はてなキーワード: 寮生活とは
こういうの書きたくなるね。自分が頑張ったことは思い入れがある。
・小学生
関西の田舎の町立小学校に通っていた。友達がみんな塾に行っていたのが楽しそうだった。
「僕も行きたい」と親に言ったことがあったが、なぜか断られた。
自分が子を持った今なら分かるが、3人目の私にお金をかける余裕がもはやなかったのだと思う。家にはアップライトピアノがあって姉が習っていたが、自分は習いたいと言ってもお茶を濁された。
父は会社勤め。ホームレス気質の天才タイプ。母は専業主婦。真面目な秀才タイプ。親は教育に興味が無いわけではなかった。むしろかなり意識的な独自の戦略のようなものを持っていたと思う。
小6の夏休みに入ると、「レベルの高い学校に行くとめちゃくちゃ楽しい」などと、うまいこと母に言いくるめられて中学受験を決心した。
「力の五千題」とか「自由自在」を各教科買ってきて、夏休みに二回ほど通した。なにかババのようなものを掴まされたような気もしなくもなかったが、面白かったので続けた。
秋からは応用問題集、冬になると過去問をやった。模試は受けなかった。「自信を失わせたくなかったから」とあとで母から聞いた。どういう意味だ。
私立を2つ受けてどちらも合格した。ちなみに、受験直後の自分の感触としては98%落ちたと思っていた。未だに謎である。
・中学生
強制的に勉強する時間が毎日3時間あった。小学生の頃とは比較にならないほど学校の授業を面白く感じたので、予習・復習をやった。みんながやっていたので、ラジオ英会話を毎朝聞いて、テキストを暗記した。完璧な発音でテキストの会話を一人で完全再現できるようにしていた。一年でイギリス人の先生と普通の会話ができるようになった。
中学3年生のときに、全員がZ会の模試を受けることになった。はじめての模試で超わくわくした。総合で全国100番位だった。初めて自分の立ち位置を知った。思ってたより良いという感覚。でも同じクラスに全国一桁台とかが普通にいた。
音楽室に個室のピアノ部屋が5台分あった。昼休みにほぼ毎日通ったので、結構弾けるようになった。今考えると異常な環境である。音大かっていう。親友にピアノが超すごいやつがいた。ヤマハをずっとやってきた人で、聴いたら即弾ける、ハ長調の譜面を初見で見て変ロ長調で弾ける、メロディを見ると即座にステキな伴奏を思いつく、など。理解不能である。ピアノをメインの楽器にするのはやめようと思った。
・高校生
下宿に移り、自由になった。学校以外で勉強しなくなった。暇なので、絵を描いたり生徒会をやったりピアノの人などを誘ってバンドをやったりと、生活を広げ始めた。
授業中に予習復習などすべて授業を聞きながら終わらせたので、成績は特に落ちなかった。
こういうことを書くと、舐めてるとか自慢とか思われるわけだが、違うんだ。
自分なりに一番効率が良い方法を追求していた。授業中に寝て、家で数時間独自に勉強するみたいな非効率的なことはしたくなかったのだ。
授業は120%の集中力で聞く。それでも時間が余るので、次の予習をしたり、問題の別解を考えたりしていた。家で半徹夜で何時間も勉強している人たちよりも結果的に長時間勉強していたと思う。だって毎日9時から17時まで勉強していたんだもの。毎日7時間くらい集中して勉強しているのに、「増田は勉強せずに成績が良いな」みたいなことを言われてたのは未だに納得がいかない。
高2で東大模試を受けてみると、理三以外はすべてA判定だった。理三だけが完全にE判定だったので、「は?しばくぞ」と思った。
なんかの奨学金でアメリカにただで行けた。夏休みの一月まるまるESL漬けで楽しかった。自分の英語力はあんまり大したことないと気づいた。同級生にアラブの皇太子とかトルコの首相の息子とかがいた。そういうのも自分には無い。
高3になって流石にクラスの空気も変わり、自分も放課後も勉強するようになった。小学生の時は夏休みからの半年でなんとかなったけど、さすがに東大は一年位はやらないとやばいだろという感覚があった。
一学期にあった駿台統一模試で、英数国の三教科の偏差値が80を超えていた。一方で、本来好きな理科がボロクソだった。準備不足を痛感して夏休みに強化することにした。
・高3夏休み
化学生物だった。教科書はさすがにすべて頭に入っていたので、いよいよ応用問題週に手を出すことにした。東大の過去問をちら見すると、化学の出題の半分くらいは似たような問題しか出ないことがわかったので、同じ問題を何十回も解いた。滴定とか。30分かかって6割しか正当でいなかったところから、5分で100点の回答ができるようになった。時間が余るので、初めて見る問題をゆっくり考えられて便利。生物は、問題文に答えが書いてある。
一方で、わりと大丈夫そうな主要三教科は、根本的なところをやることにした。
・数学
チャート式などは数冊終わっている状態。大学への数学をひたすら解く。新しい問題は、ひたすら考える。未知の問題に解法の方針を立てる練習。
・英語
TIME誌を定期購読していたので、毎号気になる記事を一つまるまる訳してみる。超大変。NEWSWEEKにすればよかった。のだが、一年分定期購読してしまったのでやるしかない。んで、訳したあとは要約を英語で書いてみる。ラジオ英会話はビジネス英語までランクアップしていた。正直東大受験ではこのレベルのリスニングやスピーキングは当時必要なかったので、聞き流していた。ハマっていたのはパーソナリティの訛りを真似すること。
・国語
Z会の小論文をやっていた。元来文章がそんなにうまくはなかったけれど、読むのも書くのも好きだったのでこれは半ば趣味。結果的に200字作文に多少役に立った。
・高3秋
9月に学校の最後のイベントがあり、燃え尽きた。勉強は2ヶ月ほどお休み。焦りはなくはないが、みんなそれで合格するやつは合格するっていう先輩の像を見てきている。今回は自分がそれをやるほか無いという感覚。流石にバンドは解散した。
・高3冬
英語198
数学191 まさか満点じゃないとは。世知辛い。東大理系はわりとこういう感覚だと思う。
国語167 古文漢文論説は150/150。小説でめっちゃ間違えた。こういうこともある。
化学100
倫理93 一応、山川の倫理用語集を3回くらい読んだ。手抜き教科のつもりが、哲学に興味が芽生えた。大学に入ってから、哲学系の本をたくさん読んだ。自己形成に大きな影響を与えた。人生何が大事かわからん。
合計
前記749/800
後期489/500
・センター試験後
ようやく赤本に取り掛かった。感想は、英語簡単すぎ、数学難しすぎ、国語意外とお得、理科けっこう簡単。
というわけで薄々気づいていた数学の不安定さと、国語のお得さに焦点をあてる。数学が0点でも受かる謎の計画をたてる。国語は最後の一ヶ月だけ、古文漢文を個人の先生に習った。
ちなみに東大模試は3社2回とも全部受けて、最後を除いてすべてE。でも成績は徐々に上がって最後だけはC判定だったので、本番の頃にはB判定くらいになってるんじゃない?と思っていた。
・本番
当日はなぜか20時に寝て、25時に覚醒し以後眠れないというアホなことをした。
ただ全く寝てないわけでもないし、ただ少し眠いだけなのでやるしかない。
国語 60/80 ほぼできた。
数学 40?/120 難しすぎ0完6半ワロタ。。1完だと思ってたのに、弥生門を出たところで配ってた駿台の速報を見たら計算ミス発覚。かなり暗くなったが寝たらわりと忘れた。
生物 50/60 多分まあまあできた。
化学 55/60 多分ほぼ間違えてない。
合計 325/440 数学が0点でもギリ受かるかも?と思った。
・発表当日
赤門から会場へ向かうと、のちの上クラになる姉が向こうからやってきた「あ!○○ちゃん、受かってたよ!」
弟に「ちゃん」づけはまあしょうがないとして、俺が知るより先に結果を言うなよ。未だに恨んでるぞ。
家賃が安いという理由で三鷹寮に申し込んだのだけれど、その書類を集める際に親の年収が600万であることを知った。そりゃ無理だわ、塾もピアノも。ちなみに中高は奨学金もらってた。それでも親は教育のために借金してたんじゃないかな。決定的に計算が合わない。ちなみに三鷹寮は生活費が安すぎて家庭教師のバイトだけで異常に金持ちになった。楽器を買ったり海外旅行に行ったりした。ヨーロッパまで6万円で行けた時代である。さておき、感覚としては、医者になってまともな収入がある今よりも、当時は自由に使えるお金があった。人生まじで謎である。
社会人になって3年が経った。
自分が大学受験のときに思っていたよりも大学というものは一生ついてくるのかなと思った。
高校受験をして、トップが阪大、専門学校に行く子もいる、なんちゃって進学校に入学した。寮生活が面白そうだったから…
しかし入学してから気づいたのは、受験に対する意識が甘さ。公立大学の付属校なので、先生も進学指導に対しそこまで気力もなく、さらに田舎なのであまり経済的に恵まれた人もいないせいか、実家から通える地元の公立を目指そうというレベルだった。
周りの甘っちょろい受験への姿勢が恐ろしく、高2から、土日は東進でビデオ学習と自習に充てた。
その間に寮生活の友達は、親の目もないのであまり勉強していなかった。
テストで同レベルや私より上位だった子も、私よりかなりレベルを落とした地方の国立大学を受けるか、浪人していった。
あの時東進に通っていた土日に勉強しておいて良かったなと思った。
就活でも社会人になってからも余程の技能がない限り出身大学のことは言われ続ける。新卒採用もあからさまに区別される。大学受験では上位の大学に行くに越したことはないなと思った。
当時は同性を好きになるのはおかしいんじゃないかと本気で悩んだ。その際、インターネットで調べまくったが不安は収まらなかった。(寮生活だったために図書館でしか本が読めなかった。そして参考になる本はなかった)
夜も寝つけなかったため、母に一度だけメールをした。同性を好きになるのはおかしい? と。
返ってきた答えは、思春期の中高生はそうなりやすいというものだった。
同性愛者は生産性云々という文章を見たとき、ガツンと殴られたような気がした。
当の議員が同性愛者の子供は自殺しやすいんですってと笑いながらいっている姿を見た途端、動機が激しくなった。
ちょうど夜だった。
ホモきもいあのレズ気持ち悪いと口にする同級生がそばにいた時間が戻ってきたみたいで、怖くてたまらなかった。
もうとっくに慣れたと思っていたがダメだった。涙が止まらなかった。
さすがにあの発言を肯定しないだろう。内心怯えながらも話を聞いていた。
しかし、問題ないというのが母の意見だった。間違った発言ではない。いつもの顔でそういっていた。
傷つくだけとわかっている。それでも何もいわずにはいられなかった。
またしばらくして、今度は両親とその話をした。
母の意見は変わらず、父は黙って聞いていた。どうしてわかってくれないんだとムキになってしまい、そんな言い方だと同性愛者の理解者なんて増えないと思うけどといわれた。父は笑ってその話を聞いていた。
もう何をいっても無駄だと感じた。
母から同性愛者は気持ち悪い存在だといわれて、喧嘩になったことがあった。急にLGBTを語るめんどくさいやつだと揶揄されることもあった。
それでも懲りずに話題には参加した。
自分が異性愛者ではないことを薄々感づいているのではないかと思っていた。だが全く違った。それを今日になって気づいたのが本当馬鹿げている。
母はあの議員が好きだそうだ。生産性がないのは事実なんだそうだ。加えて、なんでそんなに同性愛者を擁護するの?とまで聞かれてしまった。
自分は、母にだけは味方でいてほしかった。あなたはあなたのままでいいよといってほしかった。他人に両性愛者でいることを罵倒されても仕方がない。だけれど、差別に対して一緒に怒ってほしかった。慰めてほしかった。望みすぎかな。
グチグチごめん。
あーあ。
再投稿です。
そして人の愛し方が分からない。
親からも誰からも愛されたことがない人間なのだから仕方がないのかもしれない。
そもそも、私が、性同一性障害で他者から恋愛対象として見られず、また、女性に惹かれることが多いため、女性として過ごしてる私は、出会いがないからなのか。
私が発達障害やBPDの症状を軽度ながら持っていることがいけないのか。
死ねば楽になるのかな?
助けて欲しい。
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以下は、乱文であるが、私の過去を書かずにはいられなくなったので、ここに書こうと思う。(多少のフィクションは含んでいるが。)
日常生活は女性として暮らしていて、初対面の人と話したり、ショッピングや空港等で元男性と見抜かれることはほぼ無く、また容姿もそこそこいい方であるという自負はある。(ガタイが無駄にいいのはコンプレックスだが。)
幼稚園児のときに母と父が離婚した。その時の母と父の喧嘩を記憶していて、私にとっての一緒に暮らしていたこのろの父親像は母親に向かって怒りをぶつけているところと、仕事で疲れて寝ているところしか残っていない。そして、離婚後、親権は母親に移った。
そして、仕事に一辺倒になった母からは面倒を見てもらえず、妹と共に子供会の保護者と祖母に面倒を見てもらっていた。
祖母は優しい人ではあるものの、愛情表現をする人ではなく、また同じ家にいたわけではないので一緒にいる時間は限られいた。
私はこの頃、植物に興味があり図鑑をよく読み漁っていた。また、ピーターラビットシリーズを好んでいたことを記憶している。
小学生に上がったとき、ピアニカの色やランドセルの色が"私の望む色"出なかったことを記憶していている。
小学生2年生になると強迫性障害の症状を起こすようになった。ともかく、家の外のすべての物が不潔に思えた。1度病院に連れて行かれた記憶がある。幸い、小2のうちにだいぶ良くなり日常生活に支障をきたさないレベルには回復した。ただし、潔癖症自体は中学生くらいまで強い意識が残った。
また、この頃から学校でオカマとヤジされることが増え、友人は決して多いとは言える状況にはなかった。
この頃でも父親とは電話を通して時々話しており、またたまに合うことがあった。(よく上野の国立科学博物館と鉄博に連れて行ってもらった。)
ただ、一度、ファインディング・ニモに連れて行ってもらった。はじめての映画館で見た映画だったのだか、個人的に楽しめなく、父はそれに対して非常に怒っていたのを記憶している。
また、この頃から母親と父親の間で伝言を伝えるような役割となり、お互いの悪口を聞かされ、また経済状況についてと揉め事を聞く立場となっていった。
相手は子供が3人いたが1人はインフルで亡くなっていた。(ただし、継父に親権はなく未だに継姉・兄と顔を合わせたことはない。)
母はTVを厳しく時間を決める人であったが、継父はそうではなくよく妹や従姉妹にテレビを見せていた。それについて、母親と揉めることが多く、私がママっ子であったため母親側についた事により、私は継父から見せてもらえなくなり、次第に顔を合わせるだけで睨まれるようになった。
小4になると母と継父の間に子供が生まれ、何もしない継父と仕事しかしない母の代わりに祖母と私と妹がよく面倒を見ていた。
そして、この頃から、継父と私の関係は更に険悪になり、私が継父から身を隠すように家で過ごすようになった。
幼稚園児のころから高いところから飛び降りたらどうなるのだろう、という気持ちはあったものの、この頃には明確に死にたい、という気持ちがあった。
また、夢の中で継父を刺し殺す・絞め殺す夢を見るようになるようになった。(この夢は大学生1年の頃あたりまで続いた。)
小5になると母親の仕事が軌道に乗り始め、経済状況は一気に良くなるが、継父との関係は最悪になり、一度私が勉強机の下に逃げたところを継父に顔を蹴り飛ばされたことがあった。(ここらへんの記憶は曖昧で正確な時期を覚えてない)
また、私は元々書物を読む子供であったが、学校で男子からはオカマや(容姿を指して)キツネと呼ばれ、女子からは女子の中心グループと犬猿の仲だったため、更に書物を読み漁るようになった。(ハリーポッターを1日の放課後で2冊を読みきる勢いだった。)
小6では学校はだいぶ落ち着いてきたもの、継父との関係は相変わらずだった。
また、妹もこの頃から継父との関係が悪化してきており、不登校気味となっていった。
中学では寮生の少人数の学校に入った。これにより、家族とも同級生とも離れることができ、私にとっての人生の転換点てなった出来事であると思う。
ただ、男子は野球部に、女子はバレー部に強制的に入部であり、内心でバレー部に入りたいと思っていたが、叶わぬ願いであった。(幸い丸坊主は避けれた。)
中2になると寮の中で私が最年長となったためリーダーシップを取ることとなった。
完璧主義だったため自他ともに厳しく、今では後輩にもっと優しく接すればよかったなと感じる。
中3では男子として野球することが嫌で地元の中学に戻り、そこで小学校の時の数少ない友人と家庭科部をしていた。
またそれ以外については受験勉強をする日々であった。受験に関してはもともと勉強はできていた為もあってか、地域の公立高校の2番めに良いところに合格できた。
家での生活はこの頃、継父は単身赴任であったため、実家が一番平和な時期となっていた。(また、妹も私のいた寮にはいった。)
寮で過ごしたことにより、色路学べたおかげもあってか、継父と小学校の時ほどは酷い関係ではなく、お互いに最低限以外の会話をする程度にはなっていた。
高1では理系クラスであったため、いわゆるオタクが多く、私にとって天国のような環境であった。また、寮の時の後輩と文通をよくしていた。(寮は電話・メールは基本禁止だったため。)
また、中学生の頃から留学に興味があり、そのための準備をし始めた。
高2,3ともそれなりに優秀な成績で学校生活も楽しめたが、学校が福音派の学校でありLGBTに対して差別を行うというほどではないものの、聖書を引用して厳しい態度をとったこと、食事が不味いこと、男子寮で生活すること(アメリカで大学では基本寮生活)にストレスを感じ、アメリカの大学を受験はしなかった。
進路は迷ったものの帰国した年度中に大学の工学部に合格しそこに入学することとなった。(親元にいたくなかったので実家から通えない距離の大学のみ受験した。)
大学の学業については、アメリカの授業の進度が遅く苦労はしたものの、なんとかついていくことができそこそこの成績を収めることができた。
ただ、1年目に男子寮に入ることとなり、それで精神を病み、このままでは学業に支障が出たり自殺しかねないという事で、精神科(ジェンダークリニック)を尋ねた。
また、この頃に同じ性同一性障害の彼女が遠距離であるができた。(ただし、どちらかというと共依存のほうが近い関係であったと思う。)
B2になるとアパートぐらしに移り、またホルモン注射をするようになったため、見た目も女性的になりつつあったため、精神的に非常に安定するようになった。
学業についても学科の上位1割に入っており、勉強の遅れを鑑みれば非常に良い結果出会ったと思う。
ただ、この頃に彼女との関係が共依存に近いものであったこともあり、それが崩壊し分かれることとなった。
大学3年生の現在、自己の労働力や頭脳以外の"人間としての価値"を自分自身で見出だせなくなってしまった。
他大の友人との交流もあり、より良い環境の院に行きたいし、自分のやりたい研究・仕事もある。けど、それ以外の人間的な将来について何も想像ができないし、強い希望を持つことができない。
自分自身の事なのに自分だけではにもできない事でつっかかかってしまった。
来年までに戸籍の変更もできるだろう。だいぶ恵まれている方だ。
けど、戸籍を変更したら私は結婚という選択肢を捨てることとなる。(そもそもパートナーなぞできないが)
変更しなければ就活で奇異の目で見られ苦労し、キャリアに影響が出るだろう。
なのにどうしたらいいのか分からない。
ホルモンバランスの崩れのせいもあるのだろうが、また自殺願望が湧いてきてしまう。
薬物への知識も多少あるため合法な乱用の仕方も知っている。そこに逃げてしまう可能性が否定しきれない自分が怖い。
精神科・心療内科に行ったところで薬が出るだけだろう。それで一体何になる。
どうしたらいいのか。
助けて欲しい。
今まで3年ほどエアビをやって来たけど、率直な気持ちは「今エアビまでありがとう」ってこと。
留学帰りの友人が、自分が住んでるマンションでエアビ使って赤の他人と一緒に暮らしてて、自分もできるなって思って始めた。
その友人曰く「寮生活でルームメイトと住むの慣れてるし、東京で家賃全部払うなんてバカらしいでしょ」ってことだった。あ、なるほどなと。
ちなみに自分は、一人暮らしはやっていたが、海外旅行行かないしもちろん留学経験もない。英語もダメ。
1泊2000円で安すぎてヤクの売人とか来るんじゃないの?って思ってた。
それでも、まあいいやと思えるくらいの楽観も持ち合わせてたのは事実だが、普段は差別しちゃいけないって頭の中で思ってる自分が、最初に来る人が香港人だとわかった瞬間に「本当にヤクの売人くる」って思ったのには参った。
日本人だからなのか?人間皆そう思うのか?はたまた自分だけなのか?
で、最初に来たその男は、待ち合わせの駅で会った瞬間「あ、コイツ絶対いいヤツ」とわかるほどの好青年だった。
「こんばんは」と綺麗な日本語で挨拶され、あとから聞くと英語もマンドリンも日本語も韓国語もできる超高学歴なヤツだった。
ご飯食べに行って、家帰って一緒に64でマリオをやった。すぐ友達になった。
でも、まあそんなのビギナーズラックだろって思ってたんけど、次に来たのは、台湾からの女子大生2名。可愛かった。その次はドイツからバックパッカーの大男3人組が土産持って来た。その次はタイからの新婚のカップルなどなど、とにかく来る人来る人が礼儀正しくフレンドリー。
もちろん全くトラブルがなかったわけではない。鍵をゲストが持ち帰っちゃったとか、自分がゲストが来る日を間違えていた、とか。
そういえば、3人で来るって言ってたのに6人で来た人たち(しかもおばちゃん6人)がいて、拙い英語同士通じなかったし、心の中では怒っていたが、黙って泊めた。
よく言われる近隣とのトラブルは本当に少なくて、同じマンションの人に一度「君のウチガイジン来てるよね」って言われたくらいかな。
でも「ガイジンと日本人って何か違うんですか?」って言ったら、「いや、ほら肌の黒い人とかさ…(これより先は自分の口からは言いたくない)」
と言われて、あ、これが日本人の感覚なのかと愕然としたこともある。まあ、自分もエアビやってなかったら、その発言のクレイジーさに気づけなかった側だったと思うが。
敢えて一つあげるなら、家に来るまでに迷うゲストたちが一定の確率でいて、それはいくら詳細に案内しても間違う人は間違う。率直に言って全く準備してこない本人たちのせいなんだけど、赤の他人に道聞きまくって、挙句の果てには家まで一緒に連れて来てもらったりする。それは連れて来てくれた人に対して申し訳ないなって思ってた。
でも、こういう時って日本人ってとても優しいんだなって思う。相手が外国人で何も知らないことは明らかなので、逆に騙すことも簡単だと思うんだけど、そんなことされそうになったゲストは一人もいなかった。日本って、やっぱりいい国なんだなって思った。
と、まあこんな感じで3年間ほど都内の2Kマンションでエアビ使って楽しんでた。旅人だけじゃなく企業インターン生や大学研究者とかもくる。経済的にもめちゃくちゃ助かった。家賃分くらいは収入になるし(都心2Kなのでそこそこいい収入)。
なぜ「いい人」だけが来るかってのは、もう途中からは気づいてた。
わざわざ個人宅に泊まりに来るような人って、原則として相手を信じられる人たちばかりだから。コミュニケーション能力高い人。だっていきなり他人と住むことになるんで。なので、コミュ障ななんて絶対に来ない。
まあ、あるとしたら善人の顔した極悪人が怖いな。まだ会ってないけど。
でも、とりあえず一旦終了。
6月以降の予約分が強制キャンセルになっちゃった。(もしくはなる予定)
自分は黙ってやってたわけでもなく、大家さんから同居人の許可もらってやってた。でも、これからは国に許可もらわないといけない。知ってたけど、自分はあまりに気楽にやっててのんびりしてた。いつか許可もらえばいいかくらい思ってたんだけど。
まあ、でも本当に楽しかったな。「今までエアビありがとう」って言いたい。
そして、これからもよろしく。ちゃんと国にお伺い立ててやります。
雑多に並べていく.
・専門卒
・専門時代に過食と拒食を繰り返す
・睡眠薬をODして救急車のお世話になる その後仕事をやめて自宅でしばらく療養
・エステにて高額プラン・拒食の方向け商品を契約,今も通っている
・実家通い
・家族との仲が悪い
・実家での療養期間中,家族に自身の状況を猛プッシュで批判される(よくあるうつ病患者にかけていけない言葉をだいたいフルコースで言われたらしい)
・そのストレスがきっかけでリスカ.何度か繰り返しており,そこそこ酷い跡が残っている.
・リスカしたことは覚えていない,あるいは別の視点から傍観しているような感覚らしい
・初対面とのコミュニケーションは苦手.(なのだが俺は違ったらしい)
・陰口多い.
・共感を求める会話が多め.
・メンタルヘルスの話になると食いつきがすごい.
・実家がとある宗教に入信している.両親のバックグラウンドとしてしっかりと根づいている.
・家族としての活動は彼女が一人で請け負っていた.最近は参加していない.
・過集中するタイプ.熱中したものにはものすごい才能を発揮するタイプ.
・頭の回転は早い.
・運動不足.なのに体型維持はしたいらしい.
・男性経験無し.(現在進行系で俺と一緒にステップアップ中だが,卒業には至っていない)
・本人曰く,同性との恋愛に抵抗は無い.
告白は俺から.初対面なのに恐ろしいくらい話しやすいし,話してて楽しかった.何回かデートしてから告白.
その時にリスカだけ見せてもらった.まぁそういう人もいるよな~くらいの感覚.タバコも彼氏彼女の付き合いなら俺はそんなに気にするタイプではないのでOKだった.
1通りの話が出揃ったのは付き合いだしてから.宗教の話は正直なところ面食らった.おそらく俺の両親はいい顔しないだろうから…
たまーに不安定な時があるが,100%受け入れモードで適当に相槌打って,話だけは聞いている風を装っている.
自惚れかもしれないが,付き合い始めの頃と比べると日に日に彼女のメンタルが落ち着いていっているのを感じており,それがなんとなく嬉しい.
普通に遊ぶぶんにはとても気が合う.一緒にいて心地よいと感じるし,一緒にいたい,会いたいと思う.
今はお互い別々に暮らしているが,一緒になるような事になるかもしれない.
たまーに彼女の口からそんな言葉がでてくる.自分は今は寮生活なので,まぁその時はその時かなと思っている.
で,タイトルにもどり
自分史上最も重めの女が来たなぁと思ってるが,ぶっちゃけ恋愛も結婚もノリだろーという信念なので,意外となんとかなるんじゃね?とか思ってる.
ただ結婚となるとな…結婚は2人だけでできるものって考えは今は俺の中に無いので…
結婚に至るまでに色々と壁があるなぁといったところ.
スクールデイズというゲーム、或いはアニメを知っている人は多いと思う。
ドロドロの三角関係の果てにまつバッドエンドが有名だろうし、アニメの最終回については放送されないと言う事態にまで発展した。無論、放送されなくて良かった代物なのは言うまでもない。
当時はその衝撃的なニュースに多くのネットユーザーが関心を寄せたもので、例に漏れず私もその一人だった。
スクールデイズでは、3人のキャラクターが主要登場人物と言える。
彼はどこにでもいるような少年で、後述する桂言葉に片思いしている。
性根は優しいものの、優柔不断かつ、面倒臭がりと言う面もある。
因みに性豪だ。
次に桂言葉。
内向的で大人しい黒髪ロングの美少女だ。そして巨乳。言葉遣いも丁寧で、育ちの良さが伺える、まさに正統派ヒロインと言ったところだ。
まあ、アニメにおいてのエンディグがアレだったためヤンデレ四天王の一人となってしまったが。
このスクールデイズにおいては、彼女が一番の立役者であり、一番のヘイト役になる。世界がアクションを起こさなければ誠も言葉も上手に進めないのだ。故にこそ、世界の一挙一動足が肝要となる。
この3人による愛憎劇が中心となって物語が展開されてゆき、加速し、最終話のnice boat.へと駆け抜けていく。
ここで本題に入ろう。
私は西園寺世界にはなれなかった。
誠は私の友人であり、趣味のコミュニティで出会った存在だった。時には愚痴を、時には趣味の話を、時にはぐだぐだした政治語りを共にできるような気楽な関係だった。
そんな誠に彼女が出来た。
当時の私と言えば「やったじゃん!幸せにしてやれよ!」などと宣い上機嫌だった。
彼女さんは趣味のコミュニティにいた私の友人でもあり、(便宜上『言葉』と呼称する)ブログでも幸せそうな様子が見て取れた。
それが狂ったのはいつだっただろうか。
私が進学して寮生活を始めた頃かもしれない。当時、家の事情で私はミッション系の学校に通い、その付属寮で暮らしていた。
それまで当たり前にやっていたインターネットも、何もかもを絶たれ、スケジュール詰めの毎日、土日も早朝から行われる礼拝、恐らくストレス過多だったのだと思う。
自宅から通う学生に、頼み込んで住所を借りて、宿泊届を出しては、毎週のように夜に遊び歩くようになった。
そんな私を心配してか、誠はよく気にかけてくれていたように思う。時々、他県なのにこちらに出向いてくれたり、私から会いに行くこともあった。
確かに言葉は、生真面目な性格で、思い込んだら一直線なタイプだった。
だから趣味のコミュニティでは頭角を顕している程だったし、愛も深かった。
本来ならば、私は誠にはフォローを入れながら言葉との軌道修正を入れるのが正しい対応だった。
だけれど、私はそんな誠を許した。
深まる依存、依存だったと思う。初めはそんな感じで私は誠に惹かれていった。
だが、誠には言葉がいる。どちらともの友人である私が壊す訳には、と自制をしようとしたが時既に遅し、私は誠の初めてを食べた。
勿論私だって初めてだった。だから、私はもう死んでも良いと思っていた。
でも誠は違った。極々当たり前の話だ。
まあ、誠は誠で3股だったのだが(笑)
そして、誠はコミュニティでもそれを告白し、メンバーにも謝罪したのだ。浮気相手のことは伏せたまま。
私は誠に守られてしまった。
結果、誠はうつ病に、言葉はメンヘラになった。なのに私はピンピンしていた。いやまあ、かなりダメージを喰らったが、病まなかったと言うべきかもしれない。
私は西園寺世界にはなれなかった。
私を断罪する人はもういない。
だから、私は一生この後悔を抱えて生きていくのだろうと思う。誠と一緒に。
見る人が見れば、わかるかもしれない。だから書いた。そんなところです。
自炊するようになってかれこれ10年以上になるけど、俺も不思議だった。
あるとき1か月少々の間食事つきの寮生活みたいな環境になって、もともと大食いの気のある身としては食事足りるかなという心配をしてたんだけど、意外と大丈夫だった(おかわりはしてるんだけど)。
で、普段より明らかに食べる量少ないのに何でこんなに違うのかなと考えていたところ、そういえば毎食味噌汁がついてたなと思い至った。
寮生活のようなものを終えて、家でも味噌汁飲むようにしてみたら、食後の満足感がかなり違った。
なので、食事の量をセーブさせてくれるものではないかなと考えている。
飲みすぎると塩分取りすぎになるのでその辺は結局バランスなのと、水でいいじゃんというのはそれはそれでもっともではあるけど。
元の主張からはずれるかもしれないけど、 子供の育成にかかる費用を社会全体で負担すべきという考えには賛成している。
そもそもの始まりは親子の関係が、 人類の起源(よりもずっと前)から存在する社会的に特別な人間関係だから それに引きずられた社会システム上(経済上)の問題がいつまでたっても解決できないのではないか。
だからこそ、 親子の関係を特別視することをやめるほうに進むべきではないかという主張だ。
民族の風習や個々人の生まれによってはそうではないこともあるが、 現在の主要国のほとんどが親が子を育て、 子は親に育てられることが当然のこととして社会が成り立っている。
生みの親と育ての親が違うということはあるし、 いわゆる孤児というかたちで育った人もいるが、 社会的には弱者(少数派)としてとらえられることが多い。 (実際どうかではなく、多数派の人々が彼らにその社会観を押し付けるのだ)
そういう価値観のもと社会が形成されているので、 親は子供を産めば育てなければならない義務を負うことになり、 子供も親に育ててもらっている以上、 家族として拘束されるという力関係が生まれる。
子供が一人、成人するまでにかかる費用は莫大だ。 実際のところ、日本でもこの経済的な問題は認知されていて、 教育費の無償化や子供手当、だとかまあ色々な経済対策は取られている。 (独身税というのが導入されるとしたら、この一環になるだろう)
ではなぜ親が子供を育てるのかという議題もあるが、 それは人の価値観それぞれなので省略する。 ここでは、教育費無償化や子供手当(さらにいうと独身税とやら)を負担する社会側にとって、 出生率が下がり人口バランスが崩れることが、 社会全体にとってリスクや損失になることを考慮しておく。
では、親が一切子供を育てる費用を出さなくてよいと仮定してみよう。 これなら子供を出産できる環境にある人が、 経済的な理由で出生を拒むことはないだろう。
残念ながら、子供が一人で生活していくことも困難だ。 そもそも働くだけの十分な能力を持っていることは稀で、 能力が十分だったとしても、児童労働は法律で制限されている。 他、子供は多くの社会的活動に「親の許可」が必要だ。
親は子供を育てることで、かなりの経済的負担を強いられているが、 子供はそれ以上に親によって自分の人生を左右されているのだ。 (奪われていると言っていい)
親の子育てに対する経済的負担の軽減は、当然主張されるべきことだが、 これは、親が子供の人生にどれだけ影響を与えるか考慮しなければならない。
親ではなく社会が子育ての経済的負担を支払うようになるなら、 親が子供から搾取しないことが担保されなければならない。 仮に子供を産んでから成人するまでの費用(育児時間含)を100%社会が負担するなら、 親が子供の職業選択や進学選択に口出ししたり、 老後の介護を期待することはナンセンスになる。
ここまでの主張はこういう形でまとめたい。
という認識のもと、生みの親・育ての親に対して十分な報酬を与え、 さらに親が子供を自分の所有物だと誤解しないように、 子供の経済活動を社会側が支援し、親に搾取されないようにする必要がある。
今では私たちは自由な経済活動を謳歌できるようにっている。 職業選択は自由になり、手続きを踏めば住居の移動や国籍を変えることだって不可能ではない。 同性婚は認められつつあり、かつての社会的性差による不自由は取り払われてきている。
親子の関係から経済的な拘束を取り払おう。 そして、出産と育児に携わった人に対して社会から十分な報酬が支払われるようにしよう。
さて、最後にここまでの話を前提のもと、具体的な施策をまとめる。(時系列順)
おしまい。
私は父、母、姉の4人家族。
厳密には2匹の猫を加えて6人家族。
父は自営業で、母は会社員。姉は国公立大学を出て今は立派な社会人。
お父さんは毎日遅くまで働き、(大変失礼な発言だが)自営業でありながら大金を稼いでらっしゃる。
中1の夏頃から私が家事を引き継いだが、それまでずーーーっとお母さんは仕事と家事を両立した兼業主婦。
お姉ちゃんは早くに寮生活を初めて家を出たせいか、とにかく私に優しくて甘々な性格。まるで友達みたい。
じいちゃんは一緒に住んでないけど、慈愛の塊みたいな人。最近ちょっと体の調子が不安。
ばあちゃんも暖かくて優しい人だったけど小学生の頃に旅立ってしまった。
私は学校では、言動や制服の着こなしのせいでいわゆるギャルっぽい扱いをされており、
生徒会室でたこ焼きを焼くとか時々突拍子もない事をするのでちょっとした有名人だった。
「突拍子もないことをしている」自覚がある時点で普通の人だと思うんだけどその言い訳はあんまり通用していない。
お父さんを尊敬していると言えば、普段真面目な女子生徒にあからさまにドン引かれ、
お姉ちゃんを大好きだと言えば、シスコンネタで1年くらいイジられ続けている。別にいいけど。
因みにじいちゃんが好きって言った時は大体みんな共感してくれた。
そんなに家族を好きな事って恥ずかしいのだろうか。
皆、家族が好きだけど口に出せないだけじゃ無いのだろうか。
「じいちゃんやばあちゃんは好きでもセーフ」な空気を感じて、私は少し切なく思う。
今度はジンギスカンを焼けばいいと、使い捨てのジンギスカンの鍋をじいちゃんがくれた。
流石に焼かないけど。
真面目を気取れば父を蔑ろにしていいのか、仕事に就けば母への感謝を忘れていいのか、
お姉ちゃんが好き、がどことなく恥ずかしい発言であることは弁明の余地なしだが、
人生で出会った沢山の友達と同じように家族を愛したってバチは当たらないんじゃないかなぁと、私は感じる。
そして思う、
胸元をちゃんと閉めろ(少し緩めてるだけ)とか、スカートが短すぎる(少し短いだけ)だとか
時々そんな文句を言われると何だか家族って鬱陶しいなぁ、と思う私は
やっぱりどう考えても、性格が悪い。
流石にやる気がなさすぎると思う
中高で嫌な思いをして結果全く勉強せずに親の仕事も継がずに、昔からなりたかった医学部も行かずに今の大学を選んだのはなんだった?
一番を取って何が楽しいのか?
寮生活で身につけたのは人の嫌な部分を見つけることか?
また逸れた
この大学入ってどうだった?きみがとった成績は一番になれるものか?一番どころか落単しまくってるだろ
確かに同級生を軽く小馬鹿にするくらいにはかけるようになったよなあ
だけど本当にできるやつからしたら滑稽でしかないほどの中途半端な知識
いや全くできてねえよ
てめえの妹は中学受験に失敗してから日に8時間以上はザラにやって医学部受かってるんだよ
友達もできず、部活も行かず、はたまた学校まで行かずそのうえ勉強までもしない
ほんとゴミだよなあ
そのくせ自分はできるだなんだと騒いで
ほんと存在自体がじゃまなんじゃねえの
多分お前はまた大学やめたいと言ってると思う
その原因はやる気がないから
そしてまた病むのか??
お前が病んだところで誰も助けてはくれないぞ
お前友達いないもんな
せめて少しはマシなことしろよ
せめて目の前の単位すら諦めるなよ
また後悔するんだろうな
ちゃんと単位取れよ
無駄に見え張って楽するなよ
おまえができてねえことはおまえが一番知ってるだろ
ちゃんとやらなきゃいけねえのはお前だ
誰も困らない
だめなら早く消えてしまえ
流石にやる気がなさすぎると思う
中高で嫌な思いをして結果全く勉強せずに親の仕事も継がずに、昔からなりたかった医学部も行かずに今の大学を選んだのはなんだった?
一番を取って何が楽しいのか?
寮生活で身につけたのは人の嫌な部分を見つけることか?
また逸れた
この大学入ってどうだった?きみがとった成績は一番になれるものか?一番どころか落単しまくってるだろ
確かに同級生を軽く小馬鹿にするくらいにはかけるようになったよなあ
だけど本当にできるやつからしたら滑稽でしかないほどの中途半端な知識
いや全くできてねえよ
てめえの妹は中学受験に失敗してから日に8時間以上はザラにやって医学部受かってるんだよ
友達もできず、部活も行かず、はたまた学校まで行かずそのうえ勉強までもしない
ほんとゴミだよなあ
そのくせ自分はできるだなんだと騒いで
ほんと存在自体がじゃまなんじゃねえの
多分お前はまた大学やめたいと言ってると思う
その原因はやる気がないから
そしてまた病むのか??
お前が病んだところで誰も助けてはくれないぞ
お前友達いないもんな
せめて少しはマシなことしろよ
せめて目の前の単位すら諦めるなよ
また後悔するんだろうな
ちゃんと単位取れよ
無駄に見え張って楽するなよ
おまえができてねえことはおまえが一番知ってるだろ
ちゃんとやらなきゃいけねえのはお前だ
誰も困らない
だめなら早く消えてしまえ
http://anond.hatelabo.jp/20170420151301
両親は士業系資格持ちで開業しているが、自分が小学校高学年ぐらいになったころから収入が怪しくなってきた。独立開業してるってのは、ほんとリスキーなもんだな。両親ともに同業のなかではそれなりの立場にあったもんから、プライドとかいろいろが邪魔したのも余計に厄介だった。
現在の親の収入は、、、、大学の授業料免除申請が全額免除で通ったりすることもあるぐらい、だ。なんと元増田よりひどいじゃないか・・・。母のほうは外にパートに働きにでていたこともあったが、稼ぎが月数万レベルにしかならなかったことと同僚にいじめられたことにより、本業のみ。とはいえ本業のほうは、、、、仕事さえあれば月に5万ぐらいは稼ぐときもあるかな、なんていうレベル。
祖父母×2は存命だが、国民年金しか受給しておらず彼ら(別家計)はおおむねマイナス。家からの持ち出しが続く。
父は微アル中+微DV+創価で、母は収入が父頼みであることもあって強く出られないでいる。
そんな家庭だったが、自分はほどほどに勉強はできた。高校のころには父は週一ぐらいで酔ってぐだぐだと説教しにきてはいたが、逆に言えば週6ぐらいは勉強できるゆとりがあった。そんなわけで必死に勉強し、高校での成績はよかった。
受験の際には最高B判定だった第1志望(国立医)と、A判定(一桁順位)しかだしたことがなかった滑り止め(国立医)をうけた。
ところが落ちた。滑り止めにすら落ちた。第1志望はまだ許せる。しかし滑り止めに落ちたのはちょっと耐えられなかった。
そうして自分はうつになった。浪人でうつ。浪人を脱出しないと治りそうもないのに、治らないと脱出もできない。地獄だった。勉強はしたいのだがどうしても身が入らない。死にたいとばかり考えていた。
そんなこんなで浪人して成績はガクンと落ちてしまったのだが、そうはいっても腐っても鯛とでもいうか、まだ国立医学部にいけるレベルの成績ではあった。秋頃に防衛医大をおさえて地獄脱出の糸口をつかみ精神の崩壊をおしとどめながら、なんとか翌年の春には大学へと入学した。
大学1年目には寮にはいった。奨学金は月15万借りた。親から援助は一切ないため、学費5万家賃5万生活費5万ぐらいの計算だった。寮だったため家賃生活費はもっと抑えられたが、寮の環境はうわさに聞いていたため、途中で退寮することも視野にいれての金額だった。
寮生活はまあ楽しくはあった。深夜であろうと爆音の音楽が聞こえてきたり、麻雀部屋から酔っ払いが這い出してきたり、飲み会では1人1人に一升瓶が用意されていたり工学部7年生とかいう輩に絡まれたり、寮自治のための集会が毎週あったりはしたが、そういうのには耐えられるタイプだった。耐えられないやつは1か月でいなくなった。耐えられた奴も半分以上が進級できていなかったが・・・。
寮生活で浮いた奨学金で、免許取得費やパソコンの購入費、2年目の引越資金もろもろなどを用意し、2年目には退寮した。
2年目からは生活がカツカツだった。ネット回線高い、プロパンガス高い(家賃重視で物件を選んだのは失敗だった)、家賃の支払いがある、云々。バイトに精をだした。
すると後期になって授業料免除が通らなかった。自分の収入のせいで免除基準を超えてしまったらしかった。全額・半額免除の基準境界ぐらいの家計所得だったはずなのに・・・。下手するとバイトしない方が収支はプラスだったりしえた。加えてバイトのせいでテスト1個1個で死にそうな思いをしていたこと、そしてなによりきちんと勉強できず欲求不満だったこともあって、もうバイトはしないことにした。
3年目からはまあ満足できるぐらいには勉強できた。ついでに成績もあがった。このころになって給付奨学金というものがあることに気付いたが、そういうものは大学の推薦が必要で、いろいろと画策したが指導教官の推薦をえることが難しく、大概は諦めた。いや、うちの学部に指導教官とかいないんよ。名目上は各学生に教官が割り当てられてはいるけれど、会ったことすらないし。調べてみたら自分の担当はかなりのお偉いさんで、全然会えないし。それでもメールして訪問してメールして訪問して云々してなんとか1枚推薦状をもらえたが、なんと奨学金の選考のほうで落とされた。収入も成績もGPAも悪くなかったと思うのに(収入は悪いかw)・・・、まあ「給付」は狭き門だから仕方ないかとあきらめた。しかし推薦状の確保が大変すぎて他の給付奨学金へのさらなる申請も同時にあきらめた。
なお、我々には将来の就職先さえ決めれば、自治体や病院から奨学金がもらえるという制度がたくさんある。そちらのほうは1年生のときから検討はしていたが、金額のいいどこかに身売りするなんてことはさすがにプライドが許さなかったし、かといって15年先まで見据えて自分の希望に添うwin-winな案件をさがすなんてことは大学入学時には考えることができず、見送っていた。3年生ぐらいで地元に戻ってもいいかななんて思って地元の県のものを申請してみたが、県外大学生×中途採用×自治医大合格辞退(←主にこれのせいだろう)のためか、通らなかった。
親はあんなやつだが、息子になんの援助もしていないことに負い目があるのか、所得証明書なんかは用意してくれる。それには地味だが大いに助かっている。帰省して自分で取りに行くのは大変だし、なにより費用がかさむ。あ、親は帰省すると5000円ぐらいお小遣いをくれるが、それでは交通費ですでに赤字だ。
大学の同級生は、平均としてお育ちが良い。初心者マークつけた新車レクサスSUVとか案外よくみる。とはいえ大学で生活していく分には今の自分のカツカツ具合でもそんなに問題はでていない。さすがに彼らと遊びに行ったりすると諭吉さんがポンポンとんでいくから付き合いきれないが、幸か不幸か自分はどちらかといえばひきこもりタイプでネット回線とパソコンさえあれば満足していられ人間で趣味に金がかかるなんてこともなく、同級生にはつきあいの悪いやつとは思われているとは思うが、まあそれぐらいの認識しかされていないと思う。ついでだから言わせてもらえば、執拗に昼ご飯誘うのやめてくれ家計破綻するわ。
とまあ自分はこんな感じで生活している。朝昼晩ほとんど自炊なのにもかかわらずエンゲル係数は80%超えていると思うが、PCもタブレットも所持できているし、ほかに欲しいものなんかなく、現在のところ生活していてとくに不自由を感じたことはない。
しかし同時に、自分のような生活ができるのは限られた一部の人間だと思うし、1000万を超える借金を背負ってもそれほど心配せずいられるのは医学部という特殊な環境にいるからだとも思う。そんな自分でも、留年したら奨学金がとまってすべてが詰むことはひしひしと感じているから、進級判定はつねにふるえるほど怖いし国家試験も怖い。他学部だったらそこから就活なんて大波乱がさらに控えているんだろうから、それには自分でも耐えられる自信はない。うつ再発しそう、むり。
妹たちは自分とはちょっと年が離れているから、まだ高校生とかそんなもんだ。やつらは自分なんかよりはずっとできはいいが、とくに下の妹はメンタル豆腐だから自分のような奨学金自転車操業をしなければいけないことになったら1週間で精神を病んでからの休学→退学の未来が見えている。しかも文系だから不確定要素が自分よりも高いときている。元増田をみて、やつらは自分が見放したらこんなかんじになってしまうのかなと改めて思わされた。
兄としては、かわいい妹たちにそんなことはさせられない。当然だ。
しかしだ、いわゆる有名病院のなかでは給料高いっていう虎ノ門とかでもちょっと給料足りなくて選択肢からはずさなくちゃいけなくなるけど、でもそこら辺の市中病院ならもっと高いとこ全然あるし、ワイちゃんの考えているいきたいとこランキング1位の某野戦病院もそんななかのひとつだ。
Jリーガーだった。
つい先日、取引先の人に「前の会社ではどんな業務をしていたの?」と聞かれた。「プロ契約でサッカー選手をしていました。」と聞かれたら驚かれた。僕はJリーガーだった。でも、かつて所属していたクラブのサポーターですら、僕の名前を聞いてもピンと来ない人も多いだろう。その程度の選手だった。経歴を詳しく書いても、僕のことが分かるのは僕の知り合いくらいだろう。なので書いてみる。
山に囲まれたド田舎に生まれた。7歳で幼馴染とスポーツ少年団に入った。たまたま県選抜に選ばれて、地元の広報に載ったりしてちょっとした人気者だった。小学校6年生の時、県外のプロサッカーチームのジュニアユース入団試験を受けた。もし合格していたら、両親は仕事を辞めて、家族で引っ越す予定だった。ジュニアユースに入っても、そこからトップチームまで昇格してプロになれるのは一握りなのに、仕事を辞める覚悟で応援してくれた。でも僕は落ちた。普通に落ちた。
田舎の中学校に進学した。小さな中学校にはサッカー部はなかった。陸上部に入った。1年生の時に、走り高跳びで県大会入賞した。それでもサッカーをしたくて、1年で陸上部を退部した。放課後は親に車で迎えに来てもらい、片道1時間かけて市外のサッカークラブで練習をしていた。中学校を卒業すると、県内一のサッカー強豪校に一般入試で入った。
サッカー部の部員は100人を超え、県外から入ってきたエリートが沢山いた。僕がかつて落ちたジュニアユース出身で、ユースに昇格できずに入部してきたやつもいた。サッカー部も寮生活も上下関係が厳しかった。4人部屋の寮は、自分以外先輩だった。朝は先輩よりも早く起きた。目覚ましの音で先輩を起こしてはいけないので、目覚まし時計を抱えながら寝て、アラームが鳴って1秒で起きた。6時にはグラウンドに行った。掃除や雑用もこなした。なぜか女子マネは雑用をほとんどやらなくて、1年生が雑用係だった。授業が終わるとダッシュでグラウンドに行き、全体練習の後も居残りをして20時過ぎまで練習をした。100人を超える部員の中で埋もれていた。1年生の秋、部内の身体能力体力テストのとある項目でダントツ1位を取った。テスト全体でもかなりの好成績だった。これがきっかけで、監督が少し目をかけてくれるようになった。
3年生が引退したあと、2軍チームに入るようになった。そのあとすぐに1軍チームのメンバーに入った。高校サッカー選手権予選にはプロクラブのスカウトも来ていた。チームのメンバーで声がかかった人もいる。僕は声がかからなかった。3年生になってすぐ、自転車で転んで手首を骨折した。休んでる間に、期待の1年生にポジションを奪われてメンバー落ちした。最後の全国高校サッカー選手権はスタンドで応援した。目立った活躍もできないまま卒業した。
大学生になって一人暮らしを始めた。プロになることは諦めていた。一応サッカー部に入った。サッカーが好きだったし、就職のことも考えて部活はやっておいた方が良いと思ったからだ。自主練はしなくなり、休みの日は日雇いのアルバイトをした。楽しかった。意識が変わったのは、高校時代の1学年上の先輩の近状を知ってからだ。その先輩は高校3年生当時、就職も進学も決まってなかった。卒業後は地域リーグのクラブとアマチュア契約をしていた。その先輩が地域リーグで活躍し、J2のチームとプロ契約をしたと知った。自分にもチャンスがあるかもしれないと思った。サッカーに真剣に取り組むようになった。3年生の時に、部活の顧問のコネであるJ2チームに練習参加をした。全く練習についていけず、邪魔だから帰れと言われた。なぜか翌年、そこからまた練習参加の打診が来た。手ごたえはあった。これでダメならもうあきらめがついた。そして僕にプロ契約のオファーが届いた。
C契約とよばれるランクの低い契約で、1年契約だった。そのクラブは、J2リーグの中でも資金力がなく、歴史も浅く、リーグ下位のチームだった。当時そのチームは、大学から新加入選手を大量に獲得していて、僕もその1人だった。年俸は詳しく書けないけど200万台だった。そこから税金や年金を払うことになる。そんな待遇だけど、一応Jリーガーとなった僕に周りはチヤホヤしてくれた。両親や恩師はすごく喜んでくれたし、ずっと連絡のなかった地元の知り合いや親戚からいきなり連絡が来たし、サインを頼まれたし、1度も話したことのない大学の女の子から告白されたりした。
ガラガラの会議室で入団会見をして、住み慣れない土地で寮生活を始めた。Jリーガーはチャラいイメージがあるかもしれないけど、田舎だし車もないしで、サッカー以外やることがなかった。チームメイトの車に載せてもらい練習場まで通った。ここから華やかなプロ生活の話でもしたいけど、僕はほとんど試合に出れなかった。僕がプロとして公式戦に立った時間は、2年間で合計100分に満たなかった。100試合じゃなくて100分。遠くから親が試合を観に来てくれたことがあるけど、結局1回しか試合を見せることができなかった。その時の出場時間も6分くらいだった。僕は2年で退団をした。トライアウトも受けたけどプロ契約のオファーはなかった。そしてサッカー選手を引退した。引退した時は冷静だった。自分よりも、両親の方が落ち込んでくれた。
プロをしていてうれしかったことは、社会活動の一環で小学校を訪問したことだ。子どもと一緒にサッカーをした。その時に一緒のグループでサッカーをした男の子が、僕の所属するクラブチームのファンだった。その子は僕の名前も顔も知らなかったけど、それ以来僕の背番号のユニフォームを着て応援に来てくれるようになった。全く試合に出ない僕の背番号のユニフォームで応援やイベントに来てくれた。
引退したサッカー選手はただの一般人だ。僕は所属していたサッカークラブからの斡旋で、某民間企業のインターンシップを半年間受け、その後正社員になった。入社した時期は本当にきつくて、こんな仕事すぐにやめてやろうとか、他にやりたいことを探そうとか思ってたけど、なんだかんだで続いている。サッカーは全くやらなくなった。飲み会で、新しく入ってきた会社の後輩に「ここの会社に入る前はJリーガーをやっていたよ」と言ったら冗談だと思われた。サッカーのことは忘れようとしていた。
昨年末に母が亡くなった。4年ぶりに実家に帰った。実家の片付けをしていたら、母が保存していたスクラップブックが出てきた。小学生の時に県選抜に選ばれた時の広報、高校時代のチームの結果が載った新聞記事、サッカー部員として大学のパンフレットに載った時の写真、入団が決まった時の記事、Webで配信されたニュース記事を印刷したもの、僕の試合を観に来てくれた時のチケットの半券、試合のチラシ、とにかく何でもスクラップしていた。今までのサッカー人生と、母の思いに涙が止まらなくなった。たった2年間でも、プロとしてユニフォームを着れたことを誇りに思っている。
偉大なる元増田様 ttp://anond.hatelabo.jp/20170117145052
キャッシュ(ttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:ttp://anond.hatelabo.jp/20170117145052)
男子校拗らせって「女子とまともに喋れない」とか「服装がダサい」とかじゃなくて「人のことを有能か無能かでしか判断できない」とか「ふわっと仲良くなる関係が理解出来ない」とか「上辺を取りつくれない」とか「学園祭はホストに徹するもので自分らが楽しむものではないと思う」とかじゃないすかね
結構な数ふぁぼられたりRTされたりしていたけど、これってどちらも「男子校内部からの目線」だと思う。
小学校から高校までずっと共学だった自分としては、大学で出会った「男子校出身」の人たちの印象は結構違います。
正直に言って、大学で初めてこういったタイプの人たちと出会った時はドン引きしました。
なぜかと言うと、こういった言動は共学の高校では普通タブーとされていて、そういう事をする人は嫌がられる傾向にあるからです。
彼らの特徴は、大きく言って三点です。
誰だって女性の目があるかどうかで多少は言動が変化するものですが、それにしても限度というものがあります。 共学というのは基本的に、常に異性の目がある場です。男子校出身者にとって文化祭とは「女性が来る」から盛り上がるものなのでしょうが、 共学における文化祭は「みんなで何か面白い事をする」から盛り上がるものなのです。そういった物の見方は当然、共学である大学でも引き継がれます。 そういう状況で異性が居る時、居ない時であまり露骨に態度を変えられると裏表のある奴/調子のいい奴だと思われ、ものすごく嫌がられます。 なおこれは、女性側でも同じです。「あの子は男が居るかどうかで態度が違う」という情報は即座に男にも伝わり、避けられます。
共学というのはいつどこで誰と誰の間に恋愛が発生するのかわからない場所です。発生を予想できるパターンもありますが、たまに全く予想の出来ないパターンもあります。 自分から見れば全く魅力の無い女性を、親友がいつの間にか好きになっていたということもあります。そういう時は蓼食う虫も好き好き、あばたもえくぼ、といった諺を身に染みて感じます。 したがってうっかりクラスメイトの女性を貶したら、いつの間にか親友がその子の事を気になっていたとかで大喧嘩になってしまった、という事もごく普通にあり得ます。
そういうわけで共学では、たとえ男しか居ないような場面であっても女性の外見を安易に格付けしたり、貶したりするようなことは控えられます。 内心ではブサイクだと思っていたとしても、それをわざわざ言葉にはしませんし、態度に現れてしまうのもあまりスマートではありません (が、所詮は子供ですから態度に出してしまう人も結構います) 。 ですから、よほどクラスで嫌われている人を貶す場面でもなければ、「あいつと付き合うくらいならあいつのほうがマシ」というような露骨な格付けはまず絶対にしません。 確かに、修学旅行や合宿の夜などに「胸が大きい人」「エロそうな人」だとか、そういうくだらない”要素”でランク付けをすることはあります。 それはあくまでも”要素”なので「俺は胸にはこだわらない」「エロそうだということは付き合う上では関係ない」などいくらでも無視することが出来るからです。
これはタブーというわけでもないですが
童貞だとか非童貞だとかは、共学でもネタとなることはありますが、あくまで冗談の範囲内というところがあります。 経済的にどうだとか「恋愛資本主義」が何だとか思想を振りかざしていたとしても、それはプロレスのようなもので、別に本気で相手を潰そうとしているわけではない事が多いと思います。
ですが、どうも男子校出身者は性の話題になると急にムキになって相手を論破しにかかる人が多いように思います。 童貞だとか彼女がいないだとか、○○の時期に一人だとかいう話題に過敏に反応して急に怒りだし、思想を振り回している人が居ると、あっこの人は男子校出身かなと思ってしまいます(あとで確認すると大体当たっています)。 別に彼女が居るから偉いだとか、非童貞だから偉いだなんてことはありませんし、そんなことはみんな知っていてからかっているだけです。落ち着いてください。
ついでに申し上げておくと「昔、彼女(or仲のいい子)が一人いてセックスする直前くらいまでは行った(≒途中までした)が童貞(or一回だけしたことがある)」というセリフは童貞の常套句でして、 たとえ本当でも聞いているこちら側が恥ずかしくなって赤面してしまうので、出来たら避けてください。
大学入学後の「男子校拗らせ」治癒率には、大学生活の環境が大きく影響します。 とはいえ、理科系の学部で女子は殆ど居なかった、という環境でもサークル活動や社会人生活を通じて一般的には齢25前後までには症状が目立たない程度にはなっているようです。
しかし「理科系の学部で女子がほとんど居なかった」「入ったサークルにも女子がいなかった」「寮生活だったために周りにも似たような奴ばかりが居た」「卒業後に入った会社にも女性が居ない」 など複数の条件が重なりますと、むしろ重症化するという事例も見受けられます。
十分にご注意ください。
無事うまれるかな?
無事そだてられるかな?
ましてや、初めての妊娠なんてただでさえ不安でいっぱいやのに。
9割不安で、1割、あるのは「幸せ」じゃなくて「おだやかな願い」。
生まれてわが子を抱っこするまで不安でいっぱいなんじゃ、ぼけ。
って言われてみぃよ…
涙とまらへんくなるよ…
世間体気にする日本で妊娠中から「異常」のレッテルを貼られたこどもを、母親未経験の人が育てたいと思うか?
世間体気にする日本で「異常ですけど安心してください」っていう
こんな支援があるよ、ということ、地域によって違う、ということ、
伝える気、ありますか?
家族に障害者をもたへん、女性の産婦人科医にも、わからへんやろな。
一生、忘れられへん傷つくるだけやのに。
笑って、生活してるのに。
こういう怒りって、どこにぶつければいいんやろ。
「障害者がうまれたら」っていうガイドブックでも作って、もちこんだらいいんかな。
宣告受けてからじゃなくて、母子手帳交付とともにもらう仕組みにしてもらって。
思ってもみぃひんかったわ。
私は女で幼なじみは男なんだけど
すごいくっつけようとしてくる(笑)これは自意識過剰とかじゃないと思ってる。まじで怖い。
ここ1〜2年の話
ご飯とか親子同士でいくと、今まで各母親の隣だったのに急に隣同士にされたり
幼なじみが高校で寮生活してるから、私の写真を撮って幼なじみのLINEに「近況報告よー」とか言ってバンバン送るし
同じ車(私の母が運転する)で移動する時も、私は今まで助手席に乗ってるからいつも通り助手席に乗ろうとしたら
「○○(私の名前)ちゃんは後ろに乗って!私が助手席に座るから!」とか言って無理矢理幼なじみに隣にされる
しかも幼なじみとLINE交換して4年くらい経つけど最近になって幼なじみからのLINEが異常に来る。きっとお母さんに「頻繁にメッセージ送るようにしなさい」とか言われてると思う(笑)こないだなんてコスプレした写真を送ってくれと言われた。流石に引いたわ。そもそもしたことねーわ。
はっきり言って幼なじみは全くもってイケメンではない。よってよくある少女漫画のように幼なじみ同士で付き合うとかはマジで考えられない。面食いの自覚はないけど、お付き合いならある程度イケメンでいてほしいですよ(笑)
あっちは男子校に通ってるし、多分親的にも将来の結婚関係が心配なんだと思うけど、私は付き合いたいと思ったことは微塵もない。幼なじみとして、「すごーい仲良し」として今まで関わってきたつもりだ。
春休みで、今月末も会う予定。幼なじみという関係上、十何年間の付き合いである以上、私の母にもこういう事は言えないしあっちにもはっきりと言いづらい。あーーーなんかやだあーーー
世間は受験シーズンもいよいよ終盤。受験生たち、保護者たちも後の大学生活を視野に入れつつあるだろう。
学生寮には試験日になると暇な親や試験後の高校生達が見学にやってくる。
家庭が貧乏だった私ももれなくその1人だったのだが、ぶっちゃけ見学に言っても何処を見れば良いか分からないだろうな、と思う。
せいぜいボロすぎる建物に引いたり、左翼系の落書きにビビったり、意外ときれいだわ〜とか思ったり。
寮が出してるパンフレットなんかは基本的に「寮最高」みたいな情報ばかり載っていたりするが、良い点様々あれど決して最高ではない。月何万も払って下宿に住む価値はそれなりにある。
このエントリーでは、初見では分からないであろう見学するときに調べておくと良い点や、寮の条件などが意味する所を、寮生活4年目のベテラン視点で考えてみたい。
とはいえ、このエントリーに書いてあることは一寮の一寮生の視点でしかないことはあらかじめご了承願いたい。寮によって状況や内部システムは様々なので、この視点がどれだけ他に適応できるものなのかは分からない。
・自治寮
・男女混合、数百人規模、留学生多数
・寮費5000円以下
・4人部屋
以下本題。
これで寮の性格は大きく変わる。
住んでる学生が管理してるのが自治寮で、大学が管理してるのが管理寮。
一般的な寮は管理寮だと思うけど、自治寮が派閥を効かせてる大学もそこそこあるね。ウチもこれです。北海道の恵廸寮なんかはNHKの密着取材を受けたりして露出が多いね。
管理寮については憶測でしかないんだけど、それぞれの特徴はこんな感じかな?
「管理寮」
・さすがに2人部屋が多いんじゃないの?と思ってます。1人部屋もあるところはあると思います
「自治寮」
・たいてい寮費が格安
・1人部屋はあまりない。ウチは4人部屋
・「寮の仕事」がある…当番や委員会、会議出席の義務など。一個一個は大したことないとはいえ、積み重なると結構めんどくさい。
簡単に解説すると
自治寮で「寮の仕事」があるって言うのは、管理寮で「寮母さん」「守衛さん」「大学局員」が請け負っている仕事を、全部学生たちで分担しているということ。例えばトイレが詰まったりしていたら、管理寮だと放っておいたり寮母さんに言えば、後は勝手に直っていたりすると思うけど、自治寮だと寮の中の委員会の人に伝えて業者を呼んでもらったり、学校に連絡して業者を呼ばないといけない。修理も立ち会わないといけない。そんな感じでめんどくさがって放って置かれたり、直るのに時間がかかったり、大学が直すの渋ったりするこおもあるので、自治寮はだんだん汚くなっていく。他にも寮の決め事のために会議に出席しないといけなかったり、仕事を請け負うための委員会に入らないといけなかったりするわけだ。他にも設備を拡充したい時は大学と交渉しないといけないし、大学はお金がかかるのを嫌がるのでなかなか設備は良くならない。というところである。
管理寮は綺麗で設備が整っていて、めんどくさい仕事がないのが魅力。悠々自適に自分の生活を過ごしたい人向け。
自治寮はめんどくさい仕事があったり汚かったりボロかったりする代わりに、ざっくばらんな雰囲気や横のつながり、自由さなんかが売りだろう。
大きな音を出さなければ夜中に共同スペースで楽器弾いててもあんまり怒られないし、学生同士で協力する場面が多いので横のつながりが厚い。お金の使い方も学生たちが話し合って決めるので、コンパや寮祭など楽しいイベントが開けたりする。こっちは学生的な生活にズブズブ浸かりたい人向け。
じゃあ次。
○何人部屋?
2人部屋だと相手が良い人だったり気が会う場合天国だが、合わない人と一緒になったり、喧嘩した時かなり辛いと思う。
3、4人だとそういうリスクは薄まるが、その分うんこな人間に出会う確率も高くなる。うんこな人間結構います。話し合っても、根本的な性格は直らないんですよね。
あとは研究室やバイトで夜遅いなど、生活が異なる人と生活を送ることになるので、人が多いほど部屋の中の生活習慣も雑多になる。寝てる時に多少明るかったり、物音がしたり。
このへんは各人の微妙な好み次第かなと思うけど、人間関係が怖い人は意外と多人数部屋の方がいいかもね。
○水場を見れば寮の美意識は分かる
はっきりいってあまり掃除したくない場所なので、ここを見れば美意識や管理状態が分かると思う。
管理寮は清掃員がいたりするのでまあ綺麗だと思う。汚かったら雇ってる清掃員が悪い。
自治寮だと当番制できっちり定期清掃してれば綺麗だろうし、そういう寮は他のとこも綺麗なんじゃないかな。
ウチは当番がなくて、清掃員も時々しか掃除しないので自主清掃。汚いです。
○立地が良い感じか聞いとけ
主に自炊しない場合の食事の調達場所(定食屋、コンビニなど)や銭湯などの有無なんかを聞いておくと良いかも。寮の設備を補完してくれる場所だね。
寮では、炊事場が共同で且つ部屋から遠かったりすると自炊がめちゃくちゃめんどくさい(6部屋隣の部屋に材料と調味料、調理器具を持ってキッチンを借りに行くような感覚。部屋と炊事場をめちゃくちゃ往復することになる。食器も使ったらすぐ洗わないといけない)ので、クタクタに疲れてる時とかに使えるコンビニや定食屋、弁当屋などが近いと便利だと思う。
シャワーのみだと時々湯船に浸かりたいですね。
居室の人間関係が悪化した、部屋が汚い臭い、夜更かししたい(パソコン、ゲーム、勉強)など、部屋以外の場所に居たいとき居れる場所があるか、ということ。
談話室や食堂とか。夜中でも使えるかとか。こういうのが管理寮にはどれくらいあるかはわからないけど、確認しておくと良いと思う。
○留学生の有無
国が違うと常識や感覚の違いからトラブルになるというのはよくある話。それを含めて寮生活の味わいともとれるが、私はわりと避けたい。
まあでももちろん話せば分かる人もいるし、国際交流もまあまあできるかな。お国の料理を食べれるってのはあんまりないよねー。
管理寮だと4年までというところが多いっぽい。
最初から留年するつもりの人はいないと思うが、いざという時心強いセーフティネットになってくれるので調べておいても良いと思う。
と、あまり包括的でない気がして申し訳ないが、こういうところに着目してみると寮生活の実態が見えてくるんじゃないだろうか。
とはいえ、個人的にはとりあえず一回寮に入っとけと思う。単純に出たくなったら出れば良いし。逆に下宿してから途中で入るのは大変。
これが誰かの役に立てばいいなぁ。