあたりの年代では結婚とか出産とかしたがらず双方のニーズがずれてるんだとさ。
逆にクリスマスの日を超えた女性が結婚したいだの出産したいだの思っても
逆に男は25すぎだすと、仕事楽しいし同性とのほうが楽しいホモォ・・・な感じになってきてそういう女は重たいとかいっていやがるんだとさ。
絶望にすすり泣く子供の代わりに土日で計算ドリルをする父母諸姉諸兄に置かれては、いかがお過ごしだろうか?
っていうか、大変ですね。つうか親でもないのにオジサン勘弁して欲しいッス。
で、読書感想文みたいなクソな宿題が全国で阿鼻叫喚の地獄絵図を巻き起こしているのを見るに見かねて、
ここに簡単なコツを書いておくから、是非参考にして欲しい。
アメリカンなお坊ちゃんお嬢ちゃんは、リポートってのは結構しっかり叩き込まれる。
これは、文法から始まって事実と意見の分別だの論理構成だのをみっちり仕込まれる。
日本じゃ大学生が卒論書くときに学ぶようなことを、エレメンタリースクール時代にシゴカれる。
そもそもな、「感想文」なんだよ。
自由に感想を書きゃいいはずなんだよ。
だが、日本じゃ良くある話だがホンネとタテマエは別で、
「クソみたいな話でした。作者は一回サラリーマンとして働いたら良いと思います」とか書くと悪い評価になったりするんだよ。
まあ得意な子もいる。本を読んで感想を言うのが好きだとか、ポエム書くと恍惚とするとかそういう子な。
だが、本を読むのも感想書くのも苦痛な奴に、何の技術も教えないまま読んで書かせるとか、ちょっとした虐待だよ。
水泳の授業で、突如船の上から叩き落として、「時間までに泳いで帰ってこなかったらメシヌキな」ってやるのと同じなんだよ。
だから、原稿用紙を埋められない我が子にガッカリした顔は絶対に見せるな。それが普通だ。子供結構簡単に傷つくぞ。
さて、さらっと触れたが、「日本の読書感想文」ってのは、技術で出来る。
アクションに落とせない精神論で子供を追い詰める教育者は消えてなくなればいいのにな。
まあエレクチオン後に解放されたリビドーを子供らしい感性の発露として紙面に叩きつけられる天然さんも居る。
が、そんなギフテッドばかりじゃないわけで、ここはテクニカルに解決しよう。
何でもそうだが、ゴールの見えないマラソンほどキツイものはない。
だからまず、ゴールを設定しよう。
基本的には、この「意見」「感想」「理由」「場面」で原稿用紙を埋めれば良い。
これがゴールだ。
取り敢えず、イオンに買い物に行くついででも、あの例の鼻に棒を突っ込んだシールが貼られた本の中から、
我が子に「一番読みたい本/マシだと思うヤツ選べ」と指令を出して、選んだ本を買ってこよう。
で、読ませる。まあ時間がかかっても半日あれば読めるだろ。何としてでも一回読ませるんだ。
まあ、最後に別に読まないでもなんとかなる方法も書くから絶望はするな。
読み終わったら、次のステップになる。
5ステップだな。
ま、取り敢えずここでは低学年でも中学年でも高学年でも行ける
「ちきゅうがウンチだらけにならないわけ」を課題図書として取り上げよう。福音館だしな。
「読んでどうだった?」とかな。
「難しい」とか「面白くなかった」とか言うかもしれない。
こっからは各家庭の教育方針になるからネガティブコメントでも我が家の天使の言葉は天啓である!とか言うなら止めない。
が、「笑ったとことか、悩んだところは、どこだった?」とか「面白かったところとか、どこか気になったところは?」とか聞こう。
「ウンチが役に立つって言っても、そういう特別なバッチイ虫とか植物じゃないの?」とか言うかもしれないな。
ま、それで良しにしよう。
「このページの虫は、フンコロガシって言うんだよね。他の虫に取られちゃわないように持っていくために転がすんだよ」とか
まあ、そういう親らしいふれあいとかが合っても良いかもしれないな。
閑話休題。
「なんで、特別なバッチイ虫や植物だと思ったの?」と聞くわけだ。
「え、だって普段からママが犬のウンチとか汚いし、虫とか嫌いだって言うし……」とかなるかもしれないな。
「そうね、ウンチは汚いし、ご飯の前には手を洗ったりするもんね。偉いね」みたいな、何年生想定だコレ。
まあ、「特別なバッチイ虫」だと思った理由は「ママが普段から汚いって言ってた」からだ。
「汚くないものが、普通」「汚いものは、特別」という視点だな。
課題図書っていうのは、基本的に意見を言いやすい本が選ばれる。
「レットはスカーレットの愛を受け入れるべきだったと思います」とか評価する方も判断に困るわけだ。
だから、「汚くないのが普通で、汚いものが特別」というのは、別に特殊な考え方じゃないと言える。
「でも、ママやタッ君には汚いしばっちいウンチも、虫にはごちそうになるわけよね」
「でも、そういう虫が特別なら、ウンチはその虫だけしか食べないから、ちきゅうがウンチだらけになっちゃうよね?」
「ん?ってことは、ウンチの数だけ、虫がいて、食べてるってこと?」
みたいな流れだな。
結構誘導してるが「バッチイ虫は特別だと思ったけど、特別じゃなくて、いっぱいいるのかもしれない」というのは、立派な意見だ。
結論として地球がウンチだらけになってないなら、多分いるだろう、と。
さて、ここで振り返りだ。
フンコロガシがウンチを転がしてる「場面」に対して、
「汚くないのが普通で、汚いものが特別」だからという「理由」で、
「役に立つって言っても、そういう特別なバッチイ虫とか植物じゃないの?」という「感想」になった。
ソレに対して、「地球がウンチだらけになってないなら、ウンチの数だけ虫がいるのかも?」と考えて
「バッチイ虫は特別だと思ったけど、特別じゃなくて、いっぱいいるのかもしれない」と「意見」を出した。
この辺で自分の身近な経験とか会話を入れるのがコツになるが、まあ無理な場合はその場で会話すれば良い。
「ママが昔は肥溜めがあって、人間のうんちも野菜の栄養になってたと言っていました。
うんちを食べる虫と僕たちは、同じで、特別じゃないのかもしれないと思いました」
とかだな。
まあ、あんまり道徳的な結論にもポジティブな感想にもなっていないが、
「子供が引っかかったポイント」を広げて「場面→理由→感想→意見」となったわけだ。
これを、「場面→理由→感想→考え→意見→シメ」に直して書くわけだ。
フンコロガシがウンチを転がしてるところを読みました。
「汚くないのが普通で、汚いものが特別」だと僕は思っていました。
だから、「役に立つって言っても、そういう特別なバッチイ虫とか植物じゃないの?」と考えました、
でも、良く考えたら「地球がウンチだらけになってないなら、ウンチの数だけ虫がいるのかも?」と思いつきました。
「バッチイ虫は特別だと思ったけど、特別じゃなくて、いっぱいいるのかもしれない」と思いました。
「ママが昔は肥溜めがあって、人間のうんちも野菜の栄養になってたと言っていました。
うんちを食べる虫と僕たちは、同じで、特別じゃないのかもしれないと思いました」
ちなみに、題名と名前を書くと、ぴったり400字詰め原稿用紙1枚になる。
青少年読書感想文全国コンクール応募要項によると、小学校低学年(1,2年)が 800字以内、中高学年(3,4,5,6)が1,200字以内だ。
400字詰め原稿用紙2枚半を埋めればおおよそ対応できるということになる。
例えば、「僕はこの本を最初に読んだ時には、難しいし、あまり面白くないなあと思いました。」これで37マスだ。
「パパは「肥だめを知ってるなんてママは実は歳を誤魔化してるのかもな」と笑いましたが、ウンチみたいになるまで殴られてました。」これで60マスだ。
こうやって、途中途中で我が子が考えたり、自問したことを全て原稿用紙に書かせると、結構簡単に埋まる。
ポイントは、骨子の部分である「場面」「理由」「感想」「意見」がキチンと揃っていることだ。
読書感想文は、その名に反して、単に感想を書いたのでは良しとされない。
我が子の素直な感想を、「そう思った場面」「そう思った理由」「そこから考えた意見」にすることは、難しくない。
そしてそれらが定まっていれば、原稿用紙を埋めることはそんなに難しくない。
だから、読書感想文は、実は結構簡単にやっつけられるタイプの宿題になる。
(俺はあらすじ反対派だ。なぜなら、適切な要約は大人でも難しく、結構そこで詰まる子がいるからだ)
昨日、やっとうちの小4と小2の夏休みの宿題が終わった。親泣かせといわれる、読書感想文と自由研究もばっちり終わった。今年も自分と旦那のこれらに対する熱の入れようは半端じゃない。
・作者、課題図書の選者の意図、テーマを読み取り(親:子=99:1)、
・一度物語を分解し(100:0)、
・それに対して自分の心情を描画させ(50:50)、
・作文にまとめる(50:50)、
自由研究も、
・テーマ決め(親:子=50:50)、
・観察結果(50:50)、
・考察(70:30)、
・まとめ・感想(30:70)、
のような割合で親が関与している。なおかつ自由研究の大テーマは兄弟ともに毎年同じにして、前年度までの研究に対しての積上げ研究にしているので年を追うごとに深みのある内容になり、こちらも毎年何かの賞に入れている。
こんなに親が係われば、賞に入るのなんか当たり前だろうと思うかもしれないが、実際、市区町村を勝ち抜き、県レベルの賞に入ってくるのは、小学生とはいえかなり高度なものが多く、自分で発想~アウトプットまで親の関与なしにそのレベルまで仕上げられる子供はほとんどいないだろう。
うちの子たちも含め、かれらはそこそこの教育レベルの家庭にあり、考える力(=生きる力)を身に着けて社会に出ていくことは予想できる。なぜなら自分たちの親がそうだったからだ。教育に関心のある親の元で育ち、夏休みの宿題は嫌々ではあるが、親によってきちっとした仕上がった作品を夏休み明けに持っていくと、先生やクラス中から羨望の眼差しでみられ(その後の授業参観の時には、県へ出品しているため自分の作品だけ展示されないという小さい問題はあったが)、大きな自信につながったことも言うまでもない。現在社会工学系の研究を仕事にしているダンナについては、(我々凡人は)研究は自分一人だけでやるものではないという持論があるらしく、卒論~博士論文、現在に至るまで指導者や同級生、同僚からのアドバイスを、仲間と一緒に確認してまとめただけだ、といっている。
ところで、子供の宿題を親がやるのはおかしいという意見がある。「自分の事は自分でさせる」「親の勉強してどうするんだ」「子供のためにならない」等々。主義として本気でそう思って、そういう方針で子育てしている人はそれでいいと思う。けど、忙しくてできない、という理由で子供に目をかける暇がないという人は、夏休みのうち、週末ぐらいは子供の宿題を手伝ってあげれば、勉強の方法に触れることによって、新しい発見があるかもしれないし、高クオリティーの提出物は、子どもの自信につながると思う。
次があるかは知らんが
なんというかぶっちゃけ。他に比べたら本気出せば一日二日で終わるけど
作文用紙を埋めていく作業というのがとても苦痛だった。
僕の鉛筆の使い方は、書くというより、対象の紙に
鉛筆のとがった部分を刻み込むようなもんだった。
重圧に負けた鉛筆の芯は、炭として剥離して紙に刻まれた傷に跡を残す。
それが僕の書くという行為だった。
行為が発する力に負けず、紙に傷を残すには
抑えの手をその力以上に強く固定する必要があった。
冷房の無い室内で力を込めた掌は、当然の如く汗ばむ。
湿気を含んだ紙に、鉛筆のとがった部分を刻み込むと、傷はたちまち滲む。
鉛筆を支えるため握った拳が、鉛筆に引っ張られることによって、
滲みは、さらに薄く広く延ばされる。
汗の水分によりダメージを受けた紙のごわつきと
滲んだ炭が引き延ばした、薄汚れたパンダ模様の方眼の中に、おさめられた黒い傷跡。
その集合の黒カビ模様が、僕の読書感想文という宿題の成果物だった。
僕がどのぐらい読書感想文が嫌いか少しでも伝わったでしょうか。
以下に内面を発露するのか。
発露とか言われても難しい?
こいつはイケメンで金持ちエロくて最高だぜ。なんて歌いません。
一緒にいるだけでこの世界は楽園だ!それが感想です。それが感情です。
コンクールの受賞作を観てみましょう。だいたいそんな奴ばかり。
さて、本題の攻略法に戻りましょう。
読書感想文で、本当に読まなければいけないのは
1つ2つ読むだけで、課題図書なんて選ばずに
子供の夏休みの「読書感想文」で「課題図書」が指定されてるが、
「自分の住んでる区」の図書館では、課題図書の本が予約殺到で、入手できなかった。
ところが、「自分の勤務先の区」の図書館を検索すると、全く余裕で図書館予約できた。
つまり、小学校夏休みの課題図書って、全国共通なんじゃなくて、
区によって違うから、A区では予約殺到でも、B区では余裕があったりするんだなあ。
しかし、これ仮に、特定の図書が「全国共通で課題図書に指定」されたりしたら、
その学年の児童数だけ書籍が売れちゃうから、カンタンにミリオンセラーになっちゃうんだなあ・・・
(全国区で課題図書指定されたら、図書館の蔵書数では対応不能)
そうすると、教育ギルドの胸先三寸で、課題図書を指定することで、
(保護者の経済的負担と引き換えに)「課題図書特需」を作ることも出来る。
例えば「小学校4年生の課題図書に●●を指定しました」と7月に発表しても、
夏休み開始までに100万部も印刷できないから、入手できない児童が出てくる・・・
あと、工作の課題とかで「●●を次の週までに用意してください」と言われても、
http://www.mynewsjapan.com/reports/1734
あー、俺です。
なんか最近UNIQLOって超ブラックなんだぜ?っていう記事を読んだので、元UNIQLO社員の俺がしゃべります。
まず俺のことなんですけど、UNIQLO辞めたのは2年以内のどっかです。在職期間は5年以上10年以内で、中途採用でした。
在籍部署はあんま言いたくないんですけど、商品系のどっかです。
生産部とか、R&D部(デザイナー、パタンナー等)とか、MD部とか、そういうモノ作り系です。
そいでまぁ、一言で言うと確かにUNIQLOはすっげーブラックだとは思います。
ネットで読んだ記事はIDが無いので最後まで読めなかったんですけど、だいたい書いてあることはわかります。
ただ本部と店舗だとまた違うとこもあると思うので、その辺のことを書けたらと思います。
できるだけグチっぽくならないように書くつもりですけど、どうしても主観的になっちゃうのは許してください。
まず俺が入社した当時はUNIQLOはこんなじゃなかったってのを先に。
けっこう和気藹々な雰囲気で、社内のムードも良くて、厳しい決まりごとなんてのもそんなに無かった。
9時出社だったし、一定階級以下は残業代も出るし、一定階級以上は逆に「裁量労働制」つって、一日一時間でも働けば出社扱いになった。
風邪ひいて欠勤しようが別に給料に影響することはない素敵システム。
休みが少ない!ってのも特に感じなかったし、総合的に考えて、給料は悪くなかった。
課題なんてなかったし、残業は確かにあったけど、いわゆるアパレルらしいルーズさというか、いい加減さみたいな空気が社内にもあった。
ただ柳井はそういうのがもともと嫌だったんだろうね。あの人は経営に関しては完璧主義で潔癖症だから、そういう「大企業病みたいなものを排除しないと」っていうパラノイアみたいなもんにとりつかれていった。会議でも度々そういうことを口にするようになっていたし、社内にもピリピリした空気が漂うようになってきてた。
社屋が六本木に移った頃から目に見えてちょっとずつ厳しくなっていった。
それでまぁ1年経ち、2年経ち、だんだんお風呂の温度があがっていって、俺はもう熱くて我慢できなくなったので先にあがった感じ。
だから今、新卒や中途採用で新しくきた人は、急に高温のお風呂にぶち込まれるわけで、「あちゃちゃちゃちゃちゃ!むりむりむりむり!!!」ってなるのもわかる。
①就業時間
前述にもあるけど「裁量労働制」。
おれは法律には明るくないからわからんのですけど、これってありなんですか?
うまい汁吸わせてもらってる時はいいんですけど、風呂の温度が高すぎて人がいないんで、1人あたりの業務負担がすげー多くなっちゃった今、正直この制度のせいで、ほとんどの社員が残業代出ないまま毎日何時間も残業することになってる。くどいようだけど残業代無しで。社員からしたらまずもうこの時点でアウトだろ!って思うけど、どうなんですか?
そのくせ、半期に一度の業務評価で、残業無しとか、有給全消化とかを目標にさせられて、クリアできないと評価が下がってボーナスが目減りする。だけどこの目標は強制項目だから回避できない。これは詰んでる。
それと朝7時出社。これはけっこう精神にくる。思ってるよりずっとキツい。
そもそもなんでそんなことを始めたかというと、「早く帰って、プライベートな時間を勉学やリサーチ等の情報収集に使うのが良い人生だよね!」みたいな柳井の妄想からスタートしてるんですけど、そんなんほっといてくれよっていう。
そもそも、就業時間、拘束時間が変わらない限り、早く帰ろうが遅く帰ろうが、睡眠時間をキープしようとするとプライベートな時間は変わらないはずなんですけどねぇ。
そんで柳井曰く、じゃぁそのプライベートな時間にやる勉強をこっちで用意しといてやったから!おまえら早く帰れるようになってうれしいだろ?これやっとけよ!?っていうのが「英語」。
②英語
まず、TOEIC750点以上。これ無理。
俺みたいな超絶バイリンガルな天才はさておき、デザイナーとかパタンナーとかアホですもん。デザイナーとか200点とかがゴロゴロしてる。え?TOEICて4択ですよwwwwwwみたいな。
専門学校卒ですよ。学生時代にハマったのはボディピとスケボーですよ。レゲーが世界を変えると思ってるんですよ。無理でしょ。
あとMDとか生産部とかも基本アホですもん。そもそも店舗から引っ張ってきて本社勤務してるやつなんて、基本三流大学出てれば良い方。高卒レベルの脳みそ引っさげてアルバイトのUNIQLOの店員からはじめたような奴らですよ。そいつらが、それでも現場で類まれな能力を発揮して、店長になって、エリアマネージャーに昇格して、そんで、じゃぁ君いいね、来月から本社で一緒にモノ作りしようよっつって本社勤務してるんですよ、そんな叩き上げのおっさん捕まえて、「半年でTOEIC750点出してもらうから。できなきゃ給料から授業料天引きね★」って、いや無理ですって。詰んでるって。
当然、点数だけでは給料から天引きされないんですけど、条件がある。
まず勉強時間。これはBerlitzのEラーニングシステムを導入してるので、誰がどれくらい勉強してるかが全てわかるようになってる。いろいろやったけど基本ズルは難しい。
週に10時間以上勉強しないと、上司から指導が入る。それでも改善できなければ給料から授業料の半額が天引きされる。
それと、半年ごとのテストで50点アップ。これをクリアできないとさらに半額が天引きされる。コンボだと全額。
だけど①でも述べたように、ものすっごい残業して、家帰ったら寝るだけみたいな生活(しかも5時起き)の中で毎日1.5時間以上の勉強時間を捻出するのは本当に辛い。体力をどんどん疲弊する。ライフはゼロよ!ってまじで思う。
当然その勉強時間に給料は出ないので、UNIQLO社員はもれなく月30時間以上は家でサビ残してることになるとおもうのだけど。
これも始まったのはここ2年くらい前かな。
そもそも社員の時間を勝手に使って、勝手に給料から天引きするシステム、これがブラックじゃなくて何がブラックなん?
③課題
今週の課題は柳井正の「一生九敗」を読んだ読書感想文だし。まぁこの本の代金は柳井のポケットマネーでいいわそこまでせこくないし。売上部数1万は上乗せできるし。でも来月の課題図書ドラッカーの「経営の哲学」な。本の代金は給料から天引きしといたから。あと感想文提出できないと面談な。
④責任
えーと、俺がUNIQLOを辞めようって思ったのはこれです。個人的にはこれが一番堪えられなかった。
会社の経営方針として「全員経営」ってのがあって、これは柳井の口癖でもあるんですけど、要するに全員が経営者の自覚をもって、もっと利益や売上にコミットしましょうってことなんだけど、それがどう転じてか、「責任は個人がとる。」ってことになって、それがさらにこじれて、「担当者(末端社員)が責任をとる。」ってのがUNIQLOのやり方。
おれはアパレルしかわからんので、アパレルの話をしますけど、モノ作りってのは基本トップダウンで行われる。
ディレクターって呼ばれる人達が(UNIQLOの場合大勢)いて、その人達がじゃぁ今季のコンセプトはこれこれですよってのを決める。
それを元にカラーを組む人や、柄を組む人や、デザインを考えるデザイナーがいて、サンプルを作って、会議をするわけです。
でもすぐにサンプルを作れるわけじゃなくて、何度もそのエライ人達と打ち合わせして、パタンナーと打ち合わせして、じゃぁこれでいこうってなったら、生産部と協力してサンプルを作って、会議に挑むわけです。UNIQLOの商品は全て社長が目を通すので、商品系の会議と言えば社長会議なんですけど、そこまでに「会議のための会議」を何度も重ねて、会議に挑むわけです。
そんで会議でたまたま柳井の意にそぐわなくて、「誰ですか!こんな下らないもん作ったのは!」ってなったとするでしょ?
首根っこ掴まれて、社長の前に放り出されるのは、一番下っ端のデザイナーだったりパタンナーだったりMDだったり生産なんです。
んで、ボーナスの査定が目減りする。上司はうまくそれを処理して昇給する。
おれはこれがどうしても納得できなかった。
責任の取れない上司なんて必要ないし、そもそもみんなで話して決めたじゃん!っていう。
1つ例を出します。
今飛ぶように売れてるウルトラライトダウン。あれ、初年度とサイズ感が違うんです。
当初のコンセプトだと、あれは「ミドルレイヤーとしてのダウン」だったんです。mont-bellさんやPatagoniaさんがやってるようなシャツダウン。アウターの中に着るダウン。
そういうコンセプトですから当然サイズ感は、「シャツのよう」にミドルレイヤーとしてのフィット感を重視したサイズ感だった。
ところが、これが販売を開始してみると、店舗から「従来のものよりサイズが小さいのではないか」いう問い合わせが頻出したんです。
これ自体はよくある話です。誰が悪いというわけでもない。
きちんと商品説明が店舗まで行き渡っていなかったのも悪い。お客様に説明できていなかったのも悪い。そもそもそういうコンセプトが受け入れられる土壌がUNIQLOの客層にはできていなかった。いろいろ悪かったんです。
でも、これは責任をだれかがとらなくてはならない。何故なら!それが!UNIQLOの!やり方!ヒャッハー!魔女狩りだゼェ!
でも当然商品化されるまでには、何十人もの人間が携わり、会議で議論し、社長自身が「それで行きましょう!」と判を押してる。
そういうの全部無視して、企画立案者に罪をなすりつけるような会社で、良いアイデアや、良い商品が産まれるわけがない。
みんな萎縮して、実績のあるものをこねくり回すだけの仕事になっちゃう。
おれは絶対間違ってると思う。ねぇお兄ちゃん、これが全員経営ってやつなん?これがドラッカーがめざした理想の経営学なん?
こういうことが日常的に起こる会社にいると社員はどうなると思いますか?社員は常に怯えて仕事するようになるんです。
自分が責任をとらないでいいようなやり方。共有のメール、共有のための会議。会議、会議、会議、メール、メール、メール、メール。。。
⑤鬱病
そして作り出されるのが鬱病。
これはほんとに多い。多分%に直したら日本の企業で一番多いと思います。いや世界一。
もうみんな感覚が麻痺してて、誰々が明日から暫く休みますなんて報告を聞いても、あーまたかー、仕事が増えるなぁ、くらいにしか思ってない。
感覚でしゃべりますけど、10%~20%くらいの確率で鬱病経験者です。
原因は、逃げ道の無いプレッシャーです。
けっこうわりと、仕事がクソでも、メンツが良ければ楽しくやってける、みたいなのあると思うんですけど、今のUNIQLOにそんなお花畑はない。
毎週朝礼で「プレッシャーを感じて仕事しろ」「もっと追い詰められろ」「緊張感をもて」って言われて仕事する。
社員はプライベートな時間も、仕事の時も、どんどんどんどん自分を追い詰めて仕事をしてる。そして死ぬ。
最後にこんだけクソミソに言っておいてなんすけど良いことも書きます。
UNIQLOのブラックさは、経営コストを削るために無理させてるってよりは、あいつら本気でそれが客のためになると思ってやがんですよ。
「プレッシャーを感じて仕事しろ」ってのは、売れてる時は、客が店に来てる時。客が店に来てる時は、何か期待して来てる時。その時につまんないもの、粗悪なものしか見せられなかったら、そのブランドは終わり。っていう理論。だから売れてる時ほど緊張感をもってなきゃダメだってこと。
英語にせよ、なんにせよ、まるで宗教みたいにすげー崇高な理念の為にやってる。
英語をしゃべれるようになれば、もっと世界のいろんな企業と「直接」取引できて、もっと安い原材料を仕入れられて、もっと工場とコミュニケーションがとれて、もっと良い商品がつくれるんじゃないかって、そんなことを考えてる。マジキチ。
7時出社にせよ、裁量労働制にせよ、元々は社員のため!みたいなお節介企画が始まりですし、なにも搾取してやろうって始めたわけではない。
その辺は某居酒屋とかコンビニとは違うかなーとは思いますけど、おれもまだUNIQLO脳に侵されてるので他人からみたら一緒かもですね。
あと商品につては、まじで今でもUNIQLOの商品はすげーと思います。中にいても、外に出ても思います。
縫製とか生地のクオリティが最近悪いとか言われてるけど、全然そんなことなくて、むしろどんどん良くなってると思います。値段は高くなってるかもですけど、それは原材料の高騰がどうしても響いてる。デザインはクソですけど。
あそこまで単品の完成度が高い服は無いと思う。
むかしTVで見たけどチョコボールは毎年アップデートしてるらしい。あの小さな一個の粒を、チョコの味をちょっと変えたり、ちょこの厚みを変えたり、硬さや大きさを少しずついじって、今でもベストを探り続けてる。
UNIQLOはまさに同じ事をやってて、靴下一足、ポロシャツ1枚が去年とは全部違う。シルエット、素材、縫製、必ず何かアップデートしてて、そんなことを毎年毎年やってる。
社員がみんな萎縮してるから良いアイデアが生まれなくなって、デザインはどんどんクソになっていくけど、反比例して、既存の商品がどんどん良くなっていく。
お客様が喜んでくれる為って本気で思ってて、良い物を適正な価格で出せば絶対売れるっていう理念は創業当時から変わってない。モノ作りで妥協は絶対しない。
下っ端の社員なんて基本バカで単純。柳井教をうぜぇうぜぇと言いながら、信じてる。
だけど、他の会社で、そんなところは絶対ない。妥協しないって、できることじゃない。
おれはそういうモチベーションの高い人間じゃないので無理でしたけど、本気で服で世界を変えてやる!くらいに思ってるような熱いやつならまぁ向いてるんじゃないですかね。給料はいいと思います。平均よりは。
ただ、おれは服ってのはそういう切り口もあるけど、やっぱ基本楽しいもんじゃなきゃヤダって思う人なんで、あーUNIQLOむりかもーって思い始めてた。
そんでまぁ風呂の温度も一向に下がる気配ないし、むしろどんどん熱くなってるし、のぼせる前にイチ抜けした。
今は楽しくやってます。
追記:「積んでる」→「詰んでる」に訂正しました。id:takeda25さん指摘ありがとうございます。
気がつけば朝晩涼しい風が吹くようになり、日が暮れる時間も少しずつ早まってきました。
秋です。秋といえば読書です。一年中読書、という方もいらっしゃるかと思いますが、それはさておき。
先日開催をお知らせいたしました、MYSDOKU4について、詳細が決定しましたのでお知らせいたします!
※ http://myscon.net/archives/2010/10/20101015_2310_274.html からの転載です。いわゆるひとつの宣伝です。
審査員やった。審査員は普通、各学校の国語の先生。(俺は違う。)方式は出された作品約300を10組*4人くらいで30作づつ読んで各組上位4作品くらいを今度は40人の教員全員が読んで1-10の点数をつけて平均点の高いのが入賞。ちなみに原稿5枚が制限でもし2枚しか書いていなかったらその時点で落とされる。
で入選するためには
1。昔の課題図書はえらばない。特に数年前のとかは、もう選ぶ側の審査員が飽き飽きしている。「一瞬の風になれ」とか「夏の庭」とか、課題図書は単純な話が多いので似たような感想になり審査員はあきあきしているので感想文自体の出来が良くてもこれは昨年も同じような感想があったとなる。
2、「人間失格」はやめておけ、あれもとにかく毎年毎年読むひとが多いので、審査している方は辟易している。
3、難病、不治の病になって回復する(もしくは回復しない)本はやめろ。ただでさえ暗い話が多い文学の感想の中さらに暗い話の感想は審査員をして(もういいよ!)となる。
4、奇を衒った本(タレント本、やハウツー本)はやめろ。単純に国語の先生はそういう本にいい印象を持っていない。
5、誰も知らない様な本はやめておけ、これは上記よりはましだが、どんなに感想文自体がうまくても、その本を誰もしらないのでなんとなく入選には推しにくい。
6、結論的には、「今年の課題図書」で書け。話が単純なものが多い課題図書なので素直な感想がかきやすく、審査員も飽き飽きしてない上に、「課題図書から入選作を出さなければならない」という縛りまである。今年だったら「「ハサウェイ・ジョウンズの恋」なんか話も面白く感想も書きやすい。今回の例を出すと課題図書で感想文を書いた人は全県で10人くらいしかいなかった、その中から入選3人のうち2人が課題図書だった。これは偶然ではなく必然。こんかいは課題図書が自然に入選したが、もし点数が入選に達していなくても、強引に下位からいれかえて1人入選させなければいけない。
俺は読書感想文とくに、学校教育の中で書かされる感想文なんてなんの益にもならないと思っている。国語教育でなぜ文学作品の感想なんて求めるのかが謎。
好きな本を好きなように読むのがいいし、こういう読書って必ず文系に偏るので小さい頃図鑑やブルーバックスばかり読んでいた俺にとっては無用の存在でしかなかった。こういうノウハウが広まればこういうコンクールはなくなるか縮小の方向になるかもしれないのでアノニマスで書いてみた。読書感想画コンクールは面白いと思うのだが・・。
横増田だけど、ものすごく腹が立っているので、コピペ文と元投稿文を全面貼り付け。
コピペだけ読んでコメント付けてる、ほかの増田さんにはなんの落ち度もないけど、やはり、一部だけでは元増田が言いたいことは歪んで伝わっていると思った。出来れば元投稿も読んでもらいたい。
http://anond.hatelabo.jp/20090927210711
日本の大抵の男性は、女性を馬鹿にしている。そして、そのこと自体に全く気づいていない。
何せ、こちとら10年女子校だったからね。付き合いのある男友達は理解のある人ばかりだったし、バイトの先輩は仕事の関係だから、そんなに突っ込んだ発言もしないし。
それが、社会に出たらガラっと変わった。
あなたは差別発言と思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたはセクハラだと思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたは多分よかれと思って言ってくれてるんですね。でも私はとても苦痛なんです。
女の子同士なら、自然と気に掛けあって丁寧に接していた部分を、先輩が、上司が、特にお酒の席で、何にも考えずぐしゃっと踏みつぶしてその境界を越えてくる。
それがたまらなく苦痛で、大学で一緒に学んでいた友達に言ってみたら言うんだ。「わかるよー。でもそんなものだよね」
ああ、こんな苦痛な状況が、社会一般では『そんなもの』で済まされる程度の問題なんだって分ったのは、正直そのときだった。
それで、今はどうやって生きているかというと、日常では、社会学で学んだ問題意識にほとんど蓋をして、生きていくのに便利なところだけ使って生きてます。とりあえず、世間一般様から見て、頭のおかしい奴だと思われない程度に猫被ってね。
男性メインのビジネスの場に立ち、名誉男性的な立ち位置で、ある意味男性に媚びるようにして生きている私にとって、社会学の知識は、被差別者を踏みつけるのに(効率的に差別者特権を使うのに)とても役立っています。あとは自己防衛のためにね。
こんな生き方が良くないというのは重々承知している。一番申し訳ないと思うのは、今の世を生きにくいと感じている日本女性たちに対してだ。自分の体を資本として、男の『勘違い』を上手く使う、一種の『戦略的本質主義』を振りかざして生きている私は、本質主義から脱して生きたがっている思っている女性にとって、目の上のたんこぶでしかない。(そして巡り巡って、自分のクビも締めてる。承知の上だ。)
だから、私は世の女性の味方を標榜している。もちろん、偽善だとも分った上でね。日々ご迷惑をおかけしています。女性の皆さん、特に日本女性の皆さん、本当にごめんなさい。
■http://anond.hatelabo.jp/20090925071837
正直、こんな時間に書くことじゃないんだ。明日やることもあるんだし。
ただ、私にとって、考えを大きく揺さぶられる出来事があったから、少し話をさせて欲しい。
ちょっと長くなるかも。あと、女性向きだよ。男性は気分悪くなるかもよ?読むなとは言わないけれど、念のため注意。
http://anond.hatelabo.jp/20090925071837
↑の記事を、オンライン上の友達に、何気なく見せてみた。
ホント、何の反応も期待してなかった。流せる雰囲気だったから、多分何の反応もないだろうと当たり前のように思ってた。
でも、その人は言ったんだ。『抗いたい』って。
この言葉に、私は懐かしくなって、ものすごく申し訳ない気持ちになって、泣きたくなったから、それについて書く。
やってたことは、女性問題、黒人問題、水俣病問題、沖縄基地問題、色々だ。
ゼミ一番ショッキングだったのは、『私が差別者だ』ということを直視しなくちゃいけないことだった。
社会学を学んだことのある人は、どうか笑わないでほしい。私は、私が世界中のあらゆる差別問題の中に居て、その中のほとんどの状況で差別者なのだ、と、抵抗なく認識できるまでにまるまる1年かかってしまった。
「だって、私はなにもしてないのに、ただ生きてるだけなのに、どうして他人を差別しているなんて言うの?」という疑問を解消する、それだけでだ。課題図書や、毎度のレポート提出が嫌いだった。『分りたくない、信じたくない!』ってずっと思ってた。
社会学を学んだことの無い人は、差別問題をどうか他人事と思わないで欲しい。あなたは世界中の差別問題の中に居て、ほとんど常に差別者だ。
日本国民、大和民族、正社員、男性、健康体である、という、ただそれだけで差別者だ、というのは、すぐには受け入れがたいと思う。(先述の通り、私も理解するのにまる1年かかった)それでも、社会という構造の中にいる限りは、その中で差別者として無意識に振る舞ってしまうことが常にある。無意識に、他人を傷つけている。確実に。
そして、たいていの場合、特別に本を読んだり勉強をしなかったら、この『無意識の差別者』状態から、人は絶対離れない。
だって、この状態が最高に快適だもん。味方は多いし、強いし、くさい、汚い、怖いことはないし、安定している。
この状態から、どうしてわざわざ、よわっちい被差別者の味方をしたり、あまつさえこの特権を引き渡すなんてことをしなくちゃいけないんだ?ってなる。
だから、差別者はこの状態から滅多に自発的には離れない。
もうひとつの原因は、『自覚が無くても困らないから』だ。
道を行く人(差別者)は、花を踏んだことに気づかなくても怪我をするわけでなし、なにも困らない。<でも、踏まれた花(被差別者)にとっては一大事だ。>
だから、差別者(マジョリティ)の集団または親玉は、自分たちの得になるように必死に策を練る。
・なんで沖縄の基地問題は、全国メディアで滅多に取り上げられないんだろう?(だって日本はほとんどが大和民族だもんね)
・沖縄の中でも、基地をなくしたいと考える人と、居て欲しいと考える人がいる。これは国が基地の土地貸し出しに対して支払っている補助金の絡みで起こる対立だ。(このせいで、基地問題の県内世論が必要以上に割れている)
・基地移転は出来て、日本国内に基地が置けない理由ってなに?(移転できないんじゃなくて、移転しないだけなんじゃないの?)
例を沖縄基地問題であげてみたけど、ちょっと考えてみると議論のしがいがある(あるいは明らかにおかしい)問題がぼろぼろ出てくるのが差別問題だ。そして、差別問題を華麗にスルーできる特権を持っているのが、差別者だ。
こういう困難な状況にあっても、『これはおかしい』と気づく人、そして声を上げる勇気ひとたちが現れて、差別問題は議論されてきた。
昔と比べて、良くなってきたものもある。(女性問題は、明治時代から女性の権利の見直しを考えようと呼びかける先達の手で、長い時間をかけて、やっとここまできた。)
まだ根強く差別が残り、世代を超えて人権を脅かすようなものもある。(水俣病問題は、未だに遺族が差別を恐れてる。)
こんな問題の事例に4年間触れていて、その当時は、私も思っていたんだ。
『私は、なにも知らないままで人を傷つけるような人間になりたくない。もし差別者の立場を脱する方法があるなら、私はそうしたいし、もし無かったとしても、せめてその差別について理解して、なるべく他人を傷つけないように生きたい』って。
でも、いざこんな気持ちを持って、たくさんの差別問題の事例を知ったあとで、社会に出てみたら、こんな問題意識が苦しいだけだって分ってしまった。
一番キツかったのは、『大抵の男性は、女性を馬鹿にしていること、そのこと自体に全く気づいていない』という事実だった。
何せ、こちとら10年女子校だったからね。付き合いのある男友達は理解のある人ばかりだったし、バイトの先輩は仕事の関係だから、そんなに突っ込んだ発言もしないし。
それが、社会に出たらガラっと変わった。
あなたは差別発言と思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたはセクハラだと思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたは多分よかれと思って言ってくれてるんですね。でも私はとても苦痛なんです。
今まで、女の子同士なら、自然と気に掛けあって丁寧に接していた部分を、先輩が、上司が、特にお酒の席で、何にも考えずぐしゃっと踏みつぶしてその境界を越えてくる。それがたまらなく苦痛で、大学で一緒に学んでいた友達に言ってみたら言うんだ。「わかるよー。でもそんなものだよね」
ああ、こんな苦痛な状況が、社会一般では『そんなもの』で済まされる程度の問題なんだって分ったのは、正直そのときだった。
それで、今はどうやって生きているかというと、日常では、社会学で学んだ問題意識にほとんど蓋をして、生きていくのに便利なところだけ使って生きてます。とりあえず、世間一般様から見て、頭のおかしい奴だと思われない程度に猫被ってね。
男性メインのビジネスの場に立ち、名誉男性的な立ち位置で、ある意味男性に媚びるようにして生きている私にとって、社会学の知識は、被差別者を踏みつけるのに(効率的に差別者特権を使うのに)とても役立っています。あとは自己防衛のためにね。
こんな生き方が良くないというのは重々承知している。一番申し訳ないと思うのは、今の世を生きにくいと感じている日本女性たちに対してだ。自分の体を資本として、男の『勘違い』を上手く使う、一種の『戦略的本質主義』を振りかざして生きている私は、本質主義から脱して生きたがっている思っている女性にとって、目の上のたんこぶでしかない。(そして巡り巡って、自分のクビも締めてる。承知の上だ。)
だから、私は世の女性の味方を標榜している。もちろん、偽善だとも分った上でね。日々ご迷惑をおかけしています。女性の皆さん、特に日本女性の皆さん、本当にごめんなさい。
こんな長文をここまで読んでくださっているあなたは考えるかもしれない。「どうして、そんなひねくれた生き方をするんだ?女性に対して申し訳ない気持ちがあるなら、そんな風に思わなくて済むような道を探せばいいじゃないか」と。
確かに、正論だ。
ただ、今まで男性社会の中を駆け抜けてきた私の人間関係には、そのようにしなければ維持できない人脈が多くある。今更切ることが出来ない、お金になる人脈が。
一言で言えば、こういうことだ。
「こうしなければ、明日のご飯がない。明日の立場がない。明日の社会に居場所がない。そういう危機感に、ただ突き動かされて、ビジネスという男性社会に埋没しているのです」
・・・あ、万一今、「だったら結婚すればいい」とか考えた人がいたとしたら、冗談も大概にしてくださいね。そういうのが仕事を志向する女性のプライドを傷つけかねない繊細な問題だってこと、いい加減気づいて。
そして、そもそも「働けないなら結婚すればいい」という言説を女性に押しつけるのはやめてほしい。
私は今、こんな風に生きているから、正直、最近の私が差別者に立つあらゆる差別問題に対しては、「分る、分るよ-、その痛み。でもごめん、味方はしないよ。余裕ないから」っていうスタンスだった。思い切り逃げモード。そこそこ底辺の仕事で、それより底辺の人たちの頭を足蹴にして得た仕事で生きている日常です。
そこにきて、冒頭のアレですよ。
『抗いたい』という言葉を聞いたとき、まずはじめに思い浮かんだのは、「青いなあ」という、ある種その人を侮った感想だった。
でも、よくよく考えてみたら、それって違くないか?むしろ、この人が言っていることのほうが正しいだろう?本当は、自分が差別者のままで居続けるのって嫌でしょう?その嫌な気持ちがあるから、他の人に対して内心申し訳ないとか思ってるんでしょう?
そんな風に考えていたら、私は大学生時代に一生懸命学んでいた差別問題の事例が懐かしくなって、現在の自分のことを思うと、世の中の女性に対してものすごく申し訳ない気持ちになって、そして、『抗いたい』と言った友人の若々しい気概が眩しくて、それと比べたら自分はずいぶんみすぼらしくなったと気づいて、泣きたくなったからそれについて書いた。
オンラインの友人だから、性別は分らない。
正直、こんな時間に書くことじゃないんだ。明日やることもあるんだし。
ただ、私にとって、考えを大きく揺さぶられる出来事があったから、少し話をさせて欲しい。
ちょっと長くなるかも。あと、女性向きだよ。男性は気分悪くなるかもよ?読むなとは言わないけれど、念のため注意。
http://anond.hatelabo.jp/20090925071837
↑の記事を、オンライン上の友達に、何気なく見せてみた。
ホント、何の反応も期待してなかった。流せる雰囲気だったから、多分何の反応もないだろうと当たり前のように思ってた。
でも、その人は言ったんだ。『抗いたい』って。
この言葉に、私は懐かしくなって、ものすごく申し訳ない気持ちになって、泣きたくなったから、それについて書く。
やってたことは、女性問題、黒人問題、水俣病問題、沖縄基地問題、色々だ。
ゼミ一番ショッキングだったのは、『私が差別者だ』ということを直視しなくちゃいけないことだった。
社会学を学んだことのある人は、どうか笑わないでほしい。私は、私が世界中のあらゆる差別問題の中に居て、その中のほとんどの状況で差別者なのだ、と、抵抗なく認識できるまでにまるまる1年かかってしまった。
「だって、私はなにもしてないのに、ただ生きてるだけなのに、どうして他人を差別しているなんて言うの?」という疑問を解消する、それだけでだ。課題図書や、毎度のレポート提出が嫌いだった。『分りたくない、信じたくない!』ってずっと思ってた。
社会学を学んだことの無い人は、差別問題をどうか他人事と思わないで欲しい。あなたは世界中の差別問題の中に居て、ほとんど常に差別者だ。
日本国民、大和民族、正社員、男性、健康体である、という、ただそれだけで差別者だ、というのは、すぐには受け入れがたいと思う。(先述の通り、私も理解するのにまる1年かかった)それでも、社会という構造の中にいる限りは、その中で差別者として無意識に振る舞ってしまうことが常にある。無意識に、他人を傷つけている。確実に。
そして、たいていの場合、特別に本を読んだり勉強をしなかったら、この『無意識の差別者』状態から、人は絶対離れない。
だって、この状態が最高に快適だもん。味方は多いし、強いし、くさい、汚い、怖いことはないし、安定している。
この状態から、どうしてわざわざ、よわっちい被差別者の味方をしたり、あまつさえこの特権を引き渡すなんてことをしなくちゃいけないんだ?ってなる。
だから、差別者はこの状態から滅多に自発的には離れない。
もうひとつの原因は、『自覚が無くても困らないから』だ。
道を行く人(差別者)は、花を踏んだことに気づかなくても怪我をするわけでなし、なにも困らない。<でも、踏まれた花(被差別者)にとっては一大事だ。>
だから、差別者(マジョリティ)の集団または親玉は、自分たちの得になるように必死に策を練る。
・なんで沖縄の基地問題は、全国メディアで滅多に取り上げられないんだろう?(だって日本はほとんどが大和民族だもんね)
・沖縄の中でも、基地をなくしたいと考える人と、居て欲しいと考える人がいる。これは国が基地の土地貸し出しに対して支払っている補助金の絡みで起こる対立だ。(このせいで、基地問題の県内世論が必要以上に割れている)
・基地移転は出来て、日本国内に基地が置けない理由ってなに?(移転できないんじゃなくて、移転しないだけなんじゃないの?)
例を沖縄基地問題であげてみたけど、ちょっと考えてみると議論のしがいがある(あるいは明らかにおかしい)問題がぼろぼろ出てくるのが差別問題だ。そして、差別問題を華麗にスルーできる特権を持っているのが、差別者だ。
こういう困難な状況にあっても、『これはおかしい』と気づく人、そして声を上げる勇気ひとたちが現れて、差別問題は議論されてきた。
昔と比べて、良くなってきたものもある。(女性問題は、明治時代から女性の権利の見直しを考えようと呼びかける先達の手で、長い時間をかけて、やっとここまできた。)
まだ根強く差別が残り、世代を超えて人権を脅かすようなものもある。(水俣病問題は、未だに遺族が差別を恐れてる。)
こんな問題の事例に4年間触れていて、その当時は、私も思っていたんだ。
『私は、なにも知らないままで人を傷つけるような人間になりたくない。もし差別者の立場を脱する方法があるなら、私はそうしたいし、もし無かったとしても、せめてその差別について理解して、なるべく他人を傷つけないように生きたい』って。
でも、いざこんな気持ちを持って、たくさんの差別問題の事例を知ったあとで、社会に出てみたら、こんな問題意識が苦しいだけだって分ってしまった。
一番キツかったのは、『大抵の男性は、女性を馬鹿にしていること、そのこと自体に全く気づいていない』という事実だった。
何せ、こちとら10年女子校だったからね。付き合いのある男友達は理解のある人ばかりだったし、バイトの先輩は仕事の関係だから、そんなに突っ込んだ発言もしないし。
それが、社会に出たらガラっと変わった。
あなたは差別発言と思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたはセクハラだと思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたは多分よかれと思って言ってくれてるんですね。でも私はとても苦痛なんです。
今まで、女の子同士なら、自然と気に掛けあって丁寧に接していた部分を、先輩が、上司が、特にお酒の席で、何にも考えずぐしゃっと踏みつぶしてその境界を越えてくる。それがたまらなく苦痛で、大学で一緒に学んでいた友達に言ってみたら言うんだ。「わかるよー。でもそんなものだよね」
ああ、こんな苦痛な状況が、社会一般では『そんなもの』で済まされる程度の問題なんだって分ったのは、正直そのときだった。
それで、今はどうやって生きているかというと、日常では、社会学で学んだ問題意識にほとんど蓋をして、生きていくのに便利なところだけ使って生きてます。とりあえず、世間一般様から見て、頭のおかしい奴だと思われない程度に猫被ってね。
男性メインのビジネスの場に立ち、名誉男性的な立ち位置で、ある意味男性に媚びるようにして生きている私にとって、社会学の知識は、被差別者を踏みつけるのに(効率的に差別者特権を使うのに)とても役立っています。あとは自己防衛のためにね。
こんな生き方が良くないというのは重々承知している。一番申し訳ないと思うのは、今の世を生きにくいと感じている日本女性たちに対してだ。自分の体を資本として、男の『勘違い』を上手く使う、一種の『戦略的本質主義』を振りかざして生きている私は、本質主義から脱して生きたがっている思っている女性にとって、目の上のたんこぶでしかない。(そして巡り巡って、自分のクビも締めてる。承知の上だ。)
だから、私は世の女性の味方を標榜している。もちろん、偽善だとも分った上でね。日々ご迷惑をおかけしています。女性の皆さん、特に日本女性の皆さん、本当にごめんなさい。
こんな長文をここまで読んでくださっているあなたは考えるかもしれない。「どうして、そんなひねくれた生き方をするんだ?女性に対して申し訳ない気持ちがあるなら、そんな風に思わなくて済むような道を探せばいいじゃないか」と。
確かに、正論だ。
ただ、今まで男性社会の中を駆け抜けてきた私の人間関係には、そのようにしなければ維持できない人脈が多くある。今更切ることが出来ない、お金になる人脈が。
一言で言えば、こういうことだ。
「こうしなければ、明日のご飯がない。明日の立場がない。明日の社会に居場所がない。そういう危機感に、ただ突き動かされて、ビジネスという男性社会に埋没しているのです」
・・・あ、万一今、「だったら結婚すればいい」とか考えた人がいたとしたら、冗談も大概にしてくださいね。そういうのが仕事を志向する女性のプライドを傷つけかねない繊細な問題だってこと、いい加減気づいて。
そして、そもそも「働けないなら結婚すればいい」という言説を女性に押しつけるのはやめてほしい。
私は今、こんな風に生きているから、正直、最近の私が差別者に立つあらゆる差別問題に対しては、「分る、分るよ-、その痛み。でもごめん、味方はしないよ。余裕ないから」っていうスタンスだった。思い切り逃げモード。そこそこ底辺の仕事で、それより底辺の人たちの頭を足蹴にして得た仕事で生きている日常です。
そこにきて、冒頭のアレですよ。
『抗いたい』という言葉を聞いたとき、まずはじめに思い浮かんだのは、「青いなあ」という、ある種その人を侮った感想だった。
でも、よくよく考えてみたら、それって違くないか?むしろ、この人が言っていることのほうが正しいだろう?本当は、自分が差別者のままで居続けるのって嫌でしょう?その嫌な気持ちがあるから、他の人に対して内心申し訳ないとか思ってるんでしょう?
そんな風に考えていたら、私は大学生時代に一生懸命学んでいた差別問題の事例が懐かしくなって、現在の自分のことを思うと、世の中の女性に対してものすごく申し訳ない気持ちになって、そして、『抗いたい』と言った友人の若々しい気概が眩しくて、それと比べたら自分はずいぶんみすぼらしくなったと気づいて、泣きたくなったからそれについて書いた。
オンラインの友人だから、性別は分らない。