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2020-02-16

古今伝授フラクタル

中屋敷均『科学非科学読了。まぁ面白かったが前作ほどではない。というより期待が大きすぎたのか。

科学非科学も飛び越えて、この世に生きる勇気を与えてくれるのは、人の心にあるそんな「物語の力」ではないだろうか。」

物語」にも物語にも日々向き合ってるこっちにしてみれば、悪い意味で同感だ。つまり凡庸。これって「科学は万能じゃない」や「人は皆死ぬ」ほど有名ではないかもしれないが、しかしかなり多くの人がかなり多くの場合にすでに悟っている事柄問題はそこからなのだ。独力では到底到達しえなかったであろう洞察、それに出会いたくて俺は本を読んでる。本書はこれに応えるものではなかったが、この著者はこれからも追いかけていきたい。

一方で得るものもあった。カオスの縁フラクタル直感だが、これを援用すればうまく解けるのではないか。俺が「コジツケの体系」と呼ぶもの構造や生成過程が。中世日本荒唐無稽ともいえる独特で奇妙な古典解釈大系。

古今集序にせよ何にせよ、書かれた当時にあってはなんてこと無かった筈の片言隻句が、時代が下るに従って転じて転じてねじ曲がりねじ曲がり、膨大な後づけと神秘性を付与された複雑な世界形成する(思想体系と呼んでよい)。それは社会的には権威の獲得や富の集積と同時進行であるが、しかし単にそれらを得る為の手段というには留まらない(たとえ部外者にはそう見えても、当人たちはそのように割り切ってはいない)。なにか複雑化それ自体を欲するかのような、ある種の情熱がある。その体系がすっかり出来上がり、生成を止め、社会的影響力を失った後の時代からふり返れば、(その情熱には共感できないので)荒唐無稽まやかしの残骸にしか見えない。だがこれを不揃いの渦みたいなフラクタル図形と見做せばどうか?

思想史における生成発展継承克服、ある思想が成長して影響力をもちやがて失う。こういった変化の過程理解するのに、進化モデル遺伝モデル・遷移モデル(極相林とか)等があると思うが、フラクタルモデルもまた有効ではないか

特に一見して不規則複雑だが無秩序でない点、部分と全体との自己相似という点が、すごく似ているように思う。片言隻句からオウギョウな解釈が生まれ、その解釈から儀礼形式(例えば物の配置)が生まれ・・・というあたり。人や物をこのように配置してこれこれの形式で行うことで、テキストから膨らませたこれこれの世界と重なることになるのだ、という思考様式。これを自己相似と言わずなんと言う。

これを更に敷衍するなら、「歴史」や「伝統」に基づく正統性が主張/確認されるあらゆる場面にこの自己相似が顔を出す(大嘗祭を想起せよ)。ある習慣がなぜ「伝統」になるのか、あるいはなぜ「伝統」が作られるのかを考える時、適者生存がよく説明に使われる。だがそれではあまり光の当たらない側面もある。生存や利害得失だけを考えるなら、これほど複雑精緻(なのに脆弱)にする必要はない。そこには生存戦略とは別の原理も働いていると考えるべき。それを読み解くヒントがフラクタルにある。

古今伝授ウイルス

思うところあって中屋敷均『ウイルスは生きている』を再読。走り読みなので細部までは目が行き届いていないが、これを読んだ時に受け取った熱を思い出した。2016年3月初版発行からそう経たぬうちに読んだと思うが、今は随分ここから遠くに来た気がする。本書が今の自分とは縁遠いものという意味ではなく、寧ろ逆にずっと俺の心を捉えて離さなかった。自分世界認識に深く影響を与えた(与えている)ので、もっとずっと昔から自分の中にあったように感じていたが、たった4年前のことなのか。

思うところが何かを明確に言語化するのは難しいが、

古今伝授を真に理解するためには、それが中世社会特質と深く関わっていることを考えなければならない(古今伝授和歌という縦糸だけで説明しようとするからダメなんだ。中世という横糸を忘れている)。中世は壮大なコジツケの体系が構築された時代神仏習合本地垂迹説・卜部神道中世日本紀等々…の奇妙奇天烈世界観!古今伝授もその一環として見るべきではないか。コジツケと言われればそうだけど、それはその時代の人々にとってとても必要なコジツケだったのだ、という。もし積極的な意義を見出すのならその方向から説明しなければならないのだ。(古今伝授を受けた天皇を中心に優れた歌人が輩出された、だから歌学教育として意味があったとかバカか。優れた和歌とは何かという定義評価軸じたいが古今伝授支配圏内形成されるのだから、優れてるかどうかを論じること自体ナンセンス。)

古今伝授古今伝授になっていく過程、つまり古今集という単なる書物が、あるいは勅撰集編纂という律令制国家の一事業が、その枠を超えた何か大きな・尊い民族文化の精髄のように認識されていくそ過程において、付与された様々な言説――三木三鳥だの八雲神詠だの人麻呂がなんちゃらかんちゃら、後世から荒唐無稽とさんざ罵倒されることになるこれらの言説は、あたか胎盤形成におけるシンシチン(syncytin)のような役割果たしていた、と考えることはできないのか。異物を異物と感じさせない、捏造捏造と感じさせない仕掛け。それは、倫理的断罪とか文化価値の優劣の俎上に乗せるのはふさわしくなく、その仕掛けを通じて何が実現されたか、その何かはその仕掛けを用いずには実現され得なかったのか、をこそ見るべきではないのか。

本来ウイルスもつ能力自己の一部として、機能として取り込む。生物自己の維持に必要機能の一部を外部環境依存する。ポータブル外部環境としての細胞生命と非生命境界は我々が思っているほど明確に線引きできるようなものではない。我々の生命定義は、あまりにも我々が日常的に馴れ親しんだもの見方に、「個人」という概念にひきずられてやしないか・・・というのが本書の示唆するものの最も深い所だ。

契沖や子規の批判は分かる。俺も一個人としては古今伝授(に代表されるもったいぶったコジツケ家)はバカジャネーノと思う。が同時に、それは文化・知・個人といったものについてこっちの定義/概念押し付けてるだけじゃないの?とも思う。

根拠がない、合理的でない、和歌質的向上につながっていない、という。では何故根拠がなければならないのか?合理的でなければならないのか?なぜ質を向上させなければならないのか?

これらの批判は、文化とは何か、個人とは何かについての定義をすでに前提にしていて、その立場から加えられている(反論する側(古今伝授擁護する側)にもその立場から反論するやつがいからどうしようもない)。まず始めに個人がある、歌は個人気持ちを詠むものだ、しかるにコレコレの御方に入門しなければ和歌は詠めないのだとはけしからんしかもその御方の教えたるやひたすらややこしい制約ばかり、かつ透明性のかけらもない、おまけにそう教える根拠はどこにあるかと探してみれば無い、要はこいつがでっち上げた妄説じゃねえか、それで偉ぶったり金巻き上げたりするなんて悪どい奴らだ・・・、こういう自他の区別、新旧の区別、真偽の判別をつけずにはいられない、ある意味病的な正義感いかにも科学合理性に偏っている。

しかし、それとは全く異なる評価軸があって、古今伝授は(中世の壮大なコジツケ志向は)その軸からみればもっとずっと整合的に理解できるはずだ。

本書の示唆する構造は、外来文化自家薬籠中の物にする日本文化性質(漢字仏教等々)、中世の遺制としての近世身分制(身分的周縁論)、象徴天皇制(近代国民国家の中の「伝統」)などに比較してみると実に都合がいい。

本来異質な要素を自己の維持に不可欠な一部として取り込み、その「元異質たち」も含めた全体として再生産されていく。あるいは新しい政権が成立する際に、それ以前からあったが途絶えかかっていた慣習を改めて制度化し流用する。取り込まれた方は同一性が失われ単なる機能に解消されてしまことなく、細胞異変があれば細胞生物独立した生物としての振る舞いを取り戻すこともあり得る(少なくともあり得ると見なされる。226事件を想起せよ)。天皇機関説ならぬ天皇ミトコンドリア説。

文化じたいが多かれ少なかれこういう性質を持っているのだが、特に日本はその傾向が顕著というか、世界中に普遍的にみられる文化現象の一例というだけでは説明のつかない点が多い。(なぜ先端技術の粋を凝らした構造物を建てる前に、土地の霊を鎮めるための宗教儀礼をやるのか?なぜ参加者は誰もその宗教信者でないのか?わけがからない。)こういう部分を説明するうえで本書の示唆する構造は役に立つ。その応用系として、古今伝授についても似たようなことが云えるのではないか

2017-05-19

山本常朝

山本常朝

山本常朝の墓(佐賀市

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日1719年11月21日)は、江戸時代武士佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。

目次 [非表示]

1 略歴

2 隠居晩年

3 史料

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

略歴[編集]

万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路現在佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田左衛門女。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。

11歳で父に死別し、14歳とき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚仏道を学び、21歳のとき仏法血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。

葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田現在佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。

天和2年(1682年)24歳のとき6月山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月御書物役を拝命。28歳のとき江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

隠居晩年[編集]

同年5月16日藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日藩主菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロ山地来迎寺村(現在佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。

田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。

のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方11キロの大小隈(現在佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。

享保元年(1716年)9月10日田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所八戸龍雲寺。

辞世の歌:

重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵

虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしもの

2017-05-07

[]

関市にある岐阜県博物館塚原遺跡公園に行ってまいりましたわ。

岐阜県博物館では岐阜県に生きる生物の展示がありました。

ところが鯖はいませんでしたわ!はいませんでしたわ!

鉱物歴史など総合的に展示されていて全体を回るのは大変でした。

周り終わる頃にはお疲れ鯖ですわ。

目玉はロビーにある恐竜の全身骨格標本でしょうか。

学芸員の方がお子様を集めての説明会を開いていらっしゃいました。

鉱物では平瀬鉱山の輝水鉛鉱が巨大で素晴らしかったですの。

他の鉱物も「鉱石」と言った感じの迫力ある標本が観られましたわ。

展示パネル歴史があるのと、自治体合併が激しかった影響で、

から修正シールがたくさん貼られていたことが物悲しかったです。

企画展関ヶ原の戦いに関するものと、刀剣のものがありましたわ。

関ヶ原の戦い美濃武将に注目した展示が三角形の小さな部屋で行われていました。

制札や書状などが時系列に並べられていましたけど、

ストーリーを与える解説があるでもなく、物足りませんでしたの。

常設展関ヶ原の戦い発光ダイオードを使ったジオラマが観られ、

三河武士のやかた家康館との比べて観るのも面白かったです。

古今伝授の里でみた、北美濃の東氏の篠脇城模型岐阜県博物館にもありました。

並べて見比べたいところですわ。

刀剣企画展はマイ・コレクション展ということで、

博物館関係者ではない日本美術刀剣保存協会の方がやってらっしゃいました。

写真撮影可能でたくさんの刀と押形を鑑賞することができましたわ。

塚原遺跡公園縄文時代古墳時代遺跡が重なっているところで、

竪穴式住居の復元と円墳が同時に観察できます

展示室では縄文時代復元模型があって、登場する人物家系図が

設定されているところが面白かったです。

縄文時代平均寿命は15歳。平均8人を産まないと人口を維持できないとのことでした。

模型家系図では片方の家は子供が7人、もう片方は6人に設定されていました。

真ん中にあるもう一軒は二軒の子供を生んだ老夫婦の家でした。

娘さんは他の村に嫁に出た設定のようですわ。乳児死亡率を考えれば二軒の子供は多めでしょうかしら。

また、古墳の石室が南方向に開口部をそろって向けている点が印象的でしたわ。

方位は血縁関係があるとの研究もありますし、すべて同じ一族のお墓なのでしょうか。

関係者以外駐車禁止看板に驚きましたけど、来園者以外駐車禁止看板も一緒にあり、

来園者は駐車して良いようでした。

三河武士のやかた家康館ですわ

http://anond.hatelabo.jp/20170430215158

古今伝授の里フィールドミュージアムですわ

http://anond.hatelabo.jp/20170422224555

2017-04-22

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本日美濃加茂市ミュージアム美濃和紙の里会館、郡上八幡城、

古今伝授の里フィールドミュージアムに行って参りましたわ。

せっかくだから、もう少し足を延ばそうとする繰り返しで、

小沢艦隊に釣られたハルゼー艦隊のごとく北に突進してしまいました。

わたくしの御髪が縦にカール・ビンソンですの。

美濃加茂市ミュージアムでは特別展信長秀吉家康

そして光秀の書状が展示されていました。

天下人四人の書が拝めるなんてありがたいですわ。

秀吉直筆書の筆運びがおもしろいです。

本田正信展で拝見した折り紙もありましたが、

掛け軸にするときに折り目で切断して向きを揃えていると解説がありました。

また、尊敬する相手に触れる前で改行する作法もあったそうですわ。

これは、わたくしに送られてきた手紙見直しませんと!

近隣の城についても紹介があり、ガラスの中でさら額縁に入っていた

加治田城イラスト

香川元太先生直筆の作品(本物)とのことでした。

絵が歴史群像の見開きとほぼ同じサイズで驚きました。縮小コピーじゃなかったのですね。

棒人間的な人物は米粒の表面に描けるくらいの小ささで作業の細かさに圧倒されました。

美濃和紙の里会館は地場産業である和紙の売り込みをしていて、

アーティストはともかく企業が正面に出過ぎている感じでした。

せめて入館料をとらないゾーンに展示されたほうが……。

アーティスト作品と一緒においてあった名刺のものが、

作品になっている点は和紙ならではでしたわ。

こうぞ5500gから長い工程を経て得られる和紙は220gとのことです。

日本各地の和紙が紹介されていましたけれど、

青森千葉神奈川香川長崎のみ和紙がありませんでしたわ。

羊皮紙のことを「パーチメント」と表記していて、

クイズゲーム以外に注釈がありませんでしたわ。

歴史上にはパピルス以外に樹皮や椰子の葉をたたいて合わせた「紙」も

あったことを知りました。

あと、入り口付近に「ギネスに挑戦!60mの手すき紙プロジェクト」の企画が紹介されていましたが、

よく紙をみると右下に小さく「※ギネスへは挑戦していません」と書いてありましたわ。

えっ?ええっ??

長良川沿いをさかのぼっていくと郡上八幡城のある郡上市に入ります

信号が縦になり、郡上八幡城の麓にある神社にも雪止め瓦

屋根から落ちた雪がいきおいよく人にぶつかることを防ぐ突起のついた瓦)が

使われていて、豪雪地帯に入ったことを感じましたの。

古い景観をとどめる町の中はうだつ上がりすぎて、うだつあがり症状態でしたわ。

郡上八幡城では難工事の際に人柱にされた

「およしさん(17)」が萌えキャラ化されていて、およしなさいと本気で思いました。

およしさんはデザイン東北ずん子さんに似ているというか、おキヌちゃんの系譜でしょうか。

LINEスタンプもあってかわいらしいです。でも人柱です。

関ヶ原絡みの局地戦で戦術的には負けながらも郡上八幡城を取り戻した遠藤慶隆は

成功した

小田氏治みたいですわ。

最後古今伝授の里フィールドミュージアムにつきました。

こちらは戦国大名、東(「あずま」でも「ひがし」でもなく「とう」)氏の

初期の居城である篠脇城跡の麓にある和歌ミュージアムです。

篠脇城は畝状竪堀群のある山城で、千葉から来たという東氏がその技術を得た

経緯がとても興味深いですの。

岐阜県北部にはマイナー戦国大名が多いのですわ。

そういえば途中の国道156号線デイリーヤマザキ連続で現れる場所がありましたわ。

古今伝授といえば

細川幽斎関ヶ原の合戦に際して生き残る切り札に使ったことが

有名ですけれど、まさにその古今伝授の源流にあるのが

九代目東常縁なのだそうです。

それに関連して和歌文学館では古代から現代までの代表的歌人が九人選定されていましたわ。

選者の意見があけすけに書かれていて興味深かったですの。

その上にある篠脇山荘歌詠みの会をする研修会館のようですが、

何もしていない時は立ち入りが可能で、縁側の椅子腰掛けて池と篠脇城のある山を眺めていたら

ホーホケキョの鳴き声が聞こえてきました。hウグイスですわ!

最初放送を疑いましたわ。おそらくヤマゲラの鳴き声も聞こえて、

いつになくリラックスしたひとときを過ごせました。

郡上市から一気に帰る際は地獄をみたわけですけれど……

高速(厳密には自動車専用)道路感謝ですわ。

 
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