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はてなキーワード: 教養小説とは

2019-01-21

フィクションには三つの傾向がある

・こうでした 

ありのまま現実描写していこうとする傾向

別名、現実主義、自然主義

・こうであって欲しい

筆者や読者の願望を反映していこうとする傾向

・こうあるべきだ

願望を越えた1段高い理想描写していこうとする傾向

筆者が読者に諭すような傾向

別名、理想主義、教養小説

これらは、

全体としての傾向と

分部分の傾向にみられる

2018-10-14

アニメ教養である

教養小説」というもの存在する。

教養小説」とは主人公の魂の発展過程を描くものであり、主人公観念体験を通じて発展する過程を描くことを主要目的とする小説的な伝記といえる。

教養小説」は、主人公人生実験をおこなう実験室であり、この理由によって「いか人生を生きるべきか?」ということを教えてくれる。



スクールデイズ」は「浮気は駄目!」って主人公人生を通して教えてくれるから、立派な「教養アニメ」だよね

2018-06-04

anond:20180602000822

ジュブナイルってのは少年期を意味する単語別に成長は必須要素ではないですな。

もちろん少年期と成長という題材が相性が良さそうというのはわかりますけど。

増田が求めてる内面の成長を描いた作品はは教養小説ビルドゥングスロマンと呼ばれますな。

坂本がイキリすぎなのは同意しますな。

2018-02-19

小説"火花"が素晴らしい文学作品である理由

火花出版されてから3年近く経ったようだが、読んでみた。

結果、素晴らしい文学作品だと感じた。その理由文章にしたくなったので、筆をとってみる。

まず、僕が思う"文学"という言葉意味を紹介したい。

文学という言葉は広く使われていて、人によって認識が異なる。

また、文学意味定義認識していないのにも関わらず、「文学香りがしない」などという人がいる。

自分スタンスを明らかにせず、批評するのは誠実ではないと思う。

僕は"僕の文学"を明らかにして、火花を絶賛したい。

僕の文学定義は「個たる人間の根源においてその社会世界宇宙とのつながりを全体的に把握しながら、人間であることの意味認識してゆこうとする言葉作業」だ。

ゲド戦記 影との戦い岩波少年文庫)のあとがきから頂戴した。僕が思う文学を一番的確に表す言葉だ。

この言葉の補足をしよう。

文学に置いて、個人主義思想は最も重要トピックの1つだ。

夏目漱石私の個人主義を読んだ事がない人は読んで欲しい。定義では、「個たる人間」で表現している。

個人主義思想を得た人間社会世界と衝突する。

文学の1ジャンルである教養小説において、それは顕著だ。

教養小説は、簡単にいうと若者社会の壁にぶつかりつつ、自我に目覚め、他者を認め赦していく小説だ。自己形成小説とも言われる。

社会世界とのつながりを全体的に把握」「人間であることの意味認識してゆこうとする言葉作業」とは上記のような事を指している。

宇宙との繋がり」は説明が難しいので、省略する。

"火花"は「個たる人間の根源においてその社会世界宇宙とのつながりを全体的に把握しながら、人間であることの意味認識してゆこうとする言葉作業」にあてはまるだろうか?

答えはYesだ。

実例を出して説明する。

文章文庫火花文庫版が手元にあるので、ページ数はそちらを参考にして欲しい。

・21P

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まりな、欲望に対してまっすぐに全力で生きなあかんねん。

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神谷さんの生きる理由。そして人間である意味を表す言葉だ。

堕落論坂口安吾)では、"生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか"という言葉がある。

神谷さんは"生きよ堕ちよ"を実践した人だ。

社会の通例に囚われず、自己を見つめた人だ。

・60P

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確固たる立脚点を持たぬまま芸人としての自分形成されていく。

その様に自分でも戸惑いつつも、あるいは、これこそが本当の自分なのではないか右往左往するのである

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夏目漱石私の個人主義やそれに関する作品群を思い浮かべた。

火花徳永自己形成物語だと思った。

その自己形成に、神谷さんが深く関係している。

・153P

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神谷さんから僕が学んだことはことは、「自分らしく生きる」という居酒屋の便所に貼ってある様な単純な言葉の、血の通った劇場実践編だった。

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徳永個人主義思想を得た事を示す言葉だと思う。

・155P

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もし、世界漫才師自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。

周りに凄い奴がいっぱいいたから、そいつらがやってないこととか、そいつらの続きとかを俺たちは考えてこれたわけやろ?

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神谷さんの社会世界との繋がりを認識させてくれる言葉だ。

そして、文学的意味での繋がりを感じさせてくれる。

彼は実生活ベースでの繋がりについては、きちんと認識できない人だ。

生活ベースでの繋がりとは、社会ルールなどを差す。

物語後半、神谷さんはジェンダー論を刺激する様な行いをして徳永に怒られる。

火花は、文学的意味人間的だが実社会に馴染めない神谷さんや、芸人社会を中心とした現代日本社会を通して徳永自己形成する物語だ。

ここでいう自己形成とは、神谷認識していた文学的な繋がりと、実社会における繋がりどちらも差す。

現代日本舞台社会と折り合いをつけつつ「自分らしく生きる」事を示してくれた。

そんな価値提供をしてくれる傑作なんだ。

2015-01-02

Natural Color Phantasm Vol.12 『鈴がうたう日~醒めて見る夢の向こうに』

■その1。

 いやー、『ONE輝く季節へ』を、やっとこオールクリアできたので、記念(?)に、『ばらえてぃたくちくす!』を買ってきました。

 「ほう、『鈴がうたう日』番外編か……あ、そういえば、本編、途中で止まったままだよ!」(またか

 ……という訳で、今月は『鈴がうたう日』(以下『すずうた』)です。つーか、新作より、目の前にある積みゲーの数々をクリアしないとな……おかげで、歴史の把握が、かなーりおかしいことになってて、頭の中で文脈が混乱しまくってるよ!

 さて、前半、平凡な日常描写を積み重ね、後半で非日常的な描写へ一気に持っていく構成、その対比と高揚感から特定感情を生み出すという演出手法は、普遍的になりつつある。実際、効果的だけど、最近は、苦痛に感じることもある……。

 そして、前半と後半を繋ぐために、ある種の情緒……ファンタジー要素や少女幻想的な描写を使う作品も多い。また、日常崩壊を匂わせる、詩的な言動や描写を、前半で伏線的に配置しておくパターンもある。

 しかし、『すずうた』の場合は、何故か両方とも欠如しているのだ。前半に配置されるのは、少女幻想を前提とした詩的なラブコメ描写ではなく、あくま少年まんが的なノリで作られたギャグ描写だ。なので、ラブコメという感触は乏しい。むしろ、ノリとしては久世光彦の作るホームドラマだ(『ムー』とか)。

 前半で配置されている非日常的な要素を強いて挙げるならば、物語の発端となる、すずの来訪(登場)なのだろうが、それすらも、簡単に日常へ取り込まれていく。そのことが、後半の展開との落差に、違和感を生み出す遠因となっているようだ。

 ほとんどの美少女ゲームは、恋愛の予備段階と言える状態からスタートする。犬チックな幼なじみが起こしに来たり、変人な先輩と偶然にぶつかったりするが、それらの出会いには、主人公モノローグなどで、恋愛予兆があらかじめ内在する。

 ところが、『すずうた』は、「恋人未満、友達以上」どころか、まるっきり友達感覚描写ばかりが続くので、その予兆が内在しない。そして、恋愛予兆排除された状態から、後半、一気にハード恋愛状態へ流れ込むが、恋愛描写少女幻想がもたらす酩酊感が全くないので、関係性の変化という事態に対し、全くフィルタがかからないのだ。よって、急性アルコール中毒になったような感覚に陥り、あまりにも不条理な災厄が降りかかったような気分になってしまう。これが、先に述べた違和感の正体だと思う。

 さて、その後半に目を向けると、提示されている仕掛けはことごとく、対立する視点が介在し(七海トゥルーにおける紫姉、など)、いわば、理性で言霊暴走を抑えている格好になっている。なので、前半の軽快さとは一転して、重苦しい展開になっている……という対比はあれど、高揚感は生まれない。従って、プレイヤーもまた、流れに乗り切れないまま、物語は終わる。おまけに、どのラストも正直、爽快とは言い難い。しかし、シナリオ手法としては、これは決して悪くない、と思う。

 同じように、イベントで盛り上げるという仕掛けを排除した作品としては、『いちょうの舞う頃』が挙げられる。しかし、『すずうた』の場合は、『いちょう~』ほど明確に排除している訳ではない。むしろ、仕掛け自体積極的に使用しているのだが、問題は、そのほとんどに意図的抑制が働いていることだ。早い話が、ラブコメ物語構成要素に対し、再検証が行われているのだ。

 ラブコメというシステムは、その発生においては、過去歴史から断絶しようとする意志によって成立したものだった。実際、袋小路に入っていた物語に対するカウンターとしては機能を果たしたが、システムの発展に伴い、【オブジェクト嗜好】という、形骸化に陥ってしまった。

 だから、『すずうた』が目標とする場所に到達するためには、言霊抑制し、感傷に流されることを避け、登場人物たちを自律的な選択に導いていく必要があったのだろう。

■その2。

 【お約束】な停滞からの逸脱=ラブコメ定番パターンから進化しかし、それは物語システムを自壊させる行為でもある。その意味で、この問題に最も自覚的だったのは『WhiteAlbum』だったのだが、それ故に、一部のユーザーから生理的嫌悪にも似た反発に遭った。

 物語構成要素の再検証という行為は、作品の質は上げるが、その分、間口を狭くする。ちなみに、某誌によれば、『ア○マゲドン』のプロデューサーが「観客というのは、感動的な音楽さえ流せば満足する豚だ」と言い放ったことで物議を醸したらしいのだが、目標とする対象が多ければ多いほど、低いレベルでの記号化は強まる。水は低きに流れるものでして……。まあ、だからといって、エアロスミス音楽は正解だとしても、出演女優フェラチオの上手さだけで決めるのはどうかと思うがなあ……っと、話を戻そう(笑)

 つまり、【恋愛】というファンタジーをめぐる、物語システムとしての【ラブコメ】が直面している問題に対し、停滞からの逸脱を目指した上で、恋愛関係の可能性を描こうとした場合必然的に、既存パターンにはない微妙感情を描いていくしかない。同時に、それは、類型化された方程式否定していく作業になる。記号イメージに頼ったテキスト作りは許されない上に、記号によるお約束に慣れた(眼鏡っ娘=内気、とか)ユーザーからは反感を買う……正直、茨の道ではある。

 でも、逸脱の手段として、日常においての自律的選択(自力本願)という方向性を追求した作品群の中では、『すずうた』のテキストは、かなりの強度を持っていると思う。

 例えば、『ONE輝く季節へ』の場合は、日常から日常、そして、日常へという流れを持っているが、『すずうた』の場合日常から日常へと繋いでいく。しかし、前半で提示される日常は、後半で提示される現実の上に成り立った、虚構に限りなく近い日々なのだ。そして、その断層から過去の幻影と現在を繋ぐという、もう一つのテーマが浮かび上がってくる。あと、女の子たちの物語への感情移入よりも、日常の脆さを提示されることが優先されているのが、筆者には新鮮だった。まあ、恋愛小説というよりは、教養小説っぽくなった感じもするが……。

 それから、感心したのは、父性母性の扱い方だ。すずシナリオでは、後半、唐突に父親との相克テーマとして浮かび上がるのだが、過剰な行動には至らない。逆に、蛍トゥルーでは、負の母性との相克テーマになるが、これまた、過剰な補完行動には至らない。類型的な受容と和解で解決してしまい、結局、依存から逃れられない作品が目立つ中で、『すずうた』の登場人物たちは、周囲の助けを借りながらも、あくま自律的運命を選択していく。

 他人犠牲も含めた上での自律的な選択は、『WhiteAlbum』の場合もそうだったが、必ずしも許容できるものではないだろう。しかし、偶然と選択の危うい積み重ねの結果である、平凡な日常が脆いように、全員が幸せに笑っていられる優しい世界もまた、脆さを内包しているのだ。

 そして、わずかに残った非日常的な要素(すず)も、全てを無に帰すほどの力を持っている訳ではなく、奇跡=解決にならない。だからコールタールのようにまとわりつく現実から救われることもないし、すずの存在もまた、過去記憶として、日常的に失われていくものの一つとして、現実に組み込まれていく。

 だからこそ、むしろ、哀惜という感情が静かに流れ込んでくるのだけど、美少女ゲームとしてのカタルシスは欠いているのかも知れない。

 しかし、あくま自律的な行動によって、過去の欠損を補填していこうとする、ささやか意志の方が、ゲームを終了し、物語プレイヤー現実に取り込まれた際に、有効機能するのではないだろうか?

 過去日常現実日常を再接続する物語に触れることで、個人の物語再生する……それが、歴史を紡ぐのだと……筆者は思うのだが。

■ちっとも終わらない近況。

 仕事がここに来て、がーっと集中してしまい、一日7時間ファミレスに籠もって、モバイルギアキーボード叩いても、ちっとも終わる気配がないよ……(迷惑)。脈絡不明仕事ばっかしているので、最近は「本業編集者」とは言えなくなってきたですよ……。

 あ、事務所ホームページに、このコラムバックナンバー再録を始めました。とりあえず、昨年分はアップ済。つーか、次回で連載一周年なのか。エロゲーテキスト解釈だけで一年も続けるんじゃないよ、俺。もっとも、結構辛いけど、それなりに面白くなってきたので、もう少し続ける予定です。最初は、もう少し普通(?)のゲームレビューにするつもりだったのに……脱線しすぎ。

2009-11-08

エンタメ小説の書き方を考える(私論・Ver0.2.1)

小説を書こうとしているが、なかなか長編が書けない。

色々、本を読んだり、試したりしているが、難しい。

今までやってきた方法論と考え方をある程度、整理するために、自分の考えを書きながらまとめていこうと思う。

議論はしたくないが(ハイ、チキンです)、ご意見をいただけると嬉しい。

正直、純文学は俺自身よく分かっていないので、エンタメ小説の話という事を前提に読んでいただければ、と思う。

まず、物語パターンに対する有名な言説として、『村上龍の「穴に落ちた主人公が、穴から這い上がる」「 穴に落ちた主人公が、穴の中で野たれ死ぬ」の2つしかない』というのがある。おそらく、これはエンタメ小説の基本形だと思う。「そもそも穴はどうしてできたのか?」「主人公は本当に穴の中にいるのか?」「そもそも主人公はなぜ主人公なのか?」のようなことを延々と逡巡するのが純文学かも知れない(純文学は読まないので、間違っていたらごめんなさい)。純文学は、(面白い/鋭い/ビビットな/より本質的な)問題提起自体が重要であって、それを読者に考えさせることが主題である……様な気がする。ただ、純文学の作者にせよ、物語の基本を踏まえたうえで、あえて外すからサマになるのであろう、とは思うが。

話を元に戻すと、エンタメ小説の基本を俺なりにさらに単純化させると、「主人公が問題を解決するか/しないか」であると思う(以前、増田の「5分で物語を作れるにようになるコツ(p://anond.hatelabo.jp/20091002081424)」が話題になっていたが、この増田の考え方はそれほど間違っていないと思う)。ただし、エンタメ小説は、エンターテイメントである以上、読者を楽しませなければいけない。問題が解決するにせよ、しないにせよ、きちんと納得の行くオチにすべきであろう。そうしないと、読者は満足感を得られないだろうし、満足度が低い店に行かなくなるように、ファンもまた離れていくと思う。

もちろん、将来のファン離れを心配する前に、やる事があるのではないのか?というのはごもっともな意見だと思うが、やはり、自分でも読んでいて面白い物語を書きたいし、途中まで書いていて、自分でも面白くないなあ、と思った事がたびたびあるのでその辺を考えていきたい。

では、面白さとは何か、という話になる訳だが、「主人公が問題を解決するか/しないか」に絞って下に挙げてみよう。

(1)基本的に、読者は「主人公が問題を解決するか/しないか」分からないから、ハラハラドキドキする。サスペンス性(→suspense 不安感。特に、映画小説などで、観客や読者が危機的な場面にはらはらする感情)。あるいは、大抵のエンタメ小説の場合、「主人公が問題を解決してしまう(読者も基本的には楽しむために読むので、ハッピーエンドも望んでいるはず)」ので、どのように解決するのかという点が重要

(2)問題設定の面白さ(舞台設定/キャラクター設定/問題の大きさと主人公の能力バランスなど)。”奇(変わっている事)”であり、”妙(巧妙さ。全体のバランスも含めた緻密な設定)”なほど、評価が高いのではないか?ジャンルSFミステリの場合、いかに凝った問題設定と解法を用意するかがキモになると思われる。ただし、あまりにもぶっ飛びすぎていると、読者が感情移入できなくなる問題も発生するような。

(3)間口の広い感情移入の仕組み。感情移入できない主人公の小説というのは、エンタメ小説の”てい”をなしていないのではないだろうか。主人公に感情移入出来なければ、他人事と捉えられてしまい、熱中して読んでもらえなくなる。想定している読者になんらかの”共感”を持たせるような主人公を用意すべきではないだろうか?(例えば、何らかのコンプレックスを持たせる)

(4)展開のドラマチック性。(1)の”サスペンス性”にもつながってくる話だが、「読者が想定している期待度を超えるという意味で、予想を裏切る」展開が重要になるのではないか。展開が二転三転して、劇的な勝利(問題解決)をするというのが理想かも知れない。もちろん、より読者にドラマにのめり込んでもらうためには、(3)の”間口の広い感情移入の仕組み”が必要でないかと思われる。

(5)主人公の精神的成長によるカタルシス

つまり、教養小説ビルドゥングスロマン)的側面。通過儀礼イニシエーション)としての小説。これこれこういう理由で、彼は”強く””大人に”なったのさ、というお話としてのエンタメ小説

また、面白さとは何か、を追求していくと、以下のような視点も考えられはしないだろうか?

(1)読者の想像力を喚起させる事

例えば、文章レベルで言えば、情景が浮かんでくること。読者に、痛み/恥ずかしさ/快感などの感覚を想起させ、リアリティを持って受け止めさせ、疑似体験させる事。”体験的なもの”として、読者に受け取ってもらえるか。文脈レベルで言えば、展開の読めない”不安”感、手に汗を握る”緊張”感、問題解決による”達成”感などを過去の展開の蓄積により実現しているか?

(2)読者の欲望を刺激する事

例えば、女の子の描画。ポルノでも萌えでも女の子かわいらしさをどういう風に表現し、読者の想像力を喚起させるか。あるいは、食べ物の描画。うまそうな食べ物をうまそうに(文章で)描画できるか。カッコイ戦闘機をどう格好良く(文章で)描画できるか。外には、ファッションなど。粋なファッションを粋に表現できるか。読者が関心がある事柄に対して、いかに”幻想”を抱かせ、”欲望”を感じさせるか、という点。

(3)教養としての側面

さりげなく、”うんちく”を混ぜる。例えば、中世ファンタジー物だったら、朝食は貴族しか取れなかった事を説明しながら、朝食を要求する元貴族商人の心理を読者に想像させるなど(ライトノベル狼と香辛料」にそんなネタがあったはず)。個人的には、少々苦手。資料用に読んだ本で気に入った設定はメモっておくなどしているのだろうか?

(4)虚構と現実の境界性

例えば、伝奇ものの面白さ。現実の実在の人物(や場所?)がファンタジーで出てくるというハイブリット感。あるいは、2chのどこまでネタか分からない感というか。

(5)比喩表現の面白さ

暗喩と直喩。村上春樹は独特の比喩表現で有名になった訳だが。(1)の”読者の想像力を喚起させる事”や(2)の”読者の欲望を刺激する事”に密接に関わってくる。例えば、「彼女の組んだ腕の上には双丘が気持ちよさそうに並んでいる」の様な表現などはどうだろうか。

(6)気の利いた会話

最近流行りの会話劇だが、コント漫才ネット上のやりとりなど、トレンドの文脈をある程度押さえつつも(気に入ったネタストックしておくべきか)、表面だけの真似に留まらないために、自分言葉による体験的要素も問われるのではないか。

(7)説得力のある説教

ガンダム富野氏の説教くらいに説得力がありつつ、面白い説教するためには、独自の価値観を持っている必要がある。大抵の人は人生経験を積めば、それなりの一言を持っているはず。一人の人間としての成熟性が問われる、のかも知れない。

(8)笑いの要素

ギャグユーモアパロディ言葉遊びなど。個人的に苦手な要素である。自分の場合は、どうも野暮ったくなってしまう。センスや基礎教養が問われるからかも知れない。とにかく面白いと思う話を大量に読み、小話を書いたりして、自分にあったやり方を発見するしかないのではないか。自分の場合は、実にどうでも良い事を真剣に議論していく話がウケが良いようだ。

(9)恐怖の要素

笑いと恐怖は近いものがある、と言われている。(8)の”笑いの要素”がうまく書ける人は、恐怖もうまく書けるのではないか。これも個人的には苦手な要素だ。ホラー映画も苦手だし。単に読者のトラウマを刺激しても、嫌われるだけだろうし……。ただ、最近トレンドにはこの要素が絡んでくる作品も多いのではないか。また、サスペンス性を上げるという面でも重要な要素であろう(ジェットコースターのようなスリル快感の関係というか)。それから、演出技法としては(1)の”読者の想像力を喚起させる事”と関連性が高いと思う。スティーブン・キングなどを読んで勉強すべきかも。

(10)恋愛的な要素

いわゆる一つの萌え要素、と言う訳でもないが(ほら、スベった)、自分の中にある理想ヒロイン像を具現化して駆け引き思考実験するという意味では、裸になって踊るようなものだと思う。慣れれば快感になるのかも知れない。ただ、個人的には最近食傷気味。

(11)バイオレンス

闘争本能を刺激する要素。”読者の想像力を喚起”させ、重みのあるリアリティとして受け取ってもらえないと、単なる茶番になるような気がする。

……ひたすら要素を羅列してきたが、要するに、”読者の感情や価値観を揺さぶる”という点が重要なのかも知れない、と思った。

(文字による心理操作によって衝撃を与える、という意味では、詐欺師に近いものがあるというか。嘘をつくのがうまい人間お話を作るのが上手、というのも頷ける。本来、エンターテイナーというのはそういうものなのかも知れないが。ヤクザ業界というか。現在最強の任天堂さえ。というか、任天堂こそが勝つべくして勝っている”名博打打ち”なのではないか。そもそも、経営という概念自体が(ry

あと、話題になっている、うまい=面白いでない、という件について。

これに関しては、下のWeb引用本質に近いかも知れない。

テクニックは描いた量に比例する(作品の)魅力は考えた量に比例する



物語の中だるみについて。

Webより引用タイトルは、「物語の推進力」。

途中からなんだか間延びしている、なんだか乗れない、と感じたとき、物語の推進力が低下している。

主人公を追い込んだり、障害を増幅したりして、推進力を高める必要がある。すなわち障害やクリア条件を上げていくのである。

主人公は最後のゴールに簡単に到達してはいけない。ハードルが最初よりも下がってはいけない。敵が最初よりも弱くなってはいけない。

考えてみれば、続刊の出ない、あの小説やあの小説も、すでに、主人公を危機に陥れる「強い敵(難しい問題)」が取り除かれてしまったのではないか。あとは、シミュレーションゲームの終盤局面のように力押しで何とかなる状態というか。主人公がリアルに死ぬ/臨死体験するくらいの危機が常にある状態で、最後の最後で、”おおかた”の問題が片付くのが理想かも知れない。

文章力の磨き方。

基本かも知れないが、自分の好きな作家の文章を写す(タイプする)。良さが理解できない作家の文章を写しても多分、意味は無いと思う。文章を写すだけのヒマがない場合は、ラインを引きながら読むだけでも違うような気がした。逆に思ったのだが、好きな作家の文章をラインを引きながら読んでいると、作者の認識力の限界を見切る事がたまにある(例えば、そもそもの問題設定の矛盾とか、作者のルーツ(根源)はどこにあるとか)。その辺が大切なのではないか。また、好きな作家は最低二回読むべきかも知れない。

(Webより引用

正しく見るためには二度見よ。

美しく見るためには一度しか見るな。



努力不足について。Webより引用

スクラップビルドの不足。

実は、優れたツリーの裏側に何十枚もの「デッサン」がある。

書いちゃ捨て、拾っては直しのスクラップビルドが必要なんだが、

フツーの指南本はそこを省く。本書には「デッサン」の線が沢山見えてくる。

ダウンタウンコントの作り方。

まずはオーソドックスネタを考える、と。

例えば医者コントってテーマを決めたら、オーソドックス医者コントを、だーっと全部考える。

それだけでも充分おもしろいっていうネタにしておきつつ、更に松本がやった作業って言うのは、 部分部分で、どれだけ予想できる笑いを裏切るかって作業。確かにこれでもおもしろいけど、ここはこうやったらもっとおもしろい、こうやったらもっと裏切ってる…そういうのを延々繰り返していって、どれが一番ベスト裏切りかなぁってことを積み上げて、ネタを磨き上げていくんだって。

例えば、小説創作手法にシミュレーション的手法を取り入れるということなのかも知れない。つまり、何回も思考実験を繰り返して、ドラマチックな展開のものだけを商品化する、という考え方。確かに、小説は元々、思考実験的な物を含んでいると思う。

その他。

ハッカー的に小説を書くとするとどうなるか。

「最初からフルスクラッチすると、効率が悪すぎる(1から作るのは大変であり、ベーマガプログラムを改造しながらプログラミングを覚えていったように、まず改造する)」「問題を小さく切り刻む」「リファクタリング」的な要素を考えると、二次創作のSSをとにかく大量に書き、慣れてきたら、規模を増大させていく、徐々に設定も作り込んでいく、の様な方向になるのではないか。

まだよく分かっていない事。

あかほりさとる新書に、「見たいシーンを書け」と書いてあったが、全く別のWeb上の指摘で、「最近ドラマは、脚本家が見たいシーンだけ繋げていった感じで、物語的な山場や整合性が軽視されているのではないか?」のようなものがあった。その辺の解決法。

次に、再読に耐える小説とはどういう小説か、という問題。

文章の勉強以外であまり再読をした事がないので、よく分からない。

最後に、まだ消化できていない、村上春樹言葉

何かを創り出そうというタイプ人間には多かれ少なかれ、精神的な「欠損」があります。

その欠損を埋めようとするところから、何かをクリエイトしたいという欲望や欲求が生まれてくることが多いのです。

もちろんそれだけじゃないけど、そういうケースはしばしば見受けられます。

問題はその欠損をどこまで「普遍的なもの」にまで高めていけるかということだと思うんです。

中にはその欠損の欠損性にいつまでも拘泥しているという人もいます。

それでは本当の芸術にはなりませんよね。そのためには、人はもっと広く世界を見なくてはなりません。

 人生は長期戦ですから、ゆっくりとしっかり息をしながら、前に進んでいってください。



まとまらないけど、以上。

補足。

(1)確かに、とりあえず、稚拙でも一作書き上げるという考えもありかも知れない。試してみるか……。

(2)色々本の紹介、ありがとうございます。

(3)Webからの引用元を書かないのに、他意はありません。面白いと思った文章は個人的にスクラップしているのですが(ローカルメモ帳コピペするだけ、のようなもの)、URLまでは保存していませんでした。申し訳ないです。

(4)確かに、あるパターンの繰り返しや場面転換の組み合わせというのは、あまり考えた事がなかったですね。なるほど。……少し見通しが立った感じです。ミクロレベルマクロレベルの視点を重視しすぎて、中規模レベルパターン認識がうまくいっていなかったようです。皆さん、ご意見ありがとうございました。(さらに追記すると、これは上に書いたあかほりさとる新書の話にも繋がってきますね。それなりに問題意識を持っていたけれど、もう一押し足りませんでしたね>自分

2007-12-23

"'53年公開映画シェーン」の著作権消滅が決定" の報で思い出した事

 記事で問題になっているのは著作権だが、それには触れない。

 歴史法則性について。

 但し、プロレタリア革命ブルジョワ革命が完遂した後に起こる、或いは現在自由主義歴史の終焉であると言った話題は、手に余る。

 同じ20世紀で、しかも大衆芸能について、一定レベル以上の成熟と大衆性を獲得した(だから、純文学前衛藝術を除く)ジャンルでは似たような進化を辿るのではないか、という話。

>>最後に取り上げる例は、ジョージスティーブンスの古典西部劇シェーン』である。周知のごとく、西部劇というジャンルは四〇年代の終わりに最初の深刻な危機を迎えた。純粋で単純な西部劇は、いかにも作り物で単純な繰り返しだ、という印象を与えるようになった。西部劇の公式は使い尽くされたようにみえた。作家たちは、他のジャンルの要素を西部劇に盛り込むことによって、この危機に対処した。かくして出来上がったのが、フィルム・ノワール西部劇ラオール・ウォルシュ『追跡』。この映画は、フィルム・ノワールの暗い世界西部劇移植するというほとんど不可能な仕事をなしとげた)、ミュージカルコメディ西部劇(『略奪された七人の花嫁』)、心理的西部劇グレゴリー・ペックの『ガン・ファイター』)、歴史叙事的西部劇(『シマロン』のリメイク)などである。一九五〇年代に、アンドレ・バザンはこの新しい「反省的」ジャンルメタ西部劇と命名した。

 この「メタ西部劇」は『西部劇』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/西部劇そのもの/である。いいかえると、この映画は、西部劇世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだ西部劇である。『シェーン』が生み出す効果を説明するには、ふたたび視界の機能に言及しなければならない。つまり、常識的なレベルに留まっているかぎり、すなわち視線という次元を導入しないかぎり、単純で理解できる問いが生じる──もしこの西部劇の「メタ」の次元西部劇だとしたら、二つのレベルの間の距離はどう説明されるのか。どうしてメタ西部劇西部劇そのものとぴったり重ならないのか。どうして純粋で単純な西部劇はできないのか。答えはこうだ──構造的必然性によって、『シェーン』はメタ西部劇コンテクストに属している。<<

スラヴォイ・ジジェク著 鈴木晶訳 斜めから見る。青土社 P121

 猫も杓子もジジュクを使いまわしている昨近、またか!と思われる方も多いだろう。またか、である。

 アンドレ・バザンの≪超西部劇≫(sur-western)は、時間=歴史的な対象、一九四〇年前後古典主義に対する一九四四年以後の「進化した」西部劇を指し示す。対して、ジジュク≪メタ西部劇≫は、空間=図式的な観念である。それは「メタ」の次元とそれ以外の次元からなる「二段の棚」であり、話を進める上で好都合だったので、持ってきた。

 日本の場合、過去の例で思い当たるのは、時代劇だが、最近では、何といっても、ロボットアニメかな、と。(時代劇については、ここでは触れない)

 名前はいちいち挙げないが、歴史叙事的ロボットアニメ西部劇では実際の過去の出来事だが、ロボットがポピュラーな時代は未だ来ないので、未来、或いは仮想世界舞台になる戦記物)、コメディロボットアニメ、(破綻も含む)教養小説ロボットアニメファンタジーロボットアニメ、ラブストリー的ロボットアニメ、その他、いろいろ。

 では、”その「ロボットアニメ」は『ロボットアニメ』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/ロボットアニメそのもの/であるような作品、ロボットアニメ世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだロボットアニメ”、西部劇で言えば「シェーン」に該当するロボットアニメ存在するだろうか?

 
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