はてなキーワード: 少女小説とは
もうすぐ誕生日を迎えて33歳が終わるので、いい機会だと思って平成初期生まれである自分のロマンス観の奥底に眠る作品について、水面まで引っ張り上げて雑語りしてみた。なお性別は男。
GL:これ
ガールズラブと項目を立てておいてなんだけど、実は未だによくわからない概念(もしかして期待して読みに来たかもしれない人がいたらゴメンなさい)。とりあえず自分のステートオブジアートとして率直な気持ちを残したいと思う。
BLの方で書いたように、筆者は昔からティーン向けの少女漫画や少女小説を摂取していたので、(少)女同士の関係性は友情(たまに愛憎)のものとしてプリセットされていた。なので女と女の距離が近くても「ああそういう感情ね」として頭の中の知っている感覚にラベルを振り分けていた。そこに特別な名前を付けることはなかった。ただ「友情・親愛」と。
その後、オタクとして成長すると共に、だんだんと百合という概念が男オタクの間に伸長してきたが、百合市場が出来上がるのを横目に眺めるだけで、自分自身がどうこうということはなかった。
覚えている限りだと、高校生の時(2006年くらい?)にオタク同級生の間で少女同士の関係性を題材にした漫画だったかラノベが友人の男オタクの間で流行っていたと思う。なんだっけ……4コマ漫画で……メガネの女子の眼の前で授業机の中から大量の煮凝りがぬぽって落ちるシーンだけは覚えているんだけど……。当時は百合という言葉は使っていなかった気がするけど、可愛い女の子同士がいちゃいちゃしているのがいいんだ、みたいなことを言っていた気がする。自分はそれに対して、特に思う感情はなかった。いや、逆に今更?という感情だったかも。なぜならば既にその場所は訪れたことがあったから。
自分が初めて少女同士の恋愛にも似た感情のやりとりを意識したのは、小説だった。図書館で借りてきたとある作家の小説で読んだS(エス)といううら若き乙女同士の関係。女学校に通う少女同士の疑似恋愛。そこにあったのは上辺は花畑を舞う蝶のように煌めき美しいが、内側に潜ると内蔵のようなヌメついた湿った感情だった。疑似恋愛、嫉妬、そして混じる疑似ではない気持ち。
そんな作品を読んできていたので、かわいい子とかわいい子がかわいいことをしている、みたいな作品に喜んでいるオタ友がどうにも幼く見えてしかたがなかった。
そうして百合とかGLとはあまり仲良くないまま、女同士の関係は友情というフォルダに入れて今の年齢まできたのだけど…………ただ……心の中で唯一引っかかっている、消化できなかった少女同士の関係があった(過去形)。それが恩田陸の小説「蛇行する川のほとり」に出てくる若い女子高生二人の関係性だ。
タイトル | 蛇行する川のほとり |
作者 | 恩田陸 |
本作は、高校美術部に所属する女子部員たちが、野外音楽堂で行う演劇の背景美術を仕上げるために夏休みに川のほとりにある合宿を行うというシーンから始まる。(一応)主人公の毬子は憧れの美術部の先輩である香澄さんに合宿に誘われ、有頂天で彼女が主催する合宿に参加する。本来ならば年頃の少女たちの楽しいお泊り会となるはずだったのだが、香澄さんをはじめとする他の参加者は、彼女に何かを企んでいるような、隠しているような態度を取る。次第にただの楽しい合宿ではないことが分かってきたころ、毬子本人が忘れていた幼い頃にあった事件が浮かび上がり彼女の過去を照らしてくる。そして過去を失い、少女は大人になる。
本作のあとがきで、作者の恩田陸は「私が感じていた『少女たち』を封じ込めたいと想って書いた」と記している。その言葉の通り、本作には様々な「少女」が登場する。まだ大人と子供の奇跡の狭間をうつろう毬子、過去を持たない完成された香澄、彼女の相棒で天才肌の絵描き芳野、一足先に大人へと羽化した真魚子。4つの章を通じて彼女たちは多様な顔を見せる。無垢でいながらも自分でも把握していない秘密を握っている毬子、どこまでも独立して半身の芳野にすら内心を明かさない香澄、優れた美術家の観察眼で本質を見抜きながらも最も大切な自分の中の香澄への気持ちに気付いていない芳野、そしてとある事件がきっかけでその輪に無理やり入れられた真魚子(まおこ)。章ごとに語り手が代わり、一つの側面の形質は、語り手へと姿を変えてると主観となる。
本作には、登場人物のうちに公式に女女カップルと呼べる組み合わせが存在する。香澄と芳野だ。常に二人で行動し、二人で一日を過ごし、どこでも二人の世界を作る。互いに互いを引き立て合うようなお似合いの二人。しかし二人は望んで一緒にいるわけではない。過去を共有してしまって、もはや離れられないのだ。お互いに過去という鎖を結びあってしまったと言っても良い。しかし、少なくとも芳野の方は、共に鎖を結びあった相手が香澄で良かったと思っている。
門外漢の自分が考えるに、多分世の中のGL?百合?好きは、芳野編を大いに好むと思う。そこで繰り広げられるのは、互いに誰よりも近く、親密で、そしてお互いに内面の99%まで理解しているのに、その残りの1%が、相手への愛が本当にそこにあるのか分からないという愛の物語だ。芳野編の、今まで無意識に避けてきた香澄の肖像画を描くことで、自分の中の気持ちを形作るという展開はとても美しいものがあると思う。
ただ、自分はこの二人の関係性は処理出来ていた、と思う。友情、親愛、そして強い愛情と。自分が最も咀嚼できなかったのはもう一つの組み合わせ、毬子と真魚子の方だった。
同級生の中でも子供っぽい毬子と、級友に先駆け一足先に大人になってしまった真魚子。恋愛面でもお子様な毬子と既に大学生の恋人がいる真魚子。正反対の二人は対極に位置するからか、親友同士であった。香澄と芳野という二人と比べると、一生離れずに共にある彼女たちに対し、高校生の間は親友でも卒業したら普通に進路が離れ疎遠になり、それでもたまに会ってお茶をする、というような関係だろう。仲良しで大好きだけど、互いに混じり合う程に近いわけでもなく、恋人よりも好きというわけでもない。そう、それだけなら十分に理解できたんだ。
物語の後半、とある事情により毬子の代わりに真魚子が合宿に参加することになる。自分が一番よくわからなかったのがそこだった。毬子が事情により参加できなくなるのは分かる、でもあんな事態になったとは言え、真魚子が嫌っていた香澄たちのところに単身乗り込むようなことをするのか、と。だって毬子と異なり彼女にはなんにも過去の事件に因縁が無い。だからいくら毬子に頼まれたからって、わざわざ事態を究明するために乗り込む必要はなく、ほとぼりが冷めるまで、物語が閉じるまで放っておけばいい。しかし、彼女は乗り込んだのだ。
この機序がずっと咀嚼できていなかったのだけど、最近、もしかし自分の考えは順序が逆であるかもしれないと気が付いた。頼みを受けて乗り込まねばならないほど、本当は彼女にとって、親友は本当に大切な存在だったのだ、と。誰よりも冷静で頭が切れる真魚子であっても、いや毬子の親友の彼女だからこそ動かざるを得なかったのだと。その時、すとん、と腑に落ちた音がした気がした。
香澄と芳野の唯一無二の分かち難い強固な結びつきとはまた違った、同級生の親友というどこにでもある女子高生の毬子と真魚子の結びつきも、それはそれで一つの思春期の素朴な輝かしい感情の頂点なのだと。
もうすぐ誕生日を迎えて33歳が終わるので、いい機会だと思って平成初期生まれである自分のロマンス観の奥底に眠る作品について、水面まで引っ張り上げて雑語りしてみた。なお性別は男。
目次
タイトル | シェーラひめのぼうけん |
作者 | 村山早紀 |
挿絵 | 佐竹美帆 |
筆者と同世代か、もう少し下ならば読んだことがあるかもしれない児童文学。たぶん、自分の記憶の最も深くにある恋愛観についての思い出は、このシリーズのとあるシーン。
当時、筆者はたぶんまだ小学生。隣町の図書館に足しげく通う図書館っ子でまだまだ児童向け書架の常連だった頃だと思う。ローワンシリーズや、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの魔法使いシリーズやハウルの動く城シリーズなどにハマっていた。佐竹美帆さんの挿絵が好きだったので、シェーラひめのぼうけんを手にとったのも、挿絵繋がりだったかもしれない(正直まったく覚えていない)。その中で、胸に響くロマンス表現に出会った。
シェーラひめのぼうけんは、主人公の少女シェーラが幼馴染でお供で子分の少年ファリードを怪力で振り回しながら、大人でも解決が難しい問題を剛腕で切り開いていくような物語。世界のあちこちへ旅をして、仲間たちとワクワクドキドキの冒険をしながら、悪い魔術師に石にされてしまった故郷の王国を復活させる方法を探し出すシェーラたちの話が紡がれる。
恋愛表現に疎かった当時の自分にとって、魔法が使えるけどひ弱なファリードがひめさまとシェーラを慕い、シェーラは幼馴染の兄貴分として彼の面倒を見るという二人の関係性は友情のものとして好ましく感じられた。もちろん男女の恋愛はちびっこが見るディズニー映画の中でも散々と描写されていたので、なんか男の子と女の子は仲良くなったらキスするんだ〜程度の認識はあった。だけどそれは「そうなるもの」であり、自分の中で情緒に紐づいて腑に落ちる描写ではなかった。だから、当時は恋愛でキャッキャするよりも、男女の友情関係の方がずっと自然に思えていた。ウブなボーイだったからね。(今から考えたら、ハイルとミリアム辺りとかは恋愛描写があった気がするけど)。
そんな中で胸がドキッとするような出会いがあったのが、最終巻近く。記憶だけを頼りに書いているので、間違っているかもしれないけど、確か、最終巻の一つ前の巻で、それまで一緒に旅をしてきたファリードが、実はシェーラの王国を崩壊に導いた邪悪な魔法使いの血筋で、彼もその強大で忌まわしき力を宿していると判明する展開がある。この時、確か、ファリードが敬愛するひめさまをその力で傷つけてしまい、自分の力に絶望して力を開放してドラゴンとなって空の彼方へ消え去ろうとするけど、当のひめさまからあなたが必要だと説得され、再び仲間になる的なエピソードがあった(はず)。
シェーラの目の前でドラゴンから人間の姿に戻った幼馴染のファリード。旅に出る前は少女の自分より身体が小さくてひょろひょろしていたのに、旅の終わりに近づいた今では、自分の方が彼を見上げるくらいに彼が成長していたことに気が付く。その時、シェーラのなかで、ファリードが頼りなくて守ってあげなければならない幼馴染ではなくなった……的な描写がある(ったはず)。
これがクリーンヒットだった。ここで以後の人生に永劫に刻まれる体格差萌えを発症してしまった。挿絵があったかは忘れたけど、自分の心の奥底には、ファリードと彼を見上げるシェーラの二人の姿が佐竹絵で深く刻まれている。
その後、図書館のティーンズコーナーで少女小説(主に小林深雪先生)にハマったり、同時進行で大人向けの棚の新宿鮫などのサスペンスやあとがきでいつも自作を傑作と書く夢枕獏の作品(闇狩り師とか陰陽師)を開拓していったりした。
実はシェーラひめのぼうけん2は途中までしか読んでいなんだよな〜。これを書いている今、サウードおじさまの便利キャラっぷりを最後まで確かめたくなってきてしまった。
それまでの一般的なラノベ定義・史観を覆す、非常に大胆な主張である。
ただ、一部のラノベ読者が過敏に反応はしたものの、この時点ではアカデミシャンとはいえあくまでいち個人の主張に過ぎなかった。
「少女小説 ライトノベル」でAmazonを検索したら一番最初に出てきたのが2014年に刊行された本だった。
言いたいこと:「少女小説をラノベに含めても無視してもボコボコに叩かれる」という難しい状況がある。
いま、ライトノベルのオールタイムベストを選出する作業が進められている。
ラノベが社会に認められるためには、売り上げだけが唯一の評価軸である現状では差し障りがある。文化としての成熟には体系化と批評の存在が必須であり、その一歩としてたいへん意義のある活動と言えるだろう。
あくまで叩き台であり、作品数的にもより拡張した形を目指していくようだが、現時点でも各年代に目の行き届いた、ラノベの歴史の流れを俯瞰できる内容となっている。
ただ、この手の企画はどのような基準で選んだとしても、あれがないこれがないという不満はどこかから出てしまうものだ。ラノベ150選も例外ではない。
その中で今回特に目についたのが、「女性向け作品がない」という声だ。
これに対する企画者の返答は、女性向け作品については単独のガイドブック等が先行して存在しているから、というものだった。
合理的な判断だと思うのだが、これでも納得していない人は多い。少女向けをないがにしろにするのか?と憤慨し、容赦なくボッコボコである。
増田は、ライトノベルや少女小説(もしくは「女性向けライトノベル」)の歴史そのものについてはともかく、ライトノベルと少女小説との関係性についてはちょっとした知識がある。
今のままでは企画者氏があまりに不憫なので、これについて簡単に解説しておこうと思う。
ニフティサーブのSFファンタジー・フォーラム内で増えてきたある種の若者向け小説の話題を別会議室に独立させるにあたって、管理人の神北恵太氏が命名したものである……
もちろん名前はそうでも、ジャンルとしてのラノベ自体が90年に突然生まれたわけではない。起源をいつとするかは諸説あるものの、ラノベ的作品はそれ以前から存在していた(存在→命名の順であってその逆ではない)
そのようなラノベ的小説群は「ライトノベル」が定着する以前には、個人やコミュニティごとにさまざまな呼ばれ方をしていた。そのうちの一つに、ジャンルの代表的なレーベルから取った「ソノラマ・コバルト系」というものもあった。
言うまでもなく、コバルト文庫は少女小説の代名詞というべきレーベルである。つまり、命名の時点では「ライトノベル」は少女小説(の少なくとも一部)を当然に含むような形で規定されていたということだ。
(ここでの「少女小説」とは当時のコバルト文庫やティーンズハート文庫などのことであり、たとえば吉屋信子や創刊直後のコバルトシリーズなどは当然ながら想定していない)
以後、他メディア化の機会などの関係で男性向け作品の方が存在感はあったものの、ライトノベル(的なもの)は女性向けを含めたひと塊のカテゴリとして扱われていく。
2000年代に入り、語としての「ライトノベル」が一般に定着して以降も、この認識はそれほど変わっていなかったはずだ。
この状況に大きな変化をもたらす出来事が、2010年代前半に起こった。
まずは2013年、とある文学研究者がツイッターでこのような発言をしている。
少女小説・ラノベそれぞれのジャンルについての価値判断を含んでいるとまでは言わないが、これが少女小説の側に立った発言であることはまず間違いないだろう。
それまでの一般的なラノベ定義・史観を覆す、非常に大胆な主張である。
ただ、一部のラノベ読者が過敏に反応はしたものの、この時点ではアカデミシャンとはいえあくまでいち個人の主張に過ぎなかった。
それが正式な形で世に出たのは、2014年のことになる。著書としての刊行である。
この本で研究者氏は丹念に事実を積み重ねた論証により、まさに「少女小説が歴史的にライトノベルではない」ことを証明してしまったのだ。
詳細は省くが、
少女小説は戦前からの少女文化独自の伝統を直接的に受け継ぐ文学ジャンル、ライトノベルは戦後のマンガ文化等の影響から新たに生まれた新興の娯楽であり、その出自からして全く異なる別物である
ということだ。
この、市井のオタクではとうてい太刀打ちできない完璧な形の少女小説≠ラノベ論の出現により、少女小説⊂ラノベ派の多くは白旗を上げて沈黙することとなる。逆に、少女小説がラノベの枠内で扱われることに不満を感じていた少女小説業界関係者・読者は、我が意を得たりと快哉を叫んだ。
日本文学研究者による恐らく初めての本格的なラノベ論ということもあり、この本はもともとラノベや少女小説に興味のあった人間にとどまらず、幅広い層の人々に読まれていった。今やラノベ関連の研究ではほぼ必ず参照される一冊となっており、アマチュアでもラノベの定義や歴史を語るなら必読と言っていいだろう。
これによりパラダイムが決定的に転換し、少女小説をラノベに含めるような人間は、もはやそれだけで時代遅れな「分かってないやつ」の烙印を押されるまでになったのだ。
(フェミニズム的な意識の高まりにより、女性文化(少女小説)の功績を男性側(ラノベ)が都合よく収奪してきた、という構図に気まずさを強く覚えるようになったのも、この傾向を後押しした)
この空気の変化は以前/以後と呼んでいいほどに劇的なものであり、刊行から10年経った2024年の現在にいたっても、更新される気配は特にない。
お分かりだろうか。
つまり、少女小説は「ライトノベル」ではない、というのは、もともと少女小説サイドが言い出した主張なのだ。
現在では、ラノベの定義・歴史との関連で(特に男性の論者が)少女小説に触れる際には細心の注意が要求されるし、実質的にはほぼタブーに近い。
企画者氏がラノベ150選から女性向けを除外したのも、世間のその暗黙の風潮におとなしく従ったという側面がやはりあるのではないだろうか。
加えて企画者氏の場合は、かつて不用意にレジェンド少女小説作家を「ライトノベル作家」と呼んで、少女小説側から激しい批判に晒された当事者でもある。そのため今度は、なおさら慎重に配慮したつもりだったのだろう。本人としては。
結論として今回の件は、気遣いがすれ違ってしまった悲しい事例ということになる。
少女小説読者といっても一枚岩ではないし、自分はそんな配慮ぜんぜん嬉しくない。多数派がどれだけ否定していても自分は少女小説もラノベに含めるべきだと言い続けるぞ。という人もいるだろう。その気持ちもよく分かる。
分かるが、少女小説をラノベに含めても無視しても必ずどちらかからボコボコに叩かれることになる、板挟みの苦しい立場のことも少し考えてみてはもらえないだろうか。
オールタイムベストの企画者氏は現在、文化としてのラノベ保全のため「ライトノベル図書館」の設立計画を進めており、クールジャパン予算を獲得すべく自民党の国会議員に働きかけている。ラノベオールタイムベストはその陳情の材料にもなる予定らしい。
こうした活動の文化的な意義を踏まえた上で、できれば多少の意見の相違は呑み込み、振り上げた拳をどうかそっと下ろしてはくれまいか……
長え! 一番言いたいことを最初に置いとけよ。
追加しときました。
核心部分が何で匿名やねん
「ラノベのルーツの1つは少女小説である」と「少女小説はラノベである」は意味が全然違うと思うが(後者を主張してる人いる?)
“ラノベのオールタイムベスト”に、ある少女小説を推すとした場合、(少女小説全体やレーベル全体ではなく)少なくともその作品は「ラノベ」で(も)あることが自動的に前提となるのでは。
逆に言うと、ラノベではないがラノベのオールタイムベストに入れろ、は通らない。
排除ではなく、少女小説の側がラノベに括られることを拒否した運動があった、という話です。
クール・ジャパンから公金を引っ張るために少女レーベルや未分化期を無視するのは仕方ないキリッ されて、納得は出来ないですけど………
リストから少女向けを除外した理由(と思われるもの)と、批判のトーンをなるべく抑えてほしい理由は、別々に書いたつもりです。
wikipediaより「1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」において〜「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まり」コバルト入ってるやん
はい。
その話を本文に書いています。
その、とある文学研究者って誰だよ。名前を出してくれないと分からないよ。2013年の事なら記憶にありそうなものだが思い当たる人がいない。
ツイートの件はともかく、著書の話を見ても心当たりがないなら、たぶんそもそも知らないんじゃないかな……
その「知らん研究者のお気持ち」が定説化して力を持ってしまっているという現実があるのです。
たとえとして適切か分かりませんが。
ナンパを不快に感じるA子さんと、女をナンパしない男は無礼だと信じるB子さんがいるとします。二人のナンパに対する意識は、事前に外からは判断できないものとします。
スレイヤーズのTogetterまとめみてたらしたくなってきたー!
ということでしていきます
そもそもライトノベルの歴史というものを語る時に、ライトノベルというものが「オタクカルチャーの交差点である」という事実に目を向けなければなりません
ライトノベルというのはとかく、他のオタクカルチャー(漫画、アニメ、ゲーム、鉄道、ミリタリー、最近だとVtuberとか)にめちゃくちゃ影響を受けやすいジャンルです
まず前提としてライトノベルの前身として、「時をかける少女」や「ねらわれた学園」などのSF的なジュブナイル小説があり、
「なんて素敵にジャパネスク」を書いた氷室冴子や新井素子の諸作品による現代の口語体を使った文体表現を使った少女小説があり、
D&Dが日本に来て、派生のゲーム群であるドラクエやらFFが売れたりしたおかげで、TRPGが流行、それらのリプレイ集も人気になり、
さらにアニメで「機動戦士ガンダム」が爆発的なヒットをして、それのノベライズ(監督自身の描きおろし)も人気になり、
こういったものを一緒くたにまとめて扱ってたのが、角川スニーカー文庫であり、富士見ファンタジア文庫であり、角川の内紛やらで派生した電撃文庫なのである
つまり、レーベル説的な史観から見ると、その出自自体がオタクカルチャーのカオスの中から生まれたのがライトノベルなのだ
で、この中で出てきた「スレイヤーズ」がなんだったかというと、これらの要素を一通り取り込んで、かつ、「TVアニメ化」して大ヒットした作品だった、というところである
上に書いた通り、ラノベレーベルというのはリプレイ集だったり、ノベライズといういわば「メインのコンテンツの傍流」としての側面があった。
なので、オリジナルコンテンツ自体は作っていたにせよ、あくまで、二次的創作としての見方が強かったものであった。(ロードス島も元はTRPGリプレイの派生であるので)
ところが、そこから出た「スレイヤーズ」という作品は主人公のリナの視点の口語体で進行して、
ゲームのファンタジーのお約束を茶化すようなメタ的なコメディ雰囲気を持ちつつ、
そして強敵とバトルでの少年漫画的な要素という属性全部盛りながら、それをうまく調和した作品となっていた
つまり、傍流であったものの中からオリジナルな作品が生まれ、それが本流の方で大ヒットしたという意味で「スレイヤーズ」はライトノベルにおける大きな意味があったと言える
で、これが売れたおかげで、何が起こったかというとライトノベルで一攫千金できるやん!というバブルが起きて、90年代後半から00年代のライトノベルオリジナルの作品群の発生につながっていくという流れになる
これは個人的な見解になるが「元祖」というものを考えた時におそらく「ライトノベルの表現の元祖」というものを考える人は多いだろう
だが、何度も書くがライトノベルはそもそもその表現手法自体も他オタクカルチャーの影響を大きく受けるのでその起源や由来があまりにも複雑化している
なので、「スレイヤーズ」というものを評価するなら「ライトノベルの元祖」ではなく「ライトノベル文化が醸成していく上での(資金的にも、コンテンツ的な認知度としても)起点となった」という評価がよいかなと思う
それであったとしても、「スレイヤーズ」自体がライトノベルに与えた影響はいささかも揺るがないのだから
※2024/02/19
・少女小説のくだりでタイトルが間違っていたところを修正。すまんやで。
・あと富士見ファンタジアの発生の指摘があったからそこも修正。この辺り、角川のごたごたも相まって本当にござるか~?があるので助かる
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/yama_imoo/n/nefe8bc6f8884
id:mujisoshina ご冥福をお祈りします。作者と担当編集者の間でどのようなやり取りがあったのか外部からは分からないが、少なくとも集英社編集部がこれに真摯に対応せず放置するのであれば極めて不誠実だと思う。
id:ZANCLUS 暴言は立派な暴力行動。一時的に担当した編集はまともだったようなので、なぜ狂った編集をまた戻したのか、なぜ担当させ続けたのか、そのあたりも出版社はしっかりと説明してほしい。
id:quabbin 最近の編集者か…。だいぶ酷いな
id:kyasarin123 コバルト文庫(オレンジ文庫は知らない)を読んで育った世代にはとても残念なニュース。そりゃコバルト廃れてしまうわけよね!いい加減、根性論とか体育会系指導廃止したら?もう令和なんだし!ますます本が売れな
id:nicht-sein どこの業界にも一定数いる他人を低く貶め攻撃的にならないと自分を維持できない編集だったんだろうな。作者にとって担当編集がただ一人の窓口と言うのが悲劇すぎる。複数担当つける程余裕はないだろうし……
id:HiddenList 筆を折らせるどころか ひとごろししてますやん こわ
id:Reinassance id:hobbiel55 「こういう問題編集者の情報とかは作家協会みたいな組織で取りまとめてブラックリストとして共有する」賛成。こういった話が出てくるiたびに作家側の自衛・交渉手段さえ整えられてれば...とよく思う。
id:www6 こういう話が上がってる一方で「会社や学校に怒鳴り込んでくる親」がモンペと嘲笑されてたりするんだよねえ。子を死なせない、病ませないために声をあげることがどれだけ大事か、そうなってからではわからないか
id:kumao335 私も昔コバルト文庫読んでた。これ読むと下請けいじめのような印象
id:pikopikopan これ他の作家から誰か漏れないのかな・・絶対他でもやってると思うけど。/作家同士で連絡取り合ってたら、追いつめられる前に人間的にやばい人って分かったかもしれんね・・
id:yuma_0211 コバルトやオレンジでこういうの出るの本当に悲しい。選ぶ側ってどうして傲慢になりやすいんだろう
id:ht_s 集英社はこの編集をクビになんてしないと思う。ワンピースの記念イベント中にエロ漫画割ってるのがバレた編集についても謝罪と是正を発表すらせず意味不明な言い訳に終始し、なあなあにしてるような会社。
id:ni_ls 指導してあげる立場だって恥ずかしい勘違いしてるんだよな。作家がいなければ商売が成り立たない立場なのに。
id:kori3110 悲しい/編集部内にはきちんとした方もおられたようなのに、その状況が放置された理由をきちんと調査してほしいな、と思う/力関係が極端な閉鎖環境は怖い。仕組みで回避できるようにならんもんか
id:HEXAR 10代前半コバルトの少女小説を読んで過ごしたので何とも言えない悲しさがある。集英社はこれを重く受け止めて欲しい
id:tsutsumikun 集英社、本件の放置は今ジャンプ+で進めている他誌漫画家の中途採用に響くので、速やかに調査・事実関係の確認後、当該編集者の頸を刎ね、その経緯と末路を公開して晒し首とするべき。
id:KoshianX こういうのパワハラ殺人事件の容疑くらいまで言ってもいいんじゃないかねさすがに……
id:kaerudayo 痛ましい。本邦の編集者はプロデューサー的な役割まで果たすから。作品への評価やアドバイスだけではなく、タレント管理に近いことになるし。その辺教育されてないだろうに
id:repon 求む実名。こういう輩って「仕事ができるから」が組織内免罪になって、頭に乗って社会に対しても免罪求めてくるし、同じ犯罪者たちは支持するけど、要はアイヒマンなんだから、人道に対する罪として処刑が妥当では?
id:Shinwiki 妻を殺されたと読めるが、なぜ呑気にTwitterなどやってられるんだろう?ぶち殺しにいかないの?
id:n_vermillion 痛ましい話だ。俺も会社間のパワハラで会社員辞めたクチだけど、会社間のパワハラ告発は相当に難しいからな。現状、フリーランスから会社員を訴えるのは厳し過ぎる。パワーバランス滅茶苦茶なんよ。
id:hobbiel55 こういう問題編集者の情報とかは作家協会みたいな組織で取りまとめてブラックリストとして共有することは出来ないもんなのかね。
id:wktk_msum パワハラでしょこれは。箕輪厚介みたいな奴だったんやろか
id:garakuta 編集者は何らかの罪に問われてほしい。
id:Falky 『定義上パワハラではないと思うが』ですよね、これはパワハラじゃなくて「殺人」ですよね?//厚労省によるパワハラの定義では雇用関係を要件としており、確かに定義から外れる。が、それを主張して何の意味がある?
id:sirobu 取引先からの暴言も立派なパワハラでしょ。個人事業主と発注者(出版社)なんだから/追記:厚労省によるとパワハラ防止法的に是正した方が望ましいレベルだった https://jsite.mhlw.go.jp/gifu-roudoukyoku/content/contents/000607530.pdf
2017年にコミック百合姫編集長がインタビューに応えた時の男女比は、男6:女4
梅澤 もともと百合というジャンル自体が、少女マンガや少女小説の流れから作られてきました。なので当初は女性の読者が多かったんです。百合の歴史でメジャーなのは、古くはたぶんアニメ『美少女戦士セーラームーン』ですね。女性も男性も百合萌えしていました。長く活躍されている作家さんで、セーラームーンで百合にはまったという方は多くいらしゃいます。次に大きくヒットしたのが小説『マリア様がみてる』。男性読者が「百合を楽しむ」という作品の読み取り方を知ったターニングポイント的な作品だと思います。
百合の魅力は、男女どちらも楽しめるところですね。成り立ちが似ているBLとの違いでもあるのですが、いまの百合は、男性にも女性にも読まれているのがおもしろいところなんです。強みでもあると思っています。男性読者は箱庭的な世界を外側から覗き込むような視点で楽しんでいらっしゃる方が多いのかなと感じます。女性読者は同じ女性の物語なので、もうちょっとリアルなものとして読まれているようです
梅澤 いわゆる日常系として楽しめる部分もありながら、きちんと百合萌えもできる作品ということで、『ゆるゆり』から百合にはまった方も多くて、そこで読者の男女比が逆転しました。少しずつ女性が盛り返してきていますが、いま男女比はだいたい6:4くらいです。前編集長の中村成太郎が立ち上げた『百合姫』の前身の『百合姉妹』時代から、13年くらい百合の編集をやっているのですが、百合作品がテレビアニメとして放送される時代が来るなんて想像できませんでした。本当にマイナーなジャンルで、読者の方と作家さんに細々と支えられて続けてきた印象なので、まさかここまでと……。
今の少女漫画といえば
・月刊少女野崎くん(少女漫画をかく少女漫画家(男子高校生)が主人公)。メタい視点ももてる。増田の推しは鹿島と堀先輩。
・黒執事(ダークな画面でよくあるイケメン漫画かとおもうとなんでもあり)(少女は主人公でない、少女が読みたがる少女漫画)
・悪役令嬢系のなろうコミカライズ
・来世は他人がいい(令和やくざ高校生漫画。少女が主人公といえるだろう)
あとは、恋愛メインのフィクションでは少女小説(ラノベ)のほうが圧倒的におもしろい。心情描写って結局絵だと「トゥンク」で終わるからなぁ
そうそう、フルーツバスケットとフェイトステイナイト(コミカライズあり)の主人公の類似性と対比性を一晩かけて論じるってのはどうだろう
https://twitter.com/nakanishico/status/1587809364185751554
久々リアタイできたけど深澤さんが少女小説を解説しながら「女性は少年文化に触れなければならないけど男性は少女文化に触れなくてもいいからね」とさらっと言ってて「本当にそれな」となった
いつから触れなければならないことになったんですか?
「女がなんで少年漫画読んでんだ?」みたいなことは言われてたし、「女だけど少女漫画があわない面白くないから、ジャンプ読んでるんだよね~」的な女性が多かった印象ですけどね。
「うわーめんどくせーけどジャンプ読まないと素養ないって思われるからなぁ~」みたいな文化あったんですか?
発行部数で大差付けてるわけですし
つまり少年文化だからじゃなくて、人気文化はって意味なら、これくらいしっとけよ的な同調圧力あるって認めますけど
それってちびまる子ちゃんとかセーラームーンでも同じことですよね
まぁ俺が勝手に少女文化少年文化を漫画アニメに置き換えて考えたからそうなるだけの話で
このひとたちは別の何かを指してるのかもしれませんね
でもじゃあ女性も知っておかなければいけない少年文化ってなに?って話になりますよね
女性も知ってないといけないなんて扱い受けました?
やはり考えれば考えるほど、女性なんだから少女漫画読んでろよぬいぐるみで遊んでろよ的な疎外の圧であって、同調の圧ではなかった気がしますよ。
数日前、ドラッグストアでコンドームを探しまわった体験録を書いた悲しき24歳労働者です。
https://anond.hatelabo.jp/20220528225125
勢いに任せて書き殴りろくに推敲もしないままインターネットの大海へぽいと投げてしまったものの、なんだか恐ろしいことをしてしまったような気がして翌日こわごわ匿名はてなを開いたところ思いの外たくさんの方に読んでもらったようで。コメント見ました。全部見ました。匿名はてなを覗くとき、匿名はてなもまたこちらを覗いているのだ。
サガミオリジナル0.02Lサイズはやはり男のプライドなんでしょうか。白状するとさっぽろ時計台と書きながら思い浮かべていたのはテレビ塔のほうで普通に脳内変換ミスでした。長文乱文すみません、いやほんと、長いっていうのがいちばん多かった。す、すみません。
いやー、なんだかみんなおんなじ文章読んでるはずなのに気になる部分が全員違うって、そりゃそうなんだけど不思議なことだなあとブルーライトが眩しい液晶の前でうっすら笑みを浮かべながらスクロールに次ぐスクロールをしていたら。
「今好きな女の子がいて、のところがスルーされてるのはなぜ? 何度も読み返した」
さすがデュオ!
俺たちが見逃してしまうことに平然と気がつく!
そこにシビれる!憧れるゥ!
女を好きな女の話をしましょう。
えー、いま現在わたくしは好きな女の子がいます。付き合ってはいません。思いを伝えてもいません。
わたしにとっては好きな女の子、向こうにとってはわからない。お互いにとっては毎日LINEをする友達。
仕事が終わらないだとか、三谷幸喜は血も涙もない脚本を書くねとか、コナンが外出するとそれだけで人的及び物的被害が多発するから彼は名探偵になるよりも早急にお祓いを受けたほうが世のため人のためってやつだよねとか、そんなくだらないことをつらつらと話すだけだけど、それで結構満足している。
LGBTというアルファベット4文字がだいぶ世間に浸透し、昨今なにかと話題のセクシュアル・マイノリティ。いや別に話題になろうがならまいがわたしが女を好きな女であることに変わりはないのだけれど。まあ言語でもって共通認識があったほうが話が早いのは確かな人間社会。
わたしは男の子も女の子も好きになる女なので、所謂バイセクシュアルの女性というやつにあたるんだろうなとふんわり思っている。
なぜふんわりかというと、実のところ自分のことを「女が好きな女である」と自覚したのがわりに最近、ここ数年のことだから。石のように揺るがない確固たる意志だとか、テコでも動かんぞ!というがんとした姿勢でもって「好きだ!」というのではなく「いやまあ好き……っすね………」みたいな感じ。
自分のことを定義付けできたのは大学生になってから。女の子への初恋は中学生のとき。憧れの先輩がいた。
週に一度、習い事のためにいつもは乗らない電車に乗るときが、部活も学年も帰り道も違う先輩と2人きりで話す唯一のチャンスだった。
容姿端麗・頭脳明晰・運動神経抜群な先輩は地区でいちばん頭のいい高校に合格した。卒業式の日、制服のボタンを貰った。翌年同じ高校に入学した。廊下ですれ違うたびに手を振ってくれる先輩が眩しかった。先輩みたいな人になりたい。憧れの存在だった。
ただ当時のわたしはアイドルの嵐がめちゃんこ好きだったり、仲の良いクラスの男子と定期テストの結果を競い合って負けたらサーティーワンのアイスを奢るために一緒にショッピングモールに遊びに行ったりと、まあ、なんだ。傍目から見たら普通に男子が好きなんだなあという感じだっただろうし、自分でも男子が好きなんだなあということは疑いようもなかった。
ただ一方で、じゃあこの先輩への説明のつかない気持ちはなんなんだという疑問が胸の奥ーーのほうでキャラメルリボンのようにぐるぐる渦巻いてもいた。
実際サーティーワンの男の子からはサーティーワンの帰り道に付き合ってほしいという申し出を受けた。素直に舞い上がった。けど、高揚のままによろしくお願いしますとシェイクハンドしてしまうのは、なんか、なんか違うよなと思った。
「ごめん」のひと言を伝えるのがやっとのわたしに、サーティーワンボーイは
「おっけ。次のテストも負けねえから」と爽やかに返してくれて、それが告白されたことよりも嬉しかったのを覚えている。
アイスの冷たさが沁みる季節も過ぎて、短い秋をのんべんだらりと過ごしていたある日。地元の図書館で本を貪り読んでいたところ、雷に打たれたような衝撃を食らった。
それは少女小説「マリア様がみてる」との出会いであった。まじ、衝撃であった。
マリア様がみてる、通称マリみてとの出会いはわたしの恋愛観を180度どころか900度くらい変えた。まじ、根底からひっくり返ったのち勢いそのまま何周かした。わたしの精神世界はさながらセカンドインパクト後のような様相であった。信じられん存在感をもってして、わたしの世界を一夜のうちに変えてしまった。
お、女の子のこと、好きになってええんか……。
先輩への憧れを、尊敬とか思慕とかそういう言葉でもやもやっとさせなくてもええんか……。
近付きたいと思ってええんか……。
まじか…………。いや、まじか…………。
もう、絶句であった。
クラスメイトたちがせっせと次の定期試験に向けて勉強しているさなか、わたしはただひとりマリみてを読み漁った。とりあえず全巻読破した。
まじか。うわー。まじかー。
マリみてを読むことに全ての力を注いでいたためサーティーワンボーイとの賭けには再び負け、今度は購買のパンを奢らされた。苦手な物理では赤点を取った。けれどもそれらはマリみての前では些細すぎる出来事だった。
まじかー。
この「まじかー」という思いを3年間引きずったまま、けれども先輩との距離をそれ以上縮めることもできずに、先輩が卒業したあとは何事もなかったかのような顔をして男の子と初お付き合いをしたりしてわたしの高校生活が終わった。
マリみてどころの騒ぎじゃなかった。
盆と正月とクリスマスと創造神と破壊神がいっぺんにこの世にやってきて世界をめちゃくちゃに踏み荒らし、亡き者の命を弔い新たなる生命の誕生を祝福し、一筋の光を灯しては消して灯しては消して「じゃ!あとは自分で頑張って!」と言って帰っていった。
まじ、衝撃であった。
セクシュアリティ、多様な性、LGBT、性別二元論エトセトラエトセトラ。それらすべての言葉や考え方が、自分がどれに当てはまる当てはまらない関係なく、誰もかれもに関係する言葉であるのにも関わらず、わたしは過去18年間何ひとつ知らなかった。
ただ己の直感のみで生きるしかなく、その直感の中に「もしかしたら女の子が好きかもしれん」というものがあり、がしかし、なまじ男子も好きになるがゆえに「いやいや、まあそれとこれとは違うっしょ」という感じで奇跡的な気付きに雑に蓋をしてしまっていたのだった。
と思わないでもなかった。
でも、じゃあ仮に高校時代に「女を好きになる女」みたいなことを調べたとして、わたしが先輩に何がしかアプローチすることはあったのか?先輩後輩の均衡を最後まで崩さなかったのは紛れもなくわたしの選択肢ではないのか?
どうしょもないIFすぎる問いを抱えたまま、とりあえず次に好きな女の子ができるまで、何事も何事もなかったムーブで過ごそうと決めた。
ただ、ちょぴっと知識を得たことで、わたしの「普通」がちょぴっと変わった。
女を好きな女であることをことさらに全面に出すこともなく、かといって、押し込めるわけでもなく。普通に男の子とも付き合うし、好きになったら女の子にも普通にアプローチする。だって好きなんだもん。別にいいじゃんね。
クィアの講義を受け持っていた先生は、セクシュアリティは個人的なもので、そして流動的なものでもあると言っていた。わたしは結構この言葉が気に入りだった。
個人的なもの。わたしだけのもの。流動的なもの。変わってもよいもの。わたしのものだから、変わったって変わんなくなって、誰に文句を言われる筋合いはない、もんもんとしたときは、そういうものがわたしの体の中心にすーっと通っていることを思った。
その「すーっ」を思う効能は、何事も何事もなかったムーブよりもはるかに効き目があった。
いま好きな女の子に対して、踏み込みたいという気持ちが無いわけではない。そりゃ好きだからな。
2人で遊ぶこともある。今度は旅行しようねと話してる。
舞い上がらないわけがない。でも彼女が少なからずわたしを信頼してくれているのがわかるから、それを壊すようなことはできないなーと、綺麗な横顔を見ながら思う。
わたしにとってわたしのセクシュアリティがわたしだけのものであると同時に、彼女にとってのセクシュアリティも彼女だけのものであり、そんでもって関係性というのは両者で作るものだ。お互いを尊重したうえで変容を求めるなら変容を、現状維持なら穏やかに関係を続けていけばいいのだ。
で、わたしは別に彼女に「わたしは男も女も好きです!」みたいな宣言をしたことはない。ので彼女は多分知らないと思う。言うならきっと、女だとか男だとかではなく。必要なのは「あなたが好きです」というただひと言なんだと思う。で、わたしはまだ思いの丈を伝える覚悟がないから言わないだけで。
ていうか別に、宣言とか、しないよね。なんかセクシュアル・マイノリティばかり言う言わないうんたらかんたら色々ありますが、
言う人もいる、言わない人もいる。
わたしのように匿名ツールでなら言えるとか、ざっくばらんな恋バナをする友人には言えるみたいな人も、いや家族や職場に言います、という人もいるだろうし。本当に、人それぞれ。その人だけのもの。個人的なもので流動的なものだから。
だからこう、ネットでも現実社会でも、まじかーまだその段階かーみたいな発言やら意見やらを見かけることは多々ありますが、知識を得た今ならそういったあれこれ全て、わたしの個人的なものを傷つけたり揺るがせたりすることはできないのだよ、と自分に言ってあげられる。ただ、中高生のころのわたしのように、じゅうぶんな情報や知識にアクセスできない若い子たちが不用意に傷ついていないかは心配しているよ。ていうか本当、いちばんはそこだよね。