はてなキーワード: 尋常ではないとは
年収500万の人は税と社会保障費を引いてざっくり手取り400万。
50万貯金して350万使ったとして、100万が家賃で無税、食料品100万が8%、残り150万が10%と考えて年間23万の消費税負担。
しかもですよ、会社負担も有りますから実際の負担は140万円以上です。(会社にとって社会保障費の会社負担分は人件費と同じ)
ワーキングプアとされる年収200万程度の独身の場合はどうでしょうか?
税と社会保障費を引いて手取り163万程度。貯金ゼロと見て家賃60万が無税、食料品50万が8%、残り53万が10%で年間10万足らずの消費税負担。
額面の約3割が保険料。これを半分にした方が間違いなく現役世代にはいい。
会社負担の社会保障費が浮いた場合、間違いなく給与に還元されます。(還元されない場合、労組が黙っていないでしょう)
半分にする根拠もある。現在年金を受給している老人は額面の1割程度しか払っていません。
なお健康保険の推移は以下のリンクをご参照。当初比約3倍の爆盛りでございます。
https://www.kyoukaikenpo.or.jp/g7/cat330/hokenryouritunohennsenn/
日本の制度では消費税減税なんて現役世代にとってインパクトが少ない。
なのに~な~ぜ~歯をく~いしば~り~
きみは~耐えるのか~
そんな~にして~まで~
源泉徴収という悪魔が作った統治制度に飼いならされているわけですね。
一度起業してみるとわかりますが、自主的に税金を納めるのと、最初から天引きされているのでは痛税感が違います。
老人は収入が少ないので社会保障費の負担が極めて軽く、大きな受益をしています。
日本という国の制度上、極めて優遇されている老人世代ですが、消費税だけは現役世代と同列なのです。
我ら特権階級たる老人、なぜ現役などという平民どもと同列にされねばならんのか?は冗談としても、消費税が老人にとって目の上のたんこぶである事は事実です。
そしてむっちゃ数が多い。もう日本の4割は老人です。
なお選挙権の無い子供がざっくり15%ほどいるので、実質的な日本の支配者は老人と言って良いでしょう。
消費税を上げる時、散々揉めたじゃないですか。
内閣支持率も下がるし、野党にガン詰めされるしで政治家としてもやりたくない件なんですよ。
しかし社会保障費の増額は国会の決議不要です。上げるよ~で終わり。
そして源泉徴収に飼いならされる豚どもは、自分の首が締まっている事にも気づかないわけです。
支配者にとっても、極めて都合の良い話ですね。
源泉徴収を理解していない飼いならされた豚が、老人と野党政治家に踊らされて消費税減税を叫んでいるという話。
何が自分にとって得なのか?考える知性も無く、ただ大きな声についていくだけ。
いやぁ滑稽ですね。飼いならされるってこういう事だなって思います。
現役が主張するなら社会保障費減、あるいは消費税増税からの現役世代への給付や社会保障費削減ですよ。
生活保護や障害者は増税分給付を増やしてやれば何も問題ないでしょう。
老人だってマクロスライド(笑)が有りますし、本当に困れば生活保護でも受けてください。
もしくは、社会保障費増額には国会の決議が必要になる制度改革です。
日本では弱者に寄り添うとされるリベラルが消費税減税を叫んでいて意味がわかりません。
年収500万の人は税と社会保障費を引いてざっくり手取り400万。
50万貯金して350万使ったとして、食料品100万が8%で残り250万が10%と考えて年間33万の負担。
しかもですよ、会社負担も有りますから実際の負担は140万円以上です。(会社にとって社会保障費の会社負担分は人件費と同じ)
なんと額面の3割が保険料。これを半分にした方が間違いなく現役世代にはいい。
会社負担の社会保障費が浮いた場合、間違いなく給与に還元されます。(還元されない場合、労組が黙っていないでしょう)
半分にする根拠もある。現在年金を受給している老人は額面の1割程度しか払っていません。
なお健康保険の推移は以下のリンクをご参照。当初比約3倍の爆盛りでございます。
https://www.kyoukaikenpo.or.jp/g7/cat330/hokenryouritunohennsenn/
日本の制度では消費税減税なんて現役世代にとってインパクトが少ない。
なのに~な~ぜ~歯をく~いしば~り~
きみは~耐えるのか~
そんな~にして~まで~
源泉徴収という悪魔が作った統治制度に飼いならされているわけですね。
一度起業してみるとわかりますが、自主的に税金を納めるのと、最初から天引きされているのでは痛税感が違います。
老人は収入が少ないので社会保障費の負担が極めて軽く、大きな受益をしています。
日本という国の制度上、極めて優遇されている老人世代ですが、消費税だけは現役世代と同列なのです。
我ら特権階級たる老人、なぜ現役などという平民どもと同列にされねばならんのか?は冗談としても、消費税が老人にとって目の上のたんこぶである事は事実です。
そしてむっちゃ数が多い。もう日本の4割以上は老人です。
なお選挙権の無い子供がざっくり15%ほどいるので、実質的な日本の支配者は老人と言って良いでしょう。
消費税を上げる時、散々揉めたじゃないですか。
内閣支持率も下がるし、野党にガン詰めされるしで政治家としてもやりたくない件なんですよ。
しかし社会保障費の増額は国会の決議不要です。上げるよ~で終わり。
そして源泉徴収に飼いならされる豚どもは、自分の首が締まっている事にも気づかないわけです。
支配者にとっても、極めて都合の良い話ですね。
源泉徴収を理解していない飼いならされた豚が、老人と野党政治家に踊らされて消費税減税を叫んでいるという話。
何が自分にとって得なのか?考える知性も無く、ただ大きな声についていくだけ。
いやぁ滑稽ですね。飼いならされるってこういう事だなって思います。
現役が主張するなら社会保障費減、あるいは消費税増税からの現役世代への給付や社会保障費削減ですよ。
生活保護や障害者は増税分給付を増やしてやれば何も問題ないでしょう。
老人だってマクロスライド(笑)が有りますし、本当に困れば生活保護でも受けてください。
もしくは、社会保障費増額には国会の決議が必要になる制度改革です。
数学者の岡潔の情緒論をたまたま動画で見たのですが、ところどころ自分と共通する結論に達しているところがあり、なるほどやっぱりなあと頭を何度か頷かせました。
は、やはり情報補完という技術の域をあまり出ない技術だと思いました。岡潔の言う情緒から発生する智よりもそれら技術は抽象度が低いのです。
とは言っても、欧米人が大好きな緻密な論理も、その発展物であるコンピュータも、情緒ないし直感も、相反するようで、内実それら二つの智は地続きで人の頭の中で常に相補相乗して何かしらの筋肉運動へと変換されていますから、これらの捉え方は政治における右翼や左翼といった不毛な論争をするための物差しのようであり、事を知るきっかけみたいなものでもあり、機会と思考の拡張以上でも以下でもない一種の流行的なら認識手法であると割り切って観察すれば何か穏やかな感じがします。
自分は高度な数学どころか高校生くらいの数学も、概念をチラホラと知るくらいで、まともな計算訓練をしたことがないですが、論理をカンストしたと自分で思ったタイミングがあります。論理をカンストするとは、「人間が人間である以上は習熟し得ない、もしくはまったく到達し得ない知の領域までの論理的な到達手法を発見した」というような意味で使っています。もちろん、現実的時間内での到達手法です。もしそうでないなら、無限の時間やエネルギーを想定しさえすれば誰でも簡単に論理をカンストできてしまいます。
その観点から観れば、今この社会の中を生きる多くの大人たちは、車輪の再発明を、時代と共にアップデートされた道具を使って、ちょっと違う色や形や量や時間の使い方でもって何度も再現しているだけのように観えます。これは継承という親から子へ引き継がれていく営みに対する喜びや自己満足の歩みであり、多くの場合その歩みの中に真なる野心などないということがうかがえます。本質的には、一人一人が自分の体と感覚とその時代にある新しい道具を使って先人の追体験をしているだけという場合がほとんどということです。そうした営みに対して尋常ではない対価が与えられるのが欧米人主導で生み出された現代社会です。
しかしこうした継承ないし営みは、ネタは出尽くしているから当然といえば当然であり、例えば元素の数が大きく変わったりしたわけでもなく、物理法則が変わったわけでもなく、人間のもつ感覚器の細胞の数や種類が誤差を超越して変化したわけでもありません。仮にそれらが変化したとしたら多くのこと、もしくは全てゼロからやり直しかもしれません。しかし、今のように先に進まないのであればいっそゼロにすれば良いのではないかとさえ思う時もあります。
中世という名の暗黒の時代を乗り越えた人類は現在、白黒の時代を生きています。この白黒の時代はいつまで続くのでしょうか。
制御を失った先には必ず痛みがあります。我々には身体中のあちこちに痛覚がありますが、この痛覚の上限を超えて与えられた刺激は周辺組織の量的な死と連続して繋がっています。我々は痛覚を頼りにこの死から免れて生き延びてきました。反面、代謝という緩やかな死は快楽でした。
現代社会はますます死の恐怖が増大してきているように思います。欲を与えられ、欲を満たす手段も与えられ、それに付随するように死への恐怖も増大したのです。過剰な欲は、死を過剰に恐ろしく禍々しいものへと変えます。情緒を失った人間とは実に愚かです。
どこか暖かい南の国のビーチでセクシーな水着を着た美女たちに囲まれてパフパフコンテストを開催したいです。一体どの美女が一番パフパフがうまいのでしょうか。
この世界観、設定、気軽さ、これはまさにメタバースです。メタバースなんて言ってますが、元々が人間一人一人の頭の中は小宇宙ですから、メタバース的な世界観の中を我々は生きています。最近だとイスラエルの歴史学者であるハラリさんのサピエンス全史で国家というフィクションへの言及があったようですが、共同幻想論は30年以上も前に日本人が提唱していました。そのルーツは海外かもしれませんが、そんなことは鶏卵問題の彼方でしょう。
いずれにしてもユビキタスをIoTと言ったり、真ん中分け(エロ分けとも言われた)がセンターパートとか言われたり、言葉の額面が時代や状況に合わせて最適化されていきます。不思議なことに呼び方が変わると人が肯定感をもって動き出すという事もあるようで、パフパフ コンテストにも早急に新しい名前が必要です。
腹が減っている。ずっと空腹だ。何を食べても吐き出してしまうのだから当たり前だ。
満たしたい、空虚感に耐えられないのに、詰め込むと途端に出してしまいたくなる。
胃の皮が引き延ばされて張りつめているのに、発狂しそうになる。耐え難い。
まだ空腹のほうが耐えられる気がする。
いや。
そう思いつつ、毎度気が付いたら食べ物を詰め込んでいるのだからそうでもないのだろう。
気が付いたらといっても意識を失っているわけではない。(当然だ)
自らのその脚でスーパーなり、コンビニなりに行き、カゴをつかんで陳列棚を物色している。目についていいなと思ったものには素早く手が伸びて、気が付いたらカゴが満杯になっている。なんだこれ。これ全部自分で食べるのか? 今から? 尋常ではない量だと理解している。一食、いや一日で摂取すべきカロリーを軽く超えている。腹持ちも悪そうなシフォンケーキや、ポテトチップス。栄養は考えられないくせに、甘いものとしょっぱいもののバランスはこざかしくも取ろうとしている。あとは安くて大量に詰め込むことができそうな袋菓子。自分が何をしているかも、頭の隅でしっかりと理解している。まず間違いなく金をどぶに捨て、後悔することを確信している。
食べて食べて、食べて吐く。食べたくないが、口に運んで詰め込んで、大量に水を飲んで滑りを良くした後に、吐くのだ。胃が空っぽになる感覚を得られるまで、ずっと吐きつづける。たまに指が喉奥に当たり、吐しゃ物に赤い血が混じる。醜い。醜すぎる。自分が生物として劣っていると強く感じ、みじめになる。この瞬間がたまらなくみじめだ。
自分がここまで醜く、愚かで、情けない人間だと思いたくないが、純然たる事実である。見よ、この吐しゃ物を。
カスみたいな医者である。患者の取り扱いはへたくそだ。雑に話を聞き、薬を与えるだけ。
摂食障害はカウンセリングや入院は無意味だと憚らない。摂食障害の治療経験は長いらしい。いろいろと挫折を経験して行き着いた結論であろうとは思うが、再診5回目で初診扱いされたのは少なからずショックであった。こいつ、患者を一切覚えていないではないか。その後も以前にも聞かれたプライベートの話を聞かれ、特定の恋人がいないことを伝えるとその年で独り身は未来がない、不幸になると説教された。
繰り返し私の未来には絶望しかないと予言するのだが、まるで覚えていない様子で、口調だけは親身で心から同情している様子である。私はというと、ノーダメージなわけはなく、毎度自信を失い、打ちのめされて少なくない治療代を支払い薬を受け取って、駅に入る頃ようやく苛立ちが脳天にたどり着く。喉、胸、腹がむかつき、不安が頭を蝕む。
それでも通っているのは、薬が効いた感覚を覚えているからだ。はじめはプロザックという、セロトニン再取り込み阻害薬。抗うつ剤としてアメリカでは流通されているが、日本では認可されていない。初めは飲むと食欲がふっと消え失せ、胸のむかつきが一日中続き、絶食できた。感動したが次第に体が慣れたのか、効き目が薄くなっていき、大量過食と嘔吐が続いたときに、今度はマジンドールが処方された。肥満症の治療に使う食欲抑制剤である。もちろん私は肥満症ではないため、保険適用外の処方だ。実に高い。こちらは過食をしそうな1-2時間前に飲むと食欲を抑えられる。効果は4-5時間ほどだと医者は言うが、実感としては2-3時間といったところか。
マジンドールもプロザックも依存性があるというが、よくわからない。過食衝動がすでに依存症だから、いちいち気にしていない。
砂糖に支配されている感じはする。辛いと、寂しいと、寒いと人は人を求めるが、私は砂糖を求めてしまうようである。糖分は口答えしない。いつでも同じだけの甘さをくれるのである。体に深刻な状況をもたらすが、それは人とは違い、予想できる範囲にある。
自信が持てないのも、見た目と体重にとらわれているのも、自分を自分のまま肯定できる経験がないのだ。それは孤独の中では真に得ることができないのだろう。一人暮らしになり、自由な時間を得たものの、相変わらず私はコンプレックスにまみれていた。「普通の」人々、周りの人々の幸せをうらやみ、自己嫌悪の糧としていた。悲しいことだ。哀れみの目を向けている。そのままの自分でいいのだ、これが私なのだと思っても「嫌だ」と思う。
はあ。ネガティブ。私にはポジの部分もたくさんあるというのに。
楽観的で、適当。ほどよく手を抜き、切り替えが早い。
だが在宅勤務が続き、なんだかその良さが失われつつある。寒さもあるかもしれないが。
なんとか自分の良さを取り戻したい。
もう大人なので、大体こういう時に何をすべきか、どういう方法が世の中にあるのかわかっている。
だができない。いや、やればいいだけなのだが。やる気は始めないと出てこないらしい。
まず、低身長が日頃どれくらい辛い思いを「恵まれた人たち」は理解できないだろう。
私は160cmを下回るほどの低身長で、強いコンプレックスを抱いている。
低身長というコンプレックスを晒しながら、日々生きていかねばならないのである。
厳密にはシークレットブーツを履くという手段もあるが、低身長といえども自分の好きなブランドの靴は履きたい。
低身長は遺伝の影響が大きく、努力でどうにかなるものではない。
確かに身長を伸ばす手術は存在するが、非常に高額でありリスクも高い。その痛みも尋常ではないと聞く。
私自身は割とモテるタイプの人間だという自負はあるが、マッチングアプリではその限りではない。
マッチングアプリという年収や身長といった「数字」が力を発揮する場所では、とにかくマッチングしない。
「低身長が好き」という女性はごく少数存在する。ただ、本当に少ない。
「胸は何カップですか?」「年収はいくらですか?」「体重何キロですか?」
例のプロゲーマーの件では、「炎上するほどではない」といった意見をチラホラ見かける。
先日のモスバーガーのトム・ブラウン超合体CMになんか否定的だったので、識者の俺が音MADの楽しみ方を教示しよう。
最初に言っておくが強烈なハイコンテクストが特徴の文化なのでNot for meと思った瞬間に立ち去るように
そしてなんと教材にもってこいの28秒! この音MADに出会えたからこの増田書いてるまである
各ソースは現時点では見なくてよい
では動画を見ましょう。
タイトルとトラック、特徴的な文字演出からこの動画が「神っぽいな」の音MADということがわかる。
そしてアニメ(もしくは原作小説)を知っていると、画像のキャラクターが結婚相手に高い理想を抱いているシーンを想起する。
まずここで視聴者にコンテクストがロードされる。この作品への向き合い方が決定される。
あまりにもロマンチックな理想の独白が「神っぽいな」のワードとシンクロする
しかしアニメの音声だと思いこんでいた矢先の「高学歴 高身長 高収入」の3連打によりなんだこの音声(音源)は!?の驚きと遭遇する
追い打ちのように音声のリリックはオフボーカルのサビ部分にカッチリとはまり込み、リズムが気持ちよくなる
作中世界にあるはずもない「ママ友とのランチとヨガとネイルサロン代」の登場により感情は更に加速される
ネタとしての異常性という部分ではもちろん、作中婚活期のロキシーの境遇からすればあまりにも遠い理想に胸が締め付けられる。
そして続く「山崎賢人と阿部寛と坂口健太郎を足して割らない」、素材の爆発力である。
まず感情として、割らないで大丈夫なのか、1人で十分じゃないかの不安感が脳裏をよぎる。
そしてその場合顔は3つなのか? それはもう阿修羅なのでは? 阿修羅って神っぽいなと脳のシナプスが一気につながる
そういやケルベロスも顔3つだな。犬っぽいな。ぽいじゃん。脳内の連想ゲームは危険な領域へ突入する
そして化け物「顔の青年に迷宮の奥底で偶然助けられるんです」と原作の展開に帰ってくる
この作品は投げっぱなしではなく、非常に練られた展開という満足感が気持ちよさに変換される
しかしここで終わらない
最後の最後で内容がいきなりYouTuber「syamu game」氏の名言に変化する
「コイニハッテンシテ 素敵なことやないですか」あまりにもの急カーブ、脳はsyamu氏のコンテクストをロードする
そして最後の音声「理想たかっ!」、BGMでは「憧れちゃうわ!」に重なる。歌詞を考えると関西弁のダブルミーニングも想起する
そしてsyamu氏が登場することにより同氏の「おい!それってYO!」という名言も脳裏によぎる。
この動画で描かれていないことまで、沢山のシナプスがつながったと思う。この音MADの素晴らしさが理解できただろう。
非常に素晴らしい音MADでした。
音声素材の強すぎる力を見事に制御しきっていますし、動画のエフェクトも最小限に留めています
とはいえそれは手抜きではありません。
素材の発掘力は音MADの肝ですし、楽曲のPVのオマージュは極めて精緻で丁寧さが伺えました。
キャラクタや楽曲、syamu氏の持つコンテクストのシナジーがキマったシナプス感涙の作品でした。
その性質ゆえに表社会に出ることは稀ですし、件のCMが音MADではない、そうだとしても劣っていると批判が一部でなされる理由もわかっていただけたかと思います。
ここまで聞いてくださってありがとうございます。
それでは最後にトトトトトム・ブラウン、ぱちんこCRおどれまさのりファイアーの作者で知られる零氏がRTしたツイートの引用を持って終わりにしたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
音MADが表沙汰になってることに対して賛成派も反対派もいる様子ですね
僕としては「音MADという手法」は表沙汰になっていいが、「音MAD界隈のネタ」は絶対に表沙汰になるのは絶対にやめてほしい派です
トトトトトム・ブラウン
当方:JAXA関係者(広い意味で。それこそJAXAで体験イベントに一般人として参加したレベルも関係者と含むレベルで考えてくれて良い。その方が身元がバレにくくなるから)
権威と立場がそろえば漫画がクソだからと出版社と敵対関係も取れる。
人によっては「分をわきまえた上で」JAXAの看板を掲げながら出版社と喧嘩することも出来たのである。
ウンチャラ機構とついているお役所は研究を外部に丸投げするタイプと自分らでも割とやるタイプに別れるのだが、JAXAは自分らでも割とやる方に属すると思う。
全ての独立行政法人について完璧に詳しいのかと言われるとコチラもほぼ門外漢に近いのだが、体感だとJAXAはかなり自分たちで研究している方だ。
そして、研究を自分らでやっている組織は権威主義が組織全体、それも個々人の中にまで根深く蔓延っている。
外部に委託している部分が多い組織では、書類や企画に権威主義が蔓延っていても、個々人の感情の中では「看板と名札がどうだってんだよ?なぁ?」みたいな気持ちが強い傾向にある(と思う。知り合いに聞いた話の平均とかで)。
逆を言えば、権威が滅茶苦茶強ければ自分とはかなり無関係な分野に対してもズイズイ意見を押し通すことが出来るのである。
まあつまりは、普通の会社において営業部の部長であれば製造部の係員に「おい。服装がだらしねえぞ」と多少喧嘩腰に怒鳴っても許されるが、相手が科長ぐらいになると表向きは従順な板度をとってもいなくなった数秒後には「あんたにそこまで言われるもんすかね?」と若干冷めた空気が流れたりするアレの度合いである。
これはお役所だからということもあるし、研究組織だからである。
会社というのは究極は利益追求が目的であるが、お役所は組織が綺麗に回っていることが最優先なため、ハンコの序列が持つ力は尋常ではない。
恐ろしいのはここである。
え?マジ?と思ってしまうかも知れないが、やれる人がやろうとすれば「この出版社さんとはJAXAは付き合いませんよ」をぶっかますことが不可能ではなかったのだ。
電話をとっても繋ぐな知らんぷりをしろと言われたらそこで終わるのである。
もちろん正当な要求であれば受ける必要があるだろうが、お願いベース程度ならガンガン弾かれてしまう。
役所は、契約をしている案件なら丁寧に対応するが、そうでない内はなあなあなご近所づきあいが基本を締めており、「公僕なので国民のために全てを差し出しましょう」なんて態度は取らない。
むしろ「我々の労働は税金で賄われているのだから、一企業に対して安易に労力や知識を提供するのもね。正式な手続きでの資料要求ならコピー代で対応するかもだけどそれ以上は……」と冷たい態度を取ることも多い。
なので今回のようなことがあったときに機嫌を損ねた人間が然るべき立場であれば「こんな奴らとはもう付き合わないようにしましょうね」とお触れを出すことも出来てしまうのである。
「分をわきまえる」ってそもそもなんだ?と思った人も多いだろう。
だが、これは役所のシステムを考えればおかしいことは言っていない。
役所のシステムに染まっていなければ出てこない発想なのかも知れないが、役所にどっぷり染まっているとその事に気づけ無いのである。
恐ろしいねえ……。
なるほど。ここが私と違う感じがするな。
精神状態も尋常ではないだろうし、一般的な感覚をそのまま当てはめてしまうのは良くないというのは同意する。
死への恐怖とか痛みへの忌避感みたいな生物としての基本的な情動に関しても、普通とは違うだろうという認識?
私は少なくともそこのあたりは変わらないと考えている。
「死刑判決を受け入れているが、弁護団が強くおすので再審請求する」
は「死刑囚の意思に反していても弁護団が再審請求するはず」という暗黙の前提が追加されている。
死刑囚の意思に反しての再審請求が常態化していることに関する資料があれば考えを変える用意はある。
「死にたくない」と「死をもって償う覚悟がある」は両立するんじゃないかな?
そこについてはどう思う?
動けなくなって4ヶ月が経つ。
立ち上がって10分も経つと失神しそうになる。そのうえ息切れも激しい。
そうすると外に出られない。買い物に行けない。仕事にいけない。
私の身体は社会という輪の中からポンとはじき出されて、魂だけが自宅に軟禁されているかのようだ。
そんな中では些細なことなのだが、私には「宅配の受け取り」という問題があった。
食料、医療器具、薬とすべての物が宅配で届く。健康な人にとっては便利なものかもしれないが、病人にとってはライフラインである。
現代のように宅配システムが発展していなければ、渋谷のスクランブル交差点で寝っ転がり、決死隊同然のデモを起こすしかなかったのかもしれない。デモ当日が晴れであることを祈るばかりだ。
とにもかくにも、宅配のおかげで何とか生きていけている(しかし、これも貯金が尽きるまでという期限付きの安息であるが)。
だが、宅配にもまた壁があった。
まず突然のドアベルが怖い。当然のことながら、配達人は私の事情を把握していない。食後の調子が悪い時間帯でもお構いなしだ。
しかも、驚かせるというのがよくない。私の心臓は壊れているので、驚くと心拍数が上がる。これまた尋常ではない上がり方なのだ。
最悪の場合、悪い調子のさらに悪い状態で対応する必要があるということだ。
マスクは必須である。ワクチンの副反応によってこの窮地にある以上、コロナに罹患した場合はさらに命の保障がない。
そして、とぼとぼと玄関に向かう。
息切れも強くなるし、胸も痛い。
なんとか玄関に着く。そしてドアを開ける。
そして、自分の背でよいしょとドアを支える。
それから頑張って応対する。首もうまく動かせないのでにらみつけるような形になるが許してほしいと願う。商品を手渡される。重い重い重い。
まず、ドアストッパーを購入した。
玄関ドアに磁石でくっつけるタイプのストッパーだ。磁力が弱かったらどうしようと考えていたが、それは杞憂だった。
ドアの下部にストッパーを近づけると、金属の本体部にパシッとくっつく。ストッパーを下ろすと小さい部品で大きな玄関ドアを力強く支えてくれる。
素晴らしい。
このドアストッパーのように小さくとも力強い人間になりたいものだ。
これなら、わざわざ自分でストッパーを下ろさずに済む。本当にありがたい。
次に玄関前に椅子を用意した。立って対応するのを避けるためだ。
配達人が来ても落ちついて座る。私は座位でも心拍数が高いが、立位より全然良い。
今のところ、全員が書いたとおりに対応してくれる。
重ね重ね、本当にありがたい。
あとはわずかに生じた余裕でもって、心ばかりの笑顔を作ればよい。
何も対策をしてなかった頃の私は、まさに必死の形相で対応をしていたのだが、お姉さんは何の気もなく。
「あ、いいっすよ」と荷物を床においてくれた。
そして、最後に「大変ですね」とニコッと笑って、颯爽と去っていった。
ありがたい。ありがたいが、なるほど。
これはもしかして、こちらが「そうして下さい」と言ったほうが、向こうとしても楽なのではないか。
そう思ってこの対策を準備した。
玄関ドアを背中で抑えて、にらみつけながら対応されるよりよっぽど良いのではないだろうか。
ギャル風のお姉さんには頭が上がらない。二十代前半だろうか。年齢など、人の器の大きさには関係ないものだなと心底実感する。
ちなみに、ここまで読んだ人は、「置き配」という手があるじゃないかと思うかもしれない。
私も「置き配」が可能であれば利用しているのだが、二つだけ例外がある。
まずは、置き配に対応していない業者があること。二つ目に、ネットスーパーだ。
ネットスーパーに置き配を頼むとコンテナに入れてくれるのだが、そのコンテナが固い。労作性の頻脈でもある私は、ほどくだけでえらく疲れてしまう。
なので、ネットスーパーに「置き配」は存在するが、必ず対面で受け取るようにしている。
タイトルの「いかにして動けない私が安心して宅配を受け取れるようになったのか」という問いに対しては、小さな工夫を積み重ねた結果という答えになるのだろうか。
現状では問題だらけに見える東京五輪だが、明日の開会式で一気に潮目は変わって大成功で幕を閉じることはほぼ間違いないだろう。
7月24日にこの投稿をもう一度読んでほしい。それくらい自信がある。
日本人の(いい意味でも悪い意味でも)忘れっぽさは尋常ではない。今までの騒動をすべて忘れて、テレビが流すメダリストたちのパーソナルヒストリーに感動し、涙する国民が続出する。
オリンピック後に小山田氏や小林氏の騒動を持ち出す人は空気が読めない人扱いされるだろう。
また、報道によれば、開会式はドローン等を効果的に用いて演出がなされるほか、日本のサブカルチャー要素をふんだんに用いる見込みだということ。
このサブカルチャー要素がミソであり、ゲーム、アニメ、漫画等のキャラクターや演出(ネタ)を取り込めば、(タレントがオタクアピールするとすぐに引っかかる)ネット民は大喜びして、開会式の演出について語るだろうし、使われるテクノロジーによっては、それに詳しい界隈も参戦して、開会式の演出の「元ネタ」「裏ネタ」で一種のネットジャックの様相を見せるだろう。
断言するが、明日の開会式後はの開会式の演出についての話題がテレビはもちろんのこと、Twitter、はてブ、ヤフーニュース、すべてのプラットフォームをジャックして、五輪一色になる。
サブカルに偏った演出だと、ネット民やサブカル好き以外はついてこれないのではないか、という疑問が生じるだろうが、この層はもともとネットを見ずにテレビで情報収集しているので、全力でオリンピック盛り上げるマスメディアに乗せられて、オリンピック選手や競技にまつわる話題を一生懸命フォローするだろう。
私は7年近く運用しているtwitterアカウントがある.
何でもかんでもフォローして,とめどなく流れるTLを眺めるという生活をかれこれ5年近く続けている.もはや日課となっている.
コロナの影響もあり,最近は人生に緩急がなくなったためTweetもほとんどせずROM専といっても差し支えない状態になってはいるが,Twitter歴だけで見れば中堅と名乗れるくらいの自負はある.
そんな中で,ここ数年でtwitterで漫画を連載するというものが非常に増えたように感じる.
理由は様々あるだろうが,わかりやすいものは「ビジネスに直結する」というものがあるのではないだろうか.
以前までは,漫画家という職業は作品を編集部に持ち込んで,編集者に精査してもらうことで連載を獲得する.またはコンテストで優秀な成績を収めることで編集部に見初めてもらうというものであった.
しかし,今の時代はSNSに投稿することで世間のインプレッションが数字としてわかりやすく提示される.
そうなれば企業が放置するワケもなく,やれコミックス化だ,LINEスタンプだと,とんとん拍子に話が進んでいく.
そのような一連のムーブが確立してしまった以上,漫画家はSNSユーザ向けにと自身の作風を寄せていく.
わかりやすい例を挙げると
・しろまんた作『先輩がうざい後輩の話』
そういう漫画が私は読めなくなった.
別にこの二作品が特段悪いわけでも,これらの作者が嫌いなわけでもない.
この感情を初めて覚えたのは,しゃしゃき作『オタクだってギャルと恋したい』通称『オギャ恋』と呼ばれている作品であると記憶している.
この作品は賛否両論を巻き起こしたきくちゆうき作『100日後に死ぬワニ』のブームにあやかって作成された100日間で展開するというフォーマットに従って進行し,「100日で冴えないオタクが身の回りのギャルたちとの間で展開する恋模様を描く」というものである.
まずこの作品の素晴らしい部分は述べなければならない.何度も断っておくが,作者が嫌いなわけではないし,表現者に対するリスペクトは少なからず持っている.
この作品の称賛できる点は,100日間きっちり描き切ったという部分である.
『100日後に死ぬワニ』が完結した2020年3月下旬,Twitter上で「100日後に〇〇」という作品が大量に溢れた.そのほとんどが100日描き切ることなく中断した.しかし,しゃしゃき氏は根気強く描き続け,先日無事100日目を迎えた.
それに加えて,『100日後に死ぬワニ』と異なり,イラストの水準をかなり高い状態で保ったまま完結させた.キャラクターの表情,髪の毛のツヤ,服のシワ,陰影,背景に至るまで緻密に描かれており,とても描き続けられるような作風ではなかった.しかも本編とは別でキャラクターのオフショット(?)のようなイラストも投稿している.尋常ではない努力だと思う.そういった部分は作風関係なしに賞賛すべき点であると感じる.
しかし,1日目を読んだ段階で私は読みたいと感じられなくなった.
理由は単純だった.「あまりにもステレオタイプ.それでいてオタクをターゲットに見据えすぎている陳腐さ」であった.
ここで,オギャ恋第一話を紹介する.
制服を着崩し,自身の巨乳の谷間を見せている金髪ロングのギャルが,オタクの机に座り「おいオタクっ気持ち悪い漫画ばっか読んでんじゃねーよ笑」「今すぐ購買行ってパンかってこい 秒でなっww」とオタクをからかっている.
この絵を見た私はいたたまれない気持ちになり,次回を能動的に待つことをやめた.しかし私のとどまることのないTLは容赦なくこの作品をリツイートを通して流してくる.私がこの漫画の完結を知ったのもそういった理由である.
このようなことを言うとミュート,ブロック機能を推奨する意見が散見されるが,私自身のエゴで赤の他人をミュート,ブロックするという行為は私自身のTwitter運用に関する信念に反するのである.
わかりやすく言えば,「この程度のことでミュートなんてしたくない」というくだらないプライドなのである.
そういったどっちつかずの感情をぶら下げている自分自身にも嫌気がさす.
本題に戻るが,オギャ恋1話はステレオタイプのギャルがステレオタイプのオタクにステレオタイプのからかい方をするというステレオタイプの展開であった.
私はこのような展開が嫌いというよりも,「こういうの描いときゃウケんだろ」という浅ましさが作品から漏れ出ているような気がしてならないのである.
事実,この作品は多くの支持者を得て,人気作品となりコミックス化も果たした.
そういった作者の考えがあることないこと自身の脳内で想起される感覚がたまらなく気持ち悪いのだ.
いつだったかダ・ヴィンチ・恐山が発言していた「頭の中のインターネットが勝手に炎上する」というものが最も的を得た表現であると思う.
とあるツイートに関して,存在しないユーザが些末なことから揚げ足を取り,その結果炎上するという想像が脳内で組み立てられる.
そういった良くないシミュレーションが長くTwitterを運用していると増えてくる.言い換えれば,ツイートの内容を見てリプライが予測できるようになる.
正解不正解関係なく,人の考えをツイート一つから読めるようになっていき,それが制御できないのである.
純粋に楽しめばいい漫画やイラストにも「どうせこういうのが評判良いから描いてんだろ」と歪んだ視点で見るようになってしまったのである.
何度も例として挙げて申し訳ないが,オギャ恋も当時ウケていた100日フォーマットを採用したがために歪んだ視点で見ざるを得なくなった.
それ以降どのような漫画を読んでも,ポジティブな感想を押しのけてネガティブな感想が優位に立ってしまう.
生意気な後輩に弄ばれる展開
それらすべてが「純粋な面白さを求めた結果」ではなく「ウケやすいテンプレートに則った結果」になっているような気がして嫌になる.
上記の展開が繰り広げられる作品を一つくらいはイメージできたのではないだろうか.
つまりはそういうことである.面白い展開だけを引っ張ってきて,自分の画風をかぶせた作品が世の中に氾濫している.
中世ヨーロッパ異世界転生がなろうのテンプレだと馬鹿にされていたが,それが現在進行形で複数の設定がTwitterで消費されている.なろうの二の舞になっている.
設定構築に尽力し,作りこまれた世界観で物語が進行する漫画が読みたい.
しかし,万人受けを捨てて自身の思う面白さのみにフォーカスした作品よりも,浅く何度も見たことのあるテンプレ通りの作品ばかりがTLには流れてくるジレンマ.
どうすりゃいい?
バングラデシュ続報。
本日6月28日の新規感染者数が一気に8千人を超え、陽性率も24%と過去最高水準となった。
【スリナガル(バングラデシュ)AFP時事】バングラデシュは、隣国インド由来のデルタ株の猛威で新型コロナウイルス感染者が増えているため、28日からロックダウン(都市封鎖)を強化し、住民の外出を禁止する。これを受け、首都ダッカからは27日、労働者数万人が大挙して脱出。すし詰めの船に乗って故郷の村へ向かった。 警察高官は「定員オーバーの乗船はやめてほしい。しかし、誰も聞いてくれない」と嘆いた。ダッカ近郊スリナガルの船着き場で乗船を待っていた女性(60)は「仕事ができなければ、どう家賃を払うのか。村に帰るしかない」と話した。
によれば、これまでの感染者数は89万人弱。死者数1万4千人あまり、と、超人口密度の高い首都をもつ発展途上国というハンデのなか、
相当に善戦してきたといえると思う。
前回3~4月の第2波を乗り切ったあと、ラマダン、そしてラマダン明けの祝祭ムードを迎えるなか、
じわりじわりと感染上昇がつづいていたのはウォッチしてきたが、当時はまだ南アフリカ株が中心といわれていた。
ここにきてデルタ株が主流になったのだろうか。デルタ株恐るべし。
しかし、報道されているような、尋常ではない形でのひとの流動が(乗車率500%みたいな光景はバングラデシュでは普通なのかもしれないが)
それにしても日本は開かれたインド太平洋とか標ぼうして、中国と張り合うそぶりをみせているくせに、
そして政府の水際対策は、まるでナマケモノのようにスローペースだ。
ちょうど2週間前の6月14日、南アジアからの帰国者、入国者の隔離10日間をなぜかバングラデシュだけ6日間へ短縮。
感染上昇中の最中、なぜ???と思っていたが、どうしても経済活動を再開したいらしい。アパレルを中心にいろいろあるのだろう。
酔った勢いでフルチンになってボコられ大恥をかいた話を前に書いたけど、似たようなことを地元の祭りの日にもあった。間違いなく俺の人生の「痛い記憶ベスト5」には入るな。
たぶん二十歳になったばかりのころで、トイレでの集団いじめがきっかけで中退した二年後だから、ふつうに地元の工場で過酷な勤務を続けていたころだ。
ほとんど親しく話せる年配者や年少者がいないにもかかわらず、祭りだけは強制参加だった(そんな了解がむかしからあった)。
でも最後まで誰とも親しくせずにフンドシですごすのはさすがに酷なんだ。
なんというか虚しさが先行する。どこにいても居場所がない。居場所がないのは慣れてて、いつものことなんだけど。祭りはなにしろ長いから。
それに非力だから地味に重い神輿がきつい。肩もいかれる。ほかの兄弟は休日だからいいけど、俺にはよくじつ肉体労働があるんよ。睡眠不足にもなるし!きつい
孤独の時間をまぎらわすため、俺は二十歳になって覚えたばかりの酒ばかりをハイペースで飲んでいたな。
酔いが回るのが超絶早かったな。
俺は悪いところだけは親父と似ていて、飲んでいるうちに何もかもにムカついて喧嘩腰になるなんだな。喧嘩が弱いくせに喧嘩をふっかけ逆にボコられるケースはこれまでに何度もあった。
祭りの後半、十一時過ぎ、神輿をかつぐ連中もだらけてきたあたりの時間だったけど、当時19歳頃の弟や当時22歳頃の兄貴が女をつれてことあるごとにイチャイチャしていた。
俺はそのころようやく出会い系で知り合った女に金だけ絞られ罵られ捨てられたばかりだったんだよ。職場でもろくなことないし。
だからむしょうにムカムカしてきたのを覚えている。それに基本的に男ばかりの祭り空間に女がチャラチャラ入り込んでいることにも不満だった。あの和気藹々のムードをぶちこわしてやろうと思った。
(俺をゲジゲジのように毛嫌いする妹によれば)これぞ人間のクズ
(俺が話しかけても全て無視する弟によれば)キング・オブ・腐れチンポ
酔いの勢いも借りて、兄貴カップルと弟カップルが仲良くしている場に乱入し大声で怒鳴ってやった。この場をなんだと思ってるんだ、いますぐ女は帰れ、みたいなことを口汚く叫んだ気がする。
想像通り、すぐに返り討ちにあったんだな。ミゾオチに兄貴の一発をくらい死ぬほどの痛みにもがいたね。一瞬目の前が真っ暗になるあれ。
兄貴もかなり飲んでいたのでメチャクチャ手荒くて、腹蹴り股間蹴りを何回も何回も繰り返してきて、地面に倒れこんだよね。その時点でK・Oだった。K・Oしてる俺の足をつかんで兄貴はかなり派手に引きずりやがった(その地面がコンクリートだから背中が残酷なくらいに剥けて、その日のシャワーはもう地獄で悲鳴あげた)。
たしかその引きずられた直後のタイミングでめちゃくちゃ吐いたと思う。腹ボコボコにされてタマ蹴りもモロで食らってたから。それにやたら息苦しかった。
祭り自体がメチャクチャやかましいのでこういうリンチはたいして目立たなかった。だからだんだんエスカレートしたんだと思う。
それに俺が盛大にボコられるのを祭りの参加者は毎回見てる(一番無意味にボコってくるのは親父なんだけど)。
兄貴は一度怒ると誰にも止められないんだよ。特に俺への怒りはすさまじいものがあったな。
地面に崩れ落ちていた俺からフンドシを力ずくで外して、グロッキーになったフルチンの俺を羽交い絞めにして、弟やその不良系の同級生どもに「おいお前ら、やりたいだけやれ」とか面白そうに叫んで、俺はかなり長いあいだ弟達のサンドバッグ状態だった。
羽交い絞めのフルチン男を五、六人の男が交代で殴るなんてありか?
尋常ではない痛みと恥ずかしさのせいで意識も遠ざかっていたな。だから細かいことは覚えていないなー。
だって殴る奴ら全員本気だし普段からガチの格闘系の喧嘩やってる連中だったから。顔は腫れあがって怪物みたいにパンパン、腹もボコボコ、足の関節も集中して蹴られたのでおかしかくなった。野球の軟式ボールを本気で投げたのも当てられるし、弟の得意技タマ蹴りは見事に直撃して気絶しかけるし(だってフルチンですから)、石や空き缶の的にもなるし、ちん毛ファイヤーはされるし(軽い火傷もした)、プロレスの関節技の実験にもされるし、顔も踏みつけられまくるし、殺虫剤はかけられるし、唾や痰は吐かれるし、もう酔いに任せた集団リンチ。
ところで俺、そこまで悪いことした?←素朴
ただ、兄貴と弟の女なんかももかなり酒が入っているので、楽しそうにキャッキャッキャッキャッ騒いでいたのは記憶してる。何人かは携帯カメラとかも向けてたし。
もっとやれ、ぶちのめせ、キンタマ蹴り上げろ、その不潔な腐れチンポ攻撃しろ、キモイだけの嫉妬野郎は退治しろ、なんてことを女どももガキどもも叫んでいた。集団リンチは怖いことを知ったな。
しょうじき殴られてるのは俺じゃなかったら絶対に誰かが止めてるはずだけどね。やっぱりボコられるのは俺で決まりという空気。それを身に染みて感じた。ふだんから嫌われてて暗くて生意気で友達ナッシングだから。しかもとびきりの不細工。周囲の評判もめちゃくちゃ悪い。
そういや弟はボクシング大好き人間でいつもシャドーボクシングみたいなことやってたので、いつも兄弟喧嘩があるとこんな展開になってたな(兄弟喧嘩といってもけっきょく俺が一方的にボコられるだけだが)。
ボコボコにされて痛くて気持ち悪くて立ち上がれないでいた俺はさいごに飲みかけのビールを頭から盛大にかけられて、いつの間にか集まってきた人垣の帰れコール、笑われながらチンポをかくして着替え場所のある公民館に命からがら帰りましたとさ(というのもフンドシは捨てられて見当たらなかったから)。
その日は帰って若槻千夏ちゃんの写真集でマスかいて寝ようとしたが、腹部と背中の中央部が痛すぎて全然寝られなかった(調子にのったガキが軟式ボールをがちで当てやがったから。しかも皮がめくれてた)。というか腹を殴られ過ぎて気持ち悪く何度も吐き戻した。そもそも殺してやりたいくらい兄と弟にムカつていた。というかあの場にいた奴ら全員をめちゃくちゃ呪っていたね。その後数か月は歩くたびに足に膝に激痛を感じて仕事にも支障出たよ。医者にみてもらったのは当然だが。あのころのメンタルはがちでやばかった。
生まれてから身も心もいつも安定してボロボロだけど、その頃はいつも以上にボロボロだったな
翌朝親父がその件を聞いて、俺はまた猛烈なビンタと腹蹴り(これはたいていセットだった)を食らい、兄貴と弟に対して土下座させられる羽目になった(親父はとにかく謝罪感情を土下座で表現させたがった。ほとんど俺だけになんだけど。俺が土下座ナンパになんの抵抗もないのはその経験のおかげなのかな。ある意味親父のおかげなのか?)。
おしまい。なんのタメにもならないクズエピソード、読んでくれてくれてありがと。
俺みたいになるなよ、みんな。
そんなことはないと思うが、そう考えたくなった出来事を綴る。
先月のこと、個人医院の待合室に座っていたら幼児が私に向かって走ってきた。顔をみて驚いたのだが10年以上前に死んだ父親の顔が被さっていた。
正確にいうと映写機のスクリーンの前に人が立った時のような、その男の子の顔は微かに透けて見えるのだが、はっきり見えるのは父親の顔だった。
私は子連れには親切をモットーにしているので普段ならにこやかに相手をするのだがこの時は無理に作った笑顔が引きつっていた気がする。
「すみませーん」と子どもを回収に来た母親には辛うじてにっこりできた。
それで終われば疲れて見えた幻影で済むのだが、その後その子が私の方へくることくること。
懐き方が尋常ではない。診察が近くなって中待合なる場所に私が移動しても、母親が手を離した瞬間に走ってくる。
中待合の入り口が滑るらしくて毎回転びそうになるので、滑る地点近くに待機して倒れる前に捕まえなければならないほど。
最後の方では母親が「一体どうして・・・」と叫びながら回収に来た。どうしてなのか私も知りたい。
その子は最初にやって来たときは診察室から出てきたときだったらしく、会計を済ませて帰る、多分10分少々、長くても15分ほどの間によく覚えていないが7回以上は私のところへやってきた。
途中から「お父さん、やめて」と心の中で叫んでいた。
さすがにあの顔に「坊や」とは言えなかった。もっとも坊やがどんな顔をしていたのかはよくわからない。
きっと私はとても疲れていたんだと思う。顔を直視しない大人(怖くて出来なかった)に子どもは懐くものなのかもしれない。多分そうだ。今度ねこで試してみよう。
標題の通りである。その日は私の誕生日であった。お祝いを兼ねてご馳走してくれるというので、一緒に焼肉店に行った。昼間から酒を飲んだ。
私は私の実家という場所をどれだけ憎んでいるかについて彼女に熱弁した。自ら進んでそうしたわけではない。彼女は「親は大切にしろ。なぜなら親だから」という全く論理性のない言説を突きつけてくる時があり、その日もそれを突きつけられたので、反論やむなしという形であった。私は私の両親が金銭面では何不自由なく育ててくれたが、実家というブラックボックスの中で行われていた虐待に相当するであろう具体的事例を次々に並べた。
過去にもそんなことを何度か繰り返していた。私がいつもたどり着く極めて頑固な結論「両親には二度と会わない」を聞いて彼女が泣き出すこともあった。なぜ彼女が泣くのか私には理解ができなかった。
私の熱弁が一段落したかしないか、ふと、彼女の様子が変わったように思えた。今まで見たことのない、開き直ったかのような態度だった。「誰にも言ってない過去があるんだ」と彼女は言った。
どのようなリアクションをしたか、よく覚えていない。「ふーん」みたいなことを言ったのだと思う。「何それ知りたい!」というようなアプローチはしなかった。彼女は「普通の人はしたことのない経験じゃないかな」というヒントを勝手に開陳してきたので、「殺人か?」と私は思った。結論から言うと、殺人を含む犯罪行為全般ではなかった。
それは「札束を投げつけられたことある?」から始まる話だった。私は札束を投げつけられたことはないし、札束を誰かに投げつけようと思ったこともないし、そもそも札束を手にしたことがないので、「ないね」と応答した。この「札束を投げつけられたことある?」は質問というよりは反語と捉えるべきだろう。つまり「(あなたは)札束を投げつけられたことある?(いや、当然ないよね。私にはあるんだ)」ということであり、私の「ないね」は誘導された応答であった。鬱陶しい会話のシステムだなと思った。
「四つん這いになって口でその金を拾ったらくれてやるよ。お金に困ってるんだろ?」と言われたことが殺してやりたいくらいに悔しい、と彼女は泣きながら言った。ここは閑散とした食事処であり、個室であるとはいえ、昼間から慟哭するには不適な場所だと思った。私がそれを伝えると「別にいいじゃん」と彼女は言った。そうかいいのか、と私は思った。彼女のおおよその事象に対する「別にいいじゃん」という態度を私は好ましく思う。
彼女のその「誰にも言ってない過去」とやらについて「風俗とか?」と私は言った。彼女は大きく頷いた。少なくとも控えめに頷いてはいなかった。
「えっと、風俗にもいろいろあると思うんだけど」
「だいたい全部やった」
「え、ソープも?」
「うん、高級店」と彼女は言った。自ら高級店という情報を付け足してくるところに何らかの矜持を感じた。今思えば非常に下世話であり不適切なのだが、ついつい価格を聞いてしまった。彼女の口からとんでもない額が返ってきたので、高級も高級、最高級店であることが強く推測された。
驚きはしなかった。正直なところ、点と点が見事に繋がった印象であった。その点たちについては生々しい話になるので詳しく書かない(*追記あり)。
彼女がこの話をなぜ今打ち明けようと思ったのかはわからない。今日を狙って計画していたとは考え難い。おそらくは、私が私の家庭環境についてネガティブなことを整然と並べていくので、あなたより良くない境遇の人もいるんだよという具体例を身を張って示したのではないかと思われる。だが、人それぞれに地獄があるのであり、その話を聞いて、「そっか、自分の境遇なんてちっぽけなものなんだ」とは全く思わなかった。
彼女の誰にも言ったことのないという秘密はもはや誰にも言ったことのない秘密ではなくなり、その代わりに私が誰にも言えない秘密を抱えることとなった。ただそれだけだった。(そして、それをこうして書いているので、私の誰にも言えない秘密は誰にも言えない秘密ではなくなった。読者の数だけ秘密は薄まる。)
「いつか言わなきゃって思ってたんだ。言っちゃった。もう終わりだね、私たち」と彼女は言った。それは違うと思った。
彼女は我々の関係を終わりにするためにカミングアウトをしたわけではなさそうである。と言うことは「もう終わりだね、私たち」は、私から「いや終わりじゃないよ。どんな君でもいいんだ。そばにいてほしい。言ってくれてありがとう。これからもよろしくお願いします」という返答を誘導しようとしている、と私には観測された。鬱陶しい会話のシステムだなと思ったので、上記の観測をそのまま伝えた。
すると彼女は、少し考えた後「これからもよろしくお願いします」を手を差し出してきた。これは違わないことが瞬時に判断できたので、私は食い気味に「こちらこそよろしくお願いします」と言って彼女の手を握った。彼女は今日一番の勢いで号泣した。この白日の飲食店は号泣するに相応しい場所だと私には思えなかったが、彼女が「別にいいじゃん」と言っていたのを思い出したので、別にいいか、と思った。
【追記】
「生々しい点についてちゃんと生々しく語らない鬱陶しい文章のシステムじゃあ読者はついてこないぞ」という言及があり、クリティカルな言及だと思ったので、生々しい点について書く。生々しくない点も含まれる。
・海外旅行に行った思い出を話してくれることがよくあったのだが、その海外旅行の頻度が尋常ではないと思われ、どこからそんなお金が出てくるんだと思ったこと。
・アイドルの追っかけのために日本全国を飛び回った経験があると言っていたのだが、どこからそんなお金が出てくるんだと思ったこと。
・「コンパニオンの仕事をしていた」と言う時があり、そのコンパニオンって何だね? スーパーコンパニオンか? と思ったこと。聞くと、コンパニオン=風俗ということだったみたいだ。
・フェラチオの技術が素人の犯行とは思えなかったこと。また、精液を口に溜めたままこちらの処理を優先して行っており、やはり素人の犯行とは思えなかったこと。
・恋愛にセックスは必須ではない、なんなら全くセックスがなくてもいい、と言って行為を拒否することがあったにも関わらず、アンダーヘアの処理は継続して行われており、その処理技術について自ら上手だと言及していたこと。かつての習慣の名残りではないかと思われる。
・なぜ彼女が全くセックスがなくてもいいと思っているかというと、ソープ嬢時代にいろんな性欲の塊みたいな醜い男どもを見てきたので、恋人にはそういうものを求めなくなった、と説明していた。確かに私はまだ付き合っていない段階で、彼女を家に上げても全く手出しをしなかった。性欲がなかったわけではなく、ただ単に意気地がなかっただけの話である。
・ちなみに、恋愛にセックスは必須ではない、なんなら全くセックスがなくてもいい、という彼女の方針により、現状レスである。フェラチオさえない。付き合いたての頃はあったが、今はない。付き合いたての頃のセックスも彼女は嫌々やってたのかもしれないな。浮気をされている可能性は限りなくゼロに近いと思う。私は今でもしたいので、おおよそ悶々としている。
・彼女が元高級ソープ嬢だったという話を受けて、「そう言えば俺この前高級ソープ行ってきたわ」という謎のカミングアウトをその場で私もしてしまった。
・元高級ソープ嬢だったという話を聞いて、ソープランドでも行くかな、と思った。考え事が増えた。たくさんの不特定多数の男に抱かれまくってきたにも関わらず、私とはそういう行為をしないというのは、彼女なりの事情があるにしろ、ちょっと理不尽なんじゃないかなと思った。某ソープランドのホームページを開くと、完全顔出し激かわ女子が昨日の入店であった。写真を見ただけでこれ以上にないくらいに興奮した。行こうかどうか本気で迷ったが、結局行かなかった。場所が遠かったからである。近くだったら確実に行ってた。
ハクスラモンスターズはいわゆる放置RPGで1日に3回位起動するだけでアイテムが手に入ったり仲間が増えたりするゲームだ。
課金要素もあり、『チケット』という課金アイテムを使うことで、その取得効率を引き上げることができる。
この『チケット』は1ヶ月に購入可能な枚数が定められていて、廃課金勢が『チケット』を一瞬でぶっ放したりすることはできないようになっている。(一応無料でも広告で貰える)どちらにせよ課金ゲーであることは間違いないが、この辺は上に縛られないインディーズならではの仕様だと思う。
で、このチケット。プレイヤーは特定のタイミング以外では絶対に使わない。なぜなら一定の周期で開かれる『二つ名取得率1.5倍』イベントとチケットの効果が重複適応されるから。このイベントの期間以外でチケットを行使するのは控えめに言ってアホの所業でありプレイヤーはチケットを買ったり集めたりしつつもイベントを延々と待って増えていく枚数を眺めている。
最近は1日に10枚まではこのチケットにイベントと同等の効果が付与されるようになったが要するに1日10枚までしか使ってはいけないので、時々誤爆して10枚超えて使った奴がUIに文句を言ったりする。
恐らくこのイベントと購入制限はプレイヤーの課金タイミングを被らせることによって局所的にアプリストア上位に行くための経営戦略なのだろう。それはそれとしてプレイヤーはゲームのシステム的にはメリットしか受けていないので文句は出ない筈……なのだけど、言葉に言い表せない『縛り』を感じる。
最適解を選ばされている。にも関わらず仕様上は自由に使ってくださいね。定期的にメリットのある日もありますよって言ってるだけなので文句も言えない。
そして今日。3月29日にて実装されたアップデートでは特定のダンジョンにおいてのみ探索効率が期間限定で向上するという機能が追加された。この探索効率が向上するダンジョンは既存のマップから選ばれ、一定周期で変化する。基本的にこちらは課金とは無関係なので開発者の善意とも言えるシステムなのだろう。普段は行く機会の無いダンジョンで思わぬ巡り合わせを得てくださいと言う素晴らしいシステムだ。
縛られている。
恐らく先述の『チケットのジレンマ』は他のガチャゲーでも自然と形成されている普遍的な縛りだと思う。だから仕方ないと思うしかない。
けれど、今日のアップデートは別だ。『ハクスラ』を名乗るゲームで意図的に作り出された効率選択。これを選ばされる事に対するストレスと選ばない選択によるストレスが尋常ではない。
明らかに喜んでくれると思って作ってる機能の筈なのに、いっそ無いほうがマシ。意味がわからない。
まあこんなニッチなゲームに関する効率に犯された異常者の話題には誰も反応してくれないだろうしここに書き捨てておきます。……嫌ならやめろって?嫌じゃないよ。面白いよ。
引き金を一キログラムの力で引くと、薬室内で火薬が炸裂し、ガス圧がなまり玉を押し出す。
ハンドガンを包む手から反動が伝わる。手首、肘、肩、身体全体へと、重い衝撃が吸収されていく。
その時俺は機械になる。
スライダーが引き戻され、次弾が薬室に装填される。
一発、二発
ヘッドショットが決まる。
撃ち終わった瞬間、それは自動的に分かるのだ。
水切りを投げた瞬間に、何回弾むか分かるように。
作業は続く。
一分……五分……二十分……。
人は戦場になれてくると日常とは異なる感覚を身につける。例えば停滞に対する尋常ではない恐怖がある。
よく何もしないで人生の停滞期間を過ごすことを『くすぶる』なんて表現をするが、そんなものとは比べ物にもならない。
同じ場所に隠れ続けることがどれほど困難だろうか。じっとしていると凶弾に倒れる幻影で脳内が埋め尽くされる。
既に囲まれているのではないか? 今動き出せば助かるのではないか?
やがて、それらの幻想に殺されるのだ。
力なくその場に崩れ、動かなくなる。
当時高校生だった私は3.11のその年に福島県の大学(会津大学)に入学しました。あれから10年も経ってしまったので、私のごくプライベートなことについて書きます。
2011年の3月11日に、私は茨城県の博物館の中にいた。高校の卒業式が終わって、車の免許を早々にとったらしい友人と二人、車で博物館にきていた。地震のとき、私は吹き抜けの空間の中心にいて、長い振動の間、博物館全体のガラスは轟々と鳴り響いていて、「ああ、私は、今日が命日なのだなぁ」と人々の動揺の中、思った。
実際にはガラスの耐震性能が高かったので、館内にはけが人はいなかったようだった。
信号機の止まっている、徐々に昏れていく道を、車中でほとんど会話もなく急いで帰った。急いで帰ったけれど、通常の2倍以上もかかって家についた。
私は地震の直後、2ちゃんねるに張り付いていた。「福島の原発がやばいらしい」そんな書き込みを見て、いよいよ日本は終わったんだ、と私は思った。
私が高校生の頃、世界の原発事故のドキュメンタリーが大好きだった。チェルノブイリ、スリーマイル島、東海村。「原子力」という尋常ではないエネルギーが生身の社会に取り込まれて、人間の内側におとずれるということに私はなんとも言えないグロテスクさを感じて、親や友達に気持ち悪がられながらも読んでいたのだった。
当時、特にJCOの臨界事故のNHKのドキュメンタリーは何度も読み返したものだった。事故が起きた時、「出奔した原子力」に対しての(政治的・肉体的・精神的)人間の無力さ、弱さのコントラストがあまりにもどぎつく、生々しく顕れていたからだった。
私は地震が起きて、一、二日後にはリビングのこたつを占拠して、こたつのど真ん中にデスクトップPCを置いて、情報官気取りで気象シミュレーションをみたりしていた。そして、家族にも協力してもらい家中のシャッターを閉めた。それくらい、当時私は怖かったのだと思う。
私は震災の年、福島県の大学に入学した。私の地元の同級生にも福島県の大学に入学する予定だった子がいたが、辞退したらしかった。大学の入学式は遅れて執り行われた。ガイガーカウンターを買った方がいいかな、とか、「あそこには近づかない方がいい」とまことしやかな噂を聞いては少し怖いな、という思いが常に頭にあった。
しかし、入学してみると、その話はなんとなくしてはいけない話に思えてきたのだった。それはその土地に長く住んでいて動くことができない人たちには、惨い話であるからである。私もいつの間にか、放射線の話はしてはいけない気がして、話題にするのをやめた。すると、怖いという感情もいつの間にか薄れていった。
しかし、時々、放射能汚染される夢を見ていた。これはつい福島県を離れる少し前まで見ていたのだった。
私の当時住んでいたアパートには窓の近くにベッドがあって、その窓の外には何年も取り込み忘れたバスマットが干してあった。私の覚えている夢では、実はそのバスマットは大気中のチリや雨に放射性物質がたっぷり含まれていて、そのバスマットの線量が高くて、実は私の身体が蝕まれていて……という夢であった。何年もそのバスマットを干しっぱなしにしてしまったのは、もしかしたら、そういうことに対する無意識的な恐れから触りたくなかったのかもしれない。
私は、大学で特にパッとした研究もできないでいるのに何年も何年も大学にいた。でもそれが良かったのかもしれない、と今では思う。福島県という土地に「土着」して、私なりの感覚で放射能の感じ、特にその怖い感じの中に居たということが。
私はもともと怖い思想の持ち主だと思う。正しいと思ったら、それに突き進んでしまう。人の感情も、中学生くらいから読まないように生きてきてしまったため、無視する癖がついてしまっている。だから、原子力という「科学技術がコントロールから外れた状態」の中に当事者として生きた、というのは私が、私の歴史にとって重要なことなのである。もちろん、日本にいたら誰だって当事者なのだが、私は福島県に住まわず当事者と思えるほど賢くない。
3.11から10年が経って、私は福島県から遠い場所に住んでいる。今は遠くから考えることしかできない。
最近、原子力、ひいては(科学)技術についての論考を読んでいる。1950年台、まだラジオな世の中で、近未来的なもの、技術とか科学が大きな期待を背負っていて、すごくキラキラしていたであろう時代、人々は核の技術に対して、今でこそ信じがたいが「核兵器の利用は良くないが、核の平和的利用こそ人類の幸福につながる」と本気で思っていたようなのだ。多分、今でいうところの、テレビのCMでIT系の企業がたくさん広告を打っていて、ITの企業に勤めていることが一種のステータス(少女漫画に出てくる男性がIT企業勤め!)になっていて、AIすごい!VRすごい!仮想通貨すごい!IoTすごい!みたいなイケイケドンドンな感じだったのだろうと思う。そんな時代、「核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」と指摘した人、ハイデガーがいた。今でなら、「AI, VR, 仮想通貨,IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」と言うのと同じことなのである。今でなら炎上やむなし発言なのである!しかし、このアナロジーを単なる面白おかしいアナロジーとしてだけで捉えていいか。彼は世の中の潮流とは全く違う発想を省察によってしたからこそ、核の平和利用の危険性をかなり早く認識できた。
ハイデガーは「技術」について『放下』の中で、(科学)技術に対して「その価値を認めつつ、それに対して否、と言う」 ―ーこの本のタイトルにもなっている、「放下」という態度が大事なのではないか、と言っているらしい。(まだ『放下』は直接読めていないので、「らしい」でごめんなさい。)
そして、彼は思考について、「計算する思考」と「省察する思考」とに分けて考えており、彼は「科学は考えない("Wissenschaft denkt nicht")」、科学は計算する思考であって省察ではない=「考えていない」、というしかたで核の平和利用について否、と言ってみせた。
「科学は考えない」
これは、理系の立場で仕事している者にとっては「耳が痛い」ことなのではないか。しかし、耳が痛いからこそ考える価値があるのではないか。
彼の言っていることを私は理解できる気がするのだ。科学は進歩的に進んでいく。その「ひたむきに進んでいく」ということが「科学は考えない」と彼が言う理由なのではないかと私は思う。何か、ある方向に、引っ張られるように「進んでいく」。立ち止まる者は厄介者として排除される(Publish or Perish)。ハイデガーは技術を批判するだけではない。もちろん価値を認めつつ否定するという態度を彼は実践している。私も技術がなくなったら困る。方向音痴の私はGPSが無くなったら、地図が無くなってしまったら、とても狭い世界を生きることになってしまう。だから難しい、ある意味、矛盾の中を生きなければならない。
私は、実は博士過程を休学した。プライベートも荒れてしまったし、閉塞感でいやだったし、どうしても、論文が書けなかったのだ。
私は小さい頃から哲学が好きだったらしい。「最近、哲学系の本を読んでいるよ」と昔の友人たちにいうと、みんな「よく哲学的な話してたもんね」と言ってくる。
でも、私が文系に進学しなかった理由が、「確かなものが何もないと怖い」という恐れからであったし、国語がとても成績が悪いし、理系ってなんかかっこいいとか思ってたのもあって、ずっと理系の研究室で研究していて、哲学とか諸々の教養がほとんどないのだ。
「哲学を最近やってる」と言うと大半の人に苦い顔をされる感じがする。「中二病が抜け切っていないな、こいつ」と言いたげなそんな感じ(笑)。おそらくそれは哲学に「生産を止める」作用があるからなのではないだろうか。無意味で、ある意味破壊的な作用が。
以前、こんなことがあった。課外活動で何人かで集まってスマホアプリを作ろう、となったときに、誰かが「xxさん(有識者らしい)から教えてもらった方法で、xxという仕方でブレーンストーミングすると良いらしい」と言った。私は「なんでその方法でなければならないの?」と、ある意味チームの士気を下げるようなことを言ってしまったのだ。こういう「そもそも論」(哲学)というのは「生産を止めてしまう」。イヤな感じに水を差す。だから疎まれる。
しかし「生産を止める」という行為が実は重要なのではないか。世の中的に、「生産的=いいこと」という認識がある。生産を止め続けないことがそれほどいいことなのだろうか。これこそが、ハイデガーが批判するところの「考えない」態度ではないか。「より幸せに、より便利に」を目指すために科学や技術を信じて、生産、生産、生産、とひたむきに努力してきた末の原発事故ではないか。
昔の時代、原子力は「兵器として利用されることはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられていた。
今の時代も同様に、情報技術や生命科学が「非倫理的に利用されるのはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられている。「再生可能エネルギーでなら、持続可能な社会が実現できる」とも信じられている。
もし、「なぜ地震大国に原発つくったらヤバイという今ではあたりまえの認識を持てず、当時誰も水を差す人がいなかったのだろう?」と考える人がいるならば、なぜ、現代においてもその人が水を差す人にならないのかが不思議なのである。だから、私はあえてこうして水を差す、ということをしてみたい。
ということで、私の全然論文を書けていない「生産しなかった」大学時代も、この哲学的態度の実践とみなしてこの文章を締めくくることにする。