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2015-02-26

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論(後編)

関係構築のテンプレート

以上のような行為類型相互に重ねるためには多くの場合主人公ヒロインの両者が同じ空間を共有する必要がある。その上で、これらの行為類型が場面ごとに重ねられていくことで両者の関係は変化していくことになる。本項はその組み合わせ方についてのものである

場面≠イベント

空間の共有は大抵の場合共同作業を伴う。そうした共同作業の例として『はがない』における部活ゲームをする例と、『俺ガイル』における部活クッキーを作る例を比較してみたい。

結論から述べると、筆者は『はがない』における部活は『俺ガイル』と比較してあまり出来がよくない印象を受けた。理由は単純で、『はがない』におけるゲームにおいて主人公ヒロイン相互に信頼や敬意といった点でなんら変化は無い。これに対して『俺ガイル』のクッキー作りにおいては、主人公ヒロイン姿勢に敬意を抱き、ヒロインもまた主人公洞察に敬意を抱き、認識を改めるという点で両者の関係の変化が描かれている。

その場面の前後で両者の関係に変化がないのであれば、それを伏線として機能させる予定がない限り、そんな場面は不要と言っていいだろう。

あってもなくても話の筋に影響しない様な単調なイベントを大量に重ねることはギャルゲーでは認められるのかもしれないが、小説でやったら飽きられる、とは榊一郎も指摘するところであるが、「ボーイミーツガール」における「話の筋」とは主人公ヒロイン関係構築に他ならない。もちろん、「ボーイミーツガール」であり、同時にバトルであったりミステリであるならば、そうした類型の「話の筋」での必要性が示される必要があるだろう。

構図の繰り返し

ボーイミーツガール」において主人公からヒロインへ、もしくはその逆に対してなされる行為をこのように類型化し物語に沿って順に並べていくと、それが主人公ヒロインで反転もしくは反復、すなわち「構図の繰り返し」が散見され、さらにそうしたものほど筆者は「よく出来ている」という認識を持つ傾向が強いという認識に至った。

くどいと思われるかもしれませんが、これでも実際の画面になると印象度は思いのほか薄いもので、構図の繰り返しによる主題の強調という手法は、これでもかというぐらいにしつこく繰り返さなければ効果は期待できないものです。

押井守『Methods―押井守パトレイバー2演出ノート

押井が指摘するこの「構図の繰り返し」について、ボーイミーツガールとして認知されていると思われるアニメエウレカセブン』で言えば、周知の通り2話と26話は主人公ヒロインの位置、台詞回しを反転させた構図であり、そして26話が(低俗表現ながら)「神回」と言われていることには、この演出が大きく影響していると言っていいだろう。

そしてラノベであるボーイミーツガール」におけるこうした「構図の繰り返し」において重要なのは、「同じ構図で同じ行為が明白に異なる意思によってなされること」ではないかと筆者は考えている。

例えば『マリみて』は次のようなプロットを持つ。

いずれも結果として同じ行為が反復、反転しているが、それぞれの理由は明白に異なったものである最初の依頼ではヒロイン自分が直面した困難から逃亡するために主人公を利用しようとしてスールになることを依頼するが、主人公は場に流されることをよしとせず拒否する。二番目の依頼では主人公ヒロインの困難の重さを理解しており、彼女を助けるために自分スールにするよう依頼するが、それが主人公自分の困難を押し付けることでもあることの認識からヒロインはこれを拒否する。そして三度目はヒロイン自分の困難を解決した物語最後であり、困難から逃げ出すためではなく、純粋好意からスールになることを主人公に依頼し、主人公はこれに応じる。

同様に『イリヤ』も見事な「構図の繰り返し」を用いている。1巻において教室におけるヒロインの助けを求める目に対し、主人公は「トイレ」と言って教室から逃げ出して一人トイレにこもるヘタレぶりを見せつける。そして3巻のクライマックスにおいてヒロインの助けを求める目に対し、主人公は1巻と全く同様に「トイレ」と言って、今度はヒロインを連れて逃げ出すための覚悟を決めて一人トイレにこもる。そこから続くトイレ内の描写の凄みについては本稿では割愛するが、この一連のシーンの評価秋山瑞人のファンの間でも極めて高いと思われる(余談ながら例えば『E.G.コンバット 2nd』においても冒頭、クライマックス直後、そして物語最後で「格納庫のGARPの前でルノアが泣いている」という同じ構図が繰り返されており、秋山瑞人はこの「構図の繰り返し」を意識的に多用している節が見受けられる)。

また、遭遇と物語最後のシーンで「構図の繰り返し」を用いている例もよく見受けられる。例えば『星海の紋章』においては主人公ヒロインの遭遇、そして物語最後は「ラフィールと呼ぶがよい!」という、全く同じ台詞が用意されている。『ALL YOU NEED IS KILL』では「日本では食後のグリーンティーはタダだというのは本当か?」というヒロイン台詞で遭遇は始まり最後主人公が青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだコーヒーを飲み干すことで終わる(こちらはちょっと捻りすぎた感が否めないが)。『俺ガイル』は不愉快そうにヒロイン主人公に毒を吐く場面で遭遇が始まりラストは楽しそうにヒロイン主人公に毒を吐く場面で終わるという点で構図が繰り返されているが、それ以上に物語最後の一文がタイトルである点の指摘で十分だろう。

反転による対等性の強調

乃木坂春香の秘密』はヒロイン秘密主人公漏洩したのち、ヒロイン物理的、精神的に最後まで守られる存在であり、そして主人公最後まで守る存在である。両者は精神的に対等な立場とは言いがたい。こうした一方的依存関係存在する関係はあまり筆者の好むところではなく、おそらくそれは筆者に限ったものでもないだろう。

『エスケヱプ・スピヰド』や『禁書』も同様に片方が他方を保護し続けるが、これらはヒロイン自己犠牲により保護者は非保護者に救助される場面が組み込まれている点で違いがあり、これによってその立場は対等なものに寄っていると言っていいだろう。

このように直接的な行為類型で均衡を取る方法もあるが、「構図の繰り返し」における主人公ヒロインの「反転」によっても主人公ヒロインの対等性は暗黙に読者に伝達する効果があるように思われる。

例えば『ゼロの使い魔』においては冒頭でヒロインから主人公に対し、主人公が使い魔であることが一方的に宣告され、主人公はこれに成り行き上しぶしぶ従うことになる。しか物語最後においては主人公ヒロインに対し、自分ヒロインの使い魔だ、と誇りをもってこれを肯定する。その台詞内容が示す立場の差と異なり、両者が(少なくとも精神的に)対等な関係であることを強く意識させる効果を生んでいる。

いい加減例に使うことにも飽きてきたが『とらドラ!』においても対等さは徹底して反転構造の反復によって強調されている。

ヒロイン好きな人主人公にバレる、という出来事に対して主人公ヒロイン自分好きな人を明かす。ヒロイン主人公故意ボールをぶつけられ、ヒロイン主人公は手違いでボールをぶつける。階段で落ちかけたヒロイン主人公は反射的に庇い、ヒロインは反射的に主人公の無事を確認する。ヒロインの作ったマズいクッキー主人公が食べて美味いと微笑み、ヒロイン主人公の作った美味しいクッキーを食べて美味いと微笑む。このように『とらドラ!』は徹底して反転構造を反復している。

さらに「呼称の変化」という形でもこの「反転」と「反復」が巧妙に使われている。ヒロイン自身の恋路への助力を一方的主人公要求し、主人公の承諾をもって名前呼び捨てにするようになる。その後ヒロインは二人が対等な関係であることを告げて協力体制の解消が宣言され、ヒロイン主人公呼び捨てをやめる。そして物語最後において主人公ヒロイン一方的ヒロインの恋路への助力を宣言し、ヒロイン名前呼び捨てし、ヒロインが返事代わりに主人公名前呼び捨てにすることで物語は幕を閉じる。

対等さの無い「ボーイミーツガール」は少なから存在し、それを気にしない読者も一定程度いることは事実であろうが、より幅広い読者の支持を期待するのであればこうした主人公ヒロインの対等さへの意識がされて損は無いだろう。

おわりに

ストーリーや設定が凡庸であれとにかく「キャラが立っている」ことが重要なのだ、と述べた上で林は次のように主張する。

主人公個性さえ確立できれば、それが魅力的かどうか、感情移入できるかどうかなんて全部後からついてくるから大丈夫。魅力的な主人公活躍していれば話は自然と盛り上がる

林トモアキ『現役プロ美少女ライトノベル作家が教える! ライトノベルを読むのは楽しいけど、書いてみるともっと楽しいかもよ! ? 』

なるほど。ところで人気アニメ漫画二次創作小説に出てくる「キャラ」は(オリジナルキャラを除けば)おおむね人気キャラであり、おそらくは「キャラが立っている」ものだと言っていいだろう。もし林が言うように「キャラが立っている」だけでいいのであればこうした二次創作はどれも魅力的で感情移入できるものとなる。

二次創作小説の、特に好きなキャラのそれをひたすら読みふける人がいることは事実であり、ゆえに林の主張は間違いでは無いだろう。しかしそれが幅広い読者に通用するものかといえば筆者には肯定しかねるものである

キャラ萌え特化の商業ラノベはもちろんある。しかしそれだけしかウリが無いのであれば、それはキャラ萌え理解できない筆者のような(もしくはそのようなキャラクターは好みではない)読者に対しては全く面白みのないものと言っていいだろう。

キャラ萌え依存せず面白いと思わせることが出来ることは、そうしたキャラ萌えにの依存したラノベ比較して強みになることは間違いない。そしてそうした強みとして、本稿で指摘したような演出法についての言及はもう少しされてもいいのではないか、と考えている。

才能やセンスはそれだけで価値のあるものだが、その多くは知識と思考によって技術化することが出来るものだと筆者は信じている。空を飛ぶ鳥に憧れて手をバタバタさせたところで一生空は飛べないが、航空力学を構築することで人類は空を飛ぶことを可能にしたのである

本稿は筆者の嗜好に強く依存しており無批判に一般化できるものではないが、これまで感覚によってなされてきた演出技術言語化することの可能性について、諸兄諸姉の検討の際の参考になれば幸いである。

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論(中編)

さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。

例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。

同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校プールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。

溺れて必死主人公にしがみつきビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通女の子であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインうつむき押し黙るといった、つまり普通女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。

多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会前後主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である

最後見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロイン毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロイン毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。

余談

念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線クライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。

関係構築のための行為類型の整理

ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公ヒロイン恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効機能する。

さて、関係構築とは主人公ヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。

秘密の共有

遭遇の類型として「秘密漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。

秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合プライバシー同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去トラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意コントロールできるという点で優れている。

こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。

観察による発見

涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公ヒロイン友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロイン主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロイン主人公評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公ヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。

余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力である主人公必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこから作戦演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。

共通点の発覚

秘密漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入共感を誘う要素と言っていいだろう。

親切

素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由けが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。

これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公ヒロインコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。

呼称の変化

相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロイン名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。

なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。

依頼に対する承諾

一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。

一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロイン主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。

こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。

例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロイン主人公仕事を依頼し、主人公成功し続け、それをもってヒロイン主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロイン主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロイン主人公失望することは一度としてなく、最後ヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討範囲である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。

依頼に対する拒否

AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公ヒロインからスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。

この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。

好意の表明

単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。

相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。

救助と自己犠牲

窮地に陥ったヒロイン主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。

例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐ものであった。

他方で『俺の彼女幼なじみ修羅場過ぎる』におけるチンピラ侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロイン主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。

その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。

その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意ほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。

禁書』では記憶喪失し、『AURA』では中二病世間露出し、『俺妹』では自分変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分過去未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。

後編へ続く

2015-02-25

グラスリップについて、グラすってリップ

 P.A.WORKS製作したアニメの『グラスリップ』見ましたよ。中々でした。

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※以下ネタバラシ有

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ネットでの評価はよろしくない

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 売上が良くないと言われたら「そうだね」としか言えません。

グラスリップ』には「あざとい」もそこまでありません。

もっと金を巻き上げてよかったのでしょう。次の『SHIROBAKO』が人気だから、まあ、ほら。

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 内容に関しては「おや突拍子もないね」というシーンはありましたが言われている程は、

気になりませんでしたね。口下手な脚本さんなのでしょう。いいじゃありませんか。

だけど頻繁に家を訪ねるの、あれは気になりましたね。ジャスコ行きなよ、田舎学生なんだから

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伝統試行錯誤

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 ともかく舞台P.A.WORKSらしいというか『true tears』っぽかったです。

主題歌、学園、ニワトリ、ちびキャラの走るエンディング三角関係、とかとか。

その一方で止め絵とかアイコンとか、新しい要素もあって感心しましたね。

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 デフォルメアイコンを出してコミカルにやるのは慣れましたね、悪くなかったかも。

止め絵は基本的には「ここで止め絵かいな」とよく思いましたけど、

個人的には「いいな」ってシーンも一回二回ありました。難しいでしょうねアレ。

止め絵で映像は停止しているのに音声とか時間自然に流れていくので、

真面目なシーンで止め絵が入ると「今どうなってるの! 早く!」って気になって、

止め絵が好きになっちゃう人もいるでしょうね、私みたいに。でも、不評でしょうね。うん。

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 あ、あとダビデくんの分身心の声。アレ、実写だとそこまで違和感ないでしょうし、

気にならなかったのですけど、ネットだと面白おかしく取り上げられてますね。

人間生きてれば分身ぐらいすることもあるでしょう、さもありなん。

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 やっぱりアングルはやや斬新でしたけど、そこまで感心するところはありませんでした。

改善要求する。評価としては三角しょうが挑戦したその心意気や良しという感じですね。

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恋愛要素

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 ダビデくんの父親が半分専業主夫みたいだったり(建築家らしい)、幸(薄幸目鏡文学少女)が新しい恋愛したり、

そういう革新的なところ評価できますね。

「私は女だけど透子ちゃんも祐くんも恋愛的に好き」って、二人を呼び出してさらっと殴った割に

「(透子にはダビデがいるし?)(祐と二股になるし?)透子ちゃんとはこれから友達として」って、凄いですよね。

幸(薄幸)ちゃん新しい、素晴らしい。

ともかく世間を先取りした恋愛提示するのは名作の役目ですね。『グラスリップ』が名作かどうかは、まあ。

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 恋愛全体に関しては、感情移入しませんでしたが逆に悪くないような気もしました。

一話でニワトリをどうするか突然悩んで「相手の意見なんて自分はこれまで聞いてこなかったんだ」という、

当然の事実主人公の透子は気づいて、そこから周りに目を向けていったら無神経な透子は裏目裏目で悪くなっていく、という。

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 改めて周りを見れば、透子を含めて相手と上手くコミュニケーションできない人間ばかりで、

不和も生まれるのだけど「そういう無神経なところ(不器用さ)が好き」という結論採用されていく。

そういった「相手を許していく」作風なので、ネット的・自己責任論的・他罰視点で見ると面白くないでしょうね。

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恋愛要素;不器用なやつら

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 キャラクターを見る際に例えば「透子を取られてしまうのではないか」という問題が作中ありますが、二通りに分けましょう。

ダビデの突然の登場に戸惑って喧嘩する雪哉に対して、やなぎはダビデと直に話す(怒る)ことで場を収める直接性を示す。

透子とダビデの仲を静かに壊そうと企んだ幸に対して、祐は静かに怒って山に登るというまるで口下手な間接性を示す。

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 こう「関係を壊す」際には直接性と間接性と分かれるのですけど「関係を築く」際には統一性があるかもしれませんね。

やなぎは独白のように一方的に雪哉に告白したり、雪哉は電話をかけて「お前と話すと落ち着く」と言ったり直接的で、

幸と祐とも一応告白という形を取ったり唐突に親にボーイフレンドだと紹介したり大胆で直接的に関係を築くと。

仲直りの際には、やなぎと幸は口下手なメールを相手に送って、相手がそれに応えるという静かな感じで。

仲直りは静かで、告白は激しくて、分かりやすくていいですね。古典的で。確かにもう少し斬新でも良かったかもしれない。

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 透子とダビデはいつも全力という感じで「コミュニケーション滅茶苦茶下手」って感じですね。言うまでもない。

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⑤小さな平和

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 ダビデの親夫婦の仲睦まじい感じや、透子の親夫婦デコボコだけれど仲の良い感じ、

なんだか悪くなかったですね。イチャイチャとしていて、平和で、健やかで、落ち着いていて。

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 ガラス工房の娘の透子が未来を、ガラス等がきっかけとなって「見える」と言うのと、

ピアニストの母を持つダビデ未来が「聞こえる」というのは似た者同士というか、恵まれているというか。

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 こう似ている割に、誰からも好かれる透子と、侵入者として扱われて✝唐突で当たり前の孤独✝を抱えたダビデという、

無神経でコミュニケーション下手同士の癖に、まるで察せない透子と相手を知ってもまるでなってないダビデという、

なんとも対照的というかなんというか、という感じでしたね。なんというか、かんというか。

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青春;動揺と、そのあっけなさ

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 『グラスリップ』のネット上の感想ざっと見ると「展開動いて」という意見が、ちらほら。

例えば物語序盤に「未来カケラ」という未来を見聞きする能力のせいで透子とダビデは知り合うのですが、

実際に透子とダビデが見聞きしていたのは未来でもなんでもなかったという、あっけない結論に落ち着きます

この「未来カケラ」は恐らく夢のようなもので、まぐれで「正夢」を見聞きしただけで結局は現実でもなんでもないと。

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 序盤に「未来カケラ」として見えた、線路を歩く「スタンド・バイ・ミーごっこ」も起きなかったし、

ダビデが墜落していくこともなかった上に、幸が入院するのもまるで大したことないと。なんともないと。

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 なんじゃそりゃ。

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 ただ、そういったハリボテの幻覚に透子は悩まされていきますしハリボテの「未来カケラ」のおかげで、

最後ダビデの気持ちが分かったようになった、と。なんだかハリボテに悩まされもしたけど、悪くなかったと。

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 透子は母親から青春時代未来を見てると勘違いしてたけど、なんでもなかった」と言われ、

母が同じく昔「未来カケラ」を見ていたことを知りますが更に、これより以前に透子は母親から

本当に未来のことが分かったとしても「一粒で二度おいしい」だけで、別になんてことはないと諭されています

混乱しても全然なんてことはない、と。『グラスリップ』はあっけない感じに持って行くのですよね。

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 劇中あっけないシーンは割と多くて、例えば「てへぺろ」を連発するおちゃらけた祐の姉が、

珍しく泣いて病室から出てくると思ったら、どうやら病室にいるのは彼氏らしいと。一大事じゃないですか。

だけど時が経つと無事に退院してコーヒーを飲みに来ると。なんてことはなかったと。そうなの? 嫌いじゃないけど。

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 新しい恋愛体系とか「そういう無神経なところが好き」とか、なんだか『グラスリップ』ってとても、

許容的で包容力あるなって思うのですよね。「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」って感じで。

あっけなくて拍子抜けでコケオドシだけれど『グラスリップ』は積極的に許していくスタンス評価に値します。

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⑦雑な総括

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 基本的映像も美しいですし、終盤の空とかガラスとか月とか綺麗ですよね。

私は『グラスリップ』、とても綺麗な作品だなと思いましたね。別にそんな悪くなかったです。

ヘイトスピーチ」とか「過激派組織IS」とか排外的問題が取り巻く今に、

グラスリップ』みたいな包容力のある作品が出てきて良かったと思いますけど。

弁護、になっちゃいましたかね。『グラスリップ』を作ったみなさん、ありがとうございました。では。

2015-02-22

風立ちぬを見て思ったこと

風立ちぬ好きな人は見ないでください。

昨日金曜ロードショーでやってましたね。

上映当時も映画館で見て、なんじゃこりゃって思ったんですけど。

まあ内容云々はひとまず置いておいて、

自分はいゆるオタク。

なのでツイッターフォローしあってるのもオタクが多いんだけど。

オタクなのでとりあえず話題アニメ映画、っていうか宮崎作品見ておこうか、みたいな人も多い。

まあオタクに限らず宮崎作品は見ている人多いか。

そのオタクの間でも風立ちぬはなかなか賛否両論だった。

私は見て、あんま好きじゃないと思い。それも当時ツイートしました。

今回もそんな感じのスタンスで、まあ好きな人は好きなんだろうなあと。、

今回の放送好きな人が楽しんで見てるんだろうし、って思って、いちいちあーだーこーだ文句いうのも無粋だって思って、何も言わず黙ってた。

当時劇場で見てあんま合わなかったな~って思った人もそういう人多かったんじゃないかな?

だけど、放送が終わった後に初見で「ちょっと合わなかったかなあ。」って人がいようもんなら

風立ちぬ信者が噛み付く噛み付く。

別に全部が全部ダメだと思ったわけじゃない。結婚式のシーンとか素敵だなって思うし、女性陣はみんな素敵だったと思う。

なんかね、風立ちぬ好きな人って、必死

この映画は素晴らしい!この映画がわからないなんてクソ!この映画がわからないなんてものづくりする資格がない!

くらいの勢い。ええー?!

あとずっと風立ちぬについての豆知識考察やらここはこう!わからない人はアホ!みたいな内容をRTしてくる。うんざり・・・

映画作品好き嫌いなんてそれこそ食べ物好き嫌いに似たようなものんだから

趣味が合わない人にそんなに力説して口に詰め込もうとしたって、さらに無理になるだけだよ・・・

エゴを描いた映画だったから、二郎生き様をよしとし、感情移入しすぎた結果、

この映画否定されると、自分否定されたような気がして必死になって噛み付いてくるのかなって思った。

なんか内容云々よりもそういう風立ちぬ好きの行動が気持ち悪くて、さらにこの映画が苦手になったのでした。

2015-02-19

anond:20150219111921

数日前に同じこと書いてなかった?

デジャヴ

ピンポンを観た(読んだ)凡人はだいたいみんなアクマに感情移入すると思うけどなあ

少し泣く

2015-02-16

moonstoneの新作

『夏の色のノスタルジア』、今更ながらプレイしました

みさき・美羽のみ攻略、残りはオートでプレイしたがうーん…微妙

萌ゲーを近年は作っていたとは知っていたが、シリアス路線との噂を聞いて手に取った自分には期待はずれだった

呉企画とあり過去作の『あした出逢った少女』や『何処へ行くの、あの日』と比較しながらプレイしたのが駄目だったか

シナリオ

世界に囚われちゃった的なシナリオはいいと思うが…

色々と都合が良すぎてるし絶望感も何も無い、締りがない設定

主人公の、他人感情がある程度読めちゃう設定も死んでいてなんだかなあという感じ

幼なじみが成長してまた集まって…というシナリオは好物ではあるが、この作品においては女子の取り合いに巻き込まれちゃった感が強くていまいち

肝心の主人公も近年の量産型ラノベ以下に個性も特徴もないため感情移入も難しい

起承転結、起承の部分はそれなりに萌ゲー的に楽しめる形には纏まっている

しかしながら転がほぼヒロインとのHであり、主人公がじゃあ現実世界に戻ろっか→うん戻ろう

こんな展開で進み結で未解決の要素をさらっと纏めてお終いであ

キャラ・グラ

ヒロインはそれなりに可愛いとは思うが、近年の濃いキャラ達には劣る

2名ガーターストッキングを着用してる子がいるがこれは製作おっさん臭さを感じた

にゃんぱすーとでも言い出しそうな娘が…

一枚絵など綺麗に出来ているが、抜きゲーやグラがリアルに近いゲームばかりプレイしていたためか「まあ萌ゲーならこの程度か」という感想

スケッチかな?時折挟まれる回想用の一枚絵の方が圧倒的に綺麗だったのが気になる

美羽√行きの選択肢で素っ気無い態度ばかり取られるがこれが演技とか、ややこしい事はやめて欲しいですね

正直、『何処へ行くの、あの日レベルシナリオを期待しており期待はずれだった

体験版をやれば続くシリアス展開に期待を抱かないわけがない、裏切りもいいところである

他の方の感想を見ても盛り上がり不足やパンチが足りないなどシナリオが甘いかなという印象

セリフ回しも偶に若い少女から出るような単語でないものが飛び出たり(卑語ではなく)するなど雰囲気が崩れてたか

ラビリンスやエデンはまあそれぞれの呼び方が定着しちゃったならいいか程度、それ以上に気になる部分が結構あった

若干エロゲー批評空間評価が甘いかなー

しっかり纏まっているものの、80点台は無い。厳しい目で見たら70点台も怪しい

個人的に69点

シリアスシナリオ作るのもネタが尽きてるだろうけど頑張って欲しい

2015-02-03

身内を必要以上に大事にする人が怖い

例を二つあげるがこの手の記事に素直に悲しめない。

http://open01.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1422639921/
マフラーを嫁に焼かれて離婚するって話

これを読んで思ったけど普通にマザコンならぬババコン乙としか思いようがない。

ばあちゃんに貰ったもの壊れたらまた新しいの買えばいいし燃えてもそれはばあちゃんのマフラーなんだから燃えカス思い出としてとっておけばいいじゃん。

ばあちゃんそんな大事なら結婚なんてしないでばあちゃん養えばいいしマフラーとばあちゃんどっちが大事なんだよとも思うし物に必要以上に感情移入するの気持ち悪いな。

今身近にいる恋人なり友人や毎日顔合わせてる上司大事だろ。

そりゃその人らにばあちゃん殺されたとかだったら強い感情が沸くだろうが、ばあちゃんは先に死ぬマフラー燃やした人そんな強い感情があったとも思えないな。

http://withnews.jp/article/f0141229003qq000000000000000W0090401qq000011333A
後何回母親に会えるか教えてくれるツール

自分おかんにはもう後何回しか一生で会えないんだよとか涙ながらに言われても気持ち悪い。

自分社会人になったら仕事もあるから母親に合える回数が10回や一桁とか当たり前だと思っているし、そのことについてそれ以上の感情は無いし正月帰省普通に楽しみだ。他の友人との約束恋人とのクリスマス蹴ってまでおかんに会いに行くとか無いな。


身内は日常じゃなくて日常を支えているバックグランドみたいなもので、背景だけじゃ飯は食えないし、繁栄もならない。

バックグランド大事にする人はそりゃできた人間のように見えるが、つまらない人だなと思う。

家族のために恋愛もその他交際も諦めるってことだろ。同情する。

本人たちは、恋人や友人との時間よりも家族との時間を一番大切にするからそれはそれで幸せなのだろうが・・・

親とは18年間毎日顔を合わせて暮らしてきたわけだし正直もういいかなと思っている。

家族恋人の順序がイコール恋人家族くらいなら普通だしそう責められることでもないと自分は思っているが

家族恋人やその他のバランスが明らかに家族>>>>>>みたいな人ってこういう自分のような思考人間を冷たいだとか思ってそうで怖い。というより理解できないって思っているんだろうな。

ただ、自分はそんな人間なので勿論友人は少なく恋人ができた回数も少ない。

だが、その他人と温度差を感じるのは辛いな。

身内が必要以上に大事な人は結婚や交際なんてせずに家族とだけつきあっとけよと思う。

2015-01-28

あさり よしとお氏”Gレコの何が良くて何が駄目か、ちゃんと言えるライターや評論家はどんだけいるのかな?” - Togetterまとめ

老いたオタクはどうして「目的」や「願望」を主人公投影したがるのだろう。

そんなだから「俺TUEEEは理想自分」「日常系は異性化願望」といった解釈に陥ってしまうのではないのか。

感情移入できないキャラクターが悪いのではなく、感情移入できないと楽しめない自分が悪いのだということに気付いてほしい。

2015-01-27

shi3z「プログラムもっと簡単にできる」

http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20150121/1421861054

東さんが「感情移入する対象もっと簡単に定義できないと子どもにはMOONBlockプログラミング理解するのが難しい」という鋭い知見を披露し、「お、それってすげーな」と素直に思ったわけです。

知識人ってこんな適当なこと言ってたら持ち上げられるんだからいいよな。

俺がこんなこと発言してもツッコミのあらしだわ。

2015-01-24

新たな強者世代が生まれつつあるのはなんで?

萌え」では、力や能力のある者は読者の感情移入対象にならない。なぜな ら、ネット世代は誰しもが程度の差こそあれ凄惨罵倒を受け続けている。その為自己肯定感に乏しく、ヒーローヒロインに対して妬みの感情を持つからだ。掲示板などで常に激しい罵倒を受けるため「自分ヒーローにはなれない」と最初からあきらめてしまっている。ヒーロー活躍するような物語を読んでも自分がみじめになるだけだから、そうした物語が嫌いなのだ

硬派の象徴ワンピースさえも泣きに走り、ネット界最強を誇る腐女子歴女さえも叩かれ続けた果てに「ダメクズ精神弱い人斬り以蔵が好き」と言わされる(認めきれず発狂したものもいる)暗黒のネット社会

強者よりも弱者男性より女性、有能より無能

行き着く果てが百合日常系流行だったと言うのはネット史の力学として完璧なる必然であった

腐向け百合厨向けしかない日々

しかしそこに突如顕れたのが硬派作品の数々

リアル二次わず今や時代は硬派一色である

ネット界に何が起こったのか

全く訳が分からないのである

2015-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20150119143759

そういう心理は誰でもあるだろ。

20年くらい前の相原コージ漫画でも、AVオナニーしてる男がハッとして「今、俺は女に感情移入してなかったか?」気付くってネタがあったし。

2015-01-11

業務としてのコミュニケーション

あるいは「俺は今までコミュ症だコミュ症だと自分で思ってきたけれど全然甘かった、本当にマジモンのコミュ症だしそれは治らない」と思い知った話。

とても仕事のできる先輩の下に付けられた。向こうは十年のベテランで、こっちは別部署で三年ぐらいのペーペー

俺は机にじっと座ってPCとにらめっこ的な仕事がとても好きで(ミスが多いので得意とは言えない)、人に何か頼んだり相談したりというのが苦手〜普通くらいの感じの好き度だった。

しかしその先輩の仕事ぶりを見てると、何というか、苦手とか好きとか言う前に俺の仕事は完成度がそもそもなってないというのを思い知った。

その先輩はとってもコミュ力が高い。人をイジってしか不快にさせない、俺から見れば戦慄の才能を備えている。

そしてそれを駆使していろんな部署から情報を仕入れ、あるいは根回しし、あっちゅう間に仕事段取りをまとめてきてしまう人である。だからクソ忙しい。

その先輩がもっと新しいことに手を広げていこうというので跡を継げと言われている。ぶっちゃけ無理なので逃げ出したい。

だってその人よその部署の人とだべってきた後で「忙しい身で無駄話してきたと思ってる?でもこれから○○の業務であそこにはお世話になるからコミュニケーションとっとこうと思って」とか言ってるんだぜ!?

コミュニケーションってそうやって業務の必要度に基づいてあらかじめ取っとくものだったんだ!? ってなってる。今。

俺はコミュ力ってものをいざ仕事ってなったとき必要なことを説明できる能力、ってくらいにしか捉えてなかったよ。

確かにその先輩は本当にいろんな部署に話を通すのがうまくて、単に話が通りやすいとかいレベルじゃなくて俺がちんたら説明するよりも短時間でより広範囲の部分が伝わってるって感じなんだよね。

まり大変に効率的

でも無理だ。その効率を達成する土台にあのイジリとしゃべりの才能が要るのは火を見るより明らかだ。俺はそれムリ。

そもそも人をイジるのって嫌い。なぜなら俺はイジられたくないから学生時代最終的にイジメに転化したイジリを見てきたりしたのでイジる人ってのがもう関わり合いになりたくないレベル。当たり前だがそんなんだからイジるのもイジラれるのも著しく下手。

それに業務としてのコミュニケーションってのがその先輩と俺とで定義が違いすぎる。あんな親しく楽しそうに話してて実はその陰に目的があるってのがもうなんか無理。それでいて普通に業務と直結しない感情移入とかもしてるんだよ。なんというかもう、精神構造が違いすぎて理解以前に想像もつかない。俺は情報伝達としてのコミュニケーションってレベルまでしか人とコミュニケーションが取れない。親しくなるってのはもう次元として別で逆にそこに業務が持ち込めない。先輩みたいな形のコミュ力を身につけようって気がない。異星人相手っぽい恐怖心を抱きつつさえある。

どう見てもこんな状況じゃはよ辞めんとならんのに先輩が本当に、本ッ当に忙しいので、かつ忙しい中時間を割いて俺の指導をしてくれていて、なのにこんな心境の俺が仕事ができるようにならないのでクッソイライラしていて怖いので、今日までズルズルと辞めると言えないままきてしまった。俺には適性がない、向いてないと思ってる、ということは何度か言ったけど全部なかったことにされている。

はっきり言って俺はできなさすぎてかなり詰められてるので休日の今、自室で、部屋の全てをこうして残したままiPhoneも置き去りに失踪したらどんなにステキだろうと思い始めて涙が止まらなくなっている。

落ち着くために書いた増田だけど平然とした感じのまま両目から水だけがやっぱり止まらない。外は晴れているけど外出できない。昨日仕事から戻ったあと風呂も入ってないし食器とかも洗ってない。頭が割れそうに痛くて万年床で転げ回ってるうちに寝てしまって目が覚めたらもう9時過ぎてた。9時すぎたらどこへも行けないって感覚が強い。上野公園とか散歩に行きたかった。でも涙が止まらないしどこへも行けない。

2015-01-07

宮尾登美子さんが亡くなって、そういえば大昔、友人と「美人が読んでいそうな作家」で山手線ゲームしたのを思い出した。

その中でも納得感が高かったのが宮尾登美子宮本輝向田邦子だった。外国モノでは断トツサガン高村薫とかも意外性があってよいとか

文豪系でいえば、文語の古い本の森鴎外なんて読んでたら相当グッとくるなとか、川端康成を読んで登場人物女性感情移入しそうだとか、そういうひどく下らない話。

美人は、瀬戸内寂聴とか絶対に読まなそうだとかね。

今、そんな話題リアルでやったら、こないだの騒動みたいに大バッシングなのかもしれないが。

そういえば、昭和の昔は、本を読む女向けの女流作家というジャンルが確固たるものとしてあった気がする

家庭画報とか婦人公論とかに連載されてる感じのやつ。

2015-01-06

http://anond.hatelabo.jp/20150103091437

感情移入してなきゃ、ココチンなんて言葉はないだろう。個人的にはヘテロな性表現をココマンで感じたりすらするイマジネーション生物学的性の壁を容易に越える。

2015-01-03

http://anond.hatelabo.jp/20150103091437

恋愛もの読んで主人公自分と考える、って感覚がまず分からない。恋愛漫画に限らずともだけど。

殆ど漫画には主人公に明確な設定と個性があって、ストーリーに沿って読者である自分意思とは無関係に動くわけで

どう考えても自分とは別人としか思えないけど。

感情移入ってのも精々「共感する」止まりじゃないの?「自己同一視」って無理じゃね?

乙女ゲーとかなら無個性主人公もいるのかもしれないけどさ。ゲームから行動も自分意思反映出来る(と言っても限度はある)し。

んで、自分BLに興味ないのは男に興味ないからだなー。

lisagasu 私の経験からすると自分女好きで女を見たくて男にも(自分のように)女を好きになってほしい女はBLにハマらない(乙女ゲーマーの女は超女好き

が近い。「女好き」と言うよりは「女に興味ある」って感じだけど。

からあなたが好きな男キャラタイプは」みたいな設問見ても全然ぴんと来ない。

キャラなんて精々読み続けるのが苦痛になるくらい嫌いなタイプでさえなければ良い、というかどうでもいい。

ほんとその通りだ。なんで元増田はそんなこと思ったんだろう。そもそも本とか読まない人なのかな。

あと恋愛ものでも自己同一化と、仮想恋愛はしない場合もあるぞ。

もっというと恋愛ものでも男性側に感情移入する場合普通にある。

http://anond.hatelabo.jp/20150103212302

BLにはまる女とはまらない女の違い

だいたいみんな恋愛ものは好きなんですよ

自分主人公になれる資格があると思っている人は普通恋愛漫画を読む

主人公感情移入して自己同一化し、仮想恋愛を楽しむ

主人公になりたくない人はBL方面に行く

そこには自己が入り込む余地はありません

客観的に、かっこいい男たちの恋愛模様を見たい人たちです

うちの嫁(恋愛漫画好き)とその妹(BL好き)を見て思いました

2015-01-02

Natural Color Phantasm Vol.12 『鈴がうたう日~醒めて見る夢の向こうに』

■その1。

 いやー、『ONE輝く季節へ』を、やっとこオールクリアできたので、記念(?)に、『ばらえてぃたくちくす!』を買ってきました。

 「ほう、『鈴がうたう日』番外編か……あ、そういえば、本編、途中で止まったままだよ!」(またか

 ……という訳で、今月は『鈴がうたう日』(以下『すずうた』)です。つーか、新作より、目の前にある積みゲーの数々をクリアしないとな……おかげで、歴史の把握が、かなーりおかしいことになってて、頭の中で文脈が混乱しまくってるよ!

 さて、前半、平凡な日常描写を積み重ね、後半で非日常的な描写へ一気に持っていく構成、その対比と高揚感から特定感情を生み出すという演出手法は、普遍的になりつつある。実際、効果的だけど、最近は、苦痛に感じることもある……。

 そして、前半と後半を繋ぐために、ある種の情緒……ファンタジー要素や少女幻想的な描写を使う作品も多い。また、日常崩壊を匂わせる、詩的な言動や描写を、前半で伏線的に配置しておくパターンもある。

 しかし、『すずうた』の場合は、何故か両方とも欠如しているのだ。前半に配置されるのは、少女幻想を前提とした詩的なラブコメ描写ではなく、あくま少年まんが的なノリで作られたギャグ描写だ。なので、ラブコメという感触は乏しい。むしろ、ノリとしては久世光彦の作るホームドラマだ(『ムー』とか)。

 前半で配置されている非日常的な要素を強いて挙げるならば、物語の発端となる、すずの来訪(登場)なのだろうが、それすらも、簡単に日常へ取り込まれていく。そのことが、後半の展開との落差に、違和感を生み出す遠因となっているようだ。

 ほとんどの美少女ゲームは、恋愛の予備段階と言える状態からスタートする。犬チックな幼なじみが起こしに来たり、変人な先輩と偶然にぶつかったりするが、それらの出会いには、主人公モノローグなどで、恋愛予兆があらかじめ内在する。

 ところが、『すずうた』は、「恋人未満、友達以上」どころか、まるっきり友達感覚描写ばかりが続くので、その予兆が内在しない。そして、恋愛予兆排除された状態から、後半、一気にハード恋愛状態へ流れ込むが、恋愛描写少女幻想がもたらす酩酊感が全くないので、関係性の変化という事態に対し、全くフィルタがかからないのだ。よって、急性アルコール中毒になったような感覚に陥り、あまりにも不条理な災厄が降りかかったような気分になってしまう。これが、先に述べた違和感の正体だと思う。

 さて、その後半に目を向けると、提示されている仕掛けはことごとく、対立する視点が介在し(七海トゥルーにおける紫姉、など)、いわば、理性で言霊暴走を抑えている格好になっている。なので、前半の軽快さとは一転して、重苦しい展開になっている……という対比はあれど、高揚感は生まれない。従って、プレイヤーもまた、流れに乗り切れないまま、物語は終わる。おまけに、どのラストも正直、爽快とは言い難い。しかし、シナリオ手法としては、これは決して悪くない、と思う。

 同じように、イベントで盛り上げるという仕掛けを排除した作品としては、『いちょうの舞う頃』が挙げられる。しかし、『すずうた』の場合は、『いちょう~』ほど明確に排除している訳ではない。むしろ、仕掛け自体積極的に使用しているのだが、問題は、そのほとんどに意図的抑制が働いていることだ。早い話が、ラブコメ物語構成要素に対し、再検証が行われているのだ。

 ラブコメというシステムは、その発生においては、過去歴史から断絶しようとする意志によって成立したものだった。実際、袋小路に入っていた物語に対するカウンターとしては機能を果たしたが、システムの発展に伴い、【オブジェクト嗜好】という、形骸化に陥ってしまった。

 だから、『すずうた』が目標とする場所に到達するためには、言霊抑制し、感傷に流されることを避け、登場人物たちを自律的な選択に導いていく必要があったのだろう。

■その2。

 【お約束】な停滞からの逸脱=ラブコメ定番パターンから進化しかし、それは物語システムを自壊させる行為でもある。その意味で、この問題に最も自覚的だったのは『WhiteAlbum』だったのだが、それ故に、一部のユーザーから生理的嫌悪にも似た反発に遭った。

 物語構成要素の再検証という行為は、作品の質は上げるが、その分、間口を狭くする。ちなみに、某誌によれば、『ア○マゲドン』のプロデューサーが「観客というのは、感動的な音楽さえ流せば満足する豚だ」と言い放ったことで物議を醸したらしいのだが、目標とする対象が多ければ多いほど、低いレベルでの記号化は強まる。水は低きに流れるものでして……。まあ、だからといって、エアロスミス音楽は正解だとしても、出演女優フェラチオの上手さだけで決めるのはどうかと思うがなあ……っと、話を戻そう(笑)

 つまり、【恋愛】というファンタジーをめぐる、物語システムとしての【ラブコメ】が直面している問題に対し、停滞からの逸脱を目指した上で、恋愛関係の可能性を描こうとした場合必然的に、既存パターンにはない微妙感情を描いていくしかない。同時に、それは、類型化された方程式否定していく作業になる。記号イメージに頼ったテキスト作りは許されない上に、記号によるお約束に慣れた(眼鏡っ娘=内気、とか)ユーザーからは反感を買う……正直、茨の道ではある。

 でも、逸脱の手段として、日常においての自律的選択(自力本願)という方向性を追求した作品群の中では、『すずうた』のテキストは、かなりの強度を持っていると思う。

 例えば、『ONE輝く季節へ』の場合は、日常から日常、そして、日常へという流れを持っているが、『すずうた』の場合日常から日常へと繋いでいく。しかし、前半で提示される日常は、後半で提示される現実の上に成り立った、虚構に限りなく近い日々なのだ。そして、その断層から過去の幻影と現在を繋ぐという、もう一つのテーマが浮かび上がってくる。あと、女の子たちの物語への感情移入よりも、日常の脆さを提示されることが優先されているのが、筆者には新鮮だった。まあ、恋愛小説というよりは、教養小説っぽくなった感じもするが……。

 それから、感心したのは、父性母性の扱い方だ。すずシナリオでは、後半、唐突に父親との相克テーマとして浮かび上がるのだが、過剰な行動には至らない。逆に、蛍トゥルーでは、負の母性との相克テーマになるが、これまた、過剰な補完行動には至らない。類型的な受容と和解で解決してしまい、結局、依存から逃れられない作品が目立つ中で、『すずうた』の登場人物たちは、周囲の助けを借りながらも、あくま自律的運命を選択していく。

 他人犠牲も含めた上での自律的な選択は、『WhiteAlbum』の場合もそうだったが、必ずしも許容できるものではないだろう。しかし、偶然と選択の危うい積み重ねの結果である、平凡な日常が脆いように、全員が幸せに笑っていられる優しい世界もまた、脆さを内包しているのだ。

 そして、わずかに残った非日常的な要素(すず)も、全てを無に帰すほどの力を持っている訳ではなく、奇跡=解決にならない。だからコールタールのようにまとわりつく現実から救われることもないし、すずの存在もまた、過去記憶として、日常的に失われていくものの一つとして、現実に組み込まれていく。

 だからこそ、むしろ、哀惜という感情が静かに流れ込んでくるのだけど、美少女ゲームとしてのカタルシスは欠いているのかも知れない。

 しかし、あくま自律的な行動によって、過去の欠損を補填していこうとする、ささやか意志の方が、ゲームを終了し、物語プレイヤー現実に取り込まれた際に、有効機能するのではないだろうか?

 過去日常現実日常を再接続する物語に触れることで、個人の物語再生する……それが、歴史を紡ぐのだと……筆者は思うのだが。

■ちっとも終わらない近況。

 仕事がここに来て、がーっと集中してしまい、一日7時間ファミレスに籠もって、モバイルギアキーボード叩いても、ちっとも終わる気配がないよ……(迷惑)。脈絡不明仕事ばっかしているので、最近は「本業編集者」とは言えなくなってきたですよ……。

 あ、事務所ホームページに、このコラムバックナンバー再録を始めました。とりあえず、昨年分はアップ済。つーか、次回で連載一周年なのか。エロゲーテキスト解釈だけで一年も続けるんじゃないよ、俺。もっとも、結構辛いけど、それなりに面白くなってきたので、もう少し続ける予定です。最初は、もう少し普通(?)のゲームレビューにするつもりだったのに……脱線しすぎ。

Natural Color Phantasm Vol.11夜勤病棟~闇の中へ還るものたち』

■本文。

 今回プレイした『夜勤病棟』もそうなのだが、ダーク系の美少女ゲーム場合は、非日常的な体験を核としている以上、表層的には、プレイヤーから遠い存在でなければならない。無論、内面的には、闇の部分を共有させる必要性もあるのだが。

 なので、ダーク系のゲーム場合プレイヤーダイレクト投影できるような、無個性主人公では駄目なのだもっとも、『河原崎家の一族』のように[覗き見る]ということに主題を置いたゲーム例外なのだけども、基本的に、背徳的な行為を行う、プレイヤー代理である主人公は、アクが強く、ウィットに富み、性的超人だ。それは、恋愛系の美少女ゲームに於ける主人公像とは、鏡像的な関係にあると言えるだろうし、それは……フランス書院文庫や、マドンナメイトといった、既存ポルノ小説を支配する概念だったりもする。

 そして、それらに共通する超人願望を、悪しきマッチョイズムと評する人もいるのだが、ポルノメディア本来男性原理が基盤となっているものから、それを責めるのは、ちょっと違うような気もする……ポルノメディアとは、本質的に「そういうものなのだ

 そういう意味では、ゲリラ戦天才であり、エロゲー界のチェ・ゲバラとも言える臭作さんは、まさに完璧超人だったんだけど、『夜勤病棟』の主人公である比良坂竜二]の場合は、調教者としての天才的な手腕よりも、コミュニケーション不能者としての印象が先に立つ。性格狡猾な割には、根が幼稚というか……ほとんど子供です。なので、キャラクターとしては、『好き好き大好き!』のラバーフェチ主人公に近いと思う。特定イコンに対する執着……竜二の場合スカトロジーへの執着が強いというあたりも似ているかもしれない。となると、ゲバラというよりはカストロかなあ(何を言ってやがる)。

 まあ、感情移入するには紙一重の人物設定なのだが、実はこの落差がダーク系では重要だったりもする。個人的には、竜二となら美味い酒が飲めそうな気がするが。同病相憐れむ、といった感じか……。

 ところで、竜二の場合は、歪んだ支配欲(自己顕示欲)の背景となっている、自分コンプレックス言及している箇所が、やたらと目立つ。例えば、恋に対する感情の変化は、ある意味で[お約束]と言えるが、同時に、[お約束]に対する違和感を描いているという面もある。

 例えば、お近付きの印に花を貰っただけで、相手が自分恋愛感情を抱いていると思い込み、その相手に恋人がいることが判明すると一転して、逆恨み的な復讐を誓う……という心の動きは、暗く、自己中心的な欲望ではある。しかし、子供であるが故に、一定共感を持つことはできる。けれども、非日常的な舞台&人物設定は、過剰な思い入れを抑える。結果、ダーク系な美少女ゲームで、最も重要な[紙一重]の感覚を上手く成立させているのだ。

 そして、『夜勤病棟』という作品は、被調教者の心理描写に加え、調教者の心理描写にも踏み込んだことで、『雫』や『好き好き大好き!』といった作品系譜で捉えることもできるだろう。もっとも、前出の作品に比べると、非常に明るめな印象はある。これは、従来のポルノ小説に於ける、エアブラシを用いたリアル系イラストレーションとは正反対な、淡くパステルカラー系なグラフィックを用いていながら、作品的には、ポルノ小説世界観を骨格として援用していることに起因する。結果、一種の異化効果が働き、独特の雰囲気を醸し出している。

 そして、前号の原稿でも書いた、マッチョイズムにもフェミニズムにも共感できなかった人々にとっての信仰……という要素が強い、前出の二作品と同じ文脈で語れるであろう要素を持ちながらも、『夜勤病棟』という作品は、従来の定型……つまりマッチョイズム寄りの作品としても成立しているという、不思議立ち位置ゲームだったりする。

 無論、ポルノメディアとして捉えた場合は、こちらの方が正統であることは言うまでもないし、不思議立ち位置を確保していることが、昨年あたりから手詰まりな状況に対し、ちょっとしたヒントになるんじゃないかな……という気はするんだけど、どうなんだろうか……?

 でもって、また、話がズレるんだけど、ダーク系とは逆に、恋愛ゲーム場合は、主人公意志プレイヤー意志と同一化し……シンクロ率を上げ、それが頂点に達したところで、何らかの感情を獲得し、それが[快楽]に繋がっている。つまり、涙を流すことが、射精代理行為として成立するケースもある、ということだ。まあ、調教によって隷従させるのも、恋愛によって心の繋がりを構築するのも、繋がったことに対する快楽という点では大差ないような気もするのだが……。

 だから、表面的な情念ノイズとして、削ぎ落とし、隠匿した、いわゆる村上春樹的な文体の方が、実は好ましかったりもする。この場合、隠匿された情念を追い求めることが、セックスと同じく、快楽を生み出す行為になるのだろう。もっとも、その文体で、えっちシーンを構築するのは難しいのだけど……。

 何故なら、恋愛情念を削ぎ落としても、ある程度は成立できるが、エロという部分を記号化するには限界がある。早い話、情念を削ぐと、色気も失せてしまうのだ。ただ、ポルノ小説という場所では、別の意味フォーマット確立されていて、記号的な表現技法として体系化されている。しかし、記号化したのは主に、表層の情念なので、両者を組み合わせると、水と油のような状態になってしまう。

 これは、前々回で『夏祭』をレビューした際にも言及したが、恋愛系の美少女ゲームえっちシーンになると、途端に主人公饒舌になり、オヤジ臭くなるのは、親和性限界を完全にクリアしていない証拠でもある。恋愛描写セックス描写の食い違いが、萌えと泣きの二項対立助長しているとも言えるし、逆に、美少女ゲームが、まだ進化余地を残している証拠でもある。

 さて、進化に関連することとして、美少女ゲームが持つ物語媒体としての構造については、一部のユーザーの間では、ファンサイトという形で研究されているが、主に[トラウマ]と[癒し]という現象にのみ、着目しているケースが多く、セックスという行為に介在する身体的な感覚や、その意味性については、やや軽視される傾向があるようだ。

 ただ、これは作り手の側の問題でもある。しかも、意図的言及を避けている作品もあるから、仕方が無い……という面もあるのだ。加えて、マッチョイズムとフェミニズム類型的なイメージ排除しようとすると、同時に、性的な要素を排除しようとする力が、無自覚に働いてしまう……というのもある。

 そして、フェミニズムの影響に囚われがちな、サブカル系ジェンダー運動に比べれば、美少女ゲームを含めた、オタク向けポルノメディアの方が、思考の行動範囲は広いと言えるかも知れない。自由度が高い、とも言えるのかな……その分、目標曖昧なので、途方に暮れたりもするのだけど。しかし、既存ジェンダー区分が持つイメージとは異なるものを構築する可能性、という意味では、共通しているだろう。

 まあ、結局、問題アプローチ手段、だと思うのだが。

畜生にも劣る総括。

 萌え不能症気味の筆者は、センチメンタル感傷や同情ではなかなか泣けなくて、むしろ物語の流れにシンクロして感極まるって感じなんだけど、これって、結局、同じことなのかなあ……分からん。あ、あと、そろそろホームページ更新します……過去原稿もそろそろアップしないと……げふ。

Natural Color Phantasm Vol.02 『1998年美少女ゲームを振り返る』

■はじめに。

 今のリーフの隆盛を準備した作品が『雫』なのは、『To Heartから入ったユーザーには理解できない事かもしれない。その理由については後述するけど、筆者が美少女ゲームについて書いたのは、『雫』の紹介記事最初なので、思い入れも強いし、ある意味呪縛にもなっていた。そんな筆者が、1998年最初に買った『雪色のカルテ』は、その呪縛を見事に吹き飛ばしてくれたのだ。まずはここから始めよう。

■雪色のカルテ

『WoRKs DoLL』のTOPCATが、昨年、Peachから発売した作品。3人の患者診療しながら、診療所運営するSLG原画緒方剛志氏。

 最初はポンと投げ出されたような状況で、迷いつつプレイしていた。しかし、過剰さを抑えたキャラクター台詞イベントの数々が、散発的ながらも徐々に物語を形作っていく緊張感の虜になってしまった。具体的には、主人公に対し、患者たちが徐々に心を開いていき、医師患者関係性が変化していくあたりの展開の上手さだけども、何よりも世界観の徹底ぶりには敬服した。

 まず、登場人物全てが、多面性を持っていた事には驚かされた。加えて、投薬などで感情制御し、それが数値化されてしまうという、人間限界と悲しさを突いたクールな設定にも惹かれた。『プリンセスメーカー』で、ぬいぐるみを大量に与えて、娘の機嫌をコントロールするという、安永航一郎のまんがのネタにも使われた設定があったが、医師患者という設定で、それは、普遍的リアリティを持った訳だ。

 このゲームでは、病の本質を「精神的、または肉体的コミュニケーションの欠落」と捉えた上で物語形成している。そして、シナリオだけでなく、システムビジュアルなど、全ての要素が有機的に結びついて、完成度の高い作品を作り上げた事には、驚きを越えた衝撃があった。

いちょうの舞う頃

 Typesから発売された、「純愛」をテーマにしたAVG恋人家族との関係を軸に、青春原風景を丁寧に描いた作品である

 『To Heart』という、強烈な爆弾が炸裂した後の、美少女ゲームに於ける恋愛の扱いというか、回答としては、一つは『ホワイトアルバム』のように、恋愛ダークサイドに踏み込んでいくというのがある。ただ、この方法論は、安全幻想提供する為に純化されたギャルゲーの流れに逆らっており、自身の属するジャンル存在意義否定しかねない、パンクな危うさも孕んでいた。

 『いちょう』の場合は、その逆で、過剰な演出をできる限り抑え、細かい日常描写の積み重ねで見せる手法を、更に押し進めた形になっている。この方向性は『To Heart自体が、TVアニメ化の際に強調している。ただ、物語性よりも、ピュア感性ものを言う領域であり、むしろ、作り手側の負担は大きくなっている気もする。イージーリスニングというのは、発想としてはさておき、技術的には非常に難しい。

 『いちょう~』の洗練されたビジュアルイメージは、この方向性作品では屈指だ。ただ、個人的には、あまりにも健全明朗な展開には、気恥ずかしさを感じてしまうし、都市圏周縁のベッドタウンという、土着的な要素が少ない舞台設定には、渇きにも似た不安を覚えてしまった。もっとも、中上健次の『枯木灘』のような舞台設定のギャルゲーがあったら怖いし、出る訳もないのだが。

ホワイトアルバム

 Leafが『To Heart』に続いて、世に送り出したAVG美少女ゲームセオリーを覆す、実験的なシナリオ賛否両論を巻き起こした。

 かつて、『雫』で描かれた心情は、マイノリティの闇だった。毒電波というメタファーは、思春期の疎外感や、強烈な自意識揶揄していた。物語である以上、結末に救済=日常への回帰を用意してはいたが。

 だからこそ、まだ若かった筆者や、筆者の周辺はこの作品を熱烈に支持していたのだ。そして、『To Heart』は、その闇を潜り抜けた人々の物語だった。でも、それは同時に闇を忘れてしまった人々の物語でもあった。もっとも、思春期という暗黒は、いずれ回収されていくものだし、ユーザーの支持を得た以上、闇を見つめる必要は無くなっていた。美少女ゲームもまた、開かれた場所に向かっており、闇を知らない幸福ユーザーも増えた。

 しかし、闇を忘れられなかった人々もいた。そして産み落とされたのが『ホワイトアルバム』だった。確かに売れた。しかし……もはや、毒電波に心情を仮託する事もできず、幸福妄想の為に仕掛けられた世界にすら、違和感を感じる……荒涼とした場所に取り残されたマイノリティの為の物語が、予定調和とも言える、約束された祝福の世界を描いた『To Heart』の次回作なのだある意味、これほど不幸な作品も無い。

 肉体性を見事に排除した「マルチ」という理想偶像を作り上げた後で、既に、過去神話に過ぎないアイドルビジネスを、物語舞台として、肉体性との相克を描いた事が、既に同時代的ではないし、結果的にこの作品バランスを崩している。

 けれども、不完全ゆえに、プリミティヴな負の破壊力を生み出し、まさにロックンロールな、『ホワイトアルバム』の名に恥じぬ作品が出来上がったのだと思う。

デアボリカぱすてるチャイム

 丁寧に練り込まれシナリオAVGと、明朗明快なRPGという違いはあれど、アリスソフト1998年好調にヒット作を出している。

 もう一つ、筆者の遺伝子に刻み込まれ作品として『AmbivalenZ~二律背反~』がある。ロマンティックな復讐因果物語は筆者を大いに酔わせてくれたが、その流れを汲む『デアボリカ』では、内省的な描写を突き詰め、同じテーマに対しても、異なるアプローチを試みている。理想現実純愛エゴ、といった、二律背反テーマ相克に対し、複数の回答を用意した(選択の幅を増やした)事で、物語としての奥行きが深まったのは特筆できるだろう。

 『ぱすてるチャイム』は、前回も取り上げたし、こちらも良いゲームだけど、説明不足の事柄もあり……例えば、ゲームが進行して、実際に呪文などを覚えて、パラメータ意味がやっと分かるというのは、昔とは異なり、ストイックさとは無縁のユーザーが増え、レベル自体拡散拡大した状況からユーザーを幅広く取り込むには、少々敷居の高さも感じたのだ。……そう、長い間、最も安定したメーカーであるアリスソフトも、時代との折り合いを考えなくてはならない時期になったのだな、と筆者は痛感したのだった……。

反省と近況と総括。

 前回は某誌で使いそびれた文章ベースに書いたんだけど、これからは、特定ゲームに絞らない状況論の方向で行こうと思います文体もまだ一定しないしなあ……。それ以前にちゃんと続くのか、これ(笑)。……ところで、筆者は、ギャルゲー本質は、ストーリー練り込みによって、キャラクターへの感情移入を高めていくものという認識があるのだけど、声優の起用やグッズ展開の方を前面に押し出す昨今の状況には、正直言って、違和感があるんだよな。まあ、これも、年寄りユーザーの単なる戯言なんだろうけどね~。あ、次回のサブタイトルは、「アンドロイド少女電気羊の夢なんか見ない」です。BGM野口五郎甘い生活』でどうぞ。

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰4

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

原稿

原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿執筆推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。

さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているもの存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダ偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。

文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダ感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである

はいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。

よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。

水島の「ラノベ文体」と榎本の「ガイド

水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。

具体例として次の例を挙げている。

「すごい美少女だ!」

俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、

――ドカーン

背後で、謎の爆発が!

なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである

何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である

はい学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲーム携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。

読者はバカからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島姿勢はいささか理解に苦しむところである

第一文と冒頭からの3ページ

クーンツ作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。

一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公描写自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るもの描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。

また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。

人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。

しかしながら、これも絶対的忌避されるべきかといえば難しい。

例えば名作と名高い「猫の地球儀」は

あれから七百年と半分が過ぎた。

朧はもちろん猫で、牡で、おいぼれで、最後スカイウォーカーだった。

と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自専門用語を第二文目で出すなど言語道断である

しかし筆者は、上述の水島のドカーンはるか凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。

作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっと妥当であるように思われる。

従って、アクションから入ろうが主人公身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。

情景描写臨場感

頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。

また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果であると主張する。

こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。

止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。

仮に作家自分想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂い付与されているのであれば、臨場感さらに高くなるだろう。

絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法類似点、相違点については十分な調査検討必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。

場面の切り替え

より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校テストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。

これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車ヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである

会話文

クーンツは会話は全体の20~30パーセント必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるバランス必要である

その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツ発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。

ヒックスは会話の機能として、「ストーリー前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。

このようにクーンツヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。

この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本筒井批判するところと言いうるだろう。

人称の効果と神の視点

説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報記述してしまう、という点がよく指摘されるところである

一方で三人称体は登場人物の知りえない情報記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。

このことから水島は、「楽しさ重視のコメディ一人称」が望ましく、「複雑なストーリー三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。

一方で飯田三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。

はい三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。

一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称メリットと、感情移入を容易にする一人称メリットを同時に享受できる極めて強力な技法である

なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロ作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。

他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家登場人物批評したり意見を述べるのは19世紀時代遅れ手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。

端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。

筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論必要であることから本稿では割愛する。

過去の回想/夢

水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリー情報提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。

一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述ある意味でこのフラッシュバック効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。

クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。

推敲

推敲重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。

冲方推敲の要点として、「冒頭とラストインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。

最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディアプロット原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。

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ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰5

2014-12-30

最近ロボコンとか、ああいうの見ると泣いちゃうんだよね

自分にはあんな青春は無かったけど、なんだか追体験してる気分になる

彼らにしたら、こんな30過ぎた酒浸りの人間一方的感情移入してるなんて思いもよらないんだろうけど

ボクも仲間だよ!(仲間じゃねえよ!)

2014-12-29

かまってちゃん

そう、なんか女々しいのは分かっている。

悲しすぎて、悲劇のヒロインを演じている自分に酔って浸るぐらいしかできない。

そうやって構ってちゃん全開になるしかない。

というか、かまってほしいんだ。あの人に。もう無理な話だけど。

うそう、そんな俺にも癒やされるアニメがあって。エヴァンゲリオンを久しぶりに見た。

エヴァキャラクター根本的にかまってちゃん気質の持ち主が多くて、そのへん感情移入できたんだろうな。

そのキャラクターが成長する過程は見ていて気持ちがいいもので、俺にも明るくなれるかもしれないと希望を持たせてくれる。

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

ヒロイン

ほとんどの場合ラノベヒロイン必要不可欠である水島飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である

このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合ヒロイン傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。

一部の例外を除いて、ヒロイン主人公に惚れなければならない。榎本はヒロイン主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れ場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。

突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。

クーンツ登場人物個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為描写することの方が好ましい、という指摘である

中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。

従って主人公ヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。

さらに、この指摘は主人公ヒロインに惚れることについてもまったく同じである美少女であるツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。

登場人物オリジナリティ

水島登場人物オリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。

西谷は次のような指摘をしている。

ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクター名前だけを変えて自分小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです

五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島特に踏み込まないが、この点で大塚既存キャラクター抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。

確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚オリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。

一方、様々な属性ランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性オリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。

繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナル属性」に価値は無いと言っていいだろう。

プロット

プロットについての学術定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロット定義明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。

よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事配列」と定義することとした。

さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。

プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから

キングはこのようにプロットを練る必要などないとする。

このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツプロットに関して次のように述べている。

作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である

作家登場人物小説の方向や狙いをすべてまかせてしまえば、必ずみじめな結果におわる。

ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。

ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。

しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。

まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿キングは6週間寝かせるが、それは「プロットキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。

確かにキングプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。

宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。

このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。

プロットの手順

以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。

練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。

従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。

キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルプロット作成手順を提案しており、そのメリットスケールの大きい物語ができること、デメリット時間がかかることだとしている。

他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。

水島の提案はこの西谷後者の説に類似しているが、「ヒロイン出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである

榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的プロット作成できるとしている。

大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカードオリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロット作成できるとする。

割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為モデル主体、援助者、敵対者、送り手、対象受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。

これ以外ではさら物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。

プロットカードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家アイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のもの現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。


プロット構造

ラノベ作家陣によるプロット構造に対する言及曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。

いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及特にない。

水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。

あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーン最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。

確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。

さて、榎本は次のような構造プロットが持つことが望ましいとする。

クーンツもまた、古典的プロット成功パターンとして以下のようなプロット構造を推奨する。

念のため触れておくとクーンツミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルプロット必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンル必要十分条件最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。

大塚プロット構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロット本質的構造アラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさら抽象化したものだと言いうるだろう。

ところでクーンツの主張するプロット構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥風姿花伝における序破急概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。

フィールドプロット理想的構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。

フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。

PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。

映画脚本における理論であることからフィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。

クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。

なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画マトリックス」におけるMidPointはネオ救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しか物語をこれまで動かしてきた大前提崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰2

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記の続きとして分割投稿されたものである

作家人格登場人物人格

西谷は「主人公作家分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。

このように見てみると登場人物作家関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。

この点でヒックス登場人物作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分嫉妬深い側面を誇張した人格創造する、というもので、全くの新たな人格創造するのではなく、そのベースあくま自分自身だとする。

これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。

登場人物作家自身である主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体作家人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。

キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物人格ベース自分自身である以上、ほとんど常に作家想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。

なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。

ヒックス登場人物創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックス否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。

ここでいう「夢」はその登場人物人格依存して考えだされるべきものである。これは大塚世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。

もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人人格しかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。

西谷ヒロインブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。

読者による登場人物への感情移入

以上のように作家登場人物関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。

西谷同様、筒井は「自分作品感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。

本格ミステリSFなど、感情移入必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説存在する。しか感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。

さて、基本的に読者の感情移入物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。

まず榎本水島主人公年代ターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベ主人公中高生であることが望ましいと言う。同じ理由性別男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズブギーポップのように女性主人公成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。

まず作者自身モデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。

主人公に求められる特質について、西谷榎本飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。

そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやす主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である

一方で「低スペックで卑屈、無個性へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公ラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。

しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。

さて、筆者はこれらの各説は人物の能力精神倫理区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。

能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能行為名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人能力を持っていても(それが物語必要ならば)問題ない。

次に主人公精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情オープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。

最後主人公倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子モテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。

一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である

Unlimited Blade Worksとかマジカコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しか倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。

さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難戦略だと言える。

こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入成功すると、自然ハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入効果が高いという指摘だと言えよう。

西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。

そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物ギャップである

登場人物ギャップ

本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。

飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面ギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。

ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレ多面的感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。

ツンデレ」は言動まで類型化された属性である本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。

良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶バイト事務的発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。

さて、さら飯田ギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充イメージと「オタク」が持つ根暗コミュ障イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである

このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効機能する。

例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的レベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。

西谷主人公ヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しか主人公ヒロイン親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。

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ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

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