はてなキーワード: ラストシーンとは
具体例を書かないとなんの事だかという話な気がしたので書いてしまうと「四谷快談」か「陽だまりの彼女」を読んでいてこういう気分になった。四谷怪談はウェブマンガで無料で読める(リンク )。陽だまりの彼女は市販の小説。勧めるわけじゃあないから読んでがっかりしても知らん。
#### 以下ネタバレ注意
正確に言うとタイトルは少し誤りで、ハッピーエンドだと思い込んで読み進めていると最後の最後でどんでん返しが起こってバッドエンドだったとか、あるいは最後の最後で鬱になってそこから好転せずにそのまま終了みたいなのに残念だなあと。もちろん逆もあるかも。
物語って2種類あると思っていて、1つはどういう結末か全く読めないもの。もう1つは読めちゃうもの。少年漫画とかラブコメとかは後者がほとんどなのでは無いかと。
で、上で挙げた2つの作品はハッピーエンドだと(後者だと)思っていたのに裏切った作品ね。まあお前が勝手に勘違いしただけだろという結論になってしまえばこの話は全くの無意味になってしまうのだけれど、そこら辺も他の人の意見聞きたい。
誤解されたら困るのだけれど私はそういう結末が嫌いなんじゃなくてハッピーエンドだと思わせるレールを敷いていて、最後の最後でレールをぺらぺらーっと剥がしきって、かつそこに説得力が無いのが読んでいてがっかりする(この文章がそうでない事を祈る)。それが作品の途中であればともかくラストのラストでこれをぶち込んでくると「は?」ってなってしまう(この文章がそうでない事を祈る)。四谷快談に関して、少なくとも私は本当に最後の最後までそういう結末になるとは思わなかった。それが何故なのかはうまく説明できない。もちろんラストの直前まで読んでそう思ったわけだけれど、タイトルであったり絵柄であったりの要素はアルだろうと思っている。けど、読んだら私と同じような思いになるのでは無いかと。後半から鬱の話はあったけれどそれが話の中心だとは思っていなくて基本は「快談」だと思っていたから、だから最後まで読んではしごを外された気分。
絵柄とかキャラクターは大変好みだったから非常に残念。何がしたかったのって思ってしまう。切なさを出したくてああなってしまったのかな?。あるいは鬱エンドにしたかったという説もあって、それはどうしてそう思ったのかというと四谷快談を読んだ後に作者のpixivやブクログを読んで鬱な話がお好きなのかなと思ったからだ。あと個人的には「打ち切り説」と「そろそろ終わらせたかった説」もある。
陽だまりの彼女に関してはちゃんと読んだのが数年前だからもしかしたら違ったか、あるいは的外れだったかもしれない。四谷怪談を読んでいてこの残念感が似ているなと思った。あとがきでこのラストは私みたいな動物好きの人はほっこりしたんじゃないでしょうかみたいな事を書いていて「いや、お前はそうかもしれないけどさぁ……」と思ったのは覚えている。
そういう作品って個人的にはあまり過程を評価できなくて、もし同じ作者の作品を読むってなった場合はラストを先に知らないとそこから先読む気がしないんだけど(前に嫁が本をラストシーンから読みはじめるみたいな増田あったな)、他の人ってどうなんだろう。どっちか読んだ人にこういう話のラストの展開についてどう思いながら読んだか聞きたいけどここまでこき下ろしてしまうとファンの意見を聞くのは無理かも。個人的には読んでいて「は?」の1文字だった。
一応再度書いておくけど、予想外の結末であったりバッドエンド自体を否定しているわけでは無いからね。
駄文大変失礼
モーガンフリーマンとジャックニコルソンがW主演?で出てる最高の人生の見つけ方って映画をBSでやってたから録画した
そういやそんなニュース見た気もするわ
捨てたはずなのにまた砂浜に打ち上げられてるやつ
今見るとどうなのかなあ
夜は高台家の人々読んでたら22時過ぎになってた
ニーアオートマタやりたかったけどなんとなく仰向けになって目をつぶったらそのまま寝ちゃってた
背がでかかった
あまみゆうきがめっちゃ横柄だったってのをきいてから、芸能人がパンピーと接するときの態度をハラハラしながら見ちゃうんだよ
あと浜焼きじゃねーけど貝を外で網でやいて食べる店につるべがいってて、大学生と話してていいタイミングでカキが会話にツッコミいれてるみたいにはねてて、つるべやっぱ持ってんなと思った
※舞台『グランギニョル』がゴシックサスペンス劇であるということを知らずに観に行ったTRUMPシリーズファンの初見感想です。
ゴシックサスペンス劇だと知っていたら思わないような感想を並べ立てているけど…「作品ジャンルを誤認して観るとこうなる」悪い例だと思ってお許しください。
TRUMPシリーズのネタバレしまくるので、未見作品がある方は絶対読まないように。
まず重大なネタバレとして、『グランギニョル』はネタバレされてから観ると面白さが9割減の舞台だなと感じた。
私は『TRUMP』初見の時、TRUMPの力を使っているのが誰なのかを演出通りに把握しながら観ていたが、本作の本題は「TRUMPは誰かという謎解き」ではないと感じていた。
だからTRUMPの正体がバレバレでも問題無かったし、それを理由に本作をつまらないと評価するのはどうかと当時思ったものである。
『TRUMP』のメインディッシュは人間の魅力で、キャストの力で面白さが大きく変わる作品だと思う。
だから『TRUTH/REVERSE』システムが成立し、キャストを変え上演される度に魅了されてしまうんだろうなと。
で、今回の『グランギニョル』も、割りと早々に「あっ! コイツが裏切って殺しにくる担当なんやな!?」と気付く。それがなんと言うか…シリーズ内への布石や登場人物や接点が多すぎるせいで、作品のメインが人間ドラマよりも謎解きに置かれているように感じてしまい、主犯であることだけがバレバレなことに冷めてしまう。
要は、もっとキャラクターを絞って掘り下げてくれた方が、私の満足度は高かったと思ったのだ。
・信者の行為が神様にとっては全く無意味だったということ(『食物連鎖』『弱肉強食』のようなものではない完全な無駄死に)
・エンディング後、主人公は結局息子たちを守れない未来が確定していること(だからこそ、主人公が息子へかけた呪いの雑さ・弱さが割りと胸糞悪い。結局ダリの絶望や希求なんてその程度であるのに、そいつが主人公だったのが物足りない。もっと絶望が見たかった)
・ラストにゲルハルトが信仰を辞めると心の整理を語るが、ヴラド機関に入ることになる訳だから、ラストシーン直後に信仰していた神が実在していたと知る=つけたばかりの心の整理をひっくり返されるだろうこと(これは相当なショックだろうに舞台で描かれないから、観客だけが胸糞悪い想いをするので不満。発狂するような絶望と希望に壊れる姿が見たかった)
などにあると思うんだけど、それらが舞台上で描かれないのが物足りなかった。
ダミアンとウルの呪いが強そうだったから、グランギニョルの主人公であるダリを『グランギニョル』の主人公にするのではなく、グランギニョルの首謀者を主人公にしてピカレスクロマンみたいな感じにした方が、「TRUMPシリーズらしい面白さ」だったんじゃないかなぁ。
…って、『グランギニョル』のジャンルはゴシックサスペンス劇なのか…
↓を読んだ
http://www.tvlife.jp/entame/132145
正しくそうだった。なるほどな~
観劇後もずっと胸糞悪いもんな~全然スッキリしない。めちゃくちゃサスペンスじゃん…これがサスペンスかぁ~
・ズルに感情移入させようとすることがそもそも失敗。漫画は押し付けられた感情移入キャラがない中で読者が勝手に感情移入するのがいいんであって原題の魅力と真逆のことしてる。
・ざっくりいうとBLAME!に関しては弐瓶劣化してる。20年前の原題書き上げた弐瓶よりも明らかに劣ってる。今の弐瓶はシドニアの騎士を描く上では正解だがBLAME!にはもはや適してない。牙を抜かれたおっさんがBLAME!を改変したところで正解するわけがない。
・散々会議したくせにカオスの元凶のケイ素生物出てこないってどういうことだよ。設定すらない。明らかに予算不足で敵キャラ減らすことになったのは目に見えてる。なら電器漁師のパート減らしていいからほんの少しでもいいから出しとけよ。ケイ素生物に対してとことん非常なのがキリイなのにそれを見せないとかありえない。
・タエがサナカンに乗っ取られたエピソードとかせっかくキャラにおしゃべりさせてたくせに妙に引っ張って違和感すごかった。そこはちゃっちゃと説明するかサラッと流して無常観だせよ。ここらへん余計なドラマチックにしてコケて大けがするのが今の弐瓶。
・既に似たようなこと書いたけどこの作品は弐瓶が昔の俺アイタタだわーw的な改修されてるせいで尖った魅力がおっさんの脂肪分でマイルドに丸くなってる。そういう黒歴史っすわwみたいな態度が逆につまらなくする悪例として反面教師にしたい。
・キャラがブレてなかったようなキリイも終盤エレベーターシーンで、黙って勝手にエレベーターのボタンを操作するでもなく、声優にお仕事させるために意味不明なコミュニケーションをねじ込まれる。余計なラブドラマ要素への決着がここにきて噛みごたえ最悪のホルモンみたいに残ってしまった。これで会議したのかよ。
・キリイの魅力として簡単な善悪では測れない行為、苦しんでるやつを放置せず殺したり、かといってお人よしのように見返りがないのに助けたり、強く求められると断れないところみたいなそんな冷酷な面もあるけど人間を助けたいという行動に一貫性があるし弱者に味方をする点が浮き彫りになっていくところでしょ。でも舞台を電器漁師の村だけにしたらその辺りの話積み重ねられない。駄目過ぎ。
・人気キャラが悉く出ない。あれもこれもあれもこれも。説明いらないからポッと出でいいからねじ込めよ。そのための映画だろうが。そのための構成だろうが。何のための会議だよ、酒飲んでるだけだろいい加減にしろ。
・戦闘シーンに限っては、原題ではあった重力子射出線放射器の遠距離で透視した状態で打ち合うという、全てを貫通する銃だからこそできる撃ち合いがCG代節約なのかなんなのかとにかくもったいぶる。あと効かないから撃たないなんて発想はキリイにはないし、銃使うとキリイ自身が充電が必要なのも酷すぎる設定。そんな欠陥銃でどうやって生き残ってこれたんだ1人で。
・階層ごとに生活圏が分断されているというのがこの世界の絶望的な設定なのにそれを感じるエピソードが少なすぎ。「下 6000階層」の言葉の意味も初見じゃ訳わからんだろ。超構造体の説明じゃなくて監視塔の説明だと色々矛盾が出てくるけど村が孤立している理由を超構造体のせいじゃなく監視塔のせいにするからおかしくなる。これも原題設定とのズレで出てきた破綻部分。キリイだけが階層を渡り歩くことができるってことをちゃんと村に行くまでに見せておくべきだった。説明するようにしたといってるけど口だけで描写が下手過ぎて映画素人か。
・統治局がイカになってた。
・分かりやすい省エネ作画の電脳描くくらいならもっとましな表現考えてくれマジで。なんどもくるーくるーゆっくり回るシボがカットインされて変な笑い出そうになった。
・そして基底現実の肉体は死んだけど電脳ではまだ動けるっていう描写も原題では現実世界で一刻の猶予も無い中での設定だからいいんであってシボの行動と戦闘中のキリイとまるで関係ない話を勧めててアホかと思った。
・ラストシーンでシボがキリイと残らなかったのも意味不明。シボが自分の安全のために下に逃げるなんて行動取るか?またキリイに工場へ連れて行かせるためにもエレベーターには乗らないだろ。
・他でも言われてるけど超構造体の「重力子放射線射出装置でしか壊せない」っていうルールのある世界だから成り立つことを説明するべきでしょ、それ説明するだけでなんでジリ貧に陥ってるのか建設者が厄介なのかを分かってくるのに。
・ズルかわいい。
・キリイかっこいい。
以上。
要するに映像化して良かったところは良かった。
BLAME!を黒歴史だと認識して余計な事してるのがまさに今、新しい黒歴史作ってんのを弐瓶は理解できてんのかね?
というかBLAME!こそファンである製作陣に丸投げさせてノータッチで作らせるべき作品だったろ。
中学生の頃は辞書の隠語で興奮してたけどそれは別に恥ずかしいことじゃないし、
男がみんなそこで共感性を持つからこそBLAME!は海外でもヒットしたんだろうが。
それを描いた本人が既に理解できなくなってるんだから月日の流れってのは恐ろしいな。
というか普通に予算足りなかったのならグチグチ言い訳せずに素直にそう言え。
逆に不信感出るわ。
PS:
観に行って良かったか悪かったかで言えばキリイが観れただけで良かったけど
PS2:
>このお話「強い旅人が通りすがりの村の問題を解決して去っていく(そして旅人は村の伝説として語り継がれる)」って話じゃなかったんですか
弐瓶はこういうことをしたいのならそもそもBLAME!という原題を用いて映画にする意味がない。
BLAME!がBLAME!のまま映像化されるのをファンたちは期待してたのに初見も楽しめるようにではなくて初見を軸に据えてどうすんだよアホ弐瓶。
PS3:
>世界観に初めて触れる人にとっては、あれでも展開が早すぎるって人も居るみたいだよ
じゃあ世界観説明させるためにキャラにおしゃべりさせましたってのすら失敗してるってことじゃねーか。
まあ、初見にストライク取れたかどうかは売上で分かる事だからここでどうこう言っても仕方ないが。
PS4:
>そんなに盛り込んで、上映に何時間かける気だよ。
大の大人が集まって脂汗垂らしながら構成やらシステムやら今後の方針練るところだろ。
PS5:
あかんよ。
PS6:
>そんなに盛り込んで、上映に何時間かける気だよ。
オタクは自由で放任主義な右翼と親和性が高く、いろいろと口うるさい左翼とは親和性が悪い。
左翼は、その攻撃性でオタクを敵に回した自らの愚かさを悔いるべきと言う言説を最近良く見かける。
その言説について思うところを描いていく。
ヘイトスピーチや所謂「言葉狩り」については、間違いなく左翼と呼ばれる人たちが中心になっている。これらについては、人権の基本である「他人の人権を侵害しない」という原則の問題でもあるが、チャタレイ裁判に関する憲法学界隈からの反論(1)や、大日本帝国時代の児童文学や新聞の規制が言論統制そのものに変化していった前例が示すように、原則、否定するべき物ではない。
また、宇宙の戦士に対して、ファシズム的と言う評価(2)や、さらば宇宙戦艦ヤマトのラストシーンに対しては、それぞれ「軍国主義的」について言及があったことは確からしい(3)。
漫画関係の表現規制で真っ先にやり玉に挙げられる「悪書追放運動」では「軍国主義への回帰」と言う表現が使われてきた(4)。
これらの理由から、オタクが左翼的言説を嫌うことには一定の理由があることがわかる。
チャタレイ婦人事件からずっと、右翼はむしろ表現の規制側に回っていた。猥褻物や公序良俗を使用した最高裁の判決に対しては、保守派を批判する側の法律学者の方からこそ強力な批判が行われていたことを思えば、左翼が表現の自由に不寛容と言うのは、この手の表現の自由に関連する議論の実状からかけ離れているように思える。
悪書追放運動以来漫画の規制では政府与党が応援してきた。悪書追放運動の主体の一つである主婦層の応援をしていたのは、逆コースまっさかりだった当時の政権与党である。
所謂「左」が表に出ていたのは事実だが、思いっきり「右」がそれに乗っかっていることもまた事実なのだ。
84年の衆議院予算委員会で、マンガを規制するための法律の導入を求めたのは自民党の政調副会長だった三塚博氏だし、中曽根総理もそれに大いに賛同していた。
漫画関係でも、保守派の麻生議員とかは、漫画の規制に積極的な人だし、東京都でのマンガの規制が著しく深刻化したのは石原慎太郎が都知事だった期間だ(5)。
漫画に対して公序良俗に関するとして出版禁止のための法整備を実際に行ったのは自民党だ(6)。
つーか、なぜかよく言われる「左翼の側が、オタクの趣味をポルノ呼ばわりして規制している」と言う言説とは裏腹に、実際にオタクの趣味をポルノ扱いして規制しようとしているのは保守政権側のほうが明らかに多い。ってか、実際何度か規制に踏み切っている。
ついでに、戦前でも児童文学の表現に著しい規制が付けられていた。
表現規制の問題を見ていると右も左もオタクとは親和性が悪そう。
それどころか、この10年の間は、マンガの表現規制は保守の側から行われている。
だと言うのに、どう言うわけか保守層が放任主義と誤解している意見が不自然なほど目立つ。
幾度か、マンガの規制の法制化がされるときに反対に回ってきた共産党の立場がない。いや、共産党もちょくちょくマンガの規制するよう求めてはいたから濡れ衣ではないのだが(7)、法制化を阻止するために動いた(8)という一点においては、力が及んでいたかはさておき、むしろ表現の自由については無理解というわけではない。
にもかかわらず、左翼は教条的で何でも規制する頭の固い連中で、保守派は様々な価値観を認めてくれる懐の深い存在という、表現規制の法制化の歴史を紐解くと真逆としか思えない、訳の分からない言説が結構広まっている。
……本当に、どう言うことなの?
理由を考えてみると、実際の活動は兎に角、左翼系の攻撃の方がオタクの方に印象に残りやすかったのが問題なのではないだろうか。悪書追放運動の発言や、ウルトラセブン第12話、ジャングル黒べぇの封印や、さらば宇宙戦艦ヤマトや宇宙の戦士への批判(小説の批評・批判自体はまっとうな活動なのだけど)等、人気作品への影響が大きいこと為、実際の活動量以上に目に付く機会が多かった。
特に、ウルトラセブンの「第12話は欠番とする」と言う趣旨の文言は、兎に角目立つ。簡単に閲覧可能な人気シリーズに、「抗議による封印」の痕跡がポツンと残されているのは、イヤでも目立つ。
また、政府肝いりの団体でも、悪書追放運動の折りは基本的に「左翼」に同調する言動をとっていた。
恐らく、「左翼」の認識が悪くなったのは、ここら編が原因だろう。
その上で、90年代後半から2000年代初頭の「サヨク=人権を御旗に自由を侵害しようとしている連中」とか言う、自由主義史観発のいい加減な認識が、雑な認識と化学反応を起こして、いい加減な認識を加速させたと言うのが実状ではないだろうか。
00年代前半からの10年、警察や保守政権の側からによる表現規制が著しく深刻化していた時期に、そちら側からの影響が殆ど省みられていない現状を鑑みるに、自由主義史観発と言うか、小林よしのり発の「人権を美旗に世界の均質を試みている」と言う趣旨の認識の影響は少なくない気がする。
余談だが、戦前の表現規制に対する反省と言うことで使われた「言葉や表現が問題ではなく、実際に差別をなくすことこそが重要だ」と言う考えが、この保守派への契合に対する触媒になっている節があるのは中々興味深い。
実質的に、差別を助長していたり、差別に根ざしている表現を使い続けることによる、現状の肯定や差別の強化自体は問題にされてしかるべきだ。
キチガイと言う言葉が使われなくなったために、統合失調症の人の気持ちが幾分か楽になったと言う証言もある。言葉を狩っただけで問題が解決されるわけではないが、差別に使われるメインウェポンを使用禁止にすること事態を無価値と断定することも、非常に問題がある考えのように思える。
一方で、一片の理が合っても問題があるのは事実。だからこそ、チャタレイ裁判以降、多くの憲法学者は表現規制そのものを問題にしてきたし、前例がある以上、この手の批判は積極的に行われてよい。
兎に角、「表現を規制する要理も、現状の改善の方が重要」と言う言説が「表現は問題ではないのだから、どんな差別的な表現を使い続けたってかまわない」と言う理屈の正当化に使われ、惹いては、差別語を平然と使い続ける側の心強い理論武装になってしまっているのではないか。
いい加減話を終わらせるために、まとめに入る。
「どんな表現にも寛容な保守と、教条的で表現の規制を押し進めようとする左翼」と言う、表現規制の歴史に多少なりとも興味が有れば噴飯ものの理屈がネットの世まかり押し通ってしまうのは
・60年代の悪書追補運動の折りに、法制化を進める活動家よりも、直接行動を行う「左翼」側の活動の方が目立った
・「セブン12話」や「宇宙の戦士」批判など、容易な「左翼の抗議による作品の封印」の戦果に容易にアクセス可能
・00年代前半、個人サイト全盛期に自由主義史観初の雑な政治認識が流行した
・「表現だけではなく、現状を変える事こそ重要」と言う、それ自体はまっとうな言説の悪用
と言った要素が、悪魔融合を果たした結果ではないだろうか。
(1)浦辺法穂「全訂 憲法学教室」161~163ページ、岡田信弘「憲法のエチュード」86~91ページ
(2)ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」483~484ページ
(3)牧村康正・山田哲久「「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気」第4章栄光は我にあり、広がりゆく波紋、第10段落
(4)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」100~102ページ
(5)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」177~180、196ページ
リアルでの「人狼ゲーム」に巻き込まれ、最初村人サイドとして狼を殺して生き残った主人公が、今度は狼サイドとして村人役の人間を殺す側に回る、という作品。
ぶっちゃけ人狼ゲームにこういう「個人的関係」や「主人公の性格」という要素を入れるとゲーム性が薄れるのでつまらなくなると思っている。「純粋にゲームとしてやるから面白いもの」に、無理やり人間性やら人命の大切さみたいな話を入れても、プラスにならないどころか無粋な感じになる。実際「主人公=村人サイド」だった前作は主人公の性格に難点があったことも合わせて微妙な出来だった。
しかし、前作「村人サイド」側の話において、主人公は自分が生きるためにクラスメイトを犠牲にするという決断を行った。このことで主人公の内面において変化が生じ「前の戦いで」犠牲にした人をムダにしないためにも、自分の意思で人を殺そうという状態になっている。そして、今作では主人公と他の人間との関わりは弱いため、ゲーム的要素が前作よりは強くなっている。
……と思ってたんだけど3巻で「人狼ゲーム」としてみたらやっちゃいけないことをやってるのでどうしても評価できない。その不測の事態からの切り返しが悪いとは言わないがフェアではない。フェアじゃないやり方で主人公側が勝つとか、物語として最悪。自分で程度の低い作品って認めてるようなもんじゃん。
ラストシーンも、この作品は結局何がヤリたかったのだ、という根本的な問題がダメ。人狼ゲームをヤリたかったのだとしたら人狼ゲームとしては途中から破綻したし、主人公は人格が簡単に豹変しすぎてそれを物語として全く回収できてない。読んで損した感強い。
・まとめは未読の人が興味を持ってくれる入口にするためのものであり「この話しか読んでいません」「この話以外は読まなくていい」という意味ではありません
・コナンを人生で一度も見たことがなかったけど、純黒だけは見ました。赤井と安室萌え~なんて人はあまりいません
・コナンでBLは考えたことがなかったけど、純黒きっかけで赤井と安室が好きになったorもともと長年別のBLCPに萌えていたが純黒きっかけで赤井と安室も好きになった、っていう古参が目覚めたパターンが多いです
・他のアニメだと腐女子は露骨に自分の好きなCP以外を無視することもあるが、コナンの場合は上記の通り昔から慣れ親しんだアニメなので、例えば赤井が好きな人でも「世紀末の魔術師のキッドが好き」「天国へのカウントダウンのラストシーンが好き。当時映画館で観て感動した」「瞳の中の暗殺者のコナンかっこいい」「迷宮の十字路の平次好き」とかいう人はいくらでもいます
・先日の金ローで大騒ぎしていた人たちは今日「から紅を観に行った、めちゃくちゃよかった」とネタバレ専用アカウントに感想を飛ばしまくっています
xxx
「○○な人が多い~って、で、統計は?具体的なアンケートでも取ったの?」「古参だって証拠は?どうせ見栄張ってる新参嘘松でしょ」「腐れ女が女キャラに友好的な態度を取るわけがない、男女CPを楽しめるわけがない。どうせから紅は観に行ってないんだろ」とか疑うならもうこれ以上はお互いどうしようもないですね
また最近公開されたスタッフのインタビューによるとコナン映画は5年先を見据えて計画が進行しているそうなので来年の映画については純黒以前から方向性は決まっているものだと思いますが、何も知らない人たちが純黒のせいで腐媚びが~腐媚びが~と騒ぐのだろうと思うとこちらとしても心配です
http://anond.hatelabo.jp/20170415182325
今最後まで読んだら、あとがきに予想の斜め上のことが書いててブチ切れそうになってる。
今だから告白しますが、僕はこの物語の第一話を作り終えた次点で次の話をどうするか全く考えていませんでした。
キャラクターも主要な人物以外は何も考えていなくて、近藤先生にクラスメイト全員分のデザインを先に自由に描いていただいて後から僕がそのデザインに適宜キャラクターをつけていくという変わった方式で物語を作っていきました。
言い訳ではありませんが、こうした物語の作り方こそ、マンガの醍醐味ではないかと勝手に思っています。
それをどう料理するかは来週の自分に任せる。僕はそんなひりひりするマンガの作り方がとても好きです。
そんなひりひり感を読者の皆様にも味わっていただけたのなら、こんなにうれしいことはありません!
ふざけんなああああああああああああああああああ!!!!
私はこの部分を読む前に、先の感想を書いた。
あまりに支離滅裂な内容や展開、一貫性のないキャラクターたちのブレ具合に頭がクラクラしたと書いた。
まさかこんなアホな作り方をしていたとは思わなかった。
確かにそういうマンガの作り方が当てはまる作品はあると思う。そういう作り方がうまくいく人もいるだろう。
だが、こういう人間を描くのが大事な作品でそれはダメだろマジで。そして、お前のような人間がやっちゃダメだろそれ。
多分終わり方は最初から決めてたんだろうなと思ったし、実際3巻の途中で思った通りの結末になった。
その過程はもうぐちゃぐちゃで、
そういう意味不明な展開だったから、最後に主人公がラストシーンのような選択をする説得力が全くない。
もうほんとひどい。
なんだこれ。なんなんだこれ。
ゴミなマンガと言うだけならまだ許せるが、作り方も最初から読者を舐めきった作り方をしており、
それを誇っている作者のコメント。
すべてがゴミすぎてすごい腹がたった。
基本的には好みの設定だし、なかなか好きなストーリーで満足できた。
↓以下ネタバレ含む
船長権限で蘇生装置のメニューの中に、代謝を止める「再冬眠」のメニューがあることをジムが発見する。
でもポットは一つだけ、たぶんだけどポットから冬眠装置に運ぶ人でもいるのかな?冬眠できるのは一人だけらしい。
オーロラに使うように促すジム、でもオーロラはジムと二人、移動し続ける宇宙船の中人生を送ることを選ぶ。
88年後人々が目覚めた時、ジムの植えた木や庭をみて二人の生きた証を知る…というラストシーン
……でも起こすこともできる。再冬眠もできるのなら、
誰かを起こして、代わりに眠るのを繰り返せばいいのでは…
↓
↓
ジムが誰か一人を起こす
↓
↓
↓
起こした一人が別の誰かを起こす
↓
起こした一人が眠る、別の誰か運ぶ
88人でローテーションを組めば、一人1年の負担ですむし、
1056人なら一人1ヶ月の負担で済む……
…いや、SF映画に突っ込むのはすごい無粋なことだと思ってるし、
他の箇所も突っ込んでたらキリがないんだろうけど、
今年のアカデミー賞短編映画部門の映画「合唱」だけど、日本語タイトルに異議あり。ぶっちゃけて言ってしまうと、ぶち壊しである。
原題は「Mindenki」(Everybody)、英題は「Sing」。無論原題の方がいいんだけど、英題でもまあ問題はない。しかし日本語タイトルは問題外だと言える。
なぜなら、映画のラストシーンのキーワードは「みんな」、そして「歌いなさい」だから。これらのキーワードがタイトルに設定されていたとするなら、観衆は「ある結末」を期待しつつ、作中のアクシデントの経過を見守ることだろう。
その結末は、ある意味予定調和的で、美しく、誰もが傷つかない、「いい物語だった」というカタルシスを与えてくれるものだっただろう。主人公たちが実力に見合わないような成果を得ても、それはフィクションのお話だから気にする方が野暮というものである(ただし正月に見た「天使にラブソングを2」に感じた違和感はコレだったが)。
しかし、この映画において、子供たちは聴衆の期待を大きく裏切る行動を成し遂げる事となる。これは大変重要なポイントである。なぜなら、この映画の価値、そしてアカデミー賞を受賞した理由の一つは、「期待を裏切ること」にあるからだ(少なくとも私はそう思う)。
こうした観点から考えると、日本語タイトルの「合唱」は、映画の内容をストレートに表現しているのにも関わらず、結末へのある種の「期待」を強く喚起することができない。結果として、日本の観衆はこの映画を、本来意図された(であろう)形で楽しむことができないだろう。残念だ。
追記。8日ソワレの当日引き換え券を購入した。前回視力的に見えなかった部分を補完できるよう前方列の上手~中央の席をご用意いただけると良いのだけれど。
白い鞠?は唯一『私』よりも先に舞台上に存在するので、高次元存在である可能性や何かの表現であったりしないか。
秀ちゃんと吉ちゃん、初見では(誰しもそうだろうけど)双生児ではなく比喩としての『醜くコントロールできないもう一人の自分』の話だと思っていた。
エグい描写が続いていたので、比喩と見せかけて実際の奇形の話であったというオチにまんまと流されてしまったけれど、
この物語が諸戸の視点であるならば、箕浦と秀ちゃんの恋愛描写は雑で蔑ろであったのに(彼にとっては箕浦と他人の恋愛なんてどうでもいいからだ。箕浦が物語の視点であるならばこの恋はもっと尊く丁寧に描写されているであろう)、妬ましい秀ちゃんの手記はいやに丁寧に描写している。
これは秀ちゃんと吉ちゃんの存在が、諸戸ないし箕浦の隠喩だからではないだろうか。
諸戸本人の感覚というよりも、より高次元な作者・超自我としての感覚で、『諸戸から箕浦への愛』に対し、『美しいものであって欲しい』という望みと、『どんなに消されても消えない愛の炎と欲望は醜い』と卑下する気持ちと二面を抱えているように見えるのだけど。
『自分の愛は醜い』と卑下してしまうのは、受け入れてもらえないことが唯一で絶対の理由だと思う。箕浦が諸戸の愛を受け入れてしまえば、もうそれは醜いものじゃなくなる。
諸戸の二面性は彼の超自我によるものだと私は考えるけれども、ある意味箕浦が愛せた諸戸と受け入れられない諸戸の二面でもある。
吉ちゃんに凌辱される秀ちゃんとは、愛欲をコントロールできず捕らわれ続ける諸戸であるなと。
箕浦はまさしく舞台上にて『私』と『箕浦』の二つに分かれている。
同一人物であった二人が切り離されたように見えるのは、井戸の中での諸戸の告白辺りから。……それ以前、島に着いてからもかなり二人の差が「目について」くる。異様に見えてくる。
井戸を出た時の諸戸の表情が座席位置の関係で見えなかったのだけど、彼は箕浦に何を見たのだろうか。
私は諸戸に対して全くもって嫌悪感がなく、むしろ清楚な色気すら感じていたのだけれど、ラストのセリフ・親御さんからの手紙の内容を聞いたときに唯一初めて諸戸のことをきもちわるいと思った。
諸戸本人からの求愛であったならまた印象は違ったのかもしれないけれど、第三者から告げられたそれはすごくきもちわるかった。
(これは私が『告げ口』というものに異様な嫌悪感を持つために抱いた感情なのかもしれないけど、あれだけフッたのに他人からまだアイツお前のことが好きだってと言われるなんて、しかもそれが息子を失った親御さんからの訃報でだなんて、最悪すぎるし気持ち悪過ぎると感じるのですが……これで意中の相手が振り向いてくれることなどあるのでしょうか?)
だから、実はラストシーンは佐藤さんの反応を見逃すまいと凝視してしまって。
私は諸戸すげーきもいと感じるけど、『私』はどうだろうなと。
そのせいで他の要素を見逃している可能性が高い。
あと、どうやら原作ではそれなりに諸戸の好意はきもちわるいようなのだけど、舞台では健気で美しい印象の方が強かったので、それは私が田中さんの美しさ・色気に当てられて誑かされていたからなのかどうかもしっかり見極めたい。
更に追記
ラストシーンの手紙から受けた『諸戸きもちわるい』って印象、この手紙を読むのが井戸の中で消えた箕浦役の石田さんが担当しているからって可能性もあるのかも。
あのセリフを言ったのが箕浦かどうかはまだ考察できないけど、『消えた自分』にそんなこと言われて亡霊度がめっちゃ高くて不気味だったような気がしている。
怨み言や呪いのように聞こえた。
こちらも改めて確認したい。
更に追記
諸戸が箕浦を好きになった理由は原作からも明らかにされていないらしい。
しかし口説き文句に「君は美しい」とあるそうで、これは他の人も言ったセリフである気がする。
本作品中において『美しい』と評されることの意味は重いはずなので、
誰がいつ何を『美しい』と評したか、その評価の意味を捉えていきたい。
更に追記
「『私』が白髪になるほどの恐怖」とは何であったのか原作でも名言されていないらしい。
また、どうしても視覚情報の伴う舞台では白髪になったターニングポイントが「見えて」しまうため、原作にならい解釈の余地を生ませるよう演出されているのだが、それでも舞台上に起きた出来事はどんな解釈でなされていたか、芝居の息遣いをしっかりと感じておきたい。
こんばんは。
そんなアニメ好きの端くれである私が好きな作品をつらつら書きたいと思う。
今なお乃絵派である。比呂美は強かさがある珍しいヒロインだと思った。
乃絵の真っ直ぐさとか、純粋さが画面からひしひしと伝わってくる。
学園ラブコメ、だけどひるドラ!
好きなキャラはみのりんだけど、見た目だけなら大河に惹かれる。
快活な面も、後半の情緒不安定さもまとめて好き。亜美ちゃんと仲良くね。
あと竜児いい人すぎる。
・青い花
とても丁寧で好きな作品だけど、とある事情で続編は望めそうにない。
「釣れますか?」という話と、ずっと苦労していたずかちゃんがアフレコするシーンはぐっときた。
それぞれのヒロインを4話で攻略するオムニバス形式のアニメ。今、放送されているセイレンと同じ高校が舞台。
結婚したいのは梨穂子、恋人にしたいのは七咲と薫、怒られたいのが絢辻さん。友達になりたいのが紗江ちゃんと森島先輩。
飯能市を舞台にしたアニメ。女の子たちが山に登るよ。癒されるアニメ、OP EDの作り方がとても好き。
オススメです。
この前ドラマ化された女子高生麻雀アニメ。未だに長野県大会編が一番好き。
麻雀のルールは全く知らないが、楽しめた。パンツがない世界なのだと思っている。
田舎町に引っ越してきた双子の兄妹を中心とした性春ラブストーリー。
瑛みたいな子、すごく好きです。
纏流子ちゃんかっこいい。
3話と7話がオススメ。
・アイドルマスター(765版)
キャラクターが可愛く、魅力的。
・花物語
物語シリーズの話。アララギさんの後輩の神原駿河が主人公。以前バスケで宿敵だった沼地蝋花と出会うが…。
沼地と神原のバスケシーン、ラストシーンのアララギさんの言葉が印象深い話。
ハルヒが少女漫画のヒロインにしてはクールで、そこがまたいい。
2期もあるが、個人的に1期の方が面白かった。男版セーラームーンで、何も考えずに見れる。
愛ってすごい
好きなキャラクターはピチットくん。
【今期見てるもの】
サターニャちゃん不憫かわいい。
・セイレン
常木さんんん!!もうね、絶対桃乃今日子ちゃん好きになる。奥華子さんが歌う爽やかなOPに映る彼女を見るだけで確信が持てる。幼馴染…!!!
長くなったし、これくらいで終わろう。
【追記】
思ったより反応があってびっくりしてます。オススメのアニメを挙げてくださった皆様ありがとうございます!
お察しの通り、マリー脚本やPAの作品は好きでついつい見てしまいます。
TARI TARI観てました!爽やかな作品ですね。ウォークマンに楽曲いれて聞いてます笑
凪あすのOP2の冬の冷たさや切ない感じ、とても好きです。美海ちゃん。
響け!ユーフォ二アムは観てて、丁寧だなと思いました。あの絵の綺麗さが驚異的。優子先輩についていきたい。
残念だがそれほど人気がない。
俺は英国在住のおっさん。年始にロンドンで見たが、そもそも上映している映画館が少ない。毎日上映している映画館はロンドンで2-3か所。860万人住んでいるのに。
月に数回上映がそのほかに数か所。以上。ザッツオール。公開後1月以上経過しているから減ったのだろう。
客の入りは5割くらいで、そのうち6割がイギリス人、4割は東洋人。中国人韓国人日本人。
イギリスのメディアが君の名はを絶賛した、という記事は俺も見た。口コミサイトの評価も見てみたが、非常に良い。
更には上映後のイギリス人の反応を観察してみたが、満足そうに見えた。
ゆえに入口でのハードルなのだろう。ただし内容について「感動」「ラブストーリー」というよりは「展開が早く引き込むストーリー性」「映像の綺麗さ」が評価されているように思う。
若者のラブストーリーである「君の名は」がイギリスでアジア圏のようなヒットにならない理由は以下のように推察している。
今でも完全にそうです。宮崎アニメのように家族で見に行くならともかく、ラブストーリーをアニメで見ようという発想は世間の若者に全くないように思うし、他人に知られたら恥ずかしいことと思われる。
なお本作では奥寺先輩が煙草を吸ったり、瀧が酒を飲んだりするので12歳規制がかかっている。
作品にのめり込めるか、一番重要なのはこの点だと思う。瀧が三葉が男性として女性として魅力的に描かれているか。
多くの日本人には、瀧はイケメン、三葉は高校時代は可愛く大人時代は美人、という設定に異論はないと思う。
欧米人から見ると、経験に基づく推測だが、瀧も三葉も体が薄っぺらすぎる。
瀧は本人のときでもかなり「中性的」に寄っている。欧米人からジャニーズは中性的な子供に見えるということと同じである。
(3人組のうち)高木くらい男くさいほうがいい。イギリス人は瀧に対してこう言いたくなるだろう。「もっと肉を食え、ラグビーで体を鍛えて、女性を守れる男になれ、髪形もベリーショートかリーゼントにしろ」(適当
三葉は単純に子供に見えていると思われる。もっとグラマラスな魅力が出てこないとラブストーリーの主人公という雰囲気が出てこない。シャイな性格もマイナスだ。瀧の三葉くらい気が強いほうがウケる(作品内でもそうだったが)。
イギリス人のラブストーリーは顔を0.3フィートくらいの距離まで近づけてロマンティックな言葉を囁きあう感じなので、瀧と三葉の恋愛動作は非常に幼く見える。こちらの高校生は結構オトナである。
山頂で出会うシーンもイギリス人なら、強くハグして、濃厚なキスをして、0.3フィートである(超適当)。名前を書きあっている場合ではない。出会って3秒でハグキス0.3フィートである。高校生にそういう描写が許されているのかは知らない。
ラストシーンでいったん声をかけずにすれ違ってしまうシーンには、階段の一番下から大きく手を振って「Hey!!!, I think I met you sometime and somewhere!!!」と大声を出さないのか不思議であろう。奥ゆかしさは理解されてもそこから生じる感動は理解されないと思う。実際に泣いている人は少ししかいなかった。クライマックスの「すきだ」も字幕だからね。手によくわからん文字が書いてあって字幕でI love you。ちょっとねえ。
日本人のおっさんである俺にとってどうだったかというと「超面白かった」。イギリス、日本、機内の計3回も見てしまった。最初に見たのは機内だったが、中年のおっさんがうるうるしているのを見てCAさんはドン引きしていたことであろう。少し気になるのは日本での作品への「評論」である。確かに整合性がおかしいところは多い。私は3年のずれに気づかないことよりも、この広い宇宙で隕石が1200年周期で同じ場所を直撃することのほうが超天文学的確率というか、分母が10の何乗になるのか、そのほうがずっとありえないと思いながら見ていた。変電所の爆破は中部電力に連絡が行ってしまったので町を救ったからお咎めなしになるものではあるまい。ああいう会社は融通をきかせるのが難しい。テッシ―の「髭剃れ」の話は収監されていたから?などとも思った。しかしながら、内容の整合性に難があってもそれ以上の魅力で引っ張ってくれれば私はそれでいいと思う。官僚や銀行員のような減点主義で映画を見てもつまらんでしょう、と個人的には思う。
キネマ旬報のベスト10がどういう選考基準なのかHPを見てもよくわからなかったが、アジアで数千万人を引き付けた映画よりも、日本映画だけでも10個も上位があったら、それって大ニュースなのではないかと思う。売れる映画と良い映画は違うというのは一部分かるが、それよりはもっと簡単に説明できる言葉があるのではないか。スノビズム。大衆は見る目がない、ということだもの。
同業の監督や評論家の「売れる要素だけ詰め込んだ」とか「モチーフがありきたり」の批判に対しては、おっさんは長く生きているので、30年前の「ノルウェイの森」騒動を思い出す。「100%の純愛小説」と付けてクリスマスカラーで売り出した同書は「君の名は」と同様に爆発的に売れ、今ほど有名でなかった村上春樹をスターダムに押し上げると同時に、評論家から「誰でもかける薄っぺらい通俗小説」「ありきたりの三角関係」などの多くの批判が浴びせられ、その騒動で村上春樹は心を痛めて日本を離れた。彼の作風にも影響が出てしまった(軽妙さが失われた)と思っている。
めちゃめちゃ今更なんですが、『君の名は。』を観てきました。びっくりしたんですけど、もう上映から3か月くらいたつのに都内だと結構本数やってるんですね。前前前世が流れた所のスピード感でぐわっと物語に引き込まれて、2時間しっかり堪能いたしました。
ただ、見終わってから一つだけもやもやしていることがあって、それは「あの後2人は幸せになれるのか?」ということ。瀧と三葉がラストシーンで再会して、たぶん雰囲気的にあの二人は付き合うことになるんだろうけど、それってなんていうか、「神様に外堀を埋められた感じ」じゃないですか。時間をも越えて入れ替わった二人、しかもどうやらその運命は何世代も前から決まっていたらしい。そんな重たい鎖をつけられたら、この先何があろうと関係を終わらせることが出来そうになくないですか。
思春期の多感なころに特別な共通の経験をしていたから、当時はそりゃ恋に燃え上がっていただろうけど、数年後、お互い社会人になって再会して、そのままずっとその気持ちが続くものだろうか。末永くあの二人が続いていけばいいけれど、もしすれ違ったり、コノ人ジャナイ感が出てきたとき、重たい運命の鎖を振り切って彼らは別の道を行けるだろうか。むしろ過去の運命的な出会いにとらわれて、苦しみながら二人で沈んでいってしまうのではないだろうか…。そんなことを思いました。
端的に言って、思いのほか面白かったです。
監督の過去の作品から憶測して「どうせまた雰囲気だけの恋愛映画だろう」と思い、
あまり乗り気ではなかったのですが、
実際にはそうではなく、非常にエンターテイメント性に富んでいて、
過去作とは段違いの人気があるのも素直にうなずけましたし、見に行って本当に良かったと思います。
その上で、気になったことが主に二つありました。
それは、恋愛作品としての欠点と、恋愛以外のストーリー上の欠点です。
前半のコミカルな入れ替わり劇から、後半のシリアスな展開へといっきに変える重要な部分であるだけに、
こまかいことではありますが、違和感のようなものが最後まで残ってしまいました。
今が何年かというのは、嫌でも目や耳にする機会はたくさんあるはずですし、
もし何月何日という日付が同じで気づきにくかったとしても、曜日がちがうはずです。
テレビで彗星のことを見て、それを思い出せなかったのはすごく不自然に思えます。
ただし、このことについては、設定上の説明はいちおうされていると思われるので、
「入れ替わってるあいだは、まるで夢の中にいるように、意識や記憶があいまいになる。」
というような説明が何度かあったので、
おそらく、日付のちがいに気づけなかったり、彗星や糸守の惨事のことを思い出せないような、
ただし、この入れ替わりの能力自体が、糸守を惨事から救うためにあるとしたら、
記憶があいまいになるように働く力は、その目的に反したものになってしまうので、
その矛盾を解くために、さらなる説明が必要になる気はしますが・・・。
そういえば、入れ替わった瀧が、朝、制服を着て学校に行こうとして
四葉に「なんで制服着てるの?」と言われるシーンがありましたが、
もしかしたらあれが、「曜日がちがっているけど気づけない」ということを
表現したシーンだったのでしょうか。
さじ加減の難しい部分ではあると思います。
そして、恋愛作品として、はっきり欠点と言えるのがこの部分です。
入れ替わる前までの二人は、せいぜい胸を揉んだり、都会の生活を楽しんでいただけで、
入れ替われなくなり、シリアスな展開になったとたん、
「お前が世界のどこにいても、必ず会いに行く!」などと言い出してしまうほど、
たしかに、急にもう会えないと知って、もういちど会いたいという気持ちが盛り上がるのは、
瀧は三葉のことを好きになっていることを先輩から指摘されていますし、
ということは、入れ替われなくなり、会えなくなる前から、
すでに二人は好き合っていたということになるのですが、
そうなった理由もわからないですし、それらしい描写も何もなかったように思います。
自分一人では行き詰ってしまっていた問題を、入れ替わってる間に相手が献身的に解決してくれたなら、
そうやってお互いの心の深いところまで知るうちに、
相手を大切に思う気持ちが芽生え、それが徐々に好きという気持ちに変わっていって、
ラストシーンでようやくそれが最高潮を迎える、というような展開であったならば、
おそらくもっと納得できたでしょうし、感動できたのではないかと思います。
でも実際には、瀧は自分の感情から机を蹴って意地悪な同級生たちを威嚇してみせただけですし、
三葉は、興味本位から先輩との仲を取り持って余計なお節介を焼いただけでした。
これだけではとても、お互いの心の深いところまで踏み込んだことにはならないと思います。
にもかかわらず、ストーリーの中盤ですでに、二人の恋愛テンションはマックスになってしまう。
これでは、観客は置いてけぼりにされた上にどん引きされてもしかたありません。
結局、この問題は、監督自身の恋愛に対する価値観から生まれているのだと思います。
ささいな出来事でも惹かれ合い、出会ってしまえば恋に落ちるのは当然、ということでしょう。
宮水の神様から与えられ、三葉のご先祖様たちから受け継がれた、
「時を超えた入れ替わり」の能力のことなのだと、いちおうは理解できます。
本人たちの意志とは関係なく無理やり結び付けられた二人というのは、
もし、瀧と三葉がその「運命」によって惹かれ合っていただけなのであれば、
糸守の人々を救うことができた時点で、その必要はもう無くなってしまうことになり、
五年後に再会した時に、お互いを「運命の人」とすぐに認識できた理由が説明できなくなってしまいます。
このように、「運命の人」という言葉自体は、この上なくロマンチックな響きのようではありますが、
実は本来のロマンスとは異なるものだというジレンマを併せ持っています。
だからこそ、その「運命」によって惹かれ合った二人が本当の恋に落ちるための理由、
いわば「運命の人のジレンマ」を埋めるためのプロセスが、本来であれば必要なのです。
また、運命の人かどうかはともかく、
誰かを好きになるために、第三者が納得できるような客観的な理由というのは、
じつはほとんど無いのだろうと思いますし、必要も無いでしょう。
たんなる直感や一目惚れといった、本人だけにしかわからない理由であったとしても、
本人さえ納得していれば、何の問題もありません。
そう考えると、瀧と三葉が恋に落ちた理由も、べつに無くても良いのではないか
と、思えてしまうかもしれません。
ですが、ことフィクション作品においては、それではダメなのです。
監督や脚本家という第三者によって、観客という別の第三者が見るためにつくり出された
ですから、その第三者が納得できるだけの理由が、絶対に必要になります。
もし本当にリアルな、つまり理由の無い恋愛を描いた作品にしたいのであれば、
監督や脚本家がつくり出したものでもなく、観客が見るためのものでもない、
実際に恋愛をしている二人のありのままを撮ったドキュメンタリー作品をつくるべきです。
そうではなく、あくまでフィクション作品をつくりたいのであれば、
たとえ恋をしたことが無い人でもそれが「リアル」だと感じられるような「リアリティ」、
わかりやすく言えば、たとえ「ウソ」でも「リアルっぽい」と思わせる説得力であり、
もしそうでなければ、リアルにおいて「理由の無い恋愛」をしたことのある人にしか、
これは恋愛だけでなく、たとえば、殺人や戦争などの表現に置き換えてみると、
たとえどんなにリアルでも、
実際に殺人や戦争を体験した人でなければ、理解も共感もできないような表現を、
フィクション作品に用いることは悪手なのです。
そもそも、今作のようにオカルトやSFなど、リアルではない世界観を扱っている作品で、
それは一つの作品の中で各要素における「リアリティのレベル」が合っていないことになるでしょう。
恋愛体験の異なる人たちのあいだで論争になっているようですが、
そのこと自体がすでに、恋愛をテーマにしたフィクション作品として、
この作品が大きな欠点を有していることの顕れである、と言えると思います。
恋愛作品としての欠点が、監督自身の恋愛観に因るものであるとすると、
今後の作品において何度でも繰り返されることになってしまうのでしょうか。
今回は、監督のその間違った恋愛観を表現するための設定や伏線の副産物として、
エンターテイメント性の高いストーリーがたまたま生まれてしまっただけだとすると、
今作のヒットは、ただのラッキーパンチだったということになってしまうでしょう。
できれば、そうならないことを願いたいと思います。
妹に「すっげー感動すっからマジ見てみ」と言われて『君の名は。』を見に行った。全然感動しなかった。
体が入れ替わったからって、どうしてお互いのことを好きになり始めるのか全く理解不能だった。
しかもお互いに記憶が失われているんだったら、何か気になって「君の名は?」とか聞くまでに、
「あのー前に会ったことありましたっけ?」とか聞くだろ、つかこれじゃベタなナンパだろ、とか思った。
そういえば、大昔に細田守監督の『時をかける少女』を見たときも、友人に「マジ感動するから見てみりん」とか言われて見に行った記憶がある。
でも、全然感動しなかった。「あれ、これってどこらへんが感涙ポイント?」的な感想しか思い浮かばなかった。
「未来でお前を待ってる」と言われても、「えーでも再会するときはヒロインおばさんになってるよ?」としか思えなかった。
昔から「感動するよ」と言われて見に行った映画で感動したことがない。
アニメではないが『西の魔女が死んだ』という映画も薦められて見に行ったが、見終わった後「( ゚д゚)ポカーン」としかならなかった。
みんなは「ダッシュツダイセイコウ」で感動するの? なんで? キム兄がタンクトップでキモいから?
ま、それはともかく、恋愛もので感動できないのはたぶん自分に恋愛経験がないからだろう。
逆に『ドラえもん』幻の最終話(CGアニメ化済み)のような、友人との別れものは結構泣ける。
これは自分に引っ越しの経験があって、親しい友人と二度と会えなくなるという辛い経験をしてきたからだろう。
ようするに、作品鑑賞というのは人生経験が大事なんだよね、当たり前だけど。
自分はどんな恋愛ものを観るたびに「( ゚д゚)ポカーン」としてしまう。
男が女に恋するのはまだ何となく理解できるけど、女が男に惹かれるシーンがどうも納得いかない。
『真田丸』で真田信幸に本多家から嫁いだ吉田羊が突然信幸に抱きつく場面が納得いかず、母親に質問したくらいだ。
(答えは「(夫が前妻にばかり気が向いていることに対する)嫉妬で火がついたんだよ」だそうだ。そうだったのか?)
恋愛ものって、まるで中東かアフリカの紛争の話を聞いているときのように、
恋愛という意味で他人に強く心惹かれたことも、他人から強く執着されたこともないので、恋愛ものに全然現実感がない。
自分にとっての「好き」はマンガなら「週刊誌で一度読んでいても全巻コレクションしたい」程度の意味であって、
人間に対していえば「写真を撮りたい」「近くで眺めていたい」と思う程度のことだ。フィギュア鑑賞と同じ。
恋愛もので描かれているように一緒にいたいとか、相手のことが知りたいとか、理解し合いたいという感じではない。
たぶん多くの人に自分は宇宙人のようだと思うだろうし、自分には一般人が宇宙人にしか思えない。
そもそも、上映開始10分後に入場したところから気に食わなかった。
最初は予告が流されるから、本編の時間にあわせて来たのだろう。既に着席し、鑑賞態勢を整えている他の客の前を平気で横切るその無神経さに腹が立った。彼らの席がよりにもよって列中央だったから更に質が悪い。せめて通路側の席を予約しておけばよいものを。しかし一方で、料金を支払った上で短くない予告を見せられることにうんざりする気持ちもまあ理解できるから、それだけならすぐに忘れていたはずだ。
彼らは着席するや否や携帯を操作し始めたのである。その時点で予告は終わり、本編が始まっていた。いまさら電源を切ろうとするのか? 遅らせて入場したくせになぜ先に落としておかない。苛々が募り、スクリーンから隣に視線を移した。彼らは男女のおそらくカップルであり、私の隣に座って携帯を取り出したのは男のほうだった。さっさと電源を落とせと忌々しく眺めていたが、一向に液晶のあかりは消えない。それどころか男はなにやら画面を操作している。私は、いいから早く落とせ、早く、早くと念じていた。
と、ひとつのアプリが起動した。そして奴はそのまま膝の上に携帯を載せると、スクリーンに目を向けたのである。それだけでもハア? と思ったが、暗闇で煌々と光る液晶画面を見てさらに驚いた。
画面中央に赤い丸が配置され、その上を波線が激しく上下していた。ちょうど、そう、録音アプリのそれのように。
「それ、止めてもらえます?」
咄嗟に言葉が出た。すぐに、もう少し様子を見てみれば良かったと後悔したが、つい出てしまったのだ。奴が隠し録りできたのは正味10秒もなかっただろう。
奴は小さくスミマセンと言ってアプリを止めた。そのまま鞄にしまったから、私もやっとスクリーンに視線を戻した。しかし苛立ちはなかなか収まらなかった。この後私はどうすべきかをぐるぐる考えていた。上映後に係員に伝えるべきだろうか。このチケットは前日時点で完売していたから、ネットの購入履歴から奴がどこのだれかなのかすぐに調べられる。しかし証拠はごく短い時間のもので、しっかり録れているのかも怪しい。もう少し泳がせるべきだった。
なぜ奴は隠し録りなどしようとしたのかも考えた。我々が見ていたのはドキュメンタリー映画だった。作品名を言えば「FAKE」だ。一時期、ゴーストライター問題で世間を賑わせた佐村河内氏が出演している。佐村河内氏には様々な疑惑があり、観客はそれぞれに知りたい真相があった。そしてこの作品には、おあつらえむきに「話してはいけない」ラストシーンが用意されていた。奴はその真相が真相であるか検証するために、あるいは重大場面を誰かに聞かせるために録っていたのだろうか。(ちなみに、この作品をみて検証云々などまったく無駄な行為だ)
こんなことを考えていたものだから、映画の冒頭はほとんど記憶にない。一週間前から楽しみにしていたから、本当に腹が立った。だからちょっとした意趣返しをしてやっても、責められることではないだろう。そう決めると怒りも静まり、また作品も評判通りの面白さで、その後は集中して問題のラストシーンまで観終えることができた。
場内にあかりが灯されると、観客たちは一斉に話しはじめた。観終えたら誰かと話し合いたくなる作品だった。そして隣の奴もまた、連れの女性と二言三言話し合っていた。女性の興奮した表情を見るに、彼女もこの作品を楽しんだのだろう。だから私は、あえて会話を遮るように、
「失礼ですけど、隠し録りされてませんよね?」
見ず知らずの人間に割り込まれ、彼女はぎょっとしていた。なんだこいつと言いたげな表情から、きっと奴と私のやりとりには気付いていたなかったのだと思う。奴はというと、またもや小さい声でしてませんと囁くと、彼女を押すようにして会場から出て行った。きっと外では聞かれているだろう。だれ、あれ。隠し録りってなんのこと?
奴が誤魔化すことなんて簡単だ。奴らはきっとすぐに忘れてしまうとも思う。でも、映画を観終えたあとの一番楽しいその瞬間に水を差してやったと思えば、私の気持ちもだいぶ収まるのだ。
新海誠は「君の名は。」で「秒速5センチメートル」を見た人に向けて、ファンサービスまたはSMプレイをした。
今も弄ばれた傷は消えないし、ハラハラもドキドキも「君の名は。」の後ろに見えた「秒速5センチメートル」のせいだ。
いつRADWIMPSが山崎まさよしに変化するのか、というのも見ものだった。
桜の花びらが秒速5センチ(遅い)で散る瞬間を、今か今かと見守った。
新海誠はポスト駿と言われているらしい。本人もピンと来てないだろう。
しかしだ。
1992年7月18日公開の映画『紅の豚』この映画のラストシーンを思い出してほしい。
「あれ、結局人間に戻ったっけ?豚のまんまだっけ?」となるだろう。
その9年後2001年7月20日に公開された『千と千尋の神隠し』
ラストの展開を思い出してほしい。
「豚…豚のまま終わる…!」
奇しくも『君の名は。』は『秒速5センチメートル』の9年後に発表されている。
「君の名は。」にはまだ、過去作を見た人をいたぶる仕組みがある。
君の名は。で雪野に気付いたときハッとしてうれしく思うのだが、それがどんどんと不安にかられていく。
雪野、やっと幸せになれてたかもしれなかったのに!ああああ!!