はてなキーワード: ピアニカとは
1950年代生まれの親戚が、パソコンのキーボードやスマホの画面を「押してすぐ指を離すこと」が出来なくていつも長押しになるので、指を離さない理由を聞いてみたら、この動作をしたことがないと言われた。
そんなことある!? 楽器の鍵盤とかあるじゃん!? と思ってピアニカについてググってみたら普及は1960年代半ば以降ということなので、その人の小学生時代には触る機会が無かったようだ。(ピアノやオルガンも習っていない)
でも電卓やプッシュ式の固定電話使ってたよな……。あれって長押ししても1回の打鍵になるのか……?iPhoneのキーボードは指を離した時に判定されるけどそれと同じ? 手元にないから確認できなくてモヤモヤする。
あれは忘れもしない。5歳の頃に幼稚園でピアニカの発表会の練習をしていた時の事。
クソ寒い体育館?みたいなとこで練習してたんだけど、当時から陰キャ爆発してた俺はおしっこを漏らした。泣いた。周囲に気付いた人はあんまりいなかった。
この経験は人生初の壮絶な羞恥であり、今の俺の性癖の土台となった。
これも忘れはしない、広島の己〇小学校、四年生のとき、帰りの会でリコーダーで「パフ」という曲を全員で練習するのが当時の常だった。
俺は全力で演奏していたが、演奏中に隣の女子がリコーダーを置いて教卓の前に歩いていき、一人静かに出て行ったのを横目で見た。
全力の演奏が終わり、あとは挨拶して帰るだけ、なのに隣の女子は帰ってこないし先生も「待ってろ」と言い残して消えた。
ふと横を見ると水溜まりが広がっており、俺の机の足にもばっちり届いていた。おもらしだ。あの隣の内気な女の子が、おもらしをしたんだ。
もう9歳か10歳にもなるというのに、おもらしをした。それまでその子に興味を持ったことは一度も無かったのに、それからはその子の事を考えるだけで胸がはち切れんばかりだった。
5歳の頃でさえ、俺は死ぬほど恥ずかしく、泣きじゃくり、消えてしまいたいと絶望感が身を襲っていたのだから、倍の年齢である10歳でのおもらし、しかも教室中に知れ渡っている。
あの子の羞恥心と絶望感は筆舌に尽くし難いことを俺は知った。そして、酷く興奮した。
あの子は翌日普通の顔して登校した。いじめも起きず不登校もなく、みんな優しかった。俺はひとり「女の子はなんて強いんだろう」と感動し、また興奮した。
そして俺は今26歳になり、女の子が教室や体育館でおもらしする同人誌を買い漁っては抜いている。
放尿ではなく、着衣失禁で無いとダメだ。できれば人前が良い。大は範囲外。
漏らすまでずっと心の中の葛藤(「トイレ行きたい、でも手を上げたらみんなに『おしっこ我慢してるんだ』ってバレるし恥ずかしい」「あと〇分なら我慢できる…」)があるとなおよい。
そして葛藤とは裏腹にドンドンもじもじが強くなり、手はスカートの上から押さえてないともう漏れ出しそうな状況で、とにかく我慢するしかなくて、「おしっこしたい、おしっこしたい、おしっこしたい」以外の感情がなくなり、ふとした瞬間、押さえた手の隙間からおしっこが漏れ出し、何とか我慢するも止まらず、止められず、無力に自分の意志とは裏腹におしっこが溢れ出し、暖かさと微かなアンモニア臭が鼻孔をくすぐりながら、「もう〇歳なのに…」と不甲斐なさに絶望して泣きじゃくり、みんなに「漏らしてる…」と気付かれる終わり方。そういうので抜いている。
誰かに気づいてもらうにはその人の心に響く何かが出来なければならない。
その何かは上手い絵を描くことだったり、良い曲や歌を発表することだったり色々あるけど、そういった一芸を身につけてこられなかった自分は自己表現の手段が一切ない。
絵を描いてみても、描いている途中でどうしようもなく下手くそな絵に感じてしまって完成させられないし、そんなだから5年経っても1ミリも成長しなかった。
絵が描けなくてもできるって聞いて3DCGにも手を出してみたけど、結局彼らにとっての“絵が描けない”と自分にとっての“絵が描けない”の認識に相違があることに気付けただけだった。
音楽なら秘められた才能が発覚するかもなんて淡い期待を抱いたこともあったけど、バカだよね。ピアニカですらまともに触ってこなかったのに作曲なんか出来るわけないじゃん。
再投稿です。
そして人の愛し方が分からない。
親からも誰からも愛されたことがない人間なのだから仕方がないのかもしれない。
そもそも、私が、性同一性障害で他者から恋愛対象として見られず、また、女性に惹かれることが多いため、女性として過ごしてる私は、出会いがないからなのか。
私が発達障害やBPDの症状を軽度ながら持っていることがいけないのか。
死ねば楽になるのかな?
助けて欲しい。
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以下は、乱文であるが、私の過去を書かずにはいられなくなったので、ここに書こうと思う。(多少のフィクションは含んでいるが。)
日常生活は女性として暮らしていて、初対面の人と話したり、ショッピングや空港等で元男性と見抜かれることはほぼ無く、また容姿もそこそこいい方であるという自負はある。(ガタイが無駄にいいのはコンプレックスだが。)
幼稚園児のときに母と父が離婚した。その時の母と父の喧嘩を記憶していて、私にとっての一緒に暮らしていたこのろの父親像は母親に向かって怒りをぶつけているところと、仕事で疲れて寝ているところしか残っていない。そして、離婚後、親権は母親に移った。
そして、仕事に一辺倒になった母からは面倒を見てもらえず、妹と共に子供会の保護者と祖母に面倒を見てもらっていた。
祖母は優しい人ではあるものの、愛情表現をする人ではなく、また同じ家にいたわけではないので一緒にいる時間は限られいた。
私はこの頃、植物に興味があり図鑑をよく読み漁っていた。また、ピーターラビットシリーズを好んでいたことを記憶している。
小学生に上がったとき、ピアニカの色やランドセルの色が"私の望む色"出なかったことを記憶していている。
小学生2年生になると強迫性障害の症状を起こすようになった。ともかく、家の外のすべての物が不潔に思えた。1度病院に連れて行かれた記憶がある。幸い、小2のうちにだいぶ良くなり日常生活に支障をきたさないレベルには回復した。ただし、潔癖症自体は中学生くらいまで強い意識が残った。
また、この頃から学校でオカマとヤジされることが増え、友人は決して多いとは言える状況にはなかった。
この頃でも父親とは電話を通して時々話しており、またたまに合うことがあった。(よく上野の国立科学博物館と鉄博に連れて行ってもらった。)
ただ、一度、ファインディング・ニモに連れて行ってもらった。はじめての映画館で見た映画だったのだか、個人的に楽しめなく、父はそれに対して非常に怒っていたのを記憶している。
また、この頃から母親と父親の間で伝言を伝えるような役割となり、お互いの悪口を聞かされ、また経済状況についてと揉め事を聞く立場となっていった。
相手は子供が3人いたが1人はインフルで亡くなっていた。(ただし、継父に親権はなく未だに継姉・兄と顔を合わせたことはない。)
母はTVを厳しく時間を決める人であったが、継父はそうではなくよく妹や従姉妹にテレビを見せていた。それについて、母親と揉めることが多く、私がママっ子であったため母親側についた事により、私は継父から見せてもらえなくなり、次第に顔を合わせるだけで睨まれるようになった。
小4になると母と継父の間に子供が生まれ、何もしない継父と仕事しかしない母の代わりに祖母と私と妹がよく面倒を見ていた。
そして、この頃から、継父と私の関係は更に険悪になり、私が継父から身を隠すように家で過ごすようになった。
幼稚園児のころから高いところから飛び降りたらどうなるのだろう、という気持ちはあったものの、この頃には明確に死にたい、という気持ちがあった。
また、夢の中で継父を刺し殺す・絞め殺す夢を見るようになるようになった。(この夢は大学生1年の頃あたりまで続いた。)
小5になると母親の仕事が軌道に乗り始め、経済状況は一気に良くなるが、継父との関係は最悪になり、一度私が勉強机の下に逃げたところを継父に顔を蹴り飛ばされたことがあった。(ここらへんの記憶は曖昧で正確な時期を覚えてない)
また、私は元々書物を読む子供であったが、学校で男子からはオカマや(容姿を指して)キツネと呼ばれ、女子からは女子の中心グループと犬猿の仲だったため、更に書物を読み漁るようになった。(ハリーポッターを1日の放課後で2冊を読みきる勢いだった。)
小6では学校はだいぶ落ち着いてきたもの、継父との関係は相変わらずだった。
また、妹もこの頃から継父との関係が悪化してきており、不登校気味となっていった。
中学では寮生の少人数の学校に入った。これにより、家族とも同級生とも離れることができ、私にとっての人生の転換点てなった出来事であると思う。
ただ、男子は野球部に、女子はバレー部に強制的に入部であり、内心でバレー部に入りたいと思っていたが、叶わぬ願いであった。(幸い丸坊主は避けれた。)
中2になると寮の中で私が最年長となったためリーダーシップを取ることとなった。
完璧主義だったため自他ともに厳しく、今では後輩にもっと優しく接すればよかったなと感じる。
中3では男子として野球することが嫌で地元の中学に戻り、そこで小学校の時の数少ない友人と家庭科部をしていた。
またそれ以外については受験勉強をする日々であった。受験に関してはもともと勉強はできていた為もあってか、地域の公立高校の2番めに良いところに合格できた。
家での生活はこの頃、継父は単身赴任であったため、実家が一番平和な時期となっていた。(また、妹も私のいた寮にはいった。)
寮で過ごしたことにより、色路学べたおかげもあってか、継父と小学校の時ほどは酷い関係ではなく、お互いに最低限以外の会話をする程度にはなっていた。
高1では理系クラスであったため、いわゆるオタクが多く、私にとって天国のような環境であった。また、寮の時の後輩と文通をよくしていた。(寮は電話・メールは基本禁止だったため。)
また、中学生の頃から留学に興味があり、そのための準備をし始めた。
高2,3ともそれなりに優秀な成績で学校生活も楽しめたが、学校が福音派の学校でありLGBTに対して差別を行うというほどではないものの、聖書を引用して厳しい態度をとったこと、食事が不味いこと、男子寮で生活すること(アメリカで大学では基本寮生活)にストレスを感じ、アメリカの大学を受験はしなかった。
進路は迷ったものの帰国した年度中に大学の工学部に合格しそこに入学することとなった。(親元にいたくなかったので実家から通えない距離の大学のみ受験した。)
大学の学業については、アメリカの授業の進度が遅く苦労はしたものの、なんとかついていくことができそこそこの成績を収めることができた。
ただ、1年目に男子寮に入ることとなり、それで精神を病み、このままでは学業に支障が出たり自殺しかねないという事で、精神科(ジェンダークリニック)を尋ねた。
また、この頃に同じ性同一性障害の彼女が遠距離であるができた。(ただし、どちらかというと共依存のほうが近い関係であったと思う。)
B2になるとアパートぐらしに移り、またホルモン注射をするようになったため、見た目も女性的になりつつあったため、精神的に非常に安定するようになった。
学業についても学科の上位1割に入っており、勉強の遅れを鑑みれば非常に良い結果出会ったと思う。
ただ、この頃に彼女との関係が共依存に近いものであったこともあり、それが崩壊し分かれることとなった。
大学3年生の現在、自己の労働力や頭脳以外の"人間としての価値"を自分自身で見出だせなくなってしまった。
他大の友人との交流もあり、より良い環境の院に行きたいし、自分のやりたい研究・仕事もある。けど、それ以外の人間的な将来について何も想像ができないし、強い希望を持つことができない。
自分自身の事なのに自分だけではにもできない事でつっかかかってしまった。
来年までに戸籍の変更もできるだろう。だいぶ恵まれている方だ。
けど、戸籍を変更したら私は結婚という選択肢を捨てることとなる。(そもそもパートナーなぞできないが)
変更しなければ就活で奇異の目で見られ苦労し、キャリアに影響が出るだろう。
なのにどうしたらいいのか分からない。
ホルモンバランスの崩れのせいもあるのだろうが、また自殺願望が湧いてきてしまう。
薬物への知識も多少あるため合法な乱用の仕方も知っている。そこに逃げてしまう可能性が否定しきれない自分が怖い。
精神科・心療内科に行ったところで薬が出るだけだろう。それで一体何になる。
どうしたらいいのか。
助けて欲しい。