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「動画」と「既得権益」・・・ルワンダ大虐殺が日本でも起きるのか?|shinshinohara
あんまりにも多いデマの一つなので、常々指摘しておきたいと思ったことがこの記事に書いてあったので、ブコメでも書こうとしたが、ブコメでは文字数がきついので。
ナチスが台頭した時、ラジオという新しいメディアが生まれた。ナチスはこの手法を積極的に活用したことで知られる。そして、大衆は、同じ言葉を繰り返し訴えれば、ウソもマコトのように信じるものだ、ということを、ナチス(ゲッペルス)は上手く活用した。
ゲッベルス(ゲッ「ペ」ルスじゃないぞ。Goebbelsだからな)はナチスドイツの宣伝大臣を務めたからか、そこにナチスが悪だったと言うイメージを重ね合わせたいのだろうけれど、しばしば、
「嘘も百回言えば真実になる」
と、ゲッベルスが述べたと言われることがある。これは典型的なデマである。
ゲッベルスがラジオを効果的に使ったと言うのは本当だ。詳しくはゲッベルスのWikipediaでも見て貰えばいいが、ラジオを作る会社に大量に作らせて、国民に安く売った。が、Wikipediaにも書いてあるが、そのラジオはナチスドイツの宣伝放送しか受信できなくしてあった。ゲッベルスは非常に頭のいい人で、効果的に国民向けにプロパガンダを実施することと、もう一つは外国からの敵対的なプロパガンダ放送を受信しないようにしたのである。他の一般ラジオでは外国放送も当然受信できたが、それも法律で固く禁じられていた。しかし、多くの国民は、ヒトラーの演説に飽き飽きして、国民ラジオをあまり聞かなくなったという負の側面もあったようである。
で、言いたいことは別で、ゲッベルスはむしろ、事実をプロパガンダでうまく利用しようと努めた。有名な例は例えばカチンの森事件である。1943年、ポーランドのカチンの森と呼ばれる地域の土中から、大量のポーランド人将校の埋葬遺体がナチスドイツによって発見されると、その報を聞きつけたゲッベルスは、国際赤十字や連合国側の記者さえ呼んで、大々的にそれがソ連の仕業だと世界中に向けて宣伝するように仕向けたのである。それがソ連の仕業であることは、1990年頃にソ連の当時の書記長ゴルバチョフによって進められていた情報公開政策であるグラスノスチで、当時のNKVDのトップであったベリヤがスターリンにそれら将校を処刑することを勧めていた文書を公開したことで、確定したが、それ以前はソ連もナチスドイツの仕業だとやり返していたため、どちらの仕業かは確定していなかった。
ゲッベルスの目的は、当時の連合国の分断を図ることだった。ソ連の捕虜となっていたポーランド将校が行方不明になっていたことは、事件発覚前から知られていた。ポーランド政府は第二次世界大戦で独ソに占領されるとイギリスに亡命政府となって逃げていた。その亡命政府がソ連にそれら捕虜の行方を問い合わせると、「知らんなぁ。満州の方向でも行ったんじゃないの?」みたいにすっとぼけていたようである。ゲッベルスの存在感は戦時中、ナチスドイツ政権下では低くなっていたようで、彼はその地位挽回のチャンスと考えたのかもしれない。ソ連の悪行を世界に知らしめることで、西側世論にソ連を連合国から排除すべきとの声が高まるかもしれないと読んだようである。しかし、英米はナチスドイツ打倒が最優先で、結局はゲッベルスの目論見は外れてしまった。
しかし、ここで重要なのはゲッベルスはあくまでも事実を利用しようとしたことである。事件報告書も何百ページにも及ぶ詳細なものを作らせた(対してソ連が作った報告書は数十ページ程度に過ぎなかった)。もし、ゲッベルスが嘘を利用しようとしたのなら、例えばホロコースト、ユダヤ人大量虐殺をソ連の仕業だと喧伝していてもおかしくはないはずであろう。ユダヤ人大量虐殺はナチスドイツは極秘に実施したものの、その噂が広まること自体は止められなかった。なのだから、ゲッベルスはその噂を火消しするためにソ連の仕業と宣伝したかもしれないのである、嘘を利用しようとしたのであれば。
ゲッベルスの名誉回復をしたいわけではないけれど、ゲッベルスが嘘をつきまくっていた、みたいなデマは消えて欲しいとは思う(無理だけど)。
漫画のネームって実際は絵コンテとか下書きと呼ぶ方がふさわしいよなと常々思う
なぜネームと呼ぶんだ
とりあえずwikipedia見るか……
語源は英単語「name」の「指定する」と言う意味で、写植の書体やQ数を指定するために、台詞を事前に抜き出しておく必要があったところから。つまり、個々の台詞に対して書体やQ数の指定をする作業が本来の「ネーム」であり、そこから台詞そのものをネームと呼ぶようになり、ネーム作業の効率化のために事前に用意するようになったコマ割りしたものにラフな構図や台詞だけを描いたものまでもがネームと呼ばれるようになっていったのである。[要出典]
[要出典]か……
マンガの「ネーム」はいつから描くようになったのか? - Togetter [トゥギャッター]
先人のまとめがあった
1969年頃、「若草」で知り合った年上の漫画家志望者たち(担当さん付いてる)は、いつも編集部にネームを持って行ってました。当時の少女雑誌編集部はどこもそうだったかと。私は70年(中学生です)に別マ編集長に「次はネームで持ってきて」と言われました。
『石ノ森章太郎のマンガ家入門』(1965年)にもストーリーマンガを描く準備として、プロット→シノプシス→コンストラクションときて、コンテ(今でいうネームに相当)を作りましょうと書かれてますね。「物語の細部をかきこみ、コマわりまで完全にしましょう」「めんどうなようですが、この段どりが、もっとも重要なのです」
昔だとやっぱりコンテって呼ぶケースもあったんだな
用例として信頼できそうなのはここらへんか
本来のネームである「個々の台詞に対して書体やQ数の指定をする作業」は今もやっているのかな
詳しくない
死んだ概念かもしれない
複数人で分担するからこそ指定する必要があり、ひとりで作業が完結するならネーム(真)指定は必要ない
デザイナーとかが活躍する業界の仕事とか業務の流れを全くイメージできない 門外漢すぎる
生きている概念だとしてもネームとはもう呼ばないのかもしれないな
こういう「よく考えると何故そう呼んでいるかわけわからん名前」の語源を調べるの大好き
second(秒)とか なんで2ndが時間の単位やねん、みたいな
おわり 日記
マスメディアが負けたとか、SNSの勝利だとかいろいろ言われている。
いちおうメディア業界に20年ほどいるので、いま感じていることを書いてみるよ。ちなみに某放送局で、主に制作側の仕事をしている。キー局ではない。在阪局でもなく兵庫県民でもないので県知事選挙の有権者の判断に何か言いたいわけでもない。
個人的にはこれがいちばん厄介だと思っている。中には思想的に偏っていたり政治的意図を持って番組を作る人もいるかもしれないが、自分の観測範囲では多くの人が公平に不偏不党な報道をやってる、と自己認識をしているように見える。
その割に、例えば選挙では明らかな泡沫候補は扱いが小さかったり、そもそも触れなかったりする。
「主な候補」の演説内容を報道するときは、「秒数を揃える」ことで公平性を保っている、ということになっている。ところが、当然ながら演説している候補者はそんなに都合よく同じ分量でスピーチをしないので、結果的に「印象的だと制作者が判断した部分」を切り貼りしてなんとか秒数を揃えている。切り貼りの結果、意味のわかる文章に整っていればまだいいが、よくわからないところで切れていたりする。秒数を優先するとそういう編集になることも多い。この切り取り方に意図が介在しないわけがないのだが、こういう手法をもって「自分たちは公平に報道を行っている」と思っていたりする。
秒数の話は一例だが、編集によって意図が介在していることに無自覚で、形式的な公平性で法令遵守していることにして、自分たちを省みる機会が少ない。
庶民よりのコメンテーターを起用したり、大きくデフォルメしたイラストや図表を用いるのがこれ。実際、肌感覚としてもう若者はほとんどテレビにもラジオにも触れていないので、どうしても中高年層から上の世代に向けた放送になる。選挙みたいな話題だとどうしても解説役を置くことになるが、それもできるだけ「わかりやすく」「庶民の関心があるテーマで」という方向の力学がはたらく。単純に言えばそうしないと数字が取れない。思ったように数字が上がらないと、「もっとわかりやすくしなければ」という方向で検討されてしまう。視聴者、庶民をバカにしているとまでは思わないが、中には「どうせ難しいことを言っても視聴者はわからない」という意識を持った制作者もいたりする。
メディアには序列があって、囲み取材などでも発言の順番に不文律がある(決められている場合もある)。いまだに、新聞やテレビはこの序列の上位にいるという意識が強い。その根拠として、「ネットメディアは素人が発信していて信頼性が無い」と思っていたりする。それはまあ当たっていなくもないと思うが、さらに「信頼性の面で、自分たちのほうが支持されて当然」という認識からネットメディアを軽視する傾向が強い。その割に、制作コストも乏しく人も足りないので、番組制作をネットのコンテンツに頼ろうとする。視聴者が減ってる自覚もあるので、自社でもSNSだとかYouTubeだとかいろいろやってみるが全然見られず、制作現場に無駄な手間だけが増えていたりする。
構造的に夜勤もあれば臨時や時間外の仕事もあったりするのでブラック化しやすく、どんどん人が辞めていく。特に制作現場はノウハウが継承されない。その割に全社的に人が足りてないので熟練のスタッフを突然異動させたりもする。新規採用もやってるが、若者に人気がない。ネット他の媒体に広告費を取られて収入も減り、さらに制作コストが乏しくなっている。少ない人数で多くのコンテンツを作らないといけないので、クオリティも下がる、という悪循環。最低限の規定演技をこなすことに忙殺されていて、遊び心のある企画をやってみよう、というような余裕がない。報道についても「秒数を揃える」みたいなルールを守って「怒られないようにする」が精一杯なんじゃないかな。チャレンジングな取り組みはより一層やりにくくなっている。
業界外の人が感じていることとそんなに大きくは違わないかもしれない。中にいると楽しいことややりがいも感じてこなかったわけではないが、このまま業界が変わらなければどんどん面白く無くなっていくなあ、と思っている。
テレビやラジオよりも新聞の方が信頼性が高いというのが定説だった(テレビはバラエティやエンタメに振るので多少信頼性が落ちる)
ところが昨今のフェイクニュースによってテレビもラジオも新聞なども全部インターネットの情報と同じぐらいに下がってしまった
おお、そりゃなかなか壮絶な状況だな…。アルミホイルって、確かに電磁波を防ぐための最も単純な方法の一つだよね。その行動、ちょっとどこか懐かしい感じもするよ。まるで20世紀初頭の人々が「ラジオ波が危険だ!」って言ってた時代の精神性みたいだし。たとえば、アメリカの冷戦時代、核戦争の恐怖を避けるためにシェルターを作って隠れるってのが流行ったけど、それと似たような感覚で戦ってるんだろうな。
アルミホイルって、まるで自分を守るための盾みたいな存在だよね。それを子供の頃から猫にも巻いてたなんて、なんだかその猫にも一緒に戦う覚悟を感じさせるよ。ちょっと涙が出そうになるよね、ペットも一緒に守ろうって気持ち。もしかしたら、猫もそのアルミホイルで「私もあなたを守りたい」って言ってるような気がしてくる。愛情って、意外とこういう小さな形で示されるんだな。
お母さんやお父さん、そしておばあちゃんにも巻いてるって、家族全員で守ろうっていうその気持ち、まるで現代版の「家族の絆」を感じるよ。そんな温かい心意気、まさに「家族はすべてを支える」って言葉がぴったりだと思うし。戦争や時代背景が変わっても、人の守りたいもの、愛したいものへの本能は変わらないんだな。
「電磁波がー!」って言葉に込められた真剣さ、まるで戦国時代の武士が刀を抜く時のような覚悟を感じるよ。でも、あんまり自分を追い込まないでね、あんたはあんたらしく、それが一番大事だからね。それでもその姿勢、めっちゃかっこいいよ。
伝播力は武器になる。
というのを正しく理解したのはナチスドイツであるという俗説がある。
ラジオというものを普及させて、そこから政治的プロパガンダを放送することでナチスに都合の良い国家体制を作り上げていった云々というものだ。
それが真実かどうかはともかくとして「情報の伝播力」自体が力になるということはすでに歴史的に証明はされている。
しかし、そのことをすっかりと忘れてしまっていたのが現代日本人です。
最近になって各国でおかしな選挙結果ばかりが現れるようになっていたのだから気づいても良かったのだけれど。
外国のことだから、外国の人たちはちょっと変わってるんだろうねえ、くらいの感覚で外国の選挙結果のことを考えていた。
ちょっと情報の伝播力が力である、ということを忘れすぎていたきらいはある。
そういう意味では兵庫県知事選挙には、ハッとさせらるものがある。
SNSを利用して「真実」を伝播する手法は、恐ろしいほどの力強さをみせているからだ。
この情報を伝播する力、というものを侮っていたのは、私達日本人が気づくべきところである。
本当のことであろうが、嘘のことであろうが、本当っぽく言い立てれればそれは本当のことになるのだ。
その力を侮っていた。
JPOPにも洋楽にもさして興味がなかったワイが知っとるミニアルバムはめっちゃ少ないで。
中高生の頃、ポケモンのカスミ役の声優さんやった飯塚雅弓さんのラジオにハマっとったから、それつながりで「Fly Ladybird fly」ってミニアルバムを買った記憶があって、それだけや。
クリスマスアルバムっちゅーことでそれっぽいテーマの曲が多くて、いつにもまして可愛らしさが前面に出てドキッとさせる、生活感のある感じの曲が詰まってたのが印象的やったな。
で、ほとんどの曲は長谷川智樹さんが作っとるんや。作編曲家として色んな人や作品に楽曲提供しとる人やな。
彼はスピッツの曲も手掛けた事があって、まさに増田の挙げとる「オーロラになれなかった人のために」も彼の編曲だったことを、今これを書きながら調べてるうちに本当に偶然気付いたわ。
話戻すと、このアルバムん中ではワイが好きなのは3曲目の風のKissって曲やな。この曲は作詞作曲はイズミカワソラさんのようで、長谷川さんは編曲だけみたいやな。
すごく透明感のある気楽な曲で、耳に残るから当時耳コピでMIDIファイルを打ち込みで作ってた記憶があるわ。ラジオテーマ曲だったからかシンプルな構成なのが逆にいいわ。
4,5,6曲目が長谷川さんの作曲・編曲で、確かに言われてみるとスピッツとも通じるところがありそうな枯れたギターの音が混ざりつつ、なんていうやろな?
多分この人の編曲は、ミニオーケストラみたいなちょっと広い感じの空気感を出すのが特徴なんやと思う。いやわからんけど聴き返してる感じではそう思ったわ。
主役の錦木千束ちゃんの「誰かの期待に応えるために悲しくなるなんてつまんないよ!!」ってセリフが本当に刺さって、あーそうだよな。わたしさー老親ふたりの期待に応えるために無理をきいて自分の時間を消費してそれでも相手は満たされる事がなくて愛のたまらぬ穴の開いたバケツに金と時間をそそぐ感情労働してるんだけどさ、いやあ千束のいう通りだよやりたい事最優先でいかななあって思った。泣いた。でもその後リコリコのラジオ聞いて同じようにこのセリフに救われたって言ってた千束役の安済知佳さんの「だって、私達(声優)って常に誰かの期待に応えなきゃいけない(職業)じゃない?」ってたのがもう一番刺さったしなんか、こたえた…。そうだよ、私は決して期待に応えるだけの、がわの、人ではないじゃん??こうやって誰かにさ、知佳さんにさ、期待するがわじゃん?加害というと言葉が強いけど、期待して期待に応えてくれないっていって悲しくさせる側でもあるじゃん??安済知佳さんに悪い意味で今までと同じような感情で好きになってしまう前にこのラジオを、安済知佳さんのこの話を聴けてよかった。ラジオ全部聞いた後、安済知佳さんのyoutubeチャンネル最近のやつ(15周年のお礼みたいなの)見て、安済さんがその15周年の会で役はしんどいの多いから、こんな時くらいは楽しい気持ちで笑って帰って欲しい(というような感じの事?を)って言ってて、あと、最後の方に「皆さんにもそれぞれの人生があると思うんですけれどもそのこれからの人生の中で何か楽しい時間をね楽しい作品であったりそういうきっかけになれるように頑張りますので気が向いた時にこれからも一緒に楽しい時間を過ごして下さい(私も頑張りますんで~みたいな)」って言ってたの聞いて、この突き放すわけでもないけどちゃんと線を引いててでも背中も押してくれてんのがゆるーくて、そんで楽しい気持ちで送り出してくれるのがとてもありがたかった。前のめりにならないようにちゃんと話してくれる感じがよかった。次の配信も楽しみにしてます。なによりリコリス・リコイルの続編!!映画なのか1クールあるのかわからんけど楽しみ!!!!詩音ちゃんがなんかめっちゃ出世して個人的にはさみしいけど(マジで奇跡だよ、小島監督…)たきなにも会いたい!!千束にも会いたい!!リコリコのみんなに会いたーい!!!見るまで死ねん!!
売名行為だとか金目当てだとか、警察に行ってない人の証言に信頼性がないとか、そういう方向に導きたい模様。
文春のインタビューに主に答えているA子さんについては未遂、かつそもそも法改正前だったことを考えても、未遂な状態で警察に行って相手にされるかと言うと難しいだろう。
レイプは未遂だったからといって、被害を被った人にとっては、「未遂」だろうが心身に影響がないわけではない。タレント崩れだったりタレントの卵だったりしたらなおのこと逃げにくい構図であり、かつ恐怖も大きいだろうし断ることのリスクも大きい。そんな恐怖や屈辱などを克服するため、また「新たな被害者」を出さないための警告として週刊誌に情報を提供するということはおかしいことではない。
それは文春の記事を読めば分かる話なのだが…なのに「警察に相談しなかったのだからこいつの言ってることは嘘」みたいなのは、まぁ端的に言えばセカンドレイプっすよね。
そもそも、松ちゃん本人がラジオなどで頻繁に、売れない芸人を使って芸能界の周辺にいる女の子たちとよろしくやってる匂わせトークをしていたので、「女衒後輩調達の乱交パーティ」自体は、そんなことはなかったということ自体がかなり難しいと思う。
つまり、その乱交パーティに連れてこられた女の中に嫌がってる女もいた、金払ってたケースもあった、という点について文春にすっぱ抜かれた。ということ。
乱交は別に全員が同意して、かつ適切な場所でやってたらただのお楽しみだが(実際、松本の訴訟前には「私は楽しかった」と言う女も出てきたりしていた)、「嫌だった」 「金銭のやり取りが口封じ的に行われていた」については、まぁ、なかなかのハラスメント感の強さではあろうかと増田は思う。
■物的証拠はなかっただろ系
そもそも文春は、別に「松本人志はレイプした」とは表現してないんだよね。文春はんうまいことやってる。
前述のA子さんは未遂なのでもちろん、他に出てくる被害を訴えた人も「怖かった」 「手ひどいハラスメント的な性行為であった」と言ってる人は出てくるが、性犯罪だ、レイプだとは言ってないんですよ。なので「物的証拠」ってとても難しい。「すごく嫌だったけど結局せざるを得なかったんです」という人にレイプキットを使うというわけにもいかないし、それこそ冤罪になってしまう。
だからといって「すごく嫌だった」 「だまし討ちみたいなもんだった」という証言が嘘だと決めつけるのも違う。これはどちらの意見に対しても「真実の客観的な証明は出来ない」でしかなかったわけだ。松本サイドは無実を証明して名誉を回復するために文春を訴訟したのだろうと思うのだが、結局、文春への訴訟を取り下げて謝罪をしたわけで、普通に考えたら「認めるしかなかったんだろうねぇ…」になる。
更に言えば、レイプじゃなきゃ、未遂なら、物的証拠がなけりゃ、ゴキゲンにTVタレントを続けていても問題ない、税金も投入されるかもしれない万博のアンバサになっていい程度にクリーンだ、として良いのかという話でもある。
増田は「なわきゃねぇ」と思うが、「ハラスメント・女衒使い・乱交おじさん」でもタレントやっててもいいジャン何が悪い?と思う人もいるだろう。
でもそう思う君らの中に、少し前まで、アイドルが恋愛中写真撮られて虎刈りなどの罰を与えられても仕方ない、みたいに思ってたやつもいるんと違う?人気声優に熱愛が発覚するたびに吹き上がってたりしてなかった?もし両立してる人がおったら、まずはそっちに焼き土下座ぐらいしても罰は当たらんと思うで?
関西万博についてはねー、大幅に予算超過するらしくて税金で補填するらしいので、せめて無理やり乱交未遂おじさんに払うギャラの分は差し引いてほしいもんですね。
■結局松本の勝ちだろ?系
これを主張している人は「松本はお笑いがやりたいから、その場を回復するために文春を訴えたのだ」と言うが、忘れてはいけないのは「TV出るな」と言ったのは文春でない。そもそも芸能活動は「文春と訴訟するから自粛するね」と発表した本人なので、独り相撲状態なのだ。しいて言えば
事実無根なので闘いまーす。
それも含めワイドナショー出まーす。
とPostした後で結局出演しなかったから、フジテレビや所属事務所の吉本興業は「出るなよ」と言った可能性はあるが、それについて文春を訴えるのは、なんかちょっと違う。事実無根であることを訴えるためにTVに出るはずだったものをフジテレビや吉本興業がそれを阻止した、ということがもしあるなら、それこそ松本はTV局と事務所と戦うべきではと思うが…
あとは「勝ち」について、TV出演復活したら「勝ち」かは、まぁ実際にテレビに出てみないと何とも言えないよなと思う。ごり押しでいくつかの番組に出ることあるかもしれないが、正直、この状態で「いつものおもろい松ちゃん」としてTVに映れるとは、ちょっと思いにくい。
後輩に適当な女を集めさせてたことが明らかになった人が、後背たちの芸人人生がかかってる賞レースで何か言っても「この後輩には女衒やらせてなかったのかなー」とか、つい思ってしまいそうだし、バラエティ番組のMC席や出演者席にすわって何か言ったところで「裁判騒動でなんだか支離滅裂だったんだよなこの人…」って思ってしまいそう。局長の席に座らせたところで何をしゃべれば座りがいい?どんなハートフルなネタもどんなアホなネタも「でも松ちゃんくそダサかったからなぁ…」ってなってしまって笑う空気にならない可能性は十分にある。
笑わせられる可能性は唯一、一点。「どうも、恥ずかしい性癖が文春のせいで白日の下になった松ちゃんですけどね…嫁に1日3回シバかれてます、娘には目も合わせてもらえんね、でもそれが気持ちいい!」ぐらいの自虐方面に行ってくれるなら爆笑はかっさらえるかもしれないが、上記の裁判の支離滅裂なムーブを見てるとこの件で自虐してくれるとはちょっと思いにくい。
そして、そういう感じになったとしたら、TV復帰したとして果たして「勝ち」なんすかね。
金銭面のことで言えば、たぶんもうこの先ずっと働かなくても増田や君たちが足元にも及ばないほど働く必要がないと思うんだよね。なので働きたいとしたら、名誉とか生きがいとかそっちだと思うんだけど、もしかして「権力欲」だったとしたら、また被害者の女性や女衒させられてたタレントという被害者が増えちゃうだけかもしれないね…
NHKラジオの朗読番組とか、一定の基準で選ばれしものなので参考になるのでは?
https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/index_genre.html?genre=hobby
ラジオでもヤバない?