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2024-10-08

anond:20241008104709

古典の内容そのまま紹介やね。

 

カーネギーアドラーケインズか……

 

しかも端折り過ぎて原典と内容が違う。

2024-10-01

まだ日経平均なんか気にしてんの?

俺は日経平均VIみてるよ?

6だぞ?

お前らまだ五世代前のデータ見てんのかよ

原典厨乙

2024-09-30

anond:20240930131258

聖闘士星矢で語るな

 

=①漫画で仏説を語るな

=②原典読まずに語るな

=③令和に聖闘士星矢をさも常識かのように語るな

=④昼から増田で語るな

 

好きに選んで

2024-09-07

エイリアン・ロムレス見てきた

ネタバレは、まあ、あるような無いような。

1作目と2作目の路線を正統に引き継いだ感じの、期待通りのエイリアン映画だった。

しかし、原典に忠実すぎるのもなかなか困る物だと思った。

とにかく意外性が全く無い。

目新しいのは冒頭の植民星位のもので、(まあそれも、ブレードランナー確立された、宇宙舞台ゲームで見飽きるほど見た近未来デイズトピア光景たが、)宇宙船に舞台が移ってからは、セット使い回してんのかというくらい見慣れた光景が展開される。

光景だけでなく、起きる事も見慣れている。

思えばエイリアンの造形・生態は、1作目当時から革新的で完成度が極めて高かっただけに、目新しいものを見せるのには全く不向きなのだ

さらフェイスハガーやゼノモーフの生態や造形を変えられないのである

その結果どうなるかというと、どんな怪物が潜んでるのか、登場人物がとうやって死ぬのか、大体読めてしまうのである

まるで、同じトリックを使ったミステリを読んでるかの如しである

なろうラノベのような既視感である

しかも、これだけ原典に忠実な続編(新作と言うより、本当に続編という感じである)を作っておきながら、戦力的に主人公側が話にならないほど弱いせいで、1作目や2作目にあった『戦うか逃げるか』の葛藤もない。逃げ一択である。やっぱ、エイリアン野郎オブクラッシャー存在感出さんと魅力を十全に出せないのだなあ。

特に、2作目にあった『周到な準備をしてきたけど、ミスって戦力激減』みたいな状況悪化カタルシスもない。状況は最初から最悪であり、主人公側は最初から戦闘力ほぼなしである

しかも、人数が少ないので、あんまし殺戮カタルシスもない。「このキャラエイリアンのこの能力見せるために死んだか」って感じで、一人ずつ丁寧に死んでいく。

2作目のように「この子死ななきゃ良いな」ってキャラも居ないし、「このキャラが死んだら困る」というような強キャラもいないので、誰が死んでも割とどうでも良い感が漂ってるし。(そもそもキャラ思い入れが出来るようなエピソードが全く無い。全キャラモブである

「お前、それはやめろぉ!」というような展開もない。(正確には、そういう展開もあるっちゃあるのだが、やらかしてんのが死んでも良いようなチンピラだし、そいつがやらかさなくても状況は元々最悪だったか特に何かが悪化してるわけでない。)

つーわけで、一人ずつ消されていっても悲壮感や絶望感が全く無い。

エイリアンの見せ方はこの路線で正解だとは思うけど、そうは言ってももうちょいヒネっても良かったんじゃないかなあ。

つーか、宇宙舞台ホラーは、エイリアンが切り拓いたとはいえ既にデッドスペース等の秀逸なゲームによって正しく進化拡張されているので、

今更続編出しても仕方なくなっているのだなあ。

このジャンルでは、映画ゲームに勝てないと思った新作だった。

2024-08-31

なぜSNS上で知性の欠片も感じない言動を垂れ流している人間が往々にして何らかの専門技術を修めているのか。

リアルが満ち足りているからこそ、SNS上での振る舞いが幼児狂人のそれであってもなんら痛くも痒くもないということか。

しろSNS上で小賢しく振る舞う私のような人間こそ、SNSに全振りしている落伍者ということか。

少なくとも、私はSNS上での振る舞いが残念な人間を信用しようとは思わないが、公私のギャップが大きいほど親しみを感じる人間もいることだろう。

彼らはSNSチラシの裏として扱うことを厭わない。

なぜならば、すでにリアルが充実している彼らはSNSを介してプラスアルファの人脈や名声を得る必要がないかである

しかし、私はリアルが残念であるために、SNSを介してそれらを求めざるを得ず、ゆえにSNSを「公」として扱うのである

Fish don’t know they’re in water』

1. 周囲の文化価値観というものは、そこから距離を置いてみなければ意識することができない。

2. 人は苦労して潜水するが、魚は平然と水の中を泳ぐ。自分に合った活躍の場を探すべき。

最初後者意味かと思ったけれど、原典では前者の意味だった。

2024-08-28

教えて!インターネット老人会

オアシスじゃなくて、オエイシスな」

原典ってどこですか?

2024-08-26

お前より俺の方が真面目に創価学会やっている

最近妹が結婚したんだが、その旦那創価学会の人だったんだよね。

創価系の高校出て創価系の大学出ている系の人。

俺は宗教やっている人は嫌いだけど、宗教原典を読むのは好きだから、すごくテンション上がったんだよ。

池田大作の本はほとんど読んでいるし、法華経も読んでいるから、やっとガチの人と話せるのかと思うとワクワクした。

宗教の話できる人ってあんまりいないんだよな。旧約聖書の金の子事件解釈とか、アーラニヤカの心臓内の虚空描写とかで議論を交わし合いたい。

それでテンション高めにその旦那さんに新人革命単行本版と文庫版の表記揺れについて話をふったんだが、どうもこいつ新人革命を読んでないっぽいんだよ。

映画とかでは観たことあるんですけど……」とかいうんだけどさ、流石に創価学会エアプすぎるだろこいつ。

現役創価学会員なら新人革命ぐらい読んどけよ。プリキュアファンなのに初代プリキュアたことないみたいな話だぞ。

マジでイラついてしまった。そんなの自分人生かけている宗教でありえるか?ふざけるなよ、もっと真面目に創価学会やれよ。

日蓮御言葉集の話もできないし、逆に何なら読んでいるんだよこいつは。お前より俺の方が創価学会やってるよ本当に。

そんなこと話していたら妹に怒られて家から叩き出されてしまった。

民衆こそ王者」で池田大作日蓮から破門された苦悩について長々と書き連ねているが、まさにこんな気持ちだったんだろうなと思ったよ。はじめて大作に共感したよ俺は。

2024-08-21

anond:20240820233145

キュウリ原産地北部インドネパールにかけてといわれており、日本 には6世紀後半に中国から伝えられたとされています

全国各地で本格的 に栽培されるようになったのは江戸時代からで、果実の形、色、肉質、風味、栽 培特性などが異なる多くの在来品種がありました。

ふむー河童ウィキペディアみたら、

西遊記』に登場する沙悟浄は、日本ではしばしば河童に似た姿で描かれる。これは日本独自翻案であり、原典においてはそのような設定はない。詳細は沙悟浄#日本沙悟浄を参照。

ってあってびびったわ

2024-08-12

anond:20240811120625

エジプトにいた増田です。

思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています

そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分出会ってきた)アラビア語イスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます

大前提ですが、自分は基本、道楽勉強してきた人間で、職業的研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくま個人体験を元にした個人の感想で、学問裏付けあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。

(いきなり余談ですが、わたし出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリジムスリム、つまりムスリム結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)

シリア人結婚シリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。

また日本在住のマリジムスリムでも、家族親族との交流クルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます

ほとんどの場合ムスリム男性日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)

先述の通り、わたしアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。

イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンアラビア語はお経みたいなものイラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います

お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。

日本仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味勉強すると思います。非アラビア語話者ムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。

何ならアラブ人にとっても、クルアーンアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。

(お世話になっていたエジプト人の先生クルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見アラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからんものです)

一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います

ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハー勉強します。普段使っているアーンミーヤエジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。

外国人視点で見れば、フスハーアーンミーヤラテン語フランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます勉強しないで自然にできるわけがありません。

話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。

キリスト教聖書は色んな言語に訳されていて、普通各自言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。

何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的理解できるもの第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。

現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップ全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味整合性全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味あいまって全体の美しさが練られると思います歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。

英語ヒップホップ歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉ダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為信仰というものは、容易に翻訳可能知的了解やすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。

特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語ヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。

クルアーン特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教ルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象イメージが多いですね。

音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょエピソード的な話が続くと、とてもわかりやす言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりフレーズがビシッと入りますごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。

またヘブライ語聖書旧約聖書)のエピソード知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。

こうしたエピソードっぽいフレーズ時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます

この文体翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります

わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーン読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。

良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。

余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記学問的な界隈では結構からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのはコーラン」ですよね。

カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります

クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います

では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。

英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。

ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセント表現したようです。

実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人感覚簡単カタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。

別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語ラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。

同様にラテン文字表記英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。

あと不思議なのはアッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。

これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います

その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為のものは単なる殺戮肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚殺戮であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。

では実際のところ、平々凡々たる市井ムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います

色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。

キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですからムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリム感覚同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから

この低水準の信仰感覚というのは、あくまわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います

大人ですから知的敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています

そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています言語文化宗教連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。

まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います

そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢しょうが、違う場所から違う視点ものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。

人生、旅じゃないですか。

2024-08-03

岡美穂子東大准教授・弥助問題に進展があったのでメモ

キモおじ「『弥助の見た目が八幡神に近い』って根拠は?」 岡東大准教授「..において、キモおじが東大史料編纂所准教授の岡美穂子さんの著作について質問をし、岡美穂子さんがキモおじをブロックするところまではまとめていた。

この岡美穂子さんの著作には、信長公記中の「廿六、七」「すくやかに器量」を「16、7」「穏やかな気性」と現代語訳しているなどの誤りが多く見られた(正しくは「26、7」「立派な見た目」となる)。

この理由についてキモおじが有力な仮説を立てていたのでまとめておこうと思う。

https://x.com/dokushoa/status/1819195928286581193

(略)

それに関して説得力のある説を述べる。

答えは単純で著者は信長公記を読んでいない。

大航海時代日本人奴隷-増補新版』は何を参考に記載たかというと、 John G.Russell “Excluded Presence : Shoguns, Minstrels, Bodyguards, and Japan's Encounters with the Black Other”であろう。

年齢が16,7歳になっており、器量もcharacterだ。

ソウザ氏がラッセル論文を参考にポルトガル語論文作成し、それを翻訳者、岡美穂子氏、中央公論新社@chuko_sendenの校正信長公記を見ずにチェックを行ったので、こんなガバガバ記載書籍化されてしまったと想像される。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/71097

筋が通っている推論だと思うが、まさか東大資料編纂室の准教授ともあろう方が原典に当たらず書かれているとは思えないので御本人のコメントが待たれるところだ。

また、人文系の例に漏れ史学界も査読論文よりも本がものを言う世界とのこと。

となればアカデミアからの指摘があってもよさそうだが眺めている限りそれはなさそうだ。

ってことは特に論争が起こっている分野以外は、史学定説ってこれくらい雑に定まっているのだろうか

とうか、御本人は「弥助」研究の正誤判断ができるのは御本人だけだと言っておられるのだが、その方がこんな誤りを書かれているってことは、それが定説化されており、周りの学者も無批判に受け入れているということだろうか。

仮にそうだとすれば、日本史学研究はそのレベルも取り組み姿勢もとても学問の水準に届いてない未熟な分野と断じていいと思われる。

(この本は、この分野におけるほぼ唯一の学術書のはずで、それが市井一般人に指摘されるまでアカデミアから多数の誤りを指摘されてこなかった事実重要だと思う。)

https://archive.is/1YnJxツイート削除済み)

様々なコメントいただきましたが、今週はもうこの件に割く時間がないので、返信できません。たぶん、ロックリーさんの「弥助」研究の各パーツの正誤判断をできるのは、地球上に私くらいしかおりませんが、皆さんが求めているのは、そういうことではないようですね。

2024-08-01

anond:20240731231742

原典に忠実にしろ、を超えた「盛るな」ってようは、

「男どもは胸が大きいと思ってるが俺はそんな低俗とは一味違うぞ」というアピールに過ぎないんで

一見欲とは関係ないアピールのようで、実は欲がダダ漏れなんだよな

2024-07-18

anond:20240717024350

ブコメにある「たましいが傷つく」からダメって最高に気持ち悪いな。

まり援助交際してた人はたましいが傷ついてる」ってことだろ。まるで穢れ思想じゃん。

理由道筋立てて説明できずに魂なんて持ち出すなら「売春婦はたましいが汚れてる」っていうのとどうちがうんだろ。

セックスワーカーへの蔑視かにもつながってそうで怖いわ。

まりにも納得いかない物言いだけど、発言した人はきちんとした学者だし、なんか誤読してるのかも。

調べてみても引用ばかりで元ネタがすぐ出てこないが、たぶん原典は「日本人の心のゆくえ」で正確には「傷ついていないように見えるが魂に悪い」みたいな内容らしい?宮台真司が反発したけどやっぱり正しかたかもと変節したっぽいとかどうとか。

今度読んでみるかなぁ。

2024-06-26

anond:20240626093453

旧約・新約聖書の最も大切な部分を選び出し、原典に忠実に訳したわかりやす言葉と美しい挿し絵で紹介する。92~93年刊「はじめての聖書 1・2」を一冊にまとめた新装版。

って書いとるがな

2024-06-01

原作原理主義

俺は原作原理主義者である

コミック化しても読まないし、アニメ化しても見ない。

作者がそちらにかまけていたら「原作に注力せんかい!」と心の中で怒る。もちろん表には出さない。

公式コミック公式アニメ同人誌と何ら変わらない二次創作だと思っている。

コミックアニメベース原作を語るやつは二次創作オリジナルに持ち込むのと同じぐらいの愚行だと思って軽蔑している。

ただ別に二次創作からといって下に見ている訳ではなく、原作を下敷きとして生まれた新たな作品としてはリスペクトしている。

読まないし見ないが、それぞれ多くのクリエイターが携わって作っている作品なので、悪く言うことはない。

何より原作とは別物なのだから原作毀損するということも無い。少なくとも俺は感じない。

しろ前述の原作を読みもせずファンを気取る連中に対しては怒りが沸くが、原作を読め以上のことを言ったことはない。

昨今世間を騒がせたネタで思うのが、他人が作った作品まで原作とその延長線上とみなす人の気持ちが分からない。

あれは原作棒、原作者棒としてやってるとしか思えない。

原作者の作品という原典公式)が守られればそれでよくないだろうか?

それで言うと俺は原典価値は最大限に認めているが、あまりその著者に興味がない。

作品の外側で作品について言及したとしても無視することが多い。

必要であれば原典修正すればよいし、もしくは続編という形式で打ち消せばよい。

「作者がなんか言ってる」と口に出すことは無いが、たまに思うことがある。

原作があればそれでよい。

2024-05-27

anond:20240527154217

一所懸命だけを使う人に聞いてみたいな。なぜ「一生懸命」ではなく「一所懸命」を使うのか。

語源的に正しいから?

 さて,それでは,現在採るべき表記法はどうであろうか。最近辞典類を見ると,『岩波国語辞典』(岩波書店刊)は,「一所懸命」を本見出しとし,「一生懸命」をから見出し扱いにしているが,『例解新国語辞典』(三省堂刊),『新明解国語辞典』(三省堂刊),『新選国語辞典』(小学館刊)などは,「命がけのこと」を意味する語としては「一生懸命」を本見出しにし,「一所懸命」を併記したり,古語扱いにしたりしている。さらに『例解辞典』(小学館刊),『NHK編 新用字用語辞典』,『朝日新聞用語の手引』(朝日新聞社刊)などの用字用語辞典は,ほとんど「一生懸命」に統一している。

 以上のことから判断すると,現在学校教育においては,表現学習や語彙学習場合には「一生懸命」が望ましいと思われる。なお,教科書文学作品においては原典尊重し,『オツベルと象』では「一生懸命」(原典は「いつしやうけんめい」)を,『蜘蛛の糸』『坊っちゃん』では「一生懸命」(原典は「一生懸命」)を,『ごんぎつね』では「一生懸命」(原典は「一しょうけんめい」)を使用している。

教育出版HPより

2024-05-11

anond:20240511095848

そもそも発言ってどんなんだろって思って原典を調べてみたら

「今のままではいけないと思います。だからこそ『日本は今のままではいけないと思っている』と世界に向けて発信しなければならない」

だって

2024-05-08

涼介の『高機動幻想ガンパレード・マーチ小説版。設定は原作を活かしつつ、物語原典ゲームから離れて、独自のifストーリーの戦記作品になっていったよね

きちくですな

最後までよんでないですね?あなた

かにおもろいけど、そのぶん、めちゃくちゃ巻数かさねたラストがとんでもひでーなげっぷりでファンからたかれまくったのに

2024-05-06

anond:20240506072810

西洋絵画、「このモチーフはよく裸で描かれるってことは原典で裸って設定なんだな」と思いきや

原典には別にそういう描写はなく普通に考えれば服着てるのに何故か脱がすのが定番化してるとかあるよな

オカズにするために脈絡なくエッチにしてまーすw」とは解説しにくいから多少はね

2024-03-25

anond:20240325232845

性器が大きいのを自慢していた男が同様の評判を得ていた女と勝負()することになり指定された果たし合いの場所である川岸に浮かぶ舟の上で女と逢ったらそれは彼女性器だったというオチの話、原典を知ってたらご教示ねがいます

anond:20240325110541

まず当初の報道記事原典に、実際にあたってみたほうがいい。

 

たぶん「と証言している」などを駆使して、間違ってはないことになってる。

2024-03-22

anond:20240319195447

巨人肩に乗る」って表現は先人の業績の上に新たな業績を積み重ねていくという意味であって、車輪の再発明とはだいぶ意味が違う。 

なお、「巨人肩に乗る」という表現アイザック・ニュートンが使ったものとして有名。(プラトン時代が古すぎると思う)

追記Wikipedia の「巨人の肩の上」という項目に詳しい説明があって参考になります。それによると、

科学者アイザック・ニュートンが1676年にロバート・フックに宛てた書簡の以下の一節で知られるようになった。

私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。(英語: If I have seen further it is by standing on yᵉ sholders of Giants.)

このニュートン手紙原典と見なされることも多いが、最初に用いたのは12世紀フランス哲学者シャルトルベルナールとされる。


 だそうです。

2024-03-21

安楽死のついての記事シロクマが書かなかったこ

おっす。オラ工業高校卒。以前に学力テストについて話をかいてみんなにいろいろ突っ込まれたおかげで知見がすげえ広がってうれしかったぞ。

あれ以来はてなを読む専しながらいろいろ社会勉強中なんだ。


最近はてなスターシロクマ先生が以下のような記事を書いてたんだ。


安楽死合法化されたら日本は姥捨て山になる

https://blog.tinect.jp/?p=85698


これ読んでオラすげえ違和感があったんだ。だってこの文章では

こうした認識があったものから、『安楽死合法の国で起こっていること』を読んだ私は安楽死の導入に大きな不安を抱くようになった。欧米、とりわけアングロサクソンの国々で安楽死制度化されるのはまだ理解できる。だが、日本のように自由責任の建付けの曖昧な国で安楽死制度化したら、その安楽死はいったい誰の自由意志によるものなのか、その安楽死はいったい誰のためのものなのか、やっぱり曖昧になるだろう。

と、人権感覚の進んだ欧米では安楽死制度運用可能かもしれんが、人権後進国の日本では無理」みたいな感じで書いてあったんだ。

でも、この文章ネタ元になっている『安楽死合法の国で起こっていること』では、安楽死制度を導入した国で起きたエグい問題についての話がガッツリ書いてあって、人権先進国だろうがなんだろうが、とても人間には運用不可能制度って印象なんだ。

でも、シロクマ先生記事だけ見ると「多少の問題はあるが、人権意識の進んだ国ならおおむね運用可能だし将来の有望な選択肢」みたいに見える。本を読んだオラからすれば、地球人を信用しすぎてないか?って気がするぞ!


シロクマ先生はこのあたりの事件センセーショナルすぎて、持論を書くには邪魔になると思ったのかもしんねえ。確かにこういう事件感情的な反応をする人が多いから、本質的議論ができなくなるってことはありそうだ!

でもオラは、シロクマ先生が書かなかったことはみんな知っとくべきだと思うんだ!ブコメでもあんま突っ込まれてなかったしな!

詳しくは『安楽死合法の国で起こっていること』を借りるなり買うなりして読んでほしいんだけど、本で挙げられている安楽死制度を導入した国で起きたエグい事件について参考リンクを示しながら書いてみるぞ!


参考:https://www.bbc.com/news/world-europe-49660525

最初に書いておくが、安楽死担当した医者安楽死ガイドラインを逸脱はしていないとして無罪となっているぞ!

アルツハイマーを患っていた患者は、以前から介護施設に入るようになるまで症状が悪化したら安楽死したい」「死ぬ時期については自分で決めたい」と意思表示していて、書面に残していたんだ。

で、実際に症状が悪化して施設に入ったんだけど、患者状態悪化していて意思疎通ができなったので、医師がほかの医師とも話し合って安楽死の日取りを決めたんだ。

当日、家族が見守られる中、鎮痛剤入りのコーヒー(これはガイドライン違反)で大人しくして安楽死をさせようとしたんだけど、安楽死用の薬剤を注射しようとしたとき、手を引っ込めちゃったんだ。

どうやら鎮痛剤が効かなかったようだ。そこで医者家族にその患者を押さえつけさせて、抵抗する中で薬剤を注射して安楽死を行ったんだ!

これが「本人の意思確認たか」という点で裁判になったんだ。死ぬ直前になって怖がるなんてこといくらでもあるからな!

結果、最初に書いた通り医者無罪になったぞ!ついでに安楽死前に鎮痛剤とか使って大人しくするのも合法化されたんだ!

うっひょー!そんな死に方はちょっとしたくねえな!


参考:https://www.frontiersin.org/journals/psychiatry/articles/10.3389/fpsyt.2022.933748/full

19歳のとき境界性パーソナリティ障害と診断された患者がその障害の重さから仕事私生活で苦労し続けていて、大学卒業してパートナー暮らし始めて安定したところで、薬物使用パートナーからDVとそれによる別れで鬱を発症、なんとかうまく行きかけてた人生で大きな挫折をしてしまうんだ。

もとからあった希死念慮さらに強くなってたところにセカンドオピニオンで他の医師受診するんだけど、その医師安楽死を推進する団体をやっているような人で、患者アスペルガー症候群であると新しい診断をしたうえで、それの治療を試みることなく、アスペルガーパーソナリティ

障害が併発していることを理由安楽死申請して、認められ、患者安楽死してしまったんだ。

この件は本だと無罪になったとされているが、現在は遺族が大陪審に上訴して現在も争ってるぞ。


たぶん、

こういう記事をふむふむって読んで知識仕入れてる層は原典どころか取り上げた本すら読まねえから適当に書いてインプレ稼いだもん勝ちだしどうせバレない。

って思われてるんじゃねえかな?Webで物書いて飯を食うには確かにこのスタンスは強いと思うぞ!でも見習いたくねえな!


ちなみに、本だと

あたりも書かれてる(むしろ、こっちのほうが議論になりうそうな問題が多い)ので、このあたりの知識がない人間安楽死制度問題を考えるなら、まず一読するべき本だぞ!

というよりこれすら読んでない人は””制度としての””安楽死の是非についてはあまり語らねえほうがいいと思うぞ!自分死にたいとか言うのは勝手だけど、他人を殺す基準を作るなら感情リブンで話しちゃだめだ!

Amazonリンク置いとくから、気になったら買ってくれよな!:https://www.amazon.co.jp/dp/4480075771/


あと、著者のインタビュー記事が本の内容に触れてるから、これ見た後で気になったら買ったらいいぞ!

https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/426/

2024-03-13

anond:20240313141746

君は歴史を調べるとき歴史専門家現代語で書いてくれてる本じゃなくてわざわざ原典を読んでるんか?

anond:20240313104051

わざわざ勉強はしないんじゃないかなぁ。ただ、気になった表現原典確認するのが気楽にできるんで、その周辺も含めて読み直す人は多いと思うよ。

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