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2016-09-15

Call of Duty:Black Ops みたいなゲームが他にあったら教えてほしい

ゲームというのは、

がそもそも食い違っているという問題があり、これをうまく帳尻をあわせないといけない。 GTA 4 では厭世的な主人公が設定されたがみんなは別に厭世的なプレイがしたいわけではないので、キャラクターのロールとプレイスタイル全然あってないみたいな問題が発生した(一方 GTA 5 では三者三様キチガイ主人公にすることでこれがある程度解決した)。 Fallout 4 の最終 DLC自分復興させた文明自分破壊する狂人にならざるをえない展開で批判を集めた(個人的意見としてはショーン死んで狂ったみたいな世界観プレイしたらヌカワールドは最高と思う)。

ポケモン BW ではポケモン使い捨てにする N とポケモン主人公対峙することになるが、ゲームバランスがかなり難しいので自分も N 同様にどんどんポケモン使い捨てにして周囲にうまく湧きが設定されているポケモンを捕まえまくらなければならないし、あまつさえ最後に手に入れた伝説ドラゴンサザンドラにぶっ殺されることになる。

CoD:BO はこういう問題が以下の方法で綺麗に解決されている

ようするに、本来傍観者であるはずのプレイヤー視点が、ハドソンという形でゲーム内に挿入されているか自然な形でゲームの中に入りこむことができるし、ダルい部分がカットされるストーリー的な理由もセットされている。

その上で更にストーリー上の工夫として

という要素を挿入することで、ゲームプレイヤーが抱きがちな「主人公はなんでこんなもどかしい判断をするんだ」という違和感を、ジェイソンハドソン違和感としてゲーム内に挿入し

という要素があることで、ゲーム主人公とは実は誰か別の人に操作されているに過ぎない、という問題すらストーリーの要素として消化される(であるからこそラストシーンでのメイソンのセリフに魅力がある)。

ゲームゲームならではの制約をそのままうまくストーリーに生かしているこんな感じのゲームが他にもあればやってみたいので教えてほしいです。おわり。

2016-09-12

ネタバレ仮説】シン・ゴジララスト尻尾意味

シン・ゴジラを一度観てすぐ浮かぶ疑問点

  1. 冒頭の無人ボートはどういうことなのか
  2. ゴジラはなぜあの場所で「発生」したのか
  3. なぜ二回の上陸とも東京の中心を目指したのか
  4. なぜ二回目の上陸時は最初から完成形(第4形態)だったのか
  5. 自己増殖するゴジラ細胞(?)のシーンはなんなのか
  6. ラスト尻尾のアップのあれはなんなのか

以下は、これらをつなぎ合わせる妄想です。いちど観ただけの記憶を元に書いているので、細部記憶違いの可能性もあり。苦手な方はお帰りください。



(注)本文での論理展開の手順

シン・ゴジラ現実事件ではなく創作物なので、創作物なりの読み解き方ができるはず。

  1. ある人物が「○○○だ」あるいは「○○○かもしれない」と言っている。
  2. それは物語中で特に否定されない。
  3. ならば○○○はこの物語の設定をセリフに紛れ込ませた物語上の真実である

教授の人物像

物語中、唯一の癒やし成分として登場するカヨコ(石原さとみ)による情報で、ゴジラは60年前に米国杜撰に海中投棄していた核廃棄物が謎の古代生物の生き残りに作用して発生した新生である可能性が示唆される。そのレポートをまとめたのが牧教授。超重要なのに、セリフの中にしか出てこず、回想シーンすらない人物である

セリフの中にしか出てこないということは、セリフの中に出てくる説明や推測がそのまま牧教授の人物像の設定と考えていい。

ざっくりと箇条書きにすると

と、こんな感じ。

冒頭の無人ボートに残された「私は好きにした。あとはお前たちが好きにしろ」(だったっけ?)という捨て鉢メッセージ。揃えて脱がれてあった黒い革靴。牧教授はあのボートから海に飛び込んで自殺したことは間違いない。ではなんのために?

ゴジラ形態変化

パンフレットによると、映像には映らなかったが東京湾に出現した時点の第1形態はしっぽの長いオタマジャクシ型らしい。

出現時の順序は、次のようになっていた。

  1. 謎の高温により水蒸気爆発が起こる
  2. 海中を泳ぐなにかが視認される(第1形態
  3. 尻尾が海面上に現れる
  4. 上陸
  5. どんどん陸地向けに形態変化していく(両生類っぽい第2形態爬虫類っぽい第3形態
  6. 排熱が追いつかず退化して海に引き返す

高温は急激な形態変化の副産物なので、最初の「謎の高温」は、形態変化が爆発的に開始したタイミングと考えられる。

ということは、当然それ以前、オタマジャクシ型の「前」があるはずだ。

両生類←オタマジャクシ←(?)

ゴジラ細胞

  1. 物語の途中、米軍攻撃により地表に落ちたゴジラの体液がなにやら生物っぽく増殖している映像がサクッと挟まれる。これにより、ゴジラが無生殖で増殖する可能性が示唆され、国連東京に核攻撃を行うきっかけになる。
  2. ラストシーン尻尾のアップ。尻尾の先の方になるほど、クジラのような骨格や、人の手の骨のようなものがむき出しになっていく。
  3. ゴジラ遺伝子情報量人間の4倍である
  4. パンフレットによれば尻尾の先は「人の顔のようなもの
  5. ゴジラVSビオランテ以降、ゴジラ細胞は「G細胞」と呼ばれ、ゴジラ以外の生物摂取すると体を乗っ取られてゴジラ化してしま公式設定がある。

これらのことに、古今の漫画的な「お約束」を加えると、ゴジラが他の生物を「取り込んで」成長することは明らかだ。

尻尾の先にあった別の生物らしき骨格は、ゴジラが吸収して未消化の(あるいは完全生物であるゴジラにとって不要判断された)パーツと考えられる。

教授がやったこと

さて、ここから大きくハネてみる。

米国沿岸で発生したゴジラ。これが「わざわざ」東京湾までやってきて爆発的に成長を始める。そして「なぜか」東京の中心(日本の中心)だけを執拗に狙う。

ここに「日本を憎んでいて、最近米国から日本に移動したマッドサイエンティスト教授」というピースを当てはめるとすべてがしっくり来るストーリーが作れる。

  1. 教授調査中米沿岸の海底で入手したゴジラ第0形態(卵型)を日本に持ち帰り、東京湾身投げしつつ摂取した、あるいは取り込ませた。
  2. 人間ゴジラにとって初めて取り込む知的生命体だったため、ゴジラには原始的自我が生まれ、その意識は牧教授怨念ともいえる「日本を滅ぼす」一色で塗りつぶされていた。
  3. 教授の脳から地理的知識も取り込んでおり、東京の中心(皇居霞が関都庁等)の方角を間違えずまっすぐに進んでいった。
  4. 放熱が上手く行かないためクレバー判断で一旦太平洋に引き返したあと、クジラ等大型海棲生物を取り込みつつじっくり完全体(第4形態)となり、再度鎌倉から上陸して東京を目指した。

こうなっていたとすると、ラストシーン尻尾ゴジラが他の生物を取り込む設定→冒頭の無人ボートの謎が解けることになり、物語がきちんと閉じて気持ちいい。

教授が本当に憎んだもの

この説に直接関係はないが、牧教授遺書「君たちが好きにしろ」というのを深読みすると、牧教授が憎んだのは日本のすべてではなく、自分研究をきちんと評価しなかった学会官僚主義といったものだったかもしれない。現在日本はどうしようもないから滅んだほうがいいが、ゴジラを乗り越えられるような日本に生まれ変われるのなら、それもまた良しといったメッセージのようにも思える。

ところでそれヒゲメガネじゃね?

こうしてみると、これを思い出さないだろうか。場所鎌倉芦ノ湖で近いし。

http://goo.gl/1pbxXQ

あっ、作者が同じだ!偶然だね!

2016-09-05

君の名は。」に対する個人的感想

個人的に全く面白くなかった。

上映開始直後、いつもの新海節が劇場に鳴り響いた瞬間、興奮のあまり俺はちょっと泣いた。

しかし、その後の展開は、個人的に納得できるものではなかった。

まず、新海誠特有セリフ回しが圧倒的に足りない(新海節が少ないことを評価する人がいるのもわかる。しかし、俺はあの新海節が好きなんだ)。

次に、ラストシーンでのカタルシスが足りない(とって付けた感じがしてしまう)。

秒速の何が良いかって明里が他の男と幸せにやってる描写が挿入されるところにあると思うのだけど、今回はそれに値するものがない。

記憶がなくなってしまうってのがラストシーンを際立たせるのかもしれないけど、秒速の明里しあわせ描写に比べると弱い。

ニコ動だと、明里しあわせ描写で「あーーーー!!!」みたいなコメントで埋まるだろうし、強烈な印象を与える。

しかし、今作は「忘れてる!!」って言ってるだけで、心に響いてくる度合いが小さい。

あと、さすがに入れ替わり中にカレンダーくらい確認するだろ。

まぁ、俺が勝手に期待した新海作品ではなかったってだけです。


俺は今まで「ガルパンはいいぞ」と言ったり、シンゴジラについて絶賛したりしていたのだが、

いざ自分に合わない作品が絶賛されていると、すげー居心地が悪い。TL見たくない。

ちっせーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!

2016-08-23

通常兵器効果があるなら最大火力?

から「後から判明したこと」から遡って「なぜあのときああしなかったの?」と言うのは無しでいこうよ。小学生じゃないんだからちゃんとストーリーの中での必然性を語ろうよ。

エネルギー切れるまで打たせろ」→ゴジラが一通り東京荒らし尽くして制止している状態が「休眠」であると「仮定」できるようになって初めて言えること。それ自体ゴジラ停止から数日後でしょ。

無人機使ってから誘導兵器云々」→だからそれも後出し軍隊同士の戦争じゃなく「どんな進化するかわからない不明生物」との戦闘なんだって相手の出方が全く予想できない状態で「相手停止!一斉攻撃!」なんて指揮したらそれこそ負けフラグのものでしょ。ましてそこに「群体化・有翼化」なんて可能性が出てきたら、確実に「通常兵器による攻撃差し控えよう」という判断になるわ。

「休眠してる間に次なる進化可能性を誰も考慮してないの?」→だから、それがあったからこその国連の「核攻撃やむなし」って判断でしょ。ちゃんと見てた? その考察あったから安田くんも「そりゃ選択肢としてはある」って言ったんだよ。むしろ、群体・有翼化して四方八方に飛び散るかもしれない(そして各地で再び巨大化するかもしれない!)生き物に対して、あなたが「物量作戦空爆が上策」と思ってるのが不思議で仕方ないよ。

結果論結果論、そして穴だらけの考察あなたの書いてることは、普通に全てシナリオの中で解決がついてることばかりだよ。あなたが「おかしい」と感じるのは、端的に言って読解力不足のせいなんだよ。

ハッキリ言うけど、そもそもあなた最初は「群体・有翼化」の話が作中で出ていたことを完全に見落としてたでしょ? そのレベル記憶作品の「あれがおかしい、これがおかしい」と言うのはちょっとどうかと思うよ。

それにね。「シン・ゴジラ」のラストは、「みんなでゴジラ倒したったwwwやったぜww」じゃないんだよ。あなたはそれさえ分かってないんじゃないの? ラストシーン尻尾の大写しは、最後最後で「ほんとにギリギリ幸運による成功だったに過ぎない」「一歩間違えたら最悪の事態だったかもしれない」「しかもその悪夢はまだ終わってないかもしれない」ってことをあの映像で観ているものに見せつけて、最後にゾッとさせる系のエンディングだったんだよ? 人類ゴジラ禍をまだ全然逃れ得ていないし、だからそもそも「あの攻撃が後から見てもベストでした」なんてこと、映画の中でも誰も言ってないしそういう作りにもなっていない。ただ「その時点その時点で得ていた情報の中で、各自が最適を選びながらがんばった」という話だったんだよ。各自の行動に、ストーリーご都合主義的で不自然かつ間抜けな見落としはほとんどない。そういった完成度の高さも、あの映画評価されてる一因なんだよ。

もちろん、本当のところ映画制作の都合上「そう言いつつも、この絵を見せたいからこうしたんだよねー」という部分は、そりゃある。映画からね。「リアル」と「リアリティ」は違うからね。ただ、その嘘の見せ方自体もかなりうまかった。納得して許せるなと思えるレベル。その意味で、あの作品の防御力はゴジラ並に堅い。だから、あの映画に切り込みたいならもっと違った角度、切り口、意表をつくアプローチ必要なんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20160823104151

なお、タイトルの「通常兵器による最大火力」について一言考察。ここからはオマケ。

アメリカには「通常兵器有効」だというデータはあったのだろうけど、それに加えて、ゴジラレーダーのような能力を備えることまで予測していたのかもしれないね。でないと『同質量の金と同額』とまで言われる世界一高価なステルス爆撃機B2を(しかも3機も!)投入するのは不自然から。そして爆撃に使用するのは外しようのない、最大火力の誘導兵器である地中貫通爆弾バンカーバスター

まり、この時点ですでにアメリカは「普通に適切と考えられる最大の兵力」を投入してるんだよね。しか当事国同意を得ないうちに素早く。アメリカいか危機感をもち早期収束を焦っていたかが分かるね。しかし、そんなアメリカですら残念ながら予測できていなかったことが二つあった。「ゴジラ攻撃の対空レーザーへの進化」加えて「バンカーバスターで貫くことはできても死なないどころか怒らせただけというゴジラ身体構成(結果、馬鹿みたいに被害火災とおそらく放射能汚染)が拡大)」という2点。この2点のミスは致命的でかなり痛い。結果、米軍全体でも21機しか保有しないB2のうち3機(しめて約5000億円?)とその搭乗員を失い(エリート爆撃機乗員6名以上…プライスレス)、同盟である当事国の首脳陣をほぼ全滅させ(プライスレス)、同首都に壊滅的な打撃を与え(東北震災の約10倍としてざっと数百兆円? 円と株の暴落による世界経済への影響は…少なくとも米国債ドル暴落にも歯止めかからないレベルの打撃はまさにプライスレス)…。これ、単なる「攻撃作戦失敗」の域を越えてるよ?! いくら大統領に巨大な権限があるとしても「判断ミス」追及されたら辞任どころか死刑になってもおかしくないくらいの大失態だよ? ゴジラ対処する必要がある超非常事態からこそギリギリ責任問われずに済んでるけど。結果、アメリカ自分判断では動けなくなり、国連主導の解決策に移行するしかなくなった。その国連判断が、中露という地勢的に近隣な国々を中心とした「核攻撃止むなし」という結論であって、「通常兵器でなんとかしようとしてた前半」と「核攻撃止むなしの後半」では主体が変わってることもけっこう重要ポイントですね。

2016-08-22

それへの回答

作中で、間准教授が「個体化、有翼になって群体化」の可能性を示唆してたやん? ラストシーンで、しっぽの先から人間みたいな奴が飛び立つ寸前で固まってる描写があったやん?

そもそも一回目のアメリカの"空爆ウェーイ"攻撃の結果が、内閣総辞職ビーム首都火の海祭だったわけで、生命危機レベルに追い込まれたらあいつはどんな進化するか分かんねーんだよ。だから、作中で「冷却か、熱核攻撃で一気に全て焼き払うかの二択」だって言ってたやん。生命危機を感じさせないままに停止させるか、一撃で全ての細胞を焼き払うかしかないのよ(ちなみに核でそれが可能保証もないのだけどな)。単なる普通の爆撃じゃだめ(殺せないどころか最悪の結末を引き起こす可能性がある)なのよ。だから空爆を繰り返すのは悪手なんだよ。

で、首都東京を核攻撃するのは「世界が許しても日本が許せない」から、あの結果なんじゃん? ただの一匹の生物じゃない、アンド核を許さな世論への配慮を踏まえた判断なんだよ。

でもって、冷却しても、今後その状態ゴジラが乗り越えてくる可能性はまだある。だから、核のカウントダウンは一旦停止のままなわけ。果たしてこれから日本は、あれを冷温停止したまま無事処理までの長い道のりを歩めるのか、それとも果てしなく閉じ込めておく技術が精一杯なのか、あるいは、何かのはずみでゴジラを目覚めさせるほど人類は愚かなのか、それが「共存」の意味なわけよ。

これでよろしいか

http://anond.hatelabo.jp/20160822210801

今日BSミッショントゥマーズがあるけど、新聞テレビ欄のあらすじみたらまんま度胸星やんけ!と思った

度胸星すげえ!ツヅキみてえ!!と思ってたけど、めちゃくちゃ手垢まみれのテーマだったんだな

ミッショントゥマーズを見れば度胸星ラストシーン可能性を見ることができるのかもしれない

2016-08-15

ジブリとかアニメ業界人間関係を知ってしまうと涙がとまらない

俺がそういう関係にあこがれてるからかもしれない。


宮崎駿高畑にどれだけ執着しているのか。

宮崎駿庵野師弟のような友情のような奇妙な関係

鈴木敏夫宮崎高畑を如何に見出したのかという話

押井守宮崎駿いるからああいうわけのわからん映画を作ったという発言

ウェールズ旅行の話をする押井鈴木敏夫

冨野商業主義作家性との葛藤

冨野安彦良和に対する評価

風立ちぬを見て泣いた冨野

作品性を見るとなんだか遠いようでいて皆(宮崎押井冨野庵野も安彦もみんなみんな)実は微妙に互いに気にし合ってそうな関係


これだけじゃなくて他にもいっぱいある。

面白いのがいろんなところでチラッと庵野が出てくることだ。


板野一郎の下で基礎を学んだ庵野

宮崎駿に親近感を覚える庵野

冨野との対談で逆シャア賞賛する庵野(そこでチラッと出てくる押井さんの名前


夢と狂気の王国」で庵野の初対面の印象を「宇宙人が来たかと思った」とうれしそうに話す宮崎駿

庵野の隣で模型を手で動かしてインメンマルターンを再現する宮崎駿

俺はオタクじゃない→BOOOOOOOOM!!!!(※飛行機ごっこをする宮崎駿)というシーンに俺はなぜか泣いた。

なんてチャーミングなんだ。

風立ちぬラストシーンが「来て」から「生きて」に変わった事を受け止めようとする庵野

そして「ジブリはもう終わり」と言った駿が終盤で楽しそうに宮崎鈴木高畑で話しているのを見て最早俺の顔はグジャグジャだ。


なぜこんなにもあの人達関係性は俺の心を打つのだろうか。

俺はやつらのインタビューを見るたびに涙が止まらんのだ。

それは俺にはないものからかもしれないなと思うのだった。

2016-08-14

シンゴジラ感想ネタバレあり)

一言で言うと最高だった。

草なぎ君が「シンゴーシンゴー!」って叫びながらジラ暴走を止めるラストシーンは、涙なしには見られなかった。

草なぎのなぎは弓ヘンに前の旧字の下に刀

2016-08-12

ネタバレばかり】シン・ゴジラ2回観ての感想

Twitterに書いてるとTLにネタバレを延々垂れ流すことになりそうだからこっちで。

あくま個人的感想

・そもそも冒頭なんで爆発したんだろう。第一形態から第二形態進化するために必要だったのかな。トンネルに落ちてきたのは体液だよね?

・第二形態の移動にともなって呑川から溢れた水が住宅街に向かいそれから逃げる人。押し寄せる船。一度海に戻ったあとの瓦礫表現はかなりリアルだった。

 考えてみれば3.11で本物を見せつけられ今でもYouTubeちょっと検索すればいくらでも見られるんだからあそこまでやらないとしょぼくなるよね。

・一回目は気にならなかったけど閣議の欠席者がもろ伏線だったのね。

戦車で「全車後退!!」って言ってたのがKREVA

里見さんが安保理の決定に従うと言ったあとの「東京に核を使うことを容認することも?」(うろ覚え)のとき竹野内豊の演技というか表情はもうね…俺の中ではこの映画イチ!

 あれがあるからあの後の矢口とのやりとりで赤坂の言い方は非情にも思えるけど本当の気持は違うというのが感じられてグッと来る。

 そして「そろそろ好きになさったらどうですか?」につながるのかなと。

モノレールのとこでの矢口とカヨコのやりとりの後の原爆落とされた後の写真の挿入は必要だったのかな…?

ラストシーン解釈。一回目見たときは続編を匂わすのかなと思った。二回目見たあとはギリギリ世界の終わりを食い止めた表現だったのかなと。

スタッフロールで「特殊建機小隊エンブレムデザイン 出渕裕」とあったんだけどどんなエンブレムだったっけ?もう一回見なきゃいかんか…。

シン・ゴジララストシーン

なんか誰も言及してる人がいなくて不安なんですけど、

ラストシーンあるじゃないですか?

観てない人はもう今すぐ観に行ってから続き読んで欲しいんですけど

ラストシーンゴジラのある部分のアップじゃないですか。

んで最後らへんに明らかに人間ぽい輪郭があるんですけど

あれがプレジャーボート博士だって僕は解釈してる。

2016-08-11

ゴジラ東日本大震災に見えない理由

同じような考察は既にあるのかもしれないけど、一応・・・

確かに洪水起こしたり建物壊したり放射線吐いたりってのは東日本大震災的で、

「発生した事象」が東日本大震災を重ねあわせている事は確かなんだろうけど、

ゴジラ自身震災のものを指していない気がする。

今回のゴジラは「解決しないでおくと際限なくでかくなる問題」という性格が与えられているし、

その根底にあるのは一人の人間憎悪と、多くの人間苦痛が設定されていると思う。

そう考えた理由は、ラストシーン尻尾が、自分には「苦しみ悶える人間を縒り合わせて作ったのがゴジラである」という表現に見えたからだ。

最初は本当に何がしたくて暴れてるのか分からない感じで暴れていたゴジラは、

大河内総理攻撃をためらった時に不自然な静止を見せ、

一時姿を隠した後、憎悪の塊のような形相の第4形態に変貌して姿を表したわけだが、

あの一連の流れは、ゴジラ思考というか、因果存在を感じさせた。

あそこで民間人を見捨てられず、まだ弱い間にゴジラを殺せなかったことで、大河内総理は後の災厄の芽を摘みそこなった。

震災には芽を摘むもへちまもない。

芽を摘めるのは人災だけだ。

自分の受けた印象だと、何らかの理由で不満を爆発させて無軌道破壊エスカレートさせた人々(第一形態、第二形態、第三形態)が、

強く対処できなかった事によって手のつけられない災厄となったものゴジラ(第四形態であるという感覚から

ゴジラは「格差問題民族問題等の、東京に住む虐げられた(と本人たちが感じている)層がテロリスト化する現象」の暗喩に見えた。

そんな感じ。

2016-08-08

龍堂寺士門の淫謀

ミンクという会社には「夜勤病棟」というシリーズがある。

1999年12月夜勤病棟』発売

2000年12月22日夜勤病棟特別盤〜』発売

2002年7月26日夜勤雀棟』発売

2003年10月11日夜勤病棟 DVDPG』発売

2004年1月15日夜勤病棟・弐』発売

2004年10月15日夜勤病棟・弐 DVDPG』発売

2004年12月10日夜勤病棟・参』発売

2005年4月8日夜勤病棟・参 DVDPG』発売

2005年5月13日七瀬恋』発売

2005年12月9日夜勤雀棟2』発売

2006年9月3日 SMクラブ夜勤病棟渋谷オープン

2006年11月10日風間愛』発売

2006年12月22日夜勤病棟〜復刻版+〜』発売

2007年7月2日 パチスロ夜勤病棟ホールデビュー(最速導入ホールでは)

2008年10月31日夜勤雀棟壱・弐 復刻版+』発売

2011年6月24日 『真・夜勤病棟』発売

2012年1月27日夜勤病棟 零』発売

20年くらい前の作品だがいまだにこのシリーズ作品OVAが出ており、ブラウザゲーにもなってるくらいご長寿コンテンツ

エルフが手を付けてさっさと手放してしまった「臭作」という作品を発展させ、

非モテ男のエロ妄想をこれでもかと詰め込んだシチュエーションキャラクターたちがエロゲーオタどもの心をつかんだようだ。

そのせいで、初代ヒロイン七瀬恋は、いろんな年齢であられもない目にあうという島耕作みたいなことになってしまった。

しかしさすがに10年以上も経つとマンネリというレベルではなく経年劣化にも耐えられない状態であることは明らかであった。

そんな中、frillが「夜勤病棟」を換骨奪胎して女衒主人公の「聖娼女」というのを出して人気になった。

ミンクという会社を支える屋台骨が他のメーカーに遅れを取り出しては経営的にも苦しい。

いい加減新しいシリーズ必要とされるという形で、ミンク20周年記念にあわせてついに新シリーズを出すことにしたというわけだ。

結果としては、二番煎じどころの話ではなく、レジェンド的なロングランになるほどの地力は感じさせなかったが、それでも単体として優秀なおかずを提供してくれたといえる。

ミンクの絵は、最新の萌え路線とは違って古さを感じさせるものの、エロ路線としては相変わらず良い汁や塗りだし

システムがめんどくさいが、その代わりに計画をもって進めれば

飽きるまで何度も一人の女をいろんなシチュエーションでいただけちゃったり何人もの女性を性欲処理の対象としてプールしておけるつくりになっており、

最近の、選択肢を選ぶだけで女性が股を開くかわりに個々の女性たちのつながりなどが見えないゲームに慣れている人間からしたら満足度は高いだろう。

しかしやはり女子高生では看護師には勝てなかった。 また、主人公の龍堂寺の怖さが薄すぎるのも難点だ。こいつはただのセックス上手なエロおやじしかない。それじゃいかんのよ。

夜勤病棟を生み出したミンクですら、夜勤病棟は越えられなかった。 レジェンドというのは狙って作れるものではないのだな。

aukusoe やっぱりあの生きるためならウンコをバックバク食べることも厭わない何が何でも死んでやらないぞ、という気持ちがすごかったと思う

わが意を得たりというコメントありがとう

そう、龍堂寺士門の淫謀って作品は、今のユーザー向けにしたせいかどうかわからんけどマイルドなんよね。悪く言えばヌルい。狂気がない。

鬼作は本当に学生を皆殺しにしようと行動するし、臭作も女が苦しむのを心から喜ぶ。比良坂はマッドサイエンティストであり女がそのために壊れようが構わない。

さらにいえば当時は野々村病院やら猟奇の檻やらそういうのがたくさんあったらしいがそのあたりは俺はよくしらん。

とにかく、そういう狂ったやつらもいなければ、自分生殺与奪を握られたうえでそれでも生き延びようとするようなしたたかな女もいない。

ただ、エロいおっさんと、素直にやられて目がハートになる雑魚少女たちだけである。 だからラストシーンで一人の女性けが浮いている。

これだったらまだLeafの鎖のほうが面白かった。 

ミンク夜勤病棟以外にも、いろいろと狂気を扱った作品が多かった。

Love Callやらコレクターやらはゾクゾクするようなところがあってその延長に夜勤病棟があった。

http://www.mink.co.jp/product/

だけどやっぱり時代の流れに勝てず、なにげに十六夜花嫁などいいゲーム出しているんだけどいまひとつヒットすることな

結局夜勤病棟シリーズを出し続け、今回もそのライト版のような形で妥協したゲームになったのかと思うと悲しいがとにもかくにもこのメーカーが20年生き続けてくれたことが何よりうれしい。

2016-08-05

なぜ良作程度のシン・ゴジラが傑作と騒がれるのか。

ネタバレ含む

 

 

(ここから飛ばしてOK)

 

庵野秀明総監督として制作されたシン・ゴジラの評判が高く、一部では傑作として騒がれている。

しかし、パニック映画としては、途中で被害を受ける一般人の姿が殆どなくなり、怖さの演出がなくなっていき、完全体となったゴジラには恐怖感をあおる演出はなく、強さはあっても怖さはない。

序盤の深海魚的ないびつさも、慣れない人には恐怖かもしれないが、基本的には間抜けな顔をしている。

怪獣映画としても、ゴジラにさほどの強さとしての演出が残念である。硬く大きい、それは原始的で分かりやすい強さではあるが、特別な強さを感じない。

放射火炎は一見強そうだが、よくよく見てるとバーナーであり、色々な建物破壊するが、あのゴジラならしっぽをぶつけるだけで問題ない。全身からバーナーを出すのも、防御のためで強いというよりは防衛反応の強い生き残ることに特化した存在だ。

それも凍結作戦の推移を見るに、無人機での波状攻撃で防御バーナーを無効化してからバンカーバスターによる攻撃破壊できそうに見える。(もちろん細胞再生機能が強く、解決はしないと劇中で描かれているが、それでも強さを感じない一因となる。)

最終的に転がされて、口から凝固剤流し込まされて活動停止とか見せられては「ああゴジラ強かったな」と言う思いが薄まってしまう。

メインとなっている会議シーンはどうだろうか、今回の会議シーンは日本行政手続きこそを大事にすることを皮肉的に描いている。

現場から連絡が数珠つなぎに上がって、総理命令数珠つなぎに下されていくなどは、寿限無のような落語的愉快さをもっているとは思う。

無駄な溜がないことも好まれている。

しかしながら、会議の展開に緩急がなく急ばかりでメリハリが弱い、最初からクライマックスな展開のためいわばすべて緊急場面の会話で、緊張状況の雰囲気に慣れてラストシーンへの緊迫感ですら冗長になってしまう。

また、終盤の会議問題発覚→提案解決の流れが簡単すぎて、その問題を描く必要があったのかと言うシーンが続くのも緊迫感が薄れる原因の一つだ。

解析のためのマシンパワーが足りない!→世界応援を依頼→日本を信じるわOK!→解決

薬剤制作に1日足りない→フランスに働きかけを→解決

世界的な協調演出したいのかもしれないが、無意味だったのではないか

世界的な展開と言う関連でいえば、今回の映画日本ゴジラと銘打たれているが、基本関東vsゴジラであり、もっと言えば霞が関vsゴジラであって、後自衛隊ぐらいでそれ以外は一切戦っていない。(薬剤作成に協力した企業ぐらいか。)

日本の他の地域描写はないため、東京近県以外にはあまり身につまされない。

今回のゴジラと言うのは、原発事故津波地震メタファーであることが映画からすぐにわかるが、つまるところ東日本大震災なのであり、あの震災体験した東京人達には身近な恐怖として心底感じるものがあるかもしれない。

しかし、西の地からすれば、(それが人間としてどうこうはおいておいて)やはり他人事のように関係のない話にみえてくる。

このように、面白みがない映画ではないが、絶賛するほどに良くできた映画でもない、良作と言う程度と感じられる。

 

 

(ここまで飛ばしてOK)

 

シンゴジラを傑作とすると感想を見ていると、「ようやく邦画として世界と戦える映画ができた」みたいなものが出てくる。

それも比べているのは、特に今の邦画である

米国で週間興行収入1位を記録した呪怨はどこ行った?)

邦画と比べた時シンゴジラは確かに面白い部類に入るだろう。

 

ここらへんの事情は、結構割合で、「字幕が読めない」「吹き替えが下手でいや」「顔の区別がつかない」などの理由で”邦画以外を見れない層”が結構いて、

この邦画しか見れないような手合いが、今までの、つまらなくつまらなく作られた日本人オンリードラマ邦画を、これしか見れないからとずっと我慢して見続けてきた結果、シンゴジラを見て「これは凄い傑作だ」と感じるのだろう。

また、普段映画館に行かず家のテレビ映画を見ていたような層が、庵野秀明+ゴジラと言うことで見に行って、大画面+大音響にいつも以上に心が動かされたのかもしれない。

この辺り、シンゴジラを絶賛している人たちが「つまらないとか○○な証拠ww」とか言って、シンゴジラ批判する人物の、人間性の否定が始めているところから

初めてジャンルに触れた時に感動してファンになった人が、普通批判程度にも噛みついているのと良く似ていることや、特定ジャンル新規ファンが来た時のアンチとの口喧嘩とよく似ていることから

映画ゴジラでで良いものを見るという経験に乏しい多くの人が見て感動したのではないかと感じられる。

 

ただ、多くの人を映画館に足を運ばせる誘因力があり、それを、ただ足を運ばせるだけではなく、ちゃんと満足させた。それは重要出来事だ。

その意味で、シンゴジラは確かに傑作であり、多くの人を映画へと興味を持たせ希望を持たせたという意味で、日本映画界の一つの希望だろう。

2016-08-04

シン・ゴジラ」 大絶賛の謎(ネタバレ)

23歳になってようやく、10歳頃から慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。

 

中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、

 「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは

 今日クラスの会話

 あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか

 ま、それが普通ですわな

 かたや俺は電子砂漠死体を見て、呟くんすわ

 it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。

 好きな音楽 eminem

 尊敬する人間 アドルフ・ヒトラー(虐殺行為はNO)」

的類いのものと捉えてくれていい。

 

2016年6月の終わり頃、Twitterトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。

なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。

という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。

が。

観終わったあと、驚いた。全然からないのだ。

どこもかしこも大絶賛の理由である。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである

特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。

いいのかそういう着地で?

多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である矢口」(ハセヒロ)という人物である

会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から想定内」の結論ありきな形式的ものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会から非難を怖れた日和見政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、

派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラ被害を食い止めるための解決策へと動く。

これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくま死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。

「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかある意味では強みになり得るという着地だ。

 

超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。

 

ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクター存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである) 

「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)

これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。

更に、情報や知識の独占の否定矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラ細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。

<超越的>存在であるゴジラ対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」

でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定統合性が取れていないし、

むろんこういうのは、思想的な好き嫌い価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である

 

矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、

「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」

とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)

ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、

 「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、

 放射線流の直撃や、急性被爆の危険性があります

 ここにいる者の生命の保証はできません。

 だがどうか実行してほしい!

 わが国の最大の力は、この現場にあり、

 自衛隊はこの国を守る力が与えられている最後の砦です

 日本未来を、君たちに託します。」

っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)

そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、

まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)

映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。

ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである

しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクション世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものからである

繰り返すが、断っておくと、これはあくま個人的価値観の問題である

しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。

もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか

それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。

 

国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観

いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで

っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつ作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。

これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、

「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」

ことであろう。

 

次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇

「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、

そうか?

前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか

 

が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。

いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。

「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。

更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。

物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。

というのは、2時間映画の構造基本には、

「小・トラブル」と「大・トラブル

そして、「まやかしの勝利」、「から喪失

が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。

小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルであるまやかしの勝利、から喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブル別にあることに気付いてしまったり、大・トラブル解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、

シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。

だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。

突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、

根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法ほとんど気が付いてしまっているのである

ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラ活動を停止するのでは……

っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、

観客は、フィクション鑑賞のルールとして、

「これが正解なのだな」

と思う。思ってしまう。

から、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。

これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである

故に、制作者は、その予定調和思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。

小・トラブルまやかしの勝利⇒喪失⇒大・トラブル解決

というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。

で、

からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである

 

これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、

など少なくとも順番が入れ替わっていれば、

専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。

しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。

主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。

だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである

まりほとんど、「米国核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。

ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。

以上の理由から、「難しいか子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、

「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的作品価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。

けれど、

 

やれ家族の絆恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいもの大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいもの評価できることが~

みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。

分かりにくいことが、「深い」証拠である保証はない。

同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。

 

しろ、近年、「マッドマックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品海外から出て話題を呼んだ中で、

 

まだ、大衆に媚びてないか一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。

2016-08-03

シン・ゴジララストシーン

あのラストシーンに余韻以外の深い意味はない

続編への暗示でもない

しかしあの余韻は皆知ってるはずだ

問題は一先ず収束を迎えたけれど、終わるわけじゃない

また動き出すんじゃないか、新たな問題が発生するんじゃないかと言う余韻を残し、僕らは現実世界へと戻された

そう、それは現実世界にある感覚

311と言う天災モチーフにしたゴジラと言う虚構は消えた

しかしまた災いが降りかかる事はあるだろう

気を引き締めて生きていくこと

311が少しずつ薄れつつある中、絶妙タイミングシン・ゴジラはそれをまた日本人に思い出させてくれたと思う

2016-07-31

シン・ゴジラ』の元ネタまとめ(8/12追記)

筆者は半分くらいしか観てないので間違いとかあったら指摘してください。

◇関連性大

庵野秀明エヴァ(旧世紀版&新劇場版)』 : 同じBGM使用している。ヤシオリ作戦の内容・名称元ネタ

岡本喜八日本のいちばん長い日』 : 激しいカット割りの元ネタ日本危機に直面した時の官僚政治家の動向を描く点は同一。監督岡本喜八写真が本作に登場する牧吾郎写真として使われている。

本多猪四郎ゴジラ(初代)』 : 冒頭に映る古い「東宝」画面、第2形態時の咆哮音、冒頭に襲われる船の名前(「栄光丸」⇒「グローリー丸」)はこれが元ネタ

押井守機動警察パトレイバー the Movie』 : 『シン・ゴジラ』に登場する牧吾郎のあり方が、『機動警察パトレイバー the Movie』に登場する帆場暎一と被る点が多い。①冒頭で海に消える、②事件解決の鍵を握るが、本人は既に死亡しているため、彼の思考の解明に主人公たちが翻弄される、③東京破壊する動機が匂わされる、等。

福島第一原発 : ①ラストシーンで凝固剤をクレーンで投入するシーンは、福島第一原発コンクリートなどを流し込む姿を模しているとの指摘あり。②また、ラストにおいてゴジラは死亡せず凍結されるに留まるが、これは福島原発事故の現状を表してるとの指摘あり。すなわち、冷温停止状態ではあるが、これからもきちんと処理を続けないと、また放射能汚染惨禍を生むということ。

◇関連性中

長谷川和彦太陽を盗んだ男』 : ラスト石原さとみ長谷川博己が語り合う建物が、菅原文太ジュリーの決戦の場と同じ。ヱヴァ破でこれのサントラを使っていたため、意識して使用した可能性がある。また、制作中の仮題が『日本対俺』であり、これは『シン・ゴジラ』のキャッチコピーである現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)』に類似する。

庵野秀明巨神兵東京に現る』 : 終盤、ゴジラ尻尾から出てくる人型が、『巨神兵東京に現る』に登場する巨神兵酷似している。

橋本幸治=中野昭慶ゴジラ(84年)』 : 今回のシン・ゴジラと同じテーマ危機に直面した日本がどう対応するか)を扱った作品。第4形態時の咆哮音の元ネタ。『シン・ゴジラ』のキーマンである吾郎の初出。

本多猪四郎宇宙大戦争(59年)』 : ヤシオリ作戦シーンのビーム作画ビームSEBGM元ネタ。ただし、マーチについては、直接の元ネタは『怪獣大戦争』ではないかとの指摘あり。

富野由悠季イデオン』 : ゴジラが、背びれから全方位ミサイルを出し、尻尾からソードを出しているのは、これが元ネタではないかとの指摘あり。

岡本喜八沖縄決戦』 : 上述した『日本のいちばん長い日』と同じ理由。ただしこちらはシン・ゴジラと違って民間人視点から事件を描く/人の死亡シーンまで描く。また、『シン・ゴジラ』のラスト付近に登場する第32普通科連隊丹波一佐は、『沖縄決戦』で第32軍長勇参謀長を演じる丹波哲郎元ネタ

◇関連性小

佐藤純彌新幹線大爆破』 : 東京駅作戦をするシーン、新幹線爆弾を積んでぶつけるシーンの元ネタ

赤井孝美『八岐之大蛇の逆襲』 : 「ヤシオリ」という名称ヤマタノオロチを酔わせた酒)からすると、ヤシオリ作戦元ネタエヴァではなくこちらを挙げるべきであるとの意見あり。また、血液凝固剤を注射ではなく経口投与にしたのは、ヤマタノオロチ伝承に倣ったものか。なお、これに登場する八岐之大蛇は第2形態に似ている。

◇その他名前ネタ

山崎豊子白い巨塔』 : 財前正夫(國村準)、大河内清次(大杉漣)、里見祐介(平泉成)、花森麗子(余貴美子)、東竜太柄本明)、柳原矢島健一)、金井中村育二)の”苗字”の元ネタ。たぶん探せばもっと出てくる。

安野モヨコ作品 : 矢口蘭堂(長谷川博己)(⇒『ジェリービーンズ』)、カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)、尾頭ヒロミ市川実日子)、花森麗子(余貴美子)(⇒『ハッピー・マニア』)の”名前”の元ネタ。たぶん探せばもっと出てくる。

補足

http://anond.hatelabo.jp/20160812012224

2016-07-26

http://anond.hatelabo.jp/20160726230833

増田とその友達現在どれほどの仲なのか、

これからどういう友達付き合いをしていきたいのかにもよるんだけどさ…。

俺は友達に勧められたアニメが合わなかったりイマイチだった場合は、

面白かったわ!」と嘘ついたりせずに

最後まで見たけど…いくつか納得いかない部分があって…」と感想を言うようにしてるよ。

すると、友達が「具体的にどの辺だよ?」と食いついてくるから

「○○の部分がどうしても納得いかなくて」とか「××ってちょっと酷すぎねーか?」とか「あの△△は何だったの?」とか、なるべく細かい部分を突っ込んでみる。

  ○○、××、△△ = “主人公性格”、“中盤のストーリー展開”、“ラストシーン”、とか何でもいい。

そうすると、友達には「ああ、コイツ文句言ってるけどちゃんと見てくれたんだな」って事が伝わるからな。

一応自分なりにそのアニメ理解しようとした事を示すというか。

で、

友達はそのアニメについて語りたいわけだから自分ツッコミや疑問に対して「いや、○○はそうじゃなくて……」と色々説明してくれるだろう。

こっちも聞き上手になり、友達解説が終わったら「なるほど、そういうことか!」と言えば会話がまとまるよ。

増田アニメを勧めてきた友達は、今はまだ「俺の好きなアニメ増田に勧めよう!」レベルかもしれないが、

増田が色々と細かく突っ込む事で(それを繰り返す事で)、「増田はこういうアニメを求めてるんだな」と学習するようになるから

増田に合わないアニメ”を勧めてくる頻度は減るんじゃないかなぁ。

あと、自分のほうから自分の好きなアニメ”をたくさん挙げて、自分の好みを相手に教えるのもアリだな。

俺は友達に勧められたアニメが「内容は糞だったが、OPはすごく良かった!」時に、

友達に「OPめちゃくちゃ良いな! CD買ったわ!」と言った事がある。

合わなかった部分(内容)にはほとんど触れず、自分が良かったと思う点だけ絶賛する「一点突破スタイルな。


色々書いたけど、

自分には合わなかったとしても「相手の好きなものを認める」姿勢ってのは、そいつと付き合っていく上で大切よ。

最悪なのは、「全然面白くなかった。お前の勧めるアニメホント糞だな」と全否定する事だな。言われたら嫌な気分になるし。

2016-07-05

司馬遼太郎だかなんだかの坂本龍馬小説で、ラストシーンだけ見て、ふむふむ史実と同じようにしてるんだなと満足した

本編は読んでない

2016-06-12

俺がアニメ映画を挙げる

名作駄作問題作など問わず、なんとなくみんなに見てほしいものを挙げていく。

この映画の話で盛り上がりたいって感じのノリで。

TVシリーズ劇場版とかもあるので単体で見て面白いかとかもあまり気にしてないので御承知を。

老人Z (1991年) 80分

寝たきり老人・高沢喜十郎はある日突然最新型介護ロボット「Z-001号機」のモニターに選ばれ、ボランティアで介護を行っていた看護学校生の晴子はお役御免となるが、介護ロボットに全てを世話される喜十郎をかわいそうに思い、彼の救出を決意する。ところが介護ロボットが暴走をし始めて……。

という高齢化社会を痛烈に批判したSF作品……かと思いきや、作品自体は完全なるコメディで、見ていて超楽しい

大友克洋メカニックデザイン江口寿史キャラクターデザインという豪華なコンビで、作画的にも沖浦啓之、今敏、黄瀬和哉井上俊之鶴巻和哉、本田雄、森本晃司大友克洋中澤一登松本憲生……と挙げきれないほど有名なアニメーターが参加していて、クレジットだけで作画オタクはご飯3杯は余裕である

江口寿史によるキャラクターがとてもよく、まず主人公の晴子がめちゃくちゃかわいい。そして元気な老人たちの存在感、さらには晴子の友達の絶妙なブサイクさ。

80分という時間も絶妙で、気軽に見てほしい。社会問題を扱いながらも妙に心が温まる不思議な作品。

東京ゴッドファーザーズ2003年) 92分

いわずと知れた夭折の天才・今敏監督作品。彼の監督したアニメ映画は4つしかなく、1日あれば容易くファンを名乗れるのですぐツタヤで借りてファンになりましょう。

彼の映画はどれもが90分前後という上映時間でありながら、非常に濃い。

その中でも東京ゴッドファーザーズは視聴後の多幸感にかけてはピカイチで、一番エンターテインメントとしてわかりやすい作品と言えるかもしれない。

次々と転がり込む御都合主義のような幸運。これが気持ちいいのだ。

メインキャストを務める江守徹、梅垣義明岡本綾といったメンツも、非常にいい仕事をしている。

毎年クリスマスにはこれをテレビ放送しましょう。

マインド・ゲーム (2004年) 103分

近年では四畳半神話大系ピンポンなどの監督で有名な湯浅政明の初監督作品。初監督でありながら、文化庁メディア芸術祭ハウルの動く城イノセンススチームボーイをおさえて大賞を手にした。

何よりすごいのは映像で、イマジネーションに溢れたその映像はどんな言葉よりも説得力がある。

後に著作・四畳半神話大系が湯浅監督によってアニメ化されることになる森見登美彦氏も、「迫力でちょっと怖がった」そうである

最初はその独特な世界に戸惑うかもしれないが、終盤の脱出シーンを見ればもはや何も文句は言えまい。

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

説明不要のうる星やつら劇場版。押井守監督の最高傑作として名前が挙がることも多い。

映画としての評価は大変に高いが、これがうる星やつらなのかといわれると、別の何かなのかもしれないという感じがしてくる。

お祭りのわちゃわちゃの中に、不意に違和感を感じさせるものが入ってきて異世界に入り込んでしまったようになる。そういう描写がたまらなく好きである

意味がなさそうでありそうな、哲学的な長セリフも本作の特徴で、言葉にできない不思議な魅力が詰まっている。

特にCV:千葉繁メガネの語りは必聴である

コクリコ坂から (2011年) 91分

宮崎吾朗の才能を信じてもいいかもしれない、と感じさせてくれた一作。ジブリファンも本人もどうしても宮崎駿の影を追ってしまわざるを得ない環境の中、よくこれを作った。

そもそも脚本に宮崎駿が参加しているし、プロデューサー鈴木敏夫だし、どう考えても往年のジブリ作品の系統として作られたのは間違いない。

おそらくは宮崎吾朗が制作を完全に仕切っていたわけではないのだろう。しかし、映画の端々には宮崎吾朗の味が感じ取れる気がするのでこの映画は何かすごい好きである

カルチェラタンの描写には明らかに押井守の影響が感じ取れるしね。

『ローニャ』国際エミー賞子どもアニメーション部門受賞おめでとうございます。

ねらわれた学園 (2012年) 106分

眉村卓の小説『ねらわれた学園』を原作としたほぼオリジナルアニメ

原作のSFっぽい感じは薄まっているが、逆に薄めたことでSF的な部分がわかりにくくなった。

あいうら』『灰と幻想のグリムガル』でおなじみの監督:中村亮介キャラデザ細居美恵子コンビと言えば映像目的だけで見たくなる人もいるだろう。

ふとももに注目せよ。まずはそれだけでいい。

健康的なフェティシズムに溢れたキャラクターと美麗な映像を堪能あれ。

ガラスの花と壊す世界 (2016年) 67分

ポニーキャニオンが開催したアニメ化大賞という賞で大賞を受賞した『D.backup』を原案にしたオリジナルアニメ

原案の拡張性ある世界観と、(おそらくは)予算的にギリギリだった1時間という枠と、とにかくキャラクターのかわいさを押し出したいポニーキャニオンと、映像の美しさを追求したい石浜真史監督とが相乗効果を生んだような生んでいないような作品。

序盤はありがちな魔法少女的なSF作品かと思うかもしれないが、終盤には急展開が続き、頭が追いつかない。

それもそのはず、脚本の志茂文彦によれば、映画の後半部分はほとんどコンテ段階で監督が構成したものらしいのだ。

序盤の丁寧な世界観説明と比べて、終盤がややこしいのは、監督がセリフに落とさず映像に込めた部分が多かったからなのである

さらに、後のトークイベントでは、コンテにすら描かれず、スタッフにしか伝えられていない裏設定が大量にあることが明かされ、「偏差値70のアニメ」との烙印が押された。

宇宙ショーへようこそ (2010年) 136分

監督:舛成孝二、脚本:倉田英之キャラデザ石浜真史という『R・O・D』トリオで制作された劇場アニメ

舛成・倉田は『かみちゅ!』というTVアニメを手掛けていて、劇場公開に合わせてNHKBSでかみちゅ!が再放送されたりBDが発売されたりした。

黒沢ともよの声優デビュー作品でもある。当時はまだ子役であった。

夏休みの子供向け映画といった趣であったが、子供に136分は明らかに長すぎる。ある程度のアニメファンならばこの尺は耐えられるし、楽しめるだろうと思われる。

作画がぶっ飛び過ぎていて、作画的にはスペースダンディ劇場版とでもいうべきレベルである

そして、主人公の少女の健康的なエロさがなんとなくにじみ出ていて、制作者はロリコンなのか?という疑惑が湧いてこないこともない。

海外の映画祭に出品されたりして、結構アニプレックスが期待していたのが窺えるが、やはりなかなか商業的には上手くいかなかったようだ。

上映時間の長さや、超新星爆発についての描写などの細かい部分を除けば、十分に面白い作品であるといえる。

涼宮ハルヒの消失 (2010年) 162分

3時間弱。長い。が、しかし、エンドレスエイトを経験したファンの不安を一掃するほどの高クオリティアニメ化された作品である

それまでの京アニの集大成といってもいい。内容については特に言うことはない。

たまこラブストーリー2014年) 83分

けいおん!で注目された山田尚子監督によるオリジナルTVアニメたまこまーけっと』の劇場版

たまこまーけっと』ではいまいちヒットせず微妙な評価に留まっていたが、これが公開されるとたちまち好評となり、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では新人賞を受賞した。

TVシリーズは、舞台となる「うさぎ商店街」の絶妙で温かな空気感を楽しむ作品であったが、本作ではわかりやすくラブストーリーにしたことで、デートムービーとしても見られる非常に間口の広い作品となった。

どちらの方が良かったとかではなく、単なる魅力の伝わりやすさの違いである。

とはいえ『たまこラブストーリー』は卓越した作品であり、山田尚子の代表作として語り継がれるのは間違いないと思われる。

サカサマのパテマ (2013年) 99分

イヴの時間』などで知られる吉浦康裕監督作品。彼の作品の特徴は何といっても「発想」にあると思う。

独特の間も特徴ではあるが、基本的に彼の作品はある「ギミック」が作品の根本となっていることが多い。

なので、下手に前情報を入れて見に行くよりは、何も知らずに見て新鮮な驚きを感じた方が良い。

この作品もあるギミックが重要なのでそこを面白いと思うかどうか、そこが評価の分かれ目である

Wake Up, Girls!劇場版 青春の影Beyond the Bottom (2015年) 54分/53分

つい先日無期限の休養を発表したヤマカンこと山本寛監督の、いわずと知れたアイドルアニメである

彼についての悪評やバッシングは絶えないが、個人的には彼の作品は好きである

この『Wake Up, Girls!』というシリーズは、まずTVシリーズの前日譚として『七人のアイドル』という中編映画があり、続いてTVシリーズ全12話、そして続劇場版の中編2作といった流れである

TVシリーズ放映時は緊迫したスケジュールによる作画の乱れで物議を醸したが(BDでは修正された)、続劇場版(特に前篇)では非常によく動く。

このまま彼がアニメ制作の現場に戻らないとすれば本作が彼の遺作となってしまうが、遺作の呼び名に恥じない出来の作品であるということは声高に主張したい。

ハイパーリンク」と称してキャラクター中の人パーソナリティや実際の出来事を反映する手法の効果は、続劇場版で見事に結実した。

アニメ創作性と現実の偶然性が合わさってとても気持ちの良いサクセスストーリーになっているのだ。

後篇の『Beyond the Bottom』は田中秀和による同名の主題歌も相まって、非常に神々しい輝きを放っている。

神前暁も「これを超える曲をこの先作るのは大変」と太鼓判を打った。

劇場版美少女戦士セーラームーンR (1993年) 60分

アニメ界の王子、イクニこと幾原邦彦が初めて監督を務めた劇場作品である

この時点から彼の演劇的な作品づくりの手法は発揮されている。

庵野秀明映画館で本作を3度も観たらしく、緒方恵美が演じた衛の少年時代の声を聴いて『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役に抜擢したというのは有名な話である

少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録 (1999年) 85分

同じく幾原邦彦監督作品である少女革命ウテナ』の劇場版

TVシリーズ再構成ではなく、全く新しい解釈で制作されたオリジナル作品

作画的な制約もあったTVシリーズと比べ、かなり大胆に脚色され、より過激となった映像美はまさに唯一無二。

突き抜けすぎて、終盤の車のところでは何が何だか分からなくなってポカンとしてしまう人も少なくないという。

「王子」こと及川光博ゲスト声優として出演しているのもポイント

映画ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー・・・ですか!? (2010年) 71分

京騒戯画』『血界戦線』などで知られる東映アニメーション出身の気鋭の演出家松本理恵の監督デビュー作品。当時25歳。

『ハトプリ』はプリキュアシリーズでも人気の高い作品のひとつだが、この劇場版も非常に人気が高い。

パリを舞台にしていて、OPでのスタッフクレジットが背景に溶け込んでいる演出の時点で何かが違うぞと感じさせる。

メインキャラクターTVシリーズでの成長・感情の変化をきちんと物語に取り入れつつ、本作オリジナルキャラクターであるオリヴィエサラマンダー伯爵の切ない関係を描き、多くの視聴者の胸を打った。

アイカツ! ミュージックアワード みんなで賞をもらっちゃいまSHOW! (2015年) 56分

劇場版アイカツ!』でなくてなぜこれを挙げるのか、疑問にお思いだろう。

というのも、私は熱心な『アイカツ!フリークで、アイカツ!を見始めたのなら劇場版アイカツ!を見るのはもはや自然な流れで、あえて挙げることではないという認識でいるからだ。

ということで、あえてアイカツ!を見る入り口として薦めるのであれば、CGステージをかき集めたこれが良いだろうと思い、挙げた次第である

アイカツ!の楽曲のジャンルの幅広さ、CGステージでの綿密に練られたカメラワーク、そしてアイカツ!という作品世界の持つ空気感を少しでも感じてくれれば後は言うことはない。

劇場版 カードキャプターさくら 封印されたカード (2000年) 82分

少女向けアニメ最高傑作との呼び声も高い『カードキャプターさくら』、その集大成となる第2弾劇場作品。

ラストシーンでは年齢性別問わず多くのお友達をキュン死させ、多くの大きなお友達はそのままゾンビとなった。

セルアニメの末期に生まれた大傑作である

劇場版ポケットモンスター 結晶塔の帝王 ENTEI (2000年) 70分

ポケモンの映画といえばミュウツーの逆襲だったり水の都の護神を挙げる人が多いが、私はこの作品を挙げる。

70分という短さに詰め込まれた「家族愛」というテーマは、子供よりもむしろ親の方に深く響いたことだろう。

当時劇場で見てリザードンに興奮した子供たちも、今改めてみればまた別の感動を味わうに違いないはず。

楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星 (1992年) 62分

テレビアニメ楽しいムーミン一家』の劇場版であるが、本作はテレビアニメの前日譚となるエピソード映画化である

楽しいムーミン一家』はもっと語られていい傑作アニメであり、本作ももっと多くの人に知られて欲しい。(旧ムーミンファンには申し訳ないが……)

子安武人演じるスナフキンによるシュールな悪口が聴けるのもこの作品。

白鳥英美子さんの主題歌もとてもいい。

劇場版銀河鉄道999 (1979年) 129分

いわずと知れた名作『ルパン三世 カリオストロの城』と同じ1979年に公開されたアニメ映画である

実はこの年の邦画の配給収入で1位を獲得している。

70年代を生きたアニメファンにとっては有名も有名だが、今では知名度カリオストロよりも低くなってしまっていて、金曜ロードショー恐るべしといった感じである

エンディング流れるゴダイゴのあの有名な主題歌を聴いた時、あなたはきっと涙を流しているはず。

劇場版エースをねらえ! (1979年) 88分

90分弱に詰め込まれた圧倒的な熱量!THE出崎統

世界はもっと出崎統を評価せよ。

BD・DVDがプレミア化し、配信・レンタルでも見られなかった傑作が、ようやく今年BDの再発売によって見やすくなった。

7月22日発売です。

2016-05-24

『レヴェナントテーマ解説(2)(ディカプリオのテーマ編)

※「『レヴェナントテーマ解説(1)(イニャリトゥ監督テーマ編)(http://anond.hatelabo.jp/20160523231652)」の続きです。

ポイント1 この文書は何?

『レヴェナント』には、前編で書いた親子愛というテーマのほかに、「資本主義環境問題」というテーマがあります。ただ、このテーマはイニャリトゥ監督自身テーマというより、ディカプリオのテーマが混入したものではないかと思い、文書を分けて説明することにしました。

ポイント2 何で「資本主義環境問題」というテーマがあるって分かるの?

まず監督自身インタビューでそう言っています。加えて、映画の中にも2つ根拠があります

1つは、毛皮商人インディアンとの戦いがサブストーリーとしてあったことです。これは露骨資本主義環境問題対立を描いています

もう1つは、主人公グラス(ディカプリオ)がバッファローの大群に驚くシーンがあった後に、バッファロー頭蓋骨の山を定期的に夢に見るようになってしまい、悩むことです。この背景にはアメリカで実際に行われたバッファロー掃討作戦Wikipediaアメリカバイソンの項目を参照)があります。毛皮商人の一味であったグラスが、バッファローの勇猛さを目の当たりにして、自分が手を貸してきたことの重大さに気が付き、後悔するシーンではないでしょうか。

(加えて、劇中に出てきた「朽ち果て教会」が、タルコフスキーの『ノスタルジアから引用とみて、自然について語ろうとしているのだという見解も見られましたが、そこまで言っていいのか自信がありません)。

ポイント3 これがディカプリオのテーマだという根拠は何?

筆者の妄想です。

ただ、イニャリトゥ監督デビュー作『アモーレス・ペロスから前作『バードマン』まで、環境問題テーマとして扱ったことがありません。というか監督は親子の問題ばかりをテーマにしていて、そんなに環境問題には興味がなかったと思われます偏見)。おそらく監督的には「今回は、大自然の中で、親子愛をテーマにして、『デルス・ウザーラ』みたいな映画が撮りたいぞ」ぐらいの気持ちだったのではないでしょうか。

そこにばりばりのエコロジストであるディカプリオが参加したことで、シナリオに影響を与えていったものと思われます

ポイント4 ディカプリオのテーマかどうかはともかく、結果テーマが複線的になったわけだけど、どうなの?

映像的には、バッファローの大群、頭蓋骨の山、朽ち果て教会など、感動的・印象的なシーンが増えてよかったと思います。背景に映る雄大な自然にも意味が出てきて、それもよかったかと思います

ただ、ストーリーはこれによりかなり難解になりました。特にラストシーンにおけるグラスの状況を考えると、①生きる意味(息子・復讐)を相次いで失ったことで精神崩壊しかかっているが、②自然の偉大さに感銘を受け自らの行いを悔いるエコロジストになっている、という複雑なことになっており、テーマが分かりにくくなっています


おわり

2016-05-23

『レヴェナント』のテーマ考察

『レヴェナント』を観た。

監督の前作『バードマン』に比べて難解で、現段階ではテーマがさっぱり分からないのだが、主に海外サイト議論を参考に、テーマ考察をまとめておくことにした(これを踏まえてオーディオコメンタリーインタビューが出るのを待つことにする)。

そこで以下、結論難解な理由、様々な視点から問題提起、現段階で考えられるテーマ妄想)の順に書いていくことにする。

1. 結論(先出し、めんどくさい人はここだけ読めばOK)

考えながら書いたので、思ったより文章が長くなってしまった。結論を先に書いておく。

(1) 『レヴェナント』はどういう物語

『レヴェナント』をそのテーマに基づいて要約すると次のようになる。

主人公グラスは、その人生の全てであった息子ホークを殺されたことで、生きる意味を見失い、死亡する。 しかし、息子を愛する気持ちにより、死と再生を繰り返し、野生動物に生まれ変わってまで生き残り、宿敵フィッツジェラルドのもとにたどり着く。

最後の戦いではフィッツジェラルド瀕死の重傷を負わせた末、神の代行者リーによる神罰を引き寄せ、息子の敵を討つ。 息子を失い、復讐という目的も失ったグラスの精神崩壊し、(ブチャラティ的な意味で生き延びていた)肉体もついに死を遂げる。

(2) 『レヴェナント』のテーマは何か

本作のテーマは、親が子を愛する気持ちいかに強く、大きいものか、ということである

2. 難解な理由

(1) 単純なテーマに落とし込みづらい

『レヴェナント』のストーリーを単純に言えば、「復讐心に捕らわれた男が、大自然の中で死闘を繰り広げるが、最終的に復讐をやめる話」である(図式的に表現すれば、『大いなる勇者』+『デルス・ウザーラである)。

このストーリーを見たとき、すぐ連想するテーマは、①復讐のむなしさであったり、②大自然と対比された文明批判である

しかし、①復讐のむなしさがテーマだと言い張ることには疑問が多い。というのも、(後述するように)復讐をやめた後の主人公の表情は発狂寸前のそれである復讐を完遂して破滅するか、中止して救われるかの方がテーマとしては明確なはずである)し、監督自身インタビュー復讐物語を描くこと自体には興味がないと答えているからだ。

さらに、②文明批判テーマだと言うのも苦しい。というのも、この映画には文明に対する疑問が提示されることがないからだ(『デルス・ウザーラ』のデルス、『大いなる勇者』のジョンソンのように、文明対立する人物が出てこない)。

ということで、『レヴェナント』は単純なテーマ理解することが困難である

(2) 解釈に影響を与えそうな要素が満載

『レヴェナント』は昔の映画からたくさん引用をしている上、宗教的意味ありげな要素がたくさん散りばめられている。さら監督過去作品との整合性まで考慮に入れるとすると、どの要素にどの程度力点を置いて物語解釈すれば良いのか分からないという問題があり、これがテーマ理解の妨げとなっている。

(3) 特にタルコフスキー引用が難解

(2)と関連するが、『レヴェナント』ではタルコフスキーの諸作品(『僕の村は戦場だった』、『鏡』、『ノスタルジア』、『アンドレイ・ルブリョフ』)から引用が多数なされている(これを分かりやすくまとめた動画がある:https://vimeo.com/153979733)。

しかタルコフスキー作品と言えば、それ自体が難解映画の筆頭である。そこから引用となると、どういう意図なのか(タルコフスキー意図をそのまま継いでいるのか、ただタルコフスキー表現が気に入ってやりたかっただけなのか)が皆目検討がつかないのだ。

3. 様々な視点から問題提起

そういうわけで、『レヴェナント』は難解な映画なのだが、海外ファンサイトでいくつか有力な問題提起がなされていたこから、これをいくつかまとめておく。

(1) [視点Ⅰ] イニャリトゥ監督過去作品から見る

ア. うまくいかない親子の関係

まず、イニャリトゥ監督過去作品では、「うまくいかない親子の関係」が描かれることが多い。

監督の前作『バードマン』では、監督そっくりの父親が、娘に全く愛されず尊敬もされていないことに気が付き、悩む様が描かれる。また、デビュー作『アモーレス・ペロス』では、マルクスそっくりの元反政府活動家が、活動のために家族を捨てたことで愛する娘と会えず、悲しむ様が描かれている。

これらの作品に比べ、『レヴェナント』は異質である。というのも、主人公グラス(ディカプリオ)と息子ホークの関係は互いに愛し合っているからだ。

この点をどう評価するのかがまず1つの問題である問題点α)。

イ. 死と再生

前作『バードマン』で、主人公は、演技に悩んだ末、舞台拳銃自殺をする場面で、拳銃実弾を込めて自分のこめかみに発射する。その死を賭した演技が絶大な評価を受け、主人公は自らの弱さの象徴であるバードマンを打ち倒すことに成功する。

こうした死と再生イメージは、映画でよく用いられるモチーフである(『鏡』、『8 1/2』など)が、『レヴェナント』ではこれが3回(数え方によっては2回とも4回とも)も行われる。

① 熊に襲われ瀕死となり、フィッツジェラルドに埋葬されるが、立ち上がる。② インディアンに追われ、川に流されるが、生還する。③ 崖から落下したのち、馬の中に隠れ、回復する。

ではそれぞれ、何に生まれ変わったのだろうか。前作『バードマン』で主人公は、拳銃自殺ギリギリのことをすることで、弱さ(バードマン)を克服した強い人間に生まれ変わった。では本作ではどうか。

これについて、海外サイト面白い考察があった。グラスは死と再生を繰り返すたびに、野生動物に生まれ変わっているというのである

(ア) 熊

まず最初にグラスは熊に生まれ変わっている。その表れとして、グラスは熊の毛皮を着て、首に熊の爪のネックレスをしている。さらに川で魚を手づかみにし(木彫りの熊)、それを生のまま食べている。

(イ) 狼

次にグラスは狼に生まれ変わっている。その表れとして、インディアンバッファローの肉をもらう際、四つんばいになって人間にへつらっている。そしてインディアンが肉を投げると、これを貪るように食っている。

(ウ) 馬

さらに、グラスは馬に生まれ変わっている。これは冷たい夜を生き抜くために、馬の死体の中に隠れ、後に這い出ていることから明らかである

(エ) 謎の肉食獣

最後の戦いにおいて、グラスは牙と爪で戦う肉食獣に生まれ変わっている。これは、銃を放棄し、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることに表れている。

上記の見方はそれ自体面白い見方だと思うが、これによって何が言いたいのか、というのはまた1つの問題である問題点β)。

なお、グラスが当初の瀕死状態から山を走るところまで回復するのは、死と再生を何度も繰り返すからだという見方があった。

(2) [視点Ⅱ] タルコフスキー引用から見る

先に貼った動画https://vimeo.com/153979733から明らかなように、『レヴェナント』ではタルコフスキー作品から引用が非常に多い。

そのうちよく解釈に影響を与えそうなものとして挙げられるのは、「宙に浮く女性」、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」、「鳥」、「朽ち果て教会」、「隕石である

このうちここで取り上げたいのは、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」である。他の引用解説が面倒くさすぎるので各自ぐぐってほしい。

この表情の元ネタは、『僕の村は戦場だったである。この映画主人公イワンくんは、ソ連少年兵であるが、母と妹をナチスによって殺害されている。問題の表情は、そんなイワンくんがナチス相手戦闘を仕掛けるシミュレーションを1人でしていたときのものである

まり、この表情は、純粋で愛に満ち足りていた少年の心が、ナチスへの復讐心で歪み、壊れかかるときのものである

これをそのまま『レヴェナント』のグラスに類推するならば、グラスの心は最後の戦いの後、壊れかけていたことになる。

しかし、『僕の村は戦場だった』と違い、『レヴェナント』では復讐を止めた後にこの表情をしている。そのため、イワンくんの内心をそのままグラスに類推していいものか、グラスは最後にどういう心境だったのか、という問題が生じる(問題点γ)。

(3) [視点Ⅲ(おまけ)] 監督目標から見る

イニャリトゥ監督インタビューで、目指している映画として以下の5本を挙げている。

黒澤明デルス・ウザーラ』② コッポラ地獄の黙示録』③ タルコフスキーアンドレイ・ルブリョフ』④ ヘルツォークフィッツカラルド』⑤ ヘルツォークアギーレ/神の怒り』

共通点は、いずれも撮影に困難が伴った映画であるということである

①『デルス・ウザーラ』では秋の風景を撮るはずが雪が降ってしまったためソ連軍を動員して人口葉を木に付けた、②『地獄の黙示録』では台風でセットが全て崩壊した、③『アンドレイ・ルブリョフ』ではソ連当局検閲が通らず製作から公開までに10年以上の歳月を要した、④『フィッツカラルド』では実際に巨大蒸気船を滑車を使って山越えさせた、⑤『アギーレ/神の怒り』では撮影過酷から引き上げようとした俳優を銃で脅した、などなどの多数のエピソードがある。

そうすると、「テーマとかどうでもよくて、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃ・・・」という疑念が湧いてくるのである問題点δ)。

(4) [視点Ⅳ] 「復讐神の手にある」の意味から見る

これはグラスが途中で出会った一匹狼のインディアン言葉だが、意味は正直言ってよく分からない。

ただ、ラストシーンでグラスが復讐を委ねた相手インディアンリー誘拐されたポワカの父親である。このことから海外サイトの中には「リー神の手、すなわち、神の復讐の代行者である」との解釈が多く見られた。

(5) [視点Ⅴ] グラスの生きる意味から見る

イニャリトゥ監督作品テーマはいずれも生きる意味にまつわるものであるが、この点に関してグラスが2つの重要言葉を残している。

All I had was my boy... but he took him from me.“

「私にとって息子は全てだった。しかフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」

“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”

「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」

息子が全てだったという台詞は、グラスの生きる意味が息子にあったことを示している。そしてこれは、デビューから親子の関係を描き続けてきた監督自身言葉でもあるだろう。

息子がフィッツジェラルドによって殺害されたことで、グラスは生きる意味を失う。代わりに「復讐」という意味見出したかのようにも見えるが、それによって再生した姿は上述したように、野生動物の姿である

このことからすると、私は既に死んでいるという台詞は、「生きる意味を失ったことで、人としては既に死んだ」ということを意味するのではないだろうか。

(6) [視点Ⅵ] グラスは死んだのか論争から見る

海外サイト掲示板などで最も熱く議論されている論点は、グラスは死んだのか?という点である

これが問題となる理由は、①復讐モノの物語復讐者の死で終わる場合が多いということと、②戦いに勝利したとはいえグラスも致命傷を負っていること、③スタッフロールが始まってもグラスの吐息が聞こえること、といった事情があるからである

さら映画外の理由であるが、④前作『バードマン』においても主人公最後に死んだのか死んでいないのかで論争があったこともこの議論に影響を与えている。

死んだ説に立つ人は①②の事情を挙げ、死んでないよ説に立つ人は③④の事情を挙げている状況にある。

しかし、これもテーマとの関係で考える必要がある(問題点ε)。

4. 現段階で考えられるテーマ妄想

これらを踏まえて、現時点で筆者なりに『レヴェナント』のテーマについて考察してみたいと思う。

(1) 問題点α:監督過去作と違い、『レヴェナント』では親子(グラスとホーク)が愛し合っている。これにより、監督連続して掲げてきた「親子」というテーマ消失・変容したか

結論

① 『レヴェナント』においても主要テーマは「親子」である

「親子」というテーマは『レヴェナント』においても依然として維持されている。

その根拠は、(a)グラスの息子ホークというキャラクター史実存在していないのにわざわざ登場させたこと、(b)監督インタビューに対して、息子を登場させたのは親子関係を題材にすることで物語がより複雑で充実したものになると考えたからだと答えていること、(c)デビューから前作まで延々親子関係テーマにしてきた監督が、ここに来て生涯のテーマを捨てたとは考えにくいこと、である

② しかし、「親子」というテーマに対する切り口が、前作までとは違う。

前作までの切り口は、分かり合えない親子の問題をどう解決するか、というものであった。『レヴェナント』はそうではなく、子供を生きる意味としてきた親が、子を喪失したとき、どうなってしまうのか、という切り口で「親子」というテーマに迫っている。

その根拠は、(a)グラスが息子ホークが人生の全てであったと言及していること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である

(2) 問題点β:グラスは死と再生を繰り返す過程野生動物に生まれ変わっているが、これは何を表現しているのか。

結論:息子ホークを失ったことで、グラスが生きる意味喪失し、結果、人間としては死んだということを表現している。

その根拠は、(a)野生動物へと生まれ変わるタイミングが、息子ホークを失ったことをグラスが認識した時点からであること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である

(3) 問題点γ:ラストシーンでのグラスの表情の意味は何か。

結論:グラスの精神が壊れ(かかっ)ていることを意味している。

その根拠は、(a)元ネタである僕の村は戦場だった』のイワン少年がやはり精神が壊れかかったときにこの表情をしたということ、(b)息子ホークという生きる意味に加え、復讐という一応の生きる目的さえ失ったグラスには、これから生きる意味が何もないこと、である

(4) 問題点ε:グラスは死んだのか。

結論:グラスは死んでいる。

この問題は前作『バードマン』で同様の問題が争われたときと同様、作品テーマから考えなければならない。

前作『バードマン』で主人公の生死について争いになったとき、生きている説が有力となった理由は、作品テーマが「『中年危機』を迎え、娘ともうまくいっていない父親が、この先どう生きていけばいいのか」というものであったという点にある。つまり主人公が死んでしまうとこのテーマとの整合性が取れないのだ。

しかし『レヴェナント』では、主人公は既に自分は既に死んでいる旨を明言し、生きる意味を新たに獲得した様子も認められず、その心は壊れかけている。

ここから解釈が分かれるところだが、『レヴェナント』のテーマは「親が子をいかに愛しているか」という点にあるのではないか

グラスは本人が言うように、息子ホークの死亡を確認した時点で、死んでいた。それにもかかわらず死と再生を繰り返し、フィッツジェラルドのもとにたどり着いたのは息子を愛する精神の力(つまりジョジョ5部のブチャラティ的な意味で生きていただけ)によるものではなかったか

フィッツジェラルドを打ち倒し、インディアンリーによる神罰を引き寄せた時点で、彼の精神崩壊し、肉体的にも精神的にも死亡したのではないだろうか。

(5) 問題点δ(おまけ):監督は、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃないの?

結論:それはインタビュー見てるとそうかもしれない・・・。

5. 結論(再掲)

本作のテーマは、親が子を愛する気持ちいかに強く、大きいものか、ということである

2016-05-17

こんな愚痴コナンで吐くことになるとは思わなかった。

これから書く文章はただの1女オタク(夢女子腐女子兼任のしょうもない愚痴になる。

名探偵コナン純黒の悪夢公開以降あるカップリングがめちゃくちゃ流行ってる。赤安。もともと大好きなCPだったか流行り始めはめちゃくちゃうしかったもののここ数週間の盛り上がりは異常だ。例えるなら黒バス弱ペダとうらぶおそ松の爆発的なヒットに似ている(PixivTwitterでの盛り上がりについての話だ)。

純黒の悪夢は本編にミステリー要素は少ないながらもド派手なアクションシーン、天海祐希という史上最高のゲスト声優による迫真の演技、少年探偵団たちの活躍博士の有能さ、そして何より赤井秀一安室透の直接対決からの共闘が見られるかなりエンターテイメント性の高い映画だった(個人の感想です)。初見ときには涙を流し放心してしまった。というのも私は赤井秀一が大好きで去年からこの作品の公開を楽しみにし続けてきたかである。私は人生殆どコナンと歩んできたといっても過言ではない年齢なのだが、初恋怪盗キッド運命の人白馬探、永遠の憧れが赤井秀一、好みのタイプは沖矢昴というただの悲しい女オタクであり、さらに腐っているので冒頭に述べた赤安もおいしくいただいていた。

純黒公開前までは。

公開から日経ってから見に行ったのだが、ネタバレ回避のため離れていたTwitterPixivを鑑賞後に見て驚く。

(((赤安増えすぎじゃね…????????)))

初めのうちはあまり気にしておらず、むしろ好きなCPキャラクターイラストがたくさん見られてうれしいな~くらいに思っていた。ところがどうだ、実際増えたのは赤安赤安赤安赤安そそて赤安。赤井秀一安室透単体ではない。どれもこれもCP要素のあるものばかり。そして赤井秀一は右利きにされ安室透は若干色が白い(私の記憶が正しければ服部平次安室透は同じトーン)。

それはなぜか。答えは簡単、”今までコナンにあまり興味は無く、せいぜい幼いころに見ていた程度の層"が,今回"純黒を流行りに乗って見たところ赤井安室関係性を好きになり”そして”まとめサイトなどを適当に読んで知識をつけ(たつもりになり)それにより赤安を語ろうとしているから”だ。少なくとも私にはそう見える。(実際Pixivコナンに興味はなかったけれどまとめサイトだけ読んだので~という文章を見た。)

もちろん全員が全員そうではないだろうし純黒を見る前からもともと好きだったという人はたくさんいるとは思うのだがあまりにも”適当にわか”が多すぎる気がしてならない。

前述したとおり私は殆ど人生コナンとともに歩んできたが、それを別に驕るつもりはないし別ににわかだって増えていい、ただキャラを、CPを語る前にまずキャラを好きになってほしいと願うだけだし本当に好きなのかを1回落ち着いて考えてみてほしいだけだ。人生とも呼べる1作品流行になって消費しつくされすたれてしまうのが嫌で、これまでそうなった作品のように荒れてしまうのも本当に嫌だ。つらい。まじでつらい。自分みたいなファン所謂厄介な老害といわれるのもわかる。すまない。それでももう少しだけ書かせてほしい。

別に人生をやり直して赤井秀一との出会いと別れと再会をリアルタイム体験してこいとは言わない(実際体験できないのは本当にかわいそうだと思うしそこに優越感を感じるのは許されていいと思うし沖矢昴の正体を最初から赤井秀一だと知って見るのはまったくもって悲しいことだなと思う)。それでも今からゆっくりでも原作コミックアニメを見返すことはできると思う。最近赤井秀一安室透に関しては赤と黒~、ミステリートレイン緋色~を見ておけば良いという輩がいるらしいがいいわけがない。初登場のあの怪しい赤井秀一を見てほしい。赤井秀一を知ってほしい。赤安が好きというのであれば赤井秀一安室透を自分の目でどんな人物であるか見極めてほしい。

面倒だなと思うかもしれないがこんなことを言わせてしまうほど魅力的な男なんだよ赤井秀一は。異次元狙撃手を初めて劇場で観たとき、あのラストシーンで泣いたあの時の気持ちを少しでもいいからこれから赤井秀一を好きになる人たちにわかってほしい。




5.18 追記

こんな戯言が多くの方に読んでいただけているようで驚きました。

(ちょっと気になるコメントにたいして)

①一応、ただ「ニワカが大好きなCPを私が想ってるのと違う形で消費するの耐えられない」というだけの文章ではないのでご所望の通り改行を入れ、ほんの少しですが読みやすくしてみました。

キャラを本当に愛した上であなたの仰る「強制ホモ妄想」が出来てしまうのが腐女子だと思っています。厄介な生き物ですみません

面倒なりに私はこれからコナンを愛していきますありがとうございました。

2016-02-07

円盤初動8万が全て腐女子とも思えない

http://anond.hatelabo.jp/20160203203430

オレなりに推測するヒット要因は,

  1. 昭和キャラデザ
    1. 40代以上の人には懐かしい.それ以下の人は見たことがなくて逆に新鮮.
  1. 「ほのぼの」とも「シュール」とも「殺伐」とも解釈できるストーリー
    1. 例えばエスパーにゃんこの話とかだと,オレみたいな40代以上の人間には,ラストに出てくる傷だらけのカラ松の叫びは本筋に関係ないシーンに見えて無視してしまう.そして一松とにゃんこ友情だけ見てほのぼの話だと思ってしまう(オレは初見ではそうだった)
    2. しかラストシーンのカラ松の惨めさに注目してみると,制作陣の「いい話だと思った? 残念! 兄弟がカラ松をハブり続けるひどい話でした!」と,何通りも解釈ができるストーリー作りがされている.
    3. 視聴者はそれぞれ好きな様に解釈できるし,それによって幾つものから支持を受けることができたのだ

2016-01-25

魔女宅分かってない奴多すぎる問題

魔女宅がどういう話なのか分かってない奴が多すぎるのでまとめとくことにする.

ギブアンドテイクが基本の社会への入門物語

魔女宅は徹底的にギブアンドテイクが貫かれている.

当たり前だが街について宿泊するにはお金必要だし,

おそのさんのパン屋への居候も店番をするっていうのが条件.(かなり甘いけど)

クロネコ人形を直して貰うのも部屋の掃除をさせているし,

近いから歩いて行けるので運賃は要らない,とキキが言ってもダメだとしっかり諭す.

子供のうちは無償善意を受けることができるが,社会に出たらそうはいかないということを序盤からしっかりたたき込んでくる.

この頃のこの手のアニメだと序盤でそういう扱いを受けても割と優しい人から無償善意を受けて話を進めるんだけど,

宮崎駿はそれをしなかった.おそのさんはとてもいい人だけど昼飯と夜飯は自分で用意しろ,ってことだしね.

まぁ,そういう背景があるのでラストシーンがより際立ってたりする.

テクノロジーによって無くなりつつある文化

キキの母親魔法で薬を作るのを生業にしてるけれど,私の代で終わり,と言っている.

これはキキが覚えようとしなかったっていうのもあるんだろうけれど,恐らく薬学が進んで魔女の薬が必要無くなったんだと思われる.

薬を貰っているおばあちゃんが「私にはあなたの薬が良く効く」という台詞を喋るのもそういう背景があるんだろう.

魔女しか作れない,作用機序も分からない薬よりも,薬学で作られた薬をみんなが使う.

しかしたら効き目も負けているかもしれない.もう魔女の薬は要らないんだろう.そんな悲しい想像ができてしまう.

というか,現実社会でもよくある話だと思う.

そして,キキが空を飛べるというのももはや特別なことでは無い.

飛行機飛行船で人は誰でも空を飛べるようになり,トンボのような少年でも飛行機を作っている.

この世界ではそのうち小型のヘリコプターぐらいは作られるかもしれない.そうすれば空を飛ぶことは魔女特権ではなくなる.

そんな悲しい背景があるが,もちろんキキがそんなことを考えてもどうしようもない.

キキに出来ることは空を飛べることで,その特技を活かして宅急便を行うことを生業にするしかない.

ただ,前を見て今の仕事を続けるしかない.

そんな気持ちを抱えているからこそ,突然のスランプに陥ったキキの焦り様や,

トンボを助けなければいけないという必死さが生み出した,デッキブラシという現代テクノロジーが生み出した箒にまたがって空を飛ぶという,なんともいえないラストシーンが産まれたんだと思う.

社会貢献生き方

この2つを踏まえつつ魔女宅を見れば,人間が成長して社会進出すると共にどのように社会と関わり,

社会貢献していくべきかを表した映画と捉えることができると思う.

ラストシーンではキキが街に馴染んで逞しく生活している様子が見て取れる.

あれだけのことをやったんだから宅急便なんてやめてレスキュー隊っぽい活動公的お金を貰うという考えもあっただろう.

街の小さい子供コスプレするぐらいに人気が出ているわけだし.

しか彼女宅急便を続けていることが,現代に生きる私たちにもある種の生きる希望を持たせていると思えなく無い.

もちろんこの他にも,ギブアンドテイクから外れている金持ちボンボンども(トンボもそのうちの1人だと思われるが)だとか,

とにかくそういうのが嫌で山に籠もって対人関係を断ち切って生きていく画家だったりだとか,考えさせられることが多い作品だと思う.

まりそういことを考えながら見たことが無い人は,是非次に見るときはそういうところにも注目して欲しい.

ラストシーンでは必ず泣くことを保証する.

2016-01-07

ニコニコキングオブコメディが終了した日に書いたポエミーな雑文

今思えば、青年は深く深く傷ついていたんだろう。

そんなふうには見えなかった。

彼が発する言葉不思議と優しくて、あたたかくて。

彼の中にもともとある感受性は、たくさんの人を笑わせた。幸せにした。

僕も、彼に救われていた。

生きる限り傷は癒えるように人間は出来ている。

必要時間は人それぞれだ。

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僕のことを少し、書く。大した話ではない。

小学校の時に犬を飼っていた。と言っても迷い犬に餌をあげていただけだ。

親に飼いたいと頼んだが許されなかった。そのうち保健所に連れて行かれた。

保健所を呼んだ家に盛大に落書きをして、怒られた。

寝る前に頭に浮かぶ。僕の犬は保健所で殺された。想像したラストシーンはやがて映像となり、頭に焼きついた。この映像に何年も苦しんだ。

数年後、家に子犬がやってきた。

僕には許されなかったのに、なぜ?

大人になってだいぶ経ってから、僕はようやく家を出た。正解だった。

家を出ることで整理できた感情がたくさんあった。

今は全然平気。3年に一度ふと思い出し少し泣く程度。

青年が昔負った傷に比べたら、本当に本当に、ちっぽけな傷だと思う。

なのに「平気だ」と思うまでに何年もかかった。

から僕は青年健全さや強さを心から尊敬していた。

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青年が重ねた罪は、心を保つためだったんじゃないのか、と誰かが言った。真相はわからない。

「ここから血が流れてる」「痛いんだ」「助けて」

言ったら笑われそうだと、思いこんでいたのかもしれない。

僕がそうだったから、そう思ってしまう。

男の子がそんな事で泣くんじゃない」「長男なんだから我慢しなさい」「大人がそんな事で喚くんじゃない」

って、決まり文句で人は言うからね。本当は、泣いてもいいんだよ。

青年は、過去の傷を、本能自己治癒力だけで治そうともがき続けていたんじゃないのか。

青年が家を飛び出さなかったのは、この傷を克服してやるという決意だったんじゃないか

あくまで、憶測だけれども。

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青年の心を、救っていた人は沢山いた、と思う。

一番彼の事を救っていたのは、彼の横に居た、笑顔可愛い年下の青年だろう。

共鳴した2人は「幸せにしてください」と、冗談めかして呟いた。

青年たちの冗談は評判になった。

僕たちは、冗談を言う青年たちが大好きだった。

だって青年が抱えていた闇の深さに慄きながら、嫌いにはなれずにいるのだ。

今思えば、青年は「自分なんかが愛されてはいけない」という内容の冗談をよく言っていた。

でもそんな言葉すらいつも面白くて僕らは笑った。

境遇の悲しみも卑屈さも、笑いに変えてしま青年の強さに僕は力を貰った。

今もう一度聞くと、訳が分からない。彼の悲鳴に聞こえる部分もあった。

深い闇に1本のタイトロープ、ねぇ何故そんな場所に、

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どうか彼が、1日も早く、彼を苦しめる心の闇から抜け出せる日がやってきますように。

そしてどうかどうか青年を愛した全ての人が、青年を救えなかったと自分を責めたりしませんように。

きっと、青年は救われていた。

僕は笑顔可愛い年下の青年の事が大好きなんだ。

あの日颯爽と、僕たちの心に寄り添ったキングオブコメディ今野は本当にかっこよかった。

キングオブコメディのことが好きだった僕たちにしかからない華麗な方法だった。)

ますます、大好きになった。きっとこれからも大好きなままだ。

そして僕は、笑顔の下手な年上の青年の事が、気になって仕方なくて胸を痛めている。

あなたの本当の幸せを、平穏を、心から祈る。そしてまた何処かで、僕たちの前じゃなくて良い、冗談を言って笑ってくれますように。

笑顔が下手だって言ったけど、訂正する。作り笑いが下手なだけで、自然と出た笑顔可愛いってみんな知ってるんだぜ。)


生きる限りいつか傷は癒えると、僕は思っている。

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