2018-07-09

から愛されたくてしかたがない。

投稿です。

から愛されたことがない。

そして人の愛し方が分からない。

からも誰からも愛されたことがない人間なのだから仕方がないのかもしれない。

そもそも、私が、性同一性障害他者から恋愛対象として見られず、また、女性に惹かれることが多いため、女性として過ごしてる私は、出会いがないからなのか。

私が機能不全家族の出であることがいけないのだろうか。

私が発達障害やBPDの症状を軽度ながら持っていることがいけないのか。

死ねば楽になるのかな?

精神崩壊しそうだ。すでに崩壊してるのかもしれない。

助けて欲しい。


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以下は、乱文であるが、私の過去を書かずにはいられなくなったので、ここに書こうと思う。(多少のフィクションは含んでいるが。)

私は男→女の性同一性障害の現役大学生である

日常生活女性として暮らしていて、初対面の人と話したり、ショッピング空港等で元男性と見抜かれることはほぼ無く、また容姿もそこそこいい方であるという自負はある。(ガタイ無駄にいいのはコンプレックスだが。)

幼稚園児のときに母と父が離婚した。その時の母と父の喧嘩記憶していて、私にとっての一緒に暮らしいたこのろの父親像は母親に向かって怒りをぶつけているところと、仕事で疲れて寝ているところしか残っていない。そして、離婚後、親権母親に移った。

そして、仕事に一辺倒になった母からは面倒を見てもらえず、妹と共に子供会保護者祖母に面倒を見てもらっていた。

祖母は優しい人ではあるものの、愛情表現をする人ではなく、また同じ家にいたわけではないので一緒にいる時間は限られいた。

私はこの頃、植物に興味があり図鑑をよく読み漁っていた。また、ピーターラビットシリーズを好んでいたことを記憶している。

小学生に上がったときピアニカの色やランドセルの色が"私の望む色"出なかったことを記憶していている。

小学生2年生になると強迫性障害の症状を起こすようになった。ともかく、家の外のすべての物が不潔に思えた。1度病院に連れて行かれた記憶がある。幸い、小2のうちにだいぶ良くなり日常生活に支障をきたさなレベルには回復した。ただし、潔癖症自体中学生くらいまで強い意識が残った。

また、この頃から学校オカマとヤジされることが増え、友人は決して多いとは言える状況にはなかった。

この頃でも父親とは電話を通して時々話しており、またたまに合うことがあった。(よく上野国立科学博物館鉄博に連れて行ってもらった。)

ただ、一度、ファインディング・ニモに連れて行ってもらった。はじめての映画館で見た映画だったのだか、個人的に楽しめなく、父はそれに対して非常に怒っていたのを記憶している。

また、この頃から母親父親の間で伝言を伝えるような役割となり、お互いの悪口を聞かされ、また経済状況についてと揉め事を聞く立場となっていった。

小3になった時、母親再婚した。

相手子供が3人いたが1人はインフルで亡くなっていた。(ただし、継父に親権はなく未だに継姉・兄と顔を合わせたことはない。)

母はTVを厳しく時間を決める人であったが、継父はそうではなくよく妹や従姉妹テレビを見せていた。それについて、母親と揉めることが多く、私がママっ子であったため母親側についた事により、私は継父から見せてもらえなくなり、次第に顔を合わせるだけで睨まれるようになった。

小4になると母と継父の間に子供が生まれ、何もしない継父と仕事しかしない母の代わりに祖母と私と妹がよく面倒を見ていた。

そして、この頃から、継父と私の関係は更に険悪になり、私が継父から身を隠すように家で過ごすようになった。

幼稚園児のころから高いところから飛び降りたらどうなるのだろう、という気持ちはあったものの、この頃には明確に死にたい、という気持ちがあった。

また、夢の中で継父を刺し殺す・絞め殺す夢を見るようになるようになった。(この夢は大学生1年の頃あたりまで続いた。)

小5になると母親仕事軌道に乗り始め、経済状況は一気に良くなるが、継父との関係は最悪になり、一度私が勉強机の下に逃げたところを継父に顔を蹴り飛ばされたことがあった。(ここらへんの記憶曖昧で正確な時期を覚えてない)

また、私は元々書物を読む子供であったが、学校男子からオカマや(容姿を指して)キツネと呼ばれ、女子から女子の中心グループ犬猿の仲だったため、更に書物を読み漁るようになった。(ハリーポッターを1日の放課後で2冊を読みきる勢いだった。)

小6では学校はだいぶ落ち着いてきたもの、継父との関係は相変わらずだった。

また、妹もこの頃から継父との関係悪化してきており、不登校気味となっていった。

中学では寮生の少人数の学校に入った。これにより、家族とも同級生とも離れることができ、私にとっての人生の転換点てなった出来事であると思う。

ただ、男子野球部に、女子バレー部強制的に入部であり、内心でバレー部に入りたいと思っていたが、叶わぬ願いであった。(幸い丸坊主は避けれた。)

中2になると寮の中で私が最年長となったためリーダーシップを取ることとなった。

完璧主義だったため自他ともに厳しく、今では後輩にもっと優しく接すればよかったなと感じる。

中3では男子として野球することが嫌で地元中学に戻り、そこで小学校の時の数少ない友人と家庭科部をしていた。

またそれ以外については受験勉強をする日々であった。受験に関してはもともと勉強はできていた為もあってか、地域公立高校の2番めに良いところに合格できた。

家での生活はこの頃、継父は単身赴任であったため、実家が一番平和な時期となっていた。(また、妹も私のいた寮にはいった。)

寮で過ごしたことにより、色路学べたおかげもあってか、継父と小学校の時ほどは酷い関係ではなく、お互いに最低限以外の会話をする程度にはなっていた。

高1では理系クラスであったため、いわゆるオタクが多く、私にとって天国のような環境であった。また、寮の時の後輩と文通をよくしていた。(寮は電話メールは基本禁止だったため。)

また、中学生の頃から留学に興味があり、そのための準備をし始めた。

高2で、海外高校に転校し、海外生活が始まった。

高2,3ともそれなりに優秀な成績で学校生活も楽しめたが、学校福音派学校でありLGBTに対して差別を行うというほどではないものの、聖書引用して厳しい態度をとったこと、食事が不味いこと、男子寮で生活すること(アメリカ大学では基本寮生活)にストレスを感じ、アメリカ大学受験はしなかった。

進路は迷ったもの帰国した年度中に大学工学部合格しそこに入学することとなった。(親元にいたくなかったので実家から通えない距離大学のみ受験した。)

大学学業については、アメリカの授業の進度が遅く苦労はしたものの、なんとかついていくことができそこそこの成績を収めることができた。

ただ、1年目に男子寮に入ることとなり、それで精神病み、このままでは学業に支障が出たり自殺しかねないという事で、精神科(ジェンダークリニック)を尋ねた。

また、この頃に同じ性同一性障害彼女遠距離であるができた。(ただし、どちらかというと共依存のほうが近い関係であったと思う。)

B2になるとアパートぐらしに移り、またホルモン注射をするようになったため、見た目も女性的になりつつあったため、精神的に非常に安定するようになった。

学業についても学科の上位1割に入っており、勉強の遅れを鑑みれば非常に良い結果出会ったと思う。

ただ、この頃に彼女との関係共依存に近いものであったこともあり、それが崩壊し分かれることとなった。

大学3年生の現在自己労働力頭脳以外の"人間としての価値"を自分自身で見出だせなくなってしまった。

他大の友人との交流もあり、より良い環境の院に行きたいし、自分のやりたい研究仕事もある。けど、それ以外の人間的な将来について何も想像ができないし、強い希望を持つことができない。

自分自身の事なのに自分だけではにもできない事でつっかかかってしまった。

来年までに戸籍の変更もできるだろう。だいぶ恵まれている方だ。

けど、戸籍を変更したら私は結婚という選択肢を捨てることとなる。(そもそもパートナーなぞできないが)

変更しなければ就活で奇異の目で見られ苦労し、キャリアに影響が出るだろう。

なのにどうしたらいいのか分からない。

ホルモンバランスの崩れのせいもあるのだろうが、また自殺願望が湧いてきてしまう。

薬物への知識も多少あるため合法な乱用の仕方も知っている。そこに逃げてしま可能性が否定しきれない自分が怖い。

精神科・心療内科に行ったところで薬が出るだけだろう。それで一体何になる。

根本解決はできないじゃないか

肉体的快楽に身を任せりゃどうなのかと思ってしまう。

どうしたらいいのか。

助けて欲しい。

  • 端的に言えば、休め、余計なことを考えるな。以上。 もうちょっというと、あなたは脳の自動操縦状態になって余計なことを考えて疲れやすい状態にある。 でもまあ、結局休んで、余計...

  • 今日も女は毒親叩き

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