はてなキーワード: キーパーソンとは
とくに海外映画でゾンビものが流行ってる理由って、単純に迷いなく殺せる(死んでるけど)相手っていうだけなんだよね。
昔なら勧善懲悪、敵は迷わず皆殺しが当たり前だったのに、いちいち雑魚一人にも人権がー人生がー家族がーとか始まってしまったことで、昔見たく気軽にザコを殺せなくなってしまった。
最近の作品はゲームでも映画でも本当にこの辺に気を遣っていて、アヴェンジャーズとかもビルとか街並みがどんどん壊れていくのに市民が一人も死んでなかったりと変なことになってる。
そういう視点から行くと日本のゲームは時代遅れで、無双シリーズなんて本当に理由なくわらわらと湧いてきては人が死んでいく光景を当たり前のように見ることができるのだけど、非実在青少年ポルノよろしく間もなくの命です。
ところがそれを逆手に取ったのがnier automataで、意思を持たない機械生命体を迷わず殺しまくってると、その内プレイヤーがあれ?と思う仕掛けに溢れている。
このゲームをやってみると、どうして海外作品がゾンビだらけになってる理由がすんなりと理解できるはず。相手から襲われるまで攻撃したくなくなってくるから。キャッチコピーのひとつである「命もないのに殺し合う」は、近年まれに見る名コピーだよな。
へーそんな視点あったんだ。って思った人は、最近みた映画、特にミュータント系の映画を見直してみるといいよ。全然死なないくせに、突然感動を盛り上げるためにキーパーソンが死んだりするから。うける。全員桃太郎な学芸会かよ。
ただ、これが命の大切さを問うかどうかは別だと思うけどね。ああ愛にあふれる美しき世界。
追記
ヤダ、このタイミングで注目エントリーに乗っかったら下の増田に乗っかったのがバレちゃう(*/∀\*)
追記追記
ちょっとまってくれ。埋葬方法とか、もちろん下地に流れる文化の違いはあるのだけど、そうじゃない流れが始まってるってことをいいたいんだ。
モンハンで狩りをする必要性が見いだせないプレイヤーは現実にいて、映画の中で悪役だからといって捨て駒のように出てきては死んでいく姿を見るととたんに覚めてしまうファンも多く存在している。
マッドマックスも過去は命を軽んじてなんぼの作品だったのが、単なるヒャッハー映画じゃなくてウォーボーイズたちに死の正当性を矛盾なく与えることができたからあそこまで評価されたんじゃないか。
そんな中で雑魚を殺しまくっていくことに段々と疑問を抱かせてくれるのがNier automataなんだって。
まずはやってみて、それから考えてみてくれ!ってこれじゃNierのステマじゃねーか!9Sと2Bのどちらに抱かれたいかなんて選べるか!
王様の耳はロバの耳的に、
増田に書いてみたくなった。
バレると怒られるかもしれないから、
(というか、俺が逆にやられたら怒ると思うから)
こっそりやってみてください。
何よりも、幹事になったということは、
集金も支払いも一手に引き受けることができるということ。
さらに、余ったお釣りは、次回のプールにするねーといってくすねると、
飲み会に参加するけど200円くらい儲かるぞ!
領収書欲しいって言う人いなければ、こっそり領収書GETもできる。
これも地味に美味しい。
勝手にラストオーダーとか言って、2次会に流して自分はサクッと帰る
なんてことも思いのままだ!
これぞまさにWIN-WIN。
以下TIPS
ドタキャン野郎が2〜3名も出ると、さくっと赤字になったりする。
そのためいくつかの方法を併用する。
・キャンセル率(5%程度)を想定して、リスクヘッジした金額を全参加者に乗せておく。
・料理のキャンセルができるタイミング以後のキャンセルは参加費を徴収すると事前にきちんと告知する。
・極限まで会場を席のみ予約+飲み放題という形で借りて、参加者数確定後に「料理を○万円分で○名分良い感じで」というお願いをする。
・日程調整
あとは、めんどくさいのが日程候補の設定。
キーパーソン(可愛い子、イケメン、場を盛り上げてくれるやつなど)に狙いをつけて
「誰が来るか」で参加率が大きく変わる。
逆にめんどくさそうな偉い人とかは
その人を呼ぶことがマストじゃなければ、ある程度、
その人来るだけで参加率が下がったり、ドタキャン率があがったりする。
・場所調整
これは、真剣度によるけど失敗できなければ「下見」しておくといい。
直接、飲みに来た客に対して、店は絶対に無下にできない。
例えば電話だと3500円からの食事コースしかないような場合も、
直接言って相談すれば2500円とかのコースも作ってもらえたりする。
・告知
告知するときは4000円の想定予算であれば、5000円とか高めで伝えておく。
人間は覚悟した金額より高いと、不満が残るが安ければ感謝される。
・早く帰る人対応
その人が飲み食べした想定金額+500〜1000円程度とっておく。
1000円ちょっとくらいなら2000円もらっておくみたいな。
お通しとかチャージ料とかメニューに載ってない金額がかかるリスクを
ちゃんと把握しておくこと。
気づけば中年のオッさんだ。
俺も経験を書いてみたいと思う。
「会社で無能扱いされたら自分の能力を悲観するより、会社に合ってない」
と考えたほうがいい。
ここからは、そういう考えに至った
この言葉が届いたら良いなと思っている。
たぶん、君が輝く職場はどっかにある。
15年前は超就職氷河期。
同時にブラック企業が大学新卒を食いつぶし始めた時代でもあった。
大学時代、何も考えていなかった俺は、
店を持って自立すべしという話は、
当然、考えるよりも手と体を動かす仕事。
終わらない仕込みの山と料理長の怒号。
風俗に通うが勃つこともできず、
嬢の胸で泣いて過ごす日々であった。
「お前のような奴は何をやっても続かない」
「根性のない奴は一生負け続ける」
2社目:WEB制作会社
1社目を辞めてから3年間、自宅療養になった。
手伝って欲しいと言われた。
話してて賢いと思ったからとの事だった。
取り扱ってる会社だった。
先輩と1つ案件を回し終わったら、
次からは一人で全部やらされる事になった。
この仕事を支えた。
求められれば面白くなり、みんなの期待に応えたくなってくる。
完全に身バレるので書けないが、
気づいたら社長の次に高給取りになっていた。
この職場では、明らかに俺は有能であった。
3社目:広告代理店
もっと大きい仕事、もっと社会にインパクトのある仕事がしたかった。
そこで待っていたのは、
繰り返される板挟みと調整。
「鬱病持ちとか人事なにやってたんだよ」とか
「部門結成以来のババを引いた」とか
妻子がいたので1社目の時のように長期休養は取れなかった。
地味なBtoBや自治体や役所のWEBコンサルを専門でやっている会社。
クライアントが定時なので、
常駐勤務ならは同じような勤務体系でいけるでしょう。
と、勧められての事だった。
実際、朝は9時に出社。18時には全員退社する職場だった。
前職や前々職で作った人脈やノウハウは、
代理店の使い方も慣れていた。
発注される側の苦悩を味わっていたので、
先回りしてキーパーソンに見せるなど根回しなどを行った。
時代感ともあっていたのか、
案件受注額は毎年倍倍と膨らみ、
本社の規模は3年で5倍以上に大きくなった。
この職場では、俺は再び有能になった。
5社目:個人事業主
好きなことだけをやっていける。
やりたくない仕事は受けないこともできる。
全然稼げてないし、
そこそこ貯金したので5年くらいは
収入なくても食っていける。
ここで結果をあげられるかどうかは解らないが
もう会社に振り回される事はないだろう。
もし、今「無能」と言われて苦しんでる人がいたら
色々と動いてみたら良いと思う。
無能と言われるような状況に身を置くのはやめたらいい。
1 学年だよりはどこかに貼っておけ
特に行事予定と集金。学年だよりで重要そうなイベントはスマホのカレンダーかリマインダーに入れておく。
自分はGoogleカレンダーからGAS使って毎朝Slackにリマインダーが飛ぶようになってる。
学年だよりにはその月にやる単元がのっている。図工の用意なんかはそこを見て教科書を開けば一発で分かるし、最近の学校はちゃんと1ヶ月前には便りを出すか連絡帳で知らせてくれる。
そうじゃ無いと言うことはただの怠慢だから担任から校長に意見をあげてもらうか、2学期の終わりにある学校評価の保護者アンケートで書いておく。
2 お便りはとりあえず写真をとっておけ
あそこはペーパーレスとは無縁だ。おびただしい量の手紙が来る。特に1年生のはじめは毎日学年だよりが来る。
忘れるし、買い物行ったときに揃えるモノが分からなくなるから写真とっておけ。
あとは学年が始まった最初に配られる、年間行事計画は絶対に写真をとっておくこと。授業参観の予定が1年分出ている。さすがに半年以上前に出ていたら休みの調整は出来るだろう。
3 教科書を一緒に見ろ
子どもがやっている勉強を把握していない親はダメだ。教科書見ろ。国語は音読を聞けばよいが、他の部分は教科書を開かせろ。今日やったところを開かせるだけで良い。それ以上聞く必要は無い。
〇〇くん、さん、多く出てくる困りものはキーパーソンだから、その名前だけは覚えろ。そして1月くらいにそれとなく「来年度のクラスで~さんと一緒はイヤだって本人が言っています」と担任に伝えろ。6年も同じだ。中学1年のクラスを考えるのは小学6年の先生だ。
勉強の内容も把握できるから話はしっかり聞け。スマホ見ながら、夕飯作りながらではなく、面と向かって5分取れ。
連絡帳は子どもが見せないことがある。封筒に入れて大げさにして渡せ。
最後に一筆「校長先生にもご意見をお伺いしたいのですが、お電話差し上げても構いませんか?」と書けば絶対に校長には伝わる。
なお、ここで校長が「いつでも構いません」と返事をくれるか、担任から「校長がこういっておりましたので、お電話は不要です」と返事が来るかで校長のレベルが分かる。
いざという時はママじゃなく、パパが出動しろ。もしくは2人で出動しろ。2人で出たときはどちらかは騒いでどちらかは冷静になる役割分担をしろ。
子どもの一生に関係する6年間だ。真っ当な意見ならどんどん言うべき。ここで騒いでも仕方ない。あなたの子どもは画面の向こうでは無く目の前にいるのだから。
追記:
うおおおお何かバズってますね!
でもちょっとうれしいぞ。それにしても、遅レスだよね。すまんそ。
で、なんで2016年「テレビ屋さんの映画」の時代が終わるの?って聞かれちゃったよ。
そうなんだよ。一番メインの話題が抜けちゃってたよ。
二つの事実を述べて、だから終わりだよ、というつもりだったんだ。
1、に関しては過去10年くらいの映画興行収入を分析して、あれこれ言おうと思ったけど、でもこれ言わずもがなだよね。
というか、コメントで指摘しているひともいるね。表を描いたり、なんだりが大変なんで割愛するよ。
2、に関してだけ話すよ。
映像コンテンツとしてアニメのはなしをするんだけど、これ、今、日本発で世界で売れる映像コンテンツの筆頭だからね。
映画はアニメが席捲しているので、さぞアニメ業界は潤っているんだろう、と思っていると、秋にテレビ・アニメの延期が相次いだ。
ここの謎解きは岡田斗司夫×山本寛がやっているので、深入りしない。
日本のアニメをダメにしたのはあいつらだ! 業界のタブーを本音でぶっちゃけ解説
ここで重要なのは今、外国(中国)からアニメに資金が入ってきている、ということ。
でも、話したいのはその先。
中国の人たちは高い授業料を払ってきたけど、その甲斐あって知恵もついたみたい。
中国企業が日本のアニメーターを爆買い!?=「つまり金ですべてを解決できる」「でも素晴らしいストーリーがなければ人気は出ない」―中国ネット - ライブドアニュース
これ、十年くらい前から半導体、電機業界ですでに起こっていることだよ。
外資が優秀なエンジニアを破格の報酬で引っこ抜く(サムソンなんか有名だよね)。
今後もアニメに限らず、日本発のグローバルで勝負できるものが出てきたら、中國は、真似できるものなら真似する。
おいそれと真似できないものであれば、できるキーパーソンをかっさらっていくと思うよ。
過去、造船、鉄鋼、電機、半導体と外国にやられてきたけど、これらの業界単位では大きすぎてアニメとは比較しにくい。
昔のガラケー
↓
↓
きっかけ:i Phone
その後の展開:国内の通信会社に囲いこまれて、日本市場にとらわれていた日本のメーカーは、グローバル市場を視野に入れた中韓台メーカーに敗北した。
携帯をつくっているメーカーの今のアニメスタジオみたいだった。
ドコモ、AU,ソフトバンク、それぞれ季節ごとにラインナップを揃えるんだからエンジニアは大変だったよ。消耗戦、と呼ばれている。
今の映像コンテンツ
↓
↓
きっかけ:?
その後の展開:?
あれっ、両方とも総務省が出て来たね。でも、偶然だろうね。
ここで力尽きたよ。
新海作品は一通り見てきたから、冒頭のCG合成したキラキラ空から、時空越え、引き戸カット、不思議なメール(アプリ)と「新海誠の引き出しってこれしかないのかな」って心配になりつつも、
辻褄が合わないとか性差別的とか釣針モロバレとか野暮なことは呑み込んで、それなりにキュンキュンしながら見てたんだけど、
夕焼けバックでめっちゃ綺麗な初対面シーンなのに「まだやることがある!」とか言った瞬間に冷めた。
"ある日男女が入れ替わる"だけなら「何かの偶然が重なってひょっとしたらあるかも」だけど、
"その2人が時空も超えてて、協力して歴史を変える!"までになると「そんな偶然とご都合主義はどんな並行宇宙にもありえんだろ」と。
安い正義感なんて混ぜず、思春期らしく「人命より私たちの恋の方が価値がある」とか思い込んでたらついでに村も救ってた、ならまだ良かったのに。
なぜかキーパーソンに祭り上げられてる頑固な村長を説得するくだりとか、爆破やら放送ジャックやらの犯罪行為を描写する時間で、もっと普通の日常を紐解いてたら「いつかどこかでありえたかもしれない神秘」感も高まっただろうに。
言ってしまえば「秒速5センチメートル」が良かった。
わかりやすいヤマがない、オチもハッピーじゃない、イミがあったかもわからない。
でも日常ってそういうもんだし、だから感情移入できて、そういう日常をがんばろう、と思える。
「君の名は。」を楽しく観れた人が「俺もどこかの女子高生と入れ替わらないかな」って言うけど、さすがに「入れ替わったら俺も村救うんだ!」って思わないよね?
躁うつ病は、一度発病してしまうと“体質”に近いところがあるので、高血圧やコレステロールの薬と同じ感覚で薬を飲み続ける必要があります。躁うつ病を再発させずに生活している人は服薬を怠りません。
配偶者でも上司でも両親でも構いませんが、ライフスタイル全般に手綱を握ってくれる人がいると心強いです。一人では躁鬱の気分に流されてしまう人でも、キーパーソンになる人が制御してくれるなら、症状も社会的問題も軽減できます。
躁状態になってしまうと他人のアドバイスをあまり聞かなくなるものですが、それを差し引いても有利です。反対に、唯我独尊の人は医師の勧めにも周囲のアドバイスにも耳を貸さないので、何度も何度も再発を繰り返して身を持ち崩すことが多いように見受けられます。
逆に言うと、社会的に孤立してしまった躁うつ病の患者さんの再発防止は難しい、ということです。
ほかの精神疾患にも言えることですが、不規則な生活リズムや寝不足はリスクファクターです。再発を防止している患者さんの多くは、生活リズムが狂ってしまわないよう注意深く暮らしています。
仕事を失うと経済的に困るだけでなく生活リズムも乱れやすくなってしまうので、仕事、とくに規則的な生活を約束してくれる仕事はあったほうが有利です。好きな時に働ける職業の場合も、ワークスタイルを規則正しくできれば対処できます。
……といった特徴をおおむね揃えているように思います。
これらの条件は発症して間もない頃は成立しやすいものですが、長いこと病気を放置し、人間関係や社会的生命を脅かされるにつれて難しくなっていきます。だからこそ躁うつ病は早期発見・早期治療が望ましい病気なのです
http://www.tm2501.com/entry/Dokusin_man-no-Bad_life
シロクマさんは、青二才はもう手遅れだと言いたいんですねわかります
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160510/1462865729
会場に着いたのは17時半頃。マルイ2階入口からエスカレーターで9階まで上がり、階段で11階まで登りました。
階段で登っている時は驚くほど静かでシンとしていて、本当に公演があるのか?と不安になってしまうほどでしたが、11階に着いた途端ざわざわとにぎやかな声が。
会場手前では入場を待っている人や、椅子に腰掛けてのんびり待っている人でいっぱいです。
奥に進むとトレーディング商品を購入した人達が交換をするスペースがあり、ごった返していました。
そこを通り抜けると物販フロア。ここではチケットを持っていなくても買えます。
まずは事前に買ったトレーディングブロマイドセットを引き換え。
次に物販コーナーに並びました。と言ってもまったく混んでおらず、すぐに会計へ。
在庫は売り切れなし。素晴らしいです。
パンフと個人ブロマイドをいくつか買い、持ってきたバッグにしまって開場を待ちました。
トレーディングブロマイドは何が来ても大事にしようと思っていたので交換はしませんでした。
18時になり入場開始。
ですが、18時30分までは椅子には行けず狭めなロビーで待つので、30分まで外で待機していた方が良さそうです。
今日の席は2階席3列目通路寄りです。シアター1010の2階席は初めてでした。
シアター1010の公式サイトをよく見ると分かりますが、転落防止の柵があります。
ここはなぜか上手とセンターブロックの間、センターブロックと下手の間の柵だけ高く延長されています。
2階席で通路寄りになるとこれがもれなく視界に入ります。
公演が始まるとまっっったく気になりませんでしたが。むしろ脳が柵だけ透過処理をしてくれました。
19時、公演開始です。
冒頭は本能寺炎上から。明智光秀と森蘭丸の対峙から始まります。
二人のやりとりを眺めるように宗三左文字が登場。
声にびっくり。ゲームで聞く声によく似ています。役者さんすごい。
オープニングはまさかの刀剣男士そろい踏みによる生歌でした。うわーかっこいい!!
あ、これはにやける…!と頬の内側を噛んでぷるぷる震えてしまいました。
声が!びっくりするほど声優さんに似ています。声帯コピーの技を持っています。確実に。
所作が美しく、優雅。役どころは山姥切国広のサポート兼保護者のような相方と言った感じ。
序盤で「だいに、第二部隊が…」と台詞を噛んだ三日月でしたが、初日ならではの緊張感ですね。お茶を飲み、酒を飲み、茶菓子を食べ、マイペースな三日月ですが、戦うシーンは流石の一言。とにかく麗しい。ひらひらと狩衣を捌き階段を飛び乗り、立ち回ります。
・山姥切国広
これで綺麗なんて言うななんて言う方が無理。美しい。
ボロ布を常に頭からすっぽり被ったままですが美しい。
殺陣も見事。鞘を盾のように使う戦い方に技を感じました。
初期刀で当初は近侍であったものの、過失から近侍を降りている経歴持ち。審神者からまた近侍の命を受け苦しみながら奮闘する役です。ゲームをよく勉強してこられたのか、話し方が声優さんにいました。
・宗三左文字
これまた麗しい!!佇まいが可憐で優雅。けれども殺陣は迫力満点。
2階席からでもたまに見える素足ががっしりといているのが分かります。
本能寺で悩み、苦しみながらも不動行光を支える役。
・江雪左文字
戦いは嫌いですと言いつつ敵をなぎ倒す姿は鬼神。
小夜を案じ、左文字長兄としての優しさを見せる江雪。
終始取り乱すことなく常に落ち着いた動作が印象的でしたが、仮に真剣必殺されたらみんな泣くしかないと思いました。
・小夜左文字
スーパーアクションスター小夜ちゃん。短刀を操り、足技を繰り出し、バク転します。
一番身のこなしが素早いです。観ていて楽しい小夜ちゃん。
・薬研藤四郎
宗三の相方的な立ち位置。へし切り長谷部に対し「その名前、俺は嫌いじゃないぜ」と言ったり、不動行光を気にかけたりとコミュ力高し。
・へし切長谷部
一番面白い人。馬当番をこなします。近侍に再任命された山姥切国広にジェラシーします。
紅白戦では燭台切光忠と対戦。大柄な光忠に対し、斬り合いを軽やかにこなします。
信長を守るために光秀を討とうとする不動を、背後から斬りかかろうとする姿が印象的でした。
・不動行光
本作のキーパーソン。演技の一つ一つが迫真に溢れていて素晴らしかったです。
再開した蘭丸を抱えあげてくるくる回転する不動くんは本当に本当に嬉しそう。
序盤はよたよたしていた不動くんが、終盤で強く成長した姿に感動。
・一期一振
物腰穏やかな話し方に加え、凛とした殺陣。立っても座ってもサマになる一期。
台詞はさほど多くないのですが、無言の演技が出来る方だとお見受けしました。
殺陣はダイナミックで鮮やか。ラスト、傘を持って挨拶をする仕草が紳士然としていて素敵でした。
・鯰尾藤四郎
唯一の脇差だから年少組に入るのかと思いきや、小夜と一緒にいる時は保護者らしく振る舞う鯰尾。
脇差と足を使い素早い身のこなしで演じる殺陣が印象的。背後から忍び寄る鶴丸に振り向かないシーンはアドリブかな?はきはきとした物言いがゲーム版とよく似ています。馬糞は投げません。5月7日が役者さんのお誕生日とのことだそうで行きたかったなあ。兄弟だからか一期と一緒に戦うシーンが多いです。
・燭台切光忠
食べ物担当。毎公演、彼が提供する食べ物は違うそうです。その場面は毎回アドリブですね。
殺陣はダイナミックそのもの。にもかかわらず格好良さを忘れない戦い方が燭台切らしいです。鶴丸とよく一緒にいます。仲がぎくしゃくしそうな本丸を見て二人で紅白戦を提案するなど年長刀としての役割を認識しているようです。
・鶴丸国永
重くなりがちな本丸の賑やか担当。落ち込む山姥切の肩を叩いて慰めたり、不動の甘酒を欲しがったり、細かい演技が光ります。
戦闘は、太刀を肩にかけて飄々とこなすかと思えば豹変して雄々しく闘います。
敵に放つ掛け声が一番荒々しく、男らしさを感じました。
◼︎個人的に印象的なシーン
迫真の演技は圧倒的。死んでいるはずなのに生きようとし、まだ尚信長を守る姿は
・光秀全般
光秀でないと刀剣乱舞としての本能寺の変を掘り下げられないからですね。
蘭丸と二人で登場したカーテンコールは一際拍手が大きかったです。
・三日月と山姥切
織田刀が織りなす本能寺のテーマと並行して進んでいたテーマだと思います。
三日月が月を見て「おぬしも月を照らす陽の光となれ」と山姥切に投げかけるシーン。
それで山姥切は近侍の決意を固めます。その後窮地に陥った三日月の助けに入り山姥切は
「月(=三日月宗近)を照らす陽の光となる!」と宣言します。三日月は「ずいぶんすすけた陽の光だな」と応えるわけですが、熱い。少年漫画のようです。
これ以前の場面の紅白戦で一騎打ちになった時もしつこく追いかけてくる三日月に山姥切が「このクソジジイ!」と叫んで立ち向かうシーンも熱いです。
ラストで三日月が自らの破壊を匂わせる台詞がありましたが、あれは現実にならないとほしいと思います。
刀ステの山姥切国広は仮に三日月が折れたら二度と立ち直れない気がします。
◼︎全体の感想
2.5次元は初めての鑑賞ですが、エンターテインメントに優れていて素晴らしい出来栄えでした。
初日は友人が当選してくれて入れました。6日に自力当選したのでもう一度観劇できます。
今回は二つのメインテーマを重点的に観たので、次回は別視点から楽しみたいと思います。また思うところがあったら感想を書きます。
一時期、ラブライバー界隈で話題になった劇場版ラブライブ!の批判記事があった。
それは、おりあそ氏による
「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html
である。
自分はTVアニメ第2期以来ラブライブ!という作品にうんざりしており、ほぼ既に内容に希望を抱くことを諦めた立場だった。
そのため、劇場版の内容を目の当たりにしても、2期の調子から続きを作ったらこんなものかという程度に軽くとらえていた。
批判記事についても早い段階で拝読の機会を得ており、概ね同意はしたのだが、批判へ寄せられた賛否両論の意見の軽さと2期以来の作品の現状の救いようのなさに呆れていたこともあり、あまり触れないようにしていた。しかし、ラブライブ!(以下ラブライブと表記)という作品が何と言おうとフィナーレを迎えようとしている今になって、少しは気分が落ち着いたこともあって改めて自分なりに読み解いたものを記しておこうかと思う。
彼の批判文の序盤はTV第1期から劇場版の終わりに至るまでの説明なので割愛。その直後の文章から批判と問題提起が始まる。
しかし、アニメ『ラブライブ!』のラストを飾るイベントが、このようなものであっていいはずがないのである。
問題点を明確化するために、3年前に現実世界で開催されたあるライブイベントと対比してみたい。それは「ゆび祭り ~アイドル臨時総会~」といって、普段はライバル同士である人気のアイドル10組が一堂に会し、次々にライブを行うというイベントであった。このイベントが話題となった最大の理由は、指原莉乃という当時AKB48で人気を急上昇させていたメンバーが自らプロデュースをしたことにある。つまり「ゆび祭り」は、μ'sが企画してライバルであるスクールアイドルを集めた、劇場版のクライマックスを飾ったあのお祭りと非常によく似たイベントだったと言えるだろう。
実は「ゆび祭り」は感動的なイベントであった。それは何故かというと、指原莉乃というアイドルの人生物語を象徴するイベントだったからである。もともと指原は故郷の大分県において、熱狂的なアイドルファンとして育った。モー娘の全盛期に小学生時代を過ごし、様々なグループのライブに通い詰める重度のアイドルオタクになったのだ。そしてアイドルへの憧れが高じて上京、自分自身がAKBのメンバーとなり、ブレイクを果たしてこのようなイベントを企画できるほどの地位に登りつめた。つまり「ゆび祭り」は、指原のアイドル愛が余すところなく表現されたイベントであり、アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現したからこそ、感動的なイベントだったのである。
この部分、ある意味では三次元アイドルへのアンチテーゼ的な役割が求められる二次元のアイドルアニメというジャンルの批評に実在アイドルのAKBを持ち出したきたことで一瞬、辟易した読者も多いことだろう。自分もその一人であったが、よく読んで考えれば、その意図も分かるものになっている。
実際、AKB指原がAKBとしてデビューする以前からアイドルオタクだったことは有名な話らしくいろいろとエピソードや写真が残っているようである。
そんなアイドルオタクが、一応トップアイドルとなり、事務所などの枠を超えて自分がリスペクトしてきたアイドルを集めて「ゆび祭り」という大きなお祭りを主催したことは確かに快挙である。
そして、この「ゆび祭り」というイベントのチケット代は指原の愛称「さしこ」にちなんで345円という特価であったらしい。自分の好きを極めて走ってきた上で積み重ねてきた成果を現在のアイドル達やアイドルオタクに還元するという意味で確かに素晴らしいイベントだったといえよう。
それに対して、劇場版ラブライブにおけるお祭りが比較されながら述べられているのが以下である。
では、アニメ『ラブライブ!』のストーリーを締めくくったあのお祭りは、どのような物語性を内包していたのだろうか。筆者の考えでは、残念ながら「どのような物語性もない」のである。あのお祭りでは、「スクールアイドル」がキーワードになっていた。しかし今までの『ラブライブ!』で、「スクールアイドルはいかにあるべきか」とか「スクールアイドルの未来」とかいったことが主題になったことは一度もない。穂乃果たちは、今まで他の(A-RISE以外の)スクールアイドルのことなんかちっとも考えてこなかったのである。最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない。
指原には長年アイドルオタクとしてアイドルに憧れ続けてきた上でトップアイドルになり、先述のお祭りを主催したというプロセスがあるのだが、ここで述べられている通り、μ'sもとい穂乃果にはそんなプロセスはない。
廃校を阻止しようという目標が最初に生まれたが、スクールアイドルという手段は後付けであり、(スクール)アイドル活動は積み重ねてきて目的となるような価値としては弱いものだったといわざるをえない。TVアニメ第1期途中で廃校問題が有耶無耶になり、自分達はアイドル活動をこの9人でしたいんだという方向に物語は動いたのだが、それも行き当たりばったりで賛否両論であった。作中でもまだ比較的まともだった頃の矢澤にこに「穂乃果の(アイドルへの)好きはいい加減」と批判されている。
また、自分達のスクールアイドル活動には目を向けても、他のスクールアイドルに対して何らかの注目を向けたのは穂乃果にアイドル活動をさせるきっかけを作ったA-RISEくらいであり、それも主に廃校阻止や後のラブライブ出場&優勝という目標を達成するための当面の壁やライバルとして注目された程度に留まっているため、おりあそ氏の批判にある通り、指原のような他のアイドルへの想いが高じて開催につながったイベントと比較すると、劇場版で急に穂乃果やμ'sの「スクールアイドル」に対する想いが打ち出され、スクールアイドルを集めてイベントをやろうと言い出すのは唐突であり、付け焼き刃だとか行き当たりばったりといった表現で揶揄されても仕方がないものといえる。
一方で、そのイベントや発想自体は悪いものではない。スクールアイドル全員で楽しい大きなお祭りをしましょうというのはとても魅力的で素晴らしいものである。しかし、作品上仕方ない部分もあるとはいえ、「スクールアイドル」全体のお祭りへの想いを一旦は語り、イベントを開催してみたらμ'sしか目立っておらず、他はバックダンサーに近い扱いというのは、劇場版という大きなお祭りという面を考えてもどうにかならなかったのかとか、他のアイドルやファンへの還元の面でも現実のアイドルに大きく負けているのはどうなのだろうとか考えてしまう。
したがって、あのスクールアイドルのお祭りは作中における開催への過程や内容の意味だけでなく、ラブライブの劇場版というお祭りの観点でも説得力と盛り上がりに欠ける粗末なものだったといえるのではないだろうか。
今回の劇場版ラブライブ!でとにかく目につくのが、このように行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである。映画の前半では、脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、そこで何かを得ることはなく、後半ではまったく無関係なストーリーが始まってしまう。後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはずだが、そういったことは全然なく、ライブ場所を求めて街を探検したりアメリカ人と交流したりするだけである。また、ニューヨークで迷子になった穂乃果は、彷徨っているうちに一人の女性シンガーと出会い、ホテルまで連れ帰ってもらう。この女性シンガーにはいろいろと不思議な点があり、穂乃果以外のμ'sメンバーには見えないなどの設定があるため、「未来の穂乃果」だというのがネット上では最も有力な説である。この女性シンガーは帰国後にも一度穂乃果の前に現れるのだが、それっきりストーリーからは退場し、穂乃果に思い出されることもなく、謎も一切明らかにならない。映画のキーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクターは、何のために出てきたのか本当に謎なのである。他にも、映画冒頭で描かれる、穂乃果が水たまりを飛び越えるという過去エピソードがこの映画のストーリーに全然そぐわないなど、とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない。「物語性がない」と言うと、『けいおん!』なんかの例を持ち出してくる人がいるかもしれないので予め書いておくと、『けいおん!』にはストーリーはない(大したことは起きない)が、物語性はある(一貫した主題がある)。それに対して劇場版『ラブライブ!』には、ストーリーはあるが物語性がないのである。
と、ここも個人的に意見の相違はないのではあるが、突っ込みたい点が何点かある。
そもそも行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーというのは劇場版に限らず、第1期から指摘できる問題点であり、ラブライブというよりも花田十輝氏の脚本によく見られる傾向ともいえる部分である。その点を、恐らくブログ著者は第1期を評価したい立場であるために触れないでいるのだろうが、後々2期や劇場版でそれが起因して物語性やキャラクター性の破滅につながっていることは無視できない。
たとえば2期においても用いてプロジェクト開始初期から掲げていた「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。それが本来はコンテンツ全てを統括する一つの物語性やコンセプトになるべきだったし、アニメ化以前は細かなキャラクター設定のブレはあっても、その点においてのブレはなかった。個性や事情を違えるキャラクターが集まった上で廃校阻止やアイドルになるといった目標を叶えること、また結果的に初期からそのコンセプトやキャラクターを支持してきたファンの思いを叶えるという意味にもつながってくることになる。
しかし、アニメにおいてその作中の物語性は破棄された。廃校阻止という目標がプロジェクトを束ねる大きなコンセプトの一つだったが、それは第1期で大会に出たわけでもなく他のアイドルと大々的に競ったわけでもなく達成される。その後μ'sは文化祭における穂乃果の件もあり活動休止となることもあり、せっかく大きな目標を達成できたのにカタルシスが弱い。
アニメラブライブに肯定的なファンの間では「アイドル活動で廃校阻止というコンセプト自体に無理があるから、1期でそれを消化したのは悪くない」という見方があるが、無理があることを簡単にあっさり達成・消化させてしまったたものをよしとする神経や論理にこそ無理があるように思える。
また、裏を返すと、大会に出ずとも廃校阻止につながるくらいにスクールアイドル活動の影響力や効果が大きいことを描写してしまったともいえる。さらに2期では、次に開催された大会に出場し、プロのアイドルを上回るとも言われていたA-RISEをも倒し優勝を達成してしまったのだから、その後のμ'sの人気や知名度は絶大なものとなっていただろう。少なくとも地元東京や関東地区では。
脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行きライブを行い、間違いなく関東の空港である日本の空港に帰ってきたところでファンに出待ちされて知名度を得た自分達に驚くというシーンについてであるが、既に廃校阻止や大会優勝の時点で雑に考えてもかなりの人気と知名度を得ていたはずである。ましてや地元であり、さらに出迎えたファンは同年代であったから今さら驚くことではないはずだが、それに初めての体験であるように驚く描写を入れてしまったことで、劇場版やアニメラブライブという作品自体がどの場面においても何かを得ることはなく、いつもまったく無関係なストーリーが乱雑に入れられるだけの作品だと物語っているかのようである。
続いて、ブログではそのような内容や批判を受け入れるファンの態度についての批判が述べられている。
さて、劇場版『ラブライブ!』は以上のように脚本に重大な瑕疵を抱えているにも関わらず、この劇場版が良かったという人々の多くがこのことを大した問題ではなかったと考えているようだ。ここがポイントである。もし以上で挙げたようなことがそもそも物語上の瑕疵ではないと言うのなら、それは根本的なセンスの違いだからどうしようもない。しかしそうではなく、瑕疵だとは認めつつもそのことによってこの映画の価値が損なわれないと考える人々が多くいるという、その点にこそ本質的な問題がある。なぜなら、これほど重大な物語的欠陥を目にしておきながらそれを大した問題ではないと言うのは、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という物語性軽視の態度に他ならないと考えられるからである。
『ラブライブ!』はTVアニメ第1期以来2年半のあいだ爆発的に人気を拡大し、日本の二次元コンテンツを代表する作品の一つにまでなったが、残念ながらそれと同時に、物語性をひどく軽視するファンを増やしてしまったように思う。そういった人々は、μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけであり、μ'sのメンバーに共感したり、あるいは彼女らから何かを学んだりしようとするチャネルを持たない。そしてそういった人々の消費態度は、実際に『ラブライブ!』の作品そのものに反映されるようになってしまった。その結果がこの劇場版における脚本の崩壊だと考えられるのである。
そもそも、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という擁護を持ち出すのも苦しい点がある。
何故かというと、このアニメラブライブの脚本家である花田十輝氏や監督の京極尚彦氏は自分たちが志向する物語性を作るために、キャラクター性やプロジェクトの大きなコンセプト(一貫した主題)を変更して犠牲にした経緯があるためである。(電撃ラブライブ!3学期http://www.amazon.co.jp/dp/B00BW8MRVY等参照)
いくら結果売上が出たとか人気が出たとはいっても、道理に背く大きな決断を下したからには内容に責任を負うべきである。自らが企画し原案から打ち立てた作品なら構わないだろうが、ラブライブは三社合同のプロジェクトであり、原案は公野櫻子氏であるため、彼らは作品の物語性の中枢部分に適当にメスを入れられる資格はない。つまり覚悟を持ってメスを入れてしまったのだから、それ相応の義務や責任を負わなければ話にならない。
本来あったキャラクター性や物語性を軽視した上で、打ち立てたストーリーに不備が生じ、それを擁護するために切り捨てたものを持ち出すというのは都合が良すぎるし、つまりストーリーコンセプトの変更やキャラクター性の変更の失敗を証明しているようなものである。
田舎の総合病院に赴任して老人を看ている医者だが、独り身の老後は本当に悲惨だと本当に実感した。
結婚もせず、結婚しても子供も持たずに生きようとしている人が今は多いが、現代ですらこの状況なんだから、今の20〜40代が後期高齢者になる頃にはもっと日本も苦しい国になって、間違いなく悲惨な死に方をする老人が増えるだろう。
病院で亡くなる高齢者というのは本当に哀れだ。肺炎だか尿路感染だか認知症だか分からないような状態で運ばれてくる老人がいくらでもいる。そういう高齢者はたいてい重度の認知症を抱えていて、おむつを着けられ、体調を崩したのもあって口からものを食べられず、病院では譫妄を起こして大声を出し続けている。腕のカチカチに固まった細い血管に無理矢理点滴ラインを確保しようとするものだから内出血ばかりで、看護師さんが苦労して確保したラインを自分で抜くものだから、手は縛られ、体もベッドにくくりつけられている。一日に1リットルか1.5リットルの点滴が命綱。病院食が出るも自分では全く食べられない。鼻からチューブを入れられたり、果ては胃瘻を造られたりして栄養を流し込んでもらうことになる。
今、悲惨だと思ったか?経腸栄養をしてもらえる老人はまだ幸せだぞ。胃瘻を造ってでも生きて欲しいと願ってくれる家族がいるんだから。赤ん坊に戻ったような、自分でメシを食えない老人は大抵そこでストップだ。医者が家族に話をする。「認知症に老衰もあって体力がなくなり、ご飯を食べられなくなりました。経鼻胃管か胃瘻で栄養を入れることもできますが、どうしますか」家族は言う。「食べられなくなったならそれが寿命です。このまま看取りたいです」そうするとどうなるか。命綱の点滴を減らしていく。1リットルが500ミリリットルに。500ミリリットルが100ミリリットルに。もちろん、そんな量で生きていけるはずがない。最初は大声を出して暴れていたような患者も、それが1週間も続けば動けなくなって、ひからびるように死んでいく。血圧が70くらいになったら家族が呼ばれ、死亡確認をしてお終い。
悲惨だろう?ところがどっこい、こうやって看取られるのもまだ幸せな方だ。看取ってくれる家族がいるんだから。死ぬまでお見舞いに来てくれる家族がいるんだから。認知症が進んで医者と家族の区別もつかない老婆に、同じく足腰の立たない旦那が毎日車椅子に乗って会いに来ている。神経疾患で人工呼吸器を着けられ、目でしか会話できないのに、週に1回は孫がやってくるおじいさん。そういう人はゆっくりと衰えていって、静かに家族に囲まれて死んでいく。これは幸せな方なんだ。
本当の不幸な患者とは—どんな背景であれ、見舞いに来てくれる、看取ってくれる家族も友達もいない、死ぬまで独り身の高齢者だ。
今はまだそういった「本当の独り身」の高齢者は少ない。何だかんだ言って息子夫婦がいたり、親戚がいたりして、見舞いと看取りに来てくれる人がいる。特にこんな田舎では、高齢者の友達づきあいも残っているから。だが、まれに見かける本当の独り身は、悲惨としか言いようがない。そういう老人はたいてい、市営アパートか、先祖から受け継いだ古い家に独りで住んでいる。足腰の立たない高齢者にはたいそう暮らしづらい。そのうち転んで骨を折ったり、肺炎にかかったり、今の時期だと熱中症にかかったりして(クーラーがない家も多いのだ!)救急車で病院に運ばれてくることになる。
病院でもこういう患者は困ってしまう。骨が折れた、肺炎だ、入院させて治療するのはいい。だが、家族もいない、介護サービスも利用していない老人は治療が終わっても家に帰せないのだ。最初の内はまだいいが、老人は何度も繰り返し病気になる。そのうち体力がますます落ちてきて、認知機能も衰えて、やがては独り暮らしなど全くできなくなって、やせこけてわけも分からない状態で運ばれてくる。誰が世話をするのか?介護の費用はどこから出るのか?方針を相談しようにも、親族もいないのだから病院だけで考えるしかない。もちろんソーシャルワーカーが仕事をしてくれるが、果たしてこの老人は、自分独りで生きていけない老人は、生きている意味が、楽しみがあるのか?という思いを誰もが抱える。そんな老人が治療不可能な状態になれば、家族に相談するまでもなく(相談する相手がいないのだから)ゆっくりと看取る、ということになる。わけが分からないまま、病院で誰にも見守られず枯れていく老人。
また別の悲惨さもある。子供や配偶者がいるものの、関係が良くないために世話をしてくれないパターン。90歳近くまで元気だった独居男性が、大腿骨頭骨折(老人にはよくある)で病院に入院したところ、あっという間に認知症が進行してわけも分からない状態になった。これもよくあること。隣県に住む息子に連絡を取ってみたところ、オヤジは昔からオフクロにも俺達にも暴力を振るって、家庭を顧みない人間だった。独りで暮らしているのもオヤジの勝手だし、今更世話なんかしたくない。死ぬならそのままでいい。もちろん、キーパーソンの了承のもと看取りコース。これまた悲惨だが、生き様だ。
20〜40代の若い人達に言いたい。独身生活、または結婚しても子供を作らない生活は、健康で人生を楽しめるうちは確かに楽で楽しいかもしれない。だが、あなたたちが老人になり、衰えていく時に、世話をしてくれる家族がいないと本当に惨めで不幸な死に方をすることになる。独り身は老衰スピードも速い。80歳まで元気に生きてある日ぽっくり死ねる自信がないなら、悪いことは言わないから、結婚して子供を作った方がいい。それも1人ではなく、2人3人を大切に育てるんだ。3人も子供がいれば、あなたと配偶者が衰え死んでいく時に、それを見守って支えてくれる人は、結局家族しかいない。
ブコメ返信2
あらためて断っておきますが、全て自分の理解に基づくものであり、元エントリを誤読してないことは保証しません。
誤解に基づいて代弁されることほど迷惑なこともないっすよね。
この指摘、なぜ的外れと言ったかというと、夫側の姓を名乗りたい夫婦のみにフォーカスした議論だからです。
現状において「なぜ夫側の姓に決めたのか」とあーだこーだ聞かれることは、少なくともその逆の場合と比べればはるかに稀だと考えられるからです。
これは、マジョリティ故の特権にほかならない。夫婦別姓選択制度の導入によって"迷惑"を感じうるのは、そうした層なのです。
「迷惑を感じる人も存在しうる」ことが示唆できれば用を為す議論なので、自分としてはあまり気にしていません。
わざわざ厳密な定義をしなくとも「迷惑を感じる人は存在しない」を示すことの困難性は想像できるかと思います。
逆に、仮にこの議論が「迷惑を感じる人がいるから制度導入自体をやめろ」という話であれば、どれだけ多くの人間が、
どれだけ厳密な定義において"迷惑"を感じるかについて具体的に示したところで、その主張に正当性を与えるとは思いません。
それは、マジョリティによるマイノリティの抑圧にほかなりませんからね。
id:Lhankor_Mhy サン:個人的には増田の読み方にかなり近いが、「俺が許しても世間が許さないかもねえ……」という読み方をされる文章ではあると思うよ。これは社会的抑圧の問題なわけだしね。
この件で不思議なのは、元エントリに社会的抑圧の権化として登場する二人のうち、片方の存在がまるで無かったかのように扱われていることが非常に多いことです。
字面のインパクトとは裏腹に。そう。「ダルメシアンの皮を剥いでコートにするようなギャグみたいな更年期のババア」です。
このババアは、夫婦別姓強制ババアなのです。糞フェミババアなのです。彼女こそ「今までどおり夫姓を名乗りたい夫婦」に降りかかる"迷惑"であり、元エントリのキーパーソンだと思ってます。
でも皆が言及してるのは夫姓強制ジジイ。彼の言動だけ、夫婦別姓を望む人々に対する抑圧だけが着目されて「太宰メソッドだ!」なんて言われてます。
確かにその抑圧こそ夫婦別姓選択制度導入において最大の課題であり、そういう太宰メソッドを使う反対派も多いんですけど、そこの話じゃないのはタイトルから明らかじゃないですか。
まず最初に,湯川さんのご冥福を祈らせていただきつつ,後藤さんの一日も早い生還を祈ります.湯川さん・後藤さんのご家族には,とてもしんどいことであることでしょう.
さて,2014年夏に26歳の大学生がイスラム国に行こうとしていたというニュースで,キーパーソンとなっていた“元大学教授”が,今回,ニュースによく登場しています.共著書のあるU先生は全幅の信頼を置いているようです.そのことを鋭く批判していたI先生も,今回は,“元大学教授”への批判よりも人命をたっとんでおられるようです.当然のことと言えましょう.
しかしながら,僕は思いだすのです.2014年夏にアメリカのジャーナリストが処刑された時に,“元大学教授”が何と言っていたかを.
> どうも最初にISカリフ国が発表したように軍人でもあったようだ。
http://twitter.com/HASSANKONAKATA/status/502114384395526144
> 私は出回っている写真の真偽は解りませんが、
http://twitter.com/HASSANKONAKATA/status/502119043399036928
> "@Y????: 最初からISが拘束ということですかね。
> RT @HASSANKONAKATA: "@Y????: "
> 他の勢力から買った後で独自に調べて軍人と判断したのかも。
> 軍装している写真は本人でしょうか?
https://twitter.com/HASSANKONAKATA/status/502121844669825024
“元大学教授”が「軍装」と思っているのは,戦場ジャーナリストなら誰でも着用しそうなヘルメット・防弾チョッキのことのようです.ここまでなら「軍事オンチ」と言うことで,生暖かい目で微笑ましく思って居れば良いのかもしれません.ですが・・・
> 信心深いカトリックなら敵のために祈りながら殺されて当然。
http://twitter.com/HASSANKONAKATA/status/502212670624251904
> "@q????: 「信心深い○○なら敵のために祈りながら殺されて当然」って
> 無敵だなw → 信心深いカトリックなら敵のために祈りながら殺されて当然
> http://twitter.com/HASSANKONAKATAstatus/502212670624251904…"
> キリスト教徒なら誰でも知っているイエスsの言葉。他の宗教ではそんなことはない。
http://twitter.com/HASSANKONAKATA/status/502221054975029249
本人は真剣に,真心でそのように思っているのでしょう.また,政治力のあるアカデミックらしく,相手を言いくるめることには長けているようです.この人が,あたかも賢者であるかのように扱われているマスコミ・アカデミックの現況に,僕はとても深く,憂慮させられます.
みなさん,この“元大学教授”のこの事実を,忘れていませんか.
https://twitter.com/dead_to_isis/status/516059407013011456
http://observers.france24.com/fr/content/20131030-journaliste-japonais-djihadistes-syrie-photos
例えば、今期放送中の『グラスリップ』。未来が予知できる二人の少年少女がその仲間たちを介して様々な臨死体験を重ねて時かけよろしく未来を変えていくという内容(と筆者は思い込んでる)だが、筆者はカタストロフィー論に特に秀でてる訳でもないので割愛する。
で、何が言いたいのかと言うと、折角のファンタジー要素があんまり役立っていない上に清涼感が場全体を包み込んでるというのに
甘酸っぱいといえば多少語弊はあるが、要するに恋愛というジャンルにおいてファンタジー要素は必要ないのでは?と思う事がある。
ここの会社の前作、西村純二監督でという意味において、『true tears』では、乃絵という少女がやはり電波であった事が実はあまり意味を為していなかった。
その上彼女は別にシナリオ全体のキーパーソンでもなく、道先案内人という役柄でも誰かに当てつけるような恋のライバルであったわけでもない。
ただそこにいただけである。
その意味から察するに、彼女自身がファンタジー要素なのではないかと時々思う事がある。
彼女は主人公ともう一人のヒロインを繋げるキーパーソンとして存在していた訳ではないが、少なくとも主人公の優柔不断な態度を改めさせる重要人物という地位にあったのかもしれない。
乃絵という少女は結局鶏と話す事が出来ると言ったり、また兄に主人公の恋人候補を突いて貰う役割を担わせるだけに存在していた、引っ掻き回し担当だとするならば、グラスリップの未来予知もあながち不必要ではないのかもしれない。
要はこのファンタジー要素も不必要ではない、何かを成し遂げるためにあえて不確定要素を残しておいたのではないだろうか。
少なくとも本編の主人公透子はこの未来予知に同じくそれを覗く事が出来る駆もそれによる繋がりを意識しているのだから、恋愛アニメにおけるこのファンタジーはある一定の成果を齎すのかもしれない。
ただ、恋愛アニメ、つまり『君に届け』とか『好きって言いなよ。』のような完全な青春ドラマにはこの要素は必要ないし今後も出て来る兆しはない。
恐らくそれが必要になるのは、恋愛に対してある一定の共鳴や共感を覚えるために必要な不確定のファクターが作用する時だけであろう。
これもずいぶん前に読んだ切りだから細部はごめん。
あとネタバレ。
・
時代は書かれた時代からすれば未来、イギリスが戦争中なので、少年達が疎開することになりました。
どこへかは不明。推察するなら南米かな。
でも途中で敵機の攻撃を受けて飛行機は墜落。
飛行機は爆発などせずにどうにか無人島に不時着する事が出来た。気候やなんかを鑑みるにマリネラの近くだと思われる。
大人達は全員死亡。
つまり、着陸してすぐに外に出た子供達だけが助かり、さあ、無人島生活スタートです。
大きな子で小学校高学年、小さな子だと小学校入学直前といった年齢構成の数十名は、さて、とりあえずどうするか悩む。
まずはリーダーだ。
リーダー候補は2名。
巻き毛の美少年ラーフ。
メインはこの二人、それに我らがピギーをくわえた三人がキーパーソンとなり話を進めていく。他にもちょこちょことでてくるやつもいるけど割愛。
さて、少年達は厳つくて馬鹿なジャックより見目麗しく優男なラーフをリーダーに据える。
ところが、このリーダー選は結局どちらもリーダーに向いていなかった。
じゃあ誰が、と言えば、誰も、としか言えない。しょせんガキなのだ。
ガキがガキをまとめるのは難しい。
あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。リーダーの命令も基本的には聞かない。
そこで生きてくるのが(死んじゃうけど)『豚ちゃん』ピギー少年。
彼は、おそらく誰よりも『どうすればいいか』の回答を心得ている。真理を知っている。
狼煙を上げるより先に夜に備えて寝床の確保をすべき。
こんな小さな島に大型肉食獣は存在できない。
①運動が苦手。
③プライドが高い。
④見た目が悪い。
統合すると、えらそうにあれこれ言うくせに自分では働かない太った不細工、となる。
特に④が致命的。みんなが彼のことを見下して、誰も彼の言うことなんてききやしない。
ラーフも当初は彼を見下しているのだが、リーダーとして失敗を繰り返すうちにピギーの本質に気付く。時すでに遅く、ジャックは文明に決別して野生の王国を打ち立てた。
その流れでピギーは殺害されてしまう。
まとめると、ピギーは、終始ブツブツいいながら、反抗的で、非協力的ないけ好かないやつだ。だが、存在意義としては、おそらく大人である読者に、この場合の正解を明示するキャラクターなのだ。
そのうえで、その他の子供達に間違った行動を取らせる。
ストレスは溜まっていき、ピギーが呟く度に崩壊に近づいていく。
蝿の王に出てくるピギーと言う少年はおおよそそんな立ち位置のキャラクターである。
ちなみに『蝿の王』の意味も解説しておくと、子供達が暗闇に投影する原初的な恐怖のこと。
ピギーが看破したにもかかわらず、子供達は暗闇に肉食獣が徘徊しているという。
中には、捕まれた、押し倒されたという子も出てくる。恐怖は増幅され、子供達の間では、暗闇には怪物がいることになってしまう。
『幽霊の 正体みたり 枯れススキ』とかそんな感じで、結局そんなものは存在しないのだけど、文明の光から遠く離れた暗闇など、僕だって怖い。
最後には、ジャック率いる狩猟隊から脱落した少年が、一人暗闇を歩き、無用に暗闇を恐れていたことを悟る。
彼はそのことを仲間に伝えようとするのだが、少年ながら暗闇を克服した彼以外の子供達は、暗闇から飛び出してきた彼こそを暗闇の怪物と思い込み、殺してしまうのだ。
一種の喜劇ですな。やっぱり嘘なんですけど。
あまり詳細に書くと身元バレするが、自分の父は鹿児島の貧民だった。
父は5人兄弟の真ん中だったが、一番上の兄は、結構勉強も出来たらしい。
父の兄は、学力的には行けたかもしれない大学進学を諦め、高校卒業後、早々に働きに出た。
父と兄(自分の叔父)との間で、どのような人間ドラマがあったのか、自分には分からない。
多分に、兄の側には「自分も大学に行けたのに、弟のために自分を犠牲にした」という
屈折した感情があったようだ。
どちらかと言えば避けようとしている。
恐らく、父にとって、鹿児島時代の出来事は、「極貧の、思い出したくない事柄」だったんだろう。
兄との葛藤もあったろうし、また鹿児島自体保守的な風土なので、
傍から見れば
「東大の父に、東大の子供、恵まれた家庭・家系」と見えるのかもしれない。
経済的にはそうだったかもしれないが、自分のメンタリティ的には
父自身が自身の家族・家柄を嫌っていたフシがあるので、自分もその影響を受けてる気がする。
安倍総裁が「理想」とする戦前社会が続いていたら、恐らく父が東大に進学することも、
ままならなかったのではないだろうか?
あるいは、家柄優先の社会になっていたから、父や自分がいかに学問が出来たから、と言っても、
「自身の才覚だけで、大学進学・弁護士合格・タレント進出・政治家進出をやってのけた異才」
ということで、安倍総裁なんかより1億倍魅力的だ。
H:予想通り主人公がぼこられて、これまでかというところで謎の助っ人登場。さて、この謎の助っ人の正体は何だろ?バラバラにされた体の一部かなあ?それくらいしか伏線なかったし。
S:拳銃は効かない。さて、どうする?ってところで終了。軍オタがどこまでやれるか、主人公が読んでいた反物質兵器はいつ登場するのか?
H:十数話ぶりに登場のキーパーソン(つーか半分忘れてた)。果たしてどうなる?
Z:うーん、ここで漫画論かー
K:めちゃくちゃやられっぱなしで、どう考えても逆転の見込みないんだけど、どうするつもりだろう。最後は死後の世界の入り口みたいなところに来ちゃったし。
M:休載か~。いいところなのに~。意味ありげなカットで終わってるし。
漫画そのものとは関係ないけど、休載中にも関わらず、ランキング一位っていうのが微妙。作者を応援したい気は分かるけど、あくまでもこれは漫画のランキングだろ?同じ漫画に何回投票してるんだよって話。(Zも休載中は最下位になってて、再開したら元の順位に戻ったわけで。)露骨な組織票はアンチを生む→サイトそのものから他の漫画のファンが離れていく→サイトそのものがなくなる→楽しみにしている作者の漫画も読めなくなるって自分の首をしめるだけだぞ。
注:加筆修正しました
最近商業BL作品ばっかり読んでるから、たまにはネットで同人作品も読もうかなと思い立って、某ジャンルのサーチから二次創作サイト巡りをしていたときのこと。リンクを辿っていった先に、管理人が韓国人であることを明記しているBL小説サイトがあった。日本語ネイティブじゃないとこれはムリだろと思わせる豊かな語彙の小説や日記・掲示板の内容から判断するに留学生やニューカマーなどではなくて、日本で生まれ育った在日韓国人の方であるようだった。
なんかね、これちょっとびっくりしたんですよ。在日の人もBL書くんだなぁって。
いや、こんなにもアニメや漫画の氾濫する日本社会で生きている以上、日本人だろうが外国人だろうがオタク趣味に染まる人は染まるのが当然だろうし、中にはヤオイや二次創作に興味を持って腐女子や腐男子になる在日コリアンがいるってのも理性では理解しているんだけど。実際目にしてみると、なんかこう、感慨深いものがありましてね。
そうかー、在日のBL好きってのもやっぱりいるもんなんだなー、っていうか他にもいるけど明かしてないんだろうなー、としみじみしてたんですが、途中でふと思い出した。あれ、ちょっと待てよ?よく考えてみれば、数少ないながら今までにも在日韓国人が登場するBLがあったりするし、在日朝鮮人のBL作家というのもいたりするんじゃないの?そういえば私、そういうの読んだことあったような……、と。
というわけで、今回はBLと在日と私というテーマで今まで読んだ作品を振り返ってみようと思う。長いよー。私が以下で言及している作品には18禁のものもありますのでお気をつけください。
倉科るりというペンネームで、商業誌からBLを出版している小説家がいる。正確にはいた、と言うべきかもしれない。著作の中には絶版になっているものも多く、また1996年の『王様の夏休み』を最後に10年以上発刊はしていないようだから。公式サイトにも「倉科るりの商業活動は諸々の事情から不可能だと思います。時間がないのです。」と書いてあるので、今後も商業誌でBL作品を発表する可能性は限りなく低いと思う。
けれど、在日とBLというテーマを語るなら、彼女を外すことはできない。
実はこの作家さんは、コバルト文庫で金蓮花という名義で少女小説も書いている。むしろ金蓮花(きんれんか)というペンネームの方が世間的には通りがいいだろう。私も残念ながら倉科るり名義の本は読んだことがないけれど、金蓮花名義の本は小中学生の頃にわりと読んでいる。『銀葉亭茶話』、『水の都の物語』、『月の系譜』は何度も読み返すくらい好きだった。私が金蓮花=倉科るりというのを知ったのは大学生になってからだったけれど、BL読者やコバルト読者には結構有名な情報だったようで、ネットで検索するとペンネームを使い分けるようになった経緯や、その他もろもろの噂が出てくる。それらの噂がどこまで本当かわからないのでここでは紹介しない。
さて、金蓮花は1962年生まれの在日朝鮮人3世である。東京に生まれ育ち、大学も都内の小平市にある朝鮮大学師範教育学部美術科を卒業した。作家デビューは1994年、『銀葉亭茶話-金剛山綺譚-』で集英社の第23回コバルト・ノベル大賞を受賞したのがきっかけだった。この『銀葉亭茶話』シリーズは、朝鮮半島を舞台に仙人や精霊、竜や虎、人間たちが織り成す恋愛を描いた朝鮮風ファンタジー小説で、仙境にある一軒の茶屋銀葉亭にさまざまな客が訪れ、店主の李月流(り・うぉるりゅ)に身の上話を打ち明ける、という趣向になっている。
『金剛山綺譚』の金剛山は、もちろん朝鮮半島に実在する景勝地金剛山をさす。韓国人や外国人が北朝鮮国内の金剛山観光地区に観光をしに行くニュースを見たことのある人は多いはずだ。『銀葉亭茶話』シリーズの物語に登場する実在の固有名詞は地名だけではない。例えば『蕾姫綺譚』では重要なキャラクターとして李氏朝鮮建国の王李成桂が登場するし、『舞姫打鈴』のヒーローは新羅の英雄金庚信である。
ところで、学校で歴史を習う前に本シリーズを読んだ影響で、私は現在でも「新羅」という単語を見ると反射的に「しらぎ」ではなく「しるら」と読んでしまうし、「李成桂」を見ると「りせいけい」ではなく「りそんげ」と読んでしまう。私にとって、このシリーズこそが生まれて初めて触れた‘朝鮮文化’なのだった。馬鹿な子供だったので現役読者だった小学生の頃は朝鮮半島というのがどこにあるのか知らなかったし(私は当時本気で外国=アメリカであり、世界には日本とアメリカの二国しかないのだと思っていた)、儒教文化だとか在日朝鮮人だとかさっぱり理解できない上に興味もなかったので読み飛ばしていたけれど、雪華(そら)や明蘭(みょんらん)という美しい漢字と不思議な響きの名前、美味しそうなチヂミ、ふわりとチョゴリを広げて鞦韆をこぐ明朗な少女、霊山の天辺に位置する天池(ちょんじ)の聖水……どこか好奇心を刺激する異国のイメージの数々を私は大いに楽しんだのだった。特に金剛山の壮大な瀑布や峰々が鮮やかに染まる絢爛豪華な秋の描写などは、幼心にうっとりするような綺麗な文章だなぁとドキドキしながら読んでいた。金蓮花という作家のおかげで、私は隣国と幸福な出会い方をしたのではないかと思っている。そういう意味で、『銀葉亭茶話』は私にとって印象深いお話なのだった。
金蓮花自身にとっても、作家として第一歩を踏み出したシリーズであると同時に、祖国を舞台にしたロマンスであることを考えれば、『銀葉亭茶話』はやはり特別思い入れの深い作品なんじゃないだろうか。
彼女の著作のあとがきでは、自らのルーツを意識した話題が多い。北朝鮮に観光に行って金剛山の絶景に感動した話、伯母が北朝鮮に帰国した話、親戚が日本と北朝鮮と中国に住んでいるという話、子どもたちの通う朝鮮学校のお祭りのためPTAとして準備に奔走する話など。
そんな彼女がBL小説を書くときは、金蓮花ではなく倉科るりというペンネームを用いた。倉科るり名義の本では特に朝鮮半島と関連のある物語を書いたりはしていないようだ。少女小説のコバルト作家としての自分とをきっちり分けたかったのかもしれないし、儒教を尊ぶ在日コミュニティの価値観からするとさすがにBLを在日朝鮮人と明かしている金蓮花名義で出すのは難しかったのかもしれない。少女小説家としてデビューする際も家族からかなり強硬に反対されたと聞く。少女小説を書いているのがバレて家族会議で土下座までしたそうな。ましてやBLをや。
まぁ、BLを書くときと少女小説やラノベや一般漫画を書くときでペンネームを変えるのはbassoや秋月こお、榎田尤利もやっていることで、金蓮花に限った話ではないけれど、少女小説では在日ネタをふんだんに出していた人がBLではそれを一切出さないというのも興味深い話ではある。
ちなみに金蓮花名義の本に一切男性同士の恋愛や性愛が出てこないか、というとそういうわけでもない。
ここでちょっと萌え語りをさせてもらうと、『銀葉亭茶話』シリーズで私が一番好きなキャラクターは長白君(ちゃんべつくん)だった。彼は、朝鮮半島の付け根、北朝鮮と中国の国境にまたがる山(朝鮮語では白頭山、中国語では長白山)の守護仙人(精霊だったかもしれない)で、シリーズ通してのキーパーソンである李氏(注:男性)に想いを寄せている男性である。李氏に冷たく拒絶されたり、周囲の神仙たちに揶揄されたりしつつも、変わらず李氏に暖かい真心を捧げ続けている好漢なのだ。李氏には他に想い人がいるのでまず間違いなく長白君の恋が成就することはないのだろうが、私は彼の男らしい包容力にときめいたのでぜひ幸せになってもらいたいと思っている。別に相手は李氏じゃなくてもいいから。というか長白君には楓英とか緋鯉の精みたいな豪胆で誠実な男性とか似合うと思うんだよね。
studio may-beを結成して仕事をしている高城響と鷹匠早紀は、BLゲームや乙女ゲームのシナリオライターとして活動している他に、連名でBL小説を書いて出版したり、漫画の原作をしたりしている。音楽業界を舞台にしたBL小説『たぶん、きみが好き』『いつか、翼を広げて』『きっと、空も飛べる』という3冊がマイクロマガジン社から発行されたのは2004年のことだった。この3作は天才指揮者と男性アイドルのカップルを描いたお話なのだが、実は高城響と鷹匠早紀がやっているサイトに長年連載していた大長編小説『KT』を手直しして発表したものだという。
そのサイトの大長編(まだ完結していないらしい)には、脇役として若手の指揮者同士のカップルが登場する。彼らを主人公にした話もサイトには掲載されており、出会いと恋人になるまでを描く『'O sole mio』、体の関係を持つまでに至る続編『hard day's night』、いちゃいちゃらぶらぶしてる『jealous guy』などがある。珍しいことにこのカップルの攻めは在日コリアンである。
『'O sole mio』と『jealous guy』では、攻めが在日であることはストーリーの主軸にはほとんど絡んでこない。民族が違うということよりも同じ夢を抱く音楽家同士であることの方が、この物語の中では圧倒的に比重が大きいのだ。
しかし、『hard day's night』の中ではそれらしいエピソードが挿入されている。演奏会の予定が突如キャンセルされてしまった攻め。晴れがましい仕事を一つ失った原因を、受けに問われた攻めはしぶしぶこう語るのだった。「オレ、在日やん」。BLで、差別に直面する在日の姿が描かれているのは大変珍しい。そもそも在日としてのアイデンティティを持ったキャラクターが登場するBL自体ほとんど見かけないんだけどね。
ところで、この物語の攻めは、大阪出身で関西弁を喋る陽気な男性だ。大らかで人懐っこい。阪神タイガースファン。長身、ガタイが良くて、美男子ではないけれど、受けから見れば十分に魅力的な容貌をしている。そして新進気鋭の指揮者である。実際、読んでいて、彼は魅力的な人物として描かれているように思った。なんとなく関東生まれ関東育ちな自分からすると良い意味で典型的な関西人という印象を受けた。
神経質で繊細、あまり感情表現が得意ではない日本人の受けは、自分と正反対の気質の攻めに惹かれていく。自分にないものを持っている相手を反発心を抱きながらも愛してしまうパターンというのはわりと恋愛物の王道だが、受けが攻めの才能に嫉妬をして苦悩したり、振り切ってもついてくる攻めに苛立ったり、励まされたりと感情をぶつけ合ううちに自分の恋心を認めざるを得ない展開になるというのは微笑ましくて良かった。
BL小説家、檜原まり子の作品の一つに『マリンブルーは密やかに』という小説がある。2008年、講談社X文庫ホワイトハートから発行された。舞台はアジア・オセアニアクルーズ中の豪華客船。そこに乗り込んだ保険会社から委託を受けた調査員の受けと、元自衛官の攻めのラブストーリーだ。
正直なところ、この物語の一番興味深いところは、ストーリーなどよりも受けの両親だと思う。
受けの母親は日本人の医師だった。そして父親は在日韓国人の寿司職人。両親が渡米して、一家がカリフォルニアにいたとき受けは生まれた。医師免許が認められなかった母親は畑違いの仕事をして受けを育ててくれたらしい。後に離婚したようだが、受けの両親の話こそ読んでみたいと思った。寿司職人と女医さん夫婦米国滞在記なんていろいろ波乱万丈なドラマがあって面白そうじゃん。
というわけで、本作の受けは間違いなく在日韓国人の血をひいているのだが、特に在日とか韓国に関するエピソードは出てこない。受けが韓国語を喋ったりキムチを食べるシーンがあるわけでもない。彼が民族的なコミュニティや朝鮮半島に思いを巡らすシーンがあるわけでもない。冒頭、地の文でさらりと受けの生い立ちが説明されているだけで、その後はとくに彼が韓国系であることには触れないまま物語は終わるのだ。
なら別に受けが在日の血を引くキャラクターである意味ってないのでは?と思わないでもないけれど、まぁ深い意味がなきゃ在日がBLに出てはいけないってこともないし、これはこれでいいのかもしれない。なんと言ってもこの作品の舞台はいろいろな国籍のクルーが働く豪華客船なのだから。南太平洋を悠々と航海する船上のキャラクターにちょっとしたマージナルな要素を付与したいと作者が思うのもわかる気がする。船長の喜屋武も、受けと同様にマージナルな人物である。米軍勤務の軍人を父に持つ沖縄出身の男性で、金髪碧眼という日本人離れした容姿だが自らを日本人だと主張する。とても珍しい韓国系の受けや、沖縄と米軍というデリケートなバックグラウンドを持つキャラクターが登場するという点において、このお話はなかなか印象深かった。
『うつしみの花』は、幻冬舎リンクスロマンスから2008年に出版された全2巻のBL漫画である。作者はタカヒサ亨。舞台は飛鳥時代の日本で、有名どころでは葛城皇子(中大兄皇子)、皇極天皇、間人皇女などが登場する歴史ロマンBLである。ちなみに中大兄皇子と受けがキスする場面もあったりする。
主人公(受け)は、百済からの渡来人で金工職人である実父を持つ美少年。攻めは、受けの父親の弟弟子で、乃楽山(ならやま)の麓に住む百済系渡来人であり以前は都随一と呼ばれた腕を持つ金工職人だった。受けが攻めの弟子となるので職人師弟ものBLであると同時に、渡来人と渡来人の子孫が出会って恋に落ちる物語なのである。
職人の村で修行をする受けは、師匠であり恋人である攻め以外の渡来系の職人たちとも交流を持つようになり、技術を磨いていく。いつか攻めの故郷である百済に帰還することを夢見るようになるし、自分たちの存在は発展させ続けていく技術に拠って立つのだという強い自負心を持つに至る。彼らのアイデンティティは明確に百済系渡来人であることにあり、ヤマトにはないんだなーと読んでいて思った。
日本が舞台なのにあえて渡来人のカップルを描くなんて随分通好み(?)だなと思う。こういうのは珍しくて面白い試みだ。同時に、ちょっと私の中の日本人としての感覚が一抹の寂しさというか疎外感を感じなくもなかったような……。この記事のテーマである在日と古代日本の渡来人はちょっと違う存在なのでこの作品には簡単に触れるだけにとどめるけれど、思いがけずヤオイを読んでいて自らのナショナリズムが浮上したという点で本作は印象深い作品だった。私が気にしすぎなだけだけなんだろうけれどさ。
もちろん、健気で頑張り屋な受けとクールで格好良い攻めは萌えたし楽しめた。
ところで、作者のタカヒサ亨は、角髪(みずら)に萌えてこのお話を描いたらしい。わかるわー私もみずら萌えです。特に青年の下げみずら姿は可愛くて良い。不評でなかなか描かせてもらえなかったとのことだが、残念だ。もっと見たかったよー。
ハテブやツイッター、増田2ちゃんねるでコメント下さった方ありがとう。せっかくだし嬉しかったので、いくつかのコメントにお返事します。
恐縮です。ありがとう。
自分のブログではこういう記事を出したことがないのでうまく書けるかわからなかったし、書いたとしてもこの記事だけ場違い感がぷんぷんして浮き上がってしまうだろうと考え増田にしました。悲しいことですが、BLも在日も荒れやすい話題ですから。
私は金蓮花の初期の作品が好きでここ7~8年の著作は読んでないのですが、作品だけじゃなくて作家自身も本当に興味深いなと思ってその動向は注目しています。ラノベ界でも稀な在日外国人であることを明かしている作家さんですよね。まして日本と関係が良好でない国を祖国に持つ人ですから、日本社会で生きる彼女自身、悲しみや自負心を含め複雑な感情はあったんじゃないかなと想像しています。日朝首脳会談が開かれ拉致問題が発覚した2002年、この年に発売された『伽椰琴打鈴』を最後に、彼女の著作の中で一番‘朝鮮’を押し出している銀葉亭茶話シリーズが発行されていないというのは、偶然かもしれないけれどなんとなく象徴的に見えたり……。
確かに文化が違う、価値観や倫理観が異なっている、と強く感じる点はいくつかありましたね。面白いなと好ましく思う相違もあれば、モヤモヤする思いを抱える相違もありました。私の場合、女性の描かれ方や女性の置かれた立場というのが結構気になりました。『蝶々姫綺譚』で、女性が子を成さずに死ぬのは罪である、罰として死後の世界で償わなければならないという設定には、儒教をベースにしたファンタジーだとこうなっちゃうのか、とびっくりしたなぁ。日本や日本よりフェミニズムの強い欧米発のファンタジーじゃそういう設定ってないでしょう。まぁ、当時の価値観を反映させた設定であることが良いという考えもあるとは思いますが、現代女性としてはファンタジーとはいえその世界の女性は生き辛そうだなという感じたのも事実でした。
ネットで読める作品もるし書店や図書館に置いてある作品もあります。個人的に、興味や関心の度合いが在日>BLという人よりは、BL>在日の人の方が楽しめるとは思いますが。
全然関係ないけど、最近アメリカのスラッシュが翻訳されて日本の書店の店頭に並び始めましたよね。日本語で海外スラッシュが読める日が来ようとは思わなかった。嬉しい。
皆さんがどなたをイメージしているのか興味あるなー。私は弱小ブログを書いてますが、Twitterはやっていないんですよ。
韓国人は日本人よりも情熱的、確かにそういうイメージありますよね。こんな記事書いといて言うのもなんですが、家族友人知人に韓国人や在日の人っていないんで実際そうなのかはよく知らないけれど。
確かに作品が面白ければ作家は関係ないというのは仰る通り。私も普段は書き手には興味がないんですが、今回は冒頭で書いた某サイトにはなんだか妙に感慨深くなってしまいまして。
創作の中のマイノリティ、本当に興味深いですよね。読み専なので創作の苦しみは知らないのですが、創作物にマイノリティを登場させる際書き手さんはやっぱり慎重になるんだろうなぁ。セクシュアル・マイノリティが登場するBLは殊にそういう姿勢を求められているジャンルですし。常に政治的に正しいお行儀のよいBLである必要はないと思うけれど、読者が引くような差別的な描写が垂れ流しにされてるBLは読みたくないと思います。私はまだガチでがっつり民族問題を盛り込んだBLというのは読んだことがありません。今後もそんな作品は出ないんじゃないかなと思うし、たとえ出版されたとしても読みたいとは思わないかも、と考えています。娯楽作品には悲惨な差別とか貧困とかの要素は求めていない性質で、どちらかというとイチャイチャ、ドキドキ、ワクワク、エロエロ、アマアマ、ラブラブって感じのノリの方が好きなんですよ。なのでフレーバー的な登場のさせ方や特筆されるような描写がなくても私はOKなんですが、作家がまったくその問題の背景に無知ではキャラクターの魅力的な属性にはできないわけですしね。作家は10調べたことのうち1を書く(100調べたことのうち1を書く、だったかもしれない)と聞いたことがあります。BLを愛する者の一人として、そういうBL作家さんが今まで以上にたくさん出てくれるといいなぁと願っています。
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1007/21/news010.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/bizmakoto.jp/bizid/articles/1007/21/news010.html
「知の効率的インプット、効率的アウトプット生成のためには新書がベスト」
ということのようだが、
ここでおさらいしておこう。
(幼児番組・幼児DVD再生専用機に成り下がっている)情けない状態です。
【何のため?】
★「面白い内容は自分のブログに載せる(=アウトプット)」という目的意識で
知を採取(=インプット)する。
【何を?】
★日経新聞をとにかく隅々まで読む。
自分がネタにするのは「日経夕刊」「日経地域面」「経済教室」「書評」「大機小機」あたり。
★会社においてある「日経産業新聞」なんかもネタの宝庫なので、
これも自宅に持ち帰って、電車内で読む。
1分立ち読みすれば、なんとなく「どういうジャンルの本なのか」がわかる。
★図書館を活用しまくる。
都区内なら、他館蔵書の取り寄せサービスがある。
場合によっては、他区の蔵書も取り寄せてくれる。
こうすれば自宅内書棚はゼロでいい。
家族4人で、1人10冊借りることができる。掛け算して40冊だ。
新書は確かに効率がいいが、逆に言えば「ポピュラーになる(であろう)知」しか載っていない。
「ポピュラーになっていない知」が存在している可能性がある訳であり、
価値を生むのはむしろ
「ポピュラーになっていない知」の方ではないか?
図書館の本は、2000年代の本ばかりじゃなく、1990年代とか1980年代の本とか結構あるのだが、
「1980年代には、こういう見方があったのか!」と新たな発見があるのが面白い。
たまに1970年代なんかの「お宝」もあります。
地球温暖化を叫ばれていますが、1970年代なんか、「地球寒冷化」が叫ばれていたりする。
そういうことも図書館にいかなきゃ判らない。
例えば「食品の偽装」なんて問題が、最近の話題と思い込んでいたら、
1970年代にも似たような話題が出てきているのです。
「お気に入り」に5人登録しており、その人のブックマークをナナメ読みすることで
相当程度効率よく情報収集できる。
言ってみれば「他人の褌」である。
(お気に入りを10人以上にしてしまうと、シッチャカメッチャカで混乱してしまう。
やはり5人程度に抑える方がいいのでは?)
「Dさんは自分の仕事の方面でいいブックマークをしてくれる」・・・のように、
分野毎に「キーパーソン」を見つければ、非常に効率的。
★ビジネス誌は車内中吊り広告だけでも「なんとなく」内容はわかる。
というか、各社ともウェブにほぼ同内容載せているし。
【いつ?どこで?】
★晴れている日には新聞を歩きながら読み、
★休日、子供の付き添いで公園やおもちゃ売り場とかに遊びに行くときなど、
その場で捨てられるから。
母が入院した。83歳で救急車で運ばれたのだから、もう、いよいよかと親戚に連絡を回しまくった。これがいかんかった。
母には10歳年下の妹がいる。妹だからか気軽にこき使ってる。突然電話して「明日、草むしりに来られない?」って調子だ。そんなことは私に言えばやるのだが、母は何かと非効率的なので、まともに言うことを聞いていたら、何日かかっても終わらない。段取りを組んで3時間程度で終わらせようとすると「そんな乱暴なやり方じゃだめだ」(実際には、母のほうがはるかに乱暴だ)と難癖つけてくるので、ついつい腰が重くなり、「妹なら、私が言った通りにやってくれるから、妹にやらせる。もういい」と頼まなくなってきた。実は、妹は清掃業をしている。私などよりはるかに(効率的にやりたい)と思っているはずなのだが、母には逆らえないようで、黙々と非効率的な作業に1日を費やす。なんでも、妹は50年前に大病して、4歳と0歳の子供を母に預けて入院していたことがあるらしい。しかも入院費も母のほうで出したらしい。それで恩があるというのだが、いくら世話になったといっても、もう恩は十二分に返していると私は思う。
で、この妹、私からみて叔母が、母の入院先に毎日現れて、毎日3時間から4時間、病院で過ごしているらしいのだ。
入院して最初に主治医の先生からお話があったとき「どなたか、窓口となるキーパーソンを決めてください」と促され、叔母が「私がっ」と声を上げた。父と私は目を剥いた。夫と実の娘を差し置いて出る幕ではないだろう。こちらに時間がなければ有り難い話だが、あいにく、父は仕事を引退して隠居暮らしだし、私は小間使いとして実家に仕えている。母のために割く時間はある。というか、そのために、私は外に働きに行けないので、私の代わりに叔母が小間使いをしてくれるのなら、私としては万々歳だが、まさか、73歳の叔母をつかまえて「お手伝いさんしてください」と言うわけにもいかない。第一、父は母の言いなりになっていて、父の要望に耳を貸さない叔母が嫌いだから、毎日家に来られたら父がノイローゼになりかねない。父は認知症があって、肝心な話を聞きそびれると困るので、結局のところ、私がキーパーソンになった。
病院側は、いろいろな相談事を、私に電話してくる。私は、母の周辺に人たちにメールで状況を報告する。車で30分で行ける病院なので、毎日見舞いに行く。するといろいろと物が増えていたり、物の配置が変わっていたり、私が聞いて知っていることを、叔母が看護師さんに聞いていたりする。黙っていては伝わらないと思ったので、はっきり言った。
「物については十分揃えてあるので、勝手に買い足されても迷惑です。母に何かしてくださるのなら、励ましてやってください」
次の日、叔母は「マッサージ」と称して、母の足を揉んでいた。母は「痛い痛い」と悲鳴を上げる。「痛いのー。でも、動かさないと寝たきりになるよ」と叔母は足を動かし続ける。看護師さんが来ると止めるのだ。看護師さんから「足が痛いとおっしゃるんですが、何か既往症がありますか?」と訊ねられた。「腰には腰椎すべり症があって、前々から腰や足が痛くなるとは言ってました」と答えると「どこか、ぶつけられたりしたことはありませんか?」と重ねて聞かれる。入院する前には、そういうことはなかった。
母は今、自力ではほとんど動けない。
叔母は、母の側に3時間もいて、いったい何をしているのだろう?