はてなキーワード: 緒方剛志とは
擁護してあまつさえ吉澤観音を「たつきのおこぼれ頂いてる身分」というような言葉で蔑んだくせに
まず、原作者およびイラストレーター(以下絵師)がアニメ制作に参加するかは、ケースバイケースである。
ほとんどのアニメでは原作者が多少の口出しをする程度で終わるが、近年は原作者がアニメの脚本を書いたりするケースも増えてきた。
ただ、基本的にアニメの制作は制作会社におまかせするものであって、原作者および編集部が主導権を握っているわけではない。
アニメ化の企画も、出版社が立てているわけではなく、まずアニメ制作会社が立案して、それから出版社に打診している。
(でもカドカワが主導してそうなアニメ化前提のメディアミックス企画とかはどうなってるんだろう? 教えて偉い人!)
アニメの「キャラクターデザイン」とは、原作のキャラクターデザインをもとに、アニメで動かしやすいよう、アニメーターがアレンジすることである。
「漫画家や絵師がいちからキャラクターをデザインする」という意味でのキャラクターデザインは「キャラクター原案」と呼ばれる。
ライトノベルの場合、キャラクター原案が作家なのか絵師なのか曖昧なところもあるので、「キャラクター原案」ではなく「原作イラスト」としてクレジットすることも多いようだ。
今回の騒動ではこのあたりを混同して、「緒方のキャラ原案を廃止して新たに別人がキャラ原案を作った」と勘違いしている人が散見された。
余談ながら、オリジナルアニメの場合でも、キャラクター原案は有名絵師、キャラクターデザインはアニメーターと、分担していることは多い。
『俺妹』や『魔法科』のように、もともとアニメーターが絵師として起用されていたので、そのままアニメのキャラクターデザインも担当した、という特殊なケースもある。
以上を踏まえた上で、今回の問題を整理しよう。
緒方剛志がアニメ化発表時に素直に反応していることもあり、アニメ化の話が通っていなかったということは考えづらい。
「見たことねえ」「認めてねえ」というのは、あくまで「キャラクターデザインの確認が回ってこなかった」ということについてだと思われる。
既に説明したとおり、原作者および原作絵師がアニメ制作に「参加していない」ことそのものは異常事態ではない。
「参加したかったのに外された」のか、「納得の上で外れた」のかは、現状では判断しづらいように思われる。
そもそもアニメのキャラクターデザインは「元のデザイン」から変える仕事である。
今回はかなりキャラデザの癖が出ているが、このくらい原案と変わってしまうことはそう珍しくない。
緒方剛志は「ブレザー着たヤツに日程を合わせる為に短期間で絵を描かなきゃいけないからムカつく」と言っているのであって、
「ブレザー着たヤツにキャラデザを合わせて絵を描かなきゃいけないからムカつく」とは書いていない。
印象論だが、緒方剛志の怒りは「連絡がなかったこと」よりも「キャラデザがダメなこと」に向いているように思う。
つまりキャラクターデザインの仕事に対する怒りなのだから、マッドハウスと話をつけようとしたのではないか。
マッドハウスの広報アカウントにリプライを送ったあと「無視ということでよろしいんですね?」からの「監督辞めるってよ」なので、
「監督が辞めると言った」という話し合いはリプライの前に行われていたはず。
アニメ化発表→緒方がキャラデザを見て怒る→マッドハウスと話し合うも決裂→広報アカウントにリプライ→返答がなかったのでぶちまけてすっきり
という順番なのではないか。
この場合、緒方とマッドハウスの話し合いをカドカワがセッティングした可能性があるので、
本件で「カドカワが働いてない」と断言するのは保留したほうがいいのではないかと思います。
知らん。
いまのところの印象では「アニメの制作からは納得の上で外れたがその結果として出てきたキャラクターデザインが(緒方目線で)あまりに酷かったので後から文句を言っている」の可能性が高いと思っている。
ただし、私はそんな極まったアニオタではないので、アニメ制作のところについては間違いがあるかもしれない。
詳しい人のさらなる詳説があったら嬉しい。
特に「キャラデザってどのくらい原作サイドに確認するの?」「キャラデザの決定を原作絵師に伝えないってありうるの?」というのが分からない。
・決定直前に確認を取るだけ
・決定後に知らせるだけ
など、いろいろ考えられる。
「現場による」って言われそうだけど。
『ブギーポップは笑わない』の(再)アニメ化について、原作イラストレーターの緒方剛志氏がお怒りのようです。
https://togetter.com/li/1210951
本件では片方、つまり緒方剛志氏の主張だけが世に出回っているので、部外者であるネット民には真相は分かりません。
しかし、KADOKAWA周りではけものフレンズ騒動、「とある新人漫画家に、本当に起こったコワイ話」騒動と、やたらトラブルが目立つ印象があります。なぜなのでしょうか。
わたしはKADOKAWAの関係者ではないので思いっきり想像で語りますが、こんな感じではないかと思います。
1)KADOKAWA全社的な体質と言うよりは、個々の編集者(担当者)がやらかした問題である
世の中では企業の従業員が何かトラブルを起こすと、あたかもその会社全体の問題であるように語られますが、現実には、トラブルを引き起こすのはたいてい個人(しかもいわゆる「使えない人」)です。
出版業界の場合は特に、作家(漫画家・小説家問わず)と編集者個人の関係で成り立っているところがあり、作家側にも出版社と仕事をしているというよりは担当編集者と仕事をしているという感覚の人が多いのではないかと思います。エロ漫画業界だと編集者が移籍すると担当作家もごっそり移籍するなんてことがままありますが、そういう出版業界独特のやり方によるところが大きいのかなと。
2)KADOKAWAは元々別の出版社であったものを寄せ集めた集団であり、「KADOKAWA」全体としての意識が薄い
参加のブランド一覧( http://ir.kadokawa.co.jp/company/bc.php )を見ていただければ一目瞭然と思うのですが、KADOKAWAは多数のブランドを抱えており、しかも元々各ブランドは別の出版社でした。
そして各ブランドはKADOKAWAの旗のもとに集結したあともそれぞれ従前のように出版活動を続けており、互いに配慮したり連携してなにかしようという意識は皆無であるように見えます。
現在の組織図がどのようになっていて、トップから末端までの意思伝達がどれくらいのスピード感でなされているのかは知ったことではありませんが、全体として風通しが良い企業であるとは傍目には到底思えません。
で、結局のところ何が言いたいかと言うと、ネットで語られがちな「クリエイターvsKADOKAWA」みたいな構図はそもそも存在せず、ネットの皆さんが戦っている相手はKADOKAWAそのものでなく、イメージ悪的な、幻想の「KADOKAWA」であるということです。よって、KADOKAWA最悪だなとネットでいくら声が上がろうが、何にもならないのでは? ということです。
末端社員がトラブルを起こすたびにクリエイターが声を上げて、しばらくして事態が重大だと判断されたときにようやく上層部が動く、そういう鈍重な組織なのではないでしょうか。KADOKAWAって。
個人的にはKADOKAWA自身にこの鈍重な組織体質を改善する気があるように思えないので、KADOKAWAの一部の人がトラブルを起こすたびに「KADOKAWAが悪い! またKADOKAWAか!」ってネットで騒がれる風潮はとうぶん変わらないと思います。
けど、それってめっちゃ不毛なんですよね。「批判は何も産まれない」じゃないですが。
しかしKADOKAWA(の偉い人)は、このままずっとやっていけるとマジで思ってるかなと疑問にはなります。5年後10年後のKADOKAWAがどうなっているかは、野次馬的には見ものですね。
■はじめに。
今のリーフの隆盛を準備した作品が『雫』なのは、『To Heart』から入ったユーザーには理解できない事かもしれない。その理由については後述するけど、筆者が美少女ゲームについて書いたのは、『雫』の紹介記事が最初なので、思い入れも強いし、ある意味で呪縛にもなっていた。そんな筆者が、1998年の最初に買った『雪色のカルテ』は、その呪縛を見事に吹き飛ばしてくれたのだ。まずはここから始めよう。
■雪色のカルテ
『WoRKs DoLL』のTOPCATが、昨年、Peachから発売した作品。3人の患者を診療しながら、診療所を運営するSLG。原画は緒方剛志氏。
最初はポンと投げ出されたような状況で、迷いつつプレイしていた。しかし、過剰さを抑えたキャラクター、台詞、イベントの数々が、散発的ながらも徐々に物語を形作っていく緊張感の虜になってしまった。具体的には、主人公に対し、患者たちが徐々に心を開いていき、医師と患者の関係性が変化していくあたりの展開の上手さだけども、何よりも世界観の徹底ぶりには敬服した。
まず、登場人物全てが、多面性を持っていた事には驚かされた。加えて、投薬などで感情を制御し、それが数値化されてしまうという、人間の限界と悲しさを突いたクールな設定にも惹かれた。『プリンセスメーカー』で、ぬいぐるみを大量に与えて、娘の機嫌をコントロールするという、安永航一郎のまんがのネタにも使われた設定があったが、医師と患者という設定で、それは、普遍的なリアリティを持った訳だ。
このゲームでは、病の本質を「精神的、または肉体的コミュニケーションの欠落」と捉えた上で物語を形成している。そして、シナリオだけでなく、システムやビジュアルなど、全ての要素が有機的に結びついて、完成度の高い作品を作り上げた事には、驚きを越えた衝撃があった。
■いちょうの舞う頃
Typesから発売された、「純愛」をテーマにしたAVG。恋人や家族との関係を軸に、青春の原風景を丁寧に描いた作品である。
『To Heart』という、強烈な爆弾が炸裂した後の、美少女ゲームに於ける恋愛の扱いというか、回答としては、一つは『ホワイトアルバム』のように、恋愛のダークサイドに踏み込んでいくというのがある。ただ、この方法論は、安全な幻想を提供する為に純化されたギャルゲーの流れに逆らっており、自身の属するジャンルの存在意義を否定しかねない、パンクな危うさも孕んでいた。
『いちょう』の場合は、その逆で、過剰な演出をできる限り抑え、細かい日常描写の積み重ねで見せる手法を、更に押し進めた形になっている。この方向性は『To Heart』自体が、TVアニメ化の際に強調している。ただ、物語性よりも、ピュアな感性がものを言う領域であり、むしろ、作り手側の負担は大きくなっている気もする。イージーリスニングというのは、発想としてはさておき、技術的には非常に難しい。
『いちょう~』の洗練されたビジュアルイメージは、この方向性の作品では屈指だ。ただ、個人的には、あまりにも健全明朗な展開には、気恥ずかしさを感じてしまうし、都市圏周縁のベッドタウンという、土着的な要素が少ない舞台設定には、渇きにも似た不安を覚えてしまった。もっとも、中上健次の『枯木灘』のような舞台設定のギャルゲーがあったら怖いし、出る訳もないのだが。
Leafが『To Heart』に続いて、世に送り出したAVG。美少女ゲームのセオリーを覆す、実験的なシナリオが賛否両論を巻き起こした。
かつて、『雫』で描かれた心情は、マイノリティの闇だった。毒電波というメタファーは、思春期の疎外感や、強烈な自意識を揶揄していた。物語である以上、結末に救済=日常への回帰を用意してはいたが。
だからこそ、まだ若かった筆者や、筆者の周辺はこの作品を熱烈に支持していたのだ。そして、『To Heart』は、その闇を潜り抜けた人々の物語だった。でも、それは同時に闇を忘れてしまった人々の物語でもあった。もっとも、思春期という暗黒は、いずれ回収されていくものだし、ユーザーの支持を得た以上、闇を見つめる必要は無くなっていた。美少女ゲームもまた、開かれた場所に向かっており、闇を知らない幸福なユーザーも増えた。
しかし、闇を忘れられなかった人々もいた。そして産み落とされたのが『ホワイトアルバム』だった。確かに売れた。しかし……もはや、毒電波に心情を仮託する事もできず、幸福な妄想の為に仕掛けられた世界にすら、違和感を感じる……荒涼とした場所に取り残されたマイノリティの為の物語が、予定調和とも言える、約束された祝福の世界を描いた『To Heart』の次回作なのだ、ある意味、これほど不幸な作品も無い。
肉体性を見事に排除した「マルチ」という理想の偶像を作り上げた後で、既に、過去の神話に過ぎないアイドルビジネスを、物語の舞台として、肉体性との相克を描いた事が、既に同時代的ではないし、結果的にこの作品のバランスを崩している。
けれども、不完全ゆえに、プリミティヴな負の破壊力を生み出し、まさにロックンロールな、『ホワイトアルバム』の名に恥じぬ作品が出来上がったのだと思う。
丁寧に練り込まれたシナリオのAVGと、明朗明快なRPGという違いはあれど、アリスソフトは1998年も好調にヒット作を出している。
もう一つ、筆者の遺伝子に刻み込まれた作品として『AmbivalenZ~二律背反~』がある。ロマンティックな復讐と因果の物語は筆者を大いに酔わせてくれたが、その流れを汲む『デアボリカ』では、内省的な描写を突き詰め、同じテーマに対しても、異なるアプローチを試みている。理想と現実、純愛とエゴ、といった、二律背反なテーマの相克に対し、複数の回答を用意した(選択の幅を増やした)事で、物語としての奥行きが深まったのは特筆できるだろう。
『ぱすてるチャイム』は、前回も取り上げたし、こちらも良いゲームだけど、説明不足の事柄もあり……例えば、ゲームが進行して、実際に呪文などを覚えて、パラメータの意味がやっと分かるというのは、昔とは異なり、ストイックさとは無縁のユーザーが増え、レベル自体も拡散拡大した状況からユーザーを幅広く取り込むには、少々敷居の高さも感じたのだ。……そう、長い間、最も安定したメーカーであるアリスソフトも、時代との折り合いを考えなくてはならない時期になったのだな、と筆者は痛感したのだった……。
■反省と近況と総括。
前回は某誌で使いそびれた文章をベースに書いたんだけど、これからは、特定のゲームに絞らない状況論の方向で行こうと思います。文体もまだ一定しないしなあ……。それ以前にちゃんと続くのか、これ(笑)。……ところで、筆者は、ギャルゲーの本質は、ストーリーの練り込みによって、キャラクターへの感情移入を高めていくものという認識があるのだけど、声優の起用やグッズ展開の方を前面に押し出す昨今の状況には、正直言って、違和感があるんだよな。まあ、これも、年寄りユーザーの単なる戯言なんだろうけどね~。あ、次回のサブタイトルは、「アンドロイド少女は電気羊の夢なんか見ない」です。BGMは野口五郎『甘い生活』でどうぞ。