はてなキーワード: 松江哲明とは
元ラーメンズ・小林賢太郎が、過去に行ったお笑いコント公演の中でナチスによるユダヤ人虐殺をジョークのネタにした事が発覚し、この情報が海外にも拡散してサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)の知るところとなり、東京五輪開閉会式の総合演出担当を解任されましたね。
小山田圭吾の障害者虐待が世間一般に広く認知された結果、小山田が東京五輪開閉会式の音楽担当を辞任した際には、一部の人間が「90年代には、悪趣味・鬼畜系カルチャーが存在を許されていた、時代の空気が存在して云々」と小山田を擁護し、それに対して町山智浩は「小山田圭吾は悪趣味・鬼畜系とは無関係(だから、自分[町山智浩]たちには責任は無い)」と反駁しました。
ラーメンズは悪趣味・鬼畜系ではないと思いますが、間違い無くサブカル領域に属する芸能人です。また、今回問題視された90年代半ば当時の彼らの芸風が、当時の、いや、今もサブカル界隈に根強く蔓延る「不謹慎なことを言う/するのがオモシロイ/カッコイイ」と云う風潮の下に成立していたことも明らかでしょう。そして、この風潮を作り出すことには、旧体制『映画秘宝』界隈も関与していたと言えます。たとえば『キネマ旬報』の編集部を襲撃して同誌の編集部員に暴力をはたらいたことを、町山智浩はパイ投げ事件などと称して矮小化して面白おかしく笑い話扱いしていますが、アレは「言論の自由を脅かす暴力事件」以外の何物でもありません。しかし、サブカル界隈の身内贔屓の体質は、町山智浩の仕出かしたことに対して真摯な批判や反省を行うことを忌避する道を選びました。昔から、サブカル業界人は身内贔屓が大好きで、これは松江哲明の性的強要・搾取にダンマリを決め込んだのを見ても判るように、今も変わりません。
ラーメンズがお笑いコントの中でナチスのユダヤ人迫害・虐殺をジョークのネタにしたことに関して、擁護として「米国のサウスパークや英国のモンティ・パイソンもジョークのネタにしているのに、何故、彼我に批判の差が有るのか?」と言う人もいましたが、個人的には、連合国側の人間と枢軸国側の人間では、それをジョークのネタにする資格に差が有るのではないかと思います。何か死傷者を伴うような事件があって、それをジョークのネタにするのは、被害者の親族が言うならまだしも、加害者の親族が言ったらアウトになるのと同じです。
一般的な傾向として多くの日本人は、自分たちが枢軸国側であったこと、戦時中にはナチス政権ドイツと同盟国だったことについて、自覚が稀薄だと私は思います。だから、ナチスドイツをポップカルチャーの一部として、エンターテイメントとして、カジュアルに消費するのだと思います。
さて、エンターテイメントとしてナチスドイツの残虐行為を楽しむといえば、長年に渡って率先してそれを実行し続けてきた人間が、旧体制『映画秘宝』に1名います。ナチス強制収容所ネタのエクスプロイテーション映画が大好きと公言し、自ら「所長」と名乗ってそれらの作品の"素晴らしさ"を布教している、赤毛で入れ墨だらけのオジサンが1名。そう、高橋ヨシキです。高橋は、間違い無く、悪趣味・鬼畜系の範疇に属する人間です。高橋ヨシキによる布教活動は、日本において「ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺を、カジュアルに楽しんで消費しても許されるのだ」と云う風潮を作ることに寄与し続けてきました。
もちろん、高橋ヨシキの存在や布教活動が、ラーメンズを生み出した訳ではないでしょう(ラーメンズのネタの公表よりも、高橋ヨシキの布教活動開始の方が時期的に後だと考えられますし、世間的に認知されたのも、ラーメンズの方が高橋ヨシキよりも先でしょうから)。しかし、ラーメンズのネタが世間に発表されてしまった後、長年に渡ってそれが見過ごされたのは、観客である一般人たちの中に「コントのネタなのだから(批判するのはおかしい)」「たかがフィクションのネタに何をマジになってるの?」と云う間違った考えや言い訳の口実が存在したからです。これは、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺と云う出来事が"エンターテイメント・コンテンツ"として、誤った"市民権"を獲得していたからでしょう。そして、高橋ヨシキによる「ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!」という布教活動は当に、その誤った"市民権"を獲得するための活動でした。だから、次のようには言えると思います。
「高橋ヨシキによる『ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!』と唱える布教活動は、ラーメンズのネタの"誕生"には影響を与えなかったかもしれないが"生存"には影響を与えたであろう。したがって、その点については、高橋ヨシキ及び彼に同調した人間に責任が有る」と。仮に時代の空気と呼ぶべき何かが有ったとしても、それは勝手に生まれたのではなく、それを意図的に作り出した人間がいるのです。この場合、それを作り出した人間の一人は、間違い無く高橋ヨシキです。
SWCの人たちも驚愕するのではないでしょうか。21世紀の日本で、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺をネタにしたエクスプロイテーション映画を「面白い!素晴らしい!」と公言・賞賛し、他人にも観るように推奨活動している人間が存在して、しかも堂々とメディアに登場し続けていると知ったら。誰か英語が得意な人がいたら、高橋ヨシキがしていることをSWCに報告すると良いかもしれませんね。もしもそうなった時、町山智浩はSWCに対して「悪趣味・鬼畜系カルチャーをやっていたのは、電通・ホイチョイ・フジテレビに対する対抗心が有ったから」と弁明できるのでしょうか。見ものです。
それと、SWCといえば思い出しましたが、長年に渡る町山ウォッチャーならばご存知のとおり、過去に町山智浩自身が他人に対して「オマエのことSWCに通報しといたからな」と言ったことがありました。その矛先が自分の近しい人間に向けられた時、町山智浩はどうするでしょうか。
この投稿は以上です。
まず、4月30日放送分の岡村の発言と矢部の「結婚しろ」発言への批判は根本的に正しいという立場です。ただ、あちこちで流れてくる要約で知った気になるのはマジでやめた方がいいです。矢部と岡村の会話に関してはホントに音声を一度聴くのをオススメします、最悪全部じゃなくてもいい、矢部と岡村がどんな感じのトーンでどういう雰囲気の元、会話をしてるのか。その辺りの肌感を知ってないと発言のニュアンス全っ然つかめないです(って書いたあとに文章放置してたらもう聴けなくなってた。ごめんね)。
岡村ってこの放送中ずっと謝ってるんですよね。謝る以外のことが何一つできない地獄のような20分があり「あ、これはダメだ」と思った矢部が放送に乱入する。そしてそこからまた1時間近く、30年来のつきあいの人間が、岡村の人格分析を、ゆっくりと、ずっとゆっくりと続けるんですよ。この回、端的に放送事故ですからね? 矢部が部屋に入ってくる時の扉の音をマイクが拾ってるところとか、全部聴いた人ならわかるけどラスト10分のはがき職人の大喜利コーナーで岡村がはがきを読み上げるところの絶望的な空気感とか、本当にヤバいですからね?
それで、この放送のポイント、岡村に横柄なところが全くないんですよ。本来ならまともなラジオトークの一つや二つはするべきところ、それすらもできなくなってる。とにかくマジで参った感じだし、ずっと謝りつづけてる。何より怖いのがここ。
なぜなら、矢部が一番最初に持ち出した岡村への指摘は「岡村さん、表でしか謝らへんのよね」という言葉だからです。「まともに放送できないくらいに責任を感じている」けど「それをカメラやマイクの前以外では出すない、出す勇気がない」、だから公開処刑のごとく生放送で伝えることしかできなかったという問題の根深さ!
そこから矢部が岡村の言動を長年どう見てきたかを話す。岡村の普段のちょっとした振る舞いの、ささいなことだけど違和感の感じたことを、ゆっくりと、一つ一つあげていく。
お茶持ってきたADさんにありがとうを言わない、鬱での休業の復帰回後に矢部に送られてきたメールが一行だけだったこと、そういった、本人が気づいていないレベルの「岡村がどう人間と接してきたか」、そしてそれらを矢部が素朴に「引いてしまう」こと、そういうのが滔々と語られる。
話題の中心は基本的に対女性関係のことになりがちだけど、矢部とのこととか仕事でのこととかも含まれてるので根本的には人間一般に対する態度、つまり岡村の性格の話をしてる。会話の中でぼんやりと示唆されてるのは、岡村の他人に対する「甘え」が「対応が雑になる」かたちで出てるのではということ。ただし流石にそれは明言されない。間違ってるかもしれないしね。そう、その意味でも矢部は慎重なんです。岡村の人格について断言はしなくて、基本的に言動の話しかしない。もしかしたら、矢部自身はそのあたり自分で気づいてほしいと思ってるのかもしれない。だから言葉を慎重に選んでいる。
その中で語られる「結婚したら」って、もう色々なニュアンスが含まれてるんですよ。たとえば、矢部と岡村の昔の会話で「彼女のご両親にご挨拶しに行ったことある?」「あるよ。高校生のころ」というやりとりに(いい大人が素でそういう[女性と遊んでる割にまともに結婚をふまえた挨拶をしたこともないって]答えする!?)と素で引いた、みたいなエピソードとか、スタッフやメイクさんの女性と遊びに行くときに「宿代は出すよ」と岡村が話したりしたことに「飛行機代の方が高くつく」という不満なんかが本人ではなく矢部の方に飛んでくるみたいな話(後述しますが、この本人には伝わらないことが恐ろしい)、女優さんとデートする企画が振ってきたら「笑われるのが嫌だから」と自分は断り別の既婚者を推した話、そういう「女性をデートには誘うし普通に関わりを持つのに、深い関係にならないし場合によっては逃げる」という岡村の普段の行動パターン、さらには矢部の「自分は結婚したら妻へのリスペクトが増した」という実体験、そういった、放送中に出てきた会話やそのときの雰囲気全部込みでの文脈でのことなので「40代の独身男性が女性と積極的に関わりたいと思うなら女性をリスペクトして女性から逃げるな」くらいのニュアンスが多分に含まれてる。
そういう様々なあの場の質感が、発言箇条書きとか録音文字起こしだと全然わからないのですよ……。
あ、一応言っておくと、そういうことを全部踏まえた上でも、「結婚したら?」発言はかなり唐突でしたし、乱暴な発言ではありました。
それでですね、放送を全部聴いてやっぱり思うのは、「この岡村をこれ以上責めるの辛くない?」と思っちゃうし、反省の色を見せている岡村隆史をdisるのには少し違和感があるんですよ。
これは自分の価値観の問題がたぶんに含まれますが、人間ってどこかしら不道徳な価値観を持ってるのが当たり前だと思って生きているんです。だから、他者との関わりでは「それをどう隠していくか」(ここでの「隠す」は「他人を傷つけないために努力する」のニュアンスをかなり含む)が重要だと思ってて。人格がゆがんでても、人格がゆがんでることそのものが隠せてたら人間は生きててもかまわないんじゃないのかなっていう。それを露出してしまった以上批判されることに異論はないし批判されるべきだとは思うけど、でも少なくともどこぞの松江哲明やら大澤昇平やらに比べたらまだまともでは?とは思っちゃうんですよ。比較で善し悪しを語るのは良くないんですけど。
まあ時折「これ大丈夫なのか?」みたいなエピソードは結構目にしてたので完全に隠してたわけじゃないけれど、それでもたとえば矢部が「カメラの前では謝る」みたいなエピソード聴くと、「少なくともカメラの前では取り繕えるくらいの価値判断は持ってるんだな」って俺は思っちゃうんですよね。30超えると人間は変われないと言われがちな世の中で、50でそこそこ取り繕えるってのは大事なことだと思うんですよ。それとも岡村さん社会的に殺します?
なんでここまで岡村に甘めの感覚を持ってしまうかといえば、最近よく、どのタイミングで自分が社会的に死ぬかわからないなあと思うんです。
岡村の件の何が一番怖かったかって、矢部が指摘したことの多くが「無意識な言動」だったことですよね。自覚的に行動を変えようとしても、無意識の言動は言われないと自覚的に変えられないじゃないですか。もっと言えば認知がそこからゆがむ可能性もある。
たとえば、ここまで書きながら「女性視点での批判的感覚が欠如してる」と自分で強く思います。この原因ははっきりしてて、自分は男性として生きてきたから「女性がどう感じるか」についての直感や共感が働くのが遅いんですよね。反射的に「別に大したことないのでは?」と思ったあとに、「いや、でも女性の視点で見たらこれはこうだろう」という理詰めで価値判断を下す。たとえばですが、一応自分にも女性の友人はいるから「この件、俺は岡村に同情してしまうけど、きっと彼女らは岡村に同情できる要素がないんだろうな」くらいの想像は、まあできる。でも、けど女性の友人が多いわけじゃないから、日々の生活で女性への気遣いが必要になる機会も、世間の人に比べると相対的に少ない立場だと思う。その意味で、女性へのリスペクトは忘れないように心がけてるつもりだけれど、でも結局のところ本当にできてるかはわかりません。他人は自分の欠点をおいそれと指摘してくれないからです。岡村隆史の放送が示したのってそういうことでしょ? 人は黙って去って行くんですよ。
だから、今回の件は、「どのタイミングで自分が女性から批判されて、社会的制裁を受けることになるかわからない」という恐怖で、どうしても岡村に共感してしまうんですよ。
そして、もちろん、この件は女性にとって「自分がコロナ不況でいつ生活が困窮し、風俗で働くことになるかわからない」という恐怖の共感と反発の方がおそらく強く働くのだろうなと思います。これ、残念ながら男性には「我が事のように想像する」ことがなかなか難しい部分ではあるんです。なぜなら、「生活に困るから風俗で働く」というジェンダーイメージは女性だと根強いものの、男性だとそうではないから(純粋に男女のジェンダーで分けられない人のことは申し訳ないが一旦話から省きます。たとえば率直に思い浮かぶのはゲイ風俗ですがそれをこの件に絡めると「性嗜好の一致しない相手と性的行為をする」ということの問題が絡んで話がややこしくなるのでその方面の話は当事者に任せた)。
だから、この件って共感をベースに立場を決めてしまうと、おおよそきれいに男女の立場で反応がわかれてしまうという、絶妙な案件だと思うんですよね。これって伊藤詩織さんの件みたいに「加害者が反省もしていない案件」とは全然様相が異なる。なまじっか反省しているように見える人間をどこまで責め続けるか。
「このような価値観を許していたら自分たちがいつ貶められるかわからない」という女性側の怒りはよくわかる。でもその反対にいるのは、「このように糾弾されるのを許していたら、自分たちがいつどのタイミングで社会的に殺されるかわからない」という男性でもある。この間の溝を埋めるのは、並大抵のことじゃないだろうなぁと思いました。
書き手である増田本人は、少なくとも今回の件は岡村が悪いと思ってるし、「どっちの味方」につくかと問われたら共感ではなく倫理を優先して岡村を批判します。俺にとっての「他者を尊重する」とはそういう価値判断をしていくことだと思っています。他者の立場を想像して、他人に嫌な思いをさせない。そこには必ずしも共感は必要ではなく、共感しなくても他人を尊重していく。
ただ、そもそも「どっちの味方」かという話をしている時点で、溝を埋めることはできないんじゃねえかなぁ、と思うんです。どちら側の人に対しても。なんか、この手の踏み絵がものすごく増えている気がする。踏み絵の後に待ってるのは処刑じゃないですかね。どちらの側にとっても。みんな、処刑合戦したいんです?
松江哲明は文章で表現する人としてお弁当だし、責任者としてお弁当だし、教える立場としてお弁当だし、映画人としてもう完全にお弁当では。
松江哲明は文章で表現する人としてお弁当だし、責任者としてお弁当だし、教える立場としてお弁当だし、映画人としてもう完全にお弁当では。#松江哲明 #童貞をプロデュース— suteaka (@suteaka68677312) January 22, 2020
今までとは違いそれなりに内容があるので、加賀賢三氏のインタビュー記事と比較してみたい。長くなるので「口淫強要問題」の部分だけ抜き出してみる。
『童貞。をプロデュース』監督・松江哲明より
https://note.com/tetsuakimatsue/n/n7761229283cd
『童貞。をプロデュース』強要問題の“黙殺された12年”を振り返る 加賀賢三氏インタビュー
https://getnews.jp/archives/2308598
松江『「童貞。をプロデュース」企画の初期段階で「AVの撮影現場へ行く」ということがコンセプトの一つであり共有されていた。そして初期の打ち合わせ段階で、作品の大きな二つの軸「AVの撮影現場に行く」「好きな子に告白する」という話を共有しました』
加賀『ある日、松江さんが「AVの現場に取材に行こう」と言い出しました。』
はっきり言い分が違っている。松江氏はAVについて初期の話合いの段階ででていたと。加賀氏はある程度撮影が進んでからいきなりとのこと。
この部分は松江氏によるとカメラを回していたとのことなので松江氏が証拠を出せるのではないかと思われる。
どっちにしても撮影現場に行くのはともかく性行為をする的約束はなかったんだろうという印象。
松江『そこでしばし私達は談笑した後、その場を盛り上げようと加賀さんに「明日の撮影を実行するかしないか、コイントスで決めよう」と提案しました。作中の該当シーンでは、コイントスの結果が明示されるギリギリのタイミングで次のカットへ切り替わってAVの撮影現場当日へ繋がっていますが、実際の撮影現場ではコイントスは「撮影をやめる」という結果を示していました。しかし企画内容として私は「AVの撮影現場へ行くシーン」は絶対撮ろうと決めていたこと、コイントスはその場の雰囲気を盛り上げるための演出手法の一つでしたので、私は「やっぱり明日は撮影現場へ行こう」と説得しました』
加賀『松江さんが「AVの現場に行く」と言い出したときにも、「行きたくないです」とずっと断っていました。すると、松江さんは「じゃあ、コイントスで決めよう」と言い出しました。これは映画の中にもあるくだりです。結局、コイントスもぼくが勝ったんですが……なぜか、松江さんのゴリ押しで行くことになりました。映画では、コイントスして、手を開いて、「あっ」って言うところで映像は切られていて、次の画ではもうAVの現場にぼくがいる、という流れに編集されています。本当はぼくが勝ったから行かなくていいはずだったんですが、本編では松江さんが勝ったことになっているんです』
ここは面白い!
AV現場に行く、行かないの話合いを「しばし談笑した」と表現する松江氏。
コイントスをその場を盛り上げるためと語り、負けたにもかかわらず「撮影現場に行くシーンは絶対撮ろうと決めていた」ので「コイントスはその場の雰囲気を盛り上げるための演出手法」とごまかし『「やっぱり明日は撮影現場へ行こう」と説得しました』
これは卑怯だよね。松江監督の発言を最大限受け入れるとしても「説得」ではないだろ。
加賀さんは『松江さんは、本当にゴリ押しが酷い』と語っている。
もしコイントスで松江監督が勝利していた場合は絶対「約束しただろー」とか「男と男の勝負の結果だろ」とか言ってAV現場に連れて行かれただろうし、もう詰んでる。
これいじめっ子がよくやるやつだと思う。
松江『“約束事の共有”があったと思った幾つかの理由は「青年加賀にドキュメンタリー監督がビンタする」シーンでは、加賀さんは現場で「今のビンタは音が小さかったので、もう一度撮り直してもいいですよ」と私に提案しました。彼が作品の演出意図について理解している発言であったと認識しています』
加賀『ビンタされるのはいいんですけど、まず“ヤラセ”が嫌だし、「AV女優は汚い」と言うことも嫌でした。でも、これでオチをつけてくれるんだろうと思ったんです』
ビンタさえ我慢すればそれで終われる(オチがつく)と思い前向きに協力した加賀さんと、ビンタシーンで撮り直しまで提案してくるので、とてもやる気があるのだろうと勘違いしてしまったらしい松江さん。
悲しいすれ違いではある。
加賀『「これでオチがついたから、やっと終わる」と思っていました。ところが、部屋に戻ったらまた押し問答が始まりました。松江さんは、「お前待ちなんだよ」「やるまで終わらねえぞ」「松尾さんを待たせるなんて。お前、いい度胸してんな」と、脅しも入れるようになりました。「カンパニーさんって、そんなに怖い人なんだ」と想像を巡らせて、また怖くなりました。初めて会う方でしたし、「AV業界だし、怖い人たちがバックにいるかもしれない」と、さらに色々と想像して、どんどん怖くなりました』
ここも松江監督的には「ドキュメンタリー監督が青年加賀を脅かす」という演出であるってことになるのだろう。でもそれ言っちゃたらやばい部分は全部演出って言えちゃうからなー
松江『作品の性質上「嫌がっているように見える演出」と「本当に嫌がっている現実」をうまく分けるために役者さんにお伝えするもので、例えば女優さんがお芝居で「嫌よ」「やめて」といっても、芝居か本心なのか判断つきません。なので「その流れで発せられない」ありえない言葉を「ストップワード」として設定し、その警報の効力は絶対的で、発せられたら何があっても撮影現場の全てはストップします』
『「ストップワード」を、「お弁当」にしますと決めてお伝えしました』
加賀さんは覚えて無いとのこと。
松江『「明日、あらかじめシャワー浴びてきてね」「もしかしたら絡み(セックス)のシーンあるかもよ」と言葉で伝えました』
このへんは言った言わないの話になるんで難しい。
一応AV撮影現場のくだりはこんな感じ。今後松江監督の側から裁判を起こすらしく、今回書いてない言い分もあるらしい。
私の感想としてはやはりこれはパワハラに当たるだろうと思う。松江監督も認めている「コイントス」の下りが決定的。こんなの無理を押し通すってことは松江さんは加賀さんの意思なんか尊重する気は無かったのだろう。
『私はまるで「いじめている自覚のないいじめっ子」だったのか、と気づかされました』
と語っているが「まるで」って部分いらないよなーと、完全にただのいじめっ子でしょう。そして自覚がないってのも怪しいと思う。
お互いの立場の差を自覚した上で安全な場所から加賀さんをいじって楽しんだであろう、松江監督が長い時を経て逆襲にあったってのが今回の件の本質かなと思った。
松江哲明の『童貞。をプロデュース』の舞台挨拶騒動を見ていて、当時の不快な気持ちを思いだした。
みうらじゅんや伊集院光が童貞いじりをし始めて、それにサブカルクソ野郎どもが乗っかって童貞をいじりだしたり、社会学者が童貞に関する本を出したりと、ちょっとした童貞ブームが本当に不快だった。
彼らは童貞に同情するふりをして、逆らえない弱者をいじって遊んでいるだけだった。典型的なイジメの構図だ。
「童貞。をプロデュース」の予告編を見てほしい。当時の空気がよく現れている。
https://www.youtube.com/watch?v=1e0kock8UQY
この上から目線で童貞に接し、半笑いでいじる感じ。イジメっ子が非リアをからかって遊んでいるのと同じだ。
こんなものがよく制作され、しかも受け入れられたものだと思う。当時はポリコレなんて概念は浸透していなかったし、童貞はいくら笑ってもOKみたいな不可触賤民みたいな扱いだった。
伊集院やみうらじゅんはまだ自分を落としたり、言葉の表現が笑えたりと工夫があったが、それに影響されて童貞いじりを始めたやつは単なる不快で、自分らはセンスがあると勘違いしていて本当に醜悪だった。
よく覚えているのが映画『40歳の童貞男』が公開されたときのイベント。童貞なら無料になるという上映会をやっていて、俺は町山智浩が推薦していたので映画が気になって見に行った。
上映前の列に並んだとき、ごく普通の見た目の人たちが並んでいるので安堵した。だが、なんだか嫌な感じもする。列の真後ろにカップルが並んでいるのだ。
ひょっとしたら男は(そんな確率、数学的にあり得ないだろうが)童貞だったかもしれないが、女は童貞じゃないだろう。どうやら、童貞の付き添いなら女もOKだったようだ。
女は茶髪にロリっぽいフリフリの格好をしていた。コソコソと2人で何かを喋っている。真後ろだったので耳に入ってきた。女はこう言っていたのだ。
「この人たち、みんな童貞なの?w」血の気が引くのがわかった。サァ―っと体温が引いていった。童貞をいじっている奴らの心情なんて、結局はこんなものなのだ。
映画を楽しもう。俺は自分にそう言い聞かせて、会場に入った。幸い、映画はとても楽しいものだった。笑って泣けるコメディだった。
いい気分で会場を出た。だが、外は相変わらず地獄だった。スタッフが何やら画用紙を配っていた。ホールには机が置かれていて、色鉛筆なども用意されている。スタッフが俺を捕まえて言った。
「今、童貞の人に想像で女性器を描いてもらうっていう企画をやっているんですけど、どうですか?」
耳を疑った。半笑いで語りかけるスタッフ。俺は「いや」と言って会場を出るエレベーターのボタンを押した。だが、スタッフはなおも「まだ時間ありますよね?」と童貞なんだから予定なんかないだろと言わんばかりに食いついてきた。女性器を描くなんてセクハラだし、それを強要するのもセクハラだ。そんなことをそこら辺の通行人に言おうものなら、当時でも問題になっていたと思う。だが、それが相手が「童貞」だったら許されていたのだ。
『童貞。をプロデュース』から10年経って、童貞をあることをアピールしても、恥ずかしいことではなくなったこと(むしろモテに繋がる)
どの口が言うのか。イジメっ子がかつてイジメていた相手に対して、「お前も立派になったよな」ってか。もう一度書くが、どの口が言うのか。
「童貞。をプロデュース」の予告編をもう一度見てみよう。童貞役の男性は23歳となっている。23歳で童貞だって? 別に珍しいことじゃない。今ならそう思えるし、表明もできる。だが、その状況に松江哲明を含む当時童貞をいじっていた奴らは1ミリも貢献していない。社会がゆっくりと成熟に向かっただけだ。
2014年2月15日(土)から2月20日(木)までの6日間劇場版 テレクラキャノンボール2013 | オーディトリウム渋谷を観に行って来ました。
大評判の作品で6日中4日間は満員札止め、補助席出したり通路にクッション置いてお客さん座らせたりしても入りきれなくて、劇場まで足を運んでも入れずに帰される人も居たとの事。そんな中、毎日通うなんて迷惑だ!まだ観てない人に席を譲ってやれ!というご意見もありましょうが、…観たかったんですよ!どうしても!ってか私が居ない所でみんなでこんな楽しいモノ観てるなんて耐えられない!来月またやるしDVDも20日くらいから店頭に並んでいるからとりあえず観たいってだけの人はDVD買おう!私は悪くない!逆にDVDの売上に貢献する行為だ!私を褒めろ!と開き直って通いました。
作品自体について書きたい事が山ほどあるんですが、何書いてもネタバレになる内容だし、もうとりあえず凄すぎてちゃんとその凄さを伝えられる文章を書ける自信が全く無いので今回は『映画館で劇場版テレクラキャノンボール2013を6日連続で観てきたのでその6日間の日記的な事』を書いておきます。
初日。2月15日。2週連続の大雪が降った日。実はこの前週の最初の大雪の日に『劇場版テレクラキャノンボール2013』公開記念2週連続カンパニー松尾オールナイト特集』の第1回があったのですが、大雪で電車が止まりまくって居た為かお客さん21人しか居なかったのですよ。私は自宅から一番近い地下鉄の駅まで4~50分かけて徒歩で辿り着き普段なら絶対使わないようなルートで無理矢理渋谷まで行ったんですが、他の20人のお客さんはどうやって劇場まで辿り着いたのだろうかと思うような日でした。
そんな感じだったので一体この『劇場版テレクラキャノンボール2013』がどれだけ広くの人に知られているのか、お客さんが入るのかってのが初日に劇場行くまで全く予測出来なかったのですが、開場前のロビーはお客さんでいっぱい!勿論客席もバッチリ埋まっていておりました。ちなみに整理番号は開演の1時間前位に引き換えて47番でした。
そんな中上映開始。満員のお客さんが笑い、驚愕し、劇中自然に何度も拍手が起こって。「客席が沸く」というのはこういう事か!というのを経験しまくりました。上映中は私自身も沸きまくってるのでわーわーって感じだったんですけど、終わって一人になって思い返してみると映画館でこんな事が起こりうるもんなんだなぁと不思議な気持ちに。
2日目。日曜日の夜のレイトショー、しかも上映後のトークまで見たら23時半を越えるという事でお客さんの入りはどんな感じだろう?と思っていたのですが、初日よりはちょっと少ないものの、思ってた以上に沢山のお客さんが詰め掛けておりました。整理番号は開演1時間前位に引き換えて39番。上映中、初日と同様に沸く客席、そして沸く自分。前の日に観たばっかなのに同じところで声が出る。
3日目。月曜日。ここから平日だからお客さんの数も落ち着くかな?と思ってたのですが、実際は正反対でこの日から連日満員札止め。週末に観た人からの評判を聞きつけたお客さんが押し寄せます。整理番号は開演45分前に引き換えて59番。
この日くらいから作品を観ている時の心境に変化が。最初観た時は「うおーすげーやべー!でも端折られてるシーンいっぱいある!DVD版どうなるんだろう?楽しみ!」という感じだったのですが…
松尾監督のAV作品の劇場版は何作品か存在しております。んで、とりあえず私が観た分に関しては全部AVの劣化版みたいな感じなんすよ。特に一番気に入ってないのが『監督失格×ポレポレ東中野企画【性と死と旅】第一夜【センチメンタルジャーニー】』というオールナイトの企画で1度だけ上映された『劇場版 私を女優にして下さいAGAIN11』。オリジナルのDVD版は簡単に言うと「物凄く実用性のあるアダルトビデオなのに監督の実の父親の介護から息を引き取る所までをしっかり描いている」という奇跡の作品なんです。いやマジで。ホントこんな事言われても意味わかんないと思うけどDVD観たらその通りだから。とりあえず観てみて下さい。
それに対して劇場版は映画館で上映する事を意識してかエロシーンを大幅に削っちゃってるんすよ。なので「物凄く実用性のあるアダルトビデオである」という一番重要な部分が薄れちゃってるのです。もうナンカそれじゃ台無しじゃないっすか。実の父親を看取る所を描いたドキュメント作品としてはちゃんと出来てるんですがそれだけだと普通だもん。奇跡が起こってたのにその奇跡の部分を切って捨ててる。勿体無いどころの騒ぎじゃない。
その事を踏まえまして、劇場版テレクラキャノンボール2013を思い返してみると…明らかに超沢山の事を切り捨てまくってる!省略し倒してる!なので、劇場版テレクラキャノンボール2013は実は劇場版私を女優にして下さいAGAIN11的な状態である可能性が高い。その事に気づいて以降、DVDの10時間版を観るのが怖くなってきました。だって10時間版がすっごく良くて、私達がわーわー言いながら観てる劇場版が10時間版の重要な部分を切り捨てたモノだったらナンカ悲しいじゃないっすか。こんなに楽しい時間を劇場に来たみんなで過ごしてるのにそれが嘘になっちゃうみたいで。
4日目。火曜日。整理番号は開演3時間前に引き換えて36番。この日はキャノンボールを観る前に1つ上の階のユーロスペースへ。実は私の友達の女子大生ちゃんがキャノンボールの上映期間とほぼ同じ時期に行われていた『第3回死刑映画週間国家は人を殺す』という企画の運営に携わっていたのでまずはそちらにお邪魔して『さらばわが友 実録大物死刑囚たち』という映画と安部譲二氏のトークを観る。死刑廃止運動をしている国際的な人権擁護団体主催のイベントという事でちょっと身構えて行ったのですが、さらばわが友は東映の実録モノ映画だったから全く難しい内容でもなく面白かったし、安部氏のトークも笑いどころも入れつつ、会場が円山町だったので安部氏が所属していた安藤組(本拠地が円山町にあった)の話、暴力団員時代に「こいつは死刑にするしかない」と思わせるような野獣のような極悪人を何人も見たという話、しかし国家という権力が人を使って人を殺すという構造は戦争と同じなので許してはいけないという話、死刑制度のないブラジルで裁判を受けた事があるという話からブラジルでは懲役2週間という判決が出ると刑務所の中で無期懲役刑の受刑者達からリンチを受けて殺されるという話、などバラエティに富んだ内容。
安部氏のトークが終わったのが8時40分を少し過ぎた頃。そこから階段を下りてオーディトリウムに。すぐに開場時間となり入場して前から2列目のど真ん中に着席。開演を待っていると、どっからどう見ても小西康陽にしか見えない男性がやって来て、私の前の席を確保し、マフラーやコートを脱いで着席しました。ぱっと見た時から小西康陽だ!と思ったし、マフラーやコートを脱いでる間ずっと観察してても小西康陽じゃない要素がなかったし、恐らく間違いなく小西康陽なんだけど、何故わざわざ「どっからどう見ても小西康陽にしか見えない男性」と書いたかというと、まず、小西康陽がテレクラキャノンボール観に来るか?というのがあるし、もし仮に観に来たとしてもわざわざ最前列ど真ん中に座るか?というのがあります。けどDJやってはるの何回か見た事あるし間違いなく本人だとは思う。おまけに帰宅してから小西さんのブログ見たら「2013年は533本の映画を劇場で観た。」と書いてあったんで本人確定でいいと思う。年間500本以上劇場で映画観る人だったら確実にキャノンボールも観に来るだろうし。だとしたら8時40分から50分の間の10分間に安部譲二と小西康陽に遭遇した事になりますな。正反対の人生を歩んでる有名人の組み合わせ。小西さんって暴力の世界と一番遠い所で生きてきた感じするもん。
5日目。水曜日。レディースデー。オーディトリウムのツイッターアカウントが現時点での残りの席数を呟いたりして煽るので17時に会社を飛び出してそのまま直行。17:55頃に整理番号引き換えて108番でした。18時から補助席案内になって18時40分には完売していたとの事。
レディースデーだけあって女性客の比率は多め。でも、上映中のお客さんリアクションにそこまで差はなかったように感じました。日によって声が上がる所や拍手の起こるタイミングがバラバラだったのでその「日ごとの差」の範囲内だったように思います。
6日目。木曜日。とりあえずの千秋楽。火曜や水曜とほぼ同じ時刻、開演3時間前の18時頃に整理番号に引き換えて107番。昨日と1番違い!レディースデー並み!さすが最終日!
この日もキャノンボールを観る前に死刑映画週間が行われているユーロスペースへ。上映されていたのは韓国映画の『執行者』。死刑を執行する刑務官のお話で「公務員が仕事として(死刑判決を受けた犯罪者とはいえ)人を殺さなければいけない」という事に対する問題提起的内容の映画でした。もうね、これがね、面白い映画である事は確かなのですが、韓国映画らしい剥き出し感とエピソード詰め込み感が半端無くて観終わるとグッタリしちゃいました。だって死刑執行シーンで刑が執行されて首吊り状態になってるのに死刑囚が死んでないってんで刑務官が死刑囚に抱きついて体重かけて殺してたりすんだもん!絶対実際そんな事やんねーだろ!こんなヘビーな映画観た後にキャノンボール観るのはかなんなぁ、と思ってたのですが、この日の上映後のトークが松江哲明監督で、作品を俯瞰した目線での話をしてくださったので気持ちが切り替えられました。あと、そのトークの前にこのイベントの運営をしている女子大生ちゃんが松江監督に渡すお水用意するの忘れた!と慌ててたので下のオーディトリウムの受付で売ってるお水を買いに行くというお使いをしたのも気持ちのリセットになりましたね。びっくりして慌てたのと走って階段を上り下りして身体動かしたのが良かった。身体動かすの大事!そしてオーディトリウム受付でお水売ってるの咄嗟に思い出せた私エライ。6日間通ってた事で人のお役に立てた。という事でこのトークの間に松江監督が飲まれていたお水は私が直前に買ってきたモノです。あと、この日松江監督と一緒に舞台に立ってトークをしていた女の子が私の友達の女子大生ちゃんです。松江監督の大ファンなので偉い人を説得してこのイベントに松江監督を呼んだのも彼女。という全くキャノンボールと関係ないお話でした。
20時40分頃にユーロスペースを出て下に降り、開場の整理番号呼び出しのタイミングでオーディトリウムに入場。満員の客席を見渡してみると、初日と最終日では結構客層が違うように感じました。なんかね、一般の人に届いてる感じがした。初日の客層が特別変だったとか変わってるって感じでもなかったし、何がどう違うかって説明しろって言われると難しいんですけど、雰囲気というか空気というか醸し出しているモノが違うというか。どっちが良いとか悪いって話ではなく種類が違っているという感じ。
そんな種類の違うお客さんでも上映中はちゃんと笑いが起こり、声が上がり、拍手も出て。やっぱりね!良いモンは誰が観ても良いんですよ!客層とか関係ない!劇場版テレクラキャノンボール2013は誰が観ても最高の作品なのです!
という訳で6日間の上映期間が終わりました。私が常日頃から最高だと思っていた人達が最高である事が証明された日々。この6日間、私はとても幸せでした。雪で大変だった初日から沢山のお客さんが来て、週明けで客足が落ち着くかと思ったら逆で評判を聞いた人が劇場に押し寄せ満員札止めになって、その次の日に小西康陽が観に来てたという物凄く解りやすいブレイクの過程が観察出来たのも嬉しい。3月にも上映される事が決まっているので今回来れなかった方は是非お越し下さい。
そしてこの6日間が幸せだったからこそ、DVDの10時間版を観るのが怖い。実は、昨日ムーランで買ってきて手元にあるんすよ。でもまだ観てない。観るの怖い。ってか観るのを先延ばしにする為にこの文章を書いてました。でも観ない訳にはいかないし、今日のうちに観ないと明日から仕事だし。今から観るしかないんだけどホント怖い。劇場版より全然良くてこの6日間の幸せな気持ちが色褪せちゃったりしたら悲しい。でも観るよ!…この文章アップしてしばらくツイッターとかしてからね(まだ先延ばしにしようとしている)。