はてなキーワード: 道上とは
「動物心理学」は動物の学習、知覚、認知、生理機構といった諸形質の放散と収斂の原理と過程の解明を目指す心理学の一領域である。
心理学全体の中ではマイナーではあるが、国内の研究者の集まりである「動物心理学会」は、実は数少ない戦前から続く (1933年発足) 学会であったりもする (ただし、悲しいことに、動物心理学が学べる大学は減り続けている)。
だが、動物心理学を学びたいと思った学生が、何から手を取ればいいのか、あまり紹介の記事が世に出回ってない気がした。そこで、独断と偏見で、オススメの書籍を挙げてみた。番号はオススメ順とかではなく、特に意味はない。気になったものを読めば良いと思う。
(1) 動物たちは何を考えている? -動物心理学の挑戦- (技術評論社)
日本の動物心理学の主だった研究者たちが、動物心理学の代表的な研究について平易に語った本
(2) パピーニの比較心理学―行動の進化と発達 (北大路書房)
マウリシオ・R. パピーニ (著)
日本語で鈍器のような大きさでまとまっているのはこれくらいか?
(3) 鳥能力―小さな頭に秘められた驚異の能力 (化学同人)
渡辺 茂 (著)
筆致が軽やかで、ベッドの上で寝転がりながら読んでも十分に理解できる。書名通り鳥限定であるが、名著である。
(4) ハトがわかればヒトもわかる―比較認知科学への招待― (共立出版)
渡辺 茂 (著),
動物行動学の創始者のローレンツがいかに動物と向き合い、その行動を観察していたのかを記したエッセイ
ローレンツの論文は難解で読みづらいことで有名だが、一般向けの著書は対照的に驚くほどとっつきやすい
(6) タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源 (みすず書房)
哲学者である著者がダイビングでタコ・イカと接することを通じて彼らの生き方
タコとて侮るなかれ。動物心理学を志す者が覚えていてほしい動物との向き合い方がぎっしり詰まった一冊である。
(7) 動物心理学史―ダーウィンから行動主義まで (誠信書房)
R. ボークス (著)
動物心理学が、いかなる過程で独立した分野として成立したのかを述べた本
ダーウィン (著)
言わずと知れた、ダーウィンの古典である。いつ読んでも何かしら発見があるもので、それが古典が古典である所以なのだ。
余談だが、動物行動学の論文でダーウィンが扱った問題を再び取り上げるときは “Charles Darwin once said…” という殺し文句で始めることがある。
「脳」の起源と、その発生、さらには脊椎動物の脳のデザインがいかに生じたのかを、ホヤから霊長類研究者まで多彩な研究者が論じた本
図や動画が手に入るURLのQRコードがついてくる嬉しいおまけつき
(10) 感覚器の進化―原始動物からヒトへ水中から陸上 (ブルーバックス新書)
岩堀 修明 (著)
眼はいかにして出来上がったのか?感覚器 (視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚) が現生の形になった進化の道筋を解説した本
ユクスキュル (著), クリサート (著)
比較生理学の祖、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが豊かな想像力で動物の生理学的機序からその「環世界」について語った本
名著中の名著である
ヤーコプ・V・ユクスキュル
同著者が、生物の生きる、その固有な世界像について、当時の解剖学的知見と合わせてより詳しく解説した本
(13) あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源 (早川書房)
フランス・ドゥ・ヴァール (著)
ドゥ・ヴァールはかなり擬人主義的な研究者で、研究者によって評価が真っ二つに分かれる。動物心理学も一枚岩ではない。氏の著作に同意するかどうかは、自分をどのような立脚点に置きたいのかをはっきりさせる意味でも一度は目を通すと良いだろう。
スティーヴン ミズン (著)
人間の心はいかに生まれたか?スティーヴン・ミズンは「元は個別の用途に進化させた認知機能が、文脈を問わず適用できるようになった」認知的流動性により、高度に柔軟な我々の心が生じたと考える
内容は既にやや古いが、独創的な論考の面白さは色褪せない
佐藤 方哉 (著)
行動主義心理学のエッセンスが詰まった本。絶版なので図書館で探そう。
「行動主義」的なものの見方は、認知研究では棄却すべき対立仮説として扱われることが多い。しかし、実際にはその対立仮説は多くの場合単なる誤解であり、藁人形を叩いているに過ぎない。
箱田 裕司 , 都築 誉史 他
比較認知科学は、動物心理学の中でも、動物の認知機能を種間で比較し、その種差や共通性を描出する分野である。比較認知科学の実験では概念や手続きが認知心理学のものを援用することが多い
従って、認知心理学についてよく知るのが重要なのは至極当然なのだ
池内 昌彦 (監修, 翻訳), 伊藤 元己 (監修, 翻訳), 箸本 春樹 (監修, 翻訳), 道上 達男 (監修, 翻訳)
今日、科学の分野間の壁はますます小さくなり、生物学と動物心理学をことさらに区別する必要性も薄くなりつつある。
とはいえ、原書版は鈍器のように重たいので、エッセンシャル版の方が挫折しないと思われる。
泰羅 雅登 (監修, 翻訳), 中村 克樹 (監修, 翻訳)
同様の理由で、自身が神経科学を取り入れるか別に、神経科学についてもどこかで通っておいた方が良いかと思われる。
そもそも、「動物心理学に固有」な方法論というのは現代にはなく、近隣領域と連続的なつながりを持って成立しているのだ。
心理学の成り立ちに関して、コンパクトかつしっかりまとまった本
歴史を学ぶと、どこかで役に立つ。物理学者エルヴィン・シュレディンガーの言葉を引いておこう。
歴史は, あらゆる学問の中で最も基本的なものである。なぜなら、人間の持つ知識には、その成立条件や解決してきた問題や, 果たすべき機能が忘れ去られた場合, その学問的意義を失わないものは存在しないからである。
横澤 一彦 (著)
視覚に興味があるなら、読んでおいて損はない。
(21) メイザー学習と行動 (二瓶社)
ジェームズ・E. メイザー (著), James E. Mazur (原著), 磯 博行 (翻訳), 坂上 貴之 (翻訳), 川合 伸幸 (翻訳)
学習完全に理解したマンになりたい人が必ず読む本。学習完全に理解したマンになりたいなら読もう。
次に読む本としては『オペラント心理学入門―行動分析への道』も良い本である。
(22) 古典的条件づけの理論―パヴロフから連合学習研究の最先端まで
入門レベルでは「犬とベルと唾液」くらいにしか教わらない古典的条件づけが、いかに奥深く、理論的な探求に富んだ領域なのかが概観できる。例えるなら魔術書である。
(23) 感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ (ダイヤモンド社)
これも動物の研究者の本ではないが、ダマシオは身体性を重視する立場の認知神経科学の方向を作った一人だ。
ダマシオは多作で、『デカルトの誤り』『自己が心にやってくる』など、他の著書も面白い。
リチャード・ドーキンス (著)
進化学流布の急先鋒、ドーキンスの一般向け書籍。同氏がスリリングな筆致で進化について語る。
『利己的な遺伝子』の方が有名だが、オシャレさでは『盲目の時計職人』の方が上だ。
V・S・ラマチャンドラン (著), サンドラ・ブレイクスリー (著)
これの動物の研究者ではなく、ヒトの神経科学者の本であるが、大変面白い逸話がたくさん載っているので挙げた。
続編に『脳の中の幽霊再び』『脳の中の天使』も出ていて、どれも楽しく読める
鳥にも我々と同じように目・耳が二つ、舌が一つ、皮膚には触覚受容器が備わっている。しかし、世界の見え方はまるで違うことがわかっている。彼らの感覚世界について、鳥類学者が一般向けに語った本
鳥の代表的な認知研究について、各項目2p程度でまとまった入門書。どんな研究が、どのような方法で行われているのか、ざっと知るにはぴったりである。
ちょっと邦題が間抜けな感じがするが、原題は "Bird Brain: An Exploration of Avian Intelligence” である。
生物という視点から「心」がどのように形成されたのかを解説した本
まとめ方が独特だが、面白いことには間違いない
岡ノ谷 一夫 (著)
動物のコミュニケーションはヒトの「人間らしさ」について何を語るか?
元が高校生向けの連続講義であったらしく、大学生なら誰でも読める。
おまけ
リチャード P. ファインマン
2014年から今にいたるまでイエメンではずっと内戦をしています。この内戦にはサウジアラビア、UAE、イランが関与しており、現在の中東情勢を理解するためにはこの内戦の概要を掴む必要があります。なのでその話をします。
です。大まかにいって国土の北西地帯をフーシ派が、南部と東部をハディ派が支配しています。イエメンは部族社会という色が濃く、各部族はそれぞれに思惑をもって活動しており、フーシ派にもハディ派にも属さないという地域も増えてきています。
内戦の背景について理解する必要はあまりありません。部族の利害や宗派の違いといったものから発生する、正直いってしまえばよくあるアレです。ではそのよくある内戦がなぜ泥沼化しているのか、そして何故誰も知らない戦争になっているのかを簡単に説明したいと思います。
内戦のきっかけはフーシがイエメンの首都を占拠しクーデターに成功したことです。これにより当時大統領を務めていたハディは首都を追われ、サウジアラビアに亡命しました。サウジアラビアはこれに危機感を抱きました。なぜならサウジアラビアはスンニ派勢力の事実上の盟主であり、イラン以下のシーア派勢力と敵対しているからです。イエメンはサウジアラビアと国境を接しており、ここに親イラン勢力が根を張ることはサウジの安全保証を根本的に脅かすと懸念されたわけです。そして実際その懸念は現実のものになります。
サウジはUAEと連合しハディ元大統領の支援に乗り出します。サウジとUAEは優勢な空軍力を活用しフーシ派から南部の要衝アデンを奪回することに成功します。そしてここにハディ大統領を傀儡として送り込み、フーシ派討伐に乗り出します。これが 2015 年 7 月までの流れ。
しかしサウジの勢いがよかったのはここまでの話で、以後内戦は泥沼化の一途を辿ることになります。泥沼化の理由として以下の要因が挙げられます
まずハディ派やサウジ空軍が弱いという問題についてです。一般にいってアラブの軍隊は非常に弱いのです。それはなぜかというと、クーデターを恐れるあまりにまともな訓練をつめておらず、特に大隊以上の連携の訓練などはろくにおこなわれていません。
例えば、空軍力を適切に発揮するためには地上の部隊との高度な連携が必要です。地上の部隊が空爆の目標地点を捜索し、適切に爆撃機を誘導してやらなければ効果的な爆撃はできません。また、航空偵察の成果を総合的に検討して情勢を判断する高度な情報組織も求められます。そういった高度な機能はサウジ空軍には備わっていません。では、サウジアラビアはこの問題をどのように解決していたかというと、大量の物量を投入して無差別爆撃を繰り返すという方法で解決をしようとしました。これには二つの問題があります。まずは人道上の問題です。実際サウジはこの問題で 2018 年ごろから大きな非難をうけるようになり以後無差別爆撃を封印しています。そしてこちらの方がより実践的な問題なのですが、コストパフォーマンスが極度に悪いという問題があります。いくらサウジが油田をもち金満国家だからといって爆弾をあまりにも大量に無駄弾にしていれば負担になります。あまり知られていないことですが、実際サウジアラビアは中国について世界三位の軍事費支出大国になっています。これは上記のような非効率な作戦が原因で、サウジアラビアの財政は痛みつつあります(そうしたサウジの苦境を悪用しているのが孫正義というわけです)。
ハディ派の弱さについては、元々弱いとかそもそもサウジの傀儡でありそこまでやる気がないとかそういったこともありますが、また別の事情もあります。その別の事情というのは「フーシ派は強い」という問題と裏返しでもあるのです。
それはつまりどういうことか。フーシ派はあくまでも奪う側であり、ハディ派は守る側であるということです。ハディ派はもともとの正統政府ですから、イエメンの国土や財産を防衛する戦いを展開する必要があります。一方フーシ派の根本は地方の小さな民兵組織ですから「守るべき既存のリソースや権益」を持っていません。なので彼等はハディ派と戦うにあたって都市がどれだけ破壊されようが民間人にどれだけ死者がでようが一切考慮することがありません(宗派も違いますし)。こうした姿勢の違いは戦闘力の違いに直結し、地上戦闘でハディ派がフーシ派を圧倒するという局面は初期におけるアデン奪還作戦以外で殆ど見られません。
ハディ派は強いフーシ派を攻撃するにあたって、地元の部族を懐柔しフーシ派を攻撃させるといった戦法をとることがありますが、フーシ派はこうした敵対部族を容赦なく殲滅してしまいます。
また、フーシ派が山岳民族的な性質をもつという点も重要です。一般に山岳民族というのは強いものです。グルカ兵などの事例にもある通りです。また、山岳民族である彼等は平地民との価値観をあまり共有しておらず、そうした点も彼等の強く残酷な戦い方を支えているだろうと思います。
次にUAEの背信という問題についてです。サウジ国内ではこの点がかなり問題視されているようです。UAEは内戦介入開始当初からイエメン侵略を目論んでいました。ハディ派首都のアデンでもUAEの特殊部隊がうろついているだとか、イエメン南部の離島ソコトラ島をUAEが侵略し領土に事実上組み込んでいるといった話があります。UAEのこうした態度は情勢を著しく混乱させ内戦を長引かせる要因になっています。またサウジ内では「UAEが漁夫の利を得るために内戦の泥沼化を積極的に目論んでいる」といった観測もあるようです。
そしてイラン革命防衛隊の介入という問題ですが、上記の通り内戦の初期においてイランと革命防衛隊はあまりイエメン内戦に興味をもっていませんでした。しかしサウジとUAEによる介入が頓挫すると革命防衛隊による介入が本格化しはじめます。すなわち、フーシ派の占領地域を拠点にしてサウジアラビア領土への直接攻撃を企図しはじめたのです。このことの背景を理解するためには、イランの革命防衛隊という組織の成り立ちを理解する必要があります。先述の通りアラブではクーデーターを抑えるために軍を弱くするのが普通の統治法です。これには例外がいくつかあり、たとえばエジプトでは軍が国家を統治しているのでクーデーターの心配は少ないので精強な軍を維持することができています。イランも例外の一つで、イランはかなり独創的な方法でクーデーターを防止しながら軍を強化することに成功しました。それはすなわち
というものです。一つ目の対策については軍の指揮権を天皇に直属させた大日本帝国軍とほぼ同様のものと言えます。故に、日本軍と同様のデメリットが生じることにもなりました。創業の功臣と君主が存命の時代は彼等のバランス感覚によって軍を適切に維持することができたのですが、君主が交代し創業の世代もいなくなると軍を誰も統制できなくなってしまったのです。ようするにホメイニが明治天皇、ハメネイが昭和天皇と理解すればよいわけです。
二つ目の対策について、革命防衛隊をつくるにあたって「イラン防衛ではなくイスラム革命の防衛と革命の輸出」を任務と定めてしまったことが問題になりました。彼等は事実上の外征軍となり、中東各所で怪しげなテロを繰り返す組織になってしまったわけです。さらにタチが悪いのが革命防衛隊が軍の能力を流用し建設会社や物流企業を多数直接経営しているという点です。これにより、彼らは財源や物資の点でも政府への依存が殆どなくなり極めて独立性の高い組織になっています。イラン政府の財源はかなりの部分石油に負っていますから政府は本質的には戦争を回避しようとします。一方建設業により資金を得る革命防衛隊にしてみれば石油産業が停止したところで知った話ではないので積極的に「革命の輸出」を手掛けるというわけです。
こうした性質をもつ革命防衛隊がイエメンに介入を開始すると積極策を採用することになるのは自明のことでした。イエメンに派遣された革命防衛隊はほとんど中央の統制を受けていないと見られており、これは要するに日本軍における関東軍に匹敵します。
こうした情勢のなかでイエメン内戦を象徴する戦いであるホデイダ攻防戦がはじまります。ホデイダはイエメン有数の港湾都市で外部からの物資の輸入をほとんどひきうけています。この都市を占拠することはすなわち外国の物資を全てコントロールするということでフーシ派もハディ派もこの都市の攻防に全力を投入することになります。内戦当初からこの都市はフーシ派が支配しており、ハディ派はサウジアラビアの支援のもとなんとかこの都市を奪還しようと試みました。ホデイダの攻防が本格化したのは 2017 年ごろからで、以後ホデイダは激しい戦火に見舞われ物資の輸入は途絶えイエメンでは難民が大量に発生することになります。
先述のとおりハディ派は弱く、サウジアラビア軍は動くものはなんでも爆撃する式の粗雑な無差別爆撃を加えることでなんとかフーシ派に対抗するといった情勢が続きました。こうしたフーシ派有利の情勢をみたイラン革命防衛隊は2017年末ごろより弾道ミサイルをフーシ派に供与(といっても操作する人員も革命防衛隊から派遣していたことでしょう)しサウジアラビア国土への直接攻撃を開始します。
こうした事態に至って危機感を表わにしたサウジ軍は 2018 年にはいってさらに爆撃を強化しますが成果はあがりません。そして彼らはついに致命的な誤爆事件をおこします。サウジ軍はスクールバスを誤爆し何十人もの子供を死亡させてしまうという事件をおこしてしまったのです。これにはさすがに各国からの非難が止まず以後サウジ軍は爆撃の対象を前線ではなく後方のフーシ派の基地に切り替えることになりますが、これによりホデイダ攻防におけるフーシ派の勝利が事実上確定しました。
2018年末ごろより国連によるホデイダ停戦工作が開始されます。停戦の調停中にも激しい戦闘の応酬が続きますがフーシ派有利という情勢は変化せず、国連の監視団は「フーシ派の勝利」という現状を事実上認める形の停戦を成立させました。これが去年末から今年4月ごろの話。
こうした状況のなかで革命防衛隊はあらゆる手段でサウジアラビア国土への直接攻撃を続けていました。その攻撃の主力となったのが弾道ミサイルとドローンによる空爆です。弾道ミサイルによる空爆はサウジアラビアの首都リヤドにも降り注ぎ100人以上の民間人が犠牲になっていると報じられています。ドローンについては、クアッドコプターのようなものではなくジェットエンジンを積んだ比較的大型の爆撃機で500kg程度の爆弾を積載し 300km の半径を攻撃できるとされています。これによる精密爆撃はイエメン内部でも利用され、ハディ派側の軍幹部がドローン爆撃によって多数殺害されるといった事件も起きています。
そしてホデイダにおけるフーシ派の勝利が確定すると、フーシ派は国連との合意にもとづきホデイダから兵力の引き抜きを開始します。少数の警備兵力を「憲兵」と偽ってホデイダに残置するとフーシ派は主力をサウジアラビア侵攻にふりわけます。これが今年の 4 月から今にかけての話で、フーシ派とイラン革命防衛隊の猛攻をうけてサウジアラビア/イエメン国境の要衝都市ナジュラーンが陥落寸前であると報じられています。またサウジアラビア空爆にあたってあらたに巡航ミサイルによる爆撃も開始され、先日のサウジ南部空港爆撃ではインド人など外国人にも負傷者がでています。
ではこのような酷いことになっている内戦がなぜあまり知られていないかというと、田舎の内戦など誰も興味がないという問題もあるのですが、サウジの劣勢というのもその原因です。というのもサウジアラビアは北朝鮮以上の独裁国家、統制国家なので自国がイラン勢力との戦争で敗北しつつあるという事実を隠蔽しているわけです。「イランの爆撃により100人以上の犠牲者がでている」という事実も最近になってようやくサウジ政府系メディアによって報じられました。以前は「イランのミサイルを迎撃した」だとか「フーシ派に猛爆撃を加えて戦果をあげた」だとかいった威勢のいい情報が散発的に報じられているだけでした。今少しづつですが苦境の真実をサウジアラビア側が報じるようになってきています。それだけ事態の悪化を隠せなくなったということでもあり、また危機感を醸成しようという思惑もあるのでしょう。
更に加えてですがサウジアラビアには「事態をこれ以上大事にしたくない」という思惑があるようにも見えます。現在おきていることは事実上「サウジアラビアとイラン革命防衛隊の総力戦」なのですが、サウジとしてそれを認めてしまうとイラン本土とも戦わなくなければなります。「イエメンのフーシ派という軍閥との小さな戦い」というフレームを維持することでなんとか大事にせずどうにかしてフーシ派だけを倒したいという希望が、事態を矮小化させ報道を管制するインセンティンブになっているように思われます。
サウジのこの失態をみて「イエメンはサウジのベトナム」と評する人もいます。ただベトナムのように「やらなくていい戦争で消耗している」というよりは「強力なイラン革命防衛隊とフーシ派の前になんとか国土を防衛しようとしている」というのが実態としては近いのではないでしょうか。
遭難した北朝鮮船舶を速やかに捜索するためにすべてのレーダーを稼働し、近隣上空を飛行していた日本海上哨戒機にも照射することになった。
「全てのレーダー」には火器管制レーダーが含まれるので、火器管制レーダーを日本海上哨戒機に照射したことは韓国と日本で争いがない。そのうえで、人道上のためであるため、それは正当だ、と言っている。他の、危険な飛行とか、嘘をついたとか、無線の状況とかは、紳士協定違反ですらないので、今回は無視する。
CUES(洋上で不慮の遭遇をした場合の行動基準)に規定がある。
2.8.1 (..)軍艦は一般に以下のことを避けるべきである。1)火器管制レーダー等を用いて攻撃のシミュレーションをすること
CUESは法的拘束力を有さず、国際民間航空条約の附属書や国際条約などに優越しない。動画を踏まえると、人道のために火器管制レーダーが必要な状況であったとは思えないので、火器管制レーダーの照射は「行動基準に反していて、望ましくない」行動となる。
日本政府の正式な抗議は妥当だとは思うけど、動画を公開するのはやりすぎだ、という防衛省の主張はわからなくもない。「攻撃シミュレーションではなくて人道のためなので正当であった」という主張は水掛け論にしかならなそうだし。
もし日本の主張が100%事実であっても、紳士協定違反程度のことで、毎日抗議を送るべきかは疑問が残る。実際に「銃口を向けるのと同じ」とかいうセンセーショナルな言葉があふれて日本人の感情は刺激されている。外国と争いをしているときに、指導者の支持率が上がるのは古今東西共通だし。もちろん、相手を打ち殺しても正当防衛となるような、銃口を向けられたケースと、火器管制レーダー照射は全く違います。紳士協定違反程度で軍艦を沈めてよいわけがない。
あと、「悪天候で波が高かったからレーダー使った」と過去に韓国政府が主張していたという証拠は見つからなかった。(→たくさん教えてもらった)
悪天候についてはすまんかった。なぜ見つからなかったんだろう。。。
>ここまで追い込まれた韓国側がどうやって挽回しようとするのかには興味がある。何しろあからさまな嘘を山ほど付いてたのが映像で反証されたという超弩級の大恥をかかされたんだし。どうするのかな?
一応友好国となっている国との交渉事で、相手のメンツを完全につぶすのはよろしくないように思う。
>紳士は嘘つかない
もし紳士の国イギリスが正直だったら世界はもっと平和だったと思う。
>この件はあべぴょんだけじゃなくて韓国文政権にとっても有利に働くんかな。winwinだからええやん
>こいつの家に馬の生首送ったりこいつの乗ってる車にあおり運転してどれぐらいで講義するのか見てみたい
馬の生首が来たら警察呼ぶ。あおり運転されたら路肩に寄ってやりすごす。
>韓国側のメインの主張は「わざとじゃないから謝らない」で、わざとである確実な証拠が出てくる可能性は極めて低いから謝罪はないだろう。この議論を続けることの利得が明確に見えているのなら続ければ良い。
私には利得がよく見えない。
>整理すると言いつつ一番重要な事を抜くのは何なのか?国連安保理決議の一環として北朝鮮への瀬取り防止の警戒監視活動で日本と共にオーストラリアやカナダも哨戒機を派遣して北朝鮮を封鎖してる現状
>日本の対潜哨戒機(対艦兵装てんこ盛り)が先に低空接近していた事実も入れないとダメなのでは
>2005年反日暴動や、ライアン・コネルでもそうだったけど、日本リベラルって「被害者を攻撃する」が趣味なんですよね。「冷静に」と言えば正義と思ってる。元慰安婦には口が裂けても「冷静に」と言わないが。
日本リベラルは日本政府の行動に口を出すのが特徴じゃないかなあ。
>関係者筋話がこんなに悪質に機能するとは。軍・文官ともに、不満を持つ正体不明の筋が公式発表を歪ませる。ジャーナリズムが逆手に利用される敗北と、緊張状態の解けない実質休戦のせいでここまで拗らされた
>「どっちもどっち」とか「バカだから」じゃなく明確なルール違反なんだけどな…
>こういう風に理性的に振る舞い続けたからあのモンスターが出来上がったんやで。どこに何と言われようと躊躇無く経済制裁や。
今のモンスターは、人民解放軍の手先に比べたらだいぶましだと思うから、制裁とかしないでなだめる派。少なくとも軍事的に日本の国土を占領しようとしたりはしないだろう。
>百歩譲って公海上なら紳士協定かもしれないが、発生したのは日本のEEZ海域ですよ。漁船がそばに居たから救助だと判断出来たけど、無線封鎖して火器統制レーダー照射したら、手順は侵攻時と変わらないのでは。
一隻で侵攻してこないだろう。。。
動画は見た。
こういうコメントよく見るけど、誰が火消ししてると思ってるんだろう。誰かおちんぎんください。
>無線で呼びかけたが無応答だった」「その後も事実関係すら認めない」
不誠実で不快で常識に反しているけど、現状は、ゲルが言っているみたいに韓国政府内で不誠実で不快で常識に反していることが起きていることを想定すべきで、そうなると日本側で世論が硬化するのは日本側の取れる手が縛られてよろしくないように思う。
韓国のルール違反に関しては何も言ってない。日本人だし、日本政府の行動にしか口を出していない。
>日本も韓国も互いを煽れば煽っただけ政権が得をする程度に国民がバカだからこういうわけのわからないことになる。
まじでそういう陰謀論を主張したくなるところだけど。
>銃口を向けられたのと火器管制レーダで追尾されるのが違うって何が違うんだろ?
正規軍の駆逐艦は指揮命令系統があり、自暴自棄になってたりしない、みたいなことをある程度信じられるけど、銃を持っている知らない人は信用できない。ソマリア沖の正体不明の艦に火器管制レーダーで追尾されたら違うかも。
> この人が錦旗の如く掲げている紳士協定とは一体なんのこと?
>遭難なら日韓は協力し合う関係。日本の方がかなり近い海域。乗員の体調次第で日本に運ばないと助からない可能性がある。それなのに情報提供も無しにレーダー照射?
そうだね。抗議すべき事態だと思うよ。
>抗議しないとオレもオレもと真似する奴が出てくるから抗議するしかない。動画は左右問わず「本当のところはどうだったんだよ」って声が多かったからしょうがないんじゃない?都合悪いところ隠してるって声もまだある
抗議は妥当だと思う。動画は、韓国政府が嘘つきなことは証明できているけど、レーダー照射に関しては証明できてないから、どちらかというと世論をあおるマイナスのほうが大きいと思う。Sengoku38を怖れたという声もあるけど。。。
>嘘つきのバカを続けている相手と縁を切らないんだな、このバカ増田は。殴らなくても普通は縁を切るんだぞ。国際?バカか。つながりの延長線をミニマムにしていけば個人だよ。最大化した国家なのに嘘つきだぞ。カス。
光栄ある孤立とか辛いと思うんです。日本人は腹で馬鹿にしながらなあなあでつきあっていくのが苦手、という印象がある。
獣は自分に合わせてくれないから、観察してこちらが合わせるしかない。
>水面下で落とし所を見つけて収束させられるだけのチャネルが二国間に存在しないことがわかっちゃったのが問題だと思う。知らんけど。
防衛省は韓国軍と交流が盛んだってどこかで読んだので、政治圧力がかかったのか、韓国政府が予想を超えたリアクションをしたのかなと想像している。
>まとめというほどまとまってない件。
すまんかった。
>口ではあれこれやってるけど両国政府ともコレは国内のガス抜きに最適なメシウマ案件だったね 最近政権に懐疑的だった右翼も軽減税率とか外国人移民とか忘れて韓国ガーにすっかり酔いしれてる(笑
韓国が相手なら笑ですむけど、相手が中国だったりしたらシャレにならんよね。
> 「人道のために火器管制レーダーが必要な状況であったとは思えない」< 韓国側の主張は「稼働したのは海上=北朝鮮船と空中=自衛隊機を同時に捕捉できるレーダー」で、それが火器管制システムにも連動してたんだよ。
>全力で擁護してみてもやっぱり韓国苦しいな。ただお互い謝ってはいけない24時状態だから冷え切った関係のまま永遠に付き合っていかないといけない。めんどくさいね。
隣国との関係は日本に限らず、世界中どこもめんどくさい。たいてい戦争と占領の歴史あるし。
>韓国は一回は「火器管制レーダーなんて作動させてない」と公式回答してんだろ?今後もさせてないで押し切るか,嘘付いた事に対する謝罪と内部調査の無能を是正して報告しないとならんのでは.
>はてさの断末魔としての増田投稿に思える。最近の韓国を擁護するのは無理があるだろ
>照射されて「どうゆうつもり?」て3回聞いてるのを無視。そこで「メンゴメンゴ」って返してたら、内々で終わる話かもね。それを外交レベルで否定肯定嘘責任転嫁火病なんて。韓国は何をやってもそりゃいいけどね。
照射しちゃったらそこでメンゴはいえないよね。だから再発防止してほしいんだけど。
>本当にこんなひどい言い訳がまかり通ると思ってるの?
>当初の主張がいきなり違うんですが……
まじで。
>この程度の話。
げに。
>【追記】が酷い。これで返信したつもりになってるんだから。整理も全然整理になってないし。このレベルの狂人が日本語使えるというのは覚えておこう。そりゃ、低能先生が居るんだから狂人も10人は居るわな。
> “一応友好国となっている国との交渉事で、相手のメンツを完全につぶすのはよろしくないように思う。”そもそもFCレーダー当てられた時点でこっちのメンツはまるつぶれなのですが、それは
変わってないけど、変わったと思うなら成長したのであろう。
>やるなら真面目にやれよ、邪魔
>自衛隊が悪いという韓国の主張を放置するのは危険だと思う。同盟国がこんな言い逃れしてくるとは想像がつかないし対応の仕様がない。韓国を諦めるのが最良の選択というならその通り。
>? / cider_kondo のリンク先では「任務が与えられたり天候が悪い場合は~」なので天候が悪くて今回使ったと言ってるわけではないのでは。
NHKでは天候が悪くて使ったといっている。
>レーダーロックしておいて開き直るのをナァナァにすると、次は中国さんとかロシアさんみたいなマジでシャレにならない人達も試しにくるので、自衛隊としては落とし前付けるまでは絶対許さんと思うよ
なんにせよ一番は立派だと思う。
>韓国人がやる直ぐバレる嘘を付く。である。つまり単純な責任逃れ。日本からのショウ ザ フラッグな案件。本当に信頼できる軍組織なのか?本当に同盟国なのか?半島事案に対する政府の態度が変わる一編
末端が暴走して開戦みたいなことはせめてないようにしてほしいところだ。
>この件で韓国憎しで吹き上がってる奴らを見るだけでアベは笑いが止まんねーだろうな
支持率上がったら喜ぶだろうね。
>ずーっと昔から韓国には反吐が出る思いを感じさせれられ続けてきましたからねぇ。時間の問題だっただけなんだけど。ここで引き金を引いたってだけの話やと思うよ。そういや地球市民とか言ってた人アレなんだったん?
>概ねそんなとこだろう。それよりは、そもそもニュースバリュー大して無いこの件で騒いでいる方が気になる。
メディアがはしゃいでいる印象はある。すごく嫌だ。
> cider_condo氏の示した会見は、そのあと「射撃統制レーダーSTIR-180は使ってない」という趣旨なので、逆に「当日は波は高くない」と解するべき。/→もあるが誤報だと思う。
これ改めて読んだけど、「軍関係者」だし外交チャンネルで嘘ついたとまでは言えなそう。
>そのCUES紳士協定は、紛争国同士が洋上でかち合ってもロックオンはやめましょうねってことだろ。擁護派にとって韓国は友好国なの?かつてのソ連並みの仮想敵国なの?//軍人は統制されてるから銃口突き付られても平気?
紛争国でも避けるべきことを友好国からされたから抗議しているのでは。
>はてサは有効な援護が思いつかないから「吹き上がってる奴はバカ」「安倍が喜んでる」とか言う間接援護に回ることにしたのねw ほんと自衛官の安全なんてどうでもいいんだなw
防衛省が動画を出すのに消極的だったのに首相主導で発表しているのを踏まえて話してる?
>整理(天候について把握してない これもうわかんねぇな(政治主導
>戦ってるなぁ(何と戦ってるかは相変わらずよくわからないけど)
暇な時間と?
はじめに言っておくと、わたしは東京入国管理局のツイートに憤っています。
https://twitter.com/IMMI_TOKYO/status/1064810387797733376
「FREE REFUGEES(難民を解放せよ)」という落書きが歩道や壁に書かれた写真とともに下記の文章が投稿されているものです。
>~落書きは止めましょう~
>少しひどくはないですか。。。
東京入管が被収容者に不当な拘束をして人権侵害しているのが周知されるようになったからか、
「人権侵害している東京入管の批判逸らしだ」という批判のリプライが多いのですが、その通りだと思います。
なぜそう思うかというと、どうして日本に「難民を解放せよ」という落書きが生まれてしまうかの想像力は持たないくせに、
東京入管が器物損壊事件について当事者面することが欺瞞であり、
同情を乞いていて、
正論言っているふうを装う狡いところが、
それでいて茶の間でワイドショーでも見ているかのように薄っぺらい意見?を言っているだけの他人事でいられる神経が分からない。
東京入管を批判する人を批判しているヤツもどうかしていると思います。
そういうヤツはたいてい「それはそれ、これはこれだ」という論理をぶつけています。
批判を封じ込めるためにその批判と関係のない方向から持ってきた理屈で同調しない人間を黙らせてやろうという最低なやり口を始めます。
そういうのやるヤツって赤ちゃんなんですかね?
自分の純粋な主張を関係のないところから持ち出した論理でそれっぽく押し潰されて「おかしい」と思った経験ないんですかね?
意見に対して正面からぶつからないのが狡くて腐った考え方だなと感じたことないんですかね?
先に結論があってこその論理を展開するのが陳腐だという実感がないんですかね?
実感がないだけじゃなくて、想像して慎重になることもできないんですかね?
東京入管のツイートを見ている人が考えるべきことは、何が原因でこうなったのかを考えることではないでしょうか。
落書きはいけませんが、入国管理局の人権侵害が根絶されない限りはこういうメッセージはなくなるはずはありません。
「~落書きは止めましょう~」と言う前に「落書きが産まれるほどの不当な抑圧をなくそう」と考えるべきです。
あと、落書きをやめることを訴えるなら、法務省管轄の東京入国管理局ではなく、器物損壊事件を取り締まる警視庁が主体となるべきではないでしょうか。(落書き行為を批判する以外の意図があるから入管が出しゃばるのでしょうが)
東京入管は、届けたいメッセージを一定の層には届けることができたと推察します。
>ジャーナリズムは民主主義を支える役割があり、戦地の報道は特に人道上にも意義のある報道。
ジャーナリズムの思想を盲目的に正しいと思い込むことは、逆に危険だと思うな。
例えば2014年の朝日新聞の慰安婦誤報問題は、ジャーナリズムそのものが社会に害悪を与えることが明らかになったわけだよね。
ジャーナリズムは民主主義を支える役割があり、戦地の報道は特に人道上にも意義のある報道。山で遭難した人間と比較対象にする事自体が根本的におかしい。特に、身代金の要求に関しては、テロリストに「言わされていた」だけであって、自己責任論を唱える安田の本意と解釈するのはそもそもの理解が足りていない。現に無視しろなど隠れたメッセージも同時に送っていたはず。そんな人間を反日はてサだから叩いても良いというのは身勝手で、それこそ党派制に酔ってるとしか言いようがない。
安田を擁護しているのではなく、安田叩きの背後にある暴力の正当化、ジャーナリズムや人権の軽視を問題視していると言えば分かるか?
-----
外務省が、在日朝鮮人の北鮮帰国希望者に対して、帰国の便宜をはかる方針を決め、とりあえず国際赤十字に調査を依頼し、その報告をまってこれを実施に移したい意向だといわれる。まだその間いろいろ問題があり、今後政府と与党との間で慎重に検討した上でなければ、最終的な結論を見るにはいたるまい。
われわれは、北鮮への帰国を望む人たちに対しては、その切なる希望をかなえるのが当然(不明)あると考えて来た。在日朝鮮人の総数は約六十万人といわれ、そのうち北鮮への(不明)望んでいる人たちは在日朝鮮人総連合会の調査によると、十一万七千人にのぼっていると発表されている。この人数については、いずれ正確な調査を必要としようが、これらの人たちの大部分が生活苦に悩んでいるので、北鮮政府が帰国のための船舶や費用を配慮するとあれば、その希望を満すために日本政府として帰国の便宜をはかるのはまさしく当然のことであろう。
ただここで問題なのは韓国側の態度で、北鮮を韓国領土の一部としている建前上、北鮮を日本が相手とすることは許せないと主張し、また北鮮帰国は韓国に敵対する陣営を利するものだとして強く反対しているのである。
しかし周知の通り「人権に関する世界宣言」の第十三条二項には、「何ぴとも、自国をふくむいずれの国をも去り、また自国に帰る権利を有する」と明記されている。さらに一昨年のニューデリーにおける赤十字国際会議でも、外国に居住するものが、その故国に帰ることを望む場合は、その国の政府は出国を許さねばならず、本国はこれを受入れねばならぬ、と決議されたのである。いわば、北鮮帰国問題は基本的人権にかかわる問題であることが明白である。
藤山外相が、日韓会談の続行中に韓国側の反対するこの北鮮帰国問題をとりあげたこと(以下不明)
-----
北鮮帰国希望者の問題は、ほおかぶりしているべきことではない。北鮮系の在日居留民団体である朝鮮総連にいわせると、七万人が北鮮に帰ることを希望しているという。その理由は日本にいては食えないからだという。北鮮政府も引取りたがって、旅費も船賃ももつとまでいっている。日本としても彼らに対する生活保護費の増加、貧困を主因とする犯罪の横行に手を焼いている。帰ってもらえればそれに越したことはない。そればかりでなく大きな大義名分として、居住地選択の自由は、近代社会においては何人にも奪われることのない基本的人権なのである。北鮮へ帰りたいと言う朝鮮人を、日本に引止めておくという根拠はない。人道上の重大問題である。
それにもかかわらず、政府が北鮮帰国を許さずにいるのはなぜか。日韓会談の決裂を恐れるからである。これは日韓会談を進めるための条件の一つとして韓国側から要請されたことである。行政当局のなかには共産側の謀略だから警戒すべしと言う意見もあるが、帰国させるべきだという考え方の方が強いようだ。しかし日韓会談を決裂させたくないという岸首相らの考えが、帰国を許させずにいる。
我々はもちろん日韓会談を成功させたい。しかしいままでの情勢から見ると日韓会談は日本側が全面的に譲歩して、無理でも何でも先方の主張をいれない限り、早急には妥結しない形勢にある。しかし全面譲歩などは、許されるべきことではない。おそらく日韓会談は、二十六日に再開されても、その後決裂しないまでも、とぎれとぎれて長びくであろうと思われる。そのあ(以下不明)
togetterからリンクされてるYahooニュースは、報道各社から配信されて一定時間で消える仕様
(だよな? 普段それほどニュースサイトを熱心に見たりしないけど)
ほかには、FNNとNNNも一度は公開しておきながら現在は見られない
(NHKや、新聞社系のサイトではもとから報じてなかったのか検索結果にすら出てこない)
唯一見つけられたのはテレ朝の「線路逃走し死亡の男 女性に“暴行”で書類送検」
あとライブドアニュースは、見ての通り「提供社の都合により、削除されました。概要のみ掲載しております。」てことで概要だけは見られる
テレビ局のサイトで公開されたニュース記事は一定期間が経つと見られなくなるとは言え、報じられてから10日ほどで非公開になるのは早すぎる気もする
が、「捜査が十分でない段階で報じられてしまったため、警察から非公開にするよう要請があった」「既に亡くなっている容疑者に鞭打つような報道は人道上問題がある」みたいな理由だった可能性も考えられる
……しかし、だったらなんでテレ朝だけ記事が残ってるのかわからないし、
そして、なにより元増田が指摘してる謎のツイッターアカウント群が不可解すぎるな・・・
陰謀論を疑いたくもなる状況だ
俺は表現の自由を常々主張しているが、一元的内在制約説(+αは若干ある)的な「公共の福祉」に基づく表現の自由の制約は当然あると思っている。だから
元の増田やid:kamayan1980がどう考えていたのかはわかりませんが、私はゾーニングや年齢制限なども表現の自由への制限だと思ってます。
なので、許されない表現などないというとき、それは単に創作物の作成だけでなく流通への規制も一切ないという意味だと考えています。
真面目に表現の自由を主張している人でそこまで主張している人はまずいない(実は1人心当たりがなくもないのだが)。
満員の劇場で”劇場が火事だ!”と叫んで逃げ出す人々を生み出すことも現代アートです、と主張することは不可能ではないが、この場合は劇場への業務妨害が当然に成立するし、
創作物において、実在の事件で無罪になった人を犯人扱いしたことが名誉毀損罪になった事例は存在するが、公共の福祉における当然の制約だと思う。
現代の社会で、アダルト物や暴力表現が過激であるものがゾーニングされていたり年齢制限がかかっているのは、そういったものについて自由な流通は許されないと大多数が考えたからですね。
違いますか?
実のところ上で書いた例と比較した時に『有害だから子どもにエロ・暴力を見せたくない』というのは本当に内在制約と言えるのかは若干の疑問がある。
俺は子無しであるが、流石に子どもに無制限にエロを見せても良いとは思わない。ただ一方で、『エロを見せることは本当に子どもの発達に有害なのか』という研究はおそらく存在しない。というか流石にそんな研究は人道上許されないのは明らかだ。
この場合、子どもの成長への実際の害というよりも「子どもにエロをできれば見せたくない・ある程度コントロールしたい親の権利」との衝突で年齢制限がかけられていると一応俺は思っている。(規制の実態がそうなっているか、はまた別)
単純に考えて欲しいんですけど、「許される」派の人たちは深夜番組でCGのスナッフムービーが流されても問題ないと思ってるんですか?
テレビで、というのは若干の疑問がある。それはどうしてもTVの電波は有限のリソースだから(新聞や雑誌は商業的に成立するかどうかを抜きにすれば無限に存在することが可能だが、TVの電波は無限ではない)ある程度のバランスは必要になるとは思う。
ただその上で、増田は、気に入らないならチャンネル変えれば良いじゃないかと思う。
この例え自体現実味がないから考える価値がないというのであれば、かつて放送されていた深夜のアダルト番組がなくなったのはどうしてだと思ってますか?
「許されない」とされたからじゃないんでしょうか?
少しでも許されないと考えたものは存在を抹殺しようとする人がいて、そういう人による炎上を恐れたことによる商業的理由じゃないかな?
で、タイトルにも少し書いたけど。
~~~
規制派「お前は子どもがレイプされるエロマンガを一切の制約なく流通させて子どもが見ても良いと思っているのか」
~~~
この会話はフィクションだがこれに近い流れになることは多いし、実際に
自由主義(自らの自由と同様に人の自由も最大限尊重する)的な意味での表現の自由を主張する人に対し、自由(一切の制約なし)の意味だと受け取る規制派とのすれ違いがこの手の問題の根本にあるように思う。
暴くもなにも一般に知られた事実じゃん。共産党の公式サイトにも載ってるよ。
戦時下に朝鮮から日本へ強制連行された朝鮮の人々の北朝鮮への帰国事業とは、一九五六年の赤十字国際委員会の勧告に始まり、日朝両国の政府の了解のもと、日朝両国の赤十字社が主体となって実施された事業です。
日本国内でも「自国に帰る権利」を支持する立場から超党派で在日朝鮮人帰国協力会を結成。小泉首相の実父・小泉純也衆院議員や鳩山一郎元首相、浅沼稲次郎社会党委員長、宮本顕治日本共産党書記長も参加していました。
公明党は、この帰国事業の支援活動に加わっていたことで、日本共産党を「犯罪者」呼ばわりしようとしていますが、小泉純也氏や鳩山一郎氏をはじめ多くの保守政治家も“犯罪者”扱いするのでしょうか。
在日朝鮮人の帰国事業は、赤十字国際委員会が居住地選択の自由にかんする問題として日本と南北朝鮮の政府によびかけ、日本赤十字社が主体となり、政府が閣議決定で推進した事業です。こうした事業を人道上の立場から支援するのは当然のことです。それを、他党を中傷するため、あたかも犯罪行為であるかのように意図的にねじ曲げたために、自ら賛成した歴史も語れない自己矛盾に陥るのです。
「核武装を検討する必要があると言ったな。あれは嘘だ」安倍晋三
核兵器は非人道的なものだとして、いかなる状況でも使用すべきではないとする共同声明が、国連総会の軍縮問題を扱う委員会で発表され、これまでで最も多い日本を含む125か国が参加を表明しました。
国連総会の軍縮問題を扱う第1委員会では、21日、日本を含む125か国が核兵器をいかなる状況でも使用すべきではないとする、共同声明を発表しました。
こうした声明は過去3回発表されていますが、今回参加した国はこれまでで最も多く、各国の名前が読み上げられると会場から拍手が上がりました。
共同声明は「核兵器は過去の使用や実験の経験から制御不能な破壊力と無差別さを持ち、受け入れがたい人道上の影響をもたらす」としたうえで「いかなる状況でも核兵器を2度と使わないことが人類の生存の利益につながる」として核兵器の不使用を訴えています。
こうした声明には、アメリカや中国などの核兵器の保有国は参加しておらず、日本もこれまではアメリカの核抑止力に頼る安全保障政策上の理由から参加を見送ってきました。
唯一の被爆国でありながら消極的だと内外から批判が出るなか、日本政府は今回「声明の趣旨が日本の安全保障政策や核軍縮の取り組みとも整合性がとれる内容になった」として、初めて参加を決めたとしています。
共同声明の提案国ニュージーランドのデル・ヒギー軍縮大使は「日本は、広島・長崎の被爆体験からこれまで核軍縮に積極的に取り組んでおり、われわれの仲間に加わってくれることを期待していた」と述べ、参加を歓迎しました。
広島市長「歓迎したい」
広島市の松井市長は「核兵器の非人道性を踏まえ、核兵器廃絶を訴える国々とともに行動する決意の表明と受け止め歓迎したい。日本政府には声明に参加した国々をリードして、被爆地の思いを世界に発信し核兵器廃絶に向けてより一層積極的に取り組んでもらいたい」と話しました。
長崎市長「ようやく合流できた」
長崎市の田上富久市長は「被爆地としてこれまで核兵器の非人道性を訴えてきたので、今回の声明の参加については被爆者の皆さんとともに喜びたい。これでようやく日本が、核兵器廃絶に向けて取り組んできた集団に合流できたことになり、今後は被爆国の政府として、北東アジア地域の核兵器廃絶に向けてリーダーシップをとることを強く期待したい」と述べました。
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会は「共同声明に参加した日本政府に求められるのは、いかなる状況下でも核兵器が使われないため、速やかにアメリカの核の傘から離脱し、核保有国に核兵器廃絶を迫る責務を果たすことだ」などとする声明を発表し、日本政府に対し、アメリカの核の抑止力に頼る今の安全保障政策を改めるよう求めました。
また坪井直代表委員は「平和に向かって一歩も二歩も前進したと思っていて、日本の参加を大いに評価している。被爆者としては国とも協力して今後の運動を進めたい」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131022/k10015454891000.html
特定人物や団体を攻撃する目的ではなく、一般的にはこうではないかという意見をできるだけ冷静に綴ります
(私の中では、家入氏は商売目的では無く、純粋に善意と好奇心で始めたのではないかな という前提です)
1.坂口さんの学籍状態について:
初期段階において、読み手側に誤認させてしまうような表記があり、
その事について、本人がはっきりと自覚していなかったという主張をしている点
普通は、抹籍及びその前段階にあたり、大学側より事前・事後の通知・連絡がはっきりと学生に対して成される筈である。
坂口さんが自身の退学処分につき、自覚していなかったという主張は一般的に受け入れられるには無理が有るのではないか。
また、彼女は退学処分後も「google+で日本一になった女子大生」という売りでネット内外での活動等を行っている。
studygiftにおいても、その延長線上で「早稲田大学生」であると主張する事により
「ある種の利益を得ようとしたのではないのか」、と思われ、個人的に叩かれる大きな原因の一つになっているのではないか。
(現時点でも、google+のプロフィールを「在籍中 Waseda University」のままにしている事も、
studygiftの件で反省しているのであれば本来すぐに修正すべきで、不誠実な態度と取られる原因の一端と成り得る)
この点に関しては、彼女は当事者として、事の経緯につき再度、時系列に沿った詳細な説明をするべきではないだろうか。
2.「信頼性の担保」について:
これは大きく分けると、支援を受ける本人に関する点と、運営母体に関する点に分かれる。
1)支援を受ける本人に関する点
その人の身分・履歴・賞罰・必要額等を誰が精査し保障するのか。極端に言えば、その人は実在しているのか?
仮に身分詐称があったり、本人による金の持ち逃げ、別用途への転用等を誰が責任を持って監視し
瑕疵があった場合には誰が、どれぐらいの時間で、どのように処分するのか。
2)運営母体に関する点
万が一返金の事態になった場合に正しく全員に返金される・された事の保障はあるのか。
この点に関しては、残念ながら今回studygiftは非常に脆弱な担保しか持っていなかった様に思われる。
(支援者は勿論善意の存在であるが、運営者・非支援者迄全てを「善意である」という事をのみ以って担保とする事は
また、今回坂口さんの学籍の件でゴタゴタがあったケースを見れば、運営者側にもリスクが大きかった)
3.利用料・手数料の件について:
集金額より10%がシステム利用料として支払われる、という仕組みと
Paypal手数料表記がPaypalの決済手数料上限を2%程度越えた表記がされていた事に対して
「苦学生を救う為の学費を集めるという名目で商売をするつもりか」「細かい所で利益のごまかしを行っているのではないのか」
といった批判・疑念が少なからず起こっていた。
システム構築や保守等の費用を考えれば、1件につき大した利益は生まない(下手をすれば赤字)のかもしれないが
・通常の奨学金制度や募金行為等は非利益団体として行われるべきであるという認識
・ネット上での不特定多数を相手とした集金行為に対する一般的な警戒心
詐欺行為や集金額のごまかしを行おうと思えば、いとも簡単に行える物である点は念頭に置くべきである)
・studygiftに存在した、上記で記したような「信頼性の担保」の脆弱性を考えた上で、
他者により第2・第3のstudygiftが現れて、その内の少なからずが詐欺行為等を行うのではないかという懸念
といった世間一般的な考え方が、この点についての批判・疑念を生む原因になったと思われる。
(こういった「世間一般的な考え方」を古い、硬直していると一刀両断に切り捨てる事は簡単ではあるが
社会との共存には繋がらず、徒に先鋭化するだけではないだろうか)
この点に関しては、上記2.「信頼性の担保」にも関わる事であるが、
やはり「学生救済・学費援助の為のプラットフォーム」を名目とするならば、
こういった批判・疑念を避けるためにも、運営母体は非利益団体として活動し、
集金額と使途の透明化(外部第三者機関や法人による銀行口座の監査等)を徹底する必要が有るのではないだろうか。
純粋に、「リターンと対価」のビジネスであれば話はまた違うのかも知れないが、
今回studygiftに支援を寄せた方のその殆どは、坂口さんより提示された「リターン」に対して大きく魅力を感じたのではなく
「善意」を以って、「学費を支援しようとした」点はまず間違いでは無いと思われる。
支援や寄付といった行為が、人の心の「情」に訴えかける力を持ってしまうという事実が有る以上
「情」から生まれた支援(=金)の扱いを疎かにする事は人道上、許されない行為ではないだろうか。
今後も「学生救済・学費援助の為のプラットフォーム」という方針ですすめるのであれば
その事は決して忘れてはいけないと思う。
4.運営側の対応:
施行前に熟慮が不足していた点、批判に対する挑発的な発言については
家入氏が既に自ら非を認めている事であるので、改めて言及するまでも無いと思われるが
批判を受け始めてからの対応にはやはり不味いと思われる点がある。
・そもそも企画発案者の1人で有る筈の、吉永氏の態度
(沈黙を続け、studygiftについては有料のメルマガでのみ言及するという手段)
・サービス開始は迅速に、集金時点に於いては初期段階から頻繁に、不特定多数に広く告知しているにも関わらず
批判を受け始めてからは、公式アナウンスの頻度と範囲が限定された。
(途中経過を含めて、支援を実際に行った当事者のみを対象とし、
それ以外を無関係な部外者として、情報の開示を行わないような方式は
ビジネスの集客時点では不特定多数に無差別に広く告知する方法から、まず始まる事を考えると
「もしかしたら当事者(受益者・被害者)」に成り得たかもしれない大多数 に対しても情報の開示を行う事が
誠実さの有る行動と言えるのではないだろうか。)
上記の点が、沈黙により事態の風化を狙っているのではないか・金の問題も有耶無耶にするのではないか
という不信感を煽ったのではないかと思われる。
最後に:
ネット上ではよく「金を出す側は好きで出しているのだから好きにさせておけ」「騙される奴が悪いのだから放っておけ」
という自己責任論的な発言を見受けるが、
日本国憲法代36条
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC36%E6%9D%A1
死刑(特に現行の絞首刑)については、それが残虐刑に当たるものかどうか意見が分かれているが1948年の最高裁判所判例では死刑は残虐刑にあたらないとされている。
(中略)
* 死刑はまさに究極の刑罰であり、また冷厳ではあるが、刑罰としての死刑そのものが直ちに同条における、いわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない 。ただ、死刑といえども他の刑罰の場合におけるのと同様に、その執行の方法などがその時代と環境とにおいて、人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、もちろん残虐な刑罰といわねばならぬから、将来、もし死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの如き残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそまさに憲法36条に違反するものというべきである(最高裁大法廷判決昭和23年3月12日)[5]。
一応死刑そのものは残虐でなく、火あぶりとかすると残虐になると書いてある。だってさ。俺もそう習った。あくまで残虐な死刑がいけないのであって、死刑は残虐な刑罰とみなさないというのが判例だ。
育った町は関東に位置している田舎だ。電車に乗れば東京まで一時間半か二時間程度の場所だが、それでも十分田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければならない。隣駅は無人駅で、最寄駅は7時にならないと自動券売機で切符が買えない。バスに至っては二時間来ないこともざらだ。終電や終バスの時間も早く、夕方が差し迫ってくれば、乗り継いで行った先の終電のことを考えなければならない。東京は近くて、でも遠い街だった。
電車に乗ってあの町が近づいてくると、見渡す限りの田んぼとその中をうねうねと伸びる農道が見える。街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜ける夜も、夏になると井戸からくみ上げた水が滔々と流れる用水路も、稲穂の上を渡る金色に光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、なにもかもが呪わしかった。どこへ行くにも車がなければ不便で、こじゃれた店は大規模なショッピングモールの中にしかない。それで、中高生はいつもそこに特に理由もなくたむろしていた。
みんな都会に行きたかったのだ。すぐにつぶれてしまう店も、郊外型の広い駐車場も、市街地から外れればとたんに何もなくなって農耕地だけになるニュータウンも、なにもかも厭わしかった。私たちはたまに触れるなにか新しいものを含んだ風にあこがれ、騒がしい日常を羨み、便利さに憧憬を抱いた。都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。
高校を卒業するとともに私を含めほとんどの友人は都会へと向かった。何人かは都会に住みかを確保し、住みかを確保できなかった人たちはどこかに拠点を確保して、毎日何時間もかけて都会へと通った。
私は住みかを確保できた幸運な一人だ。山の手のかたすみにある、静かな住宅地に最初の下宿はあった。学生用の木造二階建ての、半分傾いたアパートだ。四畳半で風呂がなく、トイレと玄関は共同だ。同じ値段を出せば、田舎では1DKが借りられる。しかしそんな場所でも、私にとってそこは「トカイ」だった。
トカイでは駅までの道に田畑はなく、駅では10分も待たずに電車が来る。どの駅でもかなりの人々が乗り降りし、夜が更けても街燈が一定の間隔で並んで夜を追い払ってくれる。月明かりに気付く余裕をもって往来を歩けるほどの安心が都会にはあった。そのくせ、私が慣れ親しんできた大きな木々や古い河の跡や、四季はきちんとそこにいて、祭りがあり、正月があり、盆があり、そうやって人々は暮らしていた。盆正月は店が閉まってしまうということを知ったのも都会に出てからだった。
都内にありながら広大な面積を有する大学の中には山があり、谷があり、そして池があった。そこにいると、田舎のように蚊に襲われたし、アブラゼミかミンミンゼミくらいしかいないとはいえ、蝉の声を聴くことができた。近くに大きな道路が走っているはずなのに、喧騒はそこまでやってこず、昼休みが過ぎると静寂が支配していた。水辺で昼食をとるのが私は好きで、亀と一緒に日を浴びながらパンを食べた。
あるいは、田舎でそうしていたようにどこへ行くにも自転車で行き、アメ横からつながる電気街や、そこから古書街、東京駅、サラリーマンの街あるいはおしゃれな店が並ぶ一帯までどこへでも行った。都会は平坦につながっているように見えるが、どこかに必ず境目があるのだった。境界付近では二つの街の色が混ざり合い、ある臨界点を超えると途端に色彩の異なる街になってしまうのが面白かった。その合間にもところどころ自然は存在していて、いつからそこに植わっているのか知らない大きな木々が腕を広げて日陰を作り、その下にベンチが置いてある。くたびれた老人がその下に座り、コミュニティが形成される。それが私の見た「都会」だった。
山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから、東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。電車が10分来ないとか、駅まで10分くらい歩かなければならないとか、店がないとか、繁華街が近くにないとか、そんな些細なことを田舎だと称するけれど、田舎はそうじゃない。
田舎は不便だが、時に便利だ。車で移動することが前提だから、どこか一箇所にいけばだいたいのことを取り繕うことはできる。都会のように一つの場所に店が集まっていないせいで、あちこち足を運ばなければいけない不便性が田舎にはない。確かに近くに店はない。駅も遠い。でもそんなことは本当に全然大したことじゃないのだ。
大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎、邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎のやりかただ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。人工の整然とした景観があり、そことはっきりと境界線を分けて田畑が広がる区域が広がる。その光景をあなたたちは知らない。人工の景観の嘘くささと、そこから切り離された空間の美しさをあなたたちは知らない。新しく人が住む場所を作るために農地や野原を切り開いて、道路を通し、雨になれば水が溜まる土壌を改良し、夏になればバスを待つ人々の日陰となっていた木々を切り倒し、そうして人工物とそれ以外のものを切り離していくやり方でしか町を広げていくことのできない田舎を、あなたたちは知らない。人々は木漏れ日の下に憩いを求めたりしないし、暑さや寒さに関してただ通りすがった人と話をすることもない。車で目的地から目的地へ点と点をつなぐような移動しかしない。それが田舎なのだ。あなたたちはそれを知らない。
盆や正月に田舎に戻ると結局ショッピングモールに集まる。友人とだったり、家族だったり、行くところはそこしかないから、みなそこへ行く。しばらく帰らない間に、高校時代によく暇をつぶしたショッピングモールは規模を拡大し、店舗数も増えていた。私が「トカイ」で足を使って回らなければならなかったような店が、都会よりずっと広い売り場面積で所狭しと並ぶ。それがショッピングモールだ。上野も秋葉原も新宿も池袋も渋谷も原宿も東京も丸の内もすべて同じところに詰め込んで、みんなそこは東京と同じだと思って集まる。田舎は嫌だ、都会に行きたいと言いながらそこに集まる。
ABABというティーン向けの店でたむろする中高生を見ながら、私は思う。下町を中心としたチェーンのスーパーである赤札堂が展開しているティーン向けの安い服飾品を、田舎の人は都会より二割か三割高い値段で喜んで買う。これは都会のものだから、垢抜けている、そう信じて買うのだ。確かにその服はお金のない中高生が、自分のできる範囲内で流行りを取り入れて、流行りが過ぎればさっさと捨てるために、そういう目的に合致するように流通している服飾品だ。だから安い代わりに物持ちが良くないし、縫製もよくない。二、三割その値段が高くなれば、東京に住む若者はその服は買わない。同じ値段を出せばもう少し良いものが変えることを知っているからだ。田舎に暮らす私たちにとってのしまむらがそうであるように、都会に住む彼らにとって最低限の衣服を知恵と時間をかけてそれなりに見えるように選ぶのがABABだ。そのことを彼らは知らない。
ABABのメインの事業である赤札堂は、夕方のサービスタイムには人でごった返し、正月が近づけばクリスマスよりもずっと入念にかまぼこやら黒豆やらおせちの材料を何十種類も所せましとならべ、思いついたようにチキンを売る。あの店はどちらかというと揚げ物やしょうゆのにおいがする。店の前には行商のおばさんが店を広げ、都会の人たちはそれを喜んで買う。若いこどもはそれを見てここは「イナカ」だという、そういう光景を彼らは知らない。田舎ではショッピングモールの商品棚のなかにプラスチックでくるまれた商品があるだけだ。そうするほうが「トカイ」的で便利でコミュニケーションがいちいち必要ないから、田舎の人間はそれを喜ぶのだ。
そして私は「トカイ」という呪縛から逃れていることに気付くのだ。
どちらもよいところはあり、悪いところはある。便利なところはあり、不便なところもある。都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想でしかないということを、私は長い都会生活の中で理解したのだった。便利なものを人は「トカイ」という。何か自分とは違うと感じるものをひとは「トカイ」のものだという。それは憧れであり、決して得られないものだと気づくまで、その呪縛からは逃れられないのだろう。
「イナカ」はその影だ。「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想でしかない。幻想でしかないのに、私たちはそれを忌み嫌ったり、あこがれ、求めてやまなかったりする。だから田舎はいやなんだというときのイナカも、都会に行けばきっとと願うときのトカイも私の心の中にしか存在しない、存在しえない虚構なのだ。
私はオフィス街の中で聞こえるアブラゼミの声が嫌いではない。でも時々その声が聞こえると、田畑を渡る優しく澄んだ夕暮れ時の風を思い出す。竹の葉をすかす光とともに降り注ぐ、あの鈴の音を振るようなヒグラシの音が耳に聞こえるような気がする。
記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。
父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から10軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父の家だったはずだが、確か車で15分くらいかかったと思う。幼いころにしかいなかったので記憶はもうほとんど残っていない。免許証の本籍地を指でなぞるときにふと頭の中によぎる程度だ。父はあの田舎が嫌いで、転職と転勤を繰り返して、関東に居を構えた。あの村で生まれて、育ち、その中から出ることもなく死んでゆく人がほとんど、という中で父の都会へ行きたいという欲求と幸運は桁はずれだったのだろう。時代が移り変わって、従兄弟たちはその集落から分校に通い、中学卒業とともに市街地へ職や進学先を求めて移り住んでしまった。今はもう老人しか残っていない。日本によくある限界集落の一つだ。
引越をした日のことは今も覚えている。きれいな街だと思った。計画的に開発され、整然と並んだ町並み。ニュータウンの中には区画ごとにショッピングセンターという名の商店街があり、医療地区があり、分校ではない学校があった。電柱は木ではなくコンクリートだったし、バスも来ていた。主要駅まではバスで40分。駅前にはマクドナルドも本屋もミスタードーナツもある。旧市街地は門前町として栄えていたところだったから、観光向けの店は多くあったし、交通も車があればどうとでもなった。商店に売られているジュースは何種類もあったし、本屋に行けば選ぶだけの本があった。子供の声がして、緑道があり公園があり、交通事故に気をつけろと学校では注意される。
バブルにしたがって外側へと広がり続けたドーナツの外側の淵にそのニュータウンは位置しているが、新しい家を見に来たとき、祖父母はすごい都会だねぇと感嘆混じりに言った。
父は喜んでいた。田舎には戻りたくない、と父はよく言った。都会に出られてよかったと何度も言った。ニュータウンにはそういう大人がたくさんいた。でも、都心で働く人々にとってニュータウンは決して便利の良い町ではなかった。大きな書店はあっても、ほしいものを手に入れようとすると取り寄せるか、自分で都心に探しに行くしかない。服屋はあるけれど、高いブランド物か流行遅れのものしかない。流行はいつも少し遅れて入ってきていた。都心に日々通う人たちはそのギャップを痛いほど実感していたに違いないと思う。教育をするにしても、予備校や塾は少なく、レベルの高い高校も私立中学もない。食料品だけは安くて質のいいものが手に入るが、都会からやってくる品は輸送費の分、価格が上乗せされるので少し高かった。都会からじりじりと後退してニュータウンに落ち着いた人々にとって、言葉にしがたい都会との微妙な時間的距離は苦痛だったのだろう。
子供にはなおさらその意識が色濃く反映された。簡単に目にすることができるからこそ、もう少しでつかめそうだからこそ、都会は余計に眩しいものに思えた。引力は影響を及ぼしあうものの距離が近いほど強くなるように、都会が近ければ近いほどそこへあこがれる気持ちも強くなるのだ。限界集落にいたころには市街地ですら都会だと思っていたのに、ずっと便利になって都会に近づいた生活の方がなぜか我慢ならない。
そして子供たちは大きくなると街を出て行き、後には老人だけが残った。さながらあの限界集落のように、ニュータウンもまた死にゆこうとしている。幸運なことに再び再開発が始まっているようだが、同じことを繰り返すだけだろう。
祖父母にとって東京は得体のしれないところだった。東京駅に降り立った彼らは人込みの歩き方がわからず、父が迎えに来るまでじっと立ちつくしていた。若いころだってそうしなかっただろうに、手をつないで寄り添い、息子が現れるまで待つことしかできなかった。そういう祖父母にとってはあのニュータウンですら、生きていくには騒がしすぎたのだ。あれから二度と都会へ出てくることはなく二人とも、風と、田畑と、山しかないあの小さな村で安らかに一生を終えた。
たまに東京に出てくる父と母は、あのとき祖父母が言っていたようにここは騒がしすぎて疲れる、という。どこへ行くにもたくさん歩かなければならないから不便だと言う。車で動きにくいから困ると言う。智恵子よろしく母は、東京にイオンがない、と真顔で言う。私が笑って、近くにイオン系列のショッピングモールができたし、豊洲まで出ればららぽーともある、といっても納得しない。田畑がない、緑が少ない、明るすぎるし、どこへ行っても人が多い。すべてがせせこましくてあわただしくて、坂が多くてしんどい。それに、とことさら真面目な顔になって言う。犬の散歩をする場所がない。犬が自由に走り回れる場所がない。穴を掘れる場所もない。彼らはそう言う。
あんなに都会に出たいと願ってやまなかった若いころの父と母は、あのニュータウンの生活に満足し、さらに都会へ出ていくことはできなくなったのだ。それが老いというものかもしれないし、身の丈というものなのかもしれない。生きてゆくべき場所を定めた人は幸せだ。幻想に右往左往せず、としっかりと土地に根を張って生きてゆくことができる。
私の住む東京と千葉の境目も、不満に思う若者は多いだろう。都内とはいっても下町だからここは都会ではない、と彼らは言うかもしれない。都下に住む人々が都会に住んでいない、と称するように自分たちの住む街を田舎だと表現し、もっともっとと願うのかもしれない。引力は近づけば近づくほど強さを増すから逃げられなくなるのだ。でも、もしかすると、都会の不便さを嫌って、彼らは田舎を志向するかもしれない。一つのところへ行きさえすれば事足りる、点と点をつなぐだけの便利な生活。地をはいずりまわって丹念に生きる必要がある都会と違って、郊外は行く場所が決まっているし、ネットがあればなんとかできる。彼らには、私たちが引力だと思ったものが反発力として働くかもしれない。未来は分からない。
それでもきっといつかは、みんな、どこかに愛着を抱くか、よんどろこのない事情で立ち止まるしかなくなるのだろう。祖父母がそうであったように、父と母がそうであるように、どこかに満足して、ここ以外はどこにも行きたくない、と主張する。それまではきっと都会と田舎という幻想の間を行き来し続けるのだ。
のようになってしまった。
人間社会において競争に負けるということは富にアクセスする手段を
お金によって衣食住を手に入れなければならないのが、人間と動物の違いである。
お金がなくて衣食住を手に入れなれないということは生活に困窮して餓死するしかない。
その過程で様々な苦痛が伴う。いくら空腹でも他人のものを盗んでも食べてはいけない。
人間は、競争によって直接命を取られることはなくても生活できないことから苦痛を
伴い次第に死んでいく。
生存権を拠り所に生活保護を申請すれば生存できるが、負けた人が
続々と申請することで国も次第に税金を食い潰し衰退していく。
かといって、苦しみに耐えきれない人々が次々と自殺して死んで行くのを
人権、人道上、憲法上、容認できない政府。勝ち組でさえも自発多発社会の状態を
目の当たりにすることにより競争によって負けたらどうなるか?と不安になり