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はてなキーワード: 夜の学校とは

2018-06-14

定時制高校卒業して十数年経った

高校には色んな人がいた。

さまざまな年齢、さまざまな国籍性的マイノリティ、元引きこもりオタクヤンキー

心や、身体や、環境に、なんらかのハンデを抱えた人々が、夜の学校へ一堂に会して同じ勉強をする。

そんな不思議場所卒業して十数年経った。

卒業してから今までも、私は私なりに数奇な人生を歩んできたと思っているのだけど、未だに高校に在籍していた時期の色々な思い出が強烈で、よく夢に見る。

ただ学校勉強に馴染めなかっただけで、頭の良い人もたくさんいたのだ。

いったい彼らは今どこで何をしているのだろう?

あの不思議場所を礎に、どんな人生を歩んでいるのだろう?

2017-05-19

長い夢を見た

年のころ10ぐらいの少年だろうか。頼りなく優顔の少年は通う学園で新しく転校してきた少女出会う。

少女カールした癖っ毛の金髪で、高潔さに足が映えて立っている様な雰囲気を携えていた。

人目で心を揺り動かされた少年は、金髪少女へと好意吐露する。

期待もせず、衝動的に行われた告白は、期せずして、少女の関心を得て、了承を得ることとなった。

恋人となって最初放課後少年は、金髪少女プレゼントとして緊縛される。

手足を縛られ目を隠され、闇の中で背中をけり倒された少年は、這いつくばれと少女に命じられ頭が割れそうなほどに踏みにじられながら、これでこそ望んでいた少女の姿だと自分の心を悟り、知らずズボンの中で精通果たしていた。

彼女に虐められ、束縛され、ご主人様と慕い奉仕する少年は、ある日少女夜の学校に来るように言われる。

指定された時間指定された場所へと訪れると、少年は、暗い校舎の中で一つだけ明るい校長室の僅かに空いた扉の隙間から、その中で、金髪少女校長に抱かれている姿を見る。

薄汚い笑い顔で愉悦する校長に、少女は媚びるような声で腰を動かしていた。

豚のように快感の喘ぎ声を出す校長言葉から少女孤児校長の妾役として学園に通っていることを知る。

その光景から目を離せずにへたり込んでいた少年は、行為の一切が終わって扉へと近づいてきた裸体の少女に、冷ややかな目で見降ろされる。

「幻滅したかい?」と言う少女少年咄嗟に首を振った。

少女に見捨てられることを恐れたのか、同乗したのか、それとも自身になおも冷ややかな目を向ける少女に一切の幻滅が消えたのか、少年には判別がつかなかったが、少女はむしろ当たり前のように頷いた。

月日が経ち、学園を卒業を間近となっていた。

校長室で変わりもなく少女を抱き、彼女の僅かながら柔らかくなってきた体と離れることを惜しむ校長に、

「惜しむ必要はありませんよ」と少女は笑い、校長背中に熱さを感じる。

隠れていた少年背中包丁を突き立てていた。激痛に顔を歪め慌てる校長の、その首筋に少女作業のように長い刃物差し込んだ。鍔の根元まで刃をえぐり入れて、少女は媚びた笑顔を落とし冷たい視線へと戻る。

陰茎を袋ごと切除して、

「私が毎日舐めてたものだ、いるかい?」と言う少女に、少年

「どうせすぐに大人に取られます」と頭を振った。

 

 

 

少年期の殺人犯として、裁判を経ずに二人は似たような囚人が集まる拘狗牢へと入れられる。

獄卒への奉仕を拒んだ金髪少女は、独房へと入れられ、外部と一切の遮断をされてしまう。

どうにか少女と、再開するかを考える少年は、一人の少女出会う。

監獄ですら表情に幼さの長い黒髪少女は、少年牢獄自分の望みを自由に叶える方法を教えると誘い込む。

その引き換えとして、少年黒髪少女を抱く。少年にとって初めての性交だった。

性交の後、少年黒髪少女から彼女の服を分け与えられる。

言われるままに少女の服へと着替えると、優男で細身の体故に、少年一見して面貌の整った少女のような風体になっていた。

そのまま生活を送る中で、元から控え目で、気後れした性格故に、気弱な少女のように見えた女装少年は、看守に襲われる。

背中から押さえつけられ、尻の穴を犯された少年は、痛みと圧迫の中で快感に満たされて、何度も射精していた。

意図を察した少年は、黒髪少女の元へと訪れて、軽く非難をする。しかし、誑し込むのが一番手っ取り早いという少女言葉に、少年も頷く。

黒髪少女に、少年は一人の女性を紹介される。

長身で、栗色の髪をボブカットをした女性一見にしても美人で、少年は見惚れてしまいそうになる。

少年の体を抱きしめた栗色の髪の女性は、少年アヌスをいじり、自らの股間に生えている男性器を見せつける。

女装した男娼の先輩として、栗色の髪の人は、少年アヌスへと陰茎を挿入し、その奉仕の仕方を教え込んでいく。

黒髪少女衣服と交換に性交を重ね。

先輩に気持ちよさを教え込まれ

客の囚人や看守に、薬を打たれて、死ぬような快感の中で精液を注ぎ込まれる。

少年は、快楽の中で、頭を呆然としていく。

 

 

 

独房の中で、夜も朝も分からず、何度目の睡眠かすらも数えなくなっていた金髪少女は、分厚い鉄製の扉が開く音に気が付いた。

期待もせずに見た入り口からは、記憶の中でも、もはやあやふやになっていた少年の姿を見つけた。

一瞬の幻覚を疑い、現実だと悟った金髪少女は、すぐに蒙昧としていた意識を取り戻した。

看守とつてを作り、体と引き換えにさまざまに要望を聞いてもらえるようになった少年は、ようやくの段階で、独房少女と面会できるようになっていた。

しかし、その金髪少女は、天井からベストのような包みでくるまれて面され、その四肢は根元十センチほどで切断されて丸く縫い付けられていた。

逃げないようにと、暴れないようにと、彼女を性のはけ口とする看守に対する配慮だった。少年は、そういう性のはけ口の分け前をもらうという形で、少女の部屋へと訪れることを許されたのではあった。

少年を見止めた金髪少女は、その瞳を見つめた。喋れないように轡をされた少女は、なにも伝えようともしなかった。

ただ、少年を見つめて、小便を漏らし始めた。

少年は、その滴る小水を浴びて、口に受けた。

それで二人には充分だった。

それから監獄の中で権力者たぶらかしていった少年は、刑期を大幅に短くして、金髪少女とともに拘狗牢を出所していくことになる。

両親もなく、寄る辺もなく、四肢もない金髪少女は、弱り切った肉体もあって、そのまま病院へと入院することになった。

それは監獄大人たちの最後の両親でもあったのだが。

 

出所から数日もしない、晴れの日、少年は両親へと電話をかけていた。

心配しないで欲しい。すぐ戻るから。ちゃんと元気でやっている。と電話口で笑顔で伝える。

電話の向こう側からは、金をどこにやったという男性の怒号と、女性悲鳴が聞こえてくる。その音を聞きながら少年笑顔電話を切った。

満載のリュックサックと、鉈を持った少年は、病院への道を洋々歩き出す。

 

慌て蓋める医者たちと、悲鳴を喚き散らして右往左往する看護婦たち、警報が鳴り響き、大人の影が行きかっていく。

そのころには既に、自分で動けない金髪少女を抱えて少年は山の雑木林の中を登っていた。

これから二人で生きていくのだと少年は言って、ようやく自由になったと少女は言った。

 

 

 

幾日か幾月か経った山小屋で、飢えて死んだ少年四肢のない少女遺体が見つかった。

と言うところで、胸糞が悪くなって目が覚めた。

2017-01-20

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今回はガンガンオンライン

青春Re:トライ Re:10

視点で同じ時間軸を描くのか。

樹側のテーマが新たな視点による気づきに対し、遥側のテーマは行動することの重要性ってのは一貫していて、今回もそうだったね。

ただ、まあ時間軸が同じこともあって、わざわざ別の話として描くよりは、平行して描けばいいんじゃないかなあとも思わなくはないが。

ただ、ラストの展開はちょっと不意打ちだったなあ。

確かに伏線はあったか考察する余地はあったんだけれども、このタイムリープ兄弟にとって重要意味を持つと思っていたから、そういう可能性は無意識に追いやってた。

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!109

夜の学校とかもそうだけれども、今回みたいないつもと違う状況で過ごす学校の、独特の雰囲気って楽しいよね。

個人的にニクい演出は、本を通じて発生した奇妙な縁かな。

それが間接的に繋がって、他人話題主人公名前とか挙がっていると不思議気持ちになる。

その普段ではありえない特別空気がそうさせるのか、もこっちが苦手なタイプ人間言葉で思わず笑うシーンとかが象徴的に見えた。

なんかいいなあ、こういうの。

毒っ気というか悲愴感が恋しくはあるけれども。

あと、大したことじゃないんだけれども、登校時にマスク着けている生徒と着けていない生徒がいて、その微妙な違いが無駄に気になった。

ななしのアステリズム 第21話

ちょっと驚いた。

そんな言語化が難しい感情も描いていくのか。

人が持つ感情には表面的には同じであっても様々な側面がある。

「好き」ってのは、その側面が特にクローズアップされやすいよね。

昴は自身他人の持つ側面がないのに、その側面に自分が引きこまれたような感覚が嫌だったわけだ。

ざっくり言えば、他人物差し人格を測られるのが嫌だってことなのかもしれない。

恭介はその感情一般化しようと試みるんだけれども昴はピンとこなくて、そもそも無意義だともとれる。

このあたりを踏まえると、「他人による人格形成安易カテゴライズ拒否」だと私は解釈した。

まあ、確かに多くの人が自分自身でもよく分かっていない側面というものは大なり小なり存在していて、どうしてもそれを明瞭にする必要があるかといわれれば何とも言えないのだけれども、その状態では少なくとも他人にそれを決められたくないだろうね。

このあたりの人格に明確な言語化や是非を決めないっていうのは、複雑な思いが錯綜する本作を読み込む上で、かなり重要テーマかもしれないなあ。

ただ、そこをフワフワさせた状態のまま話を進められることが、物語スムーズに消化したい人にとってはヤキモキする要因にもなりそうだけれども。

2016-12-10

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今回はコミックウォーカー

ススメ! 栃木部 第11

素人参加番組ローカル花形だね。

老若男女、玉石混合っぷりが凄まじいが、それ含めての楽しさというのもあるのかも。

あと、訛りに客観的自覚がないネタは、栃木だけじゃなくて割と共通かもしれない。

というか、訛りって喋るとき無意識に出るようなものから、作中のは極端ではあっても、訛りに対してそこまで自覚がないってのは大なり小なりあると思う。

その地域生活していれば、そこでの訛りは実質「標準語」といえなくもないしね。

そして番組本番、クオリティは出場者によって全然違ってピンキリながらも、平均的なレベルと出場者の年齢層からいけると踏む。

だが、ジョーカー出現で意気消沈、と。

どこまで意図的に、かつそれが功を奏するかなんてこと分からないが、目標を掲げるなら多少のクレバーさはあったほうがいいだろうね。

漫画とか、フィクション全般においてもいえることだけどね。

私は漫画に限らず創作において、そういう利己的な手法のもの否定しない(支持もしないけれども)。

賢者の孫 第8話その1

なんか、元からそうだったけれども「主人公スペック披露目会」みたいな様相を呈してきたな。

どれだけ主人公がすごい発想とすごい魔法を使えるかをつらつらと。

私が中学生のころ、TRPGキャラの設定とステータスとかを練りこむだけの遊びを仲間とやっていたけれども、要はそれにちょっと物語付与しているだけだよね、今のところ。

そりゃあ、キャラの設定とかスペックとか書いているとき楽しいし、それを読者も疑似体験できるという意味でナシではないとは思うけれども。

メガロポリスノックダウン GAME-06

今回はちょっと特殊演出表現をしてきたなあ。

意図的現実ゲーム世界をごちゃ混ぜにしている。

客観的に見れば危うさがあるんだけれども、あくまで全体的なノリは楽しく描かれているんだよね。

どうでもいいけれども、ゲーム脳って私はてっきり現実ゲーム的なもの見方をする人を指すと思ってんだたけれども違うんだね。

ディーふらぐ! 88話

勝負の内容もよく分からんが、その後の物言い展開のほうが本番ってのがすごいな。

巨乳同士の(物理的)なぶつかり合い」という胸躍る展開にも関わらず、その後の物理的に過剰なインパクトと、物言い展開のハイテンションぶりでエロティシズムがまるでないのもすごいな。

そういえば、以前の夜の学校エピソード懐中電灯を胸の上に乗せるとかいう、たわわチャレンジじみたことを「月曜日のたわわ」が世に出るずっと前からやっている位、この漫画巨乳の扱いってバカバカしいんだよね。

そして相変わらずモブ出張る。

外野外野」って、それ完全に無関係の人じゃねえかって言っちゃダメなんだろうなあ。

というか、当たり前のように受け入れられているけど、「外野外野」って文言おかしいけれども。

2015-02-26

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論(中編)

さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。

例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。

同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校プールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。

溺れて必死主人公にしがみつきビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通女の子であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインうつむき押し黙るといった、つまり普通女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。

多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会前後主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である

最後見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロイン毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロイン毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。

余談

念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線クライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。

関係構築のための行為類型の整理

ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公ヒロイン恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効機能する。

さて、関係構築とは主人公ヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。

秘密の共有

遭遇の類型として「秘密漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。

秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合プライバシー同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去トラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意コントロールできるという点で優れている。

こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。

観察による発見

涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公ヒロイン友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロイン主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロイン主人公評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公ヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。

余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力である主人公必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこから作戦演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。

共通点の発覚

秘密漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入共感を誘う要素と言っていいだろう。

親切

素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由けが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。

これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公ヒロインコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。

呼称の変化

相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロイン名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。

なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。

依頼に対する承諾

一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。

一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロイン主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。

こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。

例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロイン主人公仕事を依頼し、主人公成功し続け、それをもってヒロイン主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロイン主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロイン主人公失望することは一度としてなく、最後ヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討範囲である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。

依頼に対する拒否

AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公ヒロインからスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。

この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。

好意の表明

単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。

相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。

救助と自己犠牲

窮地に陥ったヒロイン主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。

例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐ものであった。

他方で『俺の彼女幼なじみ修羅場過ぎる』におけるチンピラ侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロイン主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。

その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。

その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意ほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。

禁書』では記憶喪失し、『AURA』では中二病世間露出し、『俺妹』では自分変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分過去未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。

後編へ続く

2010-12-01

二次元に行く方法考えたwwwwwwwwwwwwww

まず最初にwwwwwwwwwwwwwww

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まず最初に、ごめんなさい。

私もその方法はわかりません。

あなた純粋な心を傷つけてしまったのであれば心から謝ります。本当にごめんなさい。

このタイトルを見て続きを読んでくれたあなたにお聞きしたいことがあって、こんなタイトルしました

しまだ続きを読んでくれている人がいるのなら、少し私の話を聞いてほしい

私はアニメ漫画が大好きで、小さな頃からそれらに触れて育った。

気が付けばお話キャラクターに強い感情を持つようになって、思春期はぜんぶ彼ら彼女らとともに過ごしたように思う。

その頃私の世界は本の中やテレビの中にあって、たぶん他にはなにもいらなかった。他人とも話さず、ただただ自分の中にいる彼ら彼女らと共にいられればそれでよかった。その気持ちは今でも覚えてる。

でも時間が経って、私もいつしか仕事に就き、人並みの分別を持つようになった(本当はまだそんなもの持っていないのかもしれないけど)。

彼ら彼女らがどこを探しても、どんなに夜の町に繰り出しても現れないことも知った。

学校中庭で一人ご飯を食べていても図書室のどの席を見ても行っても夜の学校に忍び込んでも遠い地へ旅行へ行ってもクリスマスの夜にツリーの下で待っていても同じ本を読んでも同じように紅茶を淹れるようになっても同じようにジンジャークッキーを作っても同じようにテトラポッドの上を歩いても、なにをしようと私の大好きな人たちは現れなかった。

話が変わるけど、社会に出てからはどんな生き方をしてもそれが他人に干渉をしない限り、その人の生き方として捉えてもらえた。よく言えば自分生き方迫害されることも否定されることもなかった。おそらく私はとても恵まれた環境にいたんじゃないかと思う。

時折私の心は『果たしてこのままでいいのか』と迷うこともあったけど、依然として私の気持ちは心の中にいる彼ら彼女らに向けられていた。

私はその頃には、自分はいしかアニメ漫画を楽しみつつ、現実世界にも大事な人のいる一人の人間”になっているのだろうと想像していた。

今まで私を支えてきてくれた彼ら彼女らに対する背徳心をとても強く感じていたが、それが普通で、それを越えてみんな生きているのだと思ってた。

でもここ最近のことだ。

私は連休を利用して実家に帰り、久しぶりに学生時代と同じ曲を聴き、あの幸福感に満たされていた時代を過ごした道を同じように歩いてみた。

それはすごく楽しくて、やっぱり彼ら彼女らが私にとってとても大事で愛しい人だということを再確認した

それで、その人たち以上に私を支えてくれた人がいないことも本当の意味で思い知った。

彼ら彼女らは思春期の私とずっと共にいて、辛いことがあれば元気をくれ、本当に数え切れないほどの楽しいことをくれた。私の半身みたいなものだった。

途端にそれまで自分が築き上げた人間関係だとか打算的な関係の異性が、そんなものを必死になって築いた自分が嫌になった。

私が本当にほしかったのは私を支えてくれていた彼ら彼女らで、その別のなにかじゃない。

もともとこんなものはいらなかった。

なんで私はこんなものを抱えて生きているんだ。

なんであの人たちはいないのに、彼ら彼女らのお話はあの最後のページをめくった瞬間に終わりを迎えていたはずなのに、なんで私はまだここにいるんだ。

彼ら彼女らのお話は終わって、どうして私の話だけはまだ終わってないんだ、おかしいでしょ。

今は、その気持ちだけがずっと胸の中にある。

あの人たちはやっぱりここにはいなくて、私の気持ちも誰かが作ったサブカルチャーの上で踊っているだけのものだということも理解しているつもり。

でも私の心は長年の間もう彼ら彼女らの存在を在るものだとして捉えてしまっているし、今さら彼ら彼女らの存在を否定する気もない。彼ら彼女らは確かに私の中にいる。笑われるだろうけど、私の中ではいる(ゆのAAの『お前がそう思うんならそうなんだろう』と同じです)。

だから、彼らが現実世界にいないのがつらい。

あと数十年、この葛藤に悩まされながら生きていけるほど私は強くない。

ここまで書いてなんだけど、私自身なにが問いたいかいまいちよくわかってない。

みんな最後にはこんな場所に辿りついているのか。

だとしたら、なんでまだ生きていられるのか、それを教えてください。

最後には結局一人になって、胸が張り裂けそうになって叫びだした衝動に駆られても、それでも寿命だけはまだまだ残ってる。

考えても考えても私には今日までわからなかった。少しでも知っている人がいるならお願いだから教えてください。お願いします

追記:長文だから『続きを読む』が入れたかったんだけど、よくやりかたがわからなかった。

目ざわりな方もおられると思う。ごめん。試してみてもできなかったので、間違ってるところのご指摘いただけるとありがたい

2010-05-04

ピンクフロイド夜の学校

ピンクフロイド夜の学校

マーク・エドマンドソン   (ほんやく、増田

http://www.nytimes.com/2010/05/02/opinion/02edmundson.html?scp=2&sq=pink%20floyd&st=cse

「じゃあ、学校を出たら、何をするつもり?」

卒業を間近にしたバーモント田舎大学で、少なくとも十数人のクラスメイトに、私はこの質問を聞いてまわった。友人たちの答えに、私はとても安心した。特に何もないさ。羽根をのばすんだ。ぶらぶらするかな。考えたいことが色々ある。まずはゆっくりするよ。1974年だった。誰もが、そういう風に話すのが当たり前の時代だった。

実際のところは、友人たちは本当のことを教えてくれなかったのだ。見方によっては、とんでもない嘘をつかれた、とさえいえるかもしれない。卒業式の日までに、同級生のほとんどは、ロースクール大学院に進んだり、ニューヨークサンフランシスコで、クールで貴重なインターンシップをはじめることがわかった。

でも、私の場合は、本当にゆっくりすることにした。5年のあいだ、私はあちらこちらを点々として、何もしなかった。正確には、どうしても必要だったとき以外、できるだけ、何もしなかった。タクシーの運転手、映画フリークコロラドの山男、バーモントにあったクレージーヒッピー学校の教師、映画館支配人(これは、ほとんど仕事がなかった)、船の乗組員、ディスコドアマン、そんなことをやっていた。

そのなかでも、ジャージー・シティの音楽プロダクションでやったステージクルー仕事が、一番思い出深い。職場ルーズベルトスタジアム、芝生席もいれると6万人を収容する、古い、化け物みたいな箱だった。トラックからアンプを引っぱりだし、ステージに設置する。6時間かそこらしたら、トラックに戻す。これを私は、グレイトフルデッドアリス・クーパーオールマン・ブラザーズのライブでくりかえした。クロスビー・スティルズ・ナッシュステージは、ちょうど、ニクソン大統領を辞めた日の夜だったのを覚えている。けれども、私にとって、一番思い出深い仕事での一番の思い出は、ピンクフロイドが出演した夜に起きた。

ピンクフロイドは、サウンドに相当のクオリティを求めていた。ステージ上のアンプは、縦にも横にも、周囲を威圧するほど積みあがり、パリ・コミューンバリケードのようだった。それだけでなく、スタジアムの高い位置3か所にも、ピンクフロイドアンプを集めて設置するよう要求した。それで、私は午前中ずっと、オンボロスタジアム階段で、どでかい木製のアンプやら配線機材を運びつづけた。

仕事はもうひとつあった。パラシュートの形をした絹製の白いキャノピーが、ピンクフロイドステージには必要だった。設置には6時間かかった。私たちが聞いたところでは、キャノピーを使うのははじめてで、ピンク側のスタッフも、どうしたらいいかよくわかっていなかった。設計図らしきものはあったが、あまり役にたたなかった。だが、「アメリカの知恵」をもってして、キャノピーはなんとか屋根の形に膨らんでくれた。「アメリカの知恵」とは、つまり、ロープをあちらこちらにひっぱったり、手当たり次第に結んでみたりした、ということである。

ピンクフロイドライブは夜10時にはじまった。ところが、私たちが死にそうになりながら運んだアンプからは音が出なかった。たくさんの人がアンプの上に座ったか、蹴ったか、配線を切ったかしたのだろう。アンプのタワーが沈黙をつづけるなか、ピンク自分たちの仕事をし、観客は公演の終わりでライターに火をつけた。そして、私たちは、3時間かけてアンプをバラして、トラックに戻した。階段上に残ったアンプは、私たちが作業を拒否したので、お互いをいくらか罵ったのち、ピンクスタッフが回収した。

あらためていうと、ツアースタッフステージクルーの間には、ほとんどの場合、何らかの対立があったのだ。あるとき、たしかクイーンライブだったと思うけれど、クイーン側のスタッフ5人と私たちのクルー十数人が殴り合いになった。すると、騒ぎを聞いて駆けつけたセキュリティまで、喧嘩にくわわった。だいたい、バイカーギャングだったり、空手黒帯だったり、そういう連中だ。ツアースタッフの方はそれなりにがんばったけれど、ついに勝てないとが分かったらしい。ひとりが、シャンパンをケースごと持ってきて、回し飲みをはじめた。それで、みなが酔っぱらい、幸福感にひたった。

ピンク側のツアーマネージャーは、キャノピーをそっと降ろして、きちんとたたみ、元の木の箱に戻すよう求めた。しかし、キャノピーにはヘリウムガスがたっぷり詰まっていたし、さらに栓がどこにあるのか、誰にもわからないことが問題だった。また、キャノピーをステージに固定した際、私たちがあらゆるところを馬鹿丁寧にきっちり結んだおかげで、それをほどこうとしたら、水夫たちの集団だって頭をかかえたに違いない。誰もが疲れていた。酒を飲んだ人間は、使い物にならなくなった。そして、もう朝4時になっていて、家に帰るべき時間だったのだ。

空飛ぶ枕をどうやって片付けるか、みなで作戦を練るうちに1時間が過ぎた。だんだん大学ゼミのようになってきた。そこに、私たちステージクルーチーフジムが登場する。ジムは、私たちはジンボーと呼んでいたのだけれど、お人好しのバイキングの親玉のような人で、どんなときも、何があろうとクルーを擁護した。ギターケースを落っことした私を怒鳴りつけるスティービー・ニックスに、エドマンドソンに怒鳴る権利があるのは俺だけだと、大声で抗議してくれたこともある。そして、ピンクフロイド屋根事件のときも、ジンボーは危機的状況で自分がいつも期待されていることをした。つまり、行動を起こしたのだ。

ジンボーはステージのすみに忍びより、ポケットから折りたたみナイフを取り出して、聖なる屋根地球につなぎとめているロープのひとつを切りはじめた。私たちクルーの3、4人も、同じことにとりかかる。「おい、なにをしてるんだ!」ピンクフロイド側のチーフが叫んだ。「お前らをぶちのめして…」そこまでいってから、かれはジンボーの手にナイフがあること、クルーの数人も同じだと気付いたのだった。2、3分後、私たちはロープを皆断ち切った。

最後の太いロープが切れたとき、大きなため息のような音がした。すぐには何も起きなかった。また少し待ったけれど、何も変わらない。

しかし、キャノピーはついに上昇をはじめた。白くて柔らかい、贅沢な雲のように飛んでいく。そのとき、地平線から太陽が沸きあがり、キャノピーの絹地も、薄く、柔らかな緋色にかがやいた。熊が腹の底から笑うような、ジンボーがいつも通りの笑い声をあげた。私たちも一緒になって大笑いする。ピンクフロイドスタッフも同じだった。私たちはまるで、終業式を迎えた日の、学校子どもたちのようだった。私たちは裸のステージから、大西洋の先へ静かに流れてゆく絹の屋根を見つめていた。何人かは手を振った。

「じゃあ、学校を出たら、何をするつもり?」35年が過ぎて、大学の教師になった私は、自分学生に同じ質問をする。今日学生たちは、あまり隠し事をしようとはしない。そして、ロースクールメディカルスクールジャーナリズムビジネスでの学位中国での研究留学日本英語教師をすれば相当のお金になることなど、いろいろと話してくれる。そういう彼らを、世間は肯定するだろう。

そう、私も学生たちにはとても感心している。だがその一方で、心配もしているのだ。かれらは、決心を急ぎすぎてはいないだろうか。もうすこし落ち着いてみたり、ゆっくりすることも、やってみたらどうだろう。私はそう考えずにはいられない。そして、空に消えた白い絹のキャノピーを私は思い出す。まだ今も目の前にあるかのように、私はそれを見ることができる。私は手をあげて、それを指し示したい。学生たちにも、見てもらいたいのだ。

 
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