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サンフランシスコ講和条約で日本国籍を離脱しなければならなかった特別永住外国人?
日本が敗戦国になったとき、それまで日本の一部とされ、居住地や職業選択の自由が与えられ、内地に移住しさえすれば被選挙権が与えられ、帝国議会の議員になった者までいた朝鮮は、敗戦の責任から逃れる為に、独立を宣言した。日本国内にいた朝鮮人も、日本人ではなく第三国人であると主張し、戦勝国と同等の権利を主張した。
敗戦国となった日本は、ポツダム宣言(1945年)で海外領土の放棄を義務付けられ、放棄された地域が独立国として建国していく過程で、朝鮮人は敗戦国民であるよりは、新興国家の国民である方が豊かな生活ができると判断し、移住していったのである。日本にいた朝鮮人は、敗戦国日本に帰化する事を選んだ極小数を除いて、すべて、満州からの引き揚げ船の逆便で朝鮮半島に帰っていった。まさか、引き揚げ船が片道は空船で運行されていたと思っているのだろうか。引き揚げは日本人の海外領土からの引き揚げであると同時に、日本国内にいたそれらの地域出身者の引き揚げでもあったのだ。
そうやって成立した新興国の中で、唯一、自立できなかったのが朝鮮半島である。日帝統治以前は土人国家であったのだから、日帝が居なくなれば、ろくな統治が出来なくなるのは当然であった。朝鮮半島の北側には、ロシアの傀儡である金日成が中国共産党の協力を得て、北鮮を建国した。ロシアは満州を侵略したついでであり、伝統的な南下政策の都合であるし、中国は、朝鮮半島に橋頭堡を築かれると、北京が簡単に攻撃されてしまうという軍事上の理由から、陸上兵力の簡単な移動を不可能にする為に、ロシアでもアメリカでもない緩衝領域を作りたかった。アメリカとしても、朝鮮半島に橋頭堡は築きたいが、連合国である中国やロシアにも相応の分け前を与えなければならず、朝鮮半島を南北に分割して、それぞれの衛星国を建国するという話に落ち着いたのである。
それらの打算から、北鮮はロシアと中国の国家承認を得て独立し。南鮮はアメリカの保護を受けて独立した。そして、それらの後ろ盾と、アメリカの補給線の長さから、南鮮への侵略戦争に勝ち目があるとして、北鮮が南下を始め、朝鮮動乱(1950年)が発生した。
この朝鮮動乱によって、一度は日本から出て行った朝鮮人が、日本に密入国してきた。この時点では、難民条約(1954年ジュネーブ条約)はまだ存在しておらず、日本は、独自の人道的判断から、戦争避難民の一時受け入れを決定し、日本国内での永住許可を与えた。
いわゆる特別永住者とは、この永住許可を得た者とその子孫であり、サンフランシスコ講和条約(1951年)とは、一切関係が無い。
サンフランシスコ講和条約は、放棄領土に関しては、日本が台湾や朝鮮を独立国として承認したという条約であり、それらの地域出身者で日本国内に継続して存在していたいわゆる第三国人に、平和条約国籍離脱者という正式名称を与え、それらの国籍に移設しただけである。ポツダム宣言によって、それらの人々は第三国人として日本国籍から分離されたのであって、あえて日本国籍を喪失させられたとするならば、ポツダム宣言の時点であると言える。サンフランシスコ講和条約によって、平和条約国籍離脱者は特別永住許可者になったのだが、この対象者は、敗戦国に居続けたという点で希少な存在であり、極少数であったし、帰化する意思が高く、ほとんどが帰化済みである。
引き揚げ船の逆便で朝鮮半島に帰還した朝鮮人は、朝鮮半島に上陸した時点で朝鮮国籍を取得しており、その時点で、第三国人ではなくなっている。本人の意思で、朝鮮国籍を取得したのである。朝鮮動乱によって日本に密入国してきた朝鮮人に対しても、同じ特別永住許可が出された為に、混同が発生している。戦争避難民に対する人道上の措置と、海外領土の放棄に伴う処理とが、混ざってしまっているのである。朝鮮動乱の避難民は帰化する意思が無く、また、第三国人としての悪行も知れ渡っており、不良民族として区別の対象となっている。
日本の海外領土の放棄はポツダム宣言に拠ることを踏まえれば、根拠が無いばかりか、根本的な歴史認識において間違えている主張であることは明らかである。おそらく、ポツダム宣言もサンフランシスコ講和条約も、本文を読んだ事が無いのであろう。
これが、市井の個人であれば、距離をおいて関わらないようにすれば済むのだが、これだけあからさまな間違いを、国会議員、それも国務大臣が堂々と公言してしまうという点で、致命的である。誰か止めなかったのかとか、ブレインとなるべき政策秘書は何をやっていたのかとか、まともなブレインが居ないほど人望が無いのかといった感想が出てくるし、そもそも、ちゃんと日本の学校を卒業したのか、近現代史や公民の単位を取れたのか、学歴偽装じゃないのか、といった疑念がわいてくるのであった。
外国人は外国に国籍があるから外国人なのであり、国籍国において市民権・参政権を行使するのが筋である。日本の参政権は日本国民固有の権利であり、日本に帰化し、日本の秩序に従い、日本の為に血肉を捧げる事でしか入手できない。それが出来ない特別永住者は、速やかに許可を取り消し、朝鮮半島に帰還させるべきである。
間違った知識や判断が出てこないように、正しい歴史を広める必要がある。情報を捻じ曲げると、事実すら捻じ曲げられてしまうのだ。
妄言は、個人の愚行である。妄言を妄言であると誰も指摘できなくなるのは、社会の愚行である。戦争を愚行であると非難する人はいるが、戦争の原因は、歴史や国境や国民性の認識がゆがめられて対立が発生する事にある。妄言を妄言であると指摘できなくなる言論の統制こそが、間違った民意を発生させ、戦争の根本原因となるのである。
言論を慎むとは、その言論が間違っていない事や、人々を幸福に出来る事を心がけることであって、口を噤むことではない。ましてや統制でもない。地位にふさわしい見識を持たない者は、その地位を汚さない為に、進退を弁えるべきである。
パラオのジョンソン・トリビオン大統領は「米国から要請のあったウィグル人17名の身柄を暫定的に引き受ける」と10日に表明した。
「これはあくまでも人道的措置である」と付け加えながら。
米国は一月に発足したオバマ政権が「一年以内にキューバのグアンタナモ基地を閉鎖する」という公約に基づき、拘束中のアルカィーダ容疑者らの移転先を検討してきた。
中国は彼ら全員の送還を米国に迫っていたが、ろくな裁判もない国には返還できないとして、最初の五人を米国はアルバニアへ亡命させた。
グアンタナモ基地で拘束されている、所謂「反米戦闘員」のなかで、ウィグル人と見られるのは50人。
米国はほかの容疑者の移転先を、およそ100ヶ国と密かに交渉してきたが、すげなく断られてきた。
というのも、中国が「彼らは中国の安全を脅かすテロリスト」と言って、100ヶ国に強く受け入れないことを要求してきたからだ。
この間、フランスとイギリスが例外的に各ひとりを受け入れたが、ドイツは拒否した。
ドイツ国内には、「東トルキスタン独立」を主張するグループが複数あり、すでにウィグル人の社会もあるため、混乱を忌避したのだ。
豪にも少数のウィグル人の社会が形成されており、過去二回、米国の要請を断ったが、いまのラッド政権は人道上、受け入れに前向きという(ヘラルドトリビューン、6月11日付け)。
パキスタンはアルカィーダと見られる被疑者らをそのまま中国に送還し、うち何人かは即刻処刑されたという。
パラオは94年まで米国の信託統治、独立後、北京ではなく台湾と外交関係を維持しているので、北京からの抗議をはねつけることが出来る。
パラオはフィリピンの東800キロに位置する群島で主要な八つの島と250の小島、無人島からなる、人口二万人の「ミニ国家」。だが、難破船を救助し、「難民」を受け入れてきた歴史を誇る。
むかし(とはいえ、新旧石器とまで遡らず)、昌平坂以下のナショナル大は、休講に次ぐ休講であった、とさ。
meには遠藤い歯無し。ばってん 多少 with 興味。
おらが国のLEADERの脳内のどんな具合やか測定して候(ヨロピク★)。そんな画策。
ふと、「Yahoo!」一面とかいうページをみて、思い出す。
「あたたかい場所を 探し泳」(正宗はん←天才!)ぐ事。「影向という移動するファンタズマ」(イソ←?)。
以下、読み書き抜書(換言すれば、C&P)。
「地球の赤道上に固定され、自転する地球に伴って、動いている平衡輪式時計は、地球の南北いずれかの極点に置かれたまったく同じ構造や性能をもつ時計(置かれた場所の違いを別にすれば、これら二つの時計はまったく同じ条件のもとにあるとする)に比べて、非常にわずかではあるが、遅いテンポで時を刻むということである。」(アインシュタイン『相対性理論』 内山龍雄訳・解説、 §4. 動いている剛体,ならびに時計に関する変換公式の物理学的意味)
http://anond.hatelabo.jp/20090114125944
うーん、そうかなあ。自分は「相対的に見て」それらの兵器が人道的であるという点は評価しても良いと思うよ。
よく言われる『人道的な兵器なんてものはない』って主張は間違っていないとは思うんだけど、その主張を全面的に肯定すると、軍隊に周辺被害を低減するための努力を行わせるための政治的圧力がなくなっちゃうから。逆に、非人道的な戦闘・戦争への開き直り・居直りを肯定するロジックに使われてしまう。戦争の全てを防止し得ないのならば、より死ななければならない人、苦しまなければならない人の数が少ない方が「よりマシ」であるとは言えるんじゃないだろうか(最良である、とは口が裂けても言いたくないけど)。
とはいえ、これって確かにジレンマなんだよな。戦争が人道的になればなるほど、戦争行為に対する心理的ハードルというのは下がっていくわけだから。戦争という「暴力を通じた政治」が「人道上の罪」という軛から放たれることで、政治が「暴力の行使」に対する躊躇いと想像力を失っていくんじゃないか、という警戒心は常に必要なんじゃないかとは思う。過去の兵器よりも「相対的に」人道的な兵器によって戦争が遂行されることと、その戦争行為・目的が人道上許容しうるものであるかどうか、ということは明確に区別されるべきだよね(無関心から来る「許容」がどれほど簡単に悲惨な状態・卑劣な行為を見過ごすか、ということを知っていれば、この「許容」という言葉にもまた十分な留保と厳しい規律意識を求めたいところだけど)。そうした人道上の罪の側面が薄れたとしても、それが「暴力を通じた政治」であり、その政治の狭間で誰かが犠牲になるかもしれない(これは個別の状況にもよるけど)という想像力は最低限持ちたい。可能であれば、戦場となる地域への関心・知識もね。実践するのは難しいよなあと思うけど・・・。
そういう想像力も関心・知識も持たないまま、戦争行為を「戦争・兵器なんて非人道的なもんに決まってるだろ」と現状を追認する人はwebでもリアルでも時々見かけるけど、出来れば認識を改めてもらいたいなー。
ところで、事実誤認のある読売はともかく、赤旗が「全ての兵器を残虐なもの」と考えていることは容易に見当付くので、これを「どんな兵器なら使っていいんだよ・・・」と突っ込むのは今更っぽい気はするなー。まあ、JSF氏らしい生真面目さではあるけど。
http://anond.hatelabo.jp/20090114151226
北斗有情拳みたいな兵器があればいいのにね
せめて非致死性の奴でお願いします!!!!!!!!!!
あと、そういう標的の気持ちを第一に考えた、ホスピタリティとサービス精神豊かな兵器が実用化されたとしても、やっぱ相手に我が意思を強要するつーことの暴力性というかそういうところは変わらないですから。そこをどう捉えていくか、という話をしていた・・・つもりだったよ!相手を殺さないとしても、暴力・強制力を使って自らの要求を呑ませることが容認されるには、国際的な慣習に基づく正統性が求められると思うし、仮に過去においてその正統性が認められていたとしても、現在の視点からその意義を再度問い直すこと、政治的決断に批判・批評を加えていくことは重要なんじゃないかなーと考えております。