はてなキーワード: 森達也とは
最近「被害者や弱者はみんなが思ってるようなのじゃないんだぜ!」みたいなのが流行ってるから、もう一つ。
こんな恐ろしいひどい事件、赤の他人である自分達ですら加害者が憎くて堪らないのに、被害者はきっと想像を絶するほど加害者が憎くて、苦しめて苦しめて殺したいに違いない!被害者に刑を決めさせればいい!
そう思いがちだ。
たとえ重犯罪でも。
それは、汝の敵を愛せよという精神ではない。
一番有名なのはストックホルム症候群だ
誘拐や監禁などにより拘束下にある被害者が、加害者と時間や場所を共有することによって、加害者に好意や共感、さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象。
解放後に犯人をかばう証言を行う者や犯人に恋愛感情を抱く者までいるという。
逃げられない状況下では、犯人を好きになるしかない。また、犯人の優しさや人間味に惹かれてしまう。
虐待すればするほど子供は親を慕うものになると小山晃弘も言っていた
酷い毒親、虐待親でも慕う子供は山ほどいる。大人になっても洗脳が解けないことはザラにある。自分の親が毒親だなんて認めたくないことだから。
家庭という閉鎖的な空間で虐待に晒されているとそれが普通だと錯覚する。親との温かい思い出もある。親の機嫌をとるため、親のことを好きになる。虐待を受けても、自分が悪い子だからだと思い込む。
大事にされるのに慣れなくて、優しい養親に反発したり、殴るパートナーを選んでしまったり、自分の子に同じことを繰り返したりもする
性的虐待も同じ。
性的虐待を受けても父親を嫌いになれない、あれを除けばいい父親だと言う少女や女性は少なくない。
自分から求めてしまった、快感を感じてしまったという体験談も…それが罪悪感を植え付ける
自分の中のダメージを少なくするために、なかったことにしようとして被害後も加害者に普通に接したり、あろうことが加害者に好意を持ってしまう人もいる
レイプから始まる恋は実際ある、と小山晃弘も言っていた。まぁ関係ない人のコラ画像を使ったりしていて悪質だが。
「学生時代痴漢にあって、最初怖かったけど快感に目覚めてしまった」と語る裏垢もあるし、それを見て勘違いしてしまう痴漢野郎もいる。
ストックホルム症候群と同じく、ダメージを少なくするための防衛機能なのだろう
加害者に好意を抱いたり、快感を感じたりはしなくても、加害者を憎まず「自分が悪いからだ」と自分を責めて終わってしまう人もいる。
「他人のことならあなたは悪くないと言えるが、自分の被害に対しては自分が悪いのだと思ってしまう」と語る性被害者は少なくない
ネットでは「いじめたやつ許せない!」的な声ばかりが大きいが、「いじめられたのは自分が悪いのだ」と結論付ける被害者は少なくない。
昔リア中の時に朝日中学生ウィークリーを読んでいたが、いじめ相談的な投書欄に「いじめられる方にも原因がある」的なのが殺到した時期があった。しかも、「いじめられた自分はこうやって乗り越えた。だからいじめられる方も変わるべきだ」的な投書もあった。
「いじめた子に謝って今では親友です」「いじめてきた子に自分も不愉快にさせたと謝って今では親友です」的な体験談を複数見た。
そこに、ストックホルム症候群的な心理はないといえるのか。
いじめられっ子を助けたら、そのせいで自分がいじめのターゲットになり、あろうことが助けられたいじめられっ子がいじめる側に回る
「鬼」とかいう話題の漫画でもあったよくあるケースだけど、これもいじめられっ子がいじめっ子を憎んでないからだと言える。憎んでないから媚びるし、一緒に恩人をいじめる
体罰もそう。
「悪い自分を殴ってくれた先生に感謝してる。体罰は必要だ」と語る大人は少なくない。
「言うこと聞かない奴は殴る。殴った子ほど後に慕ってくれる」とのたまった顧問もいた
意外なことかもしれないが、加害者を憎むより、自分が悪いと思う方が楽なのだ。憎むのはエネルギーが要る上に、被害は自己肯定感を失わせ、自責に向かわせる。
更に問題なのが、「被害に遭った自分が悪いのだ」を他人にも押し付ける奴がいることだ
山口達也に襲われた女子高生をセカンドレイプしてた女性達のうち何人かが「私は電車で痴漢されたことがあるけど自分が悪いと反省したのに」「セクハラでキスなんて私もされる。よくあること」と言っていた。
「私はレイプされても我慢したんだから、痴漢くらいで訴えるなんて甘えてる」
「いじめられる方にも原因がある。自分がいじめられて変わったようにお前も変われ」
「俺の時代は体罰は当たり前だった。体罰が禁じられて甘えたガキが増えてる」
「今はなんでも毒親毒親と。私は暴力アル中etcの親にも感謝してるのに」
「今の女は甘えてるのよ。私は夫に殴られても我慢して尽くしたわ」
これ、全部見た。
人は自分の身に起こった事(幸福でも不幸でも)に理由付けをしたがる。
普通の人でも不幸が連続して降りかかった時に「俺は前世で悪いことをしたのか」と溢してしまう。
「あなたが受けた虐待はあなたが前世で悪いことをしたからです。あなたがその体験をしたいと選んだのです」的なスピには、意外と虐待の被害者がハマってしまう。自分の受けた不幸に理由付けをしてくれるからだろう
殺人事件の被害者遺族なら犯人を憎みまくるはずだって?それが、そうでもない。
「心にナイフを忍ばせて」という、酒鬼薔薇事件の被害者遺族を追った本(ブコメ見たので訂正。そっくりな別の事件の被害者遺族を追った本)では、加害者に対して被害者遺族が同情的なコメントをするシーンがある
また、死刑賛成派のルポルタージュでは、死刑囚が被害者の兄と手紙で交流し、被害者の兄が「彼を死刑にしないでください」と頼み込むエピソードがあった
死刑反対派の森達也氏も、死刑を望まない遺族は意外と多いと言っていた。遺族と言っても生前の被害者と良い関係とは限らないが…
断っておくが、被害者に原因があるとか被害は大したことないとか言いたいわけではない
むしろ、だからこそ虐待もいじめも体罰も性犯罪もDVも殺人も、許されないし痛ましいのだ。
もちろん、全ての被害者が憎まないわけではない
加害者が憎くて堪らない、殺したい、そんな人の方が自然だろう。
だが、加害者を憎まない、憎むことすらできない被害者は「意外と」いる。
そして、被害者は加害者の代わりに自分の味方や同志を憎むことがある。
虐待を受けても親を慕う子供は、親から引き離そうとする大人を憎むだろう
発展途上国だかで性的虐待、児童買春の被害に遭っていた女の子が保護された後、不自由に耐えきれず何度も施設から逃げ出して売春しようとしたって、その人の人生を綴った本に書いてあった。きっと、施設に連れ戻し不自由な生活を強いる保護してくれた大人を憎んだのではなかろうか。
前に「九州の田舎に嫁いだ語り手がレイプ未遂に遭って、姑に『みんなあの男に足入れされて我慢してるんだから』と説得されるも振り切って被害届を出したら、『未遂のくせにズルい』と被害を受けた女性達から嫌がらせされるようになった」という地獄みたいな話を読んだ。
レイプ男には仕方ないと諦めて立ち向かわないが、「被害を我慢しない裏切り者」は憎み、嫌がらせする。
とんでもない毒親だと思ったが、加害者よりも、弱い立場であり目の前にいる子供を責める方が楽だからだろう。
子供の被害=自分の被害のように感じてしまい、でも子供は自分の思い通りにはならない別個体なので、「自分が辛い目に遭ったのは子供のせいだ」という風になってしまうのだろう
ナチス政権下では、ユダヤ人を虐げる中にはユダヤ人もいた。他のユダヤ人と違って特別扱いをされていた。
そんなユダヤ人も、しまいには他のユダヤ人と同じように殺された。
ユダヤ人自身からも、「ユダヤ人が虐げられたのは自業自得」という意見は出ていたのだ
彼らは「あなたはいいユダヤ人だ」と褒められていたのだろう。そして、「他の悪いユダヤ人がいるから私達ユダヤ人は差別されるんだ。本当に迷惑だ。許せない」と思っていたに違いない
よく「被害者が叩くのはわかるけど第三者が口を出すのはよくない!」と言われたりする
だが、私は明らかな加害があれば第三者こそ叩くべきだと思う。何故なら散々述べたように、被害者は被害者だからこそ、意外と加害者を憎まないからだ
第三者が「それはおかしい」と言う事で、被害者も「そうかこれはおかしいんだ。おかしいと思っていいんだ」と目覚める事は多い。虐待でもいじめでもハラスメントでも。
って書くつもりだったが忘れていた
追記2
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20220520/k00/00m/040/081000c
これね、これ。
これこれこれ。
上皇の小説書いたら規制されたってニュースで、ブクマカ共はそもそも実在人物をネタに創作するのは駄目だろって、ブクマカ共は言ってるわけですよ。
色々論点はあるわけですけどぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
誰とはいいませんけど、上皇のアイコンで有名なブクマカっていましたよね???
はてなブックマークを使ってるなら…ご存じですよね?
ね?
ね?
おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
俺だよ俺!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
baikoku_senseiだYO!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
いや、別にいいんだけどね
それより、ついにセックスが非建設的ワードに入っちゃったみたいな的なビフテキな?
「童貞をプロデュース」の件、もう勝負はついている。松江の自爆でおしまい。そもそも自業自得だが。
でも松江がまだウジウジ言ってる。被害者もまだ温情があるのか、訴えれば勝てるはずなのにそれをしない。
このハッキリとしたオチがついていない状態にイラだっている人達がいる。
正義感を過熱させ、勝ち馬に乗っている高揚感も加え、ジャスティスエンジンをブオンブオン唸らせてる。
当初は純粋に善意からであっても、この状態になると、視野は狭まる。
我こそは正しい、誰よりも冷静だ。そう言いながら自分と同調しない、自分の答えと違うものを見つけては、この外道と叩きはじめるのな。
2017/06/26
2016年12月20日、日本のテレビ東京系のテレビ番組「開運!なんでも探偵団」で「衝撃的なニュース」が報じられた。番組始まって以来最大の発見として、世界で4個目となる中国宋時代の陶器「曜変天目茶碗」が発見されたというのだ。番組の中で、日本の著名な美術鑑定家の中島誠之助氏は、「12~13世紀の中国南宋時代に福建省の建窯で焼かれた『曜変天目』に間違いない」と述べ、2500万円の価値があるとした。
「曜変天目茶碗」は中国の宋時代に作られ、その窯は建窯と呼ばれた(歴史的には建陽窯とも呼ばれる)。現在の福建省南平市建陽区水吉鎮にある。この茶碗は釉薬が焼成の過程で流れ落ちて厚く溜まり、一部は凝集して滴を作る。この滴の周囲で特殊な窯変反応が起き、七色に輝く光彩を生じる。その輝きはまるで夢幻かあるいは変化する気象のようで、色鮮やかな霞をまとっており、神秘の小宇宙に輝く星空のようだ。この種の茶碗が焼けるのは極めてまれな偶然によるもので、一説には窯変過程でこのような効果が生じるのは数百万個に一個ほどと言われる。現在世界に存在する完全な「曜変天目茶碗」はわずか3個で、東京の静嘉堂文庫、京都の大徳寺龍光院、大阪の藤田美術館が所蔵し、すべて日本の「国宝」に指定されている。中国には現在「曜変天目茶碗」の陶片が1点あるのみだ。
天目茶碗は宋代に制作され、その生産は元時代の初期まで続いたが、以後は二度と作られていない。中国では明や清の時代に曜変の再現が試みられたが成功しなかった。日本では江戸時代から再現が試みられており、美濃や瀬戸で「白天目」などは生産されたものの、「曜変天目茶碗」の再現には至らなかった。1974年、日本の化学者安藤堅は48歳で、それまで定収入が得られていた仕事を辞め、高級住宅も売却して「曜変天目茶碗」を再現するための研究を始めた。彼は貧困の中で困難な研究を続け、ついに1977年に古代の「曜変天目茶碗」に似た最初の作品を焼くことに成功した。安藤に続いて、日本の陶芸家の林恭助、桶谷寧、長江惣吉や中国の人間国宝(国家級非物質文化遺産建窯代表性伝承人)である孫建興らが曜変に似た作品を作っている。
番組の放送後、徳島県教育委員会はこの茶碗を県文化財に指定するための調査を計画した。
しかしここで、日本の陶芸家や専門の研究者から「曜変天目茶碗である」という番組の鑑定に対して疑問が投げかけられた。愛知県で古くからの窯が多い瀬戸市に住む陶芸家の長江惣吉氏は家業の陶工を継ぐ9代目で、父親の曜変天目研究を継承している。彼は父の業績を引き継ぎ、「曜変天目茶碗」の再現に一定の成功を収めた。1996年以来、中国を28回も訪れて建窯の研究を行っている。中国では中国科学院上海珪酸塩研究所と連携して陶磁器の国際研究会にも参加し、中国の陶磁専門家に友人も多い。中国古陶磁の再現についても意見交換を行っている。その長江氏が番組に異議を唱えたのだ。彼はインターネットで、福建省周辺で作られた「曜変天目茶碗」の複製品を購入し、これが番組の認定した「曜変天目」と出所が同じだと考えている。
「この茶碗には顔料(スピネル顔料)が使われています。この顔料はヨーロッパで18世紀に発明されたもので、曜変天目が作られた宋代(12~13世紀)には存在しません。ですから、こういった顔料が宋代の茶碗に使われることはありえません。この顔料の主な成分は、化学的に製造されたコバルト、クロム、セレン、カドミウムです。これらの元素が多く含まれていれば、例の茶碗を分析すれば各々の顔料部分からこれらを検出できるはずです。これらの元素は完全に天然原料から作られた当時の建盞には全く含まれません。仮にこれらの元素が天然原料に不純物として含まれていたとしても、その量は 0.01% 程度にしかなりません」
「曜変の光彩はオパールのように、見る角度が変わると光彩も変化します。非常に美しく、人を魅了するものです」
「いわゆる「曜変」という言葉の意味は、輝きが変化するということです。(長江氏がネットで購入した茶碗を示しながら)しかしこの茶碗は、単に青・緑・赤の顔料が発色しているだけです。この種の茶碗の場合、釉薬の成分(リン酸)の関係で、顔料釉と白濁釉にわずかな光彩が出るのみです。曜変の明るい光彩とは比べ物になりません。私がネットで買った茶碗を番組の茶碗と比べると、赤色の内側部分がよりはっきりしていて白い部分はありませんが、これは顔料で描くときの方法の違いや白濁釉と顔料の濃淡の違いによるもので、実際のところはどちらも同じですよね?」
長江さんは後で筆者に述べた。
「あの茶碗は中国の福建ではどこでも見られる商品です。「曜変天目茶碗」に似ていると言う人もいるかもしれませんが、これは偽物として作られた物ではなくただの商品で、非常に安い値段で売られています。番組の中でテレビ東京はあの茶碗を宋代に作られた「曜変天目茶碗」だと説明しましたが、これは「鹿を指して馬だと言う」ようなものでしかありません。」
中国陶磁史と中国陶磁考古学の分野で世界的な影響を持つ権威である沖縄県立芸術大学教授の森達也氏も、筆者の取材に対してこう述べた。
筆者がその理由を尋ねると、森達也氏は以下のように述べた。
「1. 日本国内には3個の「曜変天目茶碗」があります。私は杭州で出土した「曜変天目茶碗」の破片も手に取って見たことがあります。「曜変天目茶碗」の外側にはテレビ東京の番組の茶碗のようなはっきりした模様はありません。
2. テレビ東京の番組の茶碗に見られる模様は雲のようですが、これは曜変天目の模様とは全く異なります。本物の「曜変天目茶碗」の模様は白くて丸い斑紋で、その周囲には虹のような色鮮やかな光芒が出ています。
3. テレビ東京の番組で鑑定された「曜変天目茶碗」には、茶碗の底に「供御」という二文字があります。確かに建窯の窯跡では「供御」と書かれた陶片が見つかっていますが、割れていない完全な陶磁器でこの二文字が刻まれたものは世界中で一つも見つかっていません。模倣品でこの二文字を刻んだものは数多く存在します。テレビ東京の茶碗は本物の「曜変天目茶碗」とは全く異なるものですが、最近中国で流行している模倣品とは非常によく似ています。」
「テレビ番組としては劇場的な効果さえあればよく、科学的な研究は要らないのです。あの茶碗が日本の3点の国宝と同じであるなどというのはナンセンスな話ですが、陶磁器科学の研究を行っている人々からすればこれは非常に残念なことです。」
この論争は中国にも広がっている。中華陶磁芸術設計大師の資格を持ち、国家級非物質文化遺産建窯代表性伝承人(日本の人間国宝に相当する)でもある建窯陶磁研究所所長の孫建興氏は、「曜変天目茶碗」を再現し建窯を再び曜変の産地とする事業に40年にわたって取り組んでいる。彼はこれまでに黒釉の天目茶碗や黄(赤・青・金・銀)などの兎毫盞、異毫盞、虹彩(金縷、白点)、鷓鴣斑、鐵銹斑、毫変、国宝油滴、金(銀、虹彩)油滴、黄天目、蓼冷汁、灰被、玳瑁、柿紅、虹彩、金(銀)彩文字、木葉、窯変、曜変天目などの一連の作品を作ってきた。彼が長江惣吉氏に送ったメールで、彼は述べている。
「これは曜変の偽物で、現代に焼かれたものです」
筆者も電話で孫氏と長時間話をした。彼は筆者にこのように述べた。
「テレビ東京で放送された茶碗はせいぜい数年前に作られたものです。」
新聞や雑誌で真贋論争が過熱した後、この「曜変天目茶碗」の所有者は茶碗を奈良大学文学部文化財学科教授の魚島純一氏に渡し、分析を依頼した。魚島教授は蛍光X線装置を用いて茶碗表面の色の部分を分析した。
魚島教授は物質に含まれている元素を検出できる蛍光X線分析装置で、茶碗表面の各色にX線を照射して元素の種類と量を測定した。その結果、アルミニウムなど10種類の元素を検出したが、化学顔料に使われる元素については発色に影響しないほどわずかな量しか検出されなかった。
魚島教授は述べている。
「X線分析の結果、表面のどの色の部分かによらず、検出成分はほぼ同じであった。このことから、茶碗に使われている釉薬は1種類であると考えられ、この分析結果からは茶碗が偽物であることは断定できない。」(《德島新聞》,2017年2月28日)
一方、長江氏は筆者に対して次のように述べた。
「魚島教授は、釉薬の発色に影響するだけの量が検出されなかったため、判断ができないと言っている。であれば、魚島氏は最低限どれだけの量が含まれていれば発色に影響するのかを具体的に言った上で、分析の結果その最低量を下回っていたことを示さなければならない。しかし、魚島教授のデータには下限値の数値も書かれていないし、彼が分析で得た数値も書かれていない。よって彼の判断には根拠がない。」
日本の複数のメディアの報道によれば、その後、茶碗の所有者から茶碗についての資料が提供されないため、徳島県は文化財指定のための調査を中止した。
私自身、「開運!なんでも鑑定団」は好きな番組だ。自分も中国の古陶磁を蒐集しており、骨董の鑑定について10年近く独学で学んでいる。浅学ながら陶磁器の本や文章なども執筆してきた。私は中島誠之助さんの陶磁器鑑定、特に日本の陶磁器鑑定については相当の経験をお持ちで深い造詣を有していると思っている。
だが、中島さんと彼の鑑定についてはともかく一般論として、一人の鑑定士の鑑定範囲が日本だけでなく海外をもカバーして、なおかつ正確であることを求められるというのは、鑑定士にとっては間違いなく一種の冒険と言ってよい。陶磁器は全世界に存在し、最古の陶器は数万年以上の歴史を持っている。一人の鑑定家が古今東西全てについて完全に判定できて一度も間違えないなどということが可能だろうか? 一度間違えればその後も間違いの危険は存在するのだ。
「荘子」で述べられているように、「吾が生や涯(かぎり)有り、而(しか)も知や涯無し。涯有るを以て涯無きに随(したが)うは、殆(あやう)きのみ」(我々の人生は有限である。しかし人間の知は無限だ。有言の身で無限のことを追い求めるのは危うい)なのだ。
このことは、最も権威ある陶磁器研究者であっても忘れてしまうことがある。例えば、1959年、国際的に知られた陶磁研究の専門家で日本陶磁研究の第一人者でもあり、当時日本の文部省の技官として文化財専門審査会委員を務めた小山富士夫氏が、「永仁の壺」と呼ばれた陶器を日本の重要文化財に指定するよう強く推薦したことがあった。これを受けて同年6月27日、文部省は「永仁の壺」を鎌倉時代の古瀬戸作品であるとして重要文化財に指定した。
その後、日本の有名な陶芸家であった加藤唐九郎が海外に渡航した際に、唐九郎の息子である加藤嶺男が「いわゆる「永仁の壺」は自分が作った」と述べた。唐九郎の帰国後、彼はメディアが大騒動になっているのを目の当たりにした。1960年9月23日、唐九郎は「永仁の壺」は1937年に自分が作ったものであることを認めた。(真の作者が誰であったのかについては異なる見解がある。)「永仁の壺」が本物である証拠は、古瀬戸の「松留窯」で発見された陶片が「永仁の壺」の胎釉と一致するという点にあったが、実は「松留窯」自体が加藤唐九郎による捏造で、陶片も彼が偽造したものだった。
このようにして、「永仁の壺」を含む重要文化財3点が指定取り消しとなり、小山富士夫は委員会を辞職した。ゆえに、賢明な鑑定家は誰であれ、古物の鑑定には、異議の申し立てが容易に行えるように、議論の余地を残しておかねばならないのだ。
私は中島氏の鑑定が間違っていたと言っているのではない。第一に、私はこの分野の専門家ではない。この件で私が真贋を判断するのは無意味だ。第二に、厳密にいえば、文物の鑑定とは考古学、歴史学、美学、自然科学にわたる総合的な学問である。全面的に、かつ正確に古代の文物の年代を特定・鑑定する厳密な科学的方法は存在しない。言い換えれば、こういった議論で100%の是非を決める結論を得るのは難しい。
筆者は言いたい:このような重大な鑑定では、もっと広く意見を求めるべきだったのではないか?
確かにテレビ番組では、科学研究の場合のように「この品物が疑わしい」と言うのは難しいことだ。しかし、結論を出すのが難しい文物、特に「鑑定団史上最大の発見」といった結論や、「現存4個目の中国宋代の陶器「曜変天目茶碗」」のような鑑定については、中国建窯の専門家と日本の権威ある専門家の意見を求めるべきではないだろうか。筆者はテレビ東京の番組担当者に、この論争についての意見を求めて何度も電話をかけ、メールを送った。しかしこの原稿を執筆している時点では、彼らからの返答はない。「週刊ポスト」の報道によれば、この件についてのテレビ東京の見解は以下の通りだ。「鑑定は番組独自の見解であり、お答えすることはございません」(《週刊ポスト》,2017年6月23日,146頁)
だが、もしもっと広く意見を集めることができたら、例えば中国で初めて建窯の陶磁器の再現に成功した前述の孫建興氏のような専門家の意見を求めてはどうだろうか? 彼の「曜変天目」に関する研究と実験は非常に深いものだ。彼は考古学、鑑定、科学実験の各方面に非常に造詣が深い。こういった人々の意見には重みがあると言えないだろうか。もしテレビ東京がこのような人々にもっと意見を求めるようにすれば、論争は減るのではないか?
もう一つの問題は、文物の鑑定に自然科学が介入するという話だ。実際、今のところ文物を科学的に鑑定する完璧な方法というのは存在しない。多くの人が挙げる放射性炭素年代測定法は、自然界に存在する炭素14という同位元素を使ってもともと生きていた動植物の年齢を決める放射年代測定法だ。動植物が生きている間は生物の新陳代謝によって生体内の炭素14の量は一定に保たれる。生物が死ぬと体内の炭素14は崩壊して減り続ける。だが磁器・陶器・青銅器などは無機物だ。しかも時代の古い文物の場合、炭素14年代測定では年代の上下の誤差が大きい。一方で、1000年から2000年前という比較的新しい歴史的文物の場合、基本的には炭素14鑑定は使えない。
また、熱ルミネッセンス法と呼ばれる鑑定方法もある。陶磁器が焼かれるときに500℃以上に加熱されると、外部から吸収した輻射エネルギーが放出される。その後、焼成から年月が経つと、年月の長さに応じた量の輻射エネルギーを再吸収していく。熱ルミネッセンス法の原理は、古陶磁の内部に蓄えられているこの輻射エネルギーの量を計ることで年代を測定するものだ。誤差範囲は一般的に±20%程度で、相対的には正確な方だ。
しかしこのような報道もある。
「数年前、北京の二つの有名な博物館がそれぞれ六朝時代の陶器を古物市場で20万元で購入したが、後にそれらがすべて贋作であることが判明した。これらの品は河南省の某博物館の下で作られたアンティーク工芸品であったが、なぜこれらが北京の潘家園旧貨市場に流れたのかは分かっていない。ある古物の専門家が古物市場を訪れ、そこで売られている品物を熱ルミネッセンス法で調べると、約1600年前という測定結果が出た。そこで誰もがそこの品物を買った。買われたことが知られると、同じような品物が古物市場にどんどん出現した。そこで国家文物局がすぐに公安部に通報した。公安部の担当者は、「墓が荒らされて大量の遺物が盗まれる事件が発生している」と説明した。警察が現地に到着すると、地元の住民が自宅で贋作を作る作業をしているのを発見したという。彼らは六朝時代の墳墓から盗掘したレンガを削って粉にしていた。この粉を贋作に使えば、熱ルミネッセンス法にかけても墳墓の中で長年溜め込んだ輻射を出すので贋作を判別できなくなる。また彼らは、こうして作った粉で六朝陶器を偽造するための特別な装置も使っていた。このようにして、熱ルミネッセンス法での検査は失敗してしまうのだ。」 (《鑒定家VS造假者》,新華網,2005年03月15日)
魚島教授が蛍光X線分析を用いた点に関して、森達也教授は私に述べた。
筆者は魚島教授にも、蛍光X線検査について質問を行った。彼は言う。
「私はあくまでも顔料部分の元素を調べる目的でこの装置を用いました。私が調査結果を発表した際に、茶碗が偽物であると考える人たちから非難を受けましたが、私は真贋鑑定をしたわけではありません。」
筆者:
―― それはつまり、あなたの検証結果は、この茶碗には18世紀以降の顔料は使われていない、ということですよね。
魚島教授:
「それは新聞がいい加減に書いていることです。私は18世紀以降云々といったことは言っていません。私はただ、現代のものと考えられるような種類の顔料は検出されなかった、と言っているだけです。」
筆者:
―― 言い換えれば、18世紀以降に発明された化学顔料は使われていなかった、ということですよね?
魚島教授:
「これらの顔料が使われているから茶碗は偽物なのだと主張する人々もいますが、私はただ、そのような顔料は検出されなかった、と言っているだけです。私は陶磁器鑑定の専門家ではありません。あの茶碗が偽物だと主張する人々は、化学顔料の元素が茶碗に含まれているはずだ、と言っています。私は単に、その元素があの茶碗に本当にあるかないかだけを調べたのです。どの時代に作られたものか、という調査をしたのではありません。ただ、あなた方が言っているような元素はありませんでした、と言っただけです。」
筆者は質問した。
―― 例えば、もちろんこれは(例の茶碗のことではなく)仮定の話ですが、誰か現代の人間が、今回指摘されたような元素を含む現代の化学顔料ではなく、昔の顔料を使って茶碗を作ったとしたら、あなたの検証方法では今回と同じような結果が出ますか?
魚島教授:
「その可能性はあります。」
しかしながら、中国では古代の陶磁器を偽造または模造する際に化学釉薬を使うことは多くない。中国の多くの地方には陶磁器の偽造工房があり、こうした工房の多くには専門技術を持った人間がいるわけではない。地元の農民が、数千年間にわたって埋まっていた陶土を掘り出し、古代の方法で焼いているのだ。匿名で語ってくれた、中国で著名な建窯の研究家や考古学者、鑑定家たちが筆者に述べたところでは、現在中国には建窯産品のコピー品工房が1600以上存在する。その多くは偽造品を作りたいわけではなく、単にアンティーク風の品や旅行土産を製造するのが目的だ。もちろん中には偽造品の製造を目的とする人々もいるが、偽造品の製造方法はどこにでもあるような手法だ。科学的な鑑定が困難になるように、古い器の底の部分だけを新しい器に接合したり、古い胎土に新しい釉薬を使ったり、古い胎土に古い釉薬を使ったり、その他いろいろな方法を使っている。
このことは、古物鑑定が文化や歴史年代、改竄や継承といった問題と関わっていることを示している。加えて社会的な影響や国際的な影響も大きい。今回の鑑定やテレビ東京の件は別にしても、日本の博物館や歴史研究部門では、中国の文物を鑑定する際に同じような問題に直面しているはずだ。それゆえ、重大な結論に至るような場合には、我々は注意深くなる必要があり、広く意見を求めるべきなのだ。
張石 略歴:
1985年、中国東北師範大学外国語言文学系研究所卒業、修士号を取得。1988年から1992年まで、中国社会科学院日本研究所助手研究員、 Permalink | 記事への反応(0) | 00:35
アレフ、「真理かるた」で子ども教育 News i - TBS http://b.hatena.ne.jp/entry/news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2943504.html
アレフ発売のより面白いもの作りたい。 空いているところは皆で埋めてほしい。他いいのがあればどうぞ
※ ブコメを参照し、いくつか変えました
あ ああいえば上祐
い イニシエーション 修業するぞ 修業するぞ
う うまかろう安かろう亭
お オウム真理教に入ろう
き 救済するぞ 救済するぞ
し しょうこう しょうこう あさはらしょうこう
す 水中クンバカ「よーしアーナンダ、もうダイレクトにいくぞ!」(麻原がクンバカする弟子に言った言葉 ブコメより)
つ 次にポアするのは 池田大作
な 生ダラにも出た 麻原さん
ぬ 抜き打ち捜査も かわしてみせる
ね 熱湯に入れ キリストのイニシエーション(LSDを体から抜くために熱湯に入れられた)
の 残り湯の ミラクルポンドは2万円(麻原の風呂の残り湯を信者に売ってた トラバより)
ひ ひかりの輪は上祐派
ふ VXガスで襲撃
ほ ポアするぞ ポア
め メチルホスホン酸モノイソプロピル(サリンの副生成物。当時のニュースで連呼された)ブコメより
/メロンよりバナナの方が好き(週刊誌にメロンばかり食べていた、と報道されて、弁護士に言ったという)
ら (ダライ)ラマにも謁見 麻原尊師
り 陸上競技部もありました
る ルドラチャクリンのイニシエーション(覚醒剤とLSDを飲む修業)
わ 私はやってない 潔白だ(エンマの数え歌)
ん
『最近の邦画』というと近頃はすっかり『しょうもないもの』の代名詞みたいな言われようだが、
正直自分も邦画はくそばっかだからと洋画ばっかり見ていたクチだ。
しかしすごい熱量の邦画というのに、ばったり出会うこともあるので日本人も侮れない。
でも、なんかやばいものを見てしまったと思うのは、間違いない。
巨災対でこぼこトリオのはげたおっさんこと塚本晋也が20年かけて自主制作した映画。
自主制作といっても8mmは使われていないし、まともな俳優が出てるから安心してくれ。
第二次大戦末期のフィリピンで死にぞこないの日本兵(塚本晋也)が地面を這いずり回って芋を食ったりサルの肉を食って地面を這いずり回る話。
実は伝説のカルトドキュメント映画「ゆきゆきて、神軍」より人が入っているというドキュメンタリー映画。
この映画たぶん日本一、人を集めたドキュメンタリー映画になるぞ。
公開されてから三か月以上たってから見たが、恐ろしいことに未だに劇場は満員だった。
おそらく撮ったやつは頭がおかしい。
ドキュメンタリー映画とか詰まんないと思っている人(ほぼ皆)が見に行け。
正直この映画がなければ、シン・ゴジラが私の今年の一位だっただろう。
他にはろくな映画はない。
2015年なんかあったっけと思ったが考えるだけ時間の無駄だった。
まあシン・ゴジラ並みが毎年あったら困る。
僕は、人に話しかけることが苦手だ。
人に話しかけなければいけない時は、いつも胃がきりきりと痛む。相手が見知らぬ他人だろうと、そこそこ知っている友人だろうと同じだ。
昔は、人の話に応対するのも苦手だった。でも、それは最近克服できた。人と話をうまくするというのは、単純に技術の問題だからだ。
ちゃんと話が続くような受け答えをその場で考えることができるようになれば、このハードルは拍子抜けするほど簡単に超えることができた。
「人に話しかけるのが得意な人」の素振りを見ていても、彼がしているのは単に「人に話しかけること」、それだけだ。
度胸の有無は、先天的なものなのだろうか。いや、そうではないだろうと、ずっと信じてきた。
ドキュメンタリー作家の森達也が「今でも取材を申し込むときはとても緊張する」と話していたのをどこかで読んで、僕は救われた気分になった。人に話しかけるのが苦手な人が、国内有数のドキュメンタリー作家になれるのだ。度胸は頑張れば手に入ると思っていた。
度胸を身につけるために、人に話しかけなければいけないような状況に自分を追い込んだ。度胸のスパルタ教育だ。
結果は、良いとも悪いとも言えなかった。確かに、前なら話しかけられない状況でも話しかけることができた場面は増えた。
でも同時に、やはり話しかけることができない自分もそこにいた。胃痛に負けて、話しかけようとした意志をなかったことにしてしまう。話しかけた時より、そうしなかった時の方が気分が落ち着く。
度胸は、青天井に伸びるものではなかった。これ以上努力しても無駄だと感じるようになり始めた。
彼も僕も、人に話しかける時は胃がきりきりと痛む。彼は、それでも人に話しかけることができる。僕には、それができない。
いつになったら、僕は人に話しかけることができるようになるのだろうか。
松井稔監督の『日本鬼子(リーベンクイズ)』を観る。東京ではユーロスペースで大ヒットした作品だ。これまで観る機会がまったくなかったわけじゃないけど、往年の日本兵士たち(つまり老人たち)のインタビューだけで構成された三時間近くの作品と聞いて、正直に告白すれば、これまでどうしても食指が動かなかった作品だった。でもせっかくの機会だから観た。退屈だったら途中で退席すればいいと思っていた。会場のシティホールはほぼ満席。結論から書けば、僕は最後まで座席に釘付けだった。まさしく一歩も動けなかった。
戦争時、虐殺行為を働いた兵士たちの証言はこれまでも何度か聞いたことがある。でもそのほとんどは、同じ舞台の兵士がやったという目撃談か、上官に命令されて仕方なく……式の証言がほとんどだった。つまりは傍観者であった(制止できなかった)自分を悔いるか、加害者でありながら戦争という構造的な狂気の被害者でもあるというエクスキューズは残されているのが常だった。しかし『日本鬼子』に登場する元日本兵たちのほとんどは、まさしく虐殺の命令を自らの意思で下した上官か、そうでなければ実際に手を血で染めた兵士たちだ。まずはその身も蓋もないほどの事実に圧倒された。
中国の村を襲い、略奪と村民全員の虐殺をはかった兵士の証言が出てくる。家の中で幼児と共に震えていた若い妊婦を見つけ、レイプしようとしたが抵抗されてかっとなり、妊婦の髪を摑んで家から引きずり出して、井戸の中へ叩き込んだという。泣き叫びながら井戸の周りを走り回っていた幼児が、家の中から椅子を持ってきて井戸の脇に置いてよじ登り、母親の名を呼びながら中を覗き込もうとしてつるりと滑り落ちた。その一部始終を眺めていた彼は、部下に命じて井戸の中に手榴弾を投げ込ませた。
目撃談ではない。命令されて仕方なくの行為でもない。証言する彼が、まさしく自分の意思でやったのだと断言した。
「中国人を同じ人間とはどうしても思えなかった。何故かは分からない。でもとにかく、人間を殺しているという感覚は全然なかった」
登場するかつての皇軍兵士たちのほとんどは、そうつぶやいた。七三一部隊で中国人捕虜たちを材料に様々な生体実験を率先してやったお爺さん。南京で何十人も虐殺して河が紅く染まったと証言するお爺さん、捕獲した民間人を中国軍のスパイだと決めつけて拷問の末に片っ端から銃刀で突き刺して殺したお爺さん、中国娘をレイプした後に虐殺してその肉を部隊全員で食べたお爺さん。たくさんのお爺さんたちが、縁側で、茶の間で、ホテルのロビーで、診療所で、午後の柔らかい日差しに包まれながら、蝉の声を聞きながら、訥々とそう告白する。
慟哭はない。嘆息や逡巡や絶句すらほとんどない。松井監督はそんな要素をすべて削ぎ落としている。作品としての評価は分かれる部分だと思う。僕がもしこの作品の編集を担当したとしたら、インタビューの内容よりもむしろ、お爺さんたちの話の合間に生じるそんな余白に興味を持つだろうし、カットとしても最優先するだろう。そもそも彼らへのインタビューの交渉そのものを素材にしていたかもしれない。
しかし結果として、そんなニュアンスを徹底的に削ぎ落としたインタビューは、これ以上ないほどにグロテスクなものになる。「内臓がドバーッと出てきましてね」と苦笑混じりに語るお爺さんを眺めながら、彼らは殺人鬼でもないし血に飢えた狼でもないと客席の隅で僕は歯を食いしばりつづける。親を敬い初恋に胸を焦がし子供を愛し、笑ったり泣いたり、憎んだり赦したりしながら、戦後の半世紀以上を市井の片隅で生き抜いてきた人たちなのだ。だからこそ考えなければならない。優しく穏やかな僕たちが、そんな残虐さを何の躊躇いもなく発露することがあることを、僕らは自分たちを主語として考えねばならない。
デリダの赦しの話、Routledgeから出ているOn Cosmopolitanism and Forgivenessは薄いす分かりやすいのだけど、和訳はないのかしらと探したら本にはまとまってないらしい。おそらく現代思想2000年11月号に所収?
http://kunieda.sfc.keio.ac.jp/2010/10/jacques-derrida-le-siecle-et-le-pardon-1999.html
で、この現代思想をさがしていたら、イラン人難民問題の話にたどりつく。同性愛者として難民を希望して日本へやってきたイラン人S氏の苦難。
日本の入管には人の心がないのか?
http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/gendaisisou.html
例のおっさんが「イランに同性愛者はいません」とかほざいたとおり彼の国における弾圧は容易に分かるもの。
で、
恥ずかしいことに結局このSさん日本から難民指定を受けることなく、別の第三国で難民指定を受けることになって出国だという。
http://www.sukotan.com/shayda/shayda_50.html
これが極東アジアを代表する民主国家か?先のベージに書かれた支援者の素直な表現に同意する。
3.私たちはしかし、その勝利を、十分な喜びとともに祝うことはできない。むし ろ、私たちは悲しみをすら感じている。それは、彼がすでにもうこの土地にはいない こと、私たちが彼と同じ土地において生き続けていくことができないことに由来す る。この勝利は、私たちと彼との間に国境という分断線を引くことを前提にかちとら れた。今、この土地に彼はおらず、私たちは、彼を拒絶する政府を持つこの土地で生 き続けなければならない。この勝利は、喜びではなく、喪失感とともにある勝利であ る。
4.この喪失感が意味することはすなわち、私たちの=この土地に生き続ける者とし ての私たちの闘いは、終わっていないということである。私たちと彼との間に引かれ ているのは、彼を難民として受け入れる政府を持つ土地と、彼を拒絶する政府を持つ 土地との分断線である。この分断線を消していくこと、「十分に理由のある迫害の恐 怖」に直面した者たちを難民として受け入れる、当たり前の政府を、自らの土地に持 つことが、私たちの課題として残された。
決して答えへと到達しえない赦しの概念を論じ考えたデリダの、人としての、あたたかさ、にこの国の政府が学ぶことを望む。
(アパルトヘイトを乗り越え、共に生きようと模索する南アフリカの国民を支援したデリダの議論に僕は敬服する。)
また市井にある私が、社会的弱者(という立場にさせられている、追い込まれている人々)のサポートをなんなりと出来る範囲で実現できれば。
【蛇足】
街宣車をデモによこした右翼の方々はイデオロギーを離れ、こうしたアクチュアルな社会問題へ動くことができるだろうか?
【参考】
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
# 2008/12/12(金)
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アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
まあ、どのくらいの数のルポオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、 その上で全く知らないジャーナリズムの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持って る」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、日本のノンフィクションのこと
を紹介するために見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女にルポルタージュを布教する
のではなく相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、財布的に過大な負担を伴う単行本で2000円超えるようなのは避け
たい。
できれば文庫、単行本でもブックオフでよく見かける程度にとどめたい。
あと、いくらジャーナリズム的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
社会派映画好きが「『市民ケーン』は外せない」「『アラバマ物語』ぐらい見とけ」と言っ
ても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
報道知識はいわゆる「噂の真相」的なものを除けば、毎週週刊文春程度は見ている サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「立花隆以前」を濃縮しきっていて、「立花隆以
後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。児玉隆也は手に入らないし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要
最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」
アレって典型的な「記者が考える一般人に受け入れられそうな事件(そうオッサンが思い込
んでいるだけ。実際は著者が暴走しすぎ)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「ジャナオタとしてはこの二つは“妄想”として片付けていいと思うんだけど、率直に言っ
てどう?」って。
まあ佐野さんは『巨怪伝─正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文春文庫)『カリスマ─中
内功とダイエーの「戦後」』(新潮文庫)が格段に出来がいいのだが、長すぎるんで。
ある種のウヨが持ってる犯人山口二矢への憧憬と、「あーだこーだ言っても要するにロマン
は欠かせないのよ」的なナンバーをはじめとする文春ノンフィクションを彼女に紹介すると
いう意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも沢木耕太郎な
「愚直なヒーロー」を体現する山口二矢 「庶民的なオヤジ」を体現する浅沼稲次郎
の二人をはじめとして、著者好みのキャラを世界にちりばめてしまっているのが、紹介して
みたい理由。
たぶんこれを読んだ彼女は「魚住昭だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いと
いえば狙い。
この系譜の作品が何故か読売批判に繋がったこと、これが何故か日本推理作家協会賞を受賞
したこと、本当ならデヴィ夫人批判に繋がって、さっさと退場してもいいのに日本国内でそういった動
きがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりスピリチュアルとか怪しいよね」という話になったときに、そこで選ぶのは『カ
ルト資本主義』(斎藤貴男:文春文庫)でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、
この作品における福本さんのスタンスが好きだから。
怪しいところに自ら入り込んでそれで結局ばっさり斬る、っていう行為が、どうしても俺の
心をつかんでしまうのは、その「人を信じる」ということへの諦めきれなさがいかにもこの
人だなあと思えてしまうから。
精神世界や自己啓発批判についての第一人者だしだからこそこの本に信憑性があるとは思う
けれど、一方でこれが斎藤さんなら罵詈雑言ばかりで題材にする量も半端じゃなくなるし、
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』(朝日出版社)の森達也さん
だったらきっちり40分のドキュメンタリーにしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて一冊の単行本を作ってしまう、というあたり、どうして
も「「人を信じる」ということを諦めきれない一個人」としては、たとえ福本さんがそうい
うキャラでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。
作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層で『のだめ』を見たことのない人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹
介してみたい。
音楽という身近でありながら遠く感じてしまう題材をどうやって料理するか。その一つの解
答が本書だと思う。主張に一貫性がないとかエピソードの取捨選択を誤っているなどの批判
も多いのだが、分かっているようで分からない主題にどうやって近づいていくか、そのアプ
ローチの仕方は単純にすごいと思うし、そこらへんを彼女に感じてもらいたくはある。
在日外国人としての「目」あるいはレヴィ・ストロース的な「世界観」をオタとして教えた
い、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない日常を疑ってみる」的な感覚がジャーナリズムには共通してあるのかなという
ことを感じていて、だからこそ在日というか朝鮮半島の問題が竹島をはじめとして今でも話
題に上るのだろうと思う。
「世界の中の日本人」という感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「気分」の源
は在日問題にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に読ん
でもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう現在進行形の重大事件を当事者との近距離にいるというかたちでノンフィクション
化して、それが常識として受け入れられるか、気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみ
たい。
9本まで決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に奥崎を選んだ。
立花隆から始まって原一男で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、映像ドキュメント時代の先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
ちなみに、あえて当事者による実録ノンフィクションははずした。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。
http://www.news.janjan.jp/living/0711/0711246140/1.php
この文章が長くて理解できないので短くしてみた。話の流れを変えたり話題を削ったりしてる。
オウム内部をみると、実際のオウム信者は普通の人と同じで、善良で優しくて純真 95年のサリン事件が起きた原因 不安の増加 麻原は盲目で、最終解脱者(全てわかっているはずの人)という立場上、側近の報告を確認なしで受け入れていた 側近は、なにかのヘリを米軍のサリン散布攻撃と間違えて報告したりなど、間違った報告をするものが多かった その結果としてセキュリティを高めていき、不安や恐怖が大きくなっていった 宗教的な問題 第2次大戦のとき、浄土真宗は、悪い英米を倒して立派な人たちに生まれ返らせてあげましょう。という布告を出し戦争を支持した このように宗教は他人を殺す理由付けにもなる オウムのポワも、殺すことで相手を幸せにしてあげることである 彼らは本気で、殺すことで幸せにしてあげようと思っていた。 サリン事件の原因は一般の人には理解できない。わからないから不安や恐怖がうまれる。 見えないものへの不安のため、仮想敵を作り出し、攻撃して安心しようとする動きができる 戦後のアメリカも同じ 現実は複雑にからみあっていて、矛盾があってあたりまえ。 でもメディアは二元化(善と悪、左と右など)し、物語として見栄えのよい形で報道する。そのほうが売れる メディアがオウムを敵に仕立て上げ、凶暴・凶悪な殺人集団・洗脳されたロボットのような集団として報道し危機感をあおる そのため厳重警戒や厳罰化など、セキュリティが高まった さらに見えないものへの不安と恐怖が強くなっていく 民意に影響されて司法がゆがんでいく 麻原が拘禁精神病の様相を示しているのに1審で死刑確定 失禁、脱糞など行動が拘禁障害の典型 弁護側が精神科医に見せたら、精神鑑定医5人中全員が重度の拘禁性障害と診断し、3人は治療をすれば治ると言った 裁判所が精神鑑定医1人に鑑定させ、エンピツを振ると初日は反応なしだったが3日目はつかんだ、ということのみを理由に詐病と認定 期日までに控訴趣意書の提出がないので控訴の意志なしとされて死刑確定 90-95年の期間とくらべて、00-05年では死刑判決が3倍に増えている このままでは、ほかの仮想敵を作り上げて攻撃を始めるのも時間の問題 メディアはやりようによっては大きな正の力になる。一人一人が変われば組織も変わる。 視聴者も緊張感を持って生きれば世界も変わるのでは
http://anond.hatelabo.jp/20070709143810
http://anond.hatelabo.jp/20070709151552
『2ちゃんねる』を利用する人間が増えれば『2ちゃんねらー』というカテゴリーが生まれ、
なにかが起こると2ちゃんねらーがまたなんかやったぞ 2ちゃんねる閉鎖しろ これだから2ちゃんねるは。。。
とかいってる人も多い感じだけど、そもそもそのカテゴライズに意味はあるのかって感じる。
『2ちゃんねらー』がどうとか議論されてるけどそもそも匿名の場である以上、本来ならそこで起こる問題は参加可能な人間すべてを内包しているはず。
まるで外側から『2ちゃんねる』というものについて語っているつもりな人が多いけど、本当にそこに危惧を抱いているなら2ちゃんねるを通して現れている国民性や人間の根本的な醜さに目を向けるべきだと思う。
『私たちは言葉の力を信じている(朝日新聞)』などというのは馬鹿けてる。金のためにやってるだけにも関わらず大きなメディアは自分たちは聖人でありすべての外側にいるフリをよくする。
人間の醜さは世が荒めば表層に現れてくる。
そうしたら人間は不安になってくる。不安を作り出して(問題を提起して)売るメディアを通して人は不安を定型に当てはめて安心する。ああこれは国が悪いんだ・自民党が悪いんだ・安倍政権が悪いんだ・創価学会が悪いんだ・特定アジアが悪いんだ・2ちゃんねらーが悪いんだ、と。
だけど元をたどれば同じ民族の人同士だったり・民主の多数派が選んだ政権だったり・いままで築き上げた文化の一部だったり・自分の利用しているネットそのものだったりするわけで、うまく表現できてる気がしないけどそれがどうだから何が悪いとかいえないはずだと思う。
レッテルを貼って『女』だから仕方ないとか『在日』だから仕方ないとか本来なら簡単にはいえないことである。
いままであったいろいろな問題や事件を元にこういう性質のやつが多いというカテゴライズは確かに予備知識や集合知としては役立つかもしれないけど、本当にそれらについて語るときはそれらはあくまでその程度の情報なんだということを念頭におくべきだと思う。
恋愛指南・マニュアル通りにことが進まないことの方が多いし、知り合いのオタクや在日や中国人や学会員(は自分にとってきわどいが)がすべてちまたで書かれている通りであることはまずない。
(私の周りにはひとりぐらいしかいないが)学会員だって人助けをしたいと純粋に思ってる分、政治的な話やいってることはハナにつくことが多いけど根本的にはいい人が多いはず。オウム真理教の事件後に教団に残った人らもどれも純朴で信じやすい人なんだろうなあって感じのする人ばかりにみえた。(ドキュメンタリー映画・A/A2参照 - 森達也作品)
信者やアニメオタクや腐女子やバンギャルや在日コミュニティは自分でものごとを進められない主体性のない人たちが自分の信じたものを元に一本筋を通して安定を得ている人が多いと思うけど、そこにそれ以上のカテゴライズは不可能だと思う。
筋が通った結果どういう人かというところは彼らが信じているものとは切り離して評価するべきだと思う。
知り合いの人たちの話をしてみる。
まず創価学会の幹部が知り合いにいるけど、この人の話は民族性がどうちゃらとかいう話はとてもうざいし3ヶ月に一度は入会を勧められるが、この人の煎れるコーヒーはだいぶ美味いし趣味の美術関係の話などはとても好きだ。近所の面倒見のいいお兄さんといった感じで他の学会員からの信望も厚い。
知り合いの腐女子はとあるオフ会に友達に連れて行かれ、なぜかその会の幹部が1次会途中で腹痛で帰ってしまい一番関係ないといってもいい私が自然と取り仕切ってしまったときに知り合った。カラオケにいってアニソンを歌うという企画だったが、私はよくわからないのでとなりでカメラ係りを担当しながら笑ってみていた。彼らの情熱は微笑ましかった。どこか世間ズレした感性は世に疲れた人を癒す側面も時にあるようにみえたし、なによりアニメを作った人たちもこれだけ愛されてもらってとても嬉しいし次につながるやりがいが生まれると思う。文化の発展に貢献する熱心な受け手にみえた。
在日韓国人コミュニティは各地域に点在するので、地元に根付いて住んでいる人は係わり合いが多いと思う。私は母の実家がそのような地域なのだけど、母の偏見はとても強い。母はネットなどみないが、父の仕事の関係や近所づきあいの中で在日や韓国人や部落は迷惑千万といった結論に至ったらしくそういう話になるととても酷い言葉がでることもある。
かばう気はさらさらないので彼らがずうずうしく人のものを借りて壊して返してきたり、逆切れしたり、店のツケを10分の1ぐらいだと開き直ったりしたという事実はここに書いておく。中国政府は貿易する相手としては本当に最悪の相手というのも分かる。それも事実だと思う。体験したことがないので彼らのいいエピソードを書くことはできないのだが、ここまで読んでくれた方には何がいいたいのかは察してほしい。そういう人もいるしいい人もいるということだ。
方向性を決めなくては商売にならない・読まれる文章にならないという気持ちは重々分かるし私もこれからそういった文章を提出しなくてはいけないわけだけど、ようは表面的にならず裏側をつねに読むようなリテラシーぐらいは持っておくと勘違い人間になりにくいとという話でした。レッテル貼りで思考停止しないでね。