はてなキーワード: 受け売りとは
結婚して子供を産むのが正しいの、生まないのが正しいのでケンカしてる光景はインターネットでザラだ。
そんなもの正しいと思ってる人には正しいし、そうでない人にはそうでないだけの話で。意味があると思ってる人にはあるし、無いと思ってる人には無いだけ。
当然の話で、人が生きるのも、社会に参加するのも、生物が種を残すのも、理詰めで言えば何の意味もない。存在の話ではなく当為のそれなんだから。
大人の義務や責任?どこから湧いた?生産性?何の為の?社会の維持?何の為に?人権思想?何の為に?生きるため?なぜ?
子供を作る事に限らず、人の営みはリンゴが上から下に落ちていくのと本質的には何も変わらない。
現実的な議論としては、人権思想が公理であり土台となっていて、そこで一旦は打ち切られる訳だけど。それにこれはあくまで「お気持ち」や「主観」から離れた場合の理屈だ。
まあ人権という公理から導き出される規範も一義的なものではなくて、それぞれの解釈が対等だからまた言い合いになるんだけど。
その対等な言い争いは民主主義と呼ばれて割と尊重される。しかし人権を認めるのであれば、人に結婚出産をするな、しろと強要できる道理はどこにもない。
そもそも社会を生き長らえさせる意義を感じていない人間に対して、子供を持つ事がいかに社会の持続に必要かを説いても無駄。
人生に先立った苦しみなどなく、行い次第で如何様にも幸せになれる。と信じている人間に対して、辛く苦しいだけの生を生み出す残酷さを熱弁するのも然り。
前提が揃っていない段階で話をしてもボタンの掛け違いになっている。
共通認識を揃え、対等な異なる意見を持ち寄って考えを深める事はあっても、最終的にどちらに転ぶかは自分の納得の問題だ。
全ては無意味、と言うとすぐ冷笑と抜かす人間がいる。無意味を開き直り、さらに他人を巻き込もうとすればそうかもしれない。
しかし規範において、理詰めで言えば無意味である事実は変わらない。
それを歪めるのは不誠実な物の考え方ではなかろうか。いくら生活の為にはある程度の忘却や思考停止が必要と言ったって。
ともかく、無意味とはいっても自分の中で実感や確信に基づいて意義を見出す事は可能だし、多くの人がそうしてきて、今もそうしてる。
そもそも意味などを問う以前に、まず生きる事そのものが価値のある、というよりあまりにも当たり前のものだと思っている人も少なくないんだろう。
むしろその方が多いかもしれない。もっともそれにしたって、意識的であれ無意識であれ生を肯定する規範、信仰、納得を持っている訳だけど。
世界に元々用意された意義なくて、そこに「正解」を用意したらそれは宗教だ。
別に宗教が悪いとは1ミリも思わないけれど、それを押し付けるのがいかにグロテスクかは歴史を見れば明らかで。
他者の生き方に口出しをしてかくあるべしというのは、自分の選択に腹の底から納得できていないじゃなかろうか。これは理屈の話と言うよりは邪推だけれど。
一度きりの人生、自分の選択が、価値観が「間違い」だなんて思いたくはない。そんな疑問が浮かびもしないほどの実感と納得がある生き方をしたいもんだ。
でもそう強い人ばかりでもない。自分の選択に自信がないが、自分の中に納得の源泉がない。だから外部にそれを求める。他人に肯定してもらいたい。
同じ意見を持つ人間と集まって、互いに肯定し合う。あるいは単純化した二項対立の上、自分の対岸にいる者を「間違い」だと断罪し、そして自分は正しいんだと思う。
そうした正当化が健全か不健全かは知る由も無い。が、考えの異なる者同士、互いに説教や罵倒を受ける道理は無い。
視野狭窄、知識が足りていないように見える人間に対して「こういう見方もあるよ」と助言する事はあるかもしれない。教育とは、学びとはそういうものだ。
しかしそれが強く押しつけがましく攻撃的で否定的、あるいは過剰に肯定的なものですらも、そこには自分と同じでない他人への苛立ちがあるのかもしれない。
社会の利害調整を問うなら互いに言い分もあるだろうけれど、生き方の問題に口を出すのはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)だ。
その点、受け売りの胡散臭い政治思想とアイデンティティや価値観が悪魔合体している人は非常に厄介という事になる。
まあ上から目線で説教する道理もなかろうけど、なかった所で誹謗中傷やらにならない範疇で批判をするのも勝手だ。
よしんば中傷じみた人格攻撃でも、そんなもんネットに溢れてるし、それで捕まるのも稀だ。という事を踏まえて平気でやる人間がいるのも事実としてある。
悲しいね。
等しく無意味な人生に価値を見出せるのは自分だけだ。上手い飯を食うでも、芸術を愛でるでも、ギャンブルに狂うでも、何だっていい。
愛に囲まれ他者から存在を肯定してもらうのも、神様を信じてみるのもいい。それは一見外部の他者が価値を与えてくれるように見える。
しかし結局それによって得た納得が湧き出るのは自分の心の中だ。
「敵」を罵り「仲間」と慰め合って拵えた後ろ向きの納得よりも、内から発される声に対して真摯に耳を傾け、それに従った方が良い、ような気がする。私は。
まあ私だってきっと自分の考えに腹の底から納得できていないから、こんなサイトに長々と文章を書いているのかもしれない。
勿論意味など最初から問わない、忘却するという選択肢だって大いにあり得る。今際の際に蓋していたものが頭を過るのが怖くて私は出来ないが。
人をブチ殺して回りたい、それが私の納得する生き甲斐だ。こう思うのだって非難される、というか過剰に誹られる謂れはない。
なんなら思うだけではなく、法だの人権だのがいくら殺人はダメと言った所で、別に実行する事は可能なのだ。現に殺人事件は一定的に発生している。
出来るからやって良いなどとは言っておらず、可能な事実があると言っているだけですからね。
当然我々が恩恵を受ける司法や人権思想のもと、社会によってしばかれるだけだが。バレなきゃしばかれないけど。
茨の道が待っていると知った上で尚もその納得、価値観を手放さないというのなら、私は敬意すら覚える。当然自分が殺されるのは御免で、それはまた別の話だが。
個人主義、民主主義社会の範疇における多様性とはそういう事なんだろう。
お気持ちがどうとか主観がどうとかいった言葉を使って何か言った気になってる人がいるけど、事実でなく規範を語るなら感情論で当然なんだよね。
絶対的な真理、善、正義を信じる本質主義者なんで、と言われたらそれまでだけど。
金持ちがネオリベにかぶれるのも貧乏人がその逆になるのも当然だろうし、いくら事実と論理を積んだ所で最終的には感情論。
勿論ノブレスオブリージュを語る金持ちも、支配者への忠義が大事だと思う貧乏人だっているかもしれない。
それもまた価値観や納得に基づいたものであって、どちらに転ぶか、必然性はない。
「ブーメラン」はロジカルを自負するインターネットマンの口癖だけど、言行不一致は理屈ではなく感情の問題だ。
殺人犯が「人殺しはダメ」と言ったらどの口が言うかって話だけど、言ってる事は間違ってない。
でもやっぱりコミュニケーションにおいて心象というものは無視できないので、お気持ちのない、ポジショントークでない意見など神様にしか言えない。
まあいくら社会性に則った無難な話をした所で、「こういうヤツ、バカですw」みたいな強い言葉を使った話にばかり注目が集まるのも悲しい事ですね。
実際、そういうものはつまらないし、彼らの信奉する文学理論は時代遅れなのである。
だから、世間で持て囃される「名作文学」とやらがつまらないと感じても、べつに「自分の教養が無いせいだ」などと思う必要は無い。
これは、フロイトがドストエフスキーを論じた際に持ち出したものだ。が、これには全く根拠が無いし、今日まともな文学者でフロイトの論を支持する者はいない。
今猶、フロイトの受け売りでドストエフスキーを絶賛してる評論家とか、「父親殺し」の作品を作っちゃったりしてる作家こそ恥ずかしい。
まあ、要するにそういうのを支持してる連中こそが「名作を読んでる俺SUGEEE」っていうスノビズムの権化みたいなもんであって、滅茶苦茶恥ずかしいってことだ。
自分のTwitterアカウントにはいわゆるエロ垢が入っているリストがある。無差別に入れているのではなくて、特に気に入ったアカウント4つが入っている。ここ数ヶ月、ずっとリストの存在を忘れていたものの、久しぶりに思い出したので今日の”おかず”はこの中から選ぶ事にした。
TLを開くと相変わらずえちちな画像が流れてくる。1分程度スクロールして、違和感を感じた。リストに入っている4つのアカウントのうち、3つのアカウントの投稿しか表示されないのだ。アカウントが凍結されてしまったのか?と思い、リストに入っているアカウントの一覧を表示すると、しっかり4つのアカウントがある。凍結や削除ではないようだ。
ん、このアカウントからの投稿がないな。どんなアカウントを入れていたかも忘れていたが、久しぶりに名前を見て思い出した。
アカウント名をタップし、すぐにスクロールを開始して画像を探し始めた。少しして、何だか様子が違うように感じたので、タイムラインの始点に戻り、一番上のツイートからしっかりと字を読んでみると、そのアカウントの主は自殺したという固定ツイートが飛び込んできた。
おっふ、何というか、見えない角度からのパンチを食らったような気分になった(本当に食らったことはないが)。頭が真っ白になったとはこういう事だろう。Twitterで一方的に観測しているだけだったが、活動は密かに応援していたが、今はそれを使える事もできない。よくある話だが、応援できる時に応援しておくのは大事だと思い知った。一方的な自己満足に過ぎないのだろうが。
上昌広の受け売りやめーやw
「NHKをぶっ潰す」「ガーシーが比例代表で議員当選からの除名」ぐらいしか知らないし、政治的にどのような実績を上げたかは知らない。
あんまり話題にならないんだから、政治家としては正直大したことないんだろうなと思う。
ただし、次に記す2点だけは評価したいと思う。
政治家でも企業でも何か問題があった場合の責任はトップが取ることが常識である。そのために高い報酬をもらっているといってもよい。
しかし、世の中には自ら身を引くことを良しとしないトップが数多くいる。そのようななか、潔く辞任した点は評価に値すると思う。
党首の辞任に合わせて、党首変更・党名変更。先に書いたようにN党時代の政策もよく知らないし、政治家女子48党の政策もよく知らない。
(ぶっちゃけ自ら進んで調べる気は起きない)
しかし、選挙は行くが、政治にほぼほぼ興味がない自分が目につくぐらいのインパクトはある。
これも受け売りだが、現在の選挙制度は若年層の投票率が低く、高年齢層の投票率が高いため、政策は高齢者に利となることが多いらしい。政治家は
選挙によって選出され、有権者は自分に利がある政党・政治家に投票するのは想像に難くないためこれは理解しやすい。
以上の状況を打破するために、若年層の投票率をどうにかしてあげようといろいろな試みがあるようである。しかし、効果はあまり芳しくないようだ。
このような中で、政治家女子48党が結成(改名)された。名前もそうであるが、HPを見てもインパクトがあるような作りをしている。個人的にどこぞのキャバクラ、
インパクト重視で中身がないじゃないか。こんな政党に何ができる。と反発の声は確かにあろう。確かに政党の第一は政策をもって国家を健全に運営していく
ことにあると思う。しかし、現状のように政治的不関心な人にどれだけ素晴らしい政策を主張したところで、「どうせ政治でしょ」などと拒否反応を持たれては
意味がない。政策と同様に「まず見てもらうこと、知ってもらうこと」これが重要だと思う。
見てもらうことを重視した48党の動き。成功するかどうかは別として、新たな風を政治に吹き込んだことについては評価したいと思う。
「解像度」:自分はこの事について分かっているんだとアピールしたいが、知識がなければ頭も悪いので何も語れず、取り敢えずこの言葉で否定しておけばその気になれる言葉。
解像度がどう高い/低いのかを言えなければ何ら意味がなく、興味のない話を流す時に使われる「深い」「考えさせられた」「哲学的」などの言葉と同類。
「あなたは解像度が低い」という非難の言葉が昨今のネットではよく見られる。「差別する権利」などと抜かす人間をこの言葉で一蹴するのは気持ちが良い。が、なぜそうなのかを説明しないのとできないのとは、実際に説明しない限り他者からは判別がつかない。人間はエスパーではないので。
バカ相手に一々丁寧なコメントなんかしてられない、と思っている間に「しない」のではなく「出来なく」なる事も多い。
「冷笑」:こういう事書く奴は左叩きのネトウヨ冷笑野郎だ、と考える人間が多い。ネットのこういう場でこういう事を言う奴は確かに大抵はそうで、それは自然な判断ではあるのだが、その「自然」が既に毒され過ぎていると言って良い。
冷笑を「冷笑野郎じゃん笑」というのも十分に冷笑的である。この投稿も同様である。冷笑を止めるには無視するか、誠実に毅然と反論する他ない。
「お気持ち」:人権思想だって突き詰めればお気持ちだ。人が幸福に生きたいと思うのは、感情を排して論理化する事は困難だが、誰もが等しく素朴に思う所である。
常に「お気持ち」はダメ、という事ではないのだ。「である」の話ではなく、自然科学の領域では扱いきれない「べき」の話をする時、真に中立かつ客観的な意見をできる存在など神だけである。意見はポジショントークで当然。
理解と納得は異なる。「お気持ち」への訴えかけと論理を併せて駆使し、各々の意見に他人への説得力を持たせ突き合わせるのが社会というものである。
「何か言った気になってる」:ネットの人間はすぐメタ分析を気取ってウエメセの事を言おうとする。
が、大した知識も理解力もない人間が多い。個の話を「結局それってこういう話でしかなくて〜」と矮小化しにかかるが、ネット言説の受け売りしか喋れない人間も然り。真に受けない方が良い。
固有の感覚だと思っていたけれど、誰かが言葉にしてみたら共感の集まる案外普遍的なものだった、という事はままあると思う。
そういう発信はよくバズるし、なんなら文学にもそういう側面があると思う。
ニッチなのにバズった物の捉え方、感じ方、考えたあるあるには、着眼点のセンスの評価に加え、「解像度」の高い「言語化」でスゴーイという意見が集まる。
脳内でボヤ〜っと漂っている感覚の輪郭が鮮明になるのは確かに気持ち良いし、スッキリする。
でもそれをするのにあたって常に他人の言葉におんぶに抱っこで、自身の固有性に目を向け多少書き換えるといった事をせず、なのに「教養」を積み「解像度」が上がったと喜ぶ人がいる。
他人の言葉は、自身の細部を捉える言葉としての大意としては間違っていないだろうけど、本当は捨象された細部に各々の固有性があり、そこに気付いていないかしれない。あるいは、自己に固有なものに気付けず、他者固有のそれにすり替えてしまう事だってあるかもしれない。
そんな事を繰り返して生まれるのは、ネット言説受け売り人間かトリビア披露ロボットだ。
解像度という言葉を使っていれば物事の解像度が上がる訳ではないし、言語化という言葉を使っていれば言語化が得意になる訳でもない。
こういう事言うと、学びを否定して「自分で考えた結果」陰謀論にハマる奴じゃ〜んとか言うカスが現れる。一言も言っていない事を思い込みと邪推で見出すのは勝手だが、それで以て何故かウエメセの説教を垂れるのは勘弁願いたい。
退去費用に関する武勇伝はネットにいくらでも転がってるけど、実際付け焼き刃の知識で文句垂れても逆に舐められて後出しジャンケンされて余計悪化しそう。
法学部の学生が習いたての知識で突っ張るとかならまだ多少ハッタリも効くかもしれんけど、ガイドラインが云々とかクリーニング特約が云々みたいなのを聞き齧った程度の受け売り一本槍で行くの怖すぎでしょ。
民事に持ち込むぞとか脅しても、半端な気持ちなら向こうも強気に出てきそうだし、微妙なぼったくりレベルなら本当に裁判沙汰になっても勝てるか分からんだろうし。消費者センターとか頼りになるのかな。
今どき特約のない物件なんてそうそう無いらしいし、よほど吹っ掛けられたんでもなければ、まあそういうもんだと割り切るしかないんでしょうね。