はてなキーワード: 銅山とは
1905年(明治38年)3月に会社としての古河鉱業の経営となった。当時の明治政府の富国強兵政策を背景に、銅山経営は久原財閥の日立鉱山、住友家の別子銅山とともに急速な発展を遂げた。20世紀初頭には、日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した[1]。
しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地の樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が大気汚染を引き起こしていた。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れ下った流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染(公害)を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である。1891年(明治24年)、田中正造による国会での発言で大きな政治問題となった。1890年代より、鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。
北村紗枝氏がむやみに叩かれているそうなので、周辺を調べてみた
表面的な問題は草津の公職者の冤罪か犯罪隠しであるが、あえて掘ってみるならば原因はイプセンの「民衆の敵」ではないかと思われた
「民衆の敵」(1882年)は鉱毒被害の告発本で、明治日本の主要産業は銅の輸出であったので、銅山営業のために、出版禁止にされていたと思われる書籍である
主要な銅山である足尾銅山の鉱毒は早くも1878年(明治11年)には報道されており、酸性雨、草木の枯死、魚の大量死、洪水もあった
そこで1882年(明治15年)、イプセンがスウェーデン下のノルウェーで「民衆の敵」を出版した
しかし原書か英訳を読むことができたのは、商社関係者か、法曹か医師ぐらいだったと思われる
日本政府がしぶしぶ鉱毒調査委員会を設置したのは、1897年(明治30年)で、その後の1901年(明治34年)にようやくイプセンの邦訳がある(大阪の元医師高安月郊)
それから更に何年も経過し、「人形の家」(1879年)の29年遅れで1910年(大正9年)、「民衆の敵」は39年遅れで1921年(大正10年)にようやく邦訳
戦後の高度成長期には、日本の銅は1ドル360円の固定相場で輸出された
僅かな被害対策が行われたまま鉱山は稼働し続け、1973年(昭和48年)に閉山となったときには、為替レートがあっさり変動制に移行している
したがって、「民衆の敵」の邦訳遅れや円安固定相場制は、日英米共同の銅ダンピング政策だった可能性もあろう
こんなもん地上で爆発したらどうなるねん
https://www.youtube.com/watch?v=wtthhilAO3Y
昭和17年(1942年)5月、日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられる事になる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要な局面を迎えていました。
しかし、戦時中とは言え普段とほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。
ニシンの豊・不漁はその年の村民の生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに活気づきます。
そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体を発見します。
そして、素人目から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろう事に彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。
思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げる事にします。
数十分後、幸い移送途中で爆発する事もなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷と対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者が市街地にある派出所へと向かいました。
ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつの機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。
”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに「北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察部からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。
実は北海道の特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ます事になります。
その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。
こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理を地元警防団(警察や消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼する事が正式決定されました。
しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。
ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生する事もなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。
また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のようにも映っていました。
そこで、この機雷爆破処理作業を一般に公開、爆発の威力を見せる事で庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察の威信を確固たるものにするべく画策していたのです。
かくして、村役場などを介し回覧や口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配された事もあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます。
さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落の警防団員約150名が事前集結していました。
二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬の専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱する事になります。
通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知る事になった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます。
というのも、海中での爆破は一帯の魚介類を死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失う事を意味しました。
彼らにしてみれば死活問題だけに警察側からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退く事は出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。
粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。
こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。
発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていった事に加え、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険極まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。
それぞれ多忙な仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初と最後では大きく異なっていました。
初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体にロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います。
しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海で発見された機雷が、軟らかい砂から馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。
今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。
そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像をはるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートルに渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全を考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。
爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場は凄惨を極めたそうです。
現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見る事になりました。
そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団の代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています。
この大惨事により現場に居合わせた警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。
「一体誰のせいでこんな事になってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画を立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。
合掌
人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という話かと思いますが
大多数の利便性を優先して、人命軽視を許容しているのではないか、という話になると思います。
一旦この解釈が正しいとすると
ブコメに多くあったメリットデメリットの話は若干回答がずれている、というかあまり良い回答ではないでしょう。
実はこの話、科学技術を世に出す際に倫理的に何が求められるのか、という話でもあり、
大学で科学技術と倫理(技術者倫理)という教養として習う範囲でもあります。
と言うわけで、ここでは科学技術と倫理の観点からなぜ許容されるのか話をしていこうと思います。
と、本題に入るまえにブコメで多くされていた
メリットが大きいからリスクが許容される、つまり最大多数の最大幸福であるという話について触れて起きます。
この様な功利主義的思想は局所適用にはあいますが、社会システムに適用されると非常に危険です。
言い換えてしまうと多くの人が益を受けるから少数者は被害を受けても構わない、という全体主義的システムになりかねないからです。
銅山から流れる鉱毒のせいでそこらへんに住む人は甚大な被害を受けるけど、
国家全体から見れば利益が多大なので仕方ない、みたいな話に繋がってしまいますよね。
なのでデメリットに対してメリットが大きいから、だけだと間違いを産む可能性がありあまりよくないということになります。
では次に本題の、人を死なせることはこの社会において許可されていないのになぜ人を死なせる可能性のある車が許されるのかの話をします。
シンプルに言ってしまうと人を死なせることと人を死なせる可能性がある、というのは大きく違うから、という話なんですが
車増田氏としてはそれに対し可能性があることを認識してるのであれば未必の故意いえるのではないかと考えているんじゃないかなと思います
これに関してはマックスウィーバーが著書「職業としての政治」で述べた心情倫理と責任倫理という考えが役に立つと思います。
心情倫理とは結果がどうあれ正しいと思うことを行動することで
ドイツ観念論のカントの「定言命法」に近く、物事がうまくいったとしても動機が不純なものであれば善としない考えです。
一方、責任倫理とは動機がどうあれその行為が不幸の結果を及ぼすことを予見できるのであればそれを避けるための最善の努力をし、
その結果を負わなければいけないという考えです。
ウィーバーはこの2つの倫理を兼ね備えることが政治家としての不可欠な資質としましたが、技術者倫理としてもこの思想は適用できます。
技術者として製品を世に出す際、その製品が世間をよりよくするものを目指すべきでありかつ
その製品の持つ機能が直接的に危害を及ぼすことがない様に想定できうる限りの防止策を講じるべきである、という考えです。
多分ですが、日本の車メーカーに車を作る理由を問い合わせた際に「弊社の利益さえ上がればいいと思っています」なんていうところは
基本的にないと思うんですよ。
内心はどうであれ、車の製造が利用者の利便性/快適性をあげるという公益性を目的にしているということを言うのではないかと想定してます。
そして実際、機能の研究開発の期間もさることながらテスト期間も相当長く、真冬の北海道に持っていって
寒冷地テストしたり、砂地や泥を用意してそこに突っ込んでスリップテストしたりと
事故を起こさない、人命を守るためのテストをすごいしているんですよね。なので大体開発に5年程度かかります
そしてメーカーだけでなく行政も運転免許という適正審査や安全講習、
小学生児童に対しても交通安全講習会も行い、技術と社会規則の両輪から事故を未然に防ぐ努力をしているわけですね。
つまり、車の利用に関しての「直接的な結果」として人命への被害を避けるための「最善の努力」をしている、とも言えるのです。
そして皆が交通安全規則を守り安全運転をすれば突発的な災害等が起きない限り人命を損なう様な事故は起きないだろうというところまで
この「最善の努力」を「完全に避けなければいけない」としてしまったり「間接的な結果」も責任としてしまうと
言い換えると企業がリコール訴訟を受けた際、事故と直接的な因果関係がないことはもちろんのこと
「最善の努力」をしていたということとが必要になると言うことでもあります。
(アメリカでプリウスが訴訟になった際、そこら辺が焦点になったと聞いています)
つまり、メーカー及び行政がさまざまな手段で事故を防ぐための策を講じてる事実があるので
当初の
人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という意見に対する回答としては
人命に対するリスク対策を社会コストとして払っており、そもそも人が死ぬことを許容はしていない、ということになります。
というわけでまとめます
1. 危険性を伴う製品に関し、メリットデメリットの観点だけだと公害を許容しかねないのでよろしくない
2. 建前とは言えメーカー・行政の両輪で理論上事故が起きない様にする施策を打っており人命軽視しているという認識は間違い
ということになります。
念のため付け加えますが、努力しているから問題を起こしていい、責任がない言うわけではなく、
その開発当時にしりえる知識、技術を元に最大限の努力をしたかが問われるため「最善」と表現されます。
言い換えれば公知の知識の対応を怠った場合などは懈怠責任をとわれます。
つまり今後、科学技術の発展に伴い、危険運転でもリカバーする技術が発明されたらそれも実装が必須になっていくと思います(昔はエアバックとかなかった)
どうでしょう?車増田氏のどこで線引きをしているのか、という問いに対して回答になりえたでしょうか?
あと、死刑の話を絡めて聞いていますが、その話は犯罪者の更生の話や社会から外れてしまった人格をどう扱うかという話なのに対し
車社会の話は公益性を持つが危険性を伴う科学技術とどう付き合って行くかと言う話で根本が違うため
その話を混ぜると複雑になりますし長くなるので省きました。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20170310114512のブコメが地味に誤解が混ざってるので細かく正していこう
フィリピンは資源がもの凄く豊かだよ!かつては東南アジア最大の鉱産国だったほどだよ!
今は政情不安のために産出量がガタ落ちだけどね
イギリスの例もあるよ
イギリスの産業革命を牽引したのは自国で獲れる石炭である。鉄鉱石もボチボチとれていた(質はよくない)
ブコメで日本は結構資源はとれていたよという例があがってるが、銅も輸出していたことがあるのがあがってないな。江戸時代、オランダ相手の輸出品は最初は銀でしばらくすると銀の輸出はされなくなったというあたりは皆歴史で習うだろうが、その後に輸出されるようになったのは銅であった。
足尾銅山は鉱毒事件で有名だが、その生産規模まではあまり教えられていないようだ。
http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_244/yj24428.pdf
明治 10 年(1877 年)の年間生産量 はわずかに 47 トンだったが、10 年後には3千ト ンを超え、その5年後にはさらに倍増する勢いで あった。 生産した銅はほとんどが輸出に回された。
銅は生糸・絹製品に次ぐ第二の輸出品の位置を 占めていた。日清戦争(1894 年8月〜 1895 年3 月)、日露戦争(1904 年2月〜 1905 年9月)の 装備は、銅輸出の収入によって整えたという。
正直おじさんぐらいの年の人間にとっては「○○鉱山が閉山しました」というニュースをしばしば聞いていたものだから日本に資源がないというのが非常に違和感があるのである。