はてなキーワード: デルス・ウザーラとは
意外と悪くないけど何かムカつく。
このランキングは①主として欧米圏の②多数の人が③ここ20年で高得点を付けた映画なので、①'欧米以外の映画は不利、②'商業的にヒットした作品が有利、③'古い映画が不利、っていう問題点があるんだよな。
その結果、『ショーシャンクの空に』が1位で『暴力脱獄』(ショーシャンクの元ネタで、テーマは同じ名作)が圏外とか極端なことが起こってるし(問題点③')。
ざっと見た感じ日本人監督は黒澤明とジブリ勢しか入ってないけど、小津安二郎や小林正樹は?ってなる。この2人の映画がここに挙がってる映画より劣ってるとは思えん。あと同じ黒澤映画の中でも『七人の侍』はともかく『羅生門』ってセレクトはおかしい。『生きる』や『デルス・ウザーラ』の方が熱意を込めて作られている(問題点①')。
それとテーマ性の高い映画と純粋娯楽作品をごっちゃにしてんのもいただけない。『レオン』と『パルプ・フィクション』みたいな娯楽作品を『時計じかけのオレンジ』と並べられても、何を軸に比較してんの?ってなる(問題点②')。
結局、この手のランキングを上手く作るには、テーマごとにランキング作るしかないと思う。◆「クソみたいな人生をどう生きるか部門」1位『ショーシャンクの空に』、2位『暴力脱獄』、◆「クソみたいな資本主義社会をどう生きるか部門」1位『ファイト・クラブ』2位『市民ケーン』みたいにね。
※「『レヴェナント』テーマ解説(1)(イニャリトゥ監督のテーマ編)(http://anond.hatelabo.jp/20160523231652)」の続きです。
『レヴェナント』には、前編で書いた親子愛というテーマのほかに、「資本主義と環境問題」というテーマがあります。ただ、このテーマはイニャリトゥ監督自身のテーマというより、ディカプリオのテーマが混入したものではないかと思い、文書を分けて説明することにしました。
まず監督自身がインタビューでそう言っています。加えて、映画の中にも2つ根拠があります。
1つは、毛皮商人とインディアンとの戦いがサブストーリーとしてあったことです。これは露骨に資本主義と環境問題の対立を描いています。
もう1つは、主人公グラス(ディカプリオ)がバッファローの大群に驚くシーンがあった後に、バッファローの頭蓋骨の山を定期的に夢に見るようになってしまい、悩むことです。この背景にはアメリカで実際に行われたバッファローの掃討作戦(Wikipediaのアメリカバイソンの項目を参照)があります。毛皮商人の一味であったグラスが、バッファローの勇猛さを目の当たりにして、自分が手を貸してきたことの重大さに気が付き、後悔するシーンではないでしょうか。
(加えて、劇中に出てきた「朽ち果てた教会」が、タルコフスキーの『ノスタルジア』からの引用とみて、自然について語ろうとしているのだという見解も見られましたが、そこまで言っていいのか自信がありません)。
筆者の妄想です。
ただ、イニャリトゥ監督はデビュー作『アモーレス・ペロス』から前作『バードマン』まで、環境問題をテーマとして扱ったことがありません。というか監督は親子の問題ばかりをテーマにしていて、そんなに環境問題には興味がなかったと思われます(偏見)。おそらく監督的には「今回は、大自然の中で、親子愛をテーマにして、『デルス・ウザーラ』みたいな映画が撮りたいぞ」ぐらいの気持ちだったのではないでしょうか。
そこにばりばりのエコロジストであるディカプリオが参加したことで、シナリオに影響を与えていったものと思われます。
映像的には、バッファローの大群、頭蓋骨の山、朽ち果てた教会など、感動的・印象的なシーンが増えてよかったと思います。背景に映る雄大な自然にも意味が出てきて、それもよかったかと思います。
ただ、ストーリーはこれによりかなり難解になりました。特にラストシーンにおけるグラスの状況を考えると、①生きる意味(息子・復讐)を相次いで失ったことで精神が崩壊しかかっているが、②自然の偉大さに感銘を受け自らの行いを悔いるエコロジストになっている、という複雑なことになっており、テーマが分かりにくくなっています。
おわり
『レヴェナント』はめちゃくちゃ難解なんですが、ポイントを押さえれば、イニャリトゥ監督の過去の作品と大してテーマは変わんねぇことが分かります。
イニャリトゥ監督はデビュー作『アモーレス・ペロス』から前作『バードマン』までひたすら「親子」をテーマに映画を撮り続けてきた監督です。なので『レヴェナント』でもテーマは「親子」です(インタビューでもそう言っています)。もうちょい言うと、『レヴェナント』では「親の子に対する愛がいかに深いか」ということを描いてます。
主人公グラス(ディカプリオ)の台詞をちょっと考えてみれば分かります。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
これはグラスが救出された後にヘンリーに語った言葉ですが、この2つの台詞から分かることは、①グラスにとって息子ホークは生きる意味そのものであったこと、②グラスは物語のどっかで既に死んでいて、それにもかかわらず基地までたどり着いたということです。
死んでます。具体的にはフィッツジェラルドにより埋葬された後、息子ホークの死亡を確認した時点で力尽きています。通常、熊に襲われて、内蔵が見えてしまっていて、脚は複雑骨折、その上発熱していて、ろくな治療を受けられないまま生き埋めにされたら(さらに生きがいであった息子が殺されたら)、それは死ぬだろ、と思いませんか。
あれは肉体が死亡していながら精神の力(息子を愛する力)だけで動くゾンビみたいなもんです。ジョジョを読んでる人は、ボスにぶっ殺された後のブチャラティみたいなもんだと思ってください。
小難しい話になりますが、イニャリトゥ監督は前作『バードマン』で死と再生の話を描いていて、映画では好んで用いられるモチーフです(『鏡』、『8 1/2』など)。主人公が死んで復活するというのは映画では珍しい話ではありません。
加えて、本作のタイトルが"Revenant"(つまり「死から蘇った者」〔someone who has returned from the dead〕)であることもこの説を補強します。
解釈の問題になりますが、海外サイトの中には、グラスは死にそうになるたびに、野生動物に生まれ変わった(死と再生)のだとする説がありました。
最初は熊です。これはグラスが熊の毛皮を着て、熊の爪のネックレスを身につけ、川で魚を手づかみにし(木彫りの熊ですね)、それを生のままかじり付いていた点に表れています。
次は狼です。これはインディアンにバッファローの肉を求める際、四つん這いに這いつくばって、人にへつらっていたことと、投げられた肉を生のまま貪りついていたことから分かります。
その次は馬です。これは文字通り馬の腹から這い出てきたことから分かります。
最後になんかの肉食獣です。これは最後の戦いでわざわざ銃を捨てて、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることから分かります。
グラスはこれらの野生動物に生まれ変わる過程で回復していったと見ることができます。
愛です。
ここも解釈ですが、息子を失って生きる意味を失った以上、野生動物と同然の存在に成り下がったと見られるのではないでしょうか。
グラスが一匹狼のインディアンから教わった言葉です。「神の手」というのが直接的には川下に居たインディアン(リーさん)だったため、海外サイトではリーさんは神の復讐の代行者であると言う人が多かったです。「インディアンがあんなに近くに居るのに川に流したら殺されるに決まってるだろ」と言う人も居ますが、個人的には死と再生を繰り返したグラスさんの聖人パワーでリーさんを引き寄せたと思っています。つまり愛の力です。
あの表情には元ネタがあります。タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』のイワン君(12歳)の表情です(https://vimeo.com/153979733のラスト)。どういうときの表情かというと、まずイワン君はソ連の少年兵なのですが、ナチスに母と妹を殺されています。そんで夜中に1人でナチス軍に対する戦いをシミュレーションしている最中にあの表情をします。つまり、純粋さと愛にあふれた少年の心が、ナチスに対する復讐心で壊れかかっているときの表情です。これをグラスに類推するなら、あの表情は、復讐を終えたことで(生きる意味を再び失ったことで)グラスの精神が壊れかかっている(もしくは壊れてしまった)ことを意味しているのではないでしょうか。
あの吐息音をめぐって、海外掲示板では「グラスは死んだのか否か」について熱い議論が交わされています。これは監督の前作『バードマン』でもあった論争で、そこでの論争が、主人公は生きているという決着で終わったため、今回もグラスは生きているだろうという説が有力です。ただ、私の考えとしては、グラスは精神力(愛の力)だけで動くゾンビ状態なので、その精神が崩壊した以上、グラスは真の意味で死亡したと思っています。ジョジョを読んでる人はシルバー・チャリオッツ・レクイエム出現後のブチャラティを(略
愛する息子を殺され、肉体的に死亡した主人公が、愛の力で死と再生を繰り返し、敵に神罰を与えて、やっと死ぬ話です。つまりテーマは親の子に対する深い愛です。
ちょっと違いますが、そういう側面があった可能性が高いです。というのは、イニャリトゥ監督が今回の撮影で目標とした映画というのが、①黒澤明『デルス・ウザーラ』、②コッポラ『地獄の黙示録』、③タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』、④ヘルツォーク『フィッツカラルド』、⑤ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』だからです。映画ファンであればすぐ分かるのですが、これらは映画史上最も撮影が困難だった映画群です。例えば④の『フィッツカラルド』なんかは巨大な蒸気船を滑車を使って実際に山越えさせています。つまり、監督が映画史に残る過酷な映画撮影がやりたかったところに、アカデミー賞がどうしても欲しかったディカプリオと利害が一致した、というのが真相なのではないかと思っています。
掘り起こそうと思えばたくさんあります。例えば『レヴェナント』では上記の表情以外にもタルコフスキー作品からの引用が多い(「宙に浮く女性」、「貧しい人にご飯を分け与える姿」、「鳥」、「隕石」)のですが、それがただタルコフスキーの真似をしたかっただけなのか、意味があるのかがよく分かりません。それとフィッツジェラルドが神について2回話すシーンがあるのですが、その意味がよく分かりません。
それと、作中何度も繰り返される"As long as you can still grab a breath, you fight."という台詞の意味が実はまだよく分かっていません。特に、エンドロールが始まってからも聞こえる吐息音を考え合わせると、グラスが生きている説も導き出せるため、重要な要素である可能性があります。何か思いついたり新情報が出たらこっそりこの記事を訂正するかもしれません。
「『レヴェナント』テーマ解説(2)(ディカプリオのテーマ編)」(http://anond.hatelabo.jp/20160524110234)に続く
『レヴェナント』を観た。
監督の前作『バードマン』に比べて難解で、現段階ではテーマがさっぱり分からないのだが、主に海外サイトの議論を参考に、テーマの考察をまとめておくことにした(これを踏まえてオーディオコメンタリーやインタビューが出るのを待つことにする)。
そこで以下、結論、難解な理由、様々な視点からの問題提起、現段階で考えられるテーマ(妄想)の順に書いていくことにする。
考えながら書いたので、思ったより文章が長くなってしまった。結論を先に書いておく。
『レヴェナント』をそのテーマに基づいて要約すると次のようになる。
主人公グラスは、その人生の全てであった息子ホークを殺されたことで、生きる意味を見失い、死亡する。 しかし、息子を愛する気持ちにより、死と再生を繰り返し、野生動物に生まれ変わってまで生き残り、宿敵フィッツジェラルドのもとにたどり着く。
最後の戦いではフィッツジェラルドに瀕死の重傷を負わせた末、神の代行者リーによる神罰を引き寄せ、息子の敵を討つ。 息子を失い、復讐という目的も失ったグラスの精神は崩壊し、(ブチャラティ的な意味で生き延びていた)肉体もついに死を遂げる。
本作のテーマは、親が子を愛する気持ちがいかに強く、大きいものか、ということである。
『レヴェナント』のストーリーを単純に言えば、「復讐心に捕らわれた男が、大自然の中で死闘を繰り広げるが、最終的に復讐をやめる話」である(図式的に表現すれば、『大いなる勇者』+『デルス・ウザーラ』である)。
このストーリーを見たとき、すぐ連想するテーマは、①復讐のむなしさであったり、②大自然と対比された文明の批判である。
しかし、①復讐のむなしさがテーマだと言い張ることには疑問が多い。というのも、(後述するように)復讐をやめた後の主人公の表情は発狂寸前のそれである(復讐を完遂して破滅するか、中止して救われるかの方がテーマとしては明確なはずである)し、監督自身インタビューで復讐の物語を描くこと自体には興味がないと答えているからだ。
さらに、②文明批判がテーマだと言うのも苦しい。というのも、この映画には文明に対する疑問が提示されることがないからだ(『デルス・ウザーラ』のデルス、『大いなる勇者』のジョンソンのように、文明と対立する人物が出てこない)。
ということで、『レヴェナント』は単純なテーマで理解することが困難である。
『レヴェナント』は昔の映画からたくさん引用をしている上、宗教的に意味ありげな要素がたくさん散りばめられている。さらに監督の過去の作品との整合性まで考慮に入れるとすると、どの要素にどの程度力点を置いて物語を解釈すれば良いのか分からないという問題があり、これがテーマ理解の妨げとなっている。
(2)と関連するが、『レヴェナント』ではタルコフスキーの諸作品(『僕の村は戦場だった』、『鏡』、『ノスタルジア』、『アンドレイ・ルブリョフ』)からの引用が多数なされている(これを分かりやすくまとめた動画がある:https://vimeo.com/153979733)。
しかしタルコフスキーの作品と言えば、それ自体が難解映画の筆頭である。そこからの引用となると、どういう意図なのか(タルコフスキーの意図をそのまま継いでいるのか、ただタルコフスキーの表現が気に入ってやりたかっただけなのか)が皆目検討がつかないのだ。
そういうわけで、『レヴェナント』は難解な映画なのだが、海外のファンサイトでいくつか有力な問題提起がなされていたことから、これをいくつかまとめておく。
まず、イニャリトゥ監督の過去の作品では、「うまくいかない親子の関係」が描かれることが多い。
監督の前作『バードマン』では、監督そっくりの父親が、娘に全く愛されず尊敬もされていないことに気が付き、悩む様が描かれる。また、デビュー作『アモーレス・ペロス』では、マルクスそっくりの元反政府活動家が、活動のために家族を捨てたことで愛する娘と会えず、悲しむ様が描かれている。
これらの作品に比べ、『レヴェナント』は異質である。というのも、主人公グラス(ディカプリオ)と息子ホークの関係は互いに愛し合っているからだ。
この点をどう評価するのかがまず1つの問題である(問題点α)。
前作『バードマン』で、主人公は、演技に悩んだ末、舞台で拳銃自殺をする場面で、拳銃に実弾を込めて自分のこめかみに発射する。その死を賭した演技が絶大な評価を受け、主人公は自らの弱さの象徴であるバードマンを打ち倒すことに成功する。
こうした死と再生のイメージは、映画でよく用いられるモチーフである(『鏡』、『8 1/2』など)が、『レヴェナント』ではこれが3回(数え方によっては2回とも4回とも)も行われる。
① 熊に襲われ瀕死となり、フィッツジェラルドに埋葬されるが、立ち上がる。② インディアンに追われ、川に流されるが、生還する。③ 崖から落下したのち、馬の中に隠れ、回復する。
ではそれぞれ、何に生まれ変わったのだろうか。前作『バードマン』で主人公は、拳銃自殺ギリギリのことをすることで、弱さ(バードマン)を克服した強い人間に生まれ変わった。では本作ではどうか。
これについて、海外サイトに面白い考察があった。グラスは死と再生を繰り返すたびに、野生動物に生まれ変わっているというのである。
まず最初にグラスは熊に生まれ変わっている。その表れとして、グラスは熊の毛皮を着て、首に熊の爪のネックレスをしている。さらに川で魚を手づかみにし(木彫りの熊)、それを生のまま食べている。
次にグラスは狼に生まれ変わっている。その表れとして、インディアンにバッファローの肉をもらう際、四つんばいになって人間にへつらっている。そしてインディアンが肉を投げると、これを貪るように食っている。
さらに、グラスは馬に生まれ変わっている。これは冷たい夜を生き抜くために、馬の死体の中に隠れ、後に這い出ていることから明らかである。
最後の戦いにおいて、グラスは牙と爪で戦う肉食獣に生まれ変わっている。これは、銃を放棄し、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることに表れている。
上記の見方はそれ自体面白い見方だと思うが、これによって何が言いたいのか、というのはまた1つの問題である(問題点β)。
なお、グラスが当初の瀕死状態から山を走るところまで回復するのは、死と再生を何度も繰り返すからだという見方があった。
先に貼った動画(https://vimeo.com/153979733)から明らかなように、『レヴェナント』ではタルコフスキー作品からの引用が非常に多い。
そのうちよく解釈に影響を与えそうなものとして挙げられるのは、「宙に浮く女性」、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」、「鳥」、「朽ち果てた教会」、「隕石」である。
このうちここで取り上げたいのは、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」である。他の引用は解説が面倒くさすぎるので各自ぐぐってほしい。
この表情の元ネタは、『僕の村は戦場だった』である。この映画の主人公イワンくんは、ソ連の少年兵であるが、母と妹をナチスによって殺害されている。問題の表情は、そんなイワンくんがナチス軍相手に戦闘を仕掛けるシミュレーションを1人でしていたときのものである。
つまり、この表情は、純粋で愛に満ち足りていた少年の心が、ナチスへの復讐心で歪み、壊れかかるときのものである。
これをそのまま『レヴェナント』のグラスに類推するならば、グラスの心は最後の戦いの後、壊れかけていたことになる。
しかし、『僕の村は戦場だった』と違い、『レヴェナント』では復讐を止めた後にこの表情をしている。そのため、イワンくんの内心をそのままグラスに類推していいものか、グラスは最後にどういう心境だったのか、という問題が生じる(問題点γ)。
イニャリトゥ監督はインタビューで、目指している映画として以下の5本を挙げている。
① 黒澤明『デルス・ウザーラ』② コッポラ『地獄の黙示録』③ タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』④ ヘルツォーク『フィッツカラルド』⑤ ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』
共通点は、いずれも撮影に困難が伴った映画であるということである。
①『デルス・ウザーラ』では秋の風景を撮るはずが雪が降ってしまったためソ連軍を動員して人口葉を木に付けた、②『地獄の黙示録』では台風でセットが全て崩壊した、③『アンドレイ・ルブリョフ』ではソ連当局の検閲が通らず製作から公開までに10年以上の歳月を要した、④『フィッツカラルド』では実際に巨大蒸気船を滑車を使って山越えさせた、⑤『アギーレ/神の怒り』では撮影の過酷さから引き上げようとした俳優を銃で脅した、などなどの多数のエピソードがある。
そうすると、「テーマとかどうでもよくて、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃ・・・」という疑念が湧いてくるのである(問題点δ)。
これはグラスが途中で出会った一匹狼のインディアンの言葉だが、意味は正直言ってよく分からない。
ただ、ラストシーンでグラスが復讐を委ねた相手はインディアンのリー(誘拐されたポワカの父親)である。このことから海外サイトの中には「リーは神の手、すなわち、神の復讐の代行者である」との解釈が多く見られた。
イニャリトゥ監督の作品のテーマはいずれも生きる意味にまつわるものであるが、この点に関してグラスが2つの重要な言葉を残している。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
息子が全てだったという台詞は、グラスの生きる意味が息子にあったことを示している。そしてこれは、デビュー作から親子の関係を描き続けてきた監督自身の言葉でもあるだろう。
息子がフィッツジェラルドによって殺害されたことで、グラスは生きる意味を失う。代わりに「復讐」という意味を見出したかのようにも見えるが、それによって再生した姿は上述したように、野生動物の姿である。
このことからすると、私は既に死んでいるという台詞は、「生きる意味を失ったことで、人としては既に死んだ」ということを意味するのではないだろうか。
海外サイトの掲示板などで最も熱く議論されている論点は、グラスは死んだのか?という点である。
これが問題となる理由は、①復讐モノの物語は復讐者の死で終わる場合が多いということと、②戦いに勝利したとはいえグラスも致命傷を負っていること、③スタッフロールが始まってもグラスの吐息が聞こえること、といった事情があるからである。
さらに映画外の理由であるが、④前作『バードマン』においても主人公が最後に死んだのか死んでいないのかで論争があったこともこの議論に影響を与えている。
死んだ説に立つ人は①②の事情を挙げ、死んでないよ説に立つ人は③④の事情を挙げている状況にある。
しかし、これもテーマとの関係で考える必要がある(問題点ε)。
これらを踏まえて、現時点で筆者なりに『レヴェナント』のテーマについて考察してみたいと思う。
結論:
「親子」というテーマは『レヴェナント』においても依然として維持されている。
その根拠は、(a)グラスの息子ホークというキャラクターは史実に存在していないのにわざわざ登場させたこと、(b)監督がインタビューに対して、息子を登場させたのは親子関係を題材にすることで物語がより複雑で充実したものになると考えたからだと答えていること、(c)デビュー作から前作まで延々親子関係をテーマにしてきた監督が、ここに来て生涯のテーマを捨てたとは考えにくいこと、である。
② しかし、「親子」というテーマに対する切り口が、前作までとは違う。
前作までの切り口は、分かり合えない親子の問題をどう解決するか、というものであった。『レヴェナント』はそうではなく、子供を生きる意味としてきた親が、子を喪失したとき、どうなってしまうのか、という切り口で「親子」というテーマに迫っている。
その根拠は、(a)グラスが息子ホークが人生の全てであったと言及していること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:息子ホークを失ったことで、グラスが生きる意味を喪失し、結果、人間としては死んだということを表現している。
その根拠は、(a)野生動物へと生まれ変わるタイミングが、息子ホークを失ったことをグラスが認識した時点からであること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:グラスの精神が壊れ(かかっ)ていることを意味している。
その根拠は、(a)元ネタである『僕の村は戦場だった』のイワン少年がやはり精神が壊れかかったときにこの表情をしたということ、(b)息子ホークという生きる意味に加え、復讐という一応の生きる目的さえ失ったグラスには、これから生きる意味が何もないこと、である。
結論:グラスは死んでいる。
この問題は前作『バードマン』で同様の問題が争われたときと同様、作品のテーマから考えなければならない。
前作『バードマン』で主人公の生死について争いになったとき、生きている説が有力となった理由は、作品のテーマが「『中年の危機』を迎え、娘ともうまくいっていない父親が、この先どう生きていけばいいのか」というものであったという点にある。つまり、主人公が死んでしまうとこのテーマとの整合性が取れないのだ。
しかし『レヴェナント』では、主人公は既に自分は既に死んでいる旨を明言し、生きる意味を新たに獲得した様子も認められず、その心は壊れかけている。
ここからは解釈が分かれるところだが、『レヴェナント』のテーマは「親が子をいかに愛しているか」という点にあるのではないか。
グラスは本人が言うように、息子ホークの死亡を確認した時点で、死んでいた。それにもかかわらず死と再生を繰り返し、フィッツジェラルドのもとにたどり着いたのは息子を愛する精神の力(つまりジョジョ5部のブチャラティ的な意味で生きていただけ)によるものではなかったか。
フィッツジェラルドを打ち倒し、インディアンのリーによる神罰を引き寄せた時点で、彼の精神は崩壊し、肉体的にも精神的にも死亡したのではないだろうか。