はてなキーワード: 垣間見るとは
小学生まではアニメの中の美少年にブヒブヒ言ってる腐女子だった。中学生になってから、友人がデビューしたてのキラキラアイドルにはまったので、話についていくために音楽番組を見始めた。
そして私にも同じ事務所の推しができた。友人の推しグループよりもずっと先輩で、世間からはすでにおじさんキャラ扱いされているグループだった。
バラエティも小慣れた感じでこなしていて、ネタ扱いされているようなグループだったが、歌を披露するときはすごくかっこよくて、そのギャップに秒でハマった。
ハマりたての勢いのまま、ライブにも行った。当時はまだメイクなど覚えておらず、ひどい顔面で行ってしまったことを今でも後悔している。
そのライブはいわゆるアニバーサリーライブで、パンフレットではこれまでの活動の振り返りとこれからの展望をメンバーたちが語っていた。
「きっと20年後も、何も変わらず同じ雰囲気でインタビューに答えているだろう」と彼らは語っていた。
私はその言葉にひどく感動した。
私は彼らの仲の良さを垣間見るのが好きで、他のどのグループよりも絆が強いと思っていた。アイドルと名乗るのは憚られるような年齢でも、臆することなく笑顔を振りまく姿が好きだった。
一生推そうと思っていたのに、そのライブが私にとって最初で最後のライブになってしまった。
その数年後には、メンバーの1人が女性問題の不祥事で脱退した。何をしている?と思った。立て続けに数人が脱退した。私が好きだった、アイドルとしてのプライドも、メンバーだけで生きていけるレベルの仲の良さも、全部虚像だったことが分かった。もうそのグループは存在しない。
結局今は小学生のころに好きだったアニメのキャラクターを再び推している。新しいジャンルにハマる気力はもうない。
そのアニメは現在ほとんど供給がない。供給がないということは推しに幻滅することもないということで、疲弊したオタクにはちょうどいい沼です。
現在の推しはとてもストイックで天然なところもある、とってもかっこいい男の子です。元担のように匂わせも風俗通いもしない。二次元最高。
小学生まではアニメの中の美少年にブヒブヒ言ってる腐女子だった。中学生になってから、友人がデビューしたてのキラキラアイドルにはまったので、話についていくために音楽番組を見始めた。
そして私にも同じ事務所の推しができた。友人の推しグループよりもずっと先輩で、世間からはすでにおじさんキャラ扱いされているグループだった。
バラエティも小慣れた感じでこなしていて、ネタ扱いされているようなグループだったが、歌を披露するときはすごくかっこよくて、そのギャップに秒でハマった。
ハマりたての勢いのまま、ライブにも行った。当時はまだメイクなど覚えておらず、ひどい顔面で行ってしまったことを今でも後悔している。
そのライブはいわゆるアニバーサリーライブで、パンフレットではこれまでの活動の振り返りとこれからの展望をメンバーたちが語っていた。
「きっと20年後も、何も変わらず同じ雰囲気でインタビューに答えているだろう」と彼らは語っていた。
私はその言葉にひどく感動した。
私は彼らの仲の良さを垣間見るのが好きで、他のどのグループよりも絆が強いと思っていた。アイドルと名乗るのは憚られるような年齢でも、臆することなく笑顔を振りまく姿が好きだった。
一生推そうと思っていたのに、そのライブが私にとって最初で最後のライブになってしまった。
その数年後には、メンバーの1人が女性問題の不祥事で脱退した。何をしている?と思った。立て続けに数人が脱退した。私が好きだった、アイドルとしてのプライドも、メンバーだけで生きていけるレベルの仲の良さも、全部虚像だったことが分かった。もうそのグループは存在しない。
結局今は小学生のころに好きだったアニメのキャラクターを再び推している。新しいジャンルにハマる気力はもうない。
そのアニメは現在ほとんど供給がない。供給がないということは推しに幻滅することもないということで、疲弊したオタクにはちょうどいい沼です。
現在の推しはとてもストイックで天然なところもある、とってもかっこいい男の子です。元担のように匂わせも風俗通いもしない。二次元最高。
なんか急にリベラル様が「私達は9条があれば平和は守れるなんて言ってない! 9条は日本を縛るためのものと言ったことはあるけど!」「だから侵略させないためには、別に手を尽くす必要がある」と言っている。
日本で最高の知能が集まるリベラル様が間違いを言ってるはずがないので、自分の記憶が間違ってないか調べてみることにした。一般人から政党まで、いろいろとね。
また、憲法九条は、紛争を平和的に解決するという考えを、多くの国民に定着させてきました。こうして、他国に軍事介入しない、紛争の原因をつくらないということが、他国による日本侵略の要因をつくらず、平和を守ることにつながってきました。
このレベルの例なら私にも出せる。しかもこんな小粒ではなく大量に、だ!これを見ればリベラルどもも黙るだろう。
第11問 憲法第9条は、戦争を放棄し、戦力を持たないことを決めています。あなたは、この第9条は、日本の平和と安全に、どの程度役に立っているとお考えですか。リストの中からお答えください。
1.非常に役に立っている 29.4%
2.ある程度役に立っている 52.6%
4.まったく役に立っていない 2.3%
5.わからない、無回答 4.7%
そう、何とNHKによれば日本人の8割もが憲法9条が日本の平和と安全に資すると答えているのである!
どうだリベラルどもよ、これを見てもまだ9条が平和に役立つと言ったことがないなんて言えるか?言った人がいたとしても少数だなんて言えるか?国民の8割とはマイノリティーなのか?マジョリティーもマジョリティーなのである!
そして今明かされる衝撃の真実!大多数の日本人はお花畑リベラルかお花畑リベラルに洗脳された愚民だったんだよッッッッ!
おっといけない愚民なんて言葉は選民思想リベラル様の専売特許だったのであった。しかしまあなんて由々しき事態なんだ…。
日本は国際社会で、主としてどのような役割を果たすべきか聞いたところ、「環境・地球温暖化・感染症対策を含む保健などの地球規模の課題解決への貢献」を挙げた者の割合が63.9%、「人的支援を含んだ、地域情勢の安定や紛争の平和的解決に向けた取組を通じた国際平和への貢献」を挙げた者の割合が59.2%と高く、以下、「軍縮・不拡散の取組などを通じた世界の平和と安定への貢献」(41.2%)、
昨年度の内閣府の調査を見れば国民どもの思想を垣間見ることができる。4割が軍縮・不拡散を行うのが日本の役割だと述べているのだ。この夢想家どもがッッッ!
ちなみにCSVデータを見ると一番軍縮云々に賛同しなかったのは30代で26.1%しか賛同していない。次が18-29歳の37.3%なのでここだけ異様に低いのが分かる。不思議だね。
いや、ちょっと待ってほしい。「9条が日本の平和に役立っている」と主張したからといって「9条があれば日本は平和」と言ったことにならないはずだ。「他国に軍事介入しない、紛争の原因をつくらないということが、他国による日本侵略の要因をつくらず、平和を守ることにつながってきました」という文章を読んで「わあ、9条があれば侵略されることはないんだね!」と読解する人間はさすがにおるまい。確かに共産党は近いことを言ったこともあった気がしないでもないがこの文章だけではそうとは捉えられない。意外なことに原文を読んでも「他国に軍事介入しない」とは他国の戦争に自衛隊を派遣して怨みを買わない、「紛争の原因をつくらない」とは武器輸出をすることでイラクのような平和を脅かす集団を作るということをしてないという意味で、結果侵略される要因を作ることにならないため平和に資するのだといった程度のことしか書いていないのである。
第13問 あなたは、現在の世界の情勢から考えて、日本が戦争や紛争に巻き込まれたり、他国から侵略を受けたりする危険性がどの程度あると思いますか。リストの中からお答えください。
4.まったく危険はない 0.5%
5.わからない、無回答 1.9%
このように国民の8割が9条が日本の平和に役立っている一方で、国民のほとんどは侵略される危険性があると考えているわけだ。少なくとも国民大多数の中ではこの2つが両立しているということが論理必然的に分かる。
「9条が平和に役立つ」は「9条があれば侵略されない」ではない。データから国民全体の傾向として言えるのは「9条は平和に全く役立たないという意見の持ち主は限りなく少数派」、「多数派は9条は平和に資するがそれで侵略されないとも思っていない」といったところだろう。まあ相手の主張を0か1かで考えるのは楽だが、わりとこんな感じで程度問題だったりもする。「9条が日本を守ってきてくれた」と言う人に「どれくらい役に立ったの?」と聞いて「100%」と返ってくるかは微妙なところだ。そういうものである。
一応補足しておくと今同じ世論調査をすれば「9条が平和に役立っていない」と答える人が増えるのではないだろうか。この2017年の調査にはやはり集団的自衛権を巡る数々の議論があり「戦争に巻き込まれる可能性」が俎上に上がった余波が残っていると見るべきだし、その前に行われた2002年調査はイラク戦争直前でテロ特措法が成立するなど既存の法体系で対処できるか心配された時代であった。実際、同調査では2002年の方が2017年よりも憲法改正賛成派が多く、また9条が平和に役立つと答えている人も少なめである。ウクライナ侵略が行われている今であれば恐らく2002年調査に寄るかそれ以上に変動するかもしれない。国民世論と秋の空でただですら世論はぶれまくるのに出来事1つで更に右往左往するものだ。これは何があってもそこまで政治信条をあまり大きく動かさない我々政治厨が見逃す点で大抵国民世論に確固たる思想信条の基盤があると”必要以上”に考えがちだ。
ところでこれ1974,1992,2002,2017と調査が行われているのだが9条が平和に役立っていないと答えた人は1974年が一番多いのはちょっと面白くないですか?
個人的な意見を言えば、9条に全く平和に資するところがないとは思ってはいない。自衛隊派遣を巡って毎度国会が空転しているのを見れば軍事を増強しても他国視点だと侵略してくるとはあまり思えないというのはあるんじゃないか。専門家ぽく言うと安全保障のジレンマを軽減する信頼醸成措置的な何かになる要素はあるんじゃなかろうか。安全保障のジレンマは元々はリアリズム(国際政治学の学派の名前で一般的な意味とは異なる)が言ってたことで、信頼醸成措置は第二次安倍政権が作った「平成26年度以降に係る防衛計画の大綱」でも使われている言葉だから言葉としては存在するけど使い方が合ってるかは知らん。
なおデータで言えば一般抑止は計量するのが難しいので何とも言えないが、明日にでも戦争が始まりそうな状態から戦争をやめさせるという緊急抑止については統計分析が存在する。当然9条のデータなんて存在しないのだが、軍事同盟については緊急抑止についてのデータが存在する。代表例はHuthの研究なのだが何と相関関係はマイナスである…。まあこれは選択問題とか色々な理由で一般抑止はあるんじゃねっていうのは言われている。データで証明できてないじゃんwwお気持ち乙wwという世界ではないからね。
それ自体はどうでも良いのだが、同時に緊急抑止に関係あるのは長期の軍事力ではなく短期の軍事力だという分析結果もある(一般抑止は分らんが)。日本ではあまり聞かない議論なんだけど闇雲に軍事力軍事力言うよりその辺何が抑止に効果的なのかとかもうちょっと表で議論されてほしいんですけどね。
抑止とは、費用と危険が期待する結果を上回ると敵対者に思わせることにより、自分の利益に反する行動を敵対者にとらせないようにする努力である。したがって合理的敵対者に対してのみ働き得る機能である。
最後に1つだけ。引用した『軍事学入門』は軍事に詳しくリアリスト(国際政治学の学派の名前ではなく一般的な意味と同じ)であれば必ず通った書物だ(過言)。ちなみに自分は軍事通でもリアリストでもないダメ人間なのだが。読むと至極当然の抑止についての説明が書いてありますね?ところが最近の議論を見ているとこの当たり前の話を忘れてないか…という人がいる気もしないでもないのでここで紹介しておく。
もちろん「合理的」のニュアンスが難しいところだとは思うが。行動経済学が人間は非合理という話をした時、既存の経済学の「合理性」を拡張すれば対処できるものもあるよねって話になったりもしたんよね。その意味でこの「合理的」を「プーチンは戦争を起こす際に損得勘定もできないアホバカオタンコナス!だから軍事抑止力も意味ないんだ😭」って話にできるかは別の話。
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うどんがない国ではどうやって子育てをしているんだろう……?(イラスト:chiro)
日本では離乳食や幼児食の定番となっている「うどん」。そんなうどんにまつわるある想像をつづった投稿がTwitterで話題を集めています。子どもの食事にうどんが欠かせない……!
うどんがない国では……
ホント日本で子育てしてると世界の他の国の人は2歳児にうどん食べさせないでどうやって子育てしてるんだろうと思う。(ニャロメさんのツイートより)
日本において、うどんは離乳食や幼児食によく使われる食材です。子どもが食べやすい、調理が簡単、消化にやさしい、安価で入手しやすい、アレンジがしやすいなど、さまざまな長所があります。小麦アレルギーがなければうどんを重宝している家庭は多く、うどんを短く切るヌードルカッターなどの関連商品も人気です。
その便利さは、「うどんがない国ではどうやって子育てをしているのか?」と思ってしまうほど。ニャロメさんの率直な思いは多くのTwitterユーザーの共感を得て1万5000以上のいいねが集まり、「ほんとですね!!うどんないとか、考えられません!」「めちゃわかります!!」「ちゅるちゅる(うどん)最強ですもんねー。」などの声が寄せられていました。
また、実際に海外に住んでいる人からは、パスタやリゾットが日本の「うどん」に当たる食品だというコメントも。クスッとする素朴な疑問ながらも、思いがけず世界の離乳食・幼児食事情を垣間見ることができる投稿でした。
そうでしたか。好きなおじさんとのお付き合いが思うようにならないのは残念でしょうけど、それでも他にお付き合いする男性が見つかったのは良かったですね。やはり異性とのつながりが保てているのはいいですよね。
マッチングアプリや出会い系サイトは、上手く使えば接触の機会を広げる役に立つのですが、使い方にコツも必要ですし、気がすすまないのに無理に使うのはやめといた方が良さそうです。(そのうち気が変わるかも知れませんが、まあ、その時はその時)
なお、EDの治療法は最近ずいぶん進んでいるみたいですので、30代なら割とすぐ何とかなるかも知れませんよ。
何かと思い通りにならないこともあるかも知れませんが、まだまだお若いんだし、これからも様々な機会があることでしょう。どうか希望を持ってすすんでいって下さい。ささやかながら影から応援してます。
また、あなたがご自分の気持ちをここに書いて下さったおかげで、僕にとっても女性の気持ち(不安感や期待感や渇望感など)を垣間見る良い機会になりました。ありがとうございます。僕も少しでも女性の気持ちが良くわかるおじさんになろうと思います。🙂
BE:FIRSTのファンを眺めていて思うことを殴り書く。
もうくるところまできた気がする。
くそキメェんだよこの風潮。
そろそろ「はい! いったんこれやめやめ!」って誰かアーティスト自身が自覚的に止めないと終わらないよ。
10代から20代にかけて、バンドとかソロアーティストにはハマってきました。
当時はバンドのオフショット風映像とかのコンテンツが豊富じゃなかったから、ライブでの完成された姿しか見られなかった。
だからファンがそれぞれ妄想するしかない、「こんなだったらいいな」みたいなメンバー同士の仲を描く薄い本も、「こんなこと考える人がいるんだなあ」とおもしろく読んできし、たぬきに書かれた自称カキタレによる「あいつらクソ仲悪いよ」みたいな書き込みも、「まあそうだよね」なんておもしろく読んでいた。
そのうちプロ野球にハマって、野球界のMyojoこと「プロ野球ai」には、芝生で寝転がってスキンシップする2人の野球選手……みたいなグラビアが豊富に載っているという世界観を知り、それに湧く女性ファンがいることも知った。
テレビや雑誌で垣間見ることができる、メンバー間の関係性プラス自分の願望を添えたホモソーシャル妄想をよく聞かされて、おもしろいなあと思っていた。
余談だけど、サブカル系の雑誌に載るような、ジャニヲタが書くジャニーズ愛を切々と書き綴るコラムはとびきりおもしろいと思う。
ツイッターに「#BTSで18禁妄想」があるのはよどみなく受け入れた。
だって完全な妄想だもん、自分のヘキを好き勝手書いて楽しんでいるだけだし、わたしが10代の頃に知った薄い本と同じことをやっているだけだし。
やたらと「兄弟(キラキラ)(ハート)」でくくって、それぞれの相関関係を描いて楽しむのは、KPOP特有の文化なのかなと理解していた(儒教が根底にあるの? 知らんけど)。
「長男なのにマンネにいっつもイジられて尊い(キラキラ)(ハート)」とか。
それは彼らのキャラクターを愛でるうえでは欠かせないのだと思うし、彼らはプロとしてわたしたちを楽しませるために、たとえば”仲良の良さ指数”10を100に演出してくれているんだろう。
(なによりBTSはユンギがいるから冷静に見ていられる。彼は、ウソ・大げさ・まぎらわしい、をむやみにしないひとだと信頼できるから)
だがよ、「THE FIRST」にハマってみたらよ、なんだよこのザマは?
オーディション番組として生身の人間関係を純粋に楽しんで、それぞれのメンバーにも魅力を感じて、楽曲もダンスもループで聞けて見れてアイドルってほんと楽しいなあ!って思ってても、毎回You Tubeのコメント欄が目に入ると嫌悪感に侵される。
「パフォーマンスはバキバキにカッコいいのに、普段は小学生のようなBE:FIRSTの皆さん。推せる」
You Tube撮影用に形つくってんだよカメラ回ってないところでやるわけねえだろ。キメェ。
「ソウタに抱きついたりリョウキの腕に自分の腕絡めていくシュントとか、彼女かのようにリョウキの足の間に座るマナトとか、本当になんなのこの子達は。仲が良過ぎて嫉妬すらしないわ」
いちいち一挙手一投足をキモく強調して取り上げるなよ。こいつらマジこういうとこある。「○○とか、○○とか」っていちいち並べて最後に「推せる」と締めるお花畑文体、キメェの極み。
「リョウキにもたれかかってるマナティ、子供みたいで可愛すぎるんだが!?!? 絡みついてるシュントも肘置きたいジュノンも全員まとめて可愛すぎるんだが!?!?!?」
口調がキメェ。
「ちょっとーーー!! なんでリョウキのお膝の間にマナトが座ってるーーん」
お膝て! キメェ。
「ジュノンがマナトとリョウキに肘乗せながら、目をコシコシ擦りながら、『座んね』って言うの、めっちゃかわいい」
ただ目がかゆかっただけでこのキメェ言われよう、かわいそうすぎる。
「このみんなだと改めてYouTube用に撮影しなくても素を撮ってもらえるだけで最高に面白いものが出来るから安心だね」
いやYouTube撮影用じゃなかったらなんの茶番だよ。逆に彼らに失礼だろキメェ。
むせ返るようなお花畑に野糞したくなるのと同じで、軒並み低評価を押していきたい衝動にいつもいつも駆られます。
あとさあ、アイドルを見るときいつも気になるんだけど、彼らってやたらとスキンシップしますよね?
ジャニーズとかBTSのジミンとか、プロアイドルならわかるんだよ。
「こういうのをお求めですよね? さあさあどうぞ! お楽しみください!」ってエンタメでやってるのがわかるから。
でもBE:FIRSTみたいな、決してプロアイドルではない男性たちが大げさにスキンシップしてると、「え、これって20代男性のデフォなの? 女子校&女子大出身でこの世代の男性群に触れてこなかったわたしが知らないだけで、みんなこうなの?」って錯覚する。
コメント欄にも、
「普段の姿が、ほんと近所の戯れてふざけ合っている男の子達となんら変わらない事がすごーーく良い」
てあるし、わたしは近所の戯れてふざけあってる男の子たちなんて見たことないけど、実際にはあるのか?
けど夫にその疑問をぶつけると、「普通にそんなことしない。パーソナルスペースが近いヤツは、『こいつ近っ』って思って離れる」と言う。
罪だと思う。
限りなく”素”ですよ〜って匂わせるこういうコンテンツ。
生身の人間を堂々とBL視してそれをキメェと自覚できないお花畑が増えてしまう一因が、ここにあると思うんです。
だからわたしは、ファンが求めるBLを体現できないコミュ障のリュウヘイが好きだし、このまま馴染まずにいてほしいし、とはいえ果ては「ももクロの緑」みたいになってもいやだなあ……。
情報化社会の黎明期、人同士のつながる量が加速度的に増えていくことで可視化された問題の一つだ。
当時は言葉の響きだけが独り歩きして、本そのものをちゃんと理解できた人は少なかった。
その反応は大きく分けて2つ。
「自分の言いたいことをはっきりと言ってくれた」と肯定的な反応と、「バカとはけしからん。人は言葉でわかりあえるに決まってるだろう。」と否定的な反応だ。
しかし、その反応のどちらもがこの言葉に対して大きな勘違いをしていた。
それは、「自分の話が相手に伝わらない理由は、相手がバカだからであり、そこに越えられない壁=バカの壁があるから」という理解で読み解いてしまったことだ。
「人は自分の話が相手に通じなかったとき、相手がバカだと決めつける性質がある。」ことこそが、本当の意味でのバカの壁の存在を意味している。
しかもこの時、聞き手側にも「自分が相手の話を理解できない時、説明できない相手の方がバカであると決めつける性質がある。」というバカの壁も同時に存在している。
なぜなら、人の理解というものはその人の経験や知識から成り立つものであり、それらが両者に存在していない限りは、お互いが理解しあえるなんてことはありえないからだ。
つまり、相手がバカなのではなく、相手をバカと決めつける自分がバカなのだ。
これについては著者すら気がついていなかったと思う。
だからこそバカの壁の本質を理解できないやつは全員バカだ。という論調であの本は締めくくられていた。
自分の話が相手に伝わらなかった時、自分が「相手はバカだ」と思うのと同時に、相手も「説明がしっかりできないだなんてこいつはバカだ」と思っている。
だから、あの本の本質を理解できなかった人にしてみれば、著者はバカであり、バカの壁なんて概念は無駄なものだと考えられていた。
そうして、著者と読者それぞれがそこにバカの壁が存在していることを証明してしまうという皮肉な構図に至っていたことは、あまり知られていない事実だろう。
そもそも、言語というものはコミュケーションの中でそれほど多くの情報量を持っていない。
人同士がコミュニケーションを行う上では、ボディランゲージや声のトーン、表情、目線などのほうが、伝える情報量はよほど多い。
なぜなら、言語という道具を使い始めた歴史はそれ以外のコミュニケーション方法に比べれば非常に浅く、言語だけで情報を伝えられると思っていることのほうが誤解だからだ。
残念ながらそのことを理解できている人間は少ない。妄信的に言葉で情報の全てを伝えられると思いこんでいる人がほとんどだろう。
ここまで考えてみれば、つまり本当の意味でのバカの壁とは、言語のみで自らの思考や情報を伝えられると思いこんでいるおごりのことであることがわかる。
受け手に置き換えても、言語のみで説明されても理解できるはずだというおごりがそこにある。
今だってSNS上では当たり前のように誤解が繰り返され、真意が理解されることもなく説明も釈明も許されないまま受け手の都合によって勝手に解釈が広まっていく。
しかし、バカの壁の存在を認知できているだけで、人の理解力はまったくもって変わってくる。
情報が理解できない理由を相手ではなく自分に求めることができれば、足りない情報を自ら補うことができるからだ。
自分が理解できなかった理由は相手にあると考え、誤解させた人間を責める行動を取る。
自らのバカを棚に上げて、相手がバカだと罵るだけの野蛮な行為に走る。
ただただ情報や人の人生をエンタメとして消費するだけの、消費行動のみだ。
声高に批判する相手そのものに成り下がるというのも、バカの壁に見られる特徴的な行動の一つだ。
果たしてはてなユーザーに、バカの壁を越えてこの内容の真意を理解することはできるだろうか。
結局はこうして、バカの壁の話をする度にそこにバカの壁を可視化させることでしか存在を理解させることは不可能なのだろう。
今一度一人ひとりが自らの心にそびえるバカの壁の存在を見直すべきときに来ている。
人にはバカの壁が存在していて、相手に話を理解させることも相手の話を理解することもそもそもできないのだ。
だからこそそのまま情報の一つとして受け止めて、その情報を役立つものへと活かしていく。
それができる人だけがバカの壁を越えた向こう側に行ける人なのだろう。
これすらできる人にはとっくにできていることで、できない人だけがバカの壁の内側に取り残されているという皮肉でしかないのだが。
いまのはてなを憂い、向こう側に行きたい人にだけ届いてくれることを切に願う。
※蛇足
かつて士郎正宗氏は無知の知ではなく「不可知の知」であると置き換えていた。
人は何かを知れば知るほどに、知ることができないことを知るのだという。
そしてその時の自分は、それがコミュニケーションにおいても同様なのだと悟った。
どれだけ理解を深めようとも、最後まで理解することも理解させることもできないのだと。
それならば、そもそも理解を深めることだけを目的にすることはナンセンスである。
そこには最後まで取り払えないバカの壁があるのだから、相互理解はそこそこに、目的や行動を優先すべきだと悟ったのだ。
そこに少しでもヒントがあれば吸収し、利害がなければ自分には関係のない情報なのだと切り捨てるようになった。
確かコミック版攻殻機動隊のあとがき(BLACK MAGIC M-66だったかも)だったと思うが、他にも人生は螺旋階段を登るようなものだとか、士郎正宗氏の哲学の一部を垣間見ることができてとても興味深かった。
最初に言っておくべきだが、私は村上春樹の熱心なファンである。
スプートニクの恋人以降、発売された長編は発売日に買って読んでいるし、短編も購入するようにしている。
だが、最近なんか違うなと思ってきた。最新の三人称単数に関しては、内容のつまらなさ自体が一種の文学的仕掛けなのかと勘ぐってしまったくらいだ。
それで例の発言だ。
誰もまずいものや健康に悪いものは食べたくないし、読みたくない。
言うまでもないがSNSは不味いどころか、モノによっては有害でさえある。
だが、育った環境や経済状況によってはまずいものしか身の回りにないという場合も充分にある。
善し悪しの判断基準を持たないということも充分にありえる。
そういう人に本物を届けるのも作家の役割だと思うのだが、村上春樹の視点からはそういう「市民」が欠落しているように見える。
誰もがクラシックを聴いて批評したり、ジャガーに乗ったり、ボストンマラソンを走れたり、アイルランドでウィスキーを飲めるわけではない。
例の発言は、読者のQAに答えた形の内容なので、恐らく本人は「個人的には〜〜だと思います。なぜなら〜〜だからです。ですが、別にSNSを日常的に利用している人に含むところはありません」
という気持ちで書いたのだろう。
とはいえ、村上春樹の視野のなかにストゼロを飲みながらふわっちを見ている人はいない。
村上春樹はかつて、「全体小説を書きたい」と言っていた。彼の「全体」のなかに、ストゼロとふわっちは含まれないのか。
文学とは、42歳の派遣社員がお見合いパーティーで3回連続で誰ともカップル成立しなかった時に、心の支えとなるようなものではないのか。
田舎に住む自分が、仕事の為に地方都市の市役所だか県庁だったかに行ったとき、そのすぐ後ろにでかい公園があった。
遊具の有無は覚えてないけど、とにかく広くて芝生が青くて、親がレジャーシートを敷いて遊ぶ子供を見守っているような公園だったから、優雅だなと思ったのを覚えてる。
さてもう一件いかないと、と車に乗って、これまた広い道に出ようと公園をぐるっと一回りしたとき、五台前くらいの車が何かを避けるように、ゆっくりと反対車線に大きく膨らんだ。
片側一車線だけどとても広いその道路の、反対車線には車が無かった。
ずっと続く道の奥には、こっちへ向かって来る車は見えなかった。
それでその、五台前くらいにいた車の後続車も、その後ろも、その後ろも、続いた先にいる自分の前を走っていた車も、道を大きく膨らんでさっさと走っていった。
大きな、ファミリー向けの車も。
それで、本当に田舎の山の中から出てきた自分は「あっ、イタチが死んでるんだ」と思った。
だって朝も道路で死んでるのを見たし、数か月前には申し訳ない事に自分も轢いてしまった。夜中に。
「道路で動物が死んでたら電話を掛けて回収してもらうけど、こんな都会だとどういう処理になるのかな」
と呑気に考えながら自分も前の車に習って道を膨らむと、そこにいたのは生きている子供だった。
二歳だか三歳くらいの、髪の毛がくるくると巻いてる赤ちゃん上がりの子供が指をくわえながら、車道をとろとろと歩いていた。
ぎょっとして、道に車を止めて子供に駆け寄ると「誰だよ」みたいな目で自分を見た。
「お名前は?」と聞いても動きを止めたまま何も言わなくて、この年の子が話せるのか話せないのかもわからない。自分の周りには子供が少ないので。
そうこうしている間にも車はどんどん自分達を追い越していくし、周りを見渡してもこの子の親が見当たらない。
公園から道路までは階段を六段くらい降りないといけないから、「こんな小さくても階段降りれんだな」とどうでも良い事を少し考えていた。
とりあえず自分も予定が入ってるので、何も言わない子供を抱き上げて公園の階段を上がる。
一応「ごめんね、だっこするね」と声を掛けたけど、うんともすんとも言わない。
知らない人がこうするのは良くないとは思うけど、捕捉していないと急に車の方に走って行きそうで怖かった。
久しぶりに抱き上げる子供は柔らかくて、その先に骨の感触がして、猫みたいだと思った。猫ももう何年も触ってないけど。
入口近くにいたお母さん二人に「この子を知りませんか」と言うとすげえ不審な顔された。仕方ないと思う。
それでも説明をすれば一緒に考えてくれて、ああだこうだと降ろした子供に話し掛けてくれている時に、少し離れたところから「あら、〇〇ちゃん」と声が掛かった。
まるで何でもないような顔をして、だけど自分の事を「誰だお前」みたいな目をしているように思えた。
まあ自分の孫が知らない人といたらそう思うだろうし、「迷子になってました」とだけ言って公園を出た。
車に戻って発進して、目的地に向かう途中で気付く。
なんで前にいた車は、ほぼ赤ちゃんみたいな子供が車道にいたのに保護しなかったんだろう。
公園に入っていった車はおそらく家族連れで、お父さんやお母さんは何も思わなかったんだろうか。
そうでなくても、単身者でも、老人でも、若くても、LGBTでもなんでも、何も思わなかったのか。
思えばこの年、道で倒れてる子供を見かけて車を止めたことがある。
登校中の小学生がすっ転んで頭打って泣いてたのを、周りの小学生が取り囲んでる所だった。虐めではないと思う、知らんけど。
これも、自分が声を掛けるまで誰も助けなかった。
泣いてる小学生に駆け寄った時、背広を着た眼鏡の中年男性が自分を見つめながら通り過ぎて行ったけど、あのおじさんは何も思わなかったのか。
そう考えると、窓の外は異世界だと思っている人間が少なく無いのだと思う。
車の窓の外は自分と関係のない景色で、テレビを見ている感覚に近いのかもしれない。
おじさんだって眼鏡レンズ越しの世界なら、それはもう治外法権みたいな感じなのかもしれない。
自分の周りの現実世界にしたって、インターネットにしたって、声高々に弱者を救済する声が上がっている。大なり小なり。
虐めについてだとか、子供の貧困や虐待だとか、事故の犠牲者だとか、病気の人がどうとか。
当たり前のことで、守ってあげないといけないものは守ってあげないといけない。自分の出来る限りではあるけれど。
それでもこうやって、誰かが助けてあげなきゃいけないと一目見て解るような状態で、誰も助けてくれない現実を垣間見ると、なんだか色々考えてしまう。
周りの、声を上げている人をモニタリングしてみたい。
手を差し伸べるのか、見捨てるのか、景色の一部だと思って見過ごすのか。
あの車に乗っていた人達は、車道を歩いていたあの子供を上手に避けた。
車の内側にいる人は子供を殺す事はなかったけど、生かそうともしなかったように思う。
お願いだから止めてくれ。
・コメにもあるが「理不尽に思えるルール」は校則化されてないことも多い。
(校則が変更されたとき、ネットの情報もきちんと変更されるのか?)
・公開された校則をもとに、学校とはなんの関 係 も な い人からのイチャモン電話がかかってくる可能性がある。
公立学校はとくに電話回線が限られている。保護者や関係者からの連絡が滞るケースも考えられる。
子供を学校に通わせていて、先生たちの仕事ぶりをちょっとでも垣間見る機会があれば、電話応対がいかに大変かわかると思う。
信憑性が担保されない情報をもとにした、学校とは関係のない人との電話応対に貴重な労働時間を使ってほしくない。
先生たちの負担をこれ以上増やしてほしくない。負担が増えれば影響を受けるのはわたしたちの子供たちだ。
学校選びで校則を知りたければ、直接学校に問い合わせればいい。
ルール運用や雰囲気は、口コミサイトや先輩の話などである程度つかめるはず。
マンガ『進撃の巨人』を読んでいて、インターネッツが好きな自分にとっては、巨人の能力の継承とインターネット上のドメイン名の継承は似ているよな〜って思いました。
『進撃の巨人』には、「9つの巨人」が登場し、それぞれが特有の能力を持っています。
現在能力を持っている者を捕食する事により、その巨人の力を得ることができるのです。
巨人の力は代々継承されており、能力を得ることで過去にその能力を持っていた者の記憶をも垣間見ることができる。
インターネットのドメインは、1985年3月15日、Symbolics.comというドメインが最初に登録されてから現在まで、約35年の歴史があります。
その間にも、あるドメインが取得され、手放されてから、また別のある人に取得され...というようなことが繰り返されています。
あるドメインが過去にどのように使用されていたかどうかは、サイト「Wayback Machine」で調べることができます。
例えば、stripes.jpというドメイン。2004年に取得され、最初はTHE STRIPESというバンドグループのサイトだったことがわかる。
そこから手放され、2016年には福岡の痩せるエステ特集というアフィリエイトサイトに代わっています。
またまた、そこから放棄されて、現在空きドメインとなっています。
ドメインは、被リンク等、過去のドメイン使用者の行いが、現在のドメイン使用者に影響を与えることがある。
ドメインのように、「巨人の継承」と同じようなものって他にいい例があるかね。
そういえば、
すっかり忘れていたけど新年会。
延期延期になってるのよね。
いつ新年会が開催されるのか謎だけど、
もうこのまま桜を見る会にしたら!?って皮肉たっぷりに言いたいぐらいだけど、
お花見シーズンの頃には解除になるのかなーって
一人焼き鳥屋さんも串に刺さった焼けた鶏肉を豪快にキメることも一体何時私の焼き鳥ドリームは叶うのかしら?って心配になるわ。
飲食店行けなさすぎて、
任の天の堂を
私も売上に貢献していたのかと思うと、
そろそろ確定申告も秒で今年は終わらせる勢いの私なのよ。
昨年の私とは違うところをとくとご覧あれ!
今年は自信満々に満面の笑みを浮かべながら
とりあえず経費を今期はたくさん使ってしまったので、
そんな日経聴いてる?って雰囲気を漂わせられる用語100選のポケット版の小さな冊子を辞書のように鞄に忍ばせておけば、
日経新聞読んでなくても、
へーって涼しい顔できるってもんよ。
世の中の処世術よ。
戦場カメラマンの渡部陽一さんがもっと早くしゃべって欲しいぐらいに安全な胸ポケットに被弾!
でも大丈夫!
100人乗っても大丈夫!って手を大きく広げている物置でお馴染みのイナバの社長かと思ったら
私もそろそろマグロの解体ショーを間近で見なくちゃって思うのよ。
何度も何度も言うけど、
師匠についている弟子の名前が「たくみ」だったらややこしいやないかーい!って思わず
「たくみ」と「きわみ」だったら
お師匠さん見せてやれ!
極みの匠の技を!!!ってどっちが実演したらいいのかお弟子さん2人顔を見合わせて、
いまの言い方じゃおまえじゃね?って
混乱しまくるわよ。
鮪の尻尾の切り口を見て中の赤身の善し悪しを判断するってところは
でもあれって競り落としたお金の経費って実質広告費なのかしら?とも思うから、
あれは絶対に食費に回しちゃったら
エンゲル係数が爆上がりじゃない。
もうご家庭でお気軽に美味しい鮪が!鮪が!って
そこで初めて合点がいったってワケ。
今度あなたも鮪を食す機会があったら、
率直に美味しいなってことだけを感じて欲しいのよ。
そう普通が一番よ。
だからせっかく鮪の新鮮な切り身が手に入って
それを鮪ステーキにしても
って1回まではいいけど、
2回は言ったらダメだかんね!
せっかく新鮮な鮪を焼くなんて!とか言わないの。
焼肉がとっても楽しみなのよ!
マグロ!ご期待下さい!
うふふ。
あ!そっかそこで日経用語ポケット辞典で調べればいいんだ!って
載ってなかったけど。
やんないけど、
マグロマグロのはなしをしていたらマグロの口になっちゃうわね。
まあ関係ないけど
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
最近コロナによる活動自粛により、うつのような症状を発症する人が増えているという話を耳にする。
そのような方々には申し訳ないが、私はこの話を初めて聞いたときに本当にそんな人がいるのかと驚いてしまった。
というのも、私は友人がいないため誰かと食事に行くこともほとんどなく、外出は買い物かたまに温泉に行くくらいしかないため、生活はそこまでコロナ流行前から変わっていない。
それどころか、必要以上な人との接触がなく、オンラインで授業を受けることができる今の生活のほうが心地よいとすら感じている。
私は地方在住であるから、都心部の生活がどうなっているのかはよくわからない。
地方は都心部に比べれば密集も少なく、感染のリスクも少ない。買い物でスーパーに行ったり、バスや電車に乗るだけで感染の恐怖を味わわなければいけない都心部とは大きく事情が異なるのもわかる。
しかし、ツイッターでコロナうつを思わせるツイートを見ると、人と会えないということが彼らにとって大きなストレスとなっているようである。
もちろん、このコロナうつには複合的要因があるだろうから、単純に人と会えないことが原因なのではないだろう。
だが、現に彼らは人と会えないことに対して大きなストレスを感じている。
人とコミュニケーションをとることが苦手で、必要がなければ極力それを避けてしまう人種に、ぼっち耐性という能力があるということは目からうろこの発見だった。
中学受験の是非の議論の喧々諤々を見ていて、自分は学生時代恵まれていたんだなと思った。のでぼんやりのろけてみる。
小学校から中学校までは地元の公立学校に通った(お世辞にもあまり治安の良い地域ではなく、勉強もできる地域でもない)。
成績は優秀(当社比)だったので、先生たちからは可愛がられたほうだと思う。
友達にも恵まれたほうだと思う。幼馴染にヤンキーやギャルが多かったから積極的にいじめられることは多くなかったし、いじめられても友達が守ってくれた。
勉強は家でやっていたので授業の質は低くても高くても問題なかったし、受験も問題なく志望校に合格した。
楽しかった。
公立とはいえ家柄のいい友達も多く、いわゆるハイソな世界を垣間見ることができた。
色々自由にやらせてくれる校風だったので、部活にイベントに好き放題打ち込み、楽しい思い出が忘れられないほどたくさんできた。
授業も面白くて、好きな科目が明確になり、大学を勉強したいことベースで選べたのは特に恵まれているなと感じる。
地元にずっといたらあの先生には出会えてなくて、勉強の楽しさを感じることはなかったかもしれない。
自分自身は遊び呆けてたとはいえ授業のレベルは進学校の名に恥じぬもので、予備校とか行かなくても特に苦労なく目標の大学に入れた。
楽しかった。
学びたいことも期待以上に学べたし、密かにいだき続けていた小さい頃の夢まで叶えられた。
友達もやりたいことを選んで同じ場所にたどり着いているので、趣味も似通っているところが多く、自然と会話がはずんだ。
高校までとは違って全国から人が集まるのでいろんな地域の話を聞いて、いろんな地域に行って、自分の世界が地理的に広がった。
公立学校でこじんまりしていたころは、北海道から沖縄まで友達が全国にできるなんて思わなかった。
楽しかった。
人生の節々を思い返すに、どこでも楽しい思い出があるし、どこでも学びがあった。
こうやって書き出すとよく分かるが、自分がなにか頑張っているというより周りの人や環境が人生を豊かにしてくれているようだ。
昔の都合の悪いことを忘れているだけかもしれないが、細かいことを忘れた上でいい思い出が残るのならやはり恵まれて生きてきたのだと思う。
私立中学に行ってたら、地元の高校に行ってたら、色々違う未来があって、その中にはもっといい未来もあったかもしれない。
でも少なくとも自分の歩いてきた道は悪くない道だったと思う。それはとても貴重なことだと思う。
果名温泉の泉質は硫黄泉で酸性度は高く石膏分を含み、典型的には乳白色の湯を湧出し、皮膚疾患や自律神経不安定症、冷え性に効くとされる。現在の果名温泉にあたる場所で湯治が行われはじめた正確な時期はわかっていないが、戦国時代には国衆の松影氏と配下の武士が戦闘時に受けた傷を癒すために東屋を建て、熱した岩に湯をかけて出た蒸気を浴びる療法を行った記録が残っている。
旅館の立ち並ぶ温泉街が発展を始めるのは果名駅が完成し鉄道が停まるようになった大正初期以降で、大正年間には山形屋、鳳萊館、飛雲閣、梅風館、寶山閣が温泉旅館として営業を開始している。昭和初期には湯治客の増加に伴い、月風荘のように高層化した木造建築の旅館が現れた。昭和10年発行の果名温泉旅館協同組合名簿には27件の加盟旅館が記載されている。
温泉街は一大経済圏を形成し、湯治客のみならず温泉での働き手を引きつけた。特に昭和の恐慌時には各地の農村から子女が年季奉公で旅館に送り込まれ、仲居あるいは酌婦として住込みで働いた他、「即席御料理」の看板を掲げた曖昧屋も複数存在していた。
温泉街でありながら閑寂な山居の趣を味わいうる果名温泉は多くの芸術家たちを魅了した。志摩名護也の「果名にて」や葛西前後の「波浪」といった小説は果名温泉の旅館で執筆されており、当時の果名温泉での生活を垣間見ることができる。作曲家和賀英良の名曲「疑問」は、鳳萊館の露天風呂で着想を得たとされる。
戦時中には物資の統制や倹約の奨励で温泉旅館の営業は一定の影響を被った他、温泉街は疎開児童の集団受け入れの場となった。終戦直後の乏しい物資供給を乗り越え温泉街の旅館は営業を続けたが、高度経済成長期には急峻な地形に鉄筋コンクリートの高層ビルを建てにくかったことから果名温泉は団体旅行の受入地とはならず、鄙びた温泉地の形態を留めた。
今世紀に入って旅行者の嗜好が変わるにつれ、果名温泉街の伝統的な景観と旅館の木造建築が再び脚光を浴びている。経営者の高齢化、湧出量の維持といった課題を抱えながらも、温泉旅館協同組合が主な担い手となり、地域の産業振興策と一体となった新たな温泉街の魅力づくりに取り組んでいる。平成10年には青年会により温泉街で第1回オメガラーメンまつりが開催され、果名村が発祥とされるオメガラーメンを温泉とともに楽しんでもらう行事が現在に至るまで毎年秋に行われている。