はてなキーワード: 三者三様とは
ブコメで自分の思い入れのある分野で、よっしゃーと思いながらブヒブヒ書き始めて、字が足らなくなって、高揚感と消化不良感に包まれて朝の通勤電車に乗ることあるよね?(俺はあります)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/amass.jp/178130/
なので、ピンポイントで映画「ブエノスアイレス」のサウンドトラックについて増田でもう少し書こうと思う。
ブエノスアイレスは香港の映画監督のウォンカーウァイの作品である。ウォンカーウァイが最近なにをしてるか全く知らないが、90年代後半から2000年ごろにかけて無茶苦茶はやった。マジで流行った。東京の一番オシャレな映画館(と俺が思っていた)シネマライズで前作が動員記録を打ち立てて、その最新作がシネマライズで公開されるってから、レンタルビデオ屋で過去作の「恋する惑星」とか予習してから渋谷のスペイン坂まで、地方出身の俺は当時付き合い始めたばかりの彼女と出かけたわけである。
個人的な思い出はさておき、記憶に残るサントラの重要な要因として「時代性」がある。シネマライズ、香港返還、ちょっと先取りしたゲイムービー、ちょっと前の流れだがピアソラブームなどの時代の空気をたっぷり吸った「ブエノスアイレス」はその要素に溢れてる。
収録曲に関してはアストールピアソラ、フランクザッパ、カエターノヴェローソ、という3人の組み合わせである。この3人を一つの場に持ってこようと思った人間はいないのではないか。そしてその3人は同時代にいながら、互いの音楽を聞いていないのではないか(いや、ザッパは聞いてるかも)。しかし、その三者三様の音楽がブエノスアイレスという映画の中にめちゃくちゃ嵌っている。
楽曲以外の収録要素もいい。一曲目のカエターノの「ククルククパローマ」のイントロの前に、短くイグアスの滝の音が入る。イグアスの滝は映画の中で象徴的な役割を果たしており、サントラの導入としては最高である。また楽曲の合間に、映画本編の登場人物のセリフが収録されているのがいい。広東語なので何言ってるかわかんないが、こういうのは雰囲気だ。
こんな最高な作品だが、他の名作サウンドトラックと同様に廃盤となっているようだ。映画自体も前評判の割には大ヒットというわけでもなく、ウォンカーウァイの時代も遠い過去になってるからしょうがない。
黒沢も8割くらいはマトモな事を言ってるし、なんなら途中から口数増えた人(名前忘れた)がアタオカ率一番高い。
黒沢は1人だけ女声で目立つのと、司会とパーソナリティを兼任してる都合で他の人がマトモな事を言ってるタイミングでアタオカな横槍を入れる形になって悪目立ちしてる。
全体の論旨としては、普通は製作会議で決まった方針に従って脚本を書くしそのときの翻案の許容度は作家や作品ごとに違う、今回は改変一切不可という約束があるという特殊事例だ、という、まぁ正当な話がベースになっていて、これが6割くらいのマトモさ。
出演者全員共通のアタオカポイントとして、最初の1〜2話だけならまだしもリライト食らいまくった後も翻案度を落とさなかった当該脚本家の異常性を無視していることがある。
◆なんで電子化しないの?
一読してなるほどと思ったけどなんかよくわかんない。
これ、本を作る人の思考だよね?
整理すると
1. 女オタク(ジャンル・界隈)の創作者は自作物を消して消えることが多い(実質消せるのは自己コントロールできるwebのもの)
2. 女オタクの読者は、作品が突然消えることに備えて創作者が後から手出しできない物理的な創作物が欲しい
…この…3番目は誰なの?ってなるよね。
創作者さんへ「なんで電子化しないの?」と聞いたら「(消されない他者の)作品はとにかく物理で持っておきたい」となぜか消費者の側で回答されてるようにも読めてしまう。pixivなどが突然閉鎖で自作物が消えるとかのパターンまではほぼ考えてない回答でしょ。
まあ当然、「創作者かつ消費者」という立場でしょうね。本を作るし買うし。
んじゃあさ、この部分の本を作る動機としては「消費者として物理の流れが好ましいのでそれを後押しするために創作者として物理で作る」…ってコト!?
私もしてるんだからさって同調圧力とまではいわないけどそんな要素もありつつ物理がどっさりな界隈になってるの?私が物理で作ることで今後オキニの創作者が物理で出してくれるチャンスが上がるかも…!って気持ちの人たちのスタンドアローンコンプレックス現象なの?
ないこともないし不思議でもないしわからなくもない。界隈を盛り上げるために自分も参加するってのはwebでもあるよね。ニコニコ動画の好きなジャンルの動画が増えて欲しくて自分も動画を作るとか。
そこはわかるんだけど。「盛り上げ」という点はわかるんだけど…。
「将来、web上から創作物を消すメンタルの創作者が物理で作りたくなるような雰囲気を醸成する」って点だけはニコニコの例とかとはかなり違うよね。どんなウルトラCがあれば繊細メンタル人がうっかり消せない物理本を残したくなるのか。そんな空気感を作れるとほんのわずかでも思いながら物理を作ってる(という文章を書いた)のか。
もうひとつ。
「女はよく創作物を消したくなる」とほぼ両者とも書いてるわけだけど(前者は作者の性別書いてないし増田だって泣いた経験あるが)、じゃあそんな自覚、界隈の傾向があるのにどうして自分は消せない物理を作るの?ってならない?
みんな自分だけは絶対に将来創作物を消し去りたくならないと確信しながらしょっちゅう創作物を消す他者の作品をアーカイブするために他者をだまくらかして物理で残させようとする一環として自分も物理でアーカイブされちゃう状況に身をおくの?
女性は創作物を消したくなる傾向になるのに男性向けに比べて電子化が進んでいない。って文章に矛盾ちゅうか違和感あるよね。じゃあ物理で作んないでしょ。消費者として傾向が感じられるなら創作者として予防するんでは?
まーこれもね。千部も数百もいかない物理本といつでもいつまでもなwebを同等扱いする詭弁ではあるのだけれどね。
この疑問を解消する仮定として。
女はDNAにでも刻まれているのか突然変異である日急に作品を消したくなる人格に変貌してしまうことが多発する。生物学的要素な理由で(女オタクって肉食っぽいよね)。しかも他者のそれを観察しても発症までは自分はそうならないだろうと楽観視している生き物。ってことになる。失礼~。
まーね。ほんとはわかってる。
女性界隈はwebから消える消えないなんてのは本を作る理由のまー10%あるんかないか。物理がいい装丁が楽しいイベント最高ー!とかのほうが99割を占めてるってことは。
でもねー。この話題は毎回しょっちゅう消えるから物理が欲しいって言う人が出てくるわけじゃん。今回みたいに。
どの立場で言ってるのですか?ってのが「女オタク」への印象。いや高圧的に言ってるんじゃなくて創作者か消費者かってね。
今回みたいにナチュラルにミックスした文章をお出しされるとどの口がって思っちゃう。同人は全員参加者みたいな建前はえーから。
50:50じゃないよね。創作者はほぼイコール消費者なわけだけどこういう感じの言及をするときのメンタルはどれぐらいの割りあいで自分の属性を置いているんだろう。消費8創作2ぐらい?わかんないけどね。
作り手はそうとして100%消費者の人だとしてもどういう気持ちで消すから物理で欲しいって言うんだろ。電書の営利的サービス終了じゃなくて個人が消したいとしょっちゅう願う界隈で消えてもいいからモノは残せ、かのように見える言動を男の増田でもちょくちょく見かけるのはあまりにも対症療法的っちゅーか。なんか恐い。web失踪が頻発する界隈ですることが全体的に物理を求めていくことなのか!?なんか違くね!?…男女問わずどんなに環境がよくっても消える人は0人にはならないけどさ。じゃあなんだ。リスクマネジメントが強ぇ奴らなのか。界隈の特徴になるぐらい。
つまり俺は女オタクよくわかんないってこったよ。消える傾向が高い原因もその中で本を作る人も消える人が多いから本が欲しいと公言する人も三者三様俺とは考え方が違ってぜーいんわっかんないっ!ぜーいんわかんないってことはニアリー女がわっかんないってこと!まとまらないしどうでもよくなった練る!
こんばんは
最近は事後に書いてたけど、今回は事前に書いとくよ
秋華賞だね
スターズオンアースが桜花賞、オークスの二冠を取ってて、三冠目を取れるかに注目が集まっているよ
じゃあこれまでの二冠馬はどのくらいの率で三冠目を取れてるか気になるよね?
これまで桜花賞とオークスを勝った馬は11頭いて、そのうち6頭が三冠を達成しているよ
案外多いよね?
まあでも、ほとんど似たメンバーの世代最高峰レース、しかも距離も条件も違うレースで2連勝してる馬なんだもの、実力は抜きん出てるんだよね
そりゃ三冠取る馬が半数以上だわ、と納得できるよ
で、三冠馬になれなかった馬の成績だけど
4頭が出走したのに負けているよ
でも成績はさすがに優秀で、2着入線が2頭、なんだけどブエナビスタは斜行で3着に降着してる
あとは3着が1頭、4着が1頭
つまり、ブエナビスタの降着がなく、入線だけで言えば、春の二冠馬の三冠目の成績は、6-2-1-1ということになる
正しい成績でも6-1-2-1だね
まあ、メンバー全員G1勝った子がいないのに、1人だけG1を2勝してる子がいるんだから、どう考えたって今回も有力
調教も絶好調ではないようだけど、十分に力は出せる程度に仕上がっているみたいだし、惨敗はないと思う
まあ勝つかはわかんないね
スタニングローズ、ナミュール、アートハウスの3頭がどうしても強いですね
ただ、スタニングローズが紫苑ステークスでもかなりズブかったし、あれからドンと良化してるのが条件
そして、実際かなり良化してるという話
ナミュールは1番強かった阪神JFはクリスチャンデムーロの手腕で、同じくスタートがダメだった桜花賞は武史くんで惨敗してる
オークスは武史君で3着だけど、彼は東京コース強いし、大きいコースのほうが向いている馬な感じはある
何よりスタートが安定しないし、実力は間違いないんだけど、信頼しきれない部分はどうしてもあるよね
アートハウスは間違いないのだけど、春のクラシックで結果残してないのだけが不安かもしれない
この3頭にほとんど差はないんだけど、実績で言うなら阪神や中山の2000経験がないナミュールが少し未知な感じはある
でもハマった時の破壊力というか、馬のスケールが1番でかいのもナミュールだよね
昨年のアカイトリノムスメみたいなのもあるし、馬の格が高いというか、雰囲気があるような馬が最終的な勝ってくるような気もしている
三者三様で、結局優劣つけれないよね
そして牝馬の国枝厩舎、牝馬の福永騎手なんで、7番人気という数字以上に勝ちに近い馬だよ
スタニングローズもズブくて上が伸び切れない中、差し切るかという見事な末脚を見せたのがライラック
あれを見ると展開次第ではライラック絡むかもしれないよね、というのは感じた
あと、紫苑ステークスのあと、武史君が2000は距離が長いって言ってたけど、サウンドビバーチェはスタニングローズとほとんど変わらないレースを見せてくれていた
あれでサウンドビバーチェが距離ダメと言われるなら、スタニングローズも今回勝ち負けできるクオリティじゃなくない?という気がしてしまう
紫苑ステークスからグググっとスタニングローズが良化してるからスタニングローズ高評価でいいんだけどさ
それならサウンドビバーチェもある程度評価しなくちゃいけなくない?と思う
武史君がサウンドビバーチェに2000は長い、と言っただけでここまで人気下がってるのは美味しく見えますけどね
まあ武史君がいうんだから正しいんでしょうけども
で、結論
あと、3着ならなくはない馬が5頭
クラシックなんで紐荒れはあると思うし、全てケアするなら16頭中12頭は抑えた方がいいかもね
ただ、2着までは上6頭で決まると思う
今回は本命のトップ4が全て2つの枠に入ったので、当然枠連を買うのも良いでしょう
「音を立てるほど勢いよく啜るのは、麺に汁が絡んだ状態で口に運ぶためだ。物事には理由がある。その理由を無視して、従来のやり方を抑え込む方が愚かだ」
「えー、でもそれを気にする人がいるってのは分かるでしょ」
「個人の気にする気にしないレベルで是非を求めたら社会は回らん。何が正しいか間違ってるかも分からず何もできなくなる」
こういった法律に縛られない、慣習的な何かを俺たちは漠然と“かくあるべき”と思っている。
だからこそ、その“かくあるべき”を常識だとか文化だとか、作法という言葉で簡潔にまとめられるんだ。
「理屈が伴っているかどうかが重要なんだよ。米を炊く時だって、研ぐ段階から軟水を使うだろ」
「え? 米を洗う時にも市販水って勿体なくないすか」
「米は洗ったり研いだりする際にも水を吸うだろ。本当に勿体ないと思っているなら、最初から最後まで水道水を使えばいい」
「あー、なるほど」
「お前アレだろ? 座って用を足せと周りに言うくせに、流す時に蓋しないタイプだろ」
「逆だ、逆」
しかし、こういったルールの“延長線”を誰がどのように引いているのか、そして妥当なのか。
実際には誰も把握していなくて、共有できているかも怪しかった。
なので話を掘り下げようとするほど墓穴にハマりやすく、誰も出られなくなってしまうわけだ。
それでも概ね見解は一致していたから、さして険悪にはならなかった。
「そりゃあ似非マナーとか、古臭いルールは無くなってもいいさ。でも、全てがそうじゃないだろう。箸の持ち方だって変わらない」
だけど話題が箸の持ち方になった時、なんだか雲行きが怪しくなってきた。
切り出したのは俺だったが、これは七面倒なことになると言ってから気づいた。
この時、ラーメンを食べている彼らの手元は三者三様だったんだ。
「えー、箸の持ち方くらい自由でいいじゃん」
「そりゃあ、まあ、ちゃんと持てた方が行儀は良いかも知れないけどさ」
「箸の持ち方ひとつで窮屈になる社会が良いとは、とても我は思えん」
「オイラ、この持ち方でも支障ないし」
「お前の持ち方は、さすがにクセがありすぎる」
「えー! “箸の持ち方くらい自由でいい”って、さっき言ったじゃん」
俺みたいにちゃんと持つべき派、多少なら構わない派、どんな持ち方でもOK派……
それを直すべきか、指摘するべきか等など。
皆その持ち方で、食事を数え切れないほど行ってきたんだ。
つまり、この議論は人生の一部をかけているに等しいといえ、それ故にみんな必死だった。
記憶に新しいのだと今の仮面ライダーがそうかな、血気盛んな若手と普段はコメディキャラの二号枠がキレた事もあり本気で主人公を殺しに来てた、明日はどうなるんだろうか
有名なやつだとBLEACHで「記憶を自由に改ざんできる敵」が自分が昔から仲間だったと全員信じ込ませて、父親以外が主人公を責めてくるという事を仕向けたし
からくりサーカスやうしおととらにも敵の策略で主人公が敵認定されたり、主人公の存在を忘却された事もあった
少しマイナーかもしれないが、ポケモン不思議のダンジョンってゲームでも主人公と相棒枠以外がみんな敵として襲いかかってきて、しばらく逃げ回るハメになる展開があった
で、こういう展開は後々に絆が深まるきっかけとか、主人公がいいやつであることをピックアップする展開に繋がるわけだ
たとえばからくりサーカスなら主人公が笑顔で「みんな間違えるよ、仕方ないさ!」と言い、本当の敵に向かうって感じだった
それ以外も「ごめんな」「ええんやで」で話が終わり、仲間たちは更に絆を強固なものにしていった…って感じ
うーん、勧善懲悪モノならそれでいいかもしれないけど…それで終わっていいのかなぁ?
たとえば、その孤立した主人公が罵倒されたり正気に戻るように説得されたり洗脳されてると信じ込んだ状態の仲間たちから、本気で殺しにかかられてるのだ
怖いよ、普通なら
トラウマになるって
深まらないよ絆、更に亀裂が入る
だから、後々……「俺はあのとき怖かったんだ!お前らが俺を敵認定して!」とか「…どうせ信じてないんだろ?」とか疑心暗鬼をこじらせたり、その時の事を引き合いに出すって展開があってもいいんじゃないか
それで仲間が「し、仕方ないだろ!あのときは騙されてたんだし」「まだ言うのか、しつこいぞ…そういう振る舞いのせいで疑われたのもあるんだからな」とか三者三様の反応を返し、今度は主人公がみんなを敵と認識して……的な
そういうの、あんまないよね
流石にウケないからか
あれ読んで朝鮮人め!という気持ちになる人おるんだろな、多分。まじかよ、とは思うが。
一郎さんの阿南陸相の自決への怒りのツイートを今の政治に結びつけて一緒に怒ってる人は見たし。
自分は一連の東へ向かうツイートは、敗戦の混乱を感じることができてよかったと思う。なんもかんもカツカツでみんな余裕がないから、不寛容。優しい人は優しいけども、みんながそうはできない。でも起きた出来事はショッキングで記憶に残りやすい。
全く存在しない出来事を新たに作り出す事は無いと思うので、多分日記以外の根拠があるか、インタビューとか取材した結果のツイートだろう。
いや、軍関係の奉仕に行った先で日本は負けるって煽ってきた朝鮮人と口喧嘩して負けた事ゼロから作らないでしょ、普通。創作ならすごいよ。私だったら、ひよって苛烈な環境で働いていた人達への連帯感とか哀れみのエピソードにしちゃいそうだもん。
自分が広島市の義務教育課程を卒業して20年近く経ってるから参考にはならないかもだけど、急に教育が右翼化したとかじゃない限り、ダム建設に徴用された朝鮮人など差別の話、日本が植民地へしてきた事への反省教育はされてるはず。
さすがに君が代の代わりにアリランの歌を教えられるとかはもう無いとは思いたいけど。
だから安易にヘイト創作しないと思うんだよなあ。悪い印象与える位なら存在無視しろ、って事なら分かるけど、一郎さんややすこさんの日記に朝鮮の人が出てこないので、透明な存在のままだったろう。戦争孤児の浮浪者集団も強烈に印象づけられたけど、その集団に弁当強奪された旨のツイートへ、彼らは可哀想な存在だからと諭す反応があったな。
シュンちゃんも一郎さんもやすこさんも、聖人ではないし、ただの一個人の感想だと思って見ている。日記に他人が色々肉付けしてるから、そこが嫌な人はいるんだろう。わたしは映像作品を見るより受容しやすかった。
個人的には三者三様の視点で終戦期のやり取りを見ることが出来るのはありがたいと思う。終戦後にやすこさんが小磯元首相の血縁者と分かるツイート、ビックリしたのと同時に米軍がやってくる事への強い不安感や玉音放送聞いた後の悔しがりに納得がいった。
自分が読んだ事のある戦中の日記、その子が原爆にあって5日で終わってたのでこのまま年末まで読めるなら読みたい。(やすこさんは9月中旬、シュンちゃんと一郎さんは年末まで日記が続く予定)
最近ハマっている(いや、もう過去形だけど。ハマっていた)ジャンルの話。
原作はそこそこ有名で、同人界隈では爆発的な人気を誇ってるわけじゃないけど、それなりに人が多いジャンル。
新進気鋭、って言い方が正しいかはわからないけど。某赤豚ではジャンルオンリーイベ、某貴様ではCPオンリーイベの開催も新しく決まって「今まさに旬ジャンルへの道を駆けあがってます」ってイメージの、とあるジャンルの話だ。
原作に携わってる方がツイッターで二次創作絵に反応することも結構あった。
たぶん一番人気だろうCPの中に、キャラ名ががっつりそのまま入ってしまってることもあって、検索に引っかかりやすいのも一因だったのかもしれない。
(例えば、ユウタ×アキラ→ユウアキ、だったらキャラ名検索には引っかからないだろうけど、ユウタ×レオ→ユウレオ、だと「レオ」部分で引っかかりやすくなる、みたいな)
「ユウレオ」って表記していたものが「ユレ」になったり、ツイッターだったら絵文字使ったり。
原作サイドに腐向けの創作が見つからない様に隠れる、腐女子だからこの傾向はわかるし大切だと思う(1番はSNSに腐向けをアップしないことだろうけど、昨今の風潮的に難しいだろうな)
わたしは基本的に見るだけで、このジャンルで創作することはほぼなかったけど、「ユウレオ」が「ユレ」になりイニシャル表記になり絵文字になり最終的に「コし」(字形が似てる全然別の字を使った呼称、っていえば通じるかな)になる過程を見ていて、創作する側はいちいち今どんな呼び名されてるのか(というより、今までの呼称が「検索に引っかかりやすいNGワード扱いされていないかどうか」)追いかけるのか、大変だな、とぼんやり思っていた。
考察好きが集まって、原作の考察をプレゼンする会をオンラインで開催した際に、途中から例の一番人気のCPの話が混在で盛り上がり、最終的に「CP部分をぼかせばこの考察を原作サイドに見てもらえるのでは」とまで言い出す異常な盛り上がり方をし、さすがに苦言を呈された、というのが炎上元だった。
わたしは考察には興味がないので(というより他人の考察を見るとその考察に影響されまくってフィルターかけて原作を見てしまうのであまり見ないようにしている)プレゼン会の存在も曖昧にしか知らなかったんだが、今回ばかりはさすがに何が起きてるのか確認して、その内容にドン引きした。
あれだけ隠れよう隠れようと周りに呼びかけてたCPの人間が、「CP部分をぼかして原作サイドに見せる」とかよく言えたもんだな、と思った。
同じことを考えた人は当然たくさんいたらしく、荒れた。別CPの人間には白い目で見られたし、同CPの人間からも「さすがにこれはひどい」という意見をよく見かけた。プレゼン参加者は、「迂闊だった・浅はかだった」と反省する人と、「そもそもプレゼン会の要綱にCPが含まれることを書いてるんだから悪くない」って言い張る人と、我関せずを貫く人と、三者三様だった。とりあえず、悪くないと言い張る人をブロックしながら動向を追った。
結局、苦言を呈した人vsプレゼン会主催+盛り上がってたプレゼン参加者で一通り荒れたあと、プレゼン会の主催が謝罪+垢削除+「界隈荒らしてすみませんでした、もう二度とこの界隈で創作しないのでわたしのことは忘れてください」宣言で、この話題は落ち着いた。
よくある学級会案件の終息方法だし、もともと関わり合いもなかったので、とりあえず落ち着いたのか、くらいに思っていた。
匿名でCP小説を提出しあって参加者が読み、感想を言い合い、作者を当てる、という企画だった。
わたしは仕事中に発案を知ったので、面白そうだなと思いながらも参加はしなかった。
企画自体はディスコードで行われていたらしいが、その後、参加者で集まって喋るフリースペースが、もくりに出来ていた。URLがツイッターに公開されていたので、見に行ってみた。
フリースペースの参加者に、この間大炎上したプレゼン会の主催がいた。ほんの半月前に、謝罪して、垢削除して、もう二度とこの界隈で創作しない、と宣言した人が、CP小説を提出する企画に参加していた。
それを見た瞬間、なんだかいきなり、このCPにかかわるすべてに疲れてしまった。
「問題を起こしたんだから一生反省していろ、二度と創作するな」とか言いたいわけじゃない。
でも、大炎上を起こして、「もう二度と創作しません、わたしのことは忘れて」という内容の謝罪をした人が、容易にその本人だと特定できるアカウントで、1ヵ月もしないうちに新しい企画に参加している。そして、企画参加者に受け入れてもらっている。その事実は、素直な言葉でいうなら「気持ち悪い」という感覚に近かった。半月では、とてもじゃないけれど、わたしはあの炎上を忘れられない。
あの謝罪は何だったんだろう。あの宣言は何だったんだろう。受け入れている人たちは何なんだろう。受け入れている人たちも、普段は過剰に「隠れろ」って言っているんだろうか。
そんなことを考えているうちに、どんどん、このジャンルにいることは無理だな、と思うようになっていった。
参加しようかどうか迷っていた赤豚のイベントは、参加しないことにした。
今まで、新しく気になるジャンルが出来たから、前のジャンルから少しずつ離れていったことはあったけれど、これだけ明確に「足を洗おう」と思って離れるのは初めてだ。
本を出すサークル参加者は多そうだし、大して創作してもいないわたしひとりが消えても、きっと誰も気づかなくて、何も変わらないのはわかっている。
同人女は等しくえらくねーよ!正当化すんな!っていう全方位に向けたお気持ちなので良い人もいるんだけど…みたいなのは省きますが、同人女じゃないと女オタク生きにくいなって思う個人の私怨です。(ここでは見る側作る側を問わず夢女子・腐女子・男女CP厨を同人女と定義します)
オタク女のコミュニティではこの3つのどこかに属してる前提で話が進むのでめちゃくちゃストレスです。そのため「好きな漫画?鬼滅の刃!流行ってるよね〜」みたいなファッションオタクとしてお茶を濁したり、オタクであることを隠すようになったんですけど、Twitterがあまりにも同人女のるつぼ。検索すれば何かしらの二次創作がヒットするの、全然森とタタラ場で暮らせてなくないですか?こっちは公式アカウント見たいだけなのにちょっとリプライを遡ると「〇〇くん幼女すぎ」みたいなえぐめのツイートが目に入るのめちゃくちゃ嫌なんですよね。性別知らずにゲームしてるのかな。
他にもやりたい放題してるので、同人女は他人の作品の二次創作で承認欲求を満たすために鍵パカのアカウントを使ってるのかと邪推してしまいます。本当に何で鍵かけないんだろう。
嫌なら見るなってゾーニングされてることが前提の発言じゃないんですか?
三者三様に嫌いなんですけど腐女子が特に苦手です。高校で私がオタクって分かった時に当然のようにその作品のBLの話をされて、さらには馬×男のCPについて話されたトラウマがあるんですけど、ジャブとしては重すぎるでしょ。初手から人外てなんなん?
・腐女子
男キャラ同士で妄想してる人と話してるとすべての展開がCP妄想に終着したり、キャラの会話を燃料とか言われたりで話が合わないんですよね。
中でも嫌なタイプが配慮したつもり腐女子とマウント腐女子です。
前者は腐女子の配慮って腐女子同士のことしか考えてないのかなって感じるあれです。
度々Twitter上で議論になる腐女子の自衛問題あるじゃないですか。例えば赤くんと黄色くんっていう苗字のCPに対して「赤くんと黄色くん最高!(画像の添付)」に赤黄とか黄赤ってつけろ、とかどんなシチュエーションか明記しろ、みたいな。
じゃあ腐女子じゃない人が自衛するためにCP名に赤を使うなよ!っていうのはあんまり言われてなくないですか?
どんなに公式名称で呼ばないとかの配慮をしてるつもりでも漢字一字の苗字や名前のキャラをCP名にしてる時点で無意味ですよね。
マウント腐女子は顔カプって言って作中で交流の少ないキャラをCPにしてる人をディスる腐女子のことです。確かに顔カプも理解に苦しみますが己を振り返ってみた時に笑える立場でしょうか?信頼関係が描かれているから、交流が多いからといって別にそのキャラ同士は恋愛関係ではないことがほとんどです。
この手の腐女子は厄介なことに多くが関係性厨を自称しています。しかしキャラ同士の関係性を重んじるなら原作以上の関係を望まないと思います。
親友なのが良いよね、ライバルなのが良いよね、みたいな話をしてるのにそこでCPに発展させられてもついていけません。
あと現実の性的指向の問題と混同する人多くないですか?今あなたのことは呼んでないんですが…
それとクラスメイト同士のBL小説みたいなのをメールで送られたことがあって、それも鳥肌ものなんですけどわりと対象の男子が寛容で「こういうのが好きなんだろ?」て腐女子相手に面白がってやるノリあるじゃないですか。キショ・キショ・キショ!需要ないわ!
・夢女子
いわゆる乙女ゲームを通っていないのでキャラと恋愛する感覚がよく分からないのもあるんですけど、夢女子と腐女子兼任してる友人に見せられた夢小説がまったくピンと来なかったんですよね。
そもそも俺TUEEE的な傾向のものが苦手なのでキャラのセリフや立場を乗っ取って無双する話にいまいち魅力を感じません。
・男女CP厨
自分の所属は一番ここが近いと思います。ただ明確に矢印が出てたり成立してるCPを応援してるのであって、原作にA男←B女の描写があるのにC男とB女をカプらせたりするのは違くないですか?パズルすな
上記の理由から同人女が苦手なんですけど、だからって他者の嗜好は変えられないのでブロックに勤しむしかないんですよね。この三つ巴でぶつかり合って消滅しないかな(カロリー0)
的外れな反応があって驚きました。タイトルは「死んでくれ同人女 人の目に触れないまま」とかの方が良かったですか?私は性別問わず作中で明確に恋愛関係になってない二人の二次創作CPが嫌いなので(作品の主題から逸れてると思う)、人を勝手に天邪鬼みたいにしないでください!
最近急にタイムラインで読書感想文に対するツイートをよく見るようになって
なんでだろうと思ってたら、ついさっきこれがおそらく話題の大元になったツイートを見つけた。
https://twitter.com/nanngin/status/1276943146639749121
たまーーーーに国語の授業の「作者の気持ちを考えましょう」の無意味さを皮肉った話とかバズってるし
定期的に小学校の国語教育の話は出てくるけど、読書感想文、よっぽどヘイト買ってるんだね。
私は小学生のころ読書感想文が大好きなこどもだった。だからちょっと不思議だ。
他の教科はてんで駄目な中で、人以上に好きなことが作文を書くことだった。
これは今この文章を見ている人ならわかると思うけど、私は特別文を書くのがうまかったわけでもない。
国語の点数も……私は漢字の形を覚えるのがとにかく苦手なこどもで、今考えれば私はディスレクシアなんだけど
何度事前に予習や復習をしても授業で習った範囲の二割くらいしか覚えられなかった(今でも得意ではない)
じゃあそんな中でなぜ好きになれたのかというと、
単純に私を受け持った先生や小学校の教育方針が徹底的に「褒めて伸ばす」方針をとっていたからだ。
ただ、空想や自分の気持ちについて突き詰めて考えることは好きだった。
読書感想文においてもそれは同じで、本を読むこと以上に本を読んだあと、
「自分はどう思ったか、読む前と読んだ後でどのような心情の変化があったか」考えるのが好きだった。
私が作文や読書感想文を嫌いにならなかったのは、先生が誰も作文での自己表現を一度だって咎めたことがなかったことが大きいように思う。
添削やアドバイスをくれた先生はいたような気がするけれど……それでもあくまで私の文章をもっと伝わりやすく、もっと良いものにしようという意思のものばかりで、最終的に私の伝えたいことや表現しているものが曲げられたりするような添削をする先生は一人だっていなかった。
先生の求めるようなことを器用に書けていたこどもだった記憶もない。題材や思想や内容に対するお咎めや修正もなかった。
どんな作文や読書感想文を書いても、先生はみんな私の書いた文章をちゃんと読んでから褒めてくれた。
元ツイを見るとどうもそうでない?学校や先生が多いのかもしれない印象を受ける。
実際のところそういうものなんでしょか。
読書感想文についても同じで、普段私が本を読むのはもっぱらマンガや図鑑、絵本や辞典の方が圧倒的に多かったので
「物語」が他者の手によって選書されているのが新鮮でこういう機会でもないと読まないこどもだったので大変ありがたかったと、それについて生徒が三者三様の自分の意見を書く、という部分が楽しくて好きだった。
その本を自分が選んでいないのに読書感想文全国コンクールの文章読むのも好きだったな。
映画や本のレビューサイトに書いたことがある人ならわかると思うんだけど、同じものを見た人でも全然意見が違うことへの面白さって確実にある。そしてその面白さは、まず自分がその作品を見て自分自身の意見を持っていないと感じることが難しい。
その楽しさを身につけられたのは今思えば読書感想文のおかげかもしれない。
(元ツイにあった「感想文集の売上が図書館担当の先生たちの研究会の出張費用になってる」ことは知らなかったけど、その研究会がこどもたちの図書館教育や国語教育に有用に使われているのなら、私は別に……というかそこに何の問題があるのかわからない。生徒に直接売上が行く方がいいということなら大賛成です)
ただ、みんな同じ教育を受けていたのならみんな私のように文章を書くのが好きだったり読書感想文に嫌悪感を抱かずに済むように思えるけれど実際そうではなかった。
私がそう強く記憶してるのは、学校の何かの催しの時に、作文とそれをスピーチする生徒が必要で、立候補制だったがなかなか手が上がらず、その時私が引き受けた思い出があるからだ。
この時は作文を書くのと全校生徒の前でその内容をスピーチするのがセットだったので後者の部分が重荷になって誰も手をあげなかったのかもしれないけど、とにかく進んで誰も作文を書きたがらなかった。
「作文を書けば先生に褒めてもらえる(しかもテストと違ってここは間違ってるとか言われたり減点されることがない)」という
文章を書くことに対しては全方向ハッピーな考え方をしていた当時の私は多少不思議だったけれど、いくら学校方針でツイートに挙げられたような堅苦しい自己表現としての作文を許さないような教育を受けていなくたって、
そもそも大半のこどもは「できることなら作文なんか書きたくない」のかもしれない。
だから教育方法をいくら変えたところで作文や読書感想文が苦手な子供は一定数は減らないかもしれない、と少し思っている。
こどもはそもそも面倒なことなんて進んでやりたがらない。好きでもない限り。
作文書くのは好きだったけど、そんな私でも原稿用紙何枚も書き上げると腕が疲れてじんじんした。それでも私は好きだった。
私は学校でも家庭でも褒められることが少ないこどもだったのと、たまたま書くことに対するハードルが低かったので
「書けば無条件に褒められる」作文や読書感想文がとにかく好きだったしそれに救われていた。
元のツイートにあった、
「原稿用紙はこう使いなさい」「作文はこう書きなさい」という形式的指導が子供を読書感想文嫌いにさせてる?
っていう部分について、私はかつてのこどもとしてこれは必ずしも正しくないのではないかと思ってしまった。
本当に何度も言うけど私は特別文章を書くのが得意だったわけではない。
けれど、この「原稿用紙の使い方」や「作文の書き方」を小学校のうちに教わっていなければ、
教え方に問題がある(それに従わなかった生徒に厳しく指導する)だけで、内容自体はとても重要なことなんじゃないか。
これは教育としては非常に重要なことなのではと思ってしまうので、現役国語の先生からこの言葉が出ることに
私はちょっと驚いている。
原稿用紙の使い方や作文の書き方というのは「そう書かなくちゃいけない」というものよりも
「ある程度のルールに沿って書いた方が、見る人は見やすいし、書き手の伝えたいこともより伝わりやすくなる」という
学校教育の中でいうと採点側のためにあるのではなく、生徒のためにあるものだと思っていたからだ。
これは私の小学校時代の先生の、私の文章を見てくれるときの態度がずっとずっとこうだったから、という影響が大きいと思う。
でもこのツイ主の先生の辟易した書き方からするに、きっと現場ではそうではないんでしょうね。
「自由な自己表現をする」ことと「文章表現としてある程度の形式を学びそれに従った作文をつくる」ことは矛盾しないと思うんだけど、この矛盾しない教育がきっと難しいんだろう。
私の小学校でできていたことがそんなに特殊だったようには思えないから、その学校の方針や先生個人の考え方にも左右されるとは思うんだけど……。
あと私が小学校を卒業してからもう十年以上が経っているので今の学校教育ではなかなか同じようには出来ないかもしれない。
ただ、私みたいに作文や読書感想文で救われたこどももいるにはいるのだ。
「みんな嫌いになる」ものとして普遍的に槍玉に挙げられてるのを見ると、偶然私が幸福なこどもだったのか、それとも異常だったのか、よくわからなくなってくる。できるなら前者であってほしい。
今の仕事についてもうすぐ3年目。
変わっていった。
お局に目を付けられないように、きちんとした持ち物。
リモワ歴一年目:副業の家庭教師のバイト用に、シャツとパンツが中心。
生徒のお母様対策。
他のみんながすっぴん、Tシャツでも、何となく落ち着かずういてたかも。
リモワ歴もうすぐ三年目:基本キレイめカジュアル。モノトーン。
【ウインターストレートクール】という、三者三様にクールな雰囲気という
そして、その頃から人に服を褒められることが増えた。
本当はスーツとかが一番似合うらしいけど、仕事柄一切不要なので
少しでも感じよく見せようと、温かみのある暖色系の女らしい
大きな切れ長目が怖いと思われそうで、メイクも
垂れ目風にしたり、優しげに振る舞ってみたり。
本来の性格も元々ハッキリしてたのに、おとなしそうに振る舞ってみたり。
空回りしてたしなあ。
すごく素のままでいられる。
自分の個性を活かすようになってから、周りからの評判も良くなった。
今はそれが無い。
カーディガンに白ブラウスがたくさんいたコンサバな職場だったから。。
婚活も辞めたら、ほんと楽になった。
男ウケしない服装なのも知ってるけど、似合わない服を着て
今の自分が好きだ。