はてなキーワード: セレモニーとは
パリオリンピック開会式・閉会式、パラリンピック開会式とピアノがひどい目に遭い続けている。
っていう愚痴を書こうと思ったのだけど、「いじめられている」「ひどい目に遭っている」ってピアノのこと擬人化してるよなあ。なんでだろう。
思うに、自分は物心ついたときにピアノを弾いてたから単純な接触時間が長くて愛着が湧いてるんだろうな。
セレモニーに使われたピアノはうちのピアノではないけど(そもそもアップライトなので見た目すら違う)、まあ秋田犬飼ってなくてもハチ公の物語に涙したり、犬を飼っているのに猫の虐待ニュースに心を傷めたりするのと似たようなものなんだろう。
でもペットも人間目線でかわいがってるという意味ではやっぱり擬人化だし、ピアノも擬人化でいいのか。
とりあえず土足や車椅子で踏んだり蹴ったりされたピアノたちが無事だといいな…
あっまた擬人化した
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。
nippon.com版の方が先に書かれたので、nippon.com版→内田ブログ版の順に掲載。
適宜改行等を加えた。
nippon.com版
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01018/
http://blog.tatsuru.com/2024/07/12_0846.html
(01)
nippon.com版
今回の都知事選では、「選挙は民主主義の根幹をなす営みである」という認識が崩れてしまったという印象を受けた。選挙というのは有権者が自分たちの立場を代表する公人を、法を制定する場に送り込む貴重な機会であるという基本的な認識が今の日本からは失われつつあるようだ。
今回の都知事選では、選挙は民主主義の根幹を為す営みであるという認識がかなり深刻な崩れ方をしているという印象を受けた。選挙というのは有権者が自分たちの立場を代表する代議員を選ぶ貴重な機会であるという認識が日本からは失われつつあるようだ。
(02)
nippon.com版
知事選の当選者は1人に限られるのに「NHKから国民を守る党(NHK党)」が関連団体を含め24人の候補を擁立した。そして24人分の掲示板の枠に同一のポスターを貼るなど“掲示板ジャック”をした。NHK党は、一定額を寄付した人にポスターを張る権利を譲渡する行為にも及んだ。掲示板には選挙と関係ない人物や動物の写真、サイトに誘導する2次元バーコードなども張り出された。NHK党以外の候補も「表現の自由への規制はやめろ」と書いたわいせつな写真入りポスターを張り出すなど、目を疑うような行為があった。政見放送も含め、注目を集めて動画サイトなどのフォロワーにつなげるなど、選挙を単なる売名や金もうけに利用しようとする候補者が多数登場した。
(無し)
(03)
nippon.com版
(無し)
投票する人たちは「自分たちに利益をもたらす政策を実現してくれる人」を選ぶのではなく、「自分と同じ部族の属する人」に投票しているように私には見えた。自分と「ケミストリー」が似ている人間であるなら、その幼児性や性格の歪みも「込み」で受け入れようとしている。だから、仮に投票の結果、自分の生活が苦しくなっても、世の中がより住みにくくなっても、それは「自分の属する部族」が政治権力を行使したことの帰結だから、別に文句はない。
自分自身にとってこの社会がより住みよくなることよりも「自分のような人間たちから成る部族」が権力や財貨を得ることの方が優先する。これが「アイデンティティー・ポリティクス」の実態である。
自分が幼児的で、利己的で、偏狭で、攻撃的な人間だと思ったら、かつてならそれは「成熟」へのインセンティブになった。「もっとちゃんとした大人になろう」と思った。でも、今は違う。今は「そういう自分がけっこう好き」だとカミングアウトすることの方が人間的で、端的に「よいこと」だとされる時代なのだ。
正直言って、私には意味がわからない。この人たちはそんなに自分が好きなのか。そんなに同じ自分のままでいたいのか。私は同じ人間のままでいるなんてまっぴらである。息苦しいし、不自由だし、何より退屈で仕方がない。「自分自身に釘付けにされていること」をエマニュエル・レヴィナスは考えられる限り最も苦痛な体験だと書いていた。私もまったくそうだと思う。そもそも「自分が自分でしかあり得ないことの不快」を推力として、生物はここまで進化してきたのではないのだろうか。単細胞生物が単細胞生物であることに自足していたら話はそこで「おしまい」である。だから、アイデンティティーに固執する人たちを見ていると、私は奇妙な生き物を見ているような気になる。なぜ「そんなに自分自身でいたい」のか。自分であることにうんざりすることがないのだろうか?いや、ほんとに。率直にそう訊きたいのだ。
選挙の話をしているところだった。
今回の都知事選では、選挙を単なる売名や金儲けに利用しようとする候補者が多数登場した。
(04)
nippon.com版
公職選挙法に限らず、私たちの社会の制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的に振る舞うはずだ」という仮定の下に設計・運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、簡単に自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権が保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義そのものを嘲弄(ちょうろう)したりすることは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。
公選法に限らず、私たちの社会の制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的にふるまうはずだ」という仮定のもとに設計・運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、目端のきいた人間なら誰でも簡単に自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権が保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義そのものを嘲弄することは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。
(05)
nippon.com版
だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍晋三氏、菅義偉氏、岸田文雄氏の3代の首相による自民党政権の立法府軽視が原因であると私は考えている。
だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍、菅、岸田三代の自民党政権の立法府軽視が一因だと私は考えている。
(06)
nippon.com版
日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、自民党政権は行政府を立法府より上位に置くことにひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党が激しく反対する法案は強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的なセレモニー」であるように見せかけることに自民党政権は極めて熱心だった。
日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、行政府を立法府より上位に置くことに自民党政権はひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党がはげしく反対する法案は強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的なセレモニー」であるように見せかけることに自民党政権はきわめて熱心だった。
(07)
nippon.com版
安倍元首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席の過半数を占める政党の総裁は自由に立法ができる」という彼自身の実感を洩(も)らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律を執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義の精神を全否定する言明を繰り返していたことになる。
安倍元首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席の過半数を占める政党の総裁は自由に立法ができる」という彼自身の実感を洩らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律を執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義の精神を全否定する言明を繰り返していたことになる。
(08)
nippon.com版
現行憲法下で独裁制を実現するために、差し当たり最も有効なのは「立法府の威信を低下させること」である。有権者の多くが「国会は機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーにすぎない」「国会議員は選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政は事実上終わる。
現行憲法下で独裁制を実現するために、さしあたり最も有効なのは「立法府の威信を低下させること」である。有権者の多くが「国会は機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーに過ぎない」「国会議員は選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政は事実上終わる。
(09)
nippon.com版
だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「普通の市民以下かも知れない」という印象を扶植することに並々ならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党は政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府の威信を踏みにじることには見事な成功を収めた。
だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「ふつうの市民以下かも知れない」という印象を扶植することになみなみならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党は政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府の威信を踏みにじることにはみごとな成功を収めた。
(10)
nippon.com版
その帰結が、「代議制民主主義を嘲弄する」人々が選挙に立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なからず存在するという今の選挙の現実である。
その帰結が、「代議制民主主義を嘲弄する」人々が選挙に立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なからず存在するという今の選挙の現実である。
(11)
nippon.com版
NHK党は、暴露系ユーチューバーで有罪判決を受けたガーシー(本名・東谷義和)元参院議員を国会に送り込むなど、国会の威信、国会議員の権威を下げることにきわめて熱心であったが、これは彼らの独創ではない。自民党が始めたゲームを加速しただけである。
(無し)
(12)
nippon.com版
今回の都知事選で2位につけた石丸伸二氏も前職の広島県安芸高田市長時代に市議会と繰り返し対決し、市議会が機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。これも「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍元首相が体現してきた「独裁志向」路線を忠実に踏まえている。
今回の都知事選で二位につけた石丸伸二候補は安芸高田市長時代に市議会と繰り返し対決し、市議会が機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍元首相が体現してきた「独裁志向」路線を彼は忠実に踏まえている。
(13)
nippon.com版
日本維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄なコストをカットする」合理的な政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治的立場の代表者が議会で議論するのは時間の無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味でしかない。
維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄なコストをカットする」合理的な政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治的立場の代表者が議会で議論するのは時間の無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味でしかない。
(14)
nippon.com版
自民党派閥の裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義を空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配を空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。
自民党の裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義を空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配を空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。
(15)
nippon.com版
このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革を目指すだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕(むしば)まれてへたり込んでしまうだろう。そして、どうやら日本人の相当数は、この事件のニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように見える。
このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革をめざすだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕まれるだけだろう。そして、日本人の相当数は、このニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように私には見える。
(16)
nippon.com版
英国の首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用が極めて困難な政体だからである。民主政は「合理的に思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である。有権者の多数が「まともな大人」でないと、民主政は簡単に衆愚政に堕す。だから、民主政は人々に向かって「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。市民に向かって政治的成熟を求める政体は民主政の他にはない。
英国の首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用がきわめて困難な政体だからである。民主政は「合理的に思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である。 Permalink | 記事への反応(1) | 18:42
その一 https://anond.hatelabo.jp/20240318182037
東口の地下に何やら変な駐輪場があるのだが、実はこれは1990年までは地下街であったのだ。出来たのは1960年代のはず。
天井低くてしょぼいし店舗も狭いし店も昭和中期っぽくて古いしで、テコ入れされないままに90年に廃止。
というのも、90年にそごうが出来る事になったので、橋上駅の高さのままにデパートに入れるペデストリアンデッキを築造し、地下じゃなくて上の方で発展させる方向になったのやね。
で、駅の真ん前のデッキの基礎を建てるには地下街通路が邪魔。って事で、通路を閉鎖してデッキ基礎が貫通する形になった。残りの部分は店舗仕切りなどを取っ払って駐輪場へ。
なので一部閉鎖区画があって鉄板や木の板で塞がれているのだ。増田はここにどうにかして侵入できないかを昔から考えているのであった。
ちょっとあるよ。
本来、東アジア反日武装戦線「狼」はお召列車爆破と昭和天皇暗殺を狙っていた。場所は東北本線貨物線荒川鉄橋。
1968年まで赤羽以北の東北本線は貨客混合の複線だったが、輸送力増強の為に複々線化されて貨客分離された。これでお召列車は貨物線を走るようになった。原宿駅のお召列車ホーム自体が山手貨物線に接続されているから。
そうすると、貨物線橋梁爆破しても一般人に危害は与えないという事になる。そこで一味は爆弾設置の為に電線を設置しにいくが、人影があり、付近を徘徊しているので恐れて中止した。
そこで目標を変更して三菱重工爆破事件に至ったというワケ。元の一般人への危害回避はどこに行ったんだ。川口の乗越線はやっぱりこの貨客分離が元だから関係があると言えば関係がある。
wikipediaの虹作戦の項には「爆弾を仕掛けようとしたのは旅客線」と書いてあるが、これは間違いじゃないかと思う。そこは間違えんだろうし、増田が聞いていた話と違う。
東口駅前のそごうはそごう西武グループが売却してゴーストビルのままになってるが、三井が取得する見通しと、去年市議会で報告があった。三井という事はララガーデンとかららなんとかとかららクロフトとかになるのかと思われる。
しかしデパートというのはハイコスト、ハイリターンの業態に合わせた建物で、コストがメチャクチャかかるんだな。それは冷暖房費やエレベーター、エスカレータなどもそうだし、搬入口が狭くて外部の納品代行業者経由で整理して混載で搬入するのでないとパンクするっていうのもある。
だから巨大ダイソー一棟貸しみたいなのなら行けるが、色んなテナントが入って納品代行は使わないっていうのは無理など、難点が多いのだ。
そもそもデパートの損益分岐点って日商4000万円とかそういうレベルなんでショッピングモールなんかに入るテナントと業態が合わないのだ。
だからどうなんのかなと様子見。結局開店が流れちゃう可能性もあるね。
SLあおば通りって道があって、ファミマのSLあおば通り店っていうのもありhttps://maps.app.goo.gl/fWvvCmGbAjvhLPZw6 、道筋にはSLのオブジェとかもある。
でもこれインチキなんだよね。ここに線路があった事ってないんだ。
アリオは元はビール工場で、そこと川口貨物駅の間にユニオンビール専用線という貨物線があった。でもその専用線は現線路に平行していてJRが保線基地に使ってる。
そこでビール工場跡を再開発するにあたり、専用線跡を記念するオブジェを配置したい、でも専用線跡はJRが使ってる…って事で隣の道を指定しちゃったと思われるのね。こういうのは混乱の元だから止めて欲しいですな。
あるね。https://maps.app.goo.gl/dGPVNnEXP6hMg3n26
植物の繁茂で全然読めないが、実は同じものが陸橋の西詰にあるよ。https://maps.app.goo.gl/GNdf7d4UP3eT9aYj7
石碑の内容は、整圃事業の謝辞だよ。戦争中にまだ農地ばかりだった駅付近一帯を碁盤目状に土地の区画整理をして、その協力した地主達を名上げして感謝している。川口は江戸から離れ鋳鉄で栄え舟運で製品を出荷してやがて鉄道が来て~という事を漢文で書いてある。
この区画整理を戦前にやっておいたせいで、戦後に鉄の民需が爆上がりした時に鋳鉄工場が大量に出来て鉄の街となったのだな。
また、最初の碑がある場所というのは実は大踏切があった場所だ。駅の方から来た道が斜めに線路群を渡り、対面の斜めの道に踏切で抜けていた。
でもこれは当然危ないわけで、昭和30年代に埼玉県は荒川~大宮間の踏切を全部立体交差にする工事をしたのだ。それでこの大踏切も廃止になって代わりにこの北の川口陸橋が掛けられた。
因みにこの陸橋の開通セレモニーでは神主が来てお清めしてから神主が渡り初めをしているのが写真に残っている。
だから王子から赤羽には踏切が幾つか残っているのにその北の大宮には踏切が無いのだ。
多分西詰の石碑は元は大踏切の反対側にあったのがこの時に移動されたのではと思う。
タワマンというのは住宅地には建てられないの。日影規制もあるし、日照権も主張できるからあとから訴訟になる。
でも商業地や工業地ではそれらは主張できない。だから工業地帯から転換した地域はタワマンに最適というか、それ以外では建築が難しいの。
更にタワマンには建物の周りに公開空地を設けないとイケないのだが、「大規模な町工場」というのはこれで必要とされる広さに丁度いいのだ。
そういう訳で、川口にある〇〇製鉄、○○鋳造なんて名前の会社は、多くがもう工場を持ってないか縮小して他所に移転していて、不動産業メインの会社ばかりになってる。
日本初のタワマンは川口元郷のエルザタワー32なんだけど、ここは日本ピストンリングというエンジン部品を造っていた会社の工場だったところ。
因みにピストンリングは昔は鋳鉄を丸く繰り抜いたものが使われていた。鋳鉄には細かな穴が沢山あるのでここにオイルを保持して焼付き防止になっていたのだ。って事でやはり川口なので鋳鉄なのだ。
その丸井が閉店になって共同所有になり、ビるの愛称を決めた。もとが0101だから1110って訳でシャレや。
駅西口から徒歩7分くらいの所に飯塚氷川神社という神社がある。https://maps.app.goo.gl/fKh6qXTZGCNTYGRE9
ここだが、境内に結構古い社務所があるのだが、なんとこの社務所、選挙の投票所に指定されている。中は畳と板張りなんだが、そこに土足で入れるようにシートを敷いて投票箱と記帳所を置いて公職選挙が行われる。
すげえ田舎や離島で神社が投票所というのはあるだろうが、東京都境から徒歩10分、駅で一駅のタワマン林立地帯でこんな投票所があるというのは珍しいんじゃないか?
好事家の皆さんは選挙の日に覗きに来てはどうだろうか?
何?じゃなくて教習所や。元々地産グループの教習所だったが、グループ首魁が逮捕された影響で元会社が倒産、売りに出されて飛鳥ドライビングカレッジとなっている。
ここだが、ちさん時代から教習料が安いのが特長。都心から近いのに首都圏で一番安いという穴場なんだな。免許取りたい人はイイゾーここ。
因みに2019年台風19号の増水ではコースが7mの泥水の底になって、後にはコースも見えない泥の沼が残り、教員たち総出で泣き泣き泥かきをしたそうだ。
ボーはおそれているを見た
本当ははてな匿名ダイアリーに書こうと思ったのだが、初の試みすぎてどこからいけば入力ホームに飛べるのかも分からなかったので、こうして一旦自分のエディタに向かって書く。ちくしょうめ。
お前たちがこれを見ているのなら、どうにかうまいこと投稿できたんだろう。
あのミッドサマーを作った、嫌な人間関係を描くことでお馴染みの男アリ・アスターの作品だ。
彼の妙に女側の鬱憤描写に自信がありそうな感じは、まあきっと他の人が論じることだろう。
以下は、ボーと同じく母子関係に問題のある増田がどのようにボーと旅をしたかの備忘録である。
物語は、ボーが母親の誕生日パーティをドタキャンしたことから始まる。
ボーはいつも恐れていた、母親の機嫌を損ねることを。傷つけることを。
わかるぞ、ボー。
女手一つで息子を育てるというのは、どんなに大変なことか。
大人になればなるほど、それが途方もない献身の末にあったことが身に染みるようになる。
そんな彼女の気持ちを裏切るのは、いつも最悪な気分になった(これは増田の話)
それにボーは、母親の経済的援助の元にある(はっきり書かれてはいないが、増田はボーのカードは母親名義のものだと推測している)
就職先とか全部潰されてきたりしたのだろう。
アパートで鍵を奪われたりしたのは、なんだったんだろうな。
母親は誕生日パーティのドタキャンを受ける前から、ボーに試練を与えるつもりだったのか。
それとも、母親の一味の中にボーに害意を持つ者が個別にいたのだろうか。
あるいは、「お前はこれで終わりだ(うろ覚え)」と語りかけてきた男は、ボー自身の破滅願望だったのか?
ともかくここからボーの辛い旅が始まる。
家にたどり着くまでのやつは割愛しよう。
あれはほとんど昔話で言う「三回正しい行動をしたものだけが生き残れる」みたいなお約束パートに見えた。
その中でも、医者の妻や森の痩せた男など、ボーに同情的な人々は少し居た。
彼らはどんな気持ちであの寸劇をやっていたのだろうか。
あの医者の家の娘、その気の毒さ。
突然やってきたボロボロの中年男性に、居場所を奪われるのは苦しかっただろう。
もしかしてあのペンキを急に飲んだのは、ボー母からの内密な指令だったのかもしれない。
例えば誰も逆らいようのないボー母から「ボーと恋人関係になれ」などと命令されたなら(もちろんもし従ったところで、きっとボー母は彼女を始末しただろう。ボーにセックス禁止の呪いをかけていたわけだし。つまり、彼女が本気でボーを誘ってボーがそれをちゃんと断るところを見たかった。試したのだ)、あのヤケクソも理解できる。
ティーンエイジャーがそんなことを強いられれば、死にたくなったって仕方がない。
(追記:最初の推測は上の通りだが、よく考えて「ボーを本当の息子として扱え」が命令だったのかも)
個人的な推測をさらに進めるなら、ボーの母は彼を裁くに足る証拠を集めたかったのだろう。だから彼が罪を犯すチャンスをたくさん与えた。
そういえばボーの居住地区の治安が終わってるのも、母の采配なのだろう。
彼女はボーが自分を愛していないことを、確認したかったのかもしれない。
ペンキ自殺をきっかけに、ボーは次のステージへと追い立てられる。
舞台の筋を書いたのは母親だろうから、母の愛(鎖)を断ち切ったところで幸せにはなれないという話だったのだろうか。
結構序盤からボーの妄想劇場っぽかったから、あれは単に彼の内心の探索だった説の方が強そうだが。
そういうお母さんの話(舞台)を途中から流すようなところが、母をイライラさせていた可能性はある。でもあのお母さんイライラ範囲デカいからな…。
セレモニーが終わってみんな帰った後っぽかったのは、フェイクだったからだろう。元々死んでない葬式なうえ、目的はボーのリアクションを確かめることだ。
弔問客がいっぱいいたってノイズになるばかり。
クルーズで出会ったあの子(たぶんボー母がセックスに至る前に追い出した)が、葬式に現れる。
彼女はボーと可及的速やかにベッドインするし、死んだ母親のアクセサリーとかもいじくり回す。
絶対このタイプの女、ボー母は嫌いだもんな。明らかに遺産目当てだし。
あのおっかない母親が死んだ今、ボー一人を籠絡するのは楽勝だと思って現れたのだろう。
でもこういう金目当て女に易々とハマるのは、ボー母の責任だ思う。
お前がボーに恋愛(セックス)を禁じて、免疫を得るチャンスを与えなかったから……
そしてボーは母親に言外にしかし固く禁じられていた射精を、彼女の中で果たした。
ボーが母親に決定的な不信感を覚えた瞬間だと思う。
あの外観を与えたのはボー母であるし、自分の中で射精した瞬間死んだみたいなエピソードもそれっぽい。
ボーを宿したあの瞬間までで夫の物語を止めて仕舞えば、美しい話で終われる。
隙を見せたお前が悪いので自分語りをするが、私も過去に浮気をされたことがあり、ボー母のこの気持ちはよくわかる。
ある一瞬以降の「あいつ」を死んだことにしてしまえれば、どんなによかっただろうか。
ここに関しては、ボー母は自分のやりたいようになったことだろうから、少し羨ましくもある。
アリ・アスター監督は女のこう言う感傷部分への理解が異様に深い。
私も無限の金があったなら、昔の男のことは好きなだけボロボロにした上に殺したと思う。
なんでもできるが故に、諦められない。
彼女にとってどうしようもできないのは、人の心だ。
父親の心も、ボーの心も彼女は全く思い通りにできなかったのだろう。
一度、彼女の側に立ってみてボーを見る。
多分父親に似ていたのだろう。
今度こそ自分を一心に愛する男に育てようと心を砕いたのに、ボーは何度でも「私」を裏切る。
男友達と一緒に自分を貶め、自分以外の若く美しい女と寝ようとする。
自分に愛しているという口で、カウンセラーには不満や憎しみを言い募る(聞いてる母が悪いのだが)。
愛しても愛しても(少なくともそのように認識していても)、男は決して満足のいく愛を返してくれはしない。
可愛さ余って憎さ100倍ということわざが向こうにもあるのかは分からないが、そんな心境だったろう。
父と息子を混同するの、やめた方がいいよ。
「私」をとうとう完全に裏切った「あなた」なら、安心して殺せるから。
正直言って母の父への憎しみはわかるものの、「子供」としての増田はボーと共にある。
経済的援助を受けていたやましさ。
日記帳を覗かれていたおぞましさ。
母を拒否した時の、たとえようもない罪悪感。
他にも色々あるが、ボーにシンパシーを受けるのはこの辺の過去があるからだ。
私の母は経済的援助についてはもちろん恩を感じるべきだというし、
日記帳に関しては母の愛だったのだから、私が許すべきだと主張する。
そして彼女の様々な誘いを拒否すると、哀れっぽく嘆いて見せるのだった。
これは、このタイプの母を持つ人間にしか分からない強制力だろう。
特にお前が母親に「自分はあなたの死を悲しんでた、超泣いたし」みたいな言い訳してるとこすごい分かったぞ。
自分でも嘘なことはわかってるんだけど、悲しめない自分に罪悪感もすごいしそれが母にバレた日にはすごいことになるから、とりあえず口先だけで母親想いをやるんだよな。
昔は金と罪悪感のコンボで割とコントロールされていたものの、最近すっかり距離を取るようになった。
物理的に距離を開けたのもあるし、一念発起して母に直接様々なわだかまりを伝えたからもある。
まあ全然分かってはもらえなかったのだが、幸いにして私の母には100人の狂った部下はいないし、経済的自立も今のところ果たせている。
このままボートには乗らず、本物の葬式でしか近づかないつもりだ。
ボーよ、お前には全然選択しなかったと思うけど、こういうオチもあったよ。
映画自体は徹底的にバッドエンドだったし、スタッフロール中にも転覆したボートを延々映し続けて終わる最悪さだったが、その後のことは私が勝手に想像してもいいだろう。
ボーはあの後、きっとボートの中にあった空気で助かって、うまいこと脱出できた。
観客席のみんながはけた後、最後に残った私のところにボロボロで泳ぎついて、私は「よく頑張ったなあ」ってボーの手を掴んで引き上げる。
そのあとは小汚いボーを連れてその辺でホットドッグとか買って齧って、公園で「いやお母さんやばいね」みたいな話をして、話も尽きたし寒いから私は普通に家に帰る。
ボーはお母さんの手から逃げることはできないだろうけど、まあなんとかトボトボ暮らしてお母さんが死んだら、遺産とかもらって急に派手な暮らししたらいいよ。頑張ってお母さんより長生きしな。
人より苦しい時間は多かったかもだけど、もしかすると本当にもしかすると、その苦労に見合った価値のある時間がいつかくるかもしれない。
そういうのって、生き残ってみなきゃわかんないから。
ボー、恐れるな。
私もついてるし、意外と似たような境遇のやついっぱいいるからさ。
な、しぶとく行こう。
だってユダ王国の復活が神のご意識であり正しい国家のあり方だと思っている極右シオニストの政権なんだぜ。
ガザの虐殺も神の意思であり自分が正しい側にいるって認識だぞ。
はてなーはイスラエル軍が入隊する時どういうセレモニーがあるか知ってる?
歴史に詳しい人ならピンとくると思うが、一応解説するとローマ帝国の一部となっていたらユダヤ王国が反乱を起こして、
だとすれば、この戦争も国の存亡をかけた戦いだと思っていて、国際社会がなんといおうが相手にとどめを刺すまで叩かないとこちらが滅ぼされると思ってもおかしくない。
これまでもFAで主力選手が西武から離れることは多かったが、近年では、昨オフにオリックスへ移籍した森友哉の例が注目を集めた。
森はFA権行使後、オリックスへの移籍をスピード決断。自身の決断が編成面に影響を及ぼすことを考え、両球団に迷惑をかけたくなかったという配慮も話題となった。その後、11月に本拠地・ベルーナドームで行われたファン感謝イベントにも出席。在籍した西武球団、西武ファンに育ててくれたお礼を自身の言葉でしっかり伝えると、ブーイングはまったく起こらず、逆に新天地で活躍を願う声や大きな拍手が沸き起こり、感動的なセレモニーとなった。
FA権を行使しての移籍は本人の大きな選択であると同時に、在籍してきた球団への恩義、ファンへの感謝の気持ちを示すことも大事なポイントとなる。この点を怠ると特に同一リーグでの移籍となれば、しこりを残すことにもなりかねない。
今回の山川はFA権を行使する際に球団公式HPを通じて、今回のスキャンダルに関しての謝罪、決断に至った理由を克明に記しているが、改めて移籍会見で古巣のファンに向けてどんな言葉を伝えるかも注目となりそうだ。
https://cocokara-next.com/athlete_celeb/hotakayamakawa-fa-06/2/
オレオレFCがホーム最終戦で名古屋グランパスに3ー1で勝利し、勝ち点を54に伸ばした。前半12分にFW森永のゴールで先制すると、24分にもMF鈴木潤のゴールで追加点。直後に1点を返されたが、後半27分には再び鈴木潤がダメ押しの追加点を決めた。今季限りでの現役引退を発表しているDF小野寺は後半44分に出場し、有終の美を飾った。
ホーム最終戦を有終の美で飾った。過去のリーグ戦僅か1勝しか挙げられなかった天敵・名古屋相手に3発快勝。5月のアウェイ戦に敗れ、悔しさから珍しく感情を露わにした鈴木潤も2発とチームを牽引し、リベンジを果たした。最終戦セレモニーで鈴木潤は「今日はホーム最終戦。小野寺さんやロイブルファミリアの前で負けるわけにはいかなかった。皆様のおかげで勝つことが出来ました」と胸を張った。
現役引退を発表している小野寺も後半44分に出場した。ロスタイムを含め僅か7分だけだったが、笑顔を見せながらスピードを生かしたプレーを披露した。引退セレモニーで「埼玉からここに来て13年間、様々な方々に出会い、指導して頂き、ここまでやってきました。素晴らしいサッカー人生でした」と涙を浮かべながら、話した。
J1昇格以降、毎年残留争いの常連だったチームを上位に引き上げた野河田彰信監督は「今シーズン、声出し応援が解禁され、改めてサポーターの声援が選手のすごい力になったのは間違いありません。苦しい時も支えて頂き、感謝申し上げます」とあいさつ。最終戦と天皇杯決勝に向けて「あと2試合、全て勝って締めくくりたいと思います」と力強く誓った。
最終戦はアウェイでガンバ大阪と対戦する。勝てば、浦和、広島の結果次第で逆転でのACL進出が決まる。鈴木潤は「あと1試合、天皇杯含めると2試合あります。全て勝ち、最高のシーズンにしたいと思いますので、応援宜しくお願い致します」と誓った。
来季ホームユニフォームはロイヤルブルーとゴールドを、アウェイユニフォームはスノーホワイトとネイビーブルー、3rdユニフォームは青と白をイメージ。GKユニフォームは初めてオレンジを採用する。発売日は後日発表される。
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オレオレFCは22日、オレフィールドでホーム最終戦となる25日の名古屋グランパス戦に向けて全体練習を行った。
前節・横浜FC戦に敗れたものの、翌日に3位浦和レッズがヴィッセル神戸に敗れ、勝ち点4差の6位と逆転ACLへ臨みは繋いだ。ただ、リーグ戦は残り2試合。今節、名古屋に敗れるか、勝利しても浦和が福岡に勝利すると、リーグ戦でのACL進出の夢は絶たれる。
過去のリーグ戦で僅か1勝(3分5敗)、ホームでは1度も白星のない天敵相手に野河田彰信監督は「勝つだけやん。ホーム最終戦やし、その意識はみんな持っとるはずやからな。少なくとも、前節みたいな試合したら勝てへん。勝ち点3を取るために何すればエエのか、そこに集中して準備していかな」と一戦必勝を誓った。
敵地で対戦した5月の前回対戦は、開始早々に失点し、追加点も献上。終了間際に1点返したが敗れて、リーグ戦11試合ぶりの黒星を喫した。鈴木潤は「開始早々に失点して、相手のペースにハマってしまった」と当時を振り返りながら、「あの時の悔しさから自分達も試合や練習を重ねながら成長してきた。ホーム最終戦はその総決算」と言葉に力を込める。
チケットは既に完売。試合後には今シーズン限りで現役を引退するDF小野寺の引退セレモニーなどが実施される。鈴木潤は「ホーム最終戦ですし、負けられない試合。(今シーズン限りで現役引退する)小野寺さんやロイブルファミリアの為にも勝ちたいですし、積み上げてきたものを出したい」と誓った。
オレオレFCは1日、DF小野寺が今季限りで現役引退することを発表した。
埼玉県所沢市出身で今季31歳の小野寺は、2010年にオレオレFCに加入。スピードと豊富な運動量を生かしたプレーで主にサイドバックとして、12年からレギュラーに定着すると、18年には34試合に出場して、クラブ初のJ1昇格に貢献した。
ここ数年は自身の怪我や若手の台頭もあり、出場機会は減ったが、持ち前の明るい性格で、ムードメーカーとして重宝されるなど、チームに欠かせない選手だった。今季は、J1リーグ第35節終了時点で14試合に出場。J通算214試合で5得点を挙げた。
「私、小野寺は2023シーズン限りで引退することを決断いたしました。プロ野球・埼玉西武ライオンズがある所沢市に生まれ、特に才能のなかった自分をプロサッカー選手にしてくれたこのチームには感謝しかありません。
オレオレFCは私をプロサッカー選手としての幹を作り、育ててくれた場所です。様々な方々に会い、学びましたが、特に元監督であり、現会長の多良初徳さんからはプロの厳しさ、そして最高の喜びを教えて頂き、現監督で野河田彰信さんには“サッカー選手とは何たるか”、“自分の持ち味”を作らせて頂きました。自分にとって全てが感謝でしかありません。
そして私は素晴らしい仲間達にも出会えました。ライバルでもあり、一人一人が友達でもあり、自分のレベルを引き上げてくれた最高の仲間達。私に携わってくださった関係者、スタッフ、サポーター、全ての皆様にありがとうを伝えたいと思います。かけがえのない最高のサッカー人生。プロ13年間、やり切りました!!心からありがとうございました!!
残り3試合となりましたが、今シーズン、最後までチームのために全力で戦います!!更なる高みを目指して、一緒に戦いましょう!!」
尚、クラブはホーム最終戦となる11月25日の第37節、名古屋グランパス戦後に引退セレモニーを実施する予定であると発表した。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230922/k10014203381000.html
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6476149
友人の兄貴の弟の友人に聞いた話。最近の富士通汐留本社、やたらと広いフロアを借りてたけど、広すぎてマジガラガラで誰が見ても金の無駄状態だったらしい。
来年9月で撤退だそうだけど、元々汐留に展開してあったフリーアドレスの部屋、あまりにもガラガラだったので、既に閉鎖して使われていない。そもそも汐留、主要駅近くとかでもなくて、わざわざ寄るような場所じゃないんだよな。
本社機能としてどうなのかと言うと、本社機能から積極的にテレワークを推奨している結果、特に汐留はテレワーク率が高く、全社では出社率2割だけど、ここは所属社員は1割も来てないんじゃないかという事らしい。
さらに出社とマークされていても、自分の通勤圏内であればどこに出勤してもよいルールになっているため、神奈川に住んでる人が、川崎工場に出社して仕事して、わざわざ汐留までに行かない、みたいな現象が見られる。
さらに、営業や打合せの拠点としてもあまり意味が無くなっている。営業やSEなどは、社内の実務的な打合せはほぼオンラインで済むそうな。セレモニー的な打合せ(四半期に一度の部門会議(ランチ交流会付き☆)とか)はあるけど。
社外の打合せはオンラインで済む場合はオンライン、オンラインで済まない場合も、例え自社の発注先であっても、富士通に呼び出すというより、自宅から相手先に直行が多い。地味に不便な汐留に呼び出すより行く方が楽で、相手のキーマンにも会えるので効率がよい。
コロナ禍が終わりに近付き、気楽に取引先に行けるようになったら、あれ?こっちの方が効率よくね?と言う事になりつつある。コロナ禍が終わったのに、対外的な応接室の使用率が下がるというスパイラル。
特殊な機密保持が必要なものを除けば、元々どこでもリモートで仕事ができる体制になっているため、客先のオフィスで仕事しても、自宅で仕事しても、オフィスで仕事しても、アクセスできる情報リソースに差が無い状況なのがでかい。客先であっても「自社に戻ってキャビネットから紙を捲って確認しないとわかりません」がない。
更に、全社一括で主要なレンタルオフィスを契約しまくっている。
多数の会社の日本中のレンタルオフィスが利用でき、都内であれば、ほぼ全ての駅近に利用できるレンタルオフィスがある。
故に
みたいなワークスタイルが定着している。自分が所属していると言う理由だけで、所属先のオフィスに出社すると言う儀式が必要ないのだそうだ。
一方で、セレモニー的に集まる場所は必要で、誰かが「○日はxxのためにオフィス出社します」とか言い出すと「久しぶりに会って会話したいので私も出社します~」みたいな感じでぞろぞろ出社する人が雪だるま式に増えていき、打合せが自然発生的にくっついていく現象が見られる。
ただ、これはコントロール可能なことが殆どであり、2週間に一回とかそれぐらいの頻度なので、汐留である必要は全く無い。
富士通川崎工場(自社の土地で自社ビル。一部歴史的経緯で川崎市から借りてるけど)で全く問題は無いと思われる。
外国のテック企業で出社強制するという話が出ているが、日本の場合……少なくとも富士通は、そこを強制するまでもなく、わずかでも必要になれば自主的に出社しているということがたぶん異なる。逆に一切出社しなくて良い完全フルリモートはないと思われる。
先日、おばあちゃんが死んだ。
おばあちゃんは孫の自分にとても優しくて大好きなのだが、同居している叔父さんが大の苦手だった。
おばあちゃんの家は実家から近い場所にあったが、いつ叔父さんがいるかわからなくてなかなか行かないうちにいなくなってしまった。
いつもタバコを吸っていて臭いし、居合わせたときは必ずと言っていいほど競馬新聞とテレビに文句を言っていて怖い。
くだらないことで怒鳴り散らかされたときは本当に気分が悪かった。
だから、長い間会っていないとはいえおばあちゃんの葬式に行くのも苦痛だった。
叔父さんは葬式にどんな顔をしてくるんだろうか。泣いているのか、はたまた怒っているのか。
複雑な気持ちで向かったセレモニーホールにいた叔父さんは真っ白だった。
黒々としていた髪も、常に暗い熱を持った表情も真っ白だった。
たまたま同じタイミングで廊下に出た叔父さんはくたびれた笑顔で「腰やっちゃったよ」とだけ言った。
正直それを言われた時はおばあちゃんが死んだ一報を聞いた時よりどうしたらいいかわからなくなった。
いつから叔父さんは真っ白になったんだろうとか、怖い叔父さんに怯えていた時期はなんだったんだろうとか、今もまだ少し考えてしまう。
先日、勤めていた歯医者をやめた。
私は歯科技工士と歯科助手業務、カウンセラーを何年かやっていた。
以前話題になった育児中の社員の仕事を巻き取ることに私も疲れていたけど、歯科医院で働くという事がシンプルに嫌いになってしまったからで、どこの歯医者もきっと同じなのでもう二度と歯科業界では働かないと思う。
フェイクを若干入れるので辻褄合わないこともあるけど、愚痴ともう歯科で働かないぞという決意固めがてら書いていこうと思う。
歯科業界には専門のコンサルが多数存在する。それはきっとどの職種も同じかもしれないけど、コンビニより多い歯科医院はそれだけ競争は激しく、年々「治療だけ」ではご飯を食べていけないのが現状だ。なのでコンサルとしてはいい市場なんじゃないかな、と個人的に思ってる(この辺は多分だけど)歯科医院も今はちょっと街を歩けば2、3軒探さなくても見つかるくらいなので、私が勤めていたような中途半端な田舎町は、患者さんの取り合いに必死だったりする。
私は他院との差別化要員みたいなもので、初め来院した人のカウンセリングや、治療計画を伝える役割をしていた。これに関しては全ての患者さんに行っていた。日本語がわからない方にもだし、歯を折ってしまって急患できた人にも行っていた。
そこで想像してほしいのだが、歯がめちゃくちゃ痛くてどうにかしてほしい時に、カウンセラーを名乗る小娘から「理想のお口の状態をお聞かせください」と言われたらどんな気分になるだろうか。治療を早くしてほしい時に、予防の重要性を説かれたらどうするだろうか。
そう、どんな患者でもブチギレる。 じゃあ聞かなきゃいいじゃん。と言われると思うけど、聞かなかったらドクターからは
「それは努力不足。 患者さんにもなりたい自分があるはず!〇〇出版の▲▲って本がいいからそれを読んで。答え聞くまで治療できない」
と言ってくる。案の定怒って患者さんは帰るし私はヒヤリハット報告書を書く。
ちなみにこれは全てコンサルの受け売り。おそらく歯科界でまあまあな知名度のあるコンサル会社は「そんなフルコンボなことある?」というくらい宗教じみたやりがい搾取を植え付けてくる。働けているだけでありがたい。とかそんな感じのやつ。
年に何回かのセミナーがあって、新人向けには新人が休日に全員参加し、カウンセラーにはカウンセラー向けのセミナーなど、他にも細かく枝分かれしていて、その全てに「宿題」がある。
この「宿題」というのは職場内で改善したことやったことをレポートにして数十枚提出、数冊分の読書感想文の提出などで、提出してコンサル会社でいいなと思ったものはセミナー毎に配られるクソデカい冊子に掲載される。掲載数が多ければ多いほどその歯科医院が優れている、という指標になる。ただ書いただけじゃ選ばれないので写真や絵を入れて長めに書く。これが本当に大変で、もちろん業務中にできないので業務後にやる。行くのを断ることもできるが、断る前にこのセミナーの素晴らしさと尊さを終業後に部屋に集められて熱弁されるので1年目の子で断れるハートの強さがある人はそういない。断った人もいたがその後のあまりの上からその人への当たりの強さに断ろう…ってなる人はいなくなった。(断っても大丈夫だった顔の可愛い子もいた)
そして、それらのレポートが優れてるとそのコンサルが主催する表彰セレモニーで表彰されてプレゼントをもらえる。みんな表彰台に上がりたくて仕事が終わってから課題をこなし、次回のセミナーの冊子で載った載らないで一喜一憂するのだ。
ただこの賞、別に貰えるのは1人だけじゃない。
コンサル会社にもやっぱりお得意様みたいなのがあって、そのお得意様用のオマケみたいな賞もある。私が知ってる限り私が働いてた歯科医院は“先代から代が変わるの成功したで賞”とかをもらってたような記憶がある。 そんなん該当するのうちだけだろと思いつつ、このコンサル会社を利用してる歯科医院にとって「賞を得る」というのはステータスなので院長はじめ幹部スタッフは喜ぶし来年も何か賞をもらえるようにとスタッフを送りこむのだ。詳細は伏せるけどことあるごとに握手とかグータッチみたいなのとかを求めるし大体地下会議室でやる。
正直歯科の仕事は好きだったけどこの部分が嫌いすぎてやめた。え、それで?と思うかもしれないけど本当に大変なんだよ。あとセミナーのたびに拍手して笑い合う時間があるの、昔無理やり連れられて行ったねずみ講のセミナーでしか見たことないよ。
それでも4年頑張れたのは職場の後輩たちが頑張ってたり、仲良い職場の人たちもいたからだ。まあ、そんな人たちもある日突然退職代行から電話がかかってきて来なくなっていったので、最後の年はなるべく仲良くしないようにしていたが。
このコンサルの掲げるキラキラに毒された職場と患者さんに「え?こんなこと必要?」って言われながらカウンセリングしてるうちに適応障害になってしまい、先輩に相談したところ「ネガティヴに考えすぎるのが良くない。毎日よかったことを日記に書いてみるといいよ!」と言われた時は「あーコンサルのセミナーで言ってたやつだ」なんて思いつつもうダメだもう嫌いだ全部。ってなったので辞めた。
私は結構歯科の仕事が好きだった。歯科技工士だって薄給だブラックだなんて言われてたけどやりたかったから専門学校に通って資格まで取った。技術職だからまあブラックはそうでしょ、とか思ってたし。患者さんと距離が近いから技工所じゃなくて歯科医院を選んだ。でもそれ以外の部分でどうしてもダメになってしまった。諦めきれずに別の歯科医院に転職活動をした。でもどこでも聞くのはあのコンサルの名前だったし、院長先生以外はやつれた顔したスタッフばっかりだった。勤めてた歯科医院みたいに朝礼で信念をデカイ声で読み上げてハイタッチをするところばっかりだった。
どこだってそうとは言わない。
私が住んでるのはちょっとだけ田舎だからそうなだけできっと都会はいろんな歯科医院がある。……と思う。
今歯科衛生士の学校に通ってたり、希少となった歯科技工士の学校に通っている人たちを止めたいわけじゃない。技工士は技工所だってあるから歯科医院だけが職場じゃない。歯科助手やろっかなーって思ってる大学生もいると思う。
言いたいことがまとまらなくてぐちゃぐちゃだけど、これを読んだ歯科関係以外の人たちは、歯をしっかり磨いててくれて、虫歯予防をしてくれたらちょっと嬉しいよ。
いや、けしかけたの俺なんだけどね。
しばらく近隣のお寺がカバーしていたんだが、限界と言う事で、三十歳半ばの若い僧侶が赴任してきた
お寺は優良物件だそう。観光寺ではないんだけど、廃仏毀釈の流れからの戦後で、歴史的経緯で複数のお寺が合併しており、檀家数が無茶苦茶多い。その結果、無茶苦茶経営が安定している。
そのためか、赴任してきた僧侶は、10歳で仏門に入り、本山から観光寺まで巡ってきたという無茶苦茶エリートがやってきた。
檀家の世話人会に年寄りばかり出ていたところで、同世代の俺が出ていったところ、若くて住職と年齢が近いからと言う理由で大量の仕事を振られた結果である。
その連絡のためにLINEを交換したところ、何故か一日一度「今日の拙僧」みたいなLINEが届くようになった。
例えば、檀家さんが野菜を持ってきてくれたけれど食べきれないので、子ども食堂にお裾分けをしたら、浅漬けにしていただいたのでありがたく頂戴しておいしかった、とか、育成会が焼き芋をすると言うので落ち葉を貯めておいたが、水が溜まってしまってしけってしまい、煙ばかりで上手く燃えなかった、とか。
こちらが反応できなくても送られてくる。
それがあまりにも素朴で面白いので、LINEビジネスで公式アカウントを作ったらどうか、連絡も簡単になるし、ジジババも孫と連絡用でスマホ使ってるよとか言ったところ、やってくれと言う。
結果、登録者がじわじわ増えて、この間ライトプランじゃ足りなくなってスタンダードにした。
もちろんLINEだけではないけれど、お寺でお葬式をしたいという相談が来るようになって、実に二十数年ぶりにお寺で葬儀を行い、それがコンスタントに続いていたり、(先代住職の葬儀すらセレモニーホールだったのに)
近所の不登校の子が「お寺なら行く」といって、住職のところに仏教画を習いに来たり、
何より、世話人会に若いのが出てくる様になって、お布施の振込・キャッシュレス化が一気に進んだりとか色々と安定してきた。
結局、接触を増やす事が大事なんだろうなと。そのためのツールとして、LINEはやはり強い。このままLINEペイでお布施が払えると楽なんだが、これは禁止だった。
人間なんて勝手に生まれて勝手に幸せに生きて勝手に死んでいくわけだし
そもそも他人がその部分を侵すことなんて絶対出来やしないのになんでこんなのわざわざ設けたんだろうね?
LGBT法案が明後日審議だって。頭悪すぎ、ばっかじゃねえの?
自分で自分の事を認められない人間が他人に、憲法に、法律に認めてもらったところで何にもならねえよ
ただ一時的な満足感を得るだけで直ぐに不幸な気分に逆戻りだ、絶対にそうなるよ。確信を持ってそう断言するわ
おそらくだが自民党の連中はこれが今不幸な目に遭っている人を救済できると本気で思っているんだろうね
あのな、今一度人間というものがどんなものなのか議員辞職して学び直してこい
性的少数派への差別禁止とかいったところでそもそもそんなレベルの低い人間を相手にしなければいいじゃん
そういうのをわざわざ相手にしてわざわざ不愉快な気分に自分からなりにいっているだけじゃん、それを社会や他人や法律のせいにするのやめてもらっていいですか?
人として正しいことと社会として正しいことはイコールではありませんよ?人を殺すのは人の理屈からすると駄目な行動だが社会的には人を殺してもしばらく檻の中入って2億なり3億なり遺族なり被害者に積めば社会的には許されるのよ
そういう矛盾をどう腑に落としていくかは任せるわ
あとさ、LGBT法案を推進している奴らがTwitterにわんさかいるけど「自分は世界平和のための行動をしている」っていうオナニーに過ぎないからね?
冒頭で書いた通り好き勝手に幸せに生きて下さい、ノーマルだろうがLGBTだろうがそんなの人それぞれ、唯一無二だから
それは人類史が始まった数億年以上前から変わりませんからね?一切合切。
だから今から自分自身の幸せの器を十分に満たしていけばいいのよ、ファミチキ食って幸せになるんだったらそうすればいい、上手いステーキ食って幸せになるならそうすればいい、Twitterでエゴサするのも野球するのも観戦するのも
何もかも最初から自由よ、男が女を愛し、男が男を愛し、女が男を愛し、女が女を愛し、男女どっちでもないという方はそれはそれで自由にやればいい
すべて勝手にどうぞ好きに生きて下さい、こんなしょーもない法律作ることに人生を、時間を注いでいることが無駄です
それで「迷惑だ!」と不当に文句言われたら「うるせーバーカ」と大声で怒鳴りつけながら中指でもおっ立てればいいのよ
はっきりいうがそういう文句をいってきた奴は貴方の人生で全く必要の無い人間だから放置でいいよ、何も問題ない
それで貴方が人望を集めることが出来るかどうか、あなたがこの世を去ったときに葬式という人生最後のセレモニーで人がたくさん集まってくれるかどうかはLGBT関係なくそもそもの人柄が試されるだけだから、勘違いするなよ
赤の他人に礼儀払える?レジ打ちしてくれたコンビニの店員に「ありがとうございました」と頭を下げられる?人望ってのはそういう気配りを他人にして集めていくものなんだよ
ゲイやレスビアンといった性的少数派の方々を嫌う人だって普通にいますよ?それが当たり前。もちろん好きな奴もいるし、そもそも興味が無い、どうでもいいって思っている人間もいる
カレーが嫌いな奴だっているし大谷翔平が嫌いなやつだっているしそれと一緒
大谷翔平が好きな奴が大谷翔平が嫌いな奴のところにわざわざいって「大谷翔平嫌いって言うの反対!国会議員さん、大谷翔平嫌いを禁止にしてください」って言うか?そんなことねえだろ?「ま、そういった方も存在するよね〜」って思うだけで終わりじゃボケ!
LGBTも一緒じゃ。LGBTでも現に幸せに生きている人は五万といるぞ?なんでその人達は幸せなのかよくよく考えてご覧なさいよ、この法案を推進している連中は。
そもそも人間なんて他人に一切合切興味ないから。だからだれも貴方の事なんて気にしていません。全員自分自身の人生を幸せにすることで精一杯です!