はてなキーワード: 読了とは
インターネットに、いや現実世界でも、人間は多数の人格を持っている。
これは別に多数人格者の話ではなく、一般的な人間としての話で。会社、家、家族、友人、恋人。どんな形であれ私含め色々な人は色々な人格を持っており、その人格を扱って生きている。
と、いう話が昔習った社会学だか心理学だかの授業であった。人格や顔を使い分けることで生きやすくしているらしい。
話は変わるが、私は様々なSNSでアカウントを複数持っている。
Twitterは4~5つ、Pawooで1つ、pixivは2つ、その他諸々。それぞれが交わったり交わらなかったりしながら、適当に更新する日々が続いている。
というのも私は絵を描く人間で、多少なりとも人気のあるジャンルでいわゆるちょっとマイナーかな?くらいのキャラ2人組を永遠と描いていた。
漫画、イラスト、小説、立体造形。時にはゲームも作ったし、グッズを作り1人眺めるという行為も何度もしてきた。だがその中で、どうしても物足りなさを感じるときがある。
だが、絵を描いている人間であり、同じジャンルで活動しているとすれば絵柄で私かどうかわかってしまうのは当然であり、それはまあ避けたいということで小説に手を出した。
先述した通り元の私(仮名:A)は小説も書いている。突発的に思いついた内容を文章にしたためpixivに放り投げた。だが、何度投稿しても何度書き上げても、その字数は毎度1000字程度までしか書くことができなかった。1000字程度で勝手にオチが付いてくる。起承転結が纏まっており、気に入った文章でもあるのだが、pixivで何度となく体験した「どれだけ読んでもこの2人の話が終わらないよ~~!」「スクロールバーが小さくて沢山文字があって嬉しい~!」「この小説1万字あるの!?いつまでも読めるな…」みたいな経験を私の小説で味わうことが出来なかった。
そこで、新しくpixivのアカウントを1つ開設した。(というより、その前に出した同人誌に私の友人という体で一度小説を寄稿した事があるが)このアカウントの私をBとすることにしよう。
Aとは中学生の時に出会い、高校からは別の学校へ。だがAとはたまに遊ぶ程度の友人で、小説を好み、眼鏡をかけており、国語や数学が得意で、家からの近さで選んだ大学に通っており、文章を書くのが好きだがそれをどこかに発表したことはなく、Aに誘われAの好きな2人組にハマり、Aの出している同人誌に小説を寄稿したらAから褒められ、そのままAに乗せられてpixivに登録。Twitterには怖いというイメージを持っており登録していなかったが、まぁ近日中に登録してもいいかなと思っている。
これが存在しないBの人格です。存在しませんが。Twitterなどの場でBについて言及する時やBがTwitterをするとしたらこんな人間であるとするための人格。
改めて文字に起こすとやばい幻覚を見ている人の日記みたいになっているなとは今思った。
それはさておき、この設定を適当に練り上げ、pixivも登録し、Bとして改めて小説を書き上げた。
一番初めに上げる小説。いつもと同じくらいの時間をかけ書き上げた小説は、いつもの2倍程度の文字数を持っていた。
文字数にして2400字程度。そんなことあるんだというのが正直な感想である。
あくまで私はBとして小説を書いているので、(まぁ多少日本語が似ていても)文体は変えて書いているつもりであり、小説をパソコンを使って書いた結果がこれらしい。
人格によって文章量が変わるということはあるのだろうか、というのがこの日記の本題である。
文章自体を書くことは好きで、Twitterでも適当な文を毎日ぽいぽいと投げているし、今回の日記も気が付いたら案外多く文章を書くことになった。人格Aで小説を投稿したころより小説も沢山の種類を読むようになったも事も案外関係しているのかもしれない。
ただ、Aとして書いているときよりも文章としての表現の仕方や台詞の書き方が変わっているし、なにより文章量を増やすのに苦痛を感じない。
Aとして書いているときは、元々900字くらいの小説をなんとか伸ばせないかと検討して1100字程度に増やしていた。だが、Bとして書いた小説の2作目は、作品の途中(4割程度)にもかかわらず3000字を優に超えている。
もしかするとBを小説を書く為の人格だと思っている故に小説を書くという気構えが無意識に出来ており、それが理由で文字数も増えていくのかもしれない。
余談だが、私はAとして日記を書く場合はスマートフォンで書いている。
機器により内容は変わるのかもしれない。次はスマートフォンでBとして書いてみようか。
それにしてもすごい文字数の日記になってしまった。ここまで読んでくれた人には感謝の念を伝えたい。
おまけ
私の推し(生きている)は自分のついた嘘が嘘ではないという記憶の下友人の話をしていたことがあったし(先日それが嘘だと分かり「へぇー…」と他人事のように一瞬納得していたのが印象的だった)過去にもTwitterでは「娘が1人いるという嘘をSNSでついていたら気付くとその存在しない娘との思い出がふと出てきて怖くてその娘の話は二度としなくなった」という話も以前耳にしたことがある。いや娘かどうかは覚えていないが。
今の私は大体嘘をついてSNSを生きており、そもそもの人格Aですら事実に嘘を混ぜてSNSに書き込んでいるし、人格Bはもう存在しない人間を作り上げて活動している。
小さな嘘はどんどん自分に降り積もる(らしい)し、今の私は割と中核~大きなサイズの嘘で作られたSNSをしている状態である。
TLに流れるおけパ・おパ島への楽しそうなお気持ち文を読んで、私も真田(@sanada_jp)さんの『秀才字書きと天才字書き』『神字書きがジャンル移動する話』を読んできた。以下は私の長文お気持ち読書感想文である。
結論から言うと、私にはTL上でみなさんが呟いていたような悲鳴はあげられなかった。作中の登場人物全員の気持ちを推察したうえで誰にも強い感情を持つことはなかった。私も悲鳴をあげたかったのに。
私だけが作品にのめり込めなかったという状態になるとなんだか悔しいので、せめて私がこの作品に特別な感情を持てなかった理由を考えてみたい。
まずは主人公だ。『秀才字書きと天才字書き』の主人公である七瀬から見ていこう。彼女は綾城の二次創作に心を打たれて文字書きとしての努力を重ねたが、おけけパワー中島と綾城の交流を見て何かが切れたかのように創作に専念するようになってしまった。
初めて読んだときから『自分はこうはならないな』とハッキリ思った。自分も文字書きではあるがそれ以前に、人並みに努力をすると3日で体調を崩すような人間だからだ。しかし一方で交流が苦手な人種でもあるので、互いに話したことがない推し作家と知らん奴が仲良さそうに喋る光景は何度か遭遇している。そんな二人を大した感情を抱くこともなく見守っているのが私である。そういうときの知らん奴は大抵推し作家の昔からの知人か推し作家のめちゃくちゃなファンである。つまり同じ作家を推す者、同志だ。敵対の感情はない。それに嫉妬の感情から生み出した作品は虚しい。読む側にとってはそれを神作品と感じることもあるし、私も嫉妬が全面的に出た作品を称賛したことがある。だが作品を書く際はせめて作中人物に集中したいものだといつも思っている。ゆえに七瀬には共感できない。
『神字書きがジャンル移動する話』の主人公・友川はどうだろうか。彼女は綾城の書く小説でA×BのCPにハマったが、当の綾城は流行りのジャンルに移動していた。その後おけけパワー中島が流行りジャンルを綾城に布教していたことが分かり、友川は自分がA×B作品を書くことで綾城に戻ってきてもらおうと画策する。
友川の考え方はよく分かる。私も自ジャンルから一次創作へ、別ジャンルへ行く者を何人か見てきた。もしかしたら数年付き合ったフォロワーさんが別ジャンルに移動するとき、私も同じ行動を……取らないな。そういう人がいたとき、私は引き留めない。沼に落ちるのは一瞬だ。外部の人間ごときに助けられるようなものではない。下手したら自分も引き込まれる。そういうものだ。
だが、それでフォロワーとの関係は終わりではない。なかには『もう自ジャンルで書かないのなら興味ない』という人もいるかもしれないが、私はフォロワーがジャンル移動しても見守るタイプである。その理由は人柄だったり絵柄だったり言葉選びだったりと、多くはジャンルではなくフォロワー本人の魅力に惹き付けられているからである。友川が不幸だったのは、綾城の書く特定CPの描写に惹き付けられてしまったことではないだろうか。あくまで『綾城が』『このジャンルで』書かなければ、友川が幸せになることはない。なんとなく哀れだ。とは言え、私の中ではその程度だ。
次に綾城。天才字書きである。私もこうなりたい。他に何か書くことはない。
最後におけけパワー中島(以下おパ島)。綾城に二次創作の感想を述べる、流行りジャンルを布教するなどの行為をする。綾城とは通話をするほどの仲である。綾城との会話では砕けた言葉使いと敬語が入り交じっているため、綾城へのストレートな好意と尊敬をともに持つ人間であることが分かる。もちろんおパ島自身も創作者である。七瀬・友川を狂わせたきっかけになった人物だ。
私のTLにはおパ島に嫉妬する人間や綾おパ過激派の人間など、おパ島周辺への強い感情を持つ方がたくさん現れた。作品を読む前からおパ島に関する考察はいくつか読んだが、ピンと来なかった。原作を読んでいないからかと思ったが、原作読了後もピンと来なかった。おパ島は推し作家と交流して感想を送りあっている、文字を書く能力もある人だ。すごい。私もこうなりたい。でも同時に、私もおパ島に嫉妬して狂ってみたかった。自ジャンルが超大手だったらそういうこともあったのだろうか。私が特定のCPに何年もハマるような人間だったら嫉妬できたのだろうか。
そうだとすれば、おパ島嫉妬民はきっと何年も夢中になれるようなジャンルを見つけているのだろう。とても羨ましい。私もこうなりたい。
ある記事を読みました。
内容は識者にメタクソに言われるようなものでしたが、その論調は整然としており口調も丁寧でした。
おそらく著者は単に無知なだけであって、自分の発話意図が誤解を招かないように言葉を尽くしている印象を受けました。
この記事を読了し、まず思った第一感は「自分がなぜそう思うに至ったかについて言葉を尽くしている。誠実な論調で好感が持てる。」といったものでした。
そこでふと思いました。「論調が誠実で著者に好感を持っているので、今の私はその内容に理解を示しやすくなっているのではないか?」と。
そしてこうも思いました。私の感想はトーン・ポリシングと近い位置にいるのではないかとも。
そのような感想を持つ私はトーン・ポリシングを行いやすい人間かもしれないと。
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トーン・ポリシングのことを「口調・論調を非難することで内容の妥当性を損なわせる行為」と理解しています。
その行為は論点をずらすことになるため避けるべきだ……という方針を私は漠然と採用しています。
これを便宜的にこの日記では「ネガティブ・トーン・ポリシング」と呼ぶことにします。
では、「口調・論調を『賞賛』することで発言の妥当性をプラスの方向に歪める行為」は避けるべきなのでしょうか?
これを便宜的にこの日記では「ポジティブ・トーン・ポリシング」と呼ぶことにします。
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実際には私は「論調が誠実で著者に好感が持てる」と思っただけです。
では「言葉を尽くしており、論調が誠実な点は素晴らしい」と述べた時点ではどうでしょうか?
さらに「言葉を尽くしており、論調が誠実な点は素晴らしい……ので、皆もあまり辛辣な言葉を投げないでもいいんじゃないですか?きっと彼は話せばわかる人ですよ」と述べた時点ではどうでしょうか?
単に「言い方が気に食わない」と一言感想を述べれば「トーン・ポリシングだ!」と非難されるかもしれません。
では「言い方が誠実な点は評価できる」という一言感想は「トーン・ポリシングだ!」と非難されうるのでしょうか?
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ポジティブ・トーン・ポリシングが非難されるとすれば、その理由はなぜでしょうか。
ネガティブ・トーン・ポリシングの場合と同じく論点をずらすからでしょうか?
ただ、ポジティブとネガティブでは論点をずらしたそのあとの展開が異なります。
ネガティブの場合は論点をずらし、内容を取り合わないようにする点が問題なのでしょう。
ポジティブの場合は論点をずらし、内容を耳に聞き入れやすくする点が問題なのでしょう。……それが問題なのであるならば。
長々と書いてはいますが、結局ポジティブ・トーン・ポリシングは問題でも何でもないのでしょうか?
ネガティブの方が非難されるシチュエーションは、マイノリティの強い口調の意見がネガティブ・トーン・ポリシングによって黙殺される場面が例として頭に浮かびます。
ではポジティブの方が問題となる場面は?私が見てきた狭い世間の中で、それが問題だと言われたことはないような気がします。
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少なくとも私は今回読後に論調・口調についての感想が第一感として浮かびました。
たまたま今回はポジティブな感想でしたが、次もそうとは限りません。結局私は「そういう」人間なのでしょう。
議題ではなく人柄、口調、論調……そういったものにまず心をうたれる人間だということです。
少なくとも言えることは、論調・口調についての感想が第一感として浮かんだならば、それがポジティブな感想だったとしても「いや、内容に目を向けよ」と自戒する意識付けが私の中に生まれたことは有意義だったと言っていいでしょう。
タイトルの通り!好きになれなかった!!
ついさっき4章まで終わらせて一通りはストーリー読みました。パソスト?だっけも持ってるキャラ分は一通り
おもしろくないよぉ〜〜〜!!
こっから先はもうずっとこんなテンションで続く、ツイステが好きって人はもう読まない方がいいよほんとほんと、自己責任で!
まず、なんでこんな日記書き始めたかって言うと、Twitterだとフォロワーのみんなツイステのこと好きなんだよね
その中でさすがに好きじゃない!なんて言う勇気ないわけですよ、私だって自分の好きなの堂々と目の前で嫌いと言われりゃ腹立つ
ましてやフォロワーが大体リアルの友達なんですよね、普通に仲のいい
さすがにこんな事で友情壊す程子供でもないので、でもなんかモヤモヤ〜ってするのは止められないのでこうやって日記に書いて整理しようと書き始めました
同じようにモヤモヤ〜ってしてる人は読めるかもだけど、好きな人はもう読むのやめようね
ツイステが周りで急速に流行りだしたのは、たしか4月頃かな…?その時私は他のゲームにどハマり中だったので特に気にしてませんでした。
でもTLにはたくさんツイステの二次創作が流れてきて、そこで出会ったわけですよ
顔がたまらん好き、おいおいおいやるか??避けてたけどついにやるか???と5月中旬頃にあんなに渋ってたのに始めました、ええ
アズールは3章に登場すると知って、私はほうきを乗り回しひたすらランクを上げました。
基本始めたゲームには初期投資で課金もするので課金しました、SSRしっっっぶいですね…
読了してからの気持ちはほぼこれです、それと同時にこんなにつまんなくてどうして流行っているんだ?と謎に感じました
これはも〜趣味の違いですよ、それだけ
でもすごい身勝手だけど、自分がいいと思ってるものより他のものが評価されてるのが気に入らねぇ〜〜〜〜!!!!!!!!それだけ!!!!!!!!
この日記それが言いたいだけ!!!!!!!!
ここまで読んでくださった方、いるのか分からないですけど気分が悪くなられたらブラウザバックです
自衛が叫ばれる昨今、ミュートブロックその他もろもろ、情報を遮断する手立てはいくらでもあります。そもそもゲームをアンインストールすればいいんです。(まだアンインストールしてないです!)
なのになぜアンインストールしてないかというと、キャラには魅力を感じたからです。そうアズールくんは好きなんですよね〜〜〜3章は嫌いですが
そしてまだリリースしたてのため、これからイベントストーリーなどでメインストーリーの補完がある可能性がある、これから面白くなる可能性がある、そう思うとなかなか辞められないんですねこれが
ツイステ嫌いな人間はさっさと辞めちまえ!と思われるかもしれませんが、まあやるかやらないかは個人の自由です。こうしてここでグチグチ言ってますが、公式やツイステが好きな人に直接文句を言ったりする事は無いので放っておいて頂ければ。
キャラクターが魅力的なのにストーリーが残念に感じてしまって、もっとこう………こう…………!
しかしながら公式にどうこうなどということはありません、繰り返し言います
基本無料ゲームなのだし、合わなければ合わないで去ればいいだけのこと、ソシャゲとはそういうもんです。
3章なんで嫌いかと言うと(1章2章はもうほぼ記憶にないです、つまらなくて)
アズールくんに性格以外の悪い点がないのに、契約をしたのに、対価はすでに払ったのに、何故か周りがアズールめっちゃ悪い!って言い出したところですね。(もちろん悪徳商法はダメですけど、リアルの話しますが悪徳商法でも"金"は払ってるじゃないですか、つまりアズールくんが対価のためにした努力は無視?って話です)
キャラクターが悪く言われるのは別にいいんです、ヴィランっぽい、いいじゃないですか
ただ周りがまるで被害者のように振る舞い、ましてや監督生(≒自分)までもがそれに同調してる
これがほんとに無理
アズールのことを推すつもりで始めたので、なおさら3章にモヤモヤして終わりました。
この日記に結論はない!!!ただ私が不満をぶちまける所が欲しかっただけ
しかもここまで見返してないから、結構支離滅裂な自覚はあります
別に同意して欲しいとも思わないので、皆さんも好きなら好き、嫌いなら嫌いで自分の過ごしやすいようにすればいいと思います。
私はとりあえずメインストーリーが完結するまでは続けようかなと思っています。
あ!最後に補足です、私は得にDオタでも
ヴィランズ?のファンでもありません!Dには修学旅行以来行ってない…
ここまで読んでくれた人いたらお付き合いありがとう、ハッピーオタライフ
これ勢いで書いたけど、書いてからはてなブログの書き方?みたいなので「異なる価値観を認める寛容さを持ちましょう」と言われて反省して舞い戻ってきた
前も言ったけど好きなら好きでいいと思います!叫べ!愛を!
でも同じように嫌いなことを許して欲しい、ここで嫌いだということを許して欲しい
以上!
このクソ野郎、今年に入って大問題ばかり引き起こしているので愚痴りたいなと。全部で3つほどあるんですよ、このクソ野郎によるエピソード。
自分が「あれ?このおっさん、距離感おかしいな?」と思ったのが、30近く年の離れた年下の女の子の身につけている私物を「身につけたまま」触らせてくれと言い寄っていた現場を目撃した時。
外して触るのも、下手すれば自分の親ぐらい年の離れている異性相手なら嫌なものなのによくそこまで食い下がれるな、想像力の欠如か?と思いながら「山田(仮名)さん、それ見ようによってはセクハラですよーあはは」と声を掛けて、その女の子から意識を引いたら、数時間後何故か自分へチャットが飛んできた。しかも個人チャット。
内容は「ボクちんの名誉が傷つけられましたふじこふじこ、男の肩身の狭さを慮れふじこふじこ」といった感じの文面を延々と。長文乙。
なんで身につけてるのを触りたがるのか、脳みそうんこでも詰まってんのかお前。
そこからちょっと関わりを減らす方向でいたんですが、まあ、無理ですわな……同じ職場ですし。
これがまず1つ目ですね。
で、月日は流れ、コロナの流行で世間がピリピリしている最近に至り。
お客様と「いつも集まって運動してんだけどさー、それもしばらく出来ないなあ」「落ち着いたらまたみんなで来たいけど、今年は無理だなあ」なんて話をしている状況下において、このクソはとんでもない事を緊急事態宣言発令から2週間後までやらかす事となるわけです。これが2つ目のクソエピソード。
このクソに限らず、夜勤で働いている男性ってパチスロ打ちに行く率高くないですかね?
で、仕事が開けて、仮眠して、スロット打ちに行くと言うのがこのクソのルーティンなのですが、折しも当地域も初期緊急事態宣言発令対象でした。
上司達からも「三密を避け、不要不急の外出をしないように」と再三言われておりました。
他の従業員も外出を控えて、必要なものはネットショッピングか仕事上がりに買い物する程度に留めているぐらいには。
あのクソ?
近隣が閉まってると知るやネットでどこが開いているかを調べて打ちに行ってたよ、県内全店休業まで。
それも近くは2つ隣の市から、遠くは県境付近まで。(しかもそれを店内で喋る)
余程チクってやろうかと思ったわ、面倒だからさらに避ける理由にしたけど。
で、3つ目のクソによるクソエピソードですが、現在進行形でして。
最初のエピソードに出てくる、年下の女の子に対して粘着いじめとも取られる行為をここ一二週間やらかしておりましてな。
きっかけは確かにその女の子に非が無いとは言えないんだけども(片付けをちゃんとしなかったレベル)、それをまず自分に愚痴り、連絡帳に煽り満載要素で書き綴り。ここまでは良い、ここまではまだ許せる。
読了のサインを「自分が書いた方にしなかった」だけで、まさか読んでサインしろと二週間近く粘着してくるとは思わなかったんじゃよ。
挙句、グループチャットで名前が特定出来るような吊し上げ。そりゃあ粘着された方もストレス溜まるわな。
ついでにそれをクソ本人に説明したにもかかわらずでもでもだってふじこふじこ、個人的に連絡するとか言い放つので、思わず渦中にいる女の子へ警戒しろと送った自分は悪くない。
このクソの一番の問題点は「自分は時間になったら上がる上に残業すらしないのに、他人には残業してまで消耗品の補充をしとけ、と宣う」に代表されるほどの呆れるほどの自分主義。
おかげでそいつとあったことの無い人からも「こわちか」とか言われるレベルだよね。
僕に精神の安定をくれ。
※この駄文にはゲーム「アイドルマスターシャイニーカラーズ」で現在開催中のイベント「ストーリー・ストーリー」のネタバレを含みます。
アンティーカを救ってくれ。
他のユニットと同じくらい読んでて「面白い!」と思えるシナリオを彼女たちにも与えてくれ頼む。
正直に言いますと、
まっっっっっっったく面白くなかった。
なんだあれ。あそこまで面白くないシナリオ作れるの才能か?????
お餅をつくやつも正直面白くなかたったけどまさかあれを更新するシナリオなんてある???なんで???
一回落ち着きます。
私は一応アンティーカの幽谷霧子ちゃんを推してます。最初期からずっと彼女と「W.I.N.G」で勝つために戦ってきました。カードも少ない頃のシャニマスを何周もやって、初めてのW.I.N.G優勝もTrueEndも彼女でした。それくらい愛着がある子が所属してるということでアンティーカのシナリオも追ってきました。
ユニットメンバーのシナリオは流石に引けてない限定P-SSRも沢山あるのでその辺りは触れず、基本的に全ユーザーが平等に見れる「アンティーカ」のシナリオを見た上で話を進めようと思います。
そもそも基本無料のガチャゲームで「限定SSRを見てないと面白くない、全ユーザーが見れるイベントシナリオ」を入れるのはナンセンスだろ。だったら月額制とかにしろって話なんですけどね。「見てた方がシナリオに深みが出る」とかならまだわかりますけど。
話がそれました戻ります。
まず導入が面白くない。読み手に続きを読ませようという熱意がまるで感じない。なんだあのギャグ??あれだけ不穏()な予告したのに??
何が全米が泣いた映画じゃしょうもな。あの導入で「これから面白くなるから読んでくれ」ってさせるのは正直厳しいものがある。
正直この時点で読むモチベがほとんど消失したし「あぁ前回(お餅をつこう)みたいになんとも言えないシナリオなんだろなぁ」という気持ちになったので知り合いを通話に付き合わせて読むことに。今思えば完全に巻き込み事故でしたねこれ。
ここからアンティーカのテラスハウスみたいな生活の話が始まるんですが、まぁ正直にいうと見どころは特にない。4話まで本当になにもない。無。虚無。最後の重要な伏線なんかも当然ない。
ざっくり言っちゃえば
「恋鐘と三峰の次の仕事の為になるべく長く収録できるように頑張ろうーおー!でも番組側ががまみみと咲耶と霧子があんまりウケないからテコ入れかさっさと終わらせようとしてるみたい!いったい私たちの共同生活、どうなっちゃうの~!?」
こんな感じ。ここまで全体の半分を使ってるのにほぼ進展なし。なんだこれ。一応フォローするなら4話の最後あたりでようやく話が動き出すがあまりに遅い。普通のアニメだったらとっくに切られてるぞお前。
まぁ咲耶がちゃんと「番組の取れ高のために頑張ってみたけどダメだった」と正直にメンバーに言えて相談できた点は良かったと思う。いや感謝祭シナリオ後と考えればそうであって当然なんだけども。
さて5話。先ほど述べた咲耶とまみみ、霧子たちが行ってた取れ高(取れ高にはなってない)の映像を見て三峰がアドバイスをする。ただこれがあまりに正直かつストレートだったため番組側に意図しない方向に編集、放送されてしまう。おまけに三峰が真のリーダーなんて意見もSNSで現れてどうしましょう、というのが大まかなあらすじ。
ここが正直、今回のイベントで一番やらかしたポイントだと思う。恐らく書き手側としては感謝祭シナリオの咲耶にように三峰を切り崩したかったのだろう。そして今回は意図しない番組側の編集とSNSの話題という2つの外的要因で崩そうとしたのだと思われる。
ただ悲しいかな、アンティーカには絶対無敵の最強ポジティブリーダー・月岡恋鐘がいる。彼女がいる以上アンティーカが外的要因で切り崩されることはまずない。言われない中傷だろうが意図しない編集だろうが彼女がいる以上「それはなにも知らない人が勝手に言ってるだけ。ウチらはウチら。」と間違いなく言うしメンバーもそれに付いていくのは、今までのシナリオ及び月岡恋鐘というキャラクターを考えれば容易に想像がつく。
そもそも感謝祭シナリオが面白かったのは咲耶が1人で抱え込みすぎた結果起きたすれ違いであり、内的要因では月岡恋鐘の対応は後手になってしまうことを考えれば三峰もその方面で切り崩すほうが面白いシナリオになったと思われる。三峰結華という人物にも切り崩せそうな素材は沢山あるわけですし。(未だに信用してるはずのメンバーにさえオタクを隠そうとしてる性格とか。)
前と違ったアプローチで切り崩したかったというのもわからなくはないが、それでシナリオが面白くなかったら意味がない。特殊な調理法を使って美味しくない料理ができるならシンプルで美味しい料理の方が絶対いい。
そんなこんなで6話と最終話。アンティーカは「この家でアンティーカで居れないならこの場所にいる必要がない」と家出を決意し、その後なんやかんやで戻って番組の方向性を自分たちなりの「ストーリー」として舵を切り直し、収録は上手くいくのでしたお終い。
なにこれ。
やろうとしてたこともなんとなくわかる。わかるのだけど、ただただ面白くない。
ここも一応フォローするのなら霧子が「絵本のときみたいにストーリーを作ろう」「嘘があっても”本当”のアンティーカがないのは寂しいから」等の台詞は良かったと思う。(特に後者は、変わらない本当の自分を受け入れて進む決意をしたW.I.N.Gシナリオの後の幽谷霧子だからこそ説得力が増す台詞だった。まぁ今までそういう台詞がほぼなかったのも問題だが。)
さて、終盤の展開だがどうもどうも私のなかで言い当て妙な表現が思いつかなかった。それくらいの虚無で読んでいた。
そのためここではTwitterの感想でよく見かけた「VS世界」という表現を使わせてもらう。
「VS世界」。行き過ぎた編集をした番組側の想定する「ストーリー」を自分たちなりの「ストーリー」にしてやろうということなのだろう。
は?
いや仮にそうだとして演出下手か?そもそもその「VS世界」みたいなやつは「薄桃色にこんがらがって」で既にやったし、もっと言えば「Straylight.run()」の時点で既にやっている。そして、前者は個々人の想いと、たとえ敵わないと思っても「それでも」と自分に正直に心のままに挑むシナリオ、後者は「世界」側が想定してる理不尽なフィールドで時には自分の想いとは違うこともある、それでもそんな理不尽に勝つために戦うための始まりのシナリオ、という形できれいに、そして「面白い」シナリオだった。
「ストーリ・ストーリー」にはそれがない。いや無くはないが正確にいえば「薄桃色」と似た切り口で「薄桃色」の焼き増しのようなシナリオになっている。
正直、「アンティーカの内的要因による切り崩し」は感謝祭と被るから避けたのに、「VS世界」の構図は焼き増しというのはちぐはぐな印象が強い。おまけに焼き増し元のシナリオより全く面白くない。最悪の2番煎じである。(そもそも2番煎じというのも「薄桃色」に失礼である)
別に「VS世界」という構図のシナリオが悪いとは言わない。同じ構図で面白いシナリオのゲームは沢山ある。結局は調理の仕方が恐ろしく下手なので、どこかで見たような面白くないシナリオになってしまう。今回の「ストーリー・ストーリー」がまさしくそれだった。これでシナリオには2重、3重でチェックが入っている(2周年記念インタビュー参照)というのだから驚きを隠せない。なぜ通した。もっとやりようはなかったのか。他のユニットが話題になるほど面白いシナリオをもらっているなかで、アンティーカが好きなユーザーはどうすればいいんだ。
私は恐らく今後アンティーカのシナリオには一切の期待をしないと思うし、なんなら今回のシナリオで愛想がつきた。(もともと「お餅をつこう」が微妙だったことと、幽谷霧子ちゃんのシナリオがあまりにも酷い内容が多いので冷めかけてはいた)
なのでこれを期に他に好きなアイドルとユニットの方を優先すると思う。いくら愛着があるアイドルでもいつまでも面白くないシナリオばかり見続けるのは苦しい。別のアイマスシリーズで似た経験をしたのでもう沢山だ。
アンティーカを救って欲しい。きちんと「面白い」と言えるようなシナリオを書いて、他のユニットと並ぶくらいにしてほしい。
最後に
ところでネット上のレビューを読むと、このあとがきは賛否両論のようだ。
「めちゃくちゃ面白い!」
「これだけでも一読の価値がある」
という人もあれば、はっきりと嫌悪する人もある。特にアマゾンの、
「あとがきで、女性の半生記を長々と読ませられるのはベリベリ白けてしまった。「中国の行動原理」は読みたいが、著者の行動原理は不要である。」
「著者のファミリーのヒストリーがあとがきで書かれているが、少なくともこの本のあとがきとしては不要でしょう。」
このての感想はなんつうか、物事の本質が分かってねえ貧しい輩だなと思う。
"本編は面白いけどあとがきは不要"って……。いやいや逆でしょ。
こういうあとがきを書くような(或いは書かずにいられないような)人だから、こういう面白い本編が書けるんだよ!
本は情報を吸収する道具、著者は情報を提供してくれる装置、では断じてないのだ。
真に面白い本というのは、どうしても書かずにはいられない、あるいはそのようにしか書けない、やむにやまれぬのっぴきならない著者だけの特殊な事情がある。
何かについて語るということは、それを語る自分が何者であるかを包み隠さず開陳すること同義。
その一糸まとわぬ脱ぎっぷりのよさに、余人に真似できぬ面白さが宿るのだ。
そうせずに小手先のマーケティングで書いたものなんて、いくら有益で新奇な情報を扱っていても面白さには程遠い。
これはなにも小説や脚本の話だけでなく、学者の書くものだって同じことだ。
「私的な世界と公的な世界とは、きわめて複雑なかたちで混ざりあっている」
「いっぽうには、わたし自身の歴史があり、わたしの経験からひきだされたわたしの価値観や、わたしの書いたものや、わたしの立場がある。そしていまいっぽうには、こうしたことがらを吸収する社会的な世界があり、そこでは戦争や自由や公正について人びとが議論したり決断をくだしている。私的な知識人というものが存在しないのは、あなたが言葉を書きつけ、それを公表するまさにその瞬間、あなたは公的な世界にはいりこんだことになるからだ」
「つねに個人的な曲解があり、私的な感性が存在する。そして、個人的な曲解なり感性が、いま語られつつあることや、書かれつつあることに、意味をあたえるのである」
「ジャン=ポール・サルトルやバーランド・ラッセルの書いたものを読むとき強く迫ってくるのは、その論じかたではなく、彼ら特有の個人的な声であり、その存在感であるが、これは、彼らが自分の信ずるところを臆せず語っているからである。彼らが、顔のない役人やことなかれ主義の官僚によもやまちがわれることはあるまい」
そう、だから、パンツ脱がずに小手先の情報だけで書こうとすると、必然的に無難な一般論や官僚答弁に行きつく。誰が書いても同じなんだから。
そうすると書き手の洞察は深いところまで届かず、したがって読者に感動なり知的興奮なりを与えるような面白い本にはなり得ない。
話を益尾氏の本に戻すと、
なぜ"東京対北京"に収斂できない「女性の半生記を長々と」書くのか。
本編を読んでもその意味と必要性が本当に分からない読者がいるとしたら、そいつはもう馬鹿としか言いようがない。
ちょっと熱くなってしまったが、走り書きなので言葉遣いが汚いのは許してほしい。
そもそも自分は「学者の書くあとがき」が好きなのだ。半分タレント化した人は別として。
学者の場合、小説家などの他の文筆業と違ってどうしても本編の制約が大きい。
たとえ一般向けであれ「学者の顔」で書く以上は、事実関係や客観性を重んじるのは勿論、表題に掲げたテーマに何らかの結論を出すことが求められるから。
それだけに、あとがきでは「学者の顔」に収まりきらない著者の顔がにじみでているのが、本編と相まってすごく味わい深く思えるのだ。
その意味で益尾氏のこのあとがきは、「学者のあとがき」として大変面白かった。
自分が今まで読んだ中では、安丸良夫『近代天皇像の形成』のあとがきを彷彿とさせる面白さ(この意味が知りたい人は読んでもらえれば分かる)。
https://togetter.com/li/1475755
先日、Twitterで中流階級を自称する東大生が炎上していた。
これについて色々と思うところがあったので、身の上話を増田に吐き出そうと思う。
(一応だが擁護のつもりで書いている。読了後には件の東大生がギデンズの提唱通り中流階級に見えてくるに違いない。)
とある地方の出身。で、実家は裕福だ。いわゆる「地元の名士」などと呼ばれる家系である。twitterでは間違いなく「上級国民」扱いだろう。実際そうなのだから仕方ない。実家には代々受け継いできた不動産があり、相当な額の不労所得を得ている。両親の仕事と言えば時折土地建物の見回りをする程度である。
私は旧帝大の受験に2度失敗し、都内の私立理系大学に進学した。親不孝の極み。当時は親に相当な負担をかけることを申し訳ないと思っていた。しかしながら、奨学金なしで子供を都内の大学に通わせられるのだからそれなりの稼ぎはあるのだろうと漠然と考えていた。甘かった。実際の収入は私の想定していた4倍あった。私の年間の学費と生活費など1か月分の収入にも満たない。屁のような額だ。
父は都内の私立文系大学を卒業後に祖父のコネで民間企業に就職し、しばらく勤めた後に実家を継いだ。保守的な人で、テレビのワイドショーで中国韓国の話題が上るたびに何かと文句を垂れている。また、「数学なんて勉強しても社会の役に立たない」「ノーベル賞のうち世の中で本当に価値ある研究は山中教授のiPS細胞だけ、他は全部役立たずの学者のお遊び」が口癖である。
母は都内の私立文系大学を卒業後に地元で教師になり、しばらく勤めた後親戚の紹介で父と知り合い結婚して退職。その後はずっと専業主婦だ。
野口武彦『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』(中公新書、2010年)読了。あとがき以外は面白いね。
あとがきの「閉ざされてしまった回路」(=あったかも知れないイフ)は興味深いが、この書名や慶喜に負わせる問題じゃない。そして一つ目の公議政体はともかく、二つ目の「天皇制ぬきの近代日本」は荒唐無稽。このような反論に著者は「こう考えることを妄想だとする向きは、話があまり大きすぎて歴史的な想像力がついてゆけないからである」と予防線を張るが、それはそうじゃない。
歴史にはたくさんのイフがあり、それぞれの実現可能性にとってプラスに働く因子とマイナスに働く因子とがある。それら諸因子の大小強弱は定量的に計測できるようなものではないが、ある程度の序列はつけれられる(というよりつけなければならない)。野口さんの言ってるのは、「マイナス因子をすべて無視すれば別のイフもあり得た」というに過ぎない。
彼は慶喜よりもはるかに大きな他の因子、例えば思想史的要因を全く無視している。列強ひしめく国際社会へ出て行ったときに、来たるべき「日本人」のアイデンティティはどこに求められるのか。それは「皇国」以外にないだろう。それは鳥羽伏見のずっと以前から使われている言葉で、すでに相当な浸透力をもっていた(松陰を想起せよ)。たとえ慶喜が逃亡せず新政府の首班に座る(=徳川勢力が温存される)としても、天皇の権威を前面に押し出さなければ新たな公議政体での意思統一はできなかっただろう。となれば、それが天皇の神格化・神聖性付与へ向かうのは自然な流れ。(来たるべき憲法の条文がどうなるかはともかく)
天皇制を32テーゼではなく著者のように定義するなら、慶喜が逃亡しようとしまいと、かなりそれに近い状態に達したと考えられる。
要するに「天皇制ぬきの近代日本」というイフにとって、慶喜逃亡はきわめて小さい因子に過ぎない。他にもっと強力なマイナス因子があるのに、それらを全部無視してイフを手柄顔で語られてもねえ…。
「天皇制ぬきの近代日本はあり得ただろうか?」という問題提起は興味深いし意味があるが、慶喜逃亡が決定的な因子であったという主張は愚かしい。その意味で「この書名や慶喜に負わせる問題じゃない」と書いた。アルキメデス的支点に立ってるように見えるのは、著者が戊辰戦争ばかり見てるだけのことじゃないの。
だから、ここに至って、なんでこの著者と気が合わないのかもはっきりする。この人の本は面白いけど、同時に「面白い話を一発吹いて目立ってやろう」という助平根性も感じるんだよね。勿論この人はれっきとした学者であって、歴史作家のくせに歴史学者のふりして商売してる人種とは違う。だから猶更その根性が気になる。我々はワトソンより寧ろロザリンド・フランクリンであるべき。ワトソンを剽窃者として謗りたいのでははなく、帰納的に考えることをおろそかにしてはならないということだ。
内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書、2019年2月)読了。
面白い。三条が理解できたことで、この時期の政権の本質についても理解が深まった。三条を「有徳の為政者」と位置づけ、最後にそれを「知の政治家」(瀧井一博の伊藤評)とつなげるのは見事だなあ。
「封建制社会/儒教道徳/徳治/属人的」→「近代社会/議会制原理/法治/属制的」。高貴な出自なのに革新志向、清廉無私の人柄、この二つの特徴を持った三条実美という人物が当該期の政権運営には必要だったということだ。
興味深いのは、手腕でなく徳で政府を治める太政官制(あるいはそのような政治文化)とその後に樹立された明治憲法体制を比較すれば、前者がより属人的、後者がより属制的といえるが、さらにその後の昭和戦前期と比較すれば初期の明治憲法体制も属人的要素に頼る所が大きかったことだ。伊藤らの意図は立憲制度の確立、つまり天皇や閣僚が入れ替わっても立憲政治の根幹が失われないよう制度化することにある。言い換えれば属人から属制への転換を図ることだ。(ちなみに、神棚に祀ることで天皇に政治勢力を接近させずまた天皇の権力を事実上制限したのが、まさに伊藤(井上伊東)の深謀遠慮というものだ。この賢察を思うにつけ、天皇機関説排撃とかバカジャネーノとしか言えん。天皇を機関にするのが憲法だろ!)。
しかしそれでも、憲法に明記されない微妙な問題、あるいは高度な政治的判断が求められる局面になると、個人のパーソナリティーや個人間の特別な関係がものを言うことが多い。要するに、当面の政敵でも共に維新回天の荒波を潜り抜けてきたという同志的な感覚とそれに基づく信頼・敬意・連帯感があり、最後の最後ではその琴線に訴えかけることで複雑な問題の調整が図られているように思える。制度に足りない部分を人情が補っている、草創期ならではの危うい立憲制。
そして明治の元勲が皆世を去ってしまうと、憲法は輝かしいけれど文字になり、制度は要塞になり、縦割り・現場無視・党利党略・悪い意味での官僚的態度等々が前面に出てしまい、それが政権運営の不安定さや政党政治の機能不全につながった……のではないか。日中戦争前後の政府・官僚・軍・政党を見ていて感じるのは、よく「彼は調整型の人物で…」というが、政治的調整とは調整役が何とかしてくれるということではなく、また調整役とは八方美人の意味であるはずがない。
三条は近代立憲政治にふさわしいリーダーではないが、ある時期には彼のような調整役が必要で、それは彼が出自や人徳という計画的に習得できるようなものではない要素を備えていたからで、そういう意味で代えのきかない存在だった(武器として装備しました、ではなく、元々そういう人だ(あるいはそのように見える)という点こそが重要)。その後の政府や現代の組織に於いて三条的人物が三条のような高い地位を占めるべきかと言われれば疑問だが、組織運営(特に責任者の周囲)に於いて三条的な役割が不要と成る事は決してない。三条に合理的積極的な存在意義を見出すという著者の意図は十分成功しているし、その存在意義はそのようなことをも示唆しているのではないか。
中屋敷均『科学と非科学』読了。まぁ面白かったが前作ほどではない。というより期待が大きすぎたのか。
「科学も非科学も飛び越えて、この世に生きる勇気を与えてくれるのは、人の心にあるそんな「物語の力」ではないだろうか。」
「物語」にも物語にも日々向き合ってるこっちにしてみれば、悪い意味で同感だ。つまり凡庸。これって「科学は万能じゃない」や「人は皆死ぬ」ほど有名ではないかもしれないが、しかしかなり多くの人がかなり多くの場合にすでに悟っている事柄。問題はそこから先なのだ。独力では到底到達しえなかったであろう洞察、それに出会いたくて俺は本を読んでる。本書はこれに応えるものではなかったが、この著者はこれからも追いかけていきたい。
一方で得るものもあった。カオスの縁。フラクタル。直感だが、これを援用すればうまく解けるのではないか。俺が「コジツケの体系」と呼ぶものの構造や生成過程が。中世日本の荒唐無稽ともいえる独特で奇妙な古典解釈大系。
古今集序にせよ何にせよ、書かれた当時にあってはなんてこと無かった筈の片言隻句が、時代が下るに従って転じて転じてねじ曲がりねじ曲がり、膨大な後づけと神秘性を付与された複雑な世界を形成する(思想体系と呼んでよい)。それは社会的には権威の獲得や富の集積と同時進行であるが、しかし単にそれらを得る為の手段というには留まらない(たとえ部外者にはそう見えても、当人たちはそのように割り切ってはいない)。なにか複雑化それ自体を欲するかのような、ある種の情熱がある。その体系がすっかり出来上がり、生成を止め、社会的影響力を失った後の時代からふり返れば、(その情熱には共感できないので)荒唐無稽なまやかしの残骸にしか見えない。だがこれを不揃いの渦みたいなフラクタル図形と見做せばどうか?
思想史における生成発展継承克服、ある思想が成長して影響力をもちやがて失う。こういった変化の過程を理解するのに、進化モデル・遺伝モデル・遷移モデル(極相林とか)等があると思うが、フラクタルモデルもまた有効ではないか。
特に一見して不規則複雑だが無秩序でない点、部分と全体との自己相似という点が、すごく似ているように思う。片言隻句からオウギョウな解釈が生まれ、その解釈から儀礼の形式(例えば物の配置)が生まれ・・・というあたり。人や物をこのように配置してこれこれの形式で行うことで、テキストから膨らませたこれこれの世界と重なることになるのだ、という思考様式。これを自己相似と言わずなんと言う。
これを更に敷衍するなら、「歴史」や「伝統」に基づく正統性が主張/確認されるあらゆる場面にこの自己相似が顔を出す(大嘗祭を想起せよ)。ある習慣がなぜ「伝統」になるのか、あるいはなぜ「伝統」が作られるのかを考える時、適者生存がよく説明に使われる。だがそれではあまり光の当たらない側面もある。生存や利害得失だけを考えるなら、これほど複雑精緻(なのに脆弱)にする必要はない。そこには生存戦略とは別の原理も働いていると考えるべき。それを読み解くヒントがフラクタルにある。
オタ友とこの話題になり、送って嫌がられた側の話ばかりが上がって送られて嫌だった側の話がないよね、という会話になり書いてみようと思った
わたしはそれなりにでかいジャンルの島中でほそぼそと本を出している。
売れる部数はジャンルの勢いに対して多くはない。
でも比較的感想を貰っている方だと思う。本を出せば毎回発行部数に対して8%くらいの件数の感想を貰う。
いままで貰って嬉しくない感想は正直あった。
感想を送ってくれた手間を思えば感謝の気持ちが先に立つ。から表立って嫌だと言ったことはない。
嫌だと言えば感想を送り控える人もでるだろうし。
嫌だった側の話が出ないのはそういう理由だと思う。
でも思う所があったのでちょっと書いてみる
1、話の主旨を読み取れていない感想
わたしはR18ありのシリアスな話を得意としている。主題は主人公の苦悩。
ただただ疲れる。
10件感想が来たらこういうのが2件くらい入ってくる。残りの8件はちゃんと主題を読み取った感想だからわたしの技術の問題ではないと思う。
わざわざ送ってくれたんだから気に入って褒めてくれてるんだろうな~とは思うんだけれど、こっちはエッチで最高だと思ってかいていないので喜べない 申し訳ないがこういうタイプは気が合わないのでブロックしたいと思ってしまう。
2、言葉遣いに引っかかる
多いのは、蛇足ですが~…といって別の本の感想も添えてくれるパターン。蛇足って無駄なものって意味だからね。細かいことだけど、マイナスなことばは使わなくていいんじゃないかな。という思いを飲み込む。
○○はあなたが一番好き、という言い回しも引っかかってしまう Aを上げるのにBを下げているようなニュアンスを感じ取ってしまうから あと返事しにくい マシュマロに返事する場合、文面の画像を添付することがほとんどだと思うんだけど、これを見たおなじ○○の書き手はどう思うだろうと思ってしまう 我ながら神経質だとは思う
これは共感できない人のほうが多いと思う。
DMで来る長文の感想、これは正直ありがたい気持ちもかなりあるので挙げるのは心苦しいのだけれど、おなじボリュームの返事を強要されているようで苦しい。
交流が一切なく、今後も交流する気がない方からくるとかなりしんどい。
1を併発していると最悪。(かなり頻度が高い)
人との交流が苦にならないタイプの方ならただただ嬉しいんだろうなと思う。わたしは気の合う少人数としか交流したくないタイプなので気疲れが勝ってしまう。
そもそも知り合いから感想が来たら付き合いのお世辞と思ってしまうので、わざわざ書いてくれた感謝は感じるものの「お世辞でしょ?」という気持ちを隠して素直に喜んだふりをしながら長文の返事を書くのはとてもエネルギーを消費する。消費するエネルギーが感謝のエネルギーを上回るのでとても疲れてしまう。感想を貰っているのに疲れている自分に自己嫌悪する、さらに疲れる、ループ
マシュマロへの返事もおなじ 同じ話への感想だとどうしたって内容が似通ってくるのだけれど、被らないように返信文を考えるのは時間も労力もかかる。疲れる。返信不要と書かれていると気遣いが嬉しくて泣きそうになってしまう
ここまで書いて我ながら神経質で笑ってしまう。こんなに神経質なのになんで感想を受け付けてるの?と思う人もいるかなと思うので感想が欲しい理由も書く。
自分がかいたものの意図が正確に伝わったか確認したいから感想ツールを設置している。
だからそもそも褒められたい!と思っていないので、そこの温度差はあるんだろうな…と思う 感想で褒めてくれる人には申し訳ないのだけれど
散々悪態をついたので最後にクソの私ですら貰って嬉しい感想の条件を書いておく
1、具体的 〇Pの〇の絵が良かった、○○のプレイがよかった、ここの心情描写がよかった など 良かった点が知れればそこを伸ばせるので
2、読了感が書いてある 読んで元気になった 切なくなった など 作品で伝えたいことが伝わったかおおむねわかる
学生時代、消しゴムを机からよく落としていたのだが拾わなかった。
なんでかというと、文字を間違えたら拾えばいいわけで、それまでは消しゴムの出番がないからだ。
もちろん掃除などの時間が迫れば拾うべきだろうが、それまでに誤字は出来するのでそこで拾えばいい。
ところが友人が先に拾ってしまう。申し訳ないのでいつも上記を説明するのだがなかなか難しい問題だ。
皿を洗わない。なんでかというと、もうあと何回かは確実に使えるからだ。
一番洗わないのは茶碗で、ご飯を食べきった後は乾燥しており衛生的にも問題ない。
汁椀も洗わない。乾燥してるなら問題ない。特に箸も洗わない。乾燥しているからだ。
なぜこうなるかというと、皿を洗うのが面倒だからだ。
そして洗剤も節約できるし時間も節約できる。1週間くらい洗わない。
同じ理論はバスタオルにも援用できる。特にバスタオルは問題で、一回だけで洗濯するのは無駄であると考えている。
容量が大きすぎるのだ。だから5回使ってから洗濯する。8回くらいでもいいかもしれないと思っている。
ここでの観点は、乾燥しているか? と不衛生が過ぎ体調を崩さないか? という2点だ。
場合によっては軽く水洗いで済ませて継続して使用する場合もある。
なんでかというと、開けて、物を入れて、閉めて、開けるからだ。
特に、上に向いて開いているバッグやカバンは、重力の関係で内容物が溢れることはない。
ということでファスナーを必要以上に閉めることは時間の無駄であると考えている。
ファスナーを閉めないとなんらかの問題をきたす場合は、ファスナーを閉めるべきだ。
一方で、ズボンのファスナーは閉める。なぜなら見られた場合不快感を与える場合が多いからだ。
比較の問題で、カバンが開いていても不快感は低いが、パンツやズボンから中身が見えていたら不快に思う人は多いだろう。
こうした観点で問題ないと思うもの(判断は30年以上生きていて基準を設けている)は開けたままにしている。
最悪、家の鍵も閉めなくてもいいのではないかと思う。なぜならまた開けるのは確実だからだ。
そして、泥棒がいるとして、私の家がピンポイントで施錠されていないことを認知することが極めて困難だからだ。
そういう人は大抵イルミネーションとかしている。
それはいいとして、雪はやがて解けるのだ。そんなものに過度の労力を割くことはない。
これと関連して、寒冷地であっても手袋を装着しない。帽子も。またすぐ脱ぐからだ。ただし、寒すぎる場合は一考の余地があるだろう。
洗濯はする。衛生的に。ただそれを畳まない。なぜならすぐにまた使うからだ。
晴れ着やおしゃれな服などはしまうけれども、日常で使うものはしまわない。
本にしおりを挟むという営為は、文化的な所作という観点を除けば全く愚かな行為だ。
なぜなら挟んだ後またとるからだ。そしてまた挟む。さらにいうと、読了すると挟まなくなる。
そもそもどこまで読んだか覚えてないのならば、それはそこまでちゃんと本の内容を覚えていないからそうなるわけで、しっかり本の内容を理解しているのであればしおりがなくても続きを読み続けられるはずだ。
ちょっと手前から助走しながら新しい箇所を読み進めることもあるだろう。むしろその方が理解が進むのではないか。
こうした観点から、しおりの弱点はもっと見直されてもいいだろう。
日々階段やエレベーターで移動するのは時間がかかる。その時間に有意なこと、あるいは妄想や休息ができる人であれば問題ないだろう。
だが多くの人は、自室と地上との行き来において、活動も休息もできないぶら下がり状態の時間を過ごしているのではなかろうか。
それならば1階に住むべきだ。家賃も数千円安いことが多い。自室との行き来の時間も、数千円安い家賃も、積み重ねが効いてくる。
ただし、治安の問題で2階以上に住みたい人も多いだろう。その場合のこの限りではない。自分で考えて生きればいい。
遊園地は恐ろしい場所だ。かつて施川ユウキが初期の漫画のコラム欄で確か書いていたと記憶しているが、遊園地は出発点とゴールが同じ場所になる遊具が多すぎる。
観覧車、ジェットコースター、メリーゴーランドなど、行って帰ってくる遊具が多く含まれている。
これは問題である。位置が変わらない。初めからそこにいて、ただ佇立して止まっていればいいのだ。時間の無駄である。
ただし、途中の景色や興奮を楽しめるのであれば遊園地は面白い場所だ。この観点で判断するとよい。
全力でゴロゴロしたりオナニーしたり友人や恋人と過ごしたり、論文書いたり講演の準備したり読書したり、元に戻す(元に戻る)必要性のないジャンルのことを優先してやったほうがいい。
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
はてな村で好まれそうな話題だなとは思って投稿したものの、想定以上に反応があって驚いてます。
酔った勢いで書いたものであるので、文体が一致してなかったり論理が破綻してたり誤字脱字がひどいですね。
結果、説明不足だったり変な文章だったりが原因でいくつかこれは補足しておきたいなと思ったコメントがあるので補足させてください。
解説本を読むことで原典にあたった際の新鮮な驚きが減るのは確かと思います。ネタバレ効果というか。小説系では顕著と思います。
また、解説者の解釈が固定化されるという懸念も確かにあるかと思います。
しかし、私の記憶では「これは私の解釈だが」「多数の説の中で、私が支持するのは」など、
俺の解釈が絶対だという態度で解説してた解説者はいなかったし、異説も提示していることが大半でした。
ここまでやってくれたらあとは受け取る側のリテラシーかなぁ、と思います。
また、100分で名著の解説で実施していることは「あらすじ」+「執筆背景解説(作者の人生の中で著作の占める位置など)」+「解説者の解釈解説」と思っていますが
この内「執筆背景解説」が一番の目玉であり、知識のつながりを作ってくれるところで、この部分は原典だけ読んでも絶対に得られない補助線です。
私は持久スポーツを趣味にしていますが、例えばフルマラソンなら当たって砕けろでもまぁ、レース中の数時間もがき苦しみ、暫く足がまともに動かなくなる覚悟があればゴールは出来るでしょうが、
ウルトラマラソンとか、アイアンマンになると当たって砕けろではまぁ無理で相応の準備がなければ、失敗したという経験を経験値に変えることも出来ずに敗退すると思っています。
特に古い思想書は知的作業としてウルトラマラソン級だと思いますし、かつ何かを求めて読むわけでしょう。
ウルトラマラソンで周りの景色も何も見えないぐらいつらい状態になって、制限時間オーバーで失格になっても兎に角意地になって歩き続ける人がたまにいて、マラソンならそれでもいいかなと思いますけど、
古典を読む場合最後のページにたどり着ければよい、というものではないですよね。
途中の景色を楽しむためには相応の準備というものが必要なのではないかな、よほど読書体力に自身があるのでなければ、背景を知識として持っておくのは良い方にしか働かないのではないか、と私は思います。
100分で名著の一番の強みは「TV番組であること」であり一番の弱みもまた「TV番組であること」であると思っています。
強みとしては、インタラクティブな解説(動く図形とか、アニメとか、俳優の朗読とか)が可能になること
弱みとしては「解説者の準備期間、解説時間に制限がかかること」「番組上では注釈を実質的に挿入できないこと」「月に1冊のペースでしかラインナップを増やせないこと」ですね。
特に月イチのペースでしか増やせないのは大きな制約で、解説本の中で出てきた関連本に解説が欲しくても、100分で名著で解説される可能性は極めて低いと言わざるを得ません。
そういう意味で、名著巡りの入り口にしかならないといえばならないのだと思います。
100分で名著をメインに追いつつ、他にも手を出してみようとは思っています。
私は実は番組はあまり見ていません(3割くらいかな)。毎週火曜日この時間にTVに向かっていることが難しいからです。
理想は両方こなすことだと思いますし、伊集院光さんのリアクションは時々ハッとさせられることもありますが、私はどちらかを取れと言われたら解説本だけ読みます。
番組が「あらすじ」+「執筆背景解説」+「解説者の解釈解説」で割合が2:2:6~1:5:4まで変動するとしたら
解説本は執筆背景解説に一律+3、解説者の解釈解説が一律-2って感じです。
(逆に、あらすじだけ知りたい場合100分で名著は重厚長大で、もっと手軽な選択肢があると思います。)
そりゃ、番組の中で解説にちらっと出てきた著者の友人の来歴とか、著書とか、いちいち全部触れられないですよね。
つまり、私が元投稿で言った「本の解説で繰り返し取り上げられる要素(人名、思想、歴史上の出来事など)があることがわかった」現象は
番組を見るより解説本を読んだときのほうが顕著に起こると思われます。
なので、もし元投稿を見て「知識がつながるって面白そう」という点に興味を持っていただけたなら、解説本の方をメインにされることを私はお勧めします。
頑張って読んだ、という感覚はありませんでした。
おそらく、原典には「頑張らないと読めない」ものもたくさんあると思いますが、解説書の段階では頑張らずに済みました。
正直、興味をそそられたかどうかにはレベル差があるので、結局読まない原典もあると思います。
古典名作だと聞いて読んでつまらなかったら被害甚大ですが、水際で食い止めてくれたことになると思います。
読みたくない本、という感覚もなくて、どちらかといえば「知らない本は読めない」ですね。
恥ずかしながら「エチカ」だとか「夜と霧」だとか「全体主義の起源」なんて知らずに生きてきたので
まず読みたくないかどうかも解説書読んで判断しようと思ってました。
食わず嫌いよりは、試食コーナーの匂いで避けた、の方がまだマシかなと言う感覚です。
シャワーを使う際には、本はタオルにくるんで蓋に挟んで防水します。
このスタイルで読書して2年位になりますが、多少湿ることはあっても、問題になるほどビシャビシャになったことはないですね。
以前スウェーデンに出向していた友人から聞いた話ですが彼の国では大学とは必ずしも高卒すぐ入るものではなく、
暫く働いてから勉強したいことを見つけて入る人も相当にいるらしいですね。
その彼が聞いた日本との違いを顕著に表しているセリフが「高卒のガキに大学教育はもったいない」「日本人は高校生の時職業決めるんでしょ?すごいね」です。
後者は嫌味なのかな?と言う気がしないでもないですが、前者は今本当に身にしみています。
大学教育をきちんと受け止められる18歳って、そんなに多くないですよね、、、
以下私の勝手な解釈です。見当違いのことを言ってるかもしれないですが、、、
私と趣味が合いそうだなと思ったら、まずは以下をお勧めします。
スペシャル版なのでちょい分厚いですが、これが私の一押しです。
日本の大乗仏教諸派の成り立ちと違いについて、今まで何度か教わったし読んだはずなのですが全く頭に入ってこなかったのがすらすら入ってきました。
読了後は、まるで自動車教習所に通ったあと今まで目にも入らなかった交通標識が急に意味を持ち出したような感じで、街中のお寺から情報を取れるようになりました。
私自身が茶道やってる事が大きいかもしれませんが、日本人が外国人に、英語で日本文化を説明する起点として最高と思いました。
実際、ボストンで友人とあったとき(作者の天心はボストン美術館の東洋部部長です)なんと役に立ったことか、、、
全編、声に出したい日本語だと思いました。言葉がやや古いのですが、原典も薄くて読みやすいです。
維摩さんというレジェンド級のアマチュア(在家信者)がプロ(菩薩軍団)をやり込めまくる話です。
「煩悩は湧くに任せよ、とらわれないことが大事だ」というフレーズがとても頭に残っています。
一番実践しやすい仏教な気がしました。アメリカの方で流行っているzenとかsatoriってこれを目指してるのかな?と思っています。
↓と思った記事
https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/
人間は自己愛ゆえに苦しまねばならぬ、というのがメインの本と理解しました。それだけでも納得感あるのですが、
本人的にはキリスト教最高!で異教徒を折伏するために書いた本らしいのに仏教が目指してるところと同じっぽいのが面白くて読んでました。
原典が思いっきり重そうなのですが、いつか読みたい本の一つです。
いろんなことを言ってるわけですが、
私は趣味を持て、幸せになれるぞ?という本だと理解しました。ラッセルさんの趣味の定義とは「~を収集すること」らしいです。つまりスタンプラリーですね。
何かに対して情熱を持ってスタンプラリーしてるうちは人生に飽きない、ということかと思いました。
解説本読破もそのノリでやってやらぁと思ったのを覚えています。
正確には100分で名著シリーズではないのですが、この「一週間で資本論」が成功したので100分で名著が始まったらしいです。
資本家の行動原理が今とぜんぜん変わらず、ギグ・エコノミーとかも19世紀の理論で説明できることに驚きました。
経済を理解するためというよりは自分の身の振り方を考える上で有用だなと思った本です。
リストがほしいというコメントをいただいたのでリスト載せます。
趣味が合いそうだなと思ったら、参考にしてください。
(抜け漏れあったので追加。まだ何冊か忘れてる気がする、、)
・点と線
・かもめ
・人間失格
・斜陽
・三四郎
・こころ
・茶の本
・奥の細道
・昔話と日本人の心
・死者の書
・銀の匙
・世論
・ペスト
・ゴルディアスの結び目
・1984
・苦海浄土
・夜と霧
・野火
・ソラリス
・マクベス
年末年始休みは読書もはかどり、新たに買った原典も既に8冊終わりました。
今のところ、全て期待通りの内容でとても充実した休みになっており今年ずっとこの調子で読み勧めていけたら、、、(無理だろうけど)と思ってます。
どういうふうに仕事の本を差し込んだら、自分の中の読書熱にうまく歩合出来るかを考えるのが今年の課題かな。
動物本とか、読んでて飽きることがあるんですよね。
なお、私が100分de名著を知ったきっかけは単身赴任中の父がずっと見ており、解説本を纏めて実家に持って帰ってきたのがきっかけでした。
私も読み出して以来、お互いの話題の共通点も増え、お互いの読書の幅も広がって、
初めて父と同等の視点で知識交換をできるようになったような気がしており、その点でもこの番組には深く感謝しています。
(私の専門のITのことでは以前から教える立場でしたが、これとはなんとなく異なる現象のような気がしてます。)
良い1年を!
。。。。。
お酒をやめたことで脳内に直接作用してアッパーとかダウナーの作用を及ぼすイロイロに興味がわいて青井硝子さんの薬草協会とか読み漁ったりカフェインを絶ってみようとか思い立ったりして、まずはノンカフェインのインスタントコーヒーを買った。100gで1100円だ。僕は近所の高級スーパーで購入したので1300円。2gで1杯分だと書かれているので100gだと50杯、1100円換算で1杯20円強か。今まではドリップコーヒーをわざわざ淹れて飲んでいて、それがだるいというのもインスタントコーヒーを購入した理由の一つなんだけど、値段で比較してもインスタントの方が安いんじゃないか。これインスタントの中ではかなり高級品のはずなんだけど。ドリップコーヒーって高級品なんですね。ドリップコーヒーは1杯40~50円くらいかかる。さて飲んでみた結果なんだけど口に入れた瞬間インスタントコーヒー特有のあの味がして一気に思い出した。インスタントコーヒーはあくまでもインスタントコーヒー味で、コーヒーとは別物なんだよなってこと。ちゃんと蒸らしてドリップしたコーヒーは美味しいんだってことを再確認させられました。まぁインスタントコーヒーも飲めないわけじゃないのでいいです。ドリップに比べて圧倒的に楽だし、味もどうせすぐに慣れる。気楽に生きるには安物に慣れておいたほうがいいし、元々カフェイン絶ちのために購入したのでカフェイン入りのコーヒーと比較するのは酷だ。それこそカフェイン入りのコーヒーはカフェインが脳に直接作用する働きが「うまさ」として感じられているんだろう。知らんけど。
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最近は本をたくさん読みたいと思うようになって、図書館で本をたくさん借りたのだけどいかんせん活字の本は読了するのにどうしてもある程度のスピードがかかってしまうのでだるい。もっと、アニメとか車とかゲームとかにハマった時のスピード感が欲しいよな。あらゆる角度から情報をがんがんアップデートするあのスピード感が読書にはない。読書は情報量が他の趣味の比にならないほど莫大に多いので、永遠にゲームの一週目が終わらない感覚なのかな。知っているものが出てこないというか。それはそれで楽しいんだけど。今は内田樹さんの『困難な成熟』、市原真さん『いち病理医のリアル』、池谷裕二さん『脳には妙なクセがある』を読んでいる。池谷裕二さんの脳科学の本は人間がする行為の原理とかが脳科学的に語られていてすごく面白い。人生は脳に快感を与え続ける作業ゲーだとも思えてしまう。内田樹さんの本はまだあまり読み進めていないのだけど面白そうだ。今はとにかくどの方面からでもいいのでとにかく新しいことを知って知識を蓄えていきたい。まだ21歳なので、どの著名人のwikipediaを読んでも大体人生が上手く回り始めるのは20代後半か30歳に入ってからで、それまで彼らもとにかく知識を取り込んで自分が本当に好きなものを探していたんじゃないのかなとも思う。時代は常に動いているし何かに遅れてもまた新しい別の何かが生まれてくれるので「流行に乗り遅れた」なんて存在しない。今はまだ幼虫なんだと自分に言い聞かせて人生をゆっくり進めています不味いコーヒーを飲みながら。
実家は拡大方針を取らなかったので、作中の塾の発展とは異なりますが、
月としての教育インフラであった塾業界、そして受験ビジネス産業については
いろいろと父の話を思い出すこともありました。
そして私が学生だった20年以上前と比べて、塾の位置付けがこんなに変わっていること、
塾が悪いなんて言っている人みたことないと書いてあるブクマの意味がよくわかりました。
私自身が自分の経験のために、学生時代から塾のイメージをアップデートできていなかったのかもしれません。
いま、塾はこんなにポジティブに捉えられているのですね。
塾の子供たちのエピソードは昔を思い出しました。自分は蘭に一番似ていたと思います。
教師から目の敵にされていたのもあり、良い成績を取ってやるという気持ちもあり、
父親はそんなことを全然望んでいなかったと思いますが、自分は塾の広告塔だと思って、
良い成績を取って、生徒を集めて、家庭を助けたいとも思っていました。そんな大人びた子供でした。
逆に父は、生徒の進学結果などを公に公開することを反対で、良い中学・高校に進んだ学生は多いのに、
また、習熟度別クラスに反対で、同学年は成績に依らず一つの教室でした。それは父のポリシーだったと思います。
私は成績もよかったこともあり、たしかに学校の定期試験をなめていたこともありました。
歴史なんてただの暗記科目、子供の記憶力チェックをされているだけなので、
別にこれは日本の歴史じゃなくても、マイナーな外国の言葉のボキャブラリでもなんでも取り換え可能だ。
そのときは、明確に叱られました。歴史とは現在と地続きの人間の営みであって、
いまがどのようにつくられてきたのか、そして人間がこれまでどれほどの愚かなことをしてきたのか、
それを学ぶものだと。
私が、「いやいや、この似たような仏像の写真を並べて、名前を当てる問題なんて、ただの暗記&IQテストじゃん」
みたいなことを言った時に、いまはそう思えるかもしれないけど、いつかその違いを楽しめるようになる時が来る。
そういうのが教養なんだと教えてくれました。当時はただの屁理屈だと思いましたが、
今思えば、父の言葉は真実でした。橋本治のひらがな日本美術史は私の好きな本の一つです。
もちろん父を神格化していたわけではなく、はっきり言ってしまえば、
自分は普通の家の子どもに生まれたかったと反抗期には何度も言っていました。
同級生が自分の父親を知っている、同級生が自分の家にお金を払っている。
この居心地の悪さは、自営業の子にしかわからない感情かもしれません。
(塾は関係ないですが)
そういう感情もあり、作品中の一郎が教育業界と距離を置きたくなる気持ちがとてもわかります。
結果として、私は少なくとも現在は教育業界からは遠いところにいて、
(昔の)学校の教師が、塾の存在が、自分たちの仕事が不十分であると感じさせられるので敵視する一方、
作品中で吾郎が「塾の人間というものは、すべての子どもに等しく勉強を教えられていない現実に、
絶えずある種の鬱屈を抱いている、商売であることの限界が、喉に刺さった小骨のようにつきまとう」と語るように
大手を振って、すべての子どもたちに教育を無償で提供できる学校教員を、
ある意味で羨ましく思っていたところもあったのだろうなぁと思いました。
もう70になる父の語った賤業という自虐も、この辺りの感情が根っこにあるのではないかと思わされます。
最後の教育格差の問題へのアプローチも含めて、非常に良い作品でした。
二月の勝者も、作中で何度も匂わされているように、同じ問題意識があると思います。
父は、資源がない日本だからこそ、教育に力を入れるべきだと昔からずっと言っていました。
なんとも古臭い文言ですが、先進国トップの学力を誇った日本が、
いまや公教育がぐちゃぐちゃになり、そして富裕層・貧困層の教育格差が拡大し、
他の先進国から博士がいないとビジネスの場ですら、馬鹿にされている始末です。
教育の底上げもエリート層の教育もどちらもできていない現在の日本の教育ですが、
漫画と小説混在の合同誌やアンソロで、小説はいらない邪魔だと口に出してしまう人間がいると聞いたので、思ったことを書いてみました。初めてなので拙い部分だらけですが、よろしくお願いします。
②漫画と小説の合同誌で、字書きさんに届いた『漫画だけ読みたい。そういう人多いと思いますよ。分けてくれませんか』という焼きマシュマロ
③やはり絵描き>字書きなのか
※普段は小説を書いていますが、自分は同人誌を出したことがないので、①②はあくまで読み専としての考えです。
この気持ち、正直わかります。自分も同人誌を買い始めたころは漫画ばかり買っていました。9.5割漫画でした。pixivで小説は読んでいましたが、なぜか同人誌には手を出さなかったです。自分でも理由はよくわかりません。
でも今は漫画と小説を半々くらいで買います。なぜこうなったのかよくわかりません。漫画の同人誌、最高に素敵です。御本を手に入れるときはいつも戦争です。本当に最高。
でも小説の同人誌もすごいよ。映画観たような気持ちになります。小説本は読むのに時間がかかるって言うのを聞いたことがありますが、それってメリットでは?と思いますね。じっくり読み込めて、その世界に入り込める。読了後の余韻がたまらないです。
何が言いたいかと言うと、同人誌はあくまで趣味のひとつですし、書きたいものを書けばいいし、読みたいものを読めばいいわけです。
でも「同人誌と言えば漫画、小説は買わない」という人、もったいないなって思いますね。世の中にはこんなにたくさん素敵な小説本があるのに、読んでないんですもん。
同人誌を買い始めた頃の自分に言いたいです。小説本もサンプルをちゃんとチェックするんだって。きっと今までたくさんの神本を取りこぼして来てしまったんだ…。
上にもある通り、同人誌は書きたいものを書けばいいし、読みたいものを読めばいいと思ってます。だから『漫画だけ読みたい。小説の部分はいらない』と思うのも自由なわけです。買う買わない、自由です。
でもそれを字書きさんにましゅで送る、人間のグズだと思いますね。ゴミ。いろいろツイート漁りましたが、会場で本人目の前にして言う人もいるらしいですよ。相手の気持ちを考えられないのか?普段どうやって社会で暮らしているんだろう。
ましゅを送られた字書きさんには、そんなカス人間の言うことなど気にせず、楽しく合同誌を作ってほしいですね。
③「絵描き>字書き」
このふたつに上下はないと思ってます。自分は絵が描けないので「絵が描ける人はいいなあすごいなあ」と思いますが、「自分はどうせ字しか書けないし…」と卑屈になることはないです。
小説を書くの、楽しいですよ。読むのも大好きです。漫画のいいところ、小説のいいところ、それぞれあります。そもそもいいところなんて気にする必要がないのかもしれません。好きなものを描(書)いて、好きなものを読む。同人はこれに尽きると思います。
いります。
俺は読了した分には「読んだよ」の意味を込めてそれぞれ1ptずつ投票するようにしている。
その旨ふたばで表明したところ、「嫌がらせだ」「低評価だ」という批判をいただいた。
いやいやいや。
読んで面白かったらpt増やすよ。てか面白くなかったらそもそも評価しないだろ?!
って釈明したら
「そもそもPVの数に対してptくれる人が少ないので、2ptしか貰えないのはダメージが大きい」と返されてちょっと反省した。
そんなに評価送る人が、じっさいに読んだ人という母数から見たら少ないのか・・・
デフォルトの評価が3ptに固定されてるのも、どうせ評価するならここを基準にしてね(これ以下だったら作者は凹むよ)、という意思表示だったんだろうか?
評価する時の標準点はどのへんにおいているのか教えて欲しいぞ。
※追記
ここ二週間ほど仕事を頑張りすぎたので、ついに疲れが限界に達した。土曜日は起きてもカゼのようなふらふらとした感じで、食料の調達以外ほとんどベットから起き上がらずパソコンをいじっていた。東浩紀が酔っぱらって津田大介と語り合う動画をベットで横になりながら聞いていた。この二人の語りって本当に好きなんだけれど、酔って東浩紀が暴れていたシーン以外覚えていない。日課の筋トレも体を動かしちゃいけない気がしてできなかった。起きていると心臓がドキドキして、なにか神経がイカレてる感じがする。だけれどどうしたらよいのかわからない。
日曜日は起きたら昼になっていた。なんだか全身が痛かった。風邪なのか? いやカゼ独特の全身の熱っぽさは感じない。とにかく体がきつい。それでいて睡眠を貪る余裕もないと感じた。良くないとわかっていながら、ぼーっとPCをいじっていた。何かしようかという気持ちがありつつ何もできず夕方になった。久しぶりにaiueo700の動画をyoutubeで見たら、楽しそうに自転車で街を駆け抜けていた。彼は本当に、生き生きしている。思わず自分も自転車で街へ出かけたくなった。ふと、図書館へ本を返すことを思い出したのでやっと閉館ギリギリの図書館へ滑り込み図書を返却し数冊適当に借りた。
どういうわけか、図書館へ行くと楽しい気分になっていた。たくさんの本を前にして、まだまだ自分には読みたい本があるという前向きな気持ちになれた。本当に人間の感情は不思議だ。途中でファミレスによった。元気をついてくれよと自分に念じつつ、ステーキを食べた。その後、しばらくファミレスで本を読んだ。ルポルタージュを読んでいて、楽しくて一気に読んだ。どう見ても泣くべきでないシーンなのにも関わらず涙が流れ落ちた。なんで泣いてるんだろ。読了の余韻もそこそこに、店を出た。ああ、風が心地よい。頭の中でaiueo700を演じつつ、帰路についた。
やっぱりネットをやって引きこもると精神的につらいものがある。どうしてもネットだとアニメとかラノベとかそういうジャンクなコンテンツに偏ってしまう。面白い情報ってネットでは手に入らない不思議。
ああ、そろそろお薬が効いてきたから、寝るね。