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はてなキーワード: 速水健朗とは

2017-12-23

小森健太朗速水健朗が何故だかごっちゃになるのだがそのミッシングリンクを埋めるのが速水けんたろうであることに気付いた。

2015-03-09

http://anond.hatelabo.jp/20150309080623

岩崎夏海

ブログは「ハックルベリーに会いに行く」。

はてなにいた頃はツッコミどころ満載の記事ブックマークを荒稼ぎした。

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」が250万部超の大ヒットとなり、はてな村民土下座に追い込む。

葉真中顕

ブログは「俺の邪悪なメモ」。

当時からライター小説家として活躍。「ロスト・ケア」「絶叫」はこのミスなどでも高く評価される。

伊藤計劃

ブログは「伊藤計劃:第弐位相」。

小説家として「虐殺器官」「ハーモニー」などを送り出し、日本SF界に多大な影響を与えるも夭折

その他の作家

深町秋生森見登美彦月村了衛渡航大亜門など。

指原莉乃

HKT48メンバー2013年AKB総選挙で1位。

デビュー前に書いていたはてなダイアリーが発掘されて話題に。

川上量生

ブログは「はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記」。

カドカワンゴ社長

梅田望夫

ブログは「My Life Between Silicon Valley and Japan」。

はてな取締役として積極的ブログ更新し、また一般にもWeb2.0伝道師として名を上げる。

日本の残念なWeb絶望して「あちら側」へ消えていった。

山形浩生

ブログは「山形浩生 の「経済トリセツ」」。

翻訳家評論家として著名。

町山智浩

ブログは「映画評論家町山智浩アメリカ日記」。

映画評論家雑誌映画秘宝」を創刊。実写映画進撃の巨人」の脚本執筆

速水健朗

ブログは「【A面】犬にかぶらせろ!」。

人気ライターとしていくつもの単著上梓

荻上チキ

ブログは「荻上BLOG」。

イケメン若手批評家として名を馳せる。

ちきりん

ブログは「Chikirinの日記」。

荻上チキに多大なる風評被害をもたらす。

齊藤貴義

ブログは「サイバーメガネサザンクロスシティ」。

TBSから池上彰経済特番に出てみませんか」という話が来るもオーディションで落ちる。

関連 こんな人も書いてます日記一覧 - はてなダイアリー

2015-03-04

[]Vol.16

批評塾かー

東浩紀ゼロアカ道場なつかしすー

あれで懲りてなかったんやあずまん

俺達のあずまん不死鳥のように蘇る!!

2012-12-17

結局はてサは敗北し東浩紀は常に正しかった

東浩紀ラジオ左翼言論人は滅んだと熱弁していて思い出した、はてサ系の炎上案件でよくある光景

誰かがジェンダー人権歴史修正主義関連等の失言をする

炎上ブコメで叩かれる

東浩紀が擁護をする

もらい炎上ブコメで叩かれる

失言が本人の場合もあるが、大抵の案件を乱暴に要約すると

東浩紀

サヨクの人たちの心情も理解できるし正しいのもわかるが、闇雲に批判してても何も変わらないよ」

という趣旨の事を言い、一方ではてサの人たちは

「そんな事言ってたら何も変わらない、足を引っ張るな」

と反発する


と、まあこれが2007年からずっと続いてるわけだが・・・

結局、今回の選挙でわかったのは、はてサのみなさんが考えるほど人間は賢くなかったし

その状況が左翼的な啓蒙一つで改善するようにも到底思えないという事

「お花畑左翼 とよく2ちゃんねるなんかで「アレ」なサヨクに対して使われる言葉があるが

もうはてサレベルの「正しい」左翼人達でもこの中に入っちゃう時代なんだろうなと思った

(数世紀レベルではサヨク理想世界に変わるかもしれないがそれだとやはりアレな範疇しかない)


更にこの実感が強くなったのは

TL上でサヨクの人たちが日本終わった、民主主義は終わったなどと嘆き、まるっきり2009年ネトウヨと同じ反応を見る中

経済系の人たちが是々非々で今回の選挙を評価しているのを見たとき

更に具体的に言うと

上野千鶴子

‏@ueno_wan

暗い4年間が始まる。脱原発派と護憲派ジェンダー平等派にとって。教育現場にとってもだ。インフレ借金東アジアの緊張、貧困格差弱者切り捨て…亡国政権の始まりだ。

と呟いてるのを横目にTBS番組飯田泰之荻上チキがあまりイデオロギーに固執せずに各党の政策を是々非々で討論してるのを見た時だ

自分選挙特番はずっとTBSラジオテレビで見ていたが

出演していたメンツを上げると

荻上チキ武田一顯斉藤淳、萱野稔人飯田泰之津田大介東浩紀開沼博西田亮介、速水健朗萱野稔人湯浅誠神保哲生

といった面々で、一部を覗いて所謂サヨク」ではなく、数年前まではラジオはともかくテレビでは見れなかった若い世代が中心だ


自分リベラルが滅んだとは思わない

だが今回の選挙では明らかにはてサ的な古いリベラルは死に

明らかに日本の「言論界」は新しいリベラル世代交代している

結局はてサ東浩紀に負けたのだ


はてサのみなさんはいつまで古い「サヨク」をやってるの?

2010-01-28

[]最高に弱まった無職が薦める百冊より少なめの本

http://anond.hatelabo.jp/20100127001517

さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。

差し替え
  1. 『私とハルマゲドン竹熊健太郎
  2. 『檻の中のダンス鶴見済
  3. 『翔太と猫のインサイト夏休み永井均
  4. 『アストモモンガ橋本治
  5. 因果鉄道の旅』根本敬
  6. 超芸術トマソン赤瀬川原平
  7. 自転車旅行主義』 香山リカ
  8. 天使王国浅羽通明
追加
  1. 『立志・苦学・出世受験生社会史』竹内洋
  2. 1968年スガ秀実
  3. 日本の思想』丸山眞男
  4. 現代詩の鑑賞101』大岡信
  5. 『「知」の欺瞞』アラン・ソーカル
  6. アナロジーの罠』ジャック・ブーヴレス
  7. 『「世間」とは何か』阿部 謹也
  8. 『一九七二』坪内祐三
  9. ストリートの思想』毛利嘉孝
  10. 数学ガール結城浩
  11. 虚数情緒吉田
  12. 『無産大衆神髄』矢部史郎山の手
  13. スカートの中の劇場上野千鶴子
  14. 日本文学史序説』加藤周一
  15. リベラリズムの存在証明稲葉振一郎
  16. 自我起源真木悠介
  17. 『知恵の樹』ウンベルト・マトゥラーナフランシスコバレーラ
  18. イスラーム思想史井筒俊彦
  19. トンデモ本世界と学会
  20. 自殺直前日記山田花子
  21. 東京いい店やれる店』ホイチョイ・プロダクションズ
  22. マクロ経済学スティグリッツ
  23. ミクロ経済学スティグリッツ
  24. 社会学』ギデンズ
  25. 文学とは何か』イーグルトン
  26. 日本史山川出版社
  27. 世界史山川出版社
  28. 『辞典・哲学の木』
  29. 岩波文庫解説総目録
  30. 社会学文献事典』
  31. 『BOOKMAPPLUS』
  32. 学問がわかる500冊』
  33. 『「テクノ歌謡ディスクガイド
  34. ミニコミ魂』串田努
  35. 山崎浩一世紀末ブックファイル山崎浩一
  36. 『いかにして問題を解くか』G. ポリア
  37. ゲーデルエッシャーバッハ - あるいは不思議の環』ダグラス・ホフスタッター
  38. 四次元冒険』ルディ・ラッカー
  39. 論理学をつくる』戸田山和久
  40. 倫理問題101問』マーティン コーエン
  41. 想像博物館荒俣宏
  42. 魔法使いの丘』ソーサリー
  43. 『変体少女文字の研究山根一眞
  44. 『グラモフォン フィルム タイプライター』キットラー
  45. フラジャイル松岡正剛
  46. アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
  47. 東京大学ノイズ文化論」講義宮沢章夫
  48. 文学賞メッタ斬り!大森望豊崎由美
  49. ライトノベル「超」入門新城カズマ
  50. 現代思想1997年5月号『特集・ストリートカルチャー
  51. ユリイカ2007年6月号『特集・腐女子マンガ大系』
  52. モダンガール論』斎藤美奈子
  53. 『今月のフェミ的』あくまで実践 獣フェミニスト集団FROG
  54. 利己的な遺伝子リチャード・ドーキンス
  55. 『100台のコンピュータスタパ斉藤船田戦闘機
  56. 死刑全書』マルタン・モネスティエ
  57. エロスの涙』バタイユ
  58. 流行人類学クロニクル武田徹
  59. プログラムはなぜ動くのか』矢沢久雄
  60. エミュレータのしくみ』某吉
残しておく本
  1. ゲーム的リアリズムの誕生東浩紀
  2. 『逃走論』 浅田彰
  3. 『寝ながら学べる構造主義内田樹
  4. ゼロ年代の想像力宇野常寛
  5. 『ぼくたちの洗脳社会岡田斗司夫
  6. おたく精神史』 大塚英志
  7. 『よいこの君主論』 架神恭介
  8. 戦前少年犯罪管賀江留郎
  9. おまえが若者を語るな!』 後藤和智
  10. 『現代マンガの全体像』 呉智英
  11. カノッサの屈辱小山薫堂
  12. 『生き延びるためのラカン斎藤環
  13. ニッポンの思想』 佐々木敦
  14. 洗脳原論』 苫米地英人
  15. 『青いムーブメント外山恒一
  16. チベットモーツァルト中沢新一
  17. 自分探しが止まらない』 速水健朗
  18. 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書ばるぼら
  19. 電波男本田透
  20. 貧乏人の逆襲!』 松本哉
  21. サブカルチャー神話解体宮台真司
  22. 趣都の誕生森川嘉一郎
  23. 『たかがバロウズ本。』 山形浩生
  24. 『超クソゲー箭本進一
  25. 日本映画史100年』 四方田犬彦
  26. 『シミュレーショニズム』 椹木野衣
  27. 恋愛小説ふいんき語り』 米光一成
  28. 戦後ギャグマンガ史』 米沢嘉博
  29. 日本の10大新宗教島田裕巳
  30. 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』 ブルボン小林
  31. 映画の見方がわかる本』 町山智浩
  32. アダルトビデオ革命史』 藤木TDC

2010-01-27

強くなりたい新大学生が本当に読むべき本100冊

この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。

あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。

ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。

こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。

原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。

歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。

難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。

そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。

これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。

この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。

飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、

黙考はずいぶんと深くなるし、ブログネタに応用すれば必ず一目置かれる。

選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。

この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。

ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!

新大学生が本当に読むべき100冊

存在論的、郵便的東浩紀

動物化するポストモダン東浩紀

ゲーム的リアリズムの誕生東浩紀

アナーキズム浅羽通明

ナショナリズム浅羽通明

右翼左翼浅羽通明

構造と力浅田彰

『逃走論』 浅田彰

『反芸術アンパン赤瀬川原平

東京ミキサー計画』 赤瀬川原平

ギャルギャル男文化人類学荒井悠介

ディズニー魔法有馬哲夫

テヅカ・イズ・デッド伊藤剛

マンガは変わる伊藤剛

ヤンキー文化論序説』 五十嵐太郎

オカルト帝国1970年代日本を読む』 一柳廣孝

『寝ながら学べる構造主義内田樹

ゼロ年代の想像力宇野常寛

『二〇世紀の批評を読む』 大谷能生

『ぼくたちの洗脳社会岡田斗司夫

オタクはすでに死んでいる岡田斗司夫

アメリカン・コミックス大全』 小野耕世

教養としての〈まんが・アニメ〉大塚英志

おたく精神史』 大塚英志

サンデーマガジン大野

キャラクターとは何か』 小田切博

『よいこの君主論』 架神恭介

『完全教マニュアル』 架神恭介

映画は撮ったことがない』 神山健治

『ポケットは80年代がいっぱい』 香山リカ

戦前少年犯罪管賀江留郎

スペイン宇宙食菊地成孔

東京大学のアルバート・テイラー』 菊地成孔

おまえが若者を語るな!』 後藤和智

封建主義者かく語りき』 呉智英

賢者の誘惑』 呉智英

『現代マンガの全体像』 呉智英

『定本日本の喜劇人小林信彦

カノッサの屈辱小山薫堂

お厚いのがお好き?小山薫堂

虚人のすすめ』 康芳夫

『生き延びるためのラカン斎藤環

ニッポンの思想』 佐々木敦

『シミュレーショニズム』 椹木野衣

ロックミュージック進化論渋谷陽一

日本の10大新宗教島田裕巳

ヒーロー正義白倉伸一郎

『箆棒な人々』 竹熊健太郎

『定本気分は歌謡曲近田春夫

完全自殺マニュアル鶴見済

洗脳原論』 苫米地英人

スピリチュアリズム苫米地英人

苫米地英人宇宙を語る』 苫米地英人

『青いムーブメント外山恒一

マンガ哲学する』 永井均

チベットモーツァルト中沢新一

ベストセラー構造中島梓

嫌オタク流中原昌也

『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書西寺郷太

前衛の道』 根本敬

『花咲く乙女のキンピラゴボウ橋本治

アーキテクチャ生態系濱野智史

タイアップ歌謡史』 速水健朗

自分探しが止まらない』 速水健朗

教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書ばるぼら

NYLON100% 80年代渋谷発ポップ・カルチャーの源流』 ばるぼら

ロマンポルノと実録やくざ映画樋口尚文

70年代日本の超大作映画樋口尚文

アダルトビデオ革命史』 藤木TDC

ワンダゾーン』 福本博文

『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』 ブルボン小林

ゲームホニャララブルボン小林

電波男本田透

喪男の哲学史本田透

世界電波男本田透

セカイ系とは何か』 前島賢

映画の見方がわかる本』 町山智浩

ブレードランナーの未来世紀町山智浩

『なぜ宇宙人地球に来ない?』 松尾貴史

貧乏人の逆襲!』 松本哉

サブカルチャー神話解体宮台真司

『14歳からの社会学宮台真司

『定本アニメーションギャグ世界森卓也

放送禁止歌森達也

職業欄はエスパー森達也

趣都の誕生森川嘉一郎

『興行師たちの映画史柳下毅一郎

殺人マニア宣言』 柳下毅一郎

『新教養主義宣言』 山形浩生

『たかがバロウズ本。』 山形浩生

訳者解説』 山形浩生

『超クソゲー箭本進一

戦後SFマンガ史』 米沢嘉博

戦後少女マンガ史』 米沢嘉博

戦後ギャグマンガ史』 米沢嘉博

漫画原論』 四方田犬彦

日本映画史100年』 四方田犬彦

日本文学ふいんき語り』 米光一成

恋愛小説ふいんき語り』 米光一成

2010-01-17

オープンソースはなぜ完全敗北したのか?

ある時期に「オープンソース」というものがすごいぞと喧伝されていたことがあった。

ソフトウェアを作る際、プロジェクトリーダースケジュールや役割分担を決めて作っていくよりも、

ネットを通じて不特定多数が思い思いに自分アイデアを注ぎ込み、

一つのものを作った方が色んな奴の知識や発想によってすごいものが出来るぞ、という考え方だ。

どっかの外国人が旗振りとなって、色んなプログラマが賛同して、それなりに盛り上がった。

でも、結局、今見てみたらどうだろう?大失敗じゃないか?だって、リナックスOSの主流になってないじゃん。

梅田望夫オープンソースの思想をプログラミングの分野だけでなく

ネットを使って人文科学などにも応用したらなにやらすごいことが起こるはずだ、と書いていた。

速水健朗はそれを「ニューエイジ」と切って捨てていたけど、でもある程度は成功していると思う。

その一つの集大成ウィキペディアだと思う。今やウィキペディアは誰も読みきることができない雑学の貯蔵庫になっている。

プログラミングの分野から出発したオープンソースの思想だったけど、結局はプログラミングでは失敗した。

やっぱりお金をかけた企業製品の方が優れているし(そもそも優秀なプログラマ企業に囲われちゃうしね)、

便利なフリーウェアはあるけどみんな個人個人で作っていて、誰もオープンにしちゃいない。

マイクロソフトオープンソフトについて分析した「ハロウィーン文書」にあるように

「結局は何やかやあってオープンソース運動は自滅しちゃうだろう」のそのとおりになった。

日本一生懸命オープンソースはすごいぞとやたら吠えていた山形浩生は今どう思っているんだろうか?

2008-07-15

わが子を自分探し病から守る 前編

あなたも私も自分探し

あなたに漠然とした質問をひとつします。

深く考えずにとりあえず答えてみてください。

「答えはどこにあると思いますか?」

本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。

でも、答えてください。

反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。

何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。

答えましたか?

これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。

「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。

このテストは、速水健朗自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。

自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。

でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。

娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。

「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。

しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。

では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。

そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。

現在子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。

あいのり」に漂う時代の空気

自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探し社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。

我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。

私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。

私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。

ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。

高身長高学歴高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。

就職恋愛自分探しの「あいのり」世代

私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せ社会人になれると刷り込まれ続けてきました。

というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。

自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。

常に本当の自分とやらを見つめ続け、

「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。

ファンタジーのつもりだった「個性重視教育

問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探しキーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。

罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。

その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。

(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育

をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、

「個性重視教育

になってしまったのです。

ファンタジー現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。

だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉キャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。

相当に丁寧な言葉キャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。

議論を台無しにする認識のずれ

このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。

50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、

へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。

問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。

だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。

自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。

たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。

しかし、まさに「ブーム」でした。

ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。

自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。

しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。

自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。

そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。

404 Blog Not Found

「探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない」

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html

Baldanders.info

「『自分探しが止まらない』を眺める」

http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml

どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。

適応しすぎた私と背中を向け続けた妻

自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。

妻のおかげです。

私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。

私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。

あくまで事実を書いただけですw

より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。

キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。

要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。

就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。

一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。

なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。

要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教憂鬱で仕方なかったとのこと。

相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。

まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。

私と妻の価値観のぶつかり合い

実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。

私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

「俺には輝かしい学歴があるからね。」

「あなたの大学卒業生はみんな幸せになれるの?」

「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。

だけど、俺は違うよ。就きたい職業イメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」

「あなたの希望通りの仕事に就けたら、私を幸せに出来るの?」

仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」

「本当に?」

「たぶん…。」

「私を幸せに出来るの?」

「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」

真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。

私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。

輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。

三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップステップジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。

走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。

更に言えば、ホップステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史教科書ではむしろ多数派です。

何はともあれ跳ばなきゃ話にならない

そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界内定をもらいました。

しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。

跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。

その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。

三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。

内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。

そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。

「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。

だって、就職留年して別の会社内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」

彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。

そして、私は無事に大学卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。

助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。

たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。

足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。

だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。

でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。

「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。

ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。

でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

「誰にも負けない何か」を求めたくなる理由

「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。

閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。

でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。

私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。

学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。

大規模リストラニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。

そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。

かといって官僚も、天下りありきの賃金構造モチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。

そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。

確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。

でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。

だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」

「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」

「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」

「ある!…はず。」

「食べていけるの?」

「…いけると思う。」

子どもの学費もあるんだよ。」

「いける…ん…じゃないかな…」

「厳しいんじゃない?」

「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」

それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。

そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。

というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通人生以上の修羅の道です。

要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。

でも、なにか確かなものが欲しい!

そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。

どうして妻は私にとってかけがえがないのか

私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。

私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。

そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。

「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」

妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。

一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。

今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。

「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。

一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw

もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。

自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。

そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。

結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。

不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。

答えはどこにあるのか?

私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。

そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。

かといって、「キミとボクの関係世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。

そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。

「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」

という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。

追記 わが子を自分探し病から守る 後編へ

後編へのリンクを忘れていました。

増田なもので、すみません。

わが子を自分探し病から守る 後編

http://anond.hatelabo.jp/20080715002502

2007-08-07

たばこに害なんて、ないわけないよ

『「タバコ百害あって一利なし」のウソ』 武田良夫著(評:速水健朗

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070726/130858/

 たばこに害なんて、ないわけないよ。大通りの植込みのゴミを拾っていて、そう思う。とにかくタバコの吸いがらが多い。

 JTって、ごみを拾うキャンペーンやってるんだよね。健康のことだけじゃなくて、ゴミのことについてもちゃんと向き合ってほしい。

 武田さんは元JT社員さんと聞いたけど、そのような人に、このような本を出版してほしくなかった。

 
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