はてなキーワード: 道庁とは
こんなもん地上で爆発したらどうなるねん
https://www.youtube.com/watch?v=wtthhilAO3Y
昭和17年(1942年)5月、日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられる事になる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要な局面を迎えていました。
しかし、戦時中とは言え普段とほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。
ニシンの豊・不漁はその年の村民の生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに活気づきます。
そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体を発見します。
そして、素人目から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろう事に彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。
思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げる事にします。
数十分後、幸い移送途中で爆発する事もなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷と対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者が市街地にある派出所へと向かいました。
ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつの機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。
”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに「北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察部からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。
実は北海道の特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ます事になります。
その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。
こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理を地元警防団(警察や消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼する事が正式決定されました。
しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。
ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生する事もなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。
また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のようにも映っていました。
そこで、この機雷爆破処理作業を一般に公開、爆発の威力を見せる事で庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察の威信を確固たるものにするべく画策していたのです。
かくして、村役場などを介し回覧や口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配された事もあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます。
さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落の警防団員約150名が事前集結していました。
二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬の専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱する事になります。
通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知る事になった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます。
というのも、海中での爆破は一帯の魚介類を死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失う事を意味しました。
彼らにしてみれば死活問題だけに警察側からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退く事は出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。
粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。
こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。
発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていった事に加え、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険極まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。
それぞれ多忙な仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初と最後では大きく異なっていました。
初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体にロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います。
しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海で発見された機雷が、軟らかい砂から馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。
今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。
そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像をはるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートルに渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全を考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。
爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場は凄惨を極めたそうです。
現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見る事になりました。
そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団の代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています。
この大惨事により現場に居合わせた警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。
「一体誰のせいでこんな事になってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画を立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。
合掌
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-896730.html
辺野古移設反対が多数を占めた県民投票の結果を受けても、安倍政権が「基地負担を軽減するため辺野古に新基地を造る」と沖縄を愚弄(ぐろう)する言葉を吐き続けるなら、もはや島はさらなる苦難を覚悟で独立を志向したほうがいいのかもしれない。その場合、沖縄が味方に付けるべき相手は中国、ロシア、北朝鮮のうちの1国。または3国全て。
琉球新報の記事で提案されている通り、さらなる苦難を覚悟で沖縄県民が独立を志向する際、中国、ロシア、北朝鮮を味方に付ける必要があるかもしれない。
いきなり3国は難しいから、1国を味方にするところからはじめるとすると、どこからがよさそうだろうか?
ちなみに今日の3国の動きを見ると、
【中国ウォッチ】中国、「祖国統一法」検討か─台湾併合へ蔡政権に圧力
https://news.yahoo.co.jp/articles/81f2fcc87c3900a3734b5b55bd40b853d7dbccfa
ロシア軍、非人道兵器「白リン弾」使用か キエフ周辺では後退の模様
https://news.yahoo.co.jp/articles/a4dbbd526ef2b5ce0643d8dacbdee3a78a85847a
北朝鮮発射の弾道ミサイル 落下は北海道・渡島半島沖150キロの日本海 函館市民の脅威と道庁対応
https://news.yahoo.co.jp/articles/f19b74534bb545aa6c224de30f3f568ba100521b
琉球新報は平和を希求するリベラル紙の一つではあるけど、その新聞社の記事ですら苦難覚悟で協力を提案するこれらの3国のどれを頼れば、ヤマトの政治家と米軍に二重に苦しめられている沖縄県民にとって一番よい未来が到来するのだろうか?
グループは、15~20人ぐらいで市長室の前の通路に突然乗り込んできて、事前の約束もなしに、秋元克広市長との面会を求めた。
市では、グループに対し、マスク着用やパーテーション越しの対応を依頼したが、グループは拒否したという。
グループ側は、マスクを強要しないことなどを市に求めてきており、対策室の職員3人がとりあえず会議室で応対し、話し合いが1時間ほど続いた。
その後、グループと話し合った職員計5人のうち3人が、PCR検査の結果コロナ陽性になったと7日に市が発表した。3人は、8日昼過ぎ現在は、軽症か無症状だといい、宿泊療養施設に入っている。他の2人は、濃厚接触者として自宅待機中だ。
ノーマスク集団が「札幌市長に会わせろ」と大挙→職員がコロナ感染 前日には道庁でもトラブル...(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/af3a32ce6f18b8a7aa6f4512e10d45c8d8c7c039
バイオテロがはじまるわね。
ツッコミどころありすぎて「いやいやいや、無理じゃん?」っていったんだけどなんか納得してない
同僚:ホテルに泊まって車は駐車するかあ
私:ホテルも駐車料金かかるよ
同僚:忘れてた~、時間までにつかなかったらどうしよう、どれだけ早めにでればいいかな
同僚:公共交通機関だと道わかんない
私:(ググれ)グーグルマップと乗り換え案内でなんとかなるよ
同僚:駅の出口とかわかんないし
私:駅前なら車で行くより徒歩のほうが早いと思うけど
これ大体全部に「えー無料だと思ってた」「できると思ってた」って返されるので私は途中で黙って傍観してほかの同僚に任せてた。
(前にも同じこと言ったし)
聞いてて道民にありがちなのか、車至上主義の田舎出身だからなのかはわからないんだけど車でいけばコスパ最高って思ってるふしあるな同僚
私も田舎出身なので車コスパ最高っていうのは同意する部分あるってだけです。
北海道の道路走ったことある人はわかると思うんだけど、北海道って道路が広いし走りやすいんですよね、郊外に行くと信号ほとんどないし。
あと公共の交通機関が道庁所在地以外は本数も少ないし最終も早い。
自分のタイミングで移動するのが東京や大阪よりは不便だと思うんだよね。でも、この辺は本州でも少し郊外に行くと似たようなものじゃないかなとは思うけど。
ふっこう割使ったところ:
使った期間:
1位→9000円クーポン(18000円以上の2人以上の宿泊で利用可能)
2位→3000円クーポン(6000円以上の1人以上の宿泊で利用可能)
3位→6000円クーポン(12000円以上の2人以上の宿泊で利用可能)
次点→じゃらん遊びクーポン2000円(5000円以上の遊びで利用利用可能)
遊びクーポンは宿泊じゃないけどホテルのランチビュッフェでも利用できたのが良かった。
■感想
ふっこう割が3月末で終わってしまうので、使ってみた。
あの地震があった9月のあと、観光地の宿でキャンセルが相次ぎ軒並み安くなった。地震の被害がひどかったのは一部で、他は全道的に停電があったのみ。流通もだいたいすぐに戻ったし。
何度かいったことのある温泉地や普段は高くて留まれないラグジュアリーな宿までいろいろ。元々行く予定だったところもある。
10月~12月は20000円、12000円のクーポンで部屋のグレードあげたりした。
1月~3月はお金を使いすぎたのとふっこう割を当て込んでるのか宿の宿泊代が軒並み例年より高めになってたので9000円を使ってたな。
※この意見は私であればそうするだろうなぁという意見であり、道庁の意図を推測するようなものではありません
結果論としては電気は不足しても水道は止まりませんでしたが、大きな余震で水道あるいは交通が途絶えることもある可能性を考えると
「液体ミルクは水道が止まったとき、または電気が止まったときなどの通常の粉ミルクが使えないとき」の最後の命綱とします。
水道や電気が余震で止まったときに液体ミルクがないと詰みです。
1050本と報道されていました。写真を見る限り200mlです。
新生児の哺乳量を1回200ml、1日5回液体ミルクで授乳するとします。そうすると1日で使い切るなら1050本/5回=210人分です。
3日つかうと70人分しかありません。
水道が止まってしまった場合、あとは母乳で頑張ってくださいとは私には言えません。
医師や保健師が親に説明するにも、親からの質問に答えるにもエビデンスがなければいけません。
パッケージが日本語であれば(あるいは英語であれば)「ここにこう書かれているでしょう?」で済むのですがそうではないのです。
日本語の説明書があるとはいえ、それがパッケージに書かれている内容と合致するのかを調べなければなりません。それを考えれば
「液体ミルクでなければならない時以外は使い慣れた粉ミルクを使ってください」と言うでしょう。
災害時は普段よりもリソースが絞られるので、あまり使い慣れない・使用法に疑問が残るものは使わないほうがいいと思います。
https://mainichi.jp/articles/20180313/k00/00m/040/111000c
"なんで液体ミルクを使う場合は二度と粉ミルク使えないことになってるの?"
理由1にある通り、水道及び物流が途絶えて粉ミルクの使用に耐えうる水が手に入らない想定です。水がないのに粉ミルクが使えますか?
会話したり主張したりするときにいちいち「自分はこれを知っている、分かってる」なんてアピールを、話題に関連するすべての事項に関して事細かにやったりなんかしようと思わない。
あえて書いておく必要性もないような常識をその都度確認したりはしないが、すると「お前は~を知っていると表明していない。知らないということか。馬鹿め」と説教する人が出てくる時がある。別にそれを知らないとは言ってないんだが。教えてくれるだけの人は善意だからいいが、知ってるべきことを知らないとは頭おかしい!てブチ切れ気味でネチネチ文句つけるのはどうかと思う。
例えば札幌に旅行に行った話をする時、札幌は北海道にあって道庁所在地であるとか、冬寒くて雪降るとか、いちいち確認する義務あるか? そのあたりある程度常識と思ってあえてブログの旅行記に書いたりはしない。この前、札幌に関して知ってる特性を全て詳細に記さないと、勝手に知らないとみなして文句つけてきて、てめえみたいな何も知らんやつが旅行なんかするなと怒ってくる類の方に絡まれて、非常に困惑した。
旅行記を書くときに、その土地について知ってることを大量に列挙しないやつは旅行に向いてないとか意味不明な価値観なんだが、僕がわかってないだけでもっといろいろ確認しまくらないと行けないものなのだろうか?
一体どれだけ「常識の確認」に文字数をみなせば「まとも」と思われる、最低限頭おかしい呼ばわりされなとだろうか?教えて欲しい。
こないだ道南で割りのいいバイトがあったので何個か組み合わせて道南出張の旅をやってきた。
イカ食ったり、夜景見たりそれはそれでとても楽しかったのだが、うわさで松前病院崩壊という話があったので偵察してきた。
もちろん松前は以前から行ってみたい土地の一つであり、松前城博物館の展示物はとても興味ぶかく満足いく旅であった。
まずは通り一遍の松前観光を終えて、なんとなくそこらへんでランチ。
人もいないがさすがに海鮮はうまいなーと寿司をほうばりつつ、大将と世間話をしてみていくつかわかったことがあった。(当方は自称歴史好きサラリーマン)
いわく
・やめるとかなんとかいってるけどまぁもう関係ない、どうせ函館行くから。
ぐらいのこと。
まずはこの地域のこの規模の病院を維持するのはとんでもなく大変なことだということを地域住民(すし屋の大将をn=1で代表にして申し訳ないが)が
全くといって理解していないこと。
しかも木村院長のもと「全科診療医」として(これはこれで異論も無いわけではないが)とりあえずは何でも診ますという姿勢を貫いていること、これがどれだけ
大変なことかを理解していない。とりあえず診ますということは診たものに関しては紹介もふくめて最後まで面倒を見ることに他ならないと思う。
それを「専門外」ですから、という一言で片付けられて自分で函館まで連れて行って一から病院を当たる苦労を肩代わりしているなんて想像もついていないんだろう。
そこにはやはり、この過疎の土地で「他でも生きていけるよそ者の技術者」が「自分たちの税金で高級をとって」、「盲腸すらろくに見れない」というゆがんだ認知があると思う。
アッペの手術なんて比べ物にならない恩恵を受けているにもかかわらず 函館の年収1000万円でアッペのオペができる医者>>>>松前に単身来て年収1500万円で何でも診てくれる医者という
認識になっているのは、だいぶ愕然としたけどなんとなく聖地というか日本の僻地に全般してみられる認識なのかもしれない。
ブログとかつらつらと拝見するに、「よそもの」が「高い給料とって」、「地域の事情も知らずに」、「きれいごとばっかいって」、「われわれの日銭が入る貴重な機会をつぶしてる」
みたいな認識なんだと思うし、その認知の歪みを是正するなんて、今5-70代の松前のオピニオンリーダーに求めても、ぜーったいに無理に決まってるので
粛々と撤退するほか無いんだろうなーと思うし、正直ここが崩れたら救急医療の道南ドミノ大会が盛大に開催されるに決まってますので近づかないにしかず、という聖地ならではの
景色が繰り広げられることだと思うことですよ。
あ、なんか七人中四人しかやめないなんて報道ありますけど、地域枠の後期研修医とその御守り役が残るだけなので、来年には医者ゼロだと思いますよー。
さすがに道庁もこんな聖地に虎の子はもう送らないと思います。どっとはらい。
追記 報道見ると研修医さん10月で別のところいけるんですね、よかった。で、やめるの三人というと院長と後期研修医と、子飼いのERさん?後の人どうするんでしょうね。あまり残るとも思えませんが。
北海道江別市西野幌にある「道立増田投稿者養成センター」の歴史は古く、明治2年に開拓判官島義勇が建白した「匿名筆録掛創設ニ関スル建白」にその淵源が求められる。
その後、初代北海道庁長官岩村通俊の時代にその必要性が認められ、明治20年に「庁立増田所」が札幌の創成川沿いに設置された。
当時は札幌農学校の講師が教授役を務めた。吏務員としての素養を高めるとともに人の気をひく匿名の文章を如何に作るかについて、北海道開拓というプレッシャーの中、日々を研鑽を積んでいた。当時はインターネットは無く、増田専用の文書を回覧し、開拓使に勤める吏員が印鑑を押下することによってブックマークとしていた。有名な職員の押印はやはり注目を集めた。岩村も自らが創設した部局とあって積極的なブックマークを行ない、出身の薩摩ネタ(「何言うちょっかわかりもはん」かが決まり文句)が職員の笑いを誘った。
ブックマークを多く集めた文書は翌日以降の函館新聞(のちの函館毎日新聞)や小樽新聞に掲載された。現在と同じく、文書にはウケ狙いのもの、政治や社会に関するものがあり、それに対する道吏員のコメントは新聞読者の注目を集めた。時に道政の指針となるような匿名文章やブックマークがあり、北海道における増田は、開拓を進める上で次第に重要性を増していった。
明治44年の後の大正天皇の行幸に合わせて「庁立増田所」は発展的に解消。「庁立匿名記事錬成所」と改められ、その機能が増強された。すなわち、道庁以外の要人にも押印の権利が与えられたのである。現在の雨竜町に大農場を経営した蜂須賀茂韶(しげあき)や、清水町に広大な土地を所有した渋沢栄一ら、北海道に土地を所有したり工場を経営する政府要人のブックマークが認められるようになった。このように北海道開拓の傾向性と同じく、北海道における増田についても官の強力な資本投下により推し進められた側面が強い。
大正年間の北海道庁長官宮尾舜治もまた名物ブクマ家であった。ほとんどの記事にブックマークしたため、彼の部下が空気を読んで同じくブクマ。その結果糞増田が多くエントリされ、増田の質が多いに低下した。これは第一次大戦の好景気を経験した道民のデモクラティックな感性を大いに刺激し、増田改善運動が各地で起こった(釧路での原勝治の運動が著名)。これに対する宮尾の名言「糞増田もまた増田」は、今でも道民の記憶に遺されるものであった。
戦時中は統制政策のもと増田の文章は時の第一次東條内閣により圧力をかけられた。しかし増田家やブクマ家は当局に面従腹背、うまいことごまかした文章やブクマを行ない、ネタや時局批評を織り込んだ。こうした官製でありながら反体制的な場としても機能したことについては、言論の自由を考える上でも高い評価を得ている。
戦後の民主化により、昭和23年に「庁立匿名記事錬成所」は解体。野幌の現在地に民間資本による「北海道匿名記事養成所」が設置。講師以下執筆者、多くの職員に至るまでを公選とすることで、増田のさらなる民主化が図られた。残念ながら諸般の事情や資金面での苦慮により昭和29年に増田執筆者公選制度は頓挫。北海道は重要性を再認識し、再び道立への移管がなされた。戦後北海道では漁業や鉱業が盛んであり、そうした労働者に関する増田文が多くを占め、時代の潮流になった。時の社会党党首佐々木更三をして「北海道に労働者あり増田あり」の評言は、現在でも北海道増田左派を中心に語り草になっている。近年では現北海道長官の高橋はるみ萌えネタが多くを占め、歴史の長い北海道増田界隈にも、萌えの波が押し寄せていることは今更贅言する必要性もないだろう。また北海道十一区中川侑子代議士のスキャンダラスなネタや増田小説(えっちな)も定番になっている。「増田所」設置の明治20年から130年の歴史が経過しようとしている。北海道匿名世界をリードした増田。これからさらなる飛躍を祈ってやまない。
高橋はるみ。経産省官僚から知事選に出馬し当選。4期目になる。女性知事としては5番目の人(確か)。
選挙の無い戦前の道庁長官は官僚がなってたわけだが、この高橋はるみもまた公選だったとはいえ北海道にゆかりの無い経産省官僚から知事になった人物であり、道政の伝統ともいえる人材である。途中病気もありながらもこのたび知事4期目に入る。
っているのはまぁわかるんだが、高橋はるみがなんでこんなに長期政権を築いているのか。
その一端には確実に「かわいい」ってのがある。
北海道の夜。酒を飲んでるとどこからともなく「俺ははるみちゃんのために頑張らんとならん」的な話が耳に入る。
公務員か否か、道の人間であるか否かを問わず「はるみちゃん」を応援したいおじさまが結構居る。
なんとなく「はるみちゃん」と呼びたくなる、そんな魅力がある。CMとかでの動きが「かわいい」のだ。
本人はどこまでこれを自覚的に武器にしているのかはわからないが、