2020-03-21

益尾知佐子『中国の行動原理』を読んで

益尾知佐子『中国の行動原理』を読了

本編もかなり面白かったが、あとがきもまた輪をかけて秀逸だ。

ところでネット上のレビューを読むと、このあとがき賛否両論のようだ。

「めちゃくちゃ面白い!」

「これだけでも一読の価値がある」

という人もあれば、はっきりと嫌悪する人もある。特にアマゾンの、

あとがきで、女性の半生記を長々と読ませられるのはベリベリ白けてしまった。「中国の行動原理」は読みたいが、著者の行動原理不要である。」

「著者のファミリーヒストリーあとがきで書かれているが、少なくともこの本のあとがきとしては不要でしょう。」

このての感想はなんつうか、物事本質が分かってねえ貧しい輩だなと思う。

"本編は面白いけどあとがき不要"って……。いやいや逆でしょ。

こういうあとがきを書くような(或いは書かずにいられないような)人だから、こういう面白い本編が書けるんだよ!

本は情報を吸収する道具、著者は情報提供してくれる装置、では断じてないのだ。

真に面白い本というのは、どうしても書かずにはいられない、あるいはそのようにしか書けない、やむにやまれのっぴきならない著者だけの特殊事情がある。

かについて語るということは、それを語る自分が何者であるかを包み隠さず開陳すること同義

その一糸まとわぬ脱ぎっぷりのよさに、余人に真似できぬ面白さが宿るのだ。

そうせずに小手先マーケティングで書いたものなんて、いくら有益で新奇な情報を扱っていても面白さには程遠い。

これはなにも小説脚本の話だけでなく、学者の書くものだって同じことだ。

サイードは『知識人とは何か』の中で次のように言っている。

私的世界公的世界とは、きわめて複雑なかたちで混ざりあっている」

「いっぽうには、わたし自身歴史があり、わたし経験からひきだされたわたし価値観や、わたしの書いたものや、わたし立場がある。そしていまいっぽうには、こうしたことがらを吸収する社会的世界があり、そこでは戦争自由や公正について人びとが議論したり決断をくだしている。私的知識人というもの存在しないのは、あなた言葉を書きつけ、それを公表するまさにその瞬間、あなた公的世界はいりこんだことになるからだ」

「つねに個人的曲解があり、私的感性存在する。そして、個人的曲解なり感性が、いま語られつつあることや、書かれつつあることに、意味をあたえるのである

ジャン=ポール・サルトルバーランドラッセルの書いたものを読むとき強く迫ってくるのは、その論じかたではなく、彼ら特有個人的な声であり、その存在であるが、これは、彼らが自分の信ずるところを臆せず語っているかである。彼らが、顔のない役人ことなかれ主義官僚によもやまちがわれることはあるまい」

そう、だからパンツ脱がずに小手先情報だけで書こうとすると、必然的無難一般論官僚答弁に行きつく。誰が書いても同じなんだから

そうすると書き手洞察は深いところまで届かず、したがって読者に感動なり知的興奮なりを与えるような面白い本にはなり得ない。

話を益尾氏の本に戻すと、

なぜあとがきで「著者のファミリーヒストリー」を書くのか。

なぜ"東京北京"に収斂できない「女性の半生記を長々と」書くのか。

本編を読んでもその意味必要性が本当に分からない読者がいるとしたら、そいつはもう馬鹿しか言いようがない。

そういう人間機微がわからねーやつに社会なんかわかるかよ。

ちょっと熱くなってしまったが、走り書きなので言葉遣いが汚いのは許してほしい。

そもそも自分は「学者の書くあとがき」が好きなのだ。半分タレント化した人は別として。

学者場合小説家などの他の文筆業と違ってどうしても本編の制約が大きい。

たとえ一般向けであれ「学者の顔」で書く以上は、事実関係客観性を重んじるのは勿論、表題に掲げたテーマに何らかの結論を出すことが求められるから

それだけに、あとがきでは「学者の顔」に収まりきらない著者の顔がにじみでているのが、本編と相まってすごく味わい深く思えるのだ。

その意味で益尾氏のこのあとがきは、「学者あとがき」として大変面白かった。

自分が今まで読んだ中では、安丸良夫近代天皇像の形成』のあとがき彷彿とさせる面白さ(この意味が知りたい人は読んでもらえれば分かる)。

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